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星草物語  作者: 東陣正則
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貢朝船


     貢朝船


 シャンと春香が鉄床島を後にした時は、すでに川の流れは上げ潮に変わっていた。船頭の漕ぐ櫓の音に身を委ねながら、春香が悔しそうに指を鳴らした。

「あーあ、失敗しちゃった、あの石、安く譲っちゃったな。ついでに薬も一年分寄越せって言えば良かった」

「はは、でももしエンジン付きの鵞目船が届いたら、感謝だ。私の仕事だけでなく、窮民街でも大いに役立つ」

 後方に小さくなっていく鉄床島を振り返りつつ、シャンが不思議そうに春香に尋ねた。「しかし、いったいあの黒い石は何だったんだ。宝石には見えなかったし、とてもそんな高価なものには思えなかったが」

 川を渡る風で急に体が冷えてきたのか、春香はシャンに体をくっつけるようにして座り直すと、石にまつわる出来事を話した。そして最後に「なんだか、見る人が見ると、どうしても欲しくなる石みたいなの」と、付け加えた。

 政治の世界に足を突っ込んでいるダーナなら、もしかしたら、王位を示す貴石の印についても聞き及んでいたかもしれない。しかしシャンにとって貴石などは、関心の外。シャンは春香の話に頷きながらも、一通り話を聞き終えると、すぐにエンジン船の使い途に話を移した。

 話をしているうちに、馬頭船は水面の下にベッドのような平たい岩が続く場所に出た。上げ潮の水が、板状節理の岩棚の上を、渓谷のせせらぎのように流れていく。

 船頭のパバフが、器用に櫓を操りながら、水の流れに乗せて船を走らせる。

 幹線の水路に出ると、ちょうど建材を満載したエンジン付きの荷船が、対向するように擦れ違っていった。波でシャンたちの乗った馬頭船が大きく揺れる。

 万越群島の湖沼地帯の出口に差しかかっていた。振り返っても、後方に点在する岩山のどれが鉄床島か見分けがつかない。

 湖沼地帯からヨシ原の水路を抜けて、グンバルディエルの本流へ。

 駘蕩とした流れを、機船に牽引されて横切る。

 上げ潮に乗って上流に向かう荷船の船団が、隊列を組むように上ってくる。みな帆を降ろし、水の流れに船を任せている。風が上げ潮とは逆の、上手からの下げ風なのだ。ところが、上流に向かう船に逆行するように、上手の都の方角から下ってくる大型の船がある。

 対岸に着いて機船の牽引の綱を外すと、パバフはそのまま馬頭船をヨシの岸辺に寄せ、ロープに結んだ石を錨代わりに水の中に落としこんだ。

「貢朝船です」と、パバフが上手を仰ぎ見て言った。

 川面を見まわすと、荷船の船団や大型の廻船は、川の中央の航路を空けるように進路を移し、中小の船も含め、船という船が、なべてみな投錨したように見える。

 何が起きたのだろうと見ている春香の前で、船頭のパバフは船の中にひざまずき、下ってくる緑の水晶のような船に向かって、一心に経を唱え始めた。シャン先生も頭を垂れ、両手を合わせて、祈りの文句を唱えている。水上に停止した船の上では誰もが同じことをしているのだろう、どこからともなく、読経の声が風に乗って流れてきた。

 春香は自分だけが異邦人のように取り残された気分で、ぼんやりと四方に首を回していたが、仕方なく頭を垂れ、上目遣いに近づいてくる貢朝船とやらを見守った。

 下ってくる大型の船は、何かキラキラ光る物が浮いているように見える。

 前に貢朝船を目撃したのはバレイの港でだった。あの時は小雪の舞う夜で、しかも宿の窓から見ていたので、船の大ざっぱな形と無数に吊るされた灯りしか覚えていない。それが今、夕刻前の明るい日差しを浴びて、ゆっくりと前方から近づいてくる船は、細部までしっかりと見て取れる。

 春香の時代でいえば、車を数台乗せることのできる小型のフェリーほどの大きさだが、それでもこの世界では、最も大きな船に属するだろう。舷側の高いずんぐりとした形の船は、三本の帆柱に四角い蛇腹状の帆布を張っている。その帆布が風を孕んでゆったりと膨らんでいる。上げ潮なのに下ってきたのは、この風を利用しているのだ。

 船型よりまず目に飛び込んでくるのは、錦上花を添えるごとく輝くその色彩である。舷側や帆柱など、船のいたる所に青緑色の色ガラスが埋め込まれ、帆布にも同色のガラスの繊維が織り込まれているらしく、船全体が日の光を反射して翡翠色の輝きを放っている。まるで無彩色の雪と氷の湿地帯に、別世界の天の生き物が舞い降りたようだ。貢朝船が水に浮かぶ翡翠宮と言われるゆえんだろう。

 神々しく輝く船の舳先には、塑像のように僧官が僧衣の裾を翻して立っている。

 お伽話の中の船のように、貢朝船はゆっくりと目の前を通り過ぎていった。

「早いな、一週間後だと聞いていたが」

 祈りの文句を唱えていた先生が、顔を上げて貢朝船を見送っていた。

「荷の集まるのが早かったのでしょう、時々あることです」

 同じように頭を上げたパバフが相槌を打つ。どうやら、祈りは貢朝船が通り過ぎるまでらしい。船頭は視界の端に貢朝船が移動するのを待っていたかのように、錨代わりの石を引き上げ、櫓で船を岸から押し出した。

 また水路に櫓の軋む音が戻り、今度はその音に船頭の船漕ぎ歌も重なる。

 春香が遠ざかっていく貢朝船を振り返りながら聞いた。

「先生、前にバレイの港でも見たんだけど、貢朝船って何ですか」

 あの時はオバルが説明してくれたが、今ひとつ良く理解できなかった。そのこともあって、もう一度聞いてみたのだ。

 シャンは、しばし天を見上げた。どう話せば良いか考えている。

 宗教は、その内側にいる者にとっては空気のようなものだ。それを人に伝え広めようとしているプロの宗教人ならいざ知らず、一般の人がそれを説明するというのは案外難しい。説明する相手が子供だと、なおだ。

 シャンの説明によると……、

 今この大陸で一番力を持っている宗教は『モア教』と呼ばれる。

 貢朝船とは、各地のモア教の宗教会が、聖地に喜捨の物品を奉納するために仕立てた船のことを指す。モア教の総本山は大陸南部にあるが、それ以外にも聖地とされる場所が大陸の各地に点在、その聖地の一つ、否、聖地中の聖地が、ドバス低地南東部のセリ・マフブ山にある。

 大河グンバルディエルは、低地東部でもう一つの大河、亀甲台地から流れ出るオールベ河と合流する。その合流点からオールベを少し遡ったやや海寄りにあるのがセリ・マフブ山で、巨大なカルデラらしくその中心に湖を湛えている。

 そのカルデラ湖、ラリン湖の湖畔にある小さな島が、聖地湖宮である。

 聖地湖宮は、環状の山系のリングの切れ目、スブア峡谷を突っ切って流れるスブア川で、オールベの流れに結ばれる。それゆえ各地からの貢朝船は、グンバルディエルからオールベを経て、貢朝路の最後、スブア川を遡ってラリン湖畔の湖宮に入宮する。

 大陸各地のモア教の教区から集められた奉納品は、それぞれの経路を経て湖宮に至る。

 ひたすら陸路を辿って運ばれるものもあれば、陸路から船に積み替えられ、ドゥルー海を渡って海門地峡に至るもの。大陸南部の外洋に面した港町に寄港しながら、航路ドバス低地のデルタに入ってくるもの。あるいは砂漠を横断し、途中でディエール川の川船に乗り代えるものなど様々である。しかしどれも最後は荷を船に積み替え、ドバス低地の水路からオールベを遡ってラリン湖に到達する。

 貢朝船は、グンバルディエルとオールベの合流点の包湖で一晩沖待ちし、翌暁、オールベ河を遡って湖宮に入宮するのを習わしとしている。いま春香の眼前を下る貢朝船も、ここからさらに二時間ほど下った包湖で沖泊まりをし、翌暁湖宮を目指すはず。ちなみに春香がバレイで見た貢朝船の荷は、今はまだ子安街道を特別仕立ての角牛の荷馬車で運ばれている最中になる。

 貢朝はそれ自体が信仰の布教も兼ねるため、ゆっくりと時間をかけて行われる。そして貢朝品を運ぶ搬送の一行は、陸上を行く馬車であっても、儀礼上、貢朝船と呼ばれる。

 聖地湖宮への貢朝の儀式に参加できるのは聖職者だけであり、一般人の湖宮への参詣は認められていない。貢朝船はグラミオド大陸の各宗教区が独自に派遣するが、その時期は宗教上の祭事歴に従って決められる。各宗教区は、平均六年に一度の割合で船を派遣するが、当然湖宮周辺のデルタ地帯に暮らす人々は、大陸周縁部に暮らす人々と比べて、頻繁に貢朝船を目にすることになる。

 なお貢朝船で奉納される品は、湖宮で信仰に生きる聖者の生活を支える日常品であり、間違っても金銀財宝が送られることはない。

 各教区の経堂は、貢朝船を仕立てるために多額の喜捨を集めるが、集めた喜捨のほとんどは、行路沿いで行なわれる祭事の経費と、搬送の費用に充てられる。

 奉納するために集められた物品は、それ自体が聖なる物であり、参拝の対象となる。つまり奉納に仕立てられたキャラバン自体が、モア教の広告塔であり、動く聖堂なのだ。だからこそ人々は、貢朝船を前にした時、跪拝し経を唱える。

 霧の多い山稜に囲まれたカルデラ湖の中に、雫を落したようにポツンと浮かぶ小さな島、湖宮は、清貧と静寂を糧とするモア教の聖地である。

 貢朝は宗教上の儀式であり、奉納する物品の量も多くない。しかしこの貢朝を怠ると、その土地が災厄に見舞われると根強く信じられてきた。十年前のユルツ国の惨事は、霜都ダリアファルの半数近い市民が、未だ土着の宗教を信仰し、改宗しないことへの天の雷が落ちたのではないか、また一昨年来の大陸南部に蔓延する牛の奇病も、三年前の貢朝が遅れたためではないかと噂されている。

 春香は、ユカギルの町の経堂入口で、そして砂漠のオアシス・ギボの街角で、司経が喜捨を集めていた姿を思い出した。

 モア教の教義についてもシャンは解説を加えてくれたが、それは特定の聖人を信奉する教義ではなく、大地の再生を祈る行為自体が個人の救済に繋がるという考えのようだ。聞いているうちに、学校の授業を受けているようで、春香は目がトロンとしてきた。船の揺れ具合が、なんとも眠気を誘う。

 春香の様子を見て、シャンはパンパンと手を打つと、「さっ、今日の講義はここまで」と、話を打ち切った。

 春香は先生の体に自分の体を凭れさせると居眠りを始めた。そして起こされた時には、河岸に連なる泥とヨシの家並みが、目の前に見えていた。薬剤の散布が続いているのか、ヨシ小屋の間から白い煙が噴き出している。

 ドバス低地は元々大きな湾が干上がった場所である。湾の名称がドバス・ムイ・ジィーゴン、すなわちアンユー族の言葉で、『乳色の濃い霧の発生する土地』を意味する。

 この時期としては暖かく湿った風に、シャンが「今夜は霧が出るな」と呟いた。



次話「襲撃計画」

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