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青き炎のヴァリアント  作者: シベリウスP
18/70

17 憎悪の対象

サマルカンドでは、神出鬼没に『得体のしれない何か』が人々を襲うという事件が起こっていた。被害者の遺体には一滴の血も残っていないという不気味さだった。ホルンはザールたちと調査を始めるが、ザールは『何か』を自分の世界に閉じ込める。それを知ったホルンは、憎悪の象徴を浄化するための戦いを始める。

「まだホルンの行方は分からぬか?」


 ファールス王国の首都・イスファハーンでは、現国王であるザッハークが、左右の重臣であるティラノスとパラドキシアに日に何度も問いかけていた。前国王を弑逆して王位を得たという負い目がある彼にとって、前国王の忘れ形見であるホルンの存在は、決して看過できないものだったからだ。自分の治世に満足していない者たちが、『正統な王位継承権を持っている』ホルンを立てて挙兵すれば、王位の行方は分からない。


「何しろ、情報が錯綜していまして……とりあえず『王の牙』の面々は、ホルンがいるという情報がもたらされた方面に出していますし、『七つの枝の聖騎士団』へも、ホルンを見つけ次第成敗せよとの命令を出していますので、心安らかにおいでください」


 軍事参与のパラドキシアがなだめるように言うが、


「その『七つの枝の聖騎士団』も、『強欲のアヴァリティア』が敗れて逃げ帰っているではないか。ホルンには『白髪のザール』とその一党がついている。奴らがサームの後ろ盾で挙兵したらどうする?」


 ザッハークが髭をむしりながら喚く。そこに、『七つの枝の聖騎士団』の団長である『怒りのアイラ』が姿を見せた。


「王様」


 アイラが静かに言う。『怒りのアイラ』と言われる彼女だが、普段は騎士団員の中で最も物静かで冷静だ。


「おう、アイラよ、早くホルンの首を持ってこい」


 急き込むように言うザッハークに、アイラは首を振って言う。


「ダマ・シスカス、バビロン、ハジャバード、バクー、ジャララバード、カンダハール……ホルンがいるという情報が寄せられた町ですが、王国のほぼ全土に散らばっています。これは、私たちの捜索を難航させるために敵側が放ったフェイクだと思われます」

「その可能性は高いな。それらの都市にいるという情報が上がって来たのはほぼ同時期だからな」


 執政参与のティラノスがうなずいて言う。


「敵側にはかなり魔力が高く、知力もあるエルフの男と魔族の女がいます。恐らくザールの手下でしょう。それらがホルンを守っている形です。『強欲のアヴァリティア』もザールたちに不覚を取りました」


 アイラが静かに言うが、途中で何が癇に障ったか、ひくひくと顔を痙攣させ始めて続ける。


「アヴァリティアの不覚はわが『七つの枝の聖騎士団』全体の恥辱。私はこの恥辱を必ず晴らして見せる」


 『怒りのアイラ』の端正な顔に、どす黒いものがタトゥーのように浮かび上がり始める。それを見てパラドキシアは慌てて言った。


「分かったわ、アイラ。そなたたちには全幅の信頼を置いているわ。だからここで魔力の暴走は勘弁して」


 それを聞いたアイラは、ハッとして感情を鎮めて言う。


「私が調べたところ、ホルンたちは『ドラゴニュート氏族の里』にいるようです。あそこはヴァイスドラゴンやシュバルツドラゴンの森があり、ハイエルフとジーク・オーガの里もある聖なる土地。我らもうかうかと手が出せません」


 そして、目をキラリと光らせて訊く。


「もっとも、王がすべてのドラゴンとエルフ、オーガを相手にして構わないと仰せになるならば、我ら『七つの枝の聖騎士団』は挙げてドラゴニュート氏族の里を蹂躙して見せましょう」


 それにはティラノスが怖気をふるって言った。


「とんでもない! 特にヴァイスドラゴンの一族だけでも剣呑なのに、そのようなことをすればホルンを討ち取ったとしても王の終わりだ。

 それよりもホルンがその里にいるのならば幸いだ。里にいる限り王国には手を出せないし、里への道さえ見張っていればホルンの動向を捉えられる。王よ、『七つの枝の聖騎士団』を里への道に配置し、しばらくホルンをその里に縛り付けておきましょう」


 ザッハークもうなずいて言う。


「ホルンが立たねば、我が王権には影響がないことだ。里に封じ込めておけば互いに血を流さずに済む。アイラ、直ぐに手配をせよ」

「御意。しかし里の外でホルンの姿を確認したならば、我らは雪辱のために時を置かず掛かりますが、それでよろしいですか?」


 アイラが訊くと、ザッハークは厳命した。


「ドラゴニュート氏族の里から100マイル(この世界で185キロ)離れるまでは、ホルンへの攻撃は禁じる。よいな」

「御意」


 アイラは不服そうに命を受けた。


   ★ ★ ★ ★ ★


 サマルカンド……ファールス王国の北東地域にあるトルクスタン侯国の首都であり、そこにはトルクスタン候サーム・ジュエルが“東方の藩屏”として鎮座し、王国の東側の治安維持と領民の安全確保に心を砕いていた。


 サームは、今年47歳であり、領民からは『赤髪の賢王』と呼ばれて親しまれていた。また、彼は現国王の異母弟、前国王の実弟であり、特に前国王シャー・ロームからは『11人目の王の牙』と呼ばれるほどに信頼が厚かった。ホルンの存在を知り、ザールに彼女をサマルカンドに迎えさせたのも、サームなのである。


 そのサームは、ドラゴニュート氏族の里からホルンの動向を聞いて苦笑していた。長のアムールはサームとその妃アンジェリカのたっての願いで、ホルンとザールの仲が深まるように努力した。サームたちはホルンとザールがゆくゆくは一緒になってほしいと願っているらしい。しかし、その願いも空しく、ホルンとザールの仲は深まりこそすれ、『姫と臣下』より先には進まなかった。


「ザールも見事だのう」


 サームは、アムールが報告の手紙の中でザールに対して同じ賛辞を贈っていたことを思い出し、苦笑した。サームは、ならば一日も早く現国王を廃位し、ホルンを女王に据えねばならないと思った。


御屋形(サーム)様」


 アムールからの報告を呼んでいたサームのもとに、重臣であるボオルチュが顔を出した。


「おお、ボオルチュ。首都の様子はどうだ?」


 サームは常に王家の動向を見つめている。その情報を速やかに得るために、首都には子飼いの隠密を放っている。ボオルチュはその元締めであった。


 ちなみにボオルチュ、チラウン、ポロクル、ムカリの四人は『右軍幕僚』として外交や民政に関する重臣であり、ジェルメ、チンベ、クビライ、スブタイらが『左軍幕僚』として軍政、軍事を司っていた。


「ザッハークたちは王女様がドラゴニュート氏族の里にいると思っているようですな。『七つの枝の聖騎士団』を全員、ドラゴニュート氏族の里から100マイル付近に展開しています。王女様が里から出たところを捕えようという形です」


 ボオルチュはそう言って続ける。


「ですから、サマルカンドとドラゴニュート氏族の里へ定期的に使者を往復させれば、王女様がまだドラゴニュート氏族の里にいると思わせることができます」

「うむ、その手は悪くない」


 サームが言うと、ボオルチュはさらに


「実は、この策は御曹司(ザール様)の帷幕にいるロザリア殿の意見でして、使者は王女様のペットのコドランという子どものドラゴンを使ったらよいとのことでした。いや、あのロザリア殿はなかなか気が利いて、頭も回る賢い女性ですな」


 そう言って笑う。サームもうなずいて言う。


「うむ。彼女は王女様がドラゴニュート氏族の里におとなしくしておられないのを見越して、王女様の離れを造ることを献策もしてきたしな。しかもその工事監督まで自ら買って出て見事に仕上げた。ザールもなかなか仲間に恵まれておるな」


「加えて、我々御屋形様の重臣に対しても礼儀正しく、我らの意見もできるだけ汲み取ろうと努力もしておるようです。ロザリア殿が御曹司の側におれば、我々も御曹司の気持ちが分かり、双方の意思疎通が円滑に進みます。御曹司の良き補佐役かと思います」


 サームは苦笑した。ボオルチュは自らの能力を過信して他を軽んじ、傲慢になるところがある。人を誉めることも少ない。そのボオルチュがロザリアをべた褒めするのは、ロザリアという女性がどれだけバランス感覚に優れているかを証明するものでもある。


 ……ふむ、仮に王女様とザールが一線を越えない関係で終わるとしても、ロザリアという女性ならばザールを善導するかもしれんな。ロザリア・ロンバルディア殿か、私も彼女には気を付けておこう。


「そうだな。ザールの左右には軍師としてジュチ殿、猛将としてリディア殿がいた。それに謀将としてのロザリア殿が加わって、少しずつザール色の陣営ができつつあるな」


 サームはそう言ってボオルチュと笑い合った。



 一方ホルンだが、先のサームたちの話に出てきたように、ホルンは今、サマルカンドの城内ではなく、市内にあるロザリアの献策によって建てられた別館に住んでいた。


 ロザリアは、ホルンたちがドラゴニュート氏族の里に行くことになった時、最初はついて行こうかと考えた。ザールたちもそれを勧めてくれたが、


『いや、私は魔族じゃからの。ドラゴニュート氏族の里はヴァイスドラゴンやシュバルツドラゴンの里も近い聖地。私の存在が受け入れられぬかもしれぬ。私はここに残ろう』


 そう言って同行を断った。その代わり、


 ……ザール様の性格では、ホルン姫と二人きりになっても、親密にこそなれ、『男女の関係』にはなれぬじゃろう。『将を射んとする者はまず馬を射よ』という。その間に私は、サーム殿や重臣どもの心をつかませてもらうか。


 そう考えたのである。そしてそれはうまくいった。


 ザールたちが旅立ってすぐ、ロザリアはボオルチュに次ぐサームの重臣であるポロクルとチラウンのもとを訪れた。そして二人を通じて『右軍幕僚』の筆頭たるボオルチュと面会し、『ホルンの隠れ家』の重要性を説いて認められた。


『ホルン姫は志操堅固で慈愛に富んだお方、民のために立つことを優先されるはずです。ドラゴニュート氏族の里での暮らしには満足されず、一月もすれば戻って来られるでしょう。

 その時、王家の目をくらますには姫がまだドラゴニュート氏族の里にいると思わせる必要があります。

 王家の者がこのサマルカンドで姫を探すとしたら、まず城内を探索することは必定。

 ですから、別に隠れ家を準備する必要があります。そのために重臣筆頭であるボオルチュ様のお力をお借りしたいのです』


 ボオルチュは、理路整然と、しかも辞を低くして説くロザリアに好感を覚えた。直接サームに献策せず、自分を通して献策してもらおうという姿勢や、ポロクルたちを介して自分に会いに来たという筋を通した態度にも大いに満足した。


 さらに前回ホルンの討伐戦で後方を担当したチラウンやポロクルは、ロザリアと共にザールの帷幕で仕事をして彼女の才覚に感心していたこともあり、ボオルチュに対して彼女の意見を取り上げるよう熱心に口説いてくれた。


 ……ほう、普段冷静なチラウンや頭の回転が速いポロクルが、他人の意見をこれほど熱心に勧めるのは珍しいことだ。それだけこのロザリアと言う女性に一目置いているのだろう。チラウンたちすら一目置くこの女性の意見だ、取り上げてみよう。


 ボオルチュはそう考えて、ロザリアの意見をサームに伝えてみた。サームは最初乗り気ではなかったが、


『屋敷の工事は魔族である私が責任を持ちます。決して姫に危険が及ぶことはないと約束します。それに、ザール様はじめ我らが共に住まいすれば、姫も安心され、姫とザール様の仲もますます深まることでしょう』


 そう、顔色一つ変えずに断言するロザリアに興味を覚えたし、何よりザールとホルンの仲が発展すれば言うことはない、そう考えてサームは工事を許可したのである。



 出来上がった屋敷を自ら検分したサームは、改めてロザリアの能力に刮目した。屋敷は一見すると一般の家と比べると少し広いだけで、特段注意をひくものは何もなかった。しかし、その内部は複雑で、これだけの間取りをどのようにしてあの面積の中で実現しているのかと思えるほどだった。


 さらにサームたちを仰天させたのは、『隠れの間』の存在だった。


 サームとボオルチュ、そしてポロクル、『左軍幕僚』からジェルメとクビライが来ていたが、ロザリアは彼らを『隠れの間』に招き入れた。そこは真っ白い壁に囲まれた何もない空間だったが、外が見えない代わりに外からも見えず、しかもロザリアが言うには


『私の最高の術式で編み上げたこの部屋は、どんな優秀な魔導士でも感知することはほぼ不可能です。仮に感知したとしても、この術式を破ってこの部屋に入ってくることは出来ません。仮に入って来たとしても、この部屋に入る術式と出る術式は別にしているので、我らが外に出て空間を閉じれば、入ったものは絶対に出られません』


 ということであり、さらに、


『ホルン姫やザール様はじめ、ここに住むジュチ殿、リディア殿については、自らの意思でここに入り、自らの意思でそれぞれの出口に出られるようにします。ただし、出口は一か所だけですが。私はここからどんな所にも出られますので、緊急時には私がホルン姫やザール様の安全はお守りいたします』


 という説明に、大安心したのであった。


 そして、ロザリアの言葉どおり一月後にはホルンがドラゴニュート氏族の里から戻ってきたこともあり、ロザリアの先見の明が証明された。


 ……ふん、重臣どもの私に対する態度が違ってきたわ。サーム殿にも重臣どもの私に対する評価が好意的に伝わっているはず。ここで気を抜かず、もっと点数を稼がないとのう。そうすれば確実にザール様の妃の座は私のものじゃ。


 ロザリアは出来上がった屋敷の中でザールたちの帰還を待ちながら、そう思っていた。


   ★ ★ ★ ★ ★


『ねえホルン、ホルンってば』


 耳元でコドランの声が聞こえる。ホルンは、まだ眠い目をこすりながらベッドの上で寝返りを打ちながら返事をする。


「なあに、コドラン?」


 返事はするが、まだベッドの上でごろごろしている。コドランは呆れて、手を腰に当てながら大きな声で独りごとを言う。


『まったく、ホルンってばいつからこんなにだらしなくなっちゃったんだろう? あっ、ザールさん、こんにちは!』


 ホルンは、その言葉でびっくりして飛び起きる。自分がだらしない下着(貫頭衣)姿であることを知ると、寝ている間に蹴っ飛ばした毛布を床から拾って慌てて身体を隠し、顔を赤くしていう。


「ななな、なに? ザール。ひとが寝ているところに……ってあれ? ザールは?」


 ホルンは、ドアのところにはザールはおらず、コドランがニヤニヤしてふわふわ飛んでいるのを見て、不思議そうに訊く。


『いるわけないじゃん。ザールさんはノックもせずに勝手にホルンの部屋に入ってくるような人じゃないよ?』


 コドランが言うと、ホルンはぷくっと頬を膨らませて言う。


「コドラン、だましたわね?」


 それにコドランが言い返す。


『だってホルンってば、もう閏7点(この世界で午前10時)も近いのに、ぐ~すか寝ているんだもん。しかも下着丸出しで。いい歳して恥ずかしくないの?』


 ホルンも顔を赤くして言い返す。


「いい歳って、私はまだ25よ? それにコドランもオンナノコじゃない。ね、ブリュンヒルデちゃん?」


 今度はコドランが顔を赤くして両手で顔を隠して言う。


『いやん、だからその名前で呼ばないでよ! だいたい、ぼくはオンナノコじゃないし』


 するとホルンはびっくり目でコドランに言う。


「オンナノコじゃないって……まさかコドラン、男の娘?」


 コドランはぶんぶんと頭を振って言う。


『違うよ、何言ってるの? だいたいドラゴンにはオトコノコもオンナノコもないんだよ!』

「でも、コドランにはお父さんとお母さんがいるんでしょ? ってことは性別があるってことじゃない?」


 ホルンが言うと、コドランは胸を張って言う。


『あのね、ドラゴンは中性なんだ。男でもあり女でもある。だからお母さんだって戦うときは強いよ? ホルンみたい』

「私は女よ。少なくともそのつもりよ」


 ホルンが言うと、コドランはジト目でニヤリと笑う。そしてホルンを上から下まで見つめてふん、と鼻で笑った。


「何その態度? むかつくわね。言いたいことがあったらちゃんと口で言ったらどう?」


 ホルンが言うと、コドランは笑って言った。


『うん、じゃ言うよ? 早く服を着た方がいいよ? ザールさんがこっちに向かっているから。それと、ザールさんの前だけは素直になった方がいいと思うけれどなあ』

「よっ、余計なお世話よ!」


 ホルンは急いで上着を羽織ると、巻きスカートを巻いて剣帯をはめる。すっかり女の子らしい恰好が板についたとはいえ、武装しないと落ち着かないのだった。



 トントントン、ドアがノックされる。そしてドアの向こうから


「王女様、もう起きられましたか?」


 そうザールの声がする。ホルンは努めていつもの声で


「入って、ザール」


 と答える。その言葉に応じて、ザールがドアを開け、ジュチやリディア、ロザリアたちと部屋に入って来た。


「どうしたの? みんな揃って。何か良くないことが起きた?」


 ホルンが翠の瞳を丸くして首をかしげる。サラサラした銀髪がさらりと肩にかかる。四人はそれぞれの椅子に座ると、ザールがこう切り出した。


「残念ですが、そうです。詳しくはリディア、お願いする」


 するとリディアは今日の明け方のことを話し出した。



 リディアはジーク・オーガの一族である。本来の身長は2・5メートルもあり、額には白い金属質の角が一本生えている。

 しかし、サマルカンドにいる現在は、他の人間に不必要な威圧感を与えないように“乙女形態”を取っている。その場合、身長は150センチ程度で角も隠れ、一見すると“ボーイッシュな少女”に見える。力も半減する、とは言っても人間離れした筋力であることに違いはない。


 そんな彼女は、何日に一度かは“本来の形態”に戻って技を鍛錬するため、深夜から早朝にかけて、城外で稽古を怠らなかった。


 今日も、リディアは4点半(午前3時)にはいつもの稽古場に出て、思う存分トマホークを振り回したり、素手で岩を砕いたり、ジーク・オーガに伝わる近接戦闘術の稽古をしたりした。やがて5点半(午前5時)になると、彼女は稽古を終え、城内に戻って来た。


 異変は、そのときに起こった。


 東の空は明るくなってきたとはいえ、太陽はまだ地平線の下にある。いわゆる“彼は誰時”で、遠くからではまだ人の顔もよく識別できない。建物の陰にはまだ夜の名残がある。ジーク・オーガのリディアだからこそ、“それ”が認識できたのに違いない。


 リディアは、突然、前方にある建物の陰から凄まじい殺気を感じ、同時に目にも止まらぬ速さで何かが跳びかかってくるのを察知した。彼女はとっさに虚空から長さ1・5メートルほどの鉄棒を取り出して、飛び掛かってくる“それ”をぶん殴る。確かな手ごたえがあり、“それ”はリディアの打撃を受けて地面にぐちゃりと叩き付けられる。


「何だ、これ?……ひっ!」


 リディアは、地面に叩きつけられて動かない、割れたスイカのようなものに近づいて、“それ”が何かを確認した。途端にリディアは総毛だって立ち尽くす。


 “それ”は人間の頭部だった。リディアの鉄棒が当たった左側頭部は見事に陥没し、ずれた頭蓋骨から脳が見えていた。地面に叩きつけられた側の顔の皮膚はずり剥け、右目は飛び出て凄まじい有様だった。


 しかも、リディアがさらに怖気を振るったのは、そんな状態の“それ”が、ゆっくりと動き始めたからである。どうやら元の状態へと戻すために傷を治しているらしい。“それ”は、大きな傷が塞がると、自分をこんな目にあわせた張本人のリディアが立ち尽くしているのには目もくれず、ゆっくりと浮き上がり、ゆらゆらといずれへともなく飛び去って行く。


 あまりの出来事に立ち尽くしていたリディアだが、“それ”が視界から消えた時にハッと我に返った。あんなバケモノ、野放しにしてはいられない。リディアはオーガの姿に戻ると、“それ”が曲がって行った角まで走り、“それ”を探したが、既に見失った後だった。


 仕方なくリディアが、“それ”が飛び出してきた建物の陰を調べると、


「ひっ!」


 リディアはもう一度小さな声を上げた。そこには、すっかり体液を吸い取られてカラカラのミイラになった人間が転がっていたからである。


 リディアはとりあえず、城内を警備している司隷庁(しれいちょう)の巡()に事件を届け出た。巡邏はリディアがザールの帷幕に加わっているジーク・オーガだと知ると、丁寧に話を聞いて現場を検証してくれた。それに付き合って調書を取られて、リディアが番所から放免されたのはすでに太陽が昇った後、6点半(午前7時)だった。



「いやあ、ひどい目に遭ったわ。けれど、こんな胸糞が悪い事件は巡邏だけに任せておけないって思って、起き抜けのザールを捕まえて相談したんだ」


 リディアがそう言って顔をしかめる。


「地面に血の跡はなかったの?」


 ホルンが訊くと、リディアはうなずく。


「あったわ、途中まではね? でも、そこで傷が治ったんだろうね。そこから先は皆目分からない」

「『魔力の残滓』とかはなかったのかのう?」


 ロザリアが訊くと、リディアは少し首をかしげて考えていたが、やがて首を振って言う。


「うん、あれは『魔力の残滓』というよりも『生命力の跡』って言ったがいいかな? とにかく『魔力』としては感じられなかった。だから途中でいろいろな人間の『生命力の跡』とごっちゃになって判別できなかったんだ」

「……『魔力』ではない、か……」


 ジュチが細い顎を形のいい手で支えて言う。そんなジュチに、ザールが訊く。


「何か心当たりはないか? ジュチ」


 ジュチは難しい問題を解くように、白い顔の眉間に縦筋を浮かべていたが、


「まあ、ないこともない。けれど、先に巡邏に話を聞きたいね」


 そう言った。ホルンも何かを考えていたようだったが、ジュチの意見を聞いて言う。


「そうね。私も心当たりがないでもないわ。巡邏に話を聞きに行ってみましょう。ザール、警護をお願いするわね? コドラン、行くわよ」


 そう言うと立ち上がった。



 ホルンたち5人と1匹は、連れ立って今朝リディアがいた番所に足を運んだ。リディアの対応をしてくれた巡邏がまだ残っていたので、話を聞くことができた。


「本官はそのバケモノを見たわけではありませんから、詳しいことは分かりかねます。しかし、犠牲者の方は『死因は失血死だ』と自信持って言えます。とにかく、血をはじめとした体液がすっかりなくなっていました。後ろから首にかみついてそこを噛み千切り、即死させた後、血を吸ったのでしょう。血を吸った4つの穿刺状の跡が2か所ありました。まとめて2か所です」

「こんな事件は今朝が初めてなの?」


 巡邏は苦い笑いを浮かべて言う。


「いいえ、実はこの一月で10件目です。これまでは犯人像が皆目分からなかったのですが、リディア殿のおかげで犯人がどんな奴かは分かりました」


 そしてため息をついて


「ただ、頭だけで飛ぶバケモノなんて聞いたことがありません。他の巡邏もそんなものに出会ったら腰を抜かすでしょう。困ったことです」


 そう言って憂鬱そうな顔をした。

 巡邏に10件の事件の被害者について詳しく教えてくれと依頼して番所を出たホルンたちだったが、顔色は冴えなかった。


「噛みついた跡が2か所ということは……」


 ロザリアが言うと、ジュチがそれに続いて言う。


「ひょっとしたら、“それ”は2体いた可能性があるということか」

「リディア、君はどう思う? 君が遭遇した時、もう1体いた可能性はないか?」


 ザールが訊くと、リディアは腕を組んで考えている。


「う~ん、あの殺気は1体だったと思うけれどな。もう1体がこちらを攻撃する意思がなかったのなら別だけれど」


 それを聞いていたホルンは、首を振って言う。


「とにかく、司隷庁の報告を待ちましょう。それと、今夜はみんなでパトロールよ」



 5人と1匹が別館に帰ってみると、門の前に一人の男がたたずんでいた。

 男は灰色のマントに身を包んでいたが、深い海の色をした癖のある髪を風になぶらせ、耳の位置にはヒレがあった。男がこちらを向いて、紺色の瞳を持つ切れ長の目がホルンの姿を映したとき、男はすぐに懐かしそうに駆け寄って来た。


「お久しぶりです。ホルンさん、コドランくん」

「わあ、ガイさんじゃない! お久しぶりね。元気にしてた?」


 ホルンが懐かしそうに訊くと、ガイは薄く笑って言う。


「おかげで何とか……今日はホルンさんにお知らせがあって参りました。それと……」


 ガイは笑いを消さずに青く透明な水かきのある手を挙げて、門内を指さして言う。


「塀を無断で乗り越えようとしていた不埒者がいたので、眠らせておきました」


 ザールが門内をのぞくと、年の頃は16・7の癖のある金髪を長く伸ばした女性が眠りこけている。服はトルクスタン地方独特の衣装だった。ザールが近寄って見てみると……


「オリザ、何してんだ?」


 ザールが素っ頓狂な声を出すと、ジュチがぷっと噴き出して言う。


「何してるって……愛しいお兄様に会いに来たところを、あの客人から眠らされたってことだろう?」


 それを見て、ガイがつぶやく。


「あの女性は、『白髪のザール』殿の知り合いだったか」

「オリザはザールの異母妹よ」


 ホルンが言うと、ガイは首を振ってあながち冗談ではなさそうな声でつぶやく。


「危なく毒針の方を刺すところだった」



 ホルンたちは、とりあえずオリザを屋内に運び込むとザールの部屋に寝かせ、全員は客間に集まってガイの話を聞くことにした。


「この方は、ガイ・フォルクスと言って、ザッハークから滅ぼされかけたアクアロイドのお一人よ。王室の金鉱山監督として町の人たちを苦しめていたクロノス、カイロスの兄弟を討ち取ったのもこの方よ。その時私はとてもお世話になったわ」


 ホルンがそう紹介すると、ガイは静かに首を振って言う。


「王女様のおかげで父の仇を討てました。お世話になったのは私の方です」


 そう言うと続けて言う。


「ホルンさんがこの国の正統な王位継承者であるという噂を聞きました。その時、私は叔父のことを思い出しました。

 私の叔父は錬金術師でしたが、予言まがいのこともしていました。その叔父から、昔、赤ん坊の姫を抱いた戦士の話を聞いていたので、ホルンさんがその姫だと確信しました。私は海辺に住む一族と話をして、ホルン姫が立たれるときはアクアロイド族として加勢することにしました。今日はその報告に参上したのです」


 ホルンとザールは顔を見合わせた。ひょっとしたら、予言にある『水の竜』とはガイのことではないかと思ったのである。ホルンはザールにうなずいて、ガイに訊いた。


「ガイさん、あなたの叔父様は今どうしてらっしゃいますか?」

「叔父はクロノスの首を見た後に他界しました」

「それは残念なこと、お悔やみ申し上げます。その叔父様があなたに話をしていたという赤子の姫を連れた戦士とは、私の養父のデューン・ファランドール様のことでしょう。あなたは予言について何か聞いていませんか?」


 ホルンの問いに、ガイは笑って答える。


「叔父の予言は珍しく当たってきているようですね。『黒竜』が姫、そして『白竜』が『白髪のザール』殿、そして『水竜』は恐らく私の姉でアクアロイドの総帥、リアンノンのことでしょう。姉は10年ほど前、デューン・ファランドール様と何か約束をしたと言っておりましたから」

「……そうか、だからデューン殿は、最終段階ではアクアロイドの町を目指しておられたのか」


 ザールが納得したようにうなずく。


「私は、姉から姫の身の安全を守り、姫に仇なすものを殲滅せよとの命令を受けています。どうか臣下の端に加えていただきたい」


 ガイが言うと、ホルンはザールをはじめみんなの顔を見た。みんなうなずく。


「うれしい申し出だわ。でも、事に当たるまではみんな私の臣下ではなく、仲間よ。そのつもりでいてちょうだいね?」


 ホルンが言うと、ガイは笑って同意した。



 夜が来た、ホルンはパトロールに当たり、2人1組で市内を回ることにした。

 北側はホルンとコドラン、東はザールとオリザ、南側はリディアとロザリア、そして西側はジュチとガイが受け持ちである。


 ホルンは久しぶりに『死の槍』を持ち、ドワーフの鍛冶職人ヘパイストスがこしらえたチェインメイルの上から戦袍と革の胸当、太ももを守る革製の横垂を付け、膝当ての付いた底の厚いブーツを履いていた。


「う~ん、久しぶりの感触だわ。やっぱり私にはこちらの服がしっくりくるわね」


 『死の槍』を振り回しながらホルンが言うと、コドランはジト目で突っ込む。


「女の子らしい服装だって、ザールさんから『似合うよ、ホルン』って言われて褒められて喜んでいたくせに」

「な、何よ。私だって女なんだから、当たり前でしょ? でもコドラン、ザールの声真似上手いわね」


 ホルンが言うと、コドランは調子に乗って一人茶番を始めた。


『ホルンの声真似だってできるよ? 『ホルン、僕の目を見ろ!』『え、は、はい……』とか、『ホルン、似合うよ』『そ、そうかな?』とか、鏡の前で『私、美人かな?』とか、『ザール、すき』とかさ?』

「ちょっと待って! 最初のは何? それに最後のは言ってない!」


 ホルンが慌てて訊くと、コドランはニタリと笑って言う。


『ジュチさんに教えてもらった』

「もう、ジュチはリディアに言って懲らしめてもらわなきゃ」


 ホルンがそう言ったとき、夜の街に女性の悲鳴が響き渡った。


『なに? いまのこえ』


 コドランはビビッて言うが、ホルンはその声で緊急事態を悟った。


「コドラン、町の東に行くわよ! オリザが叫ぶなんて、ザールに何かあったに違いないわ」



 町の南側では、リディアとロザリアが受け持ち区域を見て回っていた。リディアは“乙女形態”だが、念のために鉄棒を握りしめている。ロザリアは早々に『魔族の血』が発動し、身長140センチ程度のどう見ても12・3歳の少女としか見えない姿になっていた。


「ロザリアってさ、度胸あるよね」


 すたすたと迷いのない足取りで歩くロザリアにリディアがそう言うと、ロザリアは


「今回の仕事はザール様のご依頼。私にとってザール様の依頼は命令と同義じゃからの」


 とさらりと言う。


「そりゃ、アタシだってザールの言うことなら何でも聞くけれどさ、そのことと怖がりもしないってことは別なんじゃない?」


 リディアが言うと、ロザリアは冷たい目でリディアを見て言う。


「私だって怖いものは怖いぞ? 何と言っても女だからの。怖いから『魔族の血』を発動させておるのじゃ。まだ“乙女形態”でいられるリディアの方が度胸が座っておると言えないかの?」


 そこに、絹を引き裂くような女性の叫び声が響く。二人ともすぐに反応した。


「あれはオリザの声じゃ!」

「ということは、ザールに何かあったってこと?」


 二人は脱兎のごとく駆けだした。



 西の受け持ち、ジュチとガイは淡々と任務をこなしていた。

 誰に対してもあけっぴろげなジュチは、ガイに対しても様々な質問を浴びせた。ガイはほとんど無視していたが、ジュチはそんなことには頓着しない。そのことはガイにも分かっていた。


「キミは、そんなだけど良いヤツだね」


 ジュチがそう言ったとき、ガイは初めて聞き返した。


「なぜ、そう思う?」


 ジュチは碧眼の流し目をガイにくれて言う。


「キミは、ずっと身体のヒレで周囲の状況を探り続けている。集中力がいる作業のはずなのに、ボクの与太話を遮りもしない。つまり、必要のないことは聞かないってことだ。それに、キミはずっと気配を消している。キミほどの手練れで頭のいい仲間を持てて、ホルン姫は幸せ者だ」

「そなたこそ、私に与太話をしながらもあちこちに分身を飛ばしているではないか? さすがにホルン姫の仲間は粒ぞろいの精鋭だと感心している」


 ジュチは笑って言う。


「キミとは争いたくないね」


 ガイはうなずく。


「私もだ。恐らく私は、そなたの知力と魔力には勝てぬ」


 ジュチは苦笑していたが、不意に真面目な顔で言う。


「お互いに意見が一致したところで、東に行かないとな」


 ガイもうなずいた。


「そなたは飛べるだろう? 分身で飛んで逃げる敵を見つけてくれ。私は水になって地を逃げる敵を見つけよう」

「役割分担か。ボクが見つけたら知らせよう」


 ジュチの言葉に、ガイは厳しい顔でうなずいた。


「おそらく、そなたが見つけるだろう」


 二人はその場で姿を消した。



 オリザは幸せだった。ザールが急に城からいなくなり、あろうことかホルンと別館で『同棲』していることを知った彼女は、


「私も別館に行きたい!」


 と駄々をこねてお付きの者たちを困らせたものだが、今宵は憧れのお兄様と二人きりである。黙って城を抜け出して、別館の塀を乗り越えようとしてガイに眠らされたことは腹立たしいことだったが、そのお蔭でザールにお姫様抱っこして貰ったらしいことと、今、こうして二人きりでいることで予想以上のお釣りが来た気分である。


「ねえ、お兄様ぁ」


 ザールの左腕に腕を絡ませて、オリザは上目遣いにザールを見ながら甘えた声を出す。


「何だい、オリザ」


 ザールは別に嫌がりもせず、邪険にもせず、いつもどおりの対応である。


「なんでもな~い」


 オリザはそう言って笑う。そんなオリザを、ザールは


 ……可愛い妹だ。いいお婿さんを見つけてやらないとな。


 と思いながら見ていた。


「オリザ、お前はどんな男が好みだ?」


 ザールが訊くと、オリザは即答する。


「お兄様よ。お兄様を見ていたら、他の男ってみんなバカに見えちゃうのよ」


 ザールは苦笑して訊く。


「ジュチもか? 彼は凄く頭も切れて、良いヤツだが」


 オリザは首をかしげて言う。


「う~ん、確かに頭や顔の良さに関しては、ジュッチーはいいよね~。でも、あのウザさが鼻についてイヤ」

「そうか」


 ザールは苦笑しながらそう言った。その時、辺りの空気が変わった。


「オリザ、手を放してくれ。僕の後ろに隠れろ」


 ザールが言うと、オリザはおとなしく言うことを聞く。これは出発前にザールが注意していたことだ。


「お兄様、何?」


 オリザが、目の前の闇を睨みつけているザールに恐る恐る訊く。ザールは聞こえるか聞こえないかというほど静かな声で、オリザの耳元で囁く。


「何があっても声を出すんじゃないぞ。相手はまだこちらに気付いていない」


 オリザはこくりとうなずくと、ザールが見ている方に視線を動かした。


「ひっ!」


 その光景に衝撃を受けたオリザは、不覚にも小さく叫び声を上げてしまった。すぐに口をふさぐが、ちょっと遅かった。“それ”はこちらに気付いてしまった。


 “それ”は、人間の頭だった。


 人間の頭がそれだけで宙に浮いているのも十分に衝撃的な光景だったが、その頭は顎が前に飛び出し、開いた口からは四本の鋭い牙が見えた。


 そんな奴が二つも宙に浮きながら、被害者となった人間をいたぶっていたのだ。一つは喉笛にかみついて声が出せないようにし、もう一つは執拗にあちこちに噛みついては、肉を噛み千切っている。


 被害者は恐らく男だろう。最初に脚をやられたに違いない。両足を投げ出して座り、股間は陰部を噛み千切られたのか大量の血にまみれていた。彼は必死に両手で“それ”を外そうともがいている。その手もすでにすべての指を噛み千切られて血まみれだった。そして、“それ”が被害者にとどめを刺そうと口をあんぐり開けた時、オリザが悲鳴を上げたのだった。


「気付かれたか。オリザ、僕の側を離れるなよ」


 ザールは『糸杉の剣』を抜くと、オリザを後ろ手にかばうようにして“それ”の前に立ち塞がった。しかし、ザールは相手が思いのほか素早く動けることを見て取り


 ……オリザを守ったまま戦うのは不利だ。あいつらをどこかに転移させねば。


 そう考えた。そして、自らの『竜の血』に祈る。


「わが『竜の血』よ、今目覚めて我にかの魔性のものを退ける力を与えよ」


 その言葉とともに、ザールの左腕が青く光り始めた。そしてザールは、


「オリザ、みんなを呼んであの男を助けてくれ」


 そう言うと、襲い来る“それ”に向かって突進する。


「お兄様!」


 オリザは叫んだが、次の瞬間、ザールが放つ青白い光に目がくらんだ。次に目を開けた時は、ザールも“それ”も、そこにはいなかった。


「お兄様!」


 オリザは暗闇に叫んだが、答えはない。


「お兄様、お兄様! どこに行ったの? 返事してぇ~!」


 オリザの声が、夜のサマルカンドに響き渡った。


   ★ ★ ★ ★ ★


「ここは?」


 ザールは、自分に何が起こったのか分からなかった。オリザを守りながら戦うには、敵はあまりにも素早いと判断し、前に出て敵を引き受けようと突進した時、急に辺りがまばゆい光に包まれ、目を開けた時にはこの空間にいたのだ。


 そこは、光に包まれていた。地面は見えないが、ちゃんと足が地についている感触はある。けれど、周りを見てもただ白い空間が続くだけで、風景といった類のものは何も見えなかった。ただ、ずっと離れたところに、何か丸いものがふらふらと飛んでいる。それが敵だと認識した時、ザールは走り出した。あいつは倒さねばならない。


 “それ”は、まるで光に動きを封じられてでもいるように、ゆらゆらと漂うように飛んでいる。ザールの眼には、“それ”は明らかに通常の空間にいるよりも遅く見えた。


 “それ”が近づくザールに気付いた。二手に分かれてこちらへと飛んでくる。一つは右上から、一つは左下からの攻撃を狙っているようだ。


 ……足をやられたら厄介なことになる。


 ザールはそう思い、左下から足を狙ってきた敵を『糸杉の剣』で斬り裂く。手ごたえがあり、“それ”はあんぐりと開けた口から上下に二つに分かれて転がった。


 続いて、ザールは右上から首筋の後ろを狙ってきた敵を縦に斬り裂く。“それ”は血と脳漿をぶちまけながら地面に転がる。


「……どういう奴らなんだ?」


 ザールがそうつぶやき、『糸杉の剣』を鞘に納めた時、背後から物凄い殺気を感じて振り向いた。殺気の元は、上下に斬り裂いた敵だった。そいつはもぞもぞと動きながら、斬り裂かれた部分をつなごうとしている。


「たっ!」


 ザールは、傷をつなごうとしていた上半分を、『糸杉の剣』の抜き打ちで縦に斬り裂く。上半分は左右にぱっくりと分かれ、その傷口からドロリと脳漿と血が流れ出る。


「……こいつら、不死身か?」


 ザールが悪い予感と共に縦に斬り裂いた敵を振り返ると、そいつは傷口を修復しつつ、ゆっくりと宙に浮いていた。そいつと目が合うと、そいつはニタリと笑ってザールに飛び掛かってくる。ザールはそいつを両断するために『糸杉の剣』を振るった。


 悪夢のような泥沼の戦いが始まった。


   ★ ★ ★ ★ ★


「どうしたの? 何があったの? ザールはどこ?」


 『こちらの世界』では、いち早く駆け付けたホルンが、茫然としているオリザに矢継ぎ早に質問した。オリザの視線の先に転がっている男の死体を見れば、状況は明らかだったが、ザールの姿が見えないことがホルンの胸をざわつかせていたのだ。


「……お、お兄様は、消えました……」


 オリザがやっとそれだけ言う。ホルンはオリザの肩をつかんで揺さぶりつつ言った。


「オリザ、しっかりしなさい! あなたが見たことを全部話してちょうだい、ザールを救うために!」


 その言葉で、ハッと気が付いたオリザは、逆にホルンにすがり付いて言う。


「あっ、ホルンさん。お願い、お兄様を探して! お兄様を助けて!」


 ホルンは、半分取り乱しているオリザに、笑顔で優しく訊いた。


「順序良く教えてちょうだい。ここで何が起こったの?」

「……飛んでいたんです、頭が二つ」


 ポツリとオリザが言う。その光景を思い出したくないように、オリザは顔をしかめる。ホルンは一つうなずいて、


「うん、それで?」


 そう訊くと、オリザはその言葉に促されたように


「それが、人を襲ってて、私が声を出したからこっちに襲ってきて、だからお兄様が向かって行かれて、光って、消えたんです」


 そうとぎれとぎれに言う。言葉はめちゃくちゃだが、何があったかは理解できた。


「分かったわ。よく話してくれたわね。ザールは絶対に助け出すから、安心して」


 ホルンがそう言うと、オリザは声を上げて泣き出した。


「私が声を上げちゃったから。お兄様は『絶対に声を出すな』っておっしゃってたのに、怖くて声が出ちゃったから。お兄様に何かあったらどうしよう?」


 ホルンはオリザの背中を優しくなでながら励ました。


「怖いものを見たら声が出るのは仕方ないわ。ザールはあなたを守るために飛び出したのに、あなたがそんなことじゃダメよ。ザールは強いから、絶対に無事で戻ってくるって信じてあげないと、ね?」


 嗚咽しながらうなずいているオリザをなだめているうちに、リディアとロザリアがこの場に到着する。


「どうしたの? ザールは?」


 リディアが訊くと、ロザリアはすぐに辺りを見回して言った。


「ザール様の『魔力の揺らぎ』が見える。奴らと共に異空間に転移されているようじゃ」


 それを聞くと、オリザが泣きはらした顔を上げて訊く。


「ロザ、お兄様は無事なの?」


 ロザリアは力強くうなずくと言った。


「ええ、ザール様はご自分で奴らを異空間に封じ込められたのです。この場を見たところ、そいつらに魔力は全然感じられません。つまり、あいつらは特に魔力を使った攻撃などはしないので、ザール様がやられることは万が一にもありません」


 それを聞くと、オリザは


「よかったぁ……」


 と一言言って失神した。


「あっ、オリザさん!」


 リディアが慌ててオリザを抱き上げて、近くのベンチに横にする。


「……奴らは魔法で攻撃することはしないが……リディアの話では魔力を『復元』に特化しているようじゃな」


 ロザリアは、眉を寄せて真剣な顔で何かを探すように辺りを見ている。その姿を見てホルンは相手の正体をほぼ特定した。


「私、以前にトリスタン侯国で、同じような事件の話を聞いたことがあるわ。首だけで空を飛び、相手の体液を吸いつくす吸血鬼の話だけれど」


 ホルンがそこまで言った時、地中から突然、ガイが姿を現した。


「ホルン姫もご存知でしたか。『飛頭蛮(ひとうばん)』を」


 ガイは静かな声でそう訊く。ホルンはうなずいた。


「ひとうばん?」


 リディアが訊くと、ガイは深い海の色をした目をリディアに向けて言う。


「ここからずっと東、『ダイシン帝国』でそう呼ばれている妖怪だ。主に強い恨みを残して死んだ者がなると言われている」

「……私も聞いたことがあるわ。けれど、私はその退治方法を知らないの。ガイさん、あなたは『飛頭蛮』をやっつける方法は知っていますか?」


 ホルンが訊くと、ガイは申し訳なさそうに言う。


「いえ、私も倒す方法までは知りません」

「じゃあ、どうするの? このままザールだけに任せておくの?」


 リディアがじりじりして叫ぶが、ロザリアが悔しそうに唇をかみながら言う。


「残念じゃが、魔力を『復元』に特化している奴じゃ。無限に近い蘇生能力を持っていることじゃろう」

「それって、無限に生き返るってこと? アタシたちもヤバいじゃん、何とかしなきゃ……って言っても、倒す方法が分からないとどうしようもないか」


 リディアが無念そうに言う。


「……この場にまだジュチ殿が来ていません。彼は私と同時にこちらに向かったのですが、まだ来ていないということは、何か奴を倒す方法を知っているのかもしれません」


 ガイがそう言うと、全員が西の空を見上げた。


   ★ ★ ★ ★ ★


「くそっ! こいつらほぼ不死身だな」


 ザールは、何回目かのつぶやきを漏らす。この空間に奴らと共に閉じ籠ったのは良かったが、肝心の倒し方が分からない。


「やっ!」


 ザールは、左右から襲い掛かって来た飛頭蛮を、右の奴は『糸杉の剣』で真っ二つにし、左の奴は『竜の腕』で握りつぶした。どちらも血と脳漿をまき散らしながら地面に転がる。


 しかし、転がり落ちた側からくっついたり、バラバラになった肉片が寄り集まったりして、すぐに元に戻るのである。ザールとしても、いつまでも永遠にこんな戦いは続けられない。


「しまったっ!」


 ザールの隙をついて、飛頭蛮がザールの左腕に噛みつく。その鋭い歯は『竜の鱗』すら貫通し、すぐにそいつはザールの血を吸い始める。


「厄介な奴らだな」


 ザールは、息を整えて心を落ち着けた。左腕から血が抜けていく感覚があるが、ザールは心が落ち着いたところでつぶやいた。


「わが『竜の血』よ。今目覚めて世に仇なす魔境の輩を、その猛る業火で焼き尽くせ」


 すると、ザールは『四翼の白竜』と化し、その身体を青白い炎が包んだ。四翼の白竜(ザール)に噛みついた飛頭蛮は、あまりの熱さに口を開けて、青白い業火に焼かれながら転げまわる。


 もう片方の飛頭蛮が、隙を見つけて四翼の白竜(ザール)に噛みつくが、今度は


 ジャリン!


 という固い金属をこするような音がして、飛頭蛮の牙が砕け散った。四翼の白竜(ザール)はその顔面に拳を叩き込む。飛頭蛮はゴリッという骨が砕ける音とともに、目を飛び出させ、鼻と口から血のあぶくを噴き出しながらすっ飛んでいく。


 それでも、そいつらは復活して、四翼の白竜(ザール)に挑みかかって来た。


「こいつらの弱点はどこだ?」


 四翼の白竜(ザール)の竜化した左目が、飛頭蛮をじっと眺める。すると、飛頭蛮にはかなりの生体エネルギーが詰まっているが魔力はほとんどないこと。その生体エネルギーと魔力は、首からどこかにつながった眼には見えない何かで、頭に補充されているらしいことが分かった。


「もしかしたら、こいつらの弱点は頭にはないのかもしれないな」


 それなら、『自分たちの次元』にいるホルンやジュチたちが何とかしてくれる——四翼の白竜(ザール)はそう信じて、飛頭蛮の次の攻撃に備えた。


   ★ ★ ★ ★ ★


 ジュチは、サマルカンドの西町から飛び立った後、すぐに自分を微粒子へと拡散させた。これにより、防御力はないに等しいが探索力は極大になる。


「ふん、見つけたぞ。奴らは今、ザールの空間にいるな」


 ジュチはそう言うと、その空間から細く伸びる粒子の糸を見つけ出す。それはまさにキラキラと輝く糸であった。赤く、あるいは青く光り、夜の町の中をどこまでも伸びている。


「あれか、『魂の緒』とか言うやつは」


 ジュチはその光の糸が伸びている場所へと向かう。その光る糸は、サマルカンドの北町へと延びていた。この辺りはサマルカンドの中でも貧困層が住む界隈が多い。その中の一軒へと糸は続いていた。かなりのあばら家で、屋根は傾き、壁もやっと立っている状態で、あちこちの漆喰がはがれ、その穴は中から板で塞いであった。


「あの家か」


 ジュチは対象の家に鱗粉でマークを付けると、あちこちに散らばった分身を呼び集める。あちこちから青白い光を放つオオミズアオの大群が飛んできて、一つに固まる。その光はやがて薄れ、そこにはジュチが立っていた。


「この家の中に、“奴ら”の本体がいるはずだ」


 ジュチは手のひらを開く。その手のひらから、アゲハチョウが飛び立った。


「この中を調べておくれ」


 ジュチがそう言うと、アゲハチョウはジュチの周りを一周して、板の隙間から中へと入って行く。入ったところは台所らしく、煮炊きをする場所があった。ただし、使われている形跡はない。かまどには蜘蛛の巣が張っている。


 流しにも何も置いてなかった。これだけ見る限りでは、ここは空き家のように見える。


 しかし、暗い部屋の中をアゲハチョウが次の間に進むと、そこには布団が敷いてあり、首のない人間の胴体が二つ横たわっていた。


「これか」


 ジュチは、その胴体の首の部分をよく観察してみた。そこには斬り取られたような、あるいはねじ切られたような形跡は何もなかった。落葉樹の木の葉が枝を離れるように、自然に離れたようになっている。


「やはり、こいつらの正体は『飛頭蛮』だったな」


 ジュチがそうつぶやいた時、ホルンたちがここに駆け付けた。ジュチは分身を呼び集めるとき、一部のオオミズアオにはホルンたちのところを経由させていたのである。


「やっぱりジュチだったわね。ロザリアの言うとおりだったわ」


 ホルンが言うと、リディアもジュチを期待のまなざしで見ている。ジュチは、遅れて駆け付けたロザリアに笑って言う。


「やあ、ロザリア。みんなを案内してくれてありがとう。おや、ガイ殿は?」

「ガイ殿はオリザ殿を別邸に運んでもらっておる。しかしジュチ殿、おぬしはダイシン帝国の妖怪まで知っておったとは驚きじゃな」


 ロザリアが感心して言うと、ジュチは金髪を形のいい指でいじりながら、つまらなさそうに言う。


「ボクはこの世で最も高貴で優秀なハイエルフだよ? 知らなくてどうする」


 そして、ホルンをはじめ全員を見て、真剣な表情で言う。


「むしろ、これから先の『処置』が問題なんだ」

「まさか知らないとでもいうのか?」


 ロザリアが言うと、ジュチは憂鬱そうに首を横に振る。そして言った。


「あいつら『飛頭蛮』の弱点は、胴体だ。『飛頭蛮』は『魂の緒』で離れている頭に生命力と魔力を胴体から送り続けている。つまり胴体は首がなくても生きている。心臓も動いているし感覚もある。ただし動けない。このレームダックを『処置』すること自体は簡単だ。けれど、良心の呵責があるのさ」


 ホルンやリディアには、ジュチの言うことが分かった。この『飛頭蛮』は、何らかの強い恨みで妖怪と化したものだ。その攻撃主体が留守の間に、弱点である動けない胴体に攻撃を加えることが戦士としての感覚に反するのだろう。


 けれど、ホルンは決然と眉を上げて言った。


「どのような状態であろうと、こいつが何人もの人を殺し、現在ザールと戦っていることは事実です」


 そして、ホルンは『アルベドの剣』を抜き、その家の玄関の錠を両断する。ドアはギシッときしみながら開いた。ホルンはジュチを振り返って言う。


「案内して」


 ジュチは薄く笑うと、左手の人差し指を立てる。その爪の先にポウッと翠色の淡く優しい光が灯る。ジュチはその光を頼りに、家の中へと入って行く、ホルンがそれに続いた。


「ロザリアは外を見張っていて。何か変わったことがあったら知らせて。緊急事態ならあなたの判断で対応しても結構よ」


 ホルンはそう言って家へと足を踏み入れる。湿った空間に、カビとほこりの臭いが充満している。ホルンはその臭いも気にならないように、足元に気を付けながらジュチに続いた。


「これです」


 ジュチは、足元に寝ている二つの首のない胴体を顎でしゃくって言う。ホルンはしげしげとそれを眺めた。確かに血色は良く、首の部分も切断痕などは見えない。


 ホルンは、『死の槍』に静かに語りかけた。


「わが主たる風よ、憎悪に身を焼き魔道に踏み込んだ者をその力で憐れみ、その報いなき魂に『Memento Mori(死を思い出さ)』せよ、それは『Et in Arcadia Ego(死はどこにでもあるもの)』なればなり」


 すると、『死の槍』は緑青色と緋色の『魔力の揺らぎ』に包まれ始めた。

 その光が穂先に集まり、炎となって燃え上がった時、ホルンは目にも止まらぬ速さで二つの心臓を刺し貫いた。二つの胴体は、びくりと体を震わせ、首を呼び戻すかのように両手を上げたが、心臓から燃え上がった『魔力の揺らぎ』に包まれ、やがて灰になった。


「……これで終わったはず、よね?」


 ホルンが言うと、ジュチがうなずいて言った。


「ええ、こいつらの憎しみもね」


   ★ ★ ★ ★ ★


「どうしたんだ?」


 四翼の白竜(ザール)は、突然、飛頭蛮たちが狂ったように飛び回り始めたのを見て、そうつぶやいた。今の今まで四翼の白竜(ザール)ただ一人を狙って、連携した攻撃を繰り出してきたのに、突然彼らは目を白黒させ、口から泡を噴きながら連携もなく飛び回り始めたのだ。


「そうか、ホルンたちが何とかしてくれたんだな」


 四翼の白竜(ザール)はそう思い当たると、『糸杉の剣』を構え、白く細長い四枚の翼をいっぱいに広げた。


「わが『竜の血』よ、その力をわが佩剣に与え、魔道のものを斬り払え!」


 四翼の白竜(ザール)がそう唱えて『糸杉の剣』を斬り下げると、『糸杉の剣』の軌跡がそのまま巨大な半月形の斬撃波となり、飛頭蛮たちを空間もろとも粉微塵に粉砕した。


「……終わったな」


 四翼の白竜(ザール)は、キラキラと輝きを残して飛び散った空間のかけらを見つめながら、そうつぶやいた。


   ★ ★ ★ ★ ★


 ザールとホルンは、飛頭蛮の二人がねぐらにしていたあばら家を徹底的に調べ、そこから一冊の日記を見つけ出した。そして、飛頭蛮の二人は、人買いに両親を殺されてイスファハーンの大富豪に売り飛ばされた、ダイシン帝国の交易商人の娘だったことが分かった。


 娘たちは大富豪の屋敷で主人のオモチャ同然の扱いを受け、それに耐えきれずに脱走したものだった。生まれ故郷のダイシン帝国へと帰るつもりだったのかは知らないが、このサマルカンドでついにその命が尽きた。


 しかし、その間際に自分たちを売り飛ばした人買いたちのねぐらがサマルカンドにあったことを知り、死してなお自分たちと両親の恨みを晴らそうと『飛頭蛮』となって甦ったものと思われた。襲われた被害者たちを詳しく調査すると、その足取りや名前が、確かに娘たちが残した日記の記述と符合するものが多かったのである。


 日記にはなお何人かの名前が書かれていた。司隷庁はすぐにその名を持つ者たちを逮捕し取り調べたところ、人買いをしていたことを認めたため、それらの男たちは冬の寒さが萌し始めたころ、斬首刑となった。



「飛頭蛮などと言う妖怪が、この国にもいたとはね。ボクはこの国は、特にトルクスタン侯国は妖や悪人が少なくて住みやすいところだと思っていたが」


 ジュチがそう言いながら、ハッとするほどの美貌の相貌に翳りを見せる。しかし、それ以上に深刻な表情をしていたのはザールだった。


「人買いなどと言う奴らがこの国にのうのうと生きていたなんて。そんな奴らがいなければ、あの二人も飛頭蛮などと言う妖怪へと堕ちなくて済んだものを……」


 ザールはショックのあまり、3日ほどは自分の部屋に閉じこもって誰とも会おうとしなかった。

 リディアとジュチは、ザールの心情を慮ってただ見守るにとどめていた。

 ホルンも、自分では何とかしたいと思いながらも、ジュチたちの態度を見て手を出せずにいた。


 しかし、そんなザールを諫めたのはロザリアだった。


「ザール殿」


 ロザリアは少女の姿になっていた。『魔族の血』を覚醒させて、その力で鍵のかかったザールの部屋に入り込んだのだ。


「……なんだ、ロザリア殿か。僕は誰とも会いたくないんだ。出て行ってくれないか」


 部屋の明かりも点けずに、じっと暖炉の炎を見つめていたザールが、その姿勢のままで言う。その声にはいつもの覇気がない。ロザリアは形のいい唇を歪めて言う。


「ザール様の気持ちは分かる。ゆくゆくはこの国の為政者になられる身じゃ。領民を思いやり、正しいことを広めようとする気持ちは大切じゃと思うぞ」

「……だったら、ほっといてくれないか? 自分でも分かっているから」


 ザールが静かに言うが、ロザリアは首を振って


「分かってはおらぬ。ザール様が悲しんだとて、あの二人の人生は取り返しはつかぬ。悪人どもの人生もじゃ。ザール様、それぞれの人生の良いことや悪いことは、それぞれの人間が背負うものじゃ。それをザール様が背負えるものでもないし、背負うものでもない」


 そう、静かにザールに近づきつつ続けて言う。


「ザール様がすべきことは、個々の人間の魂を救うことではない。天下万民の暮らしが立つように、みんなが生きていることを実感し、喜べるような世の中を創ることじゃ。私はザール様がそのような人物であると信じたからこそ、ザール様に惚れたのじゃ」


 ザールは驚いたのだろう、ピクリと肩を震わせると、ゆっくりと振り返ってロザリアを見る。ロザリアは、暖炉の照り返しのせいもあるだろうが、いつもと違って頬が少し赤くなっていた。その漆黒の瞳は、暖炉の炎を映してザールのような緋色の瞳になっている。


 ロザリアは、本来の姿に戻る。本来の彼女は、身長160センチで20歳の女性だ。いつも何事にも動じず、感情を露にせず、冷たい顔で何かを考え続けている。その彼女が、今日は頬を染めて、まるで乙女のような恥じらいを見せながらも、ザールに自分の想いをぶつけて来た。


「……驚いたか? 私はザール様の優しいところも好きじゃ。今のように落ち込んでいる姿を見れば励ましたいとも思う。私はどんなザール様であろうと、愛し抜く自信がある」

「ロザリア……」


 ザールがそうつぶやく。ロザリアはそんなザールを愛しそうに見つめて微笑んだ。それはまるで聖母のような微笑だな……ザールがそう思った瞬間、ロザリアは静かに続ける。


「けれど、私はザール様を愛しているからこそ、ザール様が背負っている運命を一番に考えたい。

 そなたは『白髪の英傑』と呼ばれた男ではないか? そなたの力を必要としているのは、ひとりホルン姫だけではないぞ。この国に住まうものすべてがそなたの力を必要としているのじゃ。

 何のために? 決まっておろう、自らの人生を実りあるものにするためじゃ、大切なものを守るためじゃ、そして何よりも、幸せに暮らすためじゃ!」


 静かな、しかし力強いロザリアの言葉を聞いているうちに、ザールの緋色の瞳に光が灯った。それはまだかすかな熾火のようなものだったが、ロザリアはその光を認めてニコリと笑った。


「……いいかおになって来たの。それでこそザール様じゃ、私が愛するに相応しい男じゃ。忘れるのでないぞ、そなたを必要としているのは、ひとりホルン姫ではないことを……」


 そしてロザリアは、ザールの唇に唇を重ねた。驚くザールの顔を間近で見ながら、


「忘れたら、何度でも思い出させてやるわ。こうやって何度でもね?」


 そう言うと再びキスし、サッと離れると笑いながら部屋から煙のように消えた。



「ロザリア!」


 ザールは自分の声でハッと目覚めた。目の前では暖炉で炎が爆ぜている。ボウッという音とともに、薪が二つになって炉床へと落ちた。


「……夢か? いや、夢でもいいか。僕はどうやら小さなことで悩んでいたらしい」


 ザールはそうつぶやくと、何日かぶりにカーテンを開ける。朝の光が差し込んできた。窓を開けると、すっかり寒くなった明け方の冷たい空気が部屋に入り込んでくる。今のザールには、その空気が清々しかった。


 トントントン


 その時、静かにドアをノックする音がした。ザールはゆっくりとドアに歩みより、鍵を開けた。


 開錠されるカチャリという音と共に、扉の向こうで息をのむ気配がする。ザールは微笑んでドアを開けた。


「あ、ザール……」

「ホルン……」


 立っていたのはホルンだった。ザールは笑ってホルンに言う。


「おはようございます、王女様。今朝はわざわざ元気づけにおいでいただいたのでしょう?」


 ザールの言葉に、力が戻ってきている……そのことを感じたホルンは、ほっと溜息をついて言う。


「ジュチとリディアは、ずっと見守っていたわ。あなたのことを信じていたんでしょうね。私はそんな二人を見ながら、心配することしかできなかった……」


 ザールは、首を振ってホルンに言う。


「みんなが心配してくれていることは分かっていました。僕は自分の小さな感情におぼれて、仲間を心配させるという愚を犯してしまいました」

「あなたは優しい人だから……。でも、優しいだけではなく、強い人だってことを信じてあげなければいけなかったのよね? ゴメン、ザール。私の一番身近にいてくれる人を信じてあげられなくて」


 ザールは慌てて


「こちらこそ、王女様に心配かけるなんて、謝罪どころじゃすみませんね? でも、大丈夫です。僕はあなたを守るために、そしてあなたと共にこの国を建て直すためにここにいます。そのことを忘れません」


 そう言って笑った。ホルンもザールの笑顔を見て、久しぶりに心から笑ったのだった。


   (17 憎悪の対象 完)

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

様々な事件に巻き込まれるホルンたちですが、その中で仲間たちとの絆を確固たるものにしていっているようです。

次回は、『七つの枝の聖騎士団』との戦いである『18 討滅の幻国』をお送りします。お楽しみに。

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