包湖
包湖
日暮れとともに濃い霧がドバス低地の湿地帯を覆い始めた。
ビアボア一味は、霧の中を例の古代船のジークと鵞目船に乗って鉄床島を後にした。
ジークが鷲目船を曳航しながら水路を進む。二艘の船の通った水面には、ミルクを流したような軌跡が残されていたが、霧の闇夜、それにジークの推進機関が無音のために、船の航行が誰かに見咎められる怖れはなかった。それでも用心のためにと、ビアボアは船の明かりを一切落とさせていた。
ジークの推進機関は、水を瞬間的に気体に分解、船の後ろに微細なクリーム状の泡として噴き出し推力を得る。船底も泡の微粒子の膜に包まれるため、粘性を持つ水との抵抗が抑えられ、滑るように水の上を進む。
ジークの推進機関に内蔵された炉は、数種の触媒と、金属の金と、電力を用いて水を分解する。この水を瞬時に気体に変換する反応を爆気反応と呼び、その反応の過程で、金の原子は、より原子番号の小さな原子に分裂する。一般的に原子核の分裂反応を利用する炉は、不安定な放射性原子に中性子をぶつけて引き起こされる核分裂反応を利用する。対して安定した原子である金の核分裂には、全く別の方法が用いられているらしいが、もちろん科学的な原理は不明である。
この常態核分裂と呼ばれる反応は、原子番号の大きな放射性の原子を用いた核分裂反応と比べて、発生するエネルギーが小さい。実はこれは欠点ではなく利点である。発生するエネルギーの大半を利用し切れずに、熱のゴミとして外部に排出しなければならなかった古代の原子炉よりも、格段に利用しやすいのだ。おそらくは金を用いた炉は実験的なもので、この後、銀や銅あるいは最も安定な原子である鉄原子を用いて、常態核分裂反応の可能性が追求されようとしたのだろう。
それはともかく、とにかくジークの推進機関は、金を燃料として推力を得る。
その燃料の金……、
操船担当のボッシュは、操舵室の椅子の上に置かれたバドゥーナ国財務局の印の付いた箱に手を突っ込むと、中から無造作に金貨を数枚掴み上げ、それを操舵卓の上の投入口に押し込んだ。見た目は、遊園地の遊具を動かすために、メダルを投入しているのと変らない。ただしメダルは本物の金貨。後ろの船室にいる手下たちが、その様子に垂涎の眼差しを向ける。いかにももったいないという目だ。
闇の中、ヨシの間の狭い水路を、ジークと、それに引かれた鷲目船の二つの黒い影が滑るように進む。目指すはグンバルディエルとオールベの合流点、包湖。そこに昼間グンバルディエルを下っていった貢朝船が、翌日の入宮を待って沖泊まりしているはずである。
霧は、ますますその濃度を増していく。
操船を担当しているボッシュが、ジークの探査装置にスイッチを入れると、画面上に迷路のような水路が映し出された。範囲を限定し感度を上げれば、この探査装置は岸辺との距離や水深を指間単位で表示できる。
水路の三次元映像に見入るボッシュとハオの後ろでは、椅子に腰かけたビアボアが、瞑想でもするように目を閉じていた。そのビアボアが、厚ぼったい蛇腹のような目を僅かに開いた。右目は計器の三次元映像を、左目は船窓の外、霧に閉ざされた闇を見ている。まるでカメレオンのような目だ。
鉄床島を出て半刻、岸辺のヨシが切れると同時に、船が波に揺られるようになった。水路からグンバルディエルの本流に出たのだ。
探査装置を二次元に戻して探査域を拡大、広大な川のなかほどに、所々小さな白い染みのようなものが映っている。霧で足止めを喰った廻船だ。その廻船を避けながら、ジークは船首を下流に向けた。航行速度を上げて走りだすが、やはり音はしない。川面に停泊している荷船の船員たちも、舷側に打ち寄せる波を、風が起した波としか思わないだろう。
霧が乳白色の乳霧に変わる。明かりをつけても、自分の手がぼやけて見えるほどの濃密な霧で、探査装置がなければ船を進めることなど、とてもできない。
その濃密な霧の中をかき分け、更に一時間、装置に映る川幅がぐっと広がる。グンバルディエルとオールベの合流点、包湖に入った。
包湖は、だだっ広い水域で、単なる川の合流点というよりも、名前の通り湖である。深いところでは水深が三百メートルを超え、川の水の流れる表層を除けば、下は海水になる。水深と広さを考えれば、小さな海と言っても良い水域で、今でもここでは海の魚が獲れる。淡水と海水の混じり合う境界面で、しばしば赤い動物性プランクトンが発生することから、包湖は朱蛋海とも呼ばれる。
その包湖の東岸、ヨシの湿原に細長く切れ込んだ入り江、ハルルドゾル湾を目指す。言葉の意味は『聖裳の裾たる入り江』ということらしい。一般にはゾル湾と呼ぶ。
探査装置の四角い画面の中に、包湖東岸の細長い入り江状の湾、ゾル湾が見えてきた。二本の大河が流れ込む包湖では、水が複雑に渦を巻いて流れるが、鋭く抉れ込んだゾル湾の中は、水が動かず波がたたない。そのため貢朝船は、ゾル湾に船を停めることを習わしとしている。拡大した画像のなかに、ポツンと白い点が迫ってきた。時刻は夜の十時、ジークは船の速度を落とすと、ゆっくりとその目標に近づいていった。
霧には濃淡があり、それが大気の流れとともに移動する。霧が薄れてきたのか、淡い霧の右前方、岸からやや離れた所に、ぼやけたオレンジ色の灯が二つ見えてきた。
ジークとそれに引かれた鷲目船が、ゆっくりと岸辺に近づき停止する。
霧のなかに水鳥の鳴声が響いた。
船首に立った兜目のオロロバが、笛のような物を手にしている。水鳥猟に使う鳥笛で、オロロバが、それを吹き鳴らす。
しばし間をおいて、貢朝船の後部甲板で赤いカンテラの灯が点滅。僧官に化けて貢朝船に乗り組んでいる手下の合図だ。
貢朝船の船員は、全て僧職にある人間で構成されている。手下の入手した情報によると、船僧が十四名、それに貢朝船に便乗して湖宮に拝宮する各地の聖職者、十五名を加えて、計二九名が乗船している。この時間、船の中の人間は、当直の二名を甲板前部の操舵室に残して、全員が後部甲板下の寝所で眠りについている。もちろん操舵室の二人も薬入りの茶を飲まされて眠りこんでいるはずだ。
ビアボア一味は、貢朝船の船首舷側に、静かにジークと鵞目船を寄せた。水面から貢朝船の甲板までは五メートルほど。手下の垂らした縄ばしごを伝い、気づかれる事なく全員が甲板へ。そしてナイフを手に船内へ押し入る。
夜襲はあっけなく終わった。
奉納品を積んでいるとはいえ、それらは全てただの生活用品である。貢朝船を襲う者などいるはずがないと誰もが思い込んでいるし、事実今までに貢朝船が襲われたという話も聞かない。寝所にいた船僧と同乗の各地の聖職者は、何の抵抗もできずに縄で縛り上げられた。多少の抵抗はあるだろうと予想していたビアボア一味としては、拍子抜けの夜襲だったが、まずは上首尾。ビアボア一味は、鷲目船に積んであった武器弾薬を貢朝船に引き揚げ、それを所定の位置に配置した。
時刻は、十一時を少し回ったところだ。
計画では、湖宮に向けての出航は明暁五時を予定している。
後部船室の人質と甲板の見張りに数人を配置すると、残り全員が船の艦首下の読経室に集まった。そこがこの船で一番広い部屋になる。貢朝船とは、荷を運ぶための船に宗教施設が加味された、特別仕立ての貨物船といえる。船首下の読経室と祈祷所、それに寝室に使われる大部屋の寝所と、食堂を除けば、あとは全て荷を積むための空間である。
襲撃の準備が終了して体を動かすことを止めると、とたんに寒さが体に染み込んでくる。
聖なる船ゆえに、暖房は論外。そのことを示すように、船内には至るところ氷が張りついている。一度も暖房の焚かれたことのない船内は、まるで氷の棺だ。
寒さのために足踏みをしている賊など様にならない。
事前の情報で暖房がないことは分かっていたので、全員しっかりと着込んで作戦に参加している。それに襲撃の緊張も手伝えば、寒さはそれほど問題にならないだろうと踏んでいた。ところが予想を超えて冷える。失敗だったのは、武器弾薬の凍結防止用に使うコンロを積み忘れたことで、いざという時は、それを暖房に使う手はずにしていた。
仕方なく儀式に用いる油灯用の油を持ち出し、桶に注いで裂いた布を灯芯替りに火をつける。しかし煤が酷い。結局、カンテラの火を最大にして、読経室の中に並べることで寒さ凌ぎとすることに……。
煤でけぶる読経室に、船僧たちのいる寝所からボッシュが戻ってきた。
読経室の後方、寝所から人のうめき声が聞こえる。湖宮の情報を聞き出そうと、船僧をいたぶっているのだ。
湖宮の内部については不明のことだらけだが、それでも、これまでに施設の配置や入宮の手順など、かなりの情報は得ている。ただ今回の計画を遂行するにあたって、懸案が一つ残っていた。カルデラ内のラリン湖と外部は、スワブ川で結ばれている。そのスワブ川の流れるスワブ峡谷のラリン湖側の出口に、巨大な柱のような岩がそそり立っている。そこで貢朝船の臨検を兼ねた入宮の儀が執り行われるのだが、そこを通過する際の僧官同士の符丁が探り出せていなかった。通過に手間取るようなことがあると、後々の行動に支障が出る恐れもある。以前から湖宮には屈強な僧兵がいると、まことしやかに囁かれている。確かめられたことはないが、やはり用心するにこしたことはない。
そのことを含め、船僧を拷問して、湖宮の情報を吐き出させようとしているのだが、それが難航していた。
船に押し入った時には何の抵抗もせずに大人しく縛られた連中が、拷問に対しては頑として口を開こうとしない。殴られても指を折られても、身じろぎもせずに、じっと何かを見据えたような目をしている。その目つきは、怯えでも怒りでもなく、かといって賊たちを冷ややかに眺める冷たい目でも、修業に耐えるような意志のある目つきでもない。なんとも薄ら寒い目をしたままなのだ。拷問は続けているが、船僧の連中から情報を引き出すのは難しいのではないかと、ボッシュはビアボアに伝えた。
つい今し方拷問の様子を覗いた大番頭のハオも、ボッシュと同じ印象を持った。拝宮を目的に貢朝路沿いの町から便乗してきた十五名の地方僧には、怒りの眼差しで一味の男たちを睨みつける者もいれば、動転した気を落ち着かせようと、一心に経を唱え続ける者もいる。そういった感情も露わな地方僧に対して、船僧の抵抗するでもない無表情な姿は、余りに非人間的で、逆にそれが不気味でもあった。
ハオが偽僧として船に潜りこんでいた手下に、「あいつら、お前が乗船した時から、ああいう無表情の連中だったのか」と、首を捻りながら聞く。
偽僧の手下も、そのことは感じていたようで、
「拝門を潜るということは、己れを捨てることであり、それは天の命運に従順になるということだそうです。つまりそれを突き詰めると、生への欲求を断つことになる。それが殉教なのだと誰かが言っていました」と、眉間にしわを寄せながら答えた。
僧界に潜り込むためにあれこれ勉強したのだろう、手下の口からは、もっともらしい言葉が出てくる。しかし口に出してはみたものの、それを理解できていないことが自分でも分かっているのか、偽僧の手下は照れたように苦笑いをした。そして蔑むような視線を後方の船室に向け、「あいつら、身も心も神様に捧げて、人間の脱け殻になったやつらでさ」と吐き捨てた。
その時、積み荷を調べていた手下が、「ありました、奉納用の酒です」と言って、読経室に飛び込んできた。
酒という言葉を聞くや「甲板に出ろ、酒盛りだ、それから火を焚く」と、ビアボアが太い声を号令のように読経室の中に響かせた。更にボッシュに命じる。
「水夫長と、下っぱの船僧を二人ほど、甲板へ引きずり出せ」
甲板中央に一段高くなった四角い枠がある。貨物室に荷を出し入れする搬入口で、上に被せた蛇腹状の蓋を開け、下の貨物室から燃えそうな物を上の甲板に放り上げる。荷の中にあった金属板を甲板に並べ、その上で火を焚こうというのだ。燃える物を片っ端から積み上げ火を放つ。炎の気流で霧が巻くように甲板上を吹き上がる。
火を囲んでの酒盛りが始まった。
量は少ないが貢朝船には儀礼用の酒が積み込まれている。上質の酒である。その酒樽の栓を抜き、椀に並々と注いでの回し飲みだ。冷たく湿った霧で陰々としていた気勢が、炎に照らされているうちに回復、下卑た歌も飛び出し始める。
歌に合いの手が入るなか、ボッシュが水夫長と船僧二人の背中を小突きながら、船室の階段を上がってきた。僧衣を剥がれ下穿き一枚になった船僧は、相変わらずの無表情を決めこんでいる。それを見て幹部の一人鈎腕が、燃える板を押しつけた。さすがに火は熱いのだろう悲鳴を上げる。それを見て、火を囲んだ男たちが囃したてる。
さらに十文字傷が酒の入った椀を船僧の口に押しつけた。苦渋の表情で船僧が顔を背ける。聖職者は絶対に酒を口にしない、酒は神への捧げ物なのだ。無理やり口をこじ開けようとしても、口を真一文字に引き結んで拒否。それではと腹を殴り、苦し紛れに開けた口に瓶を突っ込み、仰向けにして酒を注ぎ入れる。
咳きこむように酒を吐き出した船僧が、ブツブツと経を唱えだした。
それを眺めていたビアボアが、ヌラッと立ち上がる。
刹那、艶光を放つものが霧を薙ぎ払うように円を描き、その軌跡の中で船僧の頭が首から浮き上がって甲板に転げ落ちた。ビアボアの左腕に血糊の付いた鉈が握られている。非常時に索具やロープを切断するための大鉈である。
下っぱの首を跳ねたのと同じ光景が、甲板の上で繰り返された。
人は人の死を目の当りにすると、一瞬呼吸が止まり、体液の流れが停止して、骨の髄が凍りつくような気分に襲われる。ところが直後、反動で血が奔流、全身が火に油を注いだように火照りだす。死を目にすることが、逆に生を強烈に自覚させるのだ。それは劇薬のような興奮と緊張を脳髄の中に呼び起こす。一度それを体験すると、人はその魔力から離れられなくなる。最も単純な生きていることの自覚は、命を賭けた闘いの中にある。
ビアボアは、ジメッと凍てつく冷気を振り払うために船僧の首を落とした。カッと燃えるような命のやり取りをしたいのに、自分が向かい合っている連中は、まるで生きながら死体になっているような手応えのない連中なのだ。そのことに苛立ちと不快感が猛烈に沸き上がっていた。それに気勢の上がらない手下たちに、喝を入れる意味もある。
ビアボアが血糊の垂れる鉈を水夫長の首に這わせた。
「符丁を教えろ、さもないと首を転がす」
水夫長は目を曇らせたが、すぐにビアボアを無視するように読経を口に。次の瞬間、物を叩き切る音がして、ゴトリと床に首が転がった。
更に、もう一つ。
「飲め、そして燃やせ、明日は湖宮を焼き尽くすぞ」
ビアボアが叫ぶ。
「明暁、残りの坊主ども全員の首をぶった切る。そしてマストというマストにツリーの飾りのようにぶら下げる。血の雨を降らせながら、湖宮に入宮するのだ。観ておれ、臨検の衛僧どもの度胆を抜いてやるぞ。者ども、酒だ、酒を飲め!」
「オーッ!」という歓声が、霧を払うように吹き渡った。
その頃、鉄床島では留守役の手下が三人、酒盛りを始めていた。
兄貴分に当たる右腕を包帯で吊るした馬面の男と、火傷を負って体中に包帯を巻いた下っぱの三下、腰を痛めて松葉杖をついている丸禿頭の三人である。
三人とも、今回の作戦に足手まといになると判断されて、根城に残されたのだ。
留守役といっても地下牢に放りこんだ隻眼の僧、ハン博士の見張りをする以外は、何も用はない。賊にとって湖宮の襲撃といえば、晴れの舞台、大仕事である。あの落ちた首を見て震えていた若造までが参加しているというのに、昔、海岸地帯で暗躍していた頃からの仲間である自分たちが、怪我を理由に留守役を言いつけられたことが、無性に腹立たしい。とても酒なしでは過ごせない夜だった。
兄貴分の馬面が、鉄床島の岸壁に営巣中の穴燕を焼いて、酒の肴にしようと言いだした。夜間、巣穴に戻って羽を休める穴燕は、簡単に獲れる。ただ無造作に獲れるような穴には鳥たちが巣を作らなくなっているから、獲るためには鉄床島の最上部にある岩穴を狙わなければならない。ただしボスの部屋のある最上階に上がるのはご法度で、以前それを破って首を落とされた者がいた。
だが今夜は違う。居残りを命じられた欝憤を晴らしたかったし、仲間を見送った後、酒を飲み続けて気が大きくなっている。おまけに今夜この島にいるのは自分たちだけで、見つかる心配はない。火傷の三下が穴燕を捕え、馬面の兄貴が番所で火の準備、そして丸禿頭が水牢の見張り役と、仕事を分担。三下は火傷の水脹れの残る足を引きずりながら、階段を上がっていった。
穴燕を獲るにはかぎ針の付いた竿を使う。竿を穴の中に差し込んで穴燕を引っかけ、引きずり出すのだ。三下は右肩に竿を担ぎ、左手に白灯を提げて、最上階のビアボアの部屋の前、急な階段を上った。
階段奥の上げ戸を押し開くと、水分を多量に含んだ冷気がさっと流れ込んでくる。乳のような氷霧だ。狭い穴を抜けると、そこは断崖に突き出た岩棚だった。霧が出ているのは好都合、鳥は巣穴の奥に潜り込んだままだし、なにより岩棚の下が見えない。もし晴れていれば、反り返った断崖の上、下まで遮る物もなく見えてしまう。
三下は外套の隙間から滲みこんでくる微細な氷霧に体を震わせると、白灯の照明箱を岸壁の岩肌に向けた。ゆるやかに反りかえった石灰質の岩肌に、ぼこぼこと穴が空いている。穴燕たちは自分たちの唾液とくちばしで穴を開ける。多孔質の岩肌の上に、白っぽい真新しい糞が積み重なっている穴、それが、いま穴燕が巣を掛けている穴だ。ざっと見て竿の届く範囲に、六〜七個はそういう穴がある。
三下はもう居残りを命じられたことなど忘れて、舌なめずりをしながら、穴の一つに鈎針付きの竿を突っこんだ。すぐに竿を通して何かが暴れるような感触が伝わってくる。それを力まかせにねじり、手前に引き出す。
ボスのビアボアは不思議と鳥を食べない。病気で崩れた顔が鳥肌に似ていることから、共食いを嫌がって食べないのだろうというのが、手下内でのもっぱらの噂だ。
穴燕は穴から姿を見せた瞬間に激しく羽ばたく。三下は引き出した穴燕を空いた手で鷲掴みにすると、素早く首をひねった。
ぐったりとした穴燕を腰の袋に放りこみ、また岩棚に白灯をかざす。
そうやって何羽目かの穴燕を捕まえた直後、黒い塊が霧の中から三下の懐に飛び込んできた。バサッと羽ばたく。鳥だ、と思った瞬間、三下はその首を掴みざま捻っていた。巣穴に戻ってきた穴燕が、霧のために自分を岩と間違えたのだと思ったのだ。悲鳴も上げずにクタッとなった穴燕の熱い体温が、手袋を通して伝わってくる。
「鳥の方から食べてくださいと、飛び込んで来やがったぜ」
そう嘯く三下が首を傾げた。手にした鳥が穴燕と違うことに気づいたのだ。穴燕よりも大ぶりで重い。それに、足に金属の管のようなものが填められている。
しばらく後、霧氷を全身に被り雪だるまのようになった三下が、ずっしりと脹らんだ袋を引っ下げて番所の部屋に戻ってきた。
「大漁だぜ、兄貴」
外套の霧氷を払い落としながら三下が、ずた袋から穴燕を次々と掴み出す。九羽、どれも小魚を食べて脂の乗った、食べごろのサイズ。前歯を剥き出しにして驚く馬面の兄貴に、「もう一羽」と言って、三下は、あの足輪をつけた小太りの鳥を引き出した。
「こいつはおまけだ、自分から飛び込んで来たんだ、太って旨そうだろう」
戦果を自慢したげな三下の前で、馬面の兄貴はギョッとした顔で、小太りの鳥を見た。
すぐに三下から太った鳥を引ったくると、足に取り付けられた管から丸めた小さな紙を引き出した。紙片を広げ、顔を押しつけるようにして文面に目を走らせる。
馬面が派手に舌を打ち鳴らした。
「数字の羅列、これは暗号だ。誰かがこの鳥を使って外部と連絡を取ってたんだ」
「鳥が、郵便配達でもやるんすか」
間の抜けた質問に、馬面が歯を剥き出しにして三下を怒鳴りつける。
「ばか、鳥の帰巣本能ってのを知らねえのか。昔は、諜報に鳥を使ったんだ」
馬面は何かに思い当たったのだろう、三下の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「そうか、ここには大番頭という通信マニアがいる、無線機での交信は傍受される危険があるから、あえてこういう原始的な方法を取ったんだな」
喉元を掴まれて苦しいのか、火傷の跡が擦れて痛いのか、三下が顔を歪める。しかし興奮した馬面は、弟分の喉をさらに絞り上げる。
「この鉄床島で、ボスのいる最上階に出入りしているやつといやあ」
「兄貴、あいつじゃないか、ほら、まだら髪の、親分の部屋の掃除を任されてるあいつなら……」
馬面は掴んでいた三下の胸ぐらを離すと、ゼエゼエと咳き込む三下をよそに、突き出た前歯をギリギリと擦り合わせた。
「そうだあいつだ。あのまだら髪の掃除野郎なら、ゴミを捨てる振りでもすれば、最上階のテラスに出ても怪しまれない。どこへ何を伝えていたか知らねえが、こいつはことだ。もし今夜の計画が湖宮に漏れていたら」
「すぐに、大番頭に伝えなきゃ。あっ、でも、そしたらおいらたちが、穴燕を捕まえにテラスに出たのがばれちまう」
「ばかやろう、そんなことを言っている場合か。鳥は桟橋の横に死んで浮かんでいたことにすればいいんだ。それより、とにかく連絡だ」
午前零時。
ちょうど甲板の上に最初の生首が転がったその時、大番頭のハオが着込んだマント、その内側に吊るした受信機が、着信を知らせる振動を起こした。
大番頭のハオは、常時腰に電波の受信機を吊るし、左耳にイヤホンを差しこんでいる。人と話をする時など特に必要がある時以外は、唱鉄隕石の放射する電磁波をキャッチ、兇音をBGMのように聞いている。手にした骨杖、蛇紋石を冠したニメートル余りの金属製の杖がアンテナである。ハオが所在なげに杖をもてあそんでいたり、体の向きをしばしば変えるのは、唱鉄隕石の電磁波を拾おうとしているからだ。
実は今回の湖宮襲撃計画のきっかけを作ったのは、大番頭のハオである。
十二年前、まだハオが、ビアボア一味で新入りと呼ばれていた頃のこと。兇音を聞くことを趣味にしていたハオは、ある情報を耳にした。兇電放射の弱い周波数域が見つかり、その電波域、つまりスポット域を用いて、バドゥーナ国と西方のユルツ国の間で衛星通信の試験が行われるというのだ。さっそくハオは、その試験通信の傍受を試みた。
そして入手した情報の周波数で、それらしき電波を傍受。ただし信号通信のため、通信の内容までは分からなかった。
内容を解読できなかったことはさておき、その時ハオはある発見をした。試験通信が行われたスポット域に近接の周波数域で、不思議な兇音を耳にしたのだ。偶然の傍受ではあったが、兇音を聞き慣れたハオの耳に、それは通常の兇音とは異なる、兇音モドキの音として聞こえた。
その時は、それで終わった。
その後、スポット域を利用した衛星通信は、限られた用途ではあるが、各地で利用が定着。ハオも趣味で兇音を聞くと同時に、衛星通信の音に聞き耳を立てるようになった。これは当然の成り行きである。衛星通信は、国家間や諜報機関、あるいは交易上のやりとりに用いられることが多い。衛星通信を傍受することが、即、裏稼業の仕事にも活かされるのだ。ただし古代の通信機器を用いた衛星通信はデジタル通信で、基本的には暗号化されており、内容を解読するのは容易ではない。
この衛星通信を傍受するということが、ほんの十年のうちに、ハオをビアボア一味の大番頭に押し上げた。裏稼業は表の稼業以上に情報が勝負の世界だからだ。やがてハオは、ビアボア一味の情報収集とそれに基づく計画立案を任されるようになる。
その大番頭となったハオが、数年来気にかけていることがあった。
例の兇音モドキである。
時おり思い出したように、通常の兇音に混じって兇音モドキを耳にすることがある。ただ悔しいかな、兇音モドキは受信する機会が少なく、かつ短時間、数秒程度しか受信できないために、未だ解析に至っていない。この段階でハオは、自分の知らないタイプの唱鉄隕石が、どこかに転がっているのだろうと考えていた。
ところがその日、耳に飛び込んできた兇音モドキは、なんと数時間に渡って聞こえ続けた。さっそくハオは、その電波源の特定を試みる。兇音モドキの発信源の唱鉄隕石を探し出し、どんな隕石か確かめようとしたのだ。
そして分かったのは、兇音モドキの元となる兇電が、セリ・マフブ山系の内側から出ているということだ。むろんこれだけなら湖宮に疑問を抱くことにはならない。セリ・マフブ山に、特殊な唱鉄隕石が転がっていると考えるのが自然だからだ。しかし、衛星通信が行われるようになって、すでに六年。ハオも、衛星通信を傍受して録音。通信が暗号通信なら、それを解読することを日々仕事のように行うようになっていた。
全くの思いつきだが、ハオは、その時の地上波の兇音モドキを録音、愛用の魔鏡帳に取りこみ、暗号通信の解読プログラムにかけた。すると兇音モドキが明確な信号の羅列に変換されたのだ。通常の兇音が意味のある信号に置き換わることはない。太陽の光をいくら解析しても、そこから信号が読み出せないようにだ。ところが兇音モドキは、明らかに意味を含んだ信号の羅列に変換された。
もっとも内容の解読まではできなかったが……。
これが、ハオが湖宮に疑問を抱いたきっかけである。
兇音モドキは、自然現象としての唱鉄隕石の電波ではなく、何者かが意図して流す通信用の電波ではないのか。誰かが兇音に似せる形で秘密の通信を行っている。そして、その兇音モドキの元となる電波は、セリ・マフブ山系の内側から発信されている。
いったい誰が何のために。
その後も何度か兇音モドキを録音、魔鏡帳で解析を試みるも、依然解読には至っていない。しかしその解読不能ということが、ハオのなかに、兇音モドキと湖宮の謎を解き明かしたいとの想いを募らせた。電気もないという清貧の地。その湖宮から、謎の電波が発信されている。これは、一体どういうことか。
ただその謎を解くには、湖宮は遠い場所だった。地理的にということではない、賊から見ればだ。聖地中の聖地湖宮は、僧侶以外は立ち入ることを許されない場所である。ましてや裏商人ごときが近づける場所ではなかった。
何とか湖宮の謎に迫る方法はないだろうか。
そこでハオは一計を案じた。『湖宮に隠された財宝がある』という噂を流したのだ。
ハオは国家間の間でやりとりされる衛星通信を傍受するなかで、偽の情報を流して相手の反応を窺うという手法が繰り返し用いられていることに気づいていた。それを踏襲したのだ。湖宮は聖地、まずは財宝の噂を流すことで、湖宮や聖職者の反応を見てみようと考えた。ところが経堂の聖職者はもとより、一般の人々、更には財宝という言葉に目がない裏稼業の同業者までが、皆この噂を世迷い事と一笑に付した。
当然、湖宮も何の反応も示さない。
この方法では駄目かとハオが次の手を考え始めた時、意外なところから反応が返ってきた。なんとハオのボス、ビアボアが動いた。
幹部会で、ビアボアが、『湖宮に財宝……』という情報の真偽を探るために、配下の者を潜り込ませてみようと提案したのだ。そしてそれは直ちに実行された。
ところが湖宮に潜入させた子分は、行方不明になって帰ってこなかった。
そして二人目も。いやこの二人目は、気が触れた状態となって河口の町で見つかった。しばらく間を置いて、今度は、ビアボアは手練の腹心を派遣した。だがその二十年来のビアボアの腹心も、同じ結果となった。
その時点でビアボアは本気になった。湖宮に何かがあると確信したのだろう。
湖宮に押し入るために、周到な準備を始めた。部下を僧に仕立て、襲撃のための装備を調達し……と。ビアボア本人が立てた計画、それが貢朝船を強奪して湖宮に乗り込むという、裏商人の仮面をかなぐり捨てた、海賊としての聖地蹂躙の計画だった。ビアボア当人としては、腹心の仇を取る意味もあるのだろう。
ハオから見ていると、ビアボアは金や財宝や復讐といった以上の何かを、湖宮に打ちつけようとしているように見える。首なしの死体をツリー飾りのようにぶら下げようぞと、ビアボアは言い放った。その言葉を耳にして、さすがのハオも身震いした。明日の湖宮襲撃が、一歩間違えば戦争になる。そう思えたのだ。
盛り上がり始めた酒盛りの輪の中に、また一人、別の船僧が引き出された。船僧を取り囲んで囃し立てる声がうるさい。刺青のボッシュが、下っぱの一人に鉈を握らせた。明日の惨劇の予行演習をやらせようと言うのだろう。武闘派のボッシュは、一度血を見ると、賊業とは関係なく、体が、神経が、血を求めて動きだす。
ばかなことをとハオが鼻を鳴らす。
ちょうどその時、ハオの腰に吊るした受信機が、着信を知らせる振動を起こした。それが、鉄床島の居残り組からの緊急連絡、馬面が通信鳥の件を知らせてきたのだ。
ハオは酒席の輪に背を向けると、マストの陰に身を移した。
通信の内容に耳を澄ませる。そして馬面の知らせに、ハオは一瞬聞き間違いかと、イヤホンを耳の穴に押し込み直した。
後ろで何かを断ち切る音に続いて、拍手と歓声が沸き、ハオの足元に切り落とされた生首が転がってきた。ハオはその生首をブーツの踵で蹴り返すと、ビアボアに歩み寄って耳打ちした。いつもは冷静なハオの白い顔が真赤に紅潮している。
ハオは腹を立てていた。通信を傍受して国や公商、あるいは同業者を出し抜いてきた自分が、通信鳥などという原始的な方法で裏をかかれたことにだ。そして、自分の蒔いた『湖宮に財宝が』という噂が、湖宮襲撃という結果を生んだことに。
ハオにとって賊業とは、塁京の国々を手玉に取りながら財をむしり取ることである。
塁京創成当時、河口の町で名だたる銭庄だったハオの一族は、塁京の国々に金を貸し付けていた。ところが建国後、塁京の二都は、揃ってその金を踏み倒した。繁栄の一途を辿り始めた二都に資金のないはずがない。それが当時、連帯関係にあった二都は、支払いを迫る父を、警邏隊を全面に押し立て追い返した。理由は明らかにされなかったが、父の銭床と、塁京二都の前身となる二つの宿郷との間に、金銭上のトラブルがあったことが原因らしい。
国家が銃を前面に立てて要求を突きつければ、個人の銭床が対抗する術はない。
父が、あくどい貸し付けと取り立てを行っていたこともあり、負債を抱えた父の銭庄に手を貸す者はいなかった。銭床は潰れ一族は離散した。
国家が個人を踏みにじる。なら、個人が国家を踏みにじることがあってもしかるべきだろう。自分は塁京の国々に復讐を誓ったのだ。そして、自分は塁京の二大国を瓦解させるために、ある方法を取った。それが塁京に麻苔麻薬を流行らせることだ。それは着々と実を結びつつある。しかしそんな悠長な方法を取る必要もなくなってきた。流入する避難民によって一気に塁京が破局に向かい始めたのだ。
それでもだ。自分はこの手で、塁京の二都を握り潰してやりたい。そう考え、二都の対立に火を注ぐために、火炎樹の入札競争を仕かけた。もちろん二都から金をふんだくる意図もあったが、本来の目的は二都を抜き差しならない対立状態に追い込むことだ。
それがまさに填った。このまま行けば、日を置かずして、バドゥーナとゴーダムの二国は、武力での衝突に突入する。国家を潰す、その最良の方法は、国家を戦争に陥らせることだ。それを、自分は鉄床島から高みの見物といけるはずだった。
そんな矢先の湖宮襲撃決行。まったくいらぬ仕掛けをしたことが悔やまれる。
蛇足以外の何物でもなかった。自分は、鉄床島で酒でも傾けながら、笑って塁京の国々が燃え尽きて行くのを見物していたかったのだ。
骨杖を握り締めたハオは、ビアボアの興奮を冷ますように、見張りからの連絡内容を伝えた。うまく行けば、湖宮襲撃を中止させる口実になるかもしれないと思ったのだ。
ところが報告を聞くや、ビアボアは大鉈を帆柱に打ちつけ、厚ぼったい上下のまぶたをカッと開いた。充血したような緑色の瞳が、ぞっとするような冷たい輝きを帯びている。
「まだら髪の新入りを、ここに連れてこい」
ビアボアの命令に、すかさず手下が新入りの腕を掴んで、ビアボアの前に連れ出す。
まだら髪の青年は、まさか通信鳥の件が露見しているとは思っていないので、何事だろうと視線を周りに這わせる。その新入りを、ビアボアが目を細めて睨んだ。人間とは違う色の血が流れているような緑の目。その緑の目が、青年の目の奥に焦点を当てる。
焼けつくような視線……。
その瞬間まだら髪の青年は、自身の脳髄が、ザラッとした舌で嘗められたような感覚を覚えた。体が総毛立つ。人の心を盗み取るとは、このことだ。
ビアボアが吐き捨てるように怒鳴った。
「いいか者ども、こそこそと俺たちのことを嗅ぎまわって、外に通報していた下郎がいた。このまだら髪だ、どうするがいい」
甲板の一同が、意外そうな目で新入りのまだら髪を見た。
が直ぐに、「首を落とせ!」という怒号と共に、侮蔑の言葉が沸き上がった。
酒と先程からの船僧への虐待で、みな異常な興奮状態に入りこんでいる。すぐにまだら髪の青年を引きまわし、交代で殴り始めた。
中の一人が、まだら髪の胸元に丸十字のロザリオを見つけた。
「こいつ、首にこんな物をぶら下げていやがった。こりゃあ、悪党だ。昔の悪党と同じように手首に釘を打ちつけて、磔にしろ」
それを聞いて、椅子に座っていたビアボアが、血脂のついた大鉈に手を伸ばした。
まだら髪をいたぶっていた者たちが、ビアボアに席を譲るように道を空ける。
ビアボアはゆっくりとまだら髪に歩み寄ると、血の滴る大鉈を、青年の顎の下に当てがい、蒼白になった顔を上に向かせた。
「連中は磔にするって言ってるぜ。おまえさんの希望はどうだ。俺は慈悲深いんだ。おまえが、どこの手のもので、何を調べていたかを話せば、さっきの船僧のように苦しまずに一思いに殺してやる」
それを聞くや青年は、殴られ膨れあがったまぶたをカッと見開き、叫んだ。
「くたばれ、悪党。おまえが地獄の業火に焼かれて、鳥の皮のようなズブズブの肌から脂が滴り落ちるのが、目に見えるわ!」
瞬間、鉈が舞った。なにかがフワリと宙を飛んで、甲板の上に落ちる。拾おうと手を伸ばした手下が、慌てて手を引っこめた。それは青年の鼻と耳だった。
「神様とやらが好きな連中は、どいつもこいつも死ぬのが好きなようだな。おい、こいつの口に雑巾を押しこめ、それから気つけ薬を探してこい、簡単に気絶してもらっちゃ困る」
一味の男たちは抵抗するまだら髪の口を押し開くと、その中に甲板の桶に引っかけてあった雑巾を詰め込んだ。いつの間にか、板と釘の用意もできている。
「者ども、磔にしたら、死なない程度にいたぶってやれ。終わったら、マストに縛りつけるんだ。明暁、景気づけに、一番に首を落として舳先に吊す。いいか、いたぶり過ぎて殺すなよ。首を落として血が噴き出ないと、つまらねえからな」
ビアボアは、怒号のような声で手下たちを一括すると、
「俺は下に下りる。眠りたいやつは眠れ、酒を呷りたいやつは呷れ。ただし、飲みすぎて足腰の立たなくなったやつは、首を刎ねる、いいな!」
どすの効いた声でそう言い放つと、ビアボアは手に握りしめていた鉈を、ガンと帆柱に打ちつけた。
「オーッ!」
甲板の上に、炎を揺るがすような歓声が響き渡った。
興奮している男たちの体からは湯気が立ち昇っている。その様子にビアボアは目を細めた。これだけ焚きつけておけば、明日の朝まで興奮が冷めることはないと見たのだ。
これで十分とばかりに、甲板から船室に下りようとしたビアボアに、ハオが歩み寄った。眉間にしわを寄せ何か言いたげなハオに、「どうしたハオ、あれでは手緩いと思うか」と、ビアボアが抑えた声で聞く。
「お頭、もしもあいつが湖宮の手の者で、今夜のことが湖宮に知れているとしたら、まずいことになるのでは……」
神経質そうな表情で意見する大番頭を、ビアボアが冴え冴えとした目で見返した。
つい今し方まで興奮して脂が浮き上がっていたビアボアの肌が、嘘のように乾いている。これがこのビアボアという男の凄いところだ。興奮状態にいながら、一瞬にして冷静さを取り戻す。狂気と正気を自在に使い分ける。凡人には決して真似のできないことだった。ビアボアがさっきまでの吐き捨てるような口ぶりとは全く異質な、抑えの効いた静かな声でハオに話しかけた。
「だったら、どうだというんだ。楽しみじゃないか、少なくとも、この船の坊主たちよりは、増しな命のやりとりができる。ハオ、俺と組んだのが運命だ、諦めて血を洗う石けんの用意でもしておけ。塁京の国なんざ放っておいても自滅する。来い、酒を付き合え」
ハオが湖宮襲撃よりも塁京二都の破滅に関心があるということなど、とうにお見通しといった口ぶりだった。もしかすると、湖宮に財宝がという噂をハオが流したことも知った上での、今回の計画だったかもしれない。
ハオは諦め、ビアボアの後ろに付き従って階段に足を下ろした。
霧にぼやけて見えないが、甲板の上から、口を塞がれ、生爪を剥がされる青年の、喉の奥を絞るような悲鳴が漏れ聞こえてきた。
ハオは耳に入れていたイヤホンを外した。どういう構造になっているのか、船室の中では全く電波が受信できなくなる。そのことに乗船してから気づいた。
その船室の中にも冷たく湿った霧が流れこんでいた。
そうして一時間……。
貨物室の荷の出し入れ口を少し開けておけば、甲板下の船室で火を焚いても煙らないことが分かると、皆、さみだれ式に船室に下りてきた。甲板にはまだ小さな火が残っていたが、最後までまだら髪の青年をいたぶっていた男たちも、気絶して意識の戻らない青年に見切りをつけたのか、あるいは氷霧に体が冷えてきたのか、足早に階段を下った。
甲板の上には、十字のウォト材に手足を打ちつけられ、縄で縛りつけられた青年が、二人の見張りと共に残された。
ほとんど視界の効かなくなった船の上で、白灯が淡い明かりを霧に滲ませていた。
次話「水上警邏隊」




