鉄床島
鉄床島
船頭のパバフが、リズムよく櫓を引く。
分水路の中ほどまで進むと、水の流れに乗ったのか、シャンと春香を乗せた馬頭船は、一気に下流に向かって下り始めた。引き潮の時間なのだ。二つの都のあるこの辺りが、海からの塩水の上がってくる最上流部で、半メートルほど干満の差がある。
三人を乗せた馬頭船は、流れに乗って川の上を滑るように移動する。
船の中央、横板に腰かけたシャンが、膝の上に分厚いノートを広げた。マフポップの作った診療所の備品台帳である。ざっと目を通しただけでも、それが几帳面にまとめられているのが分かる。マフポップは、そのぼんやりとした言動とは別に、手間のかかる機械の補修や、神経を使う書類仕事を得意にしている。これなら四百はある薬品の管理を、アヌィよりもマグに任せた方がいいかと、シャンは台帳を捲りながら考えていた。
書類をめくる手を止めたシャンに、舳先で風を受けていた春香が聞いた。
「先生、河口の湿原地帯に行くんですか」
船で遠出の往診に出かけるから付いてくるようにと言われただけで、どこへ行くのか聞いていなかった。ウィルタのお父さんがいるというティムシュタット国は、塁京の一番河口寄りにあるという。もしそこへ行くのなら、と思ったのだ。
シャンが、とんでもないとばかりに首を振った。
河口まで下ると、とても今日中には帰って来れない。
分水路を馬頭船で二時間ほど潮に乗って下ると、グンバルディエルの本流に出る。そのグンバルディエルの本流を対岸に渡り、さらに一時間半ほど下ったところに、湿地帯の中に無数の小島が散らばる水域がある。今日の目的地はそこだ。
春香は了解したとばかりに腕で丸を作ると、船の進行方向に向き直った。
淡い靄が晴れて、水路の両岸の景色が見えてきた。
この数日、先生のお供をして歩いた川岸の窮民街が一望になる。夏場の増水期に水に浸かってしまいそうな河川敷や、河岸の崩れそうな斜面にまで、ヨシ葺き土壁の小屋が張りついている。その窮民街の後ろには、塁堤がうねうねと川の流れに沿って続き、さらにその背後には火炎樹が巨大な杭を打ち込んだように並んでいる。
河岸という河岸、どこを見ても同じような光景だ。
先生と歩いている時には感じなかったが、不謹慎を承知で言うと、こうやって川の上から眺める窮民街は、まるで風と波が岸辺に吹き寄せたゴミの山に見える。
その岸辺の窮民街から、エンジンの音が聞こえてきた。
ヨシ小屋の間に漂う白い煙を見て、「薬の散布か」とシャンが呟く。
「雪虻の駆除でさ」と、船頭のパバフが相槌を打った。
先週、盤都側の塁壁内で燭甲熱の患者が見つかり、つい三日前には、飛び火をするように濠都の側でも患者が発生。それを見て、慌てて盤都、濠都の両衛生局が、都周辺の窮民街を消毒して回っているのだ。
この一週間の間、門京の烽火杭では、日に百人単位で患者が発生している。烽火杭に集積している避難民が、川を渡って対岸のバドゥーナ国側に越境しているのは、一つには燭甲熱の発生したキャンプ村から逃げだしたいからだという。
一斉散布なのか、河岸の窮民街で等間隔に白い煙が噴き上がっている。ここからは見えないが、バドゥーナ国側の窮民街でも同様の散布が行われているはずだ。一両日中には、ベコス地区にも濠都の散布隊が押しかけてくるのではと、船頭が聞きかじった情報を教えてくれた。不穏な空気が流れていても、病に関してだけは、二つの都は運命共同体で、同じ戦略を取っている。呉越同舟といったところだろう。
「雪虻は、国も身分も差別しませんからね」と、船頭のパバフが皮肉った。
この雪虻とは、燭甲熱を媒介する小型の刺し虻で、春香がフーチン号でミルコ川を下る時に刺された虻も、同類の虻である。
窮民街が水路で途切れ、河岸がそのまま塁堤に変わる。
手の届くところに火炎樹が聳え立つ。火炎樹に向けられた春香の熱い視線に気づいたのか、パバフが船の流路を岸寄りに変えた。
診療所の屋上からも、塁堤越しに火炎樹の農園はよく見える。それに、盤都から車で脱出する際に見た暗闇に浮かぶ黒い幹は、今でも強烈な印象となって脳裏に焼きついている。だから、春香としては、火炎樹の大きさは分かっているつもりだった。
しかし船の上から河岸の火炎樹を見上げると、それはとても木という範疇を越えていた。ゴツゴツとした岩のような樹肌に神柱のように直立する幹、その幹の先に密生する葉のない細かな枝。まるで地面から引き抜いた枯れ木を、逆さにして突き立てたような姿だ。姿形はタクタンペック村で見たものと同じなのだが、余りにその大きさが違う。
火炎樹の根元で仕事をしている人たちがいた。
金具を使って幹に切れ目を入れ、受け皿を取り付けて、滲み出た樹液を集める。湿地性の火炎樹は、樹液中の水分が多く、通常の火炎樹の七倍の樹液を集めて、初めて通常の火炎樹と同じ量の樹液を集めたことになる。集めた樹液は農園の各所にある水槽に入れて、ひと月ほど静置。水分が分離するのを待って、水槽の底に沈んだ樹脂を回収する。そのドロリとした樹脂分を、園の水路ぞいに設置された大型のタンクに集め、船で都近くの抽油工場に搬送。そこで抽出分離された樹脂の粗生油を、都の中にある各種の加工工場で、燃料用の精油から、食料の餅、薬、ウォト材、果ては道路の舗装用のタールブロックにまで加工するのだ。
どこまでも広大な柱の列が続いている。
地面がぬかるみやすいこの地では、樹液を搬送するための馬車道や軽便鉄道を敷設できる場所は限られる。そのため勢い搬送は人力に頼ることになる。
今も樹液の入った油樽を背負い子に乗せた肩夫たちが、巨大な幹の横を足を踏みしめ歩いている。満杯にすれば一樽四十キロのウォト製の油樽である。夏は泥に足をすくわれ、冬は凍った地面に足を滑らせての作業になる。それでもその仕事にありつける人はまだ恵まれている。農園の仕事にさえ出れば、労賃以外にも様々な恩恵があるのだ。
樹肌の傷口から滴たり落ちる樹液とは別に、古い傷跡には琥珀色の樹脂が瘤のように盛り上がる。かき集めて融かし芯を入れて成型すれば、ロウソクとして売れる。大陸全土で祈りの際に灯されるロウソクがこれで、火炎樹農園の仕事に出ている窮民街の面々は、皆その瘤を剥がし、ポケットに忍ばせ、持ち帰ってはロウソク作りに励む。ささやかな役得である。
霧も完全に晴れ、春香は目の前に展開する火炎樹農園の風景に見とれていた。
備品台帳から顔を上げたシャンも、久しぶりの開放的な外の空間に、両腕を広げて背伸びをした。
シャンがこの地に診療所を開設して、はや八年。いま目の前に広がる農園は、開発が最後に行われた地区になる。当時人の背丈ほどだった幼木が、今はもう辺りを睥睨するほどの巨木に立ち上がっている。月日の流れを感じて、思わずため息をつきたくなる。
かつて満都では、赤ん坊が生まれると、記念に火炎樹の苗を一本植えたという。子供が成人する頃には、火炎樹も成木となり、人の人生と同じ六十年に渡って樹液を流し続ける。その樹液で子供は飢えと寒さに震えることのない一生を送れる。
比較して湿地性の火炎樹は、木の背丈こそ往年の火炎樹を彷彿とさせるものがあるが、幹幅は細く、樹液を採取できる期間は半分の三十年、生産される樹油の積算量は二十分の一にも満たない。それでも単純に計算すれば、十五本の火炎樹で人一人に、満都時代と同じ生活を保証できる。贅沢をせずに生きていくのに必要なエネルギーと食料を賄うことだけを考えれば、この地に植えられた火炎樹で、約三百万の人が生きていける。
今このドバス低地内の塁堤に囲まれた八つの国に、居住権を持つ正規の住人が百三十三万、河岸の窮民街の住人が百六十万。塁堤の外側を取り囲むように、各地からこの地を目指してきた避難民が二百十万、都合五百万を超える人間がひしめいている。
どこに生きていくための活路があるだろう。それを思うと気持ちが萎えてくる。
塁堤の上に銃を構えた制服姿の人がいた。
農園と農園は無数の排水路によって区画されている。それをつなぐ橋や船着場などの要所には、警邏隊あるいは水上警邏隊の駐屯地が設けられている。不法に樹液を採取する輩を取り締まるためだ。
先にも述べたように、農園の仕事に有りつける者は限られる。窮民街で食える仕事とてたかが知れている。そのため、喰いつめた連中は、夜間、警備の隙を縫って、椀に溜まった樹液を盗もうとする。また最近では、火炎樹を切り倒して幹の中に蓄えられた樹脂をごっそりと持ち去る、窃盗まがいの集団も出没するようになった。
バドゥーナ国のラビス郡への侵入だけでなく、塁京の周縁各所で避難民が船を強奪、川を渡り、監視小屋を焼き払い、原油の貯蔵タンクを襲うという事件が頻発しているのだ。今のところ、塁京中部から下流域は静穏を保っている。だが外からの避難民だけでなく、永年この地で暮らしてきた窮民街の人々の内にも、鬱屈した思いはある。それが煽られ、何時火がついても可笑しくなかった。つい先程、イゴーの主人から各地で頻発している焼き討ち騒動の現状を聞いたシャンは、暗澹たる思いにかられた。
俯き考えごとに耽り始めたシャンが、春香の歓声で顔をあげた。
春香が舳先から身を乗り出し川岸を指している。
土塁の上に敷設された物資搬送用の線路を、樹液を回収するタンクを積んだ軽便鉄道の貨車が、列をなして通り過ぎようとしていた。貨車を引いているのは、機関車ではなく牽引型の自走車、春香が運転して川面に突っ込んだアレと同じ車だ。
春香が声を上げたのは、その牽引車両のすぐ前方を、足踏み式の保線巡回車が走っているからだ。保線巡回車とは、自転車のようにペダルを漕いで線路を走る人力車両である。見ていると、エンジンで走る車にはかなわないのか、徐々にその間隔が狭まっている。
それでも追いつかれるかと思えば、巡回車の二人の保線工員が、必死になってペダルを漕ぐので、また間が開く。貨車の荷台に便乗している作業員たちが野次を飛ばすので、機械に負けじと二人も意地になって巡回車を走らせる。
それでも、やがて一人が力尽きてペダルを漕ぐのを止めたために、ほどなく二人乗りの保線巡回車は、牽引車両に後ろから押される形になった。
春香たちの馬頭船の真横を、軽便車両とそれに押された保線巡回車が通り過ぎていく。トロッコに便乗している人たちの中に、船の上のシャン先生に気づいた者がいたのか、先生の名前を呼んで手を振る。先生が手を振り返すと、トロッコのそこかしこで手袋や手拭いが揺れた。そうこうするうちに、軽便車両は前方の水路を迂回するように、土手を左に遠去かり、こちらの馬頭船も川岸を離れた。
火炎樹農園の間の水路が一気に広がる。
火炎樹の農園地帯を過ぎて、川の両岸は一面の薄茶色に立ち枯れたヨシの原に変わった。綺麗さっぱりと刈り取られ、何もないのっぺりとした雪原の泥地もある。ただ河岸だけは護岸の意味もあってか、一定の幅でヨシが刈り残されている。
ヨシの岸辺でカゴを引き上げている人たちがいた。潮の動きに合わせてヨシの間にいる魚やカニが水路を移動する。それをヨシのカゴ罠で捕っているのだ。カニが小さなヨシ船の中でモゾモゾと動き、背後で枯れたヨシが、雪と氷に埋もれるようにして風になびく。
船頭のパバフが、船を川の本流に戻し、船の進みが加速する。
川を下っていると、思いのほか船が多いことに気づく。
一番たくさん見かけるのは、河岸で釣りやカゴ漁をしているヨシ船で、春香が今乗っている手漕ぎの馬頭船は、網株の権利を持った漁師たちが使う船になる。この馬頭船より二回り大きい横幅のある荷船が双満船で、水路の中央を逆三角の帆を張って行き来している。そして水上に浮かぶ二本柱の帆船が、大型の荷船、廻船だ。そういった船の合間を縫って、数は少ないが双満船クラスの船が、エンジン音もけたたましく波をたてて走り抜ける。塁京二都の警邏艇である。
その警邏艇も、分水路沿いのヨシがほとんど刈られていない地域まで下ると、ほとんど見かけなくなった。目にするのは大型の廻船が中心である。
前方に、クルドス分水路を抜けた先の海のような水面が近づいてきた。川幅三キロほどのグンバルディエル本流である。ここで馬頭船は、河中に停泊している機船にロープをつなぐ。手漕ぎの船でグンバルディエルを渡る際、急ぎの場合は機船に曳航してもらうのだ。船を渡す渡し船である。機船に引かれて、分水路からグンバルディエル本流へ。
グンバルディエルは大河の割に、川幅はそれほどでもない。しかし水深は深いところで二百メートルを超えている。
そして対岸。ヨシの草原の続く河岸がどこまでも続いている。
そこからさらに一時間、引き潮に乗って船は下り、やがて対岸の水路の一つに入った。
曲がりくねった水路をさらに半時間、広い湿原の中に、だだっ広い湖面が見えてくると同時に、また行き交う船が増えてきた。
浅い沼のような湖に、大小の岩山が水の中から顔を覗かせている。沼湖地に岩山が島のように点在する場所が、ドバス低地には何カ所かある。大きな岩山がどれも頂上が平らなのは、昔そこが珊瑚礁であったことの証しである。
シャン先生と春香を乗せた馬頭船は、湖や沼の中に数千の岩や岩山が散らばる万越群島と呼ばれる地域に入った。ほとんどは無人の岩山だが、島によっては石積みの小屋や倉庫が建っている。この万越群島の岩山は、主に荷船業を行う人たちが、物資を保管する倉庫場として利用していた。
先生に指摘され、春香が水面に指先を浸してなめる。かなりしょっぱい。この辺りでは、真水の手に入りやすさが、岩山で住めるかどうかの分かれ目になる。ある程度の軒数家が建っている岩山は、間違いなく岩山のどこかに水場があるそうだ。
「さて、午後の診療先が見えてきたぞ」
シャンが視線を向けた先に、湖に浮かぶ逆台形の島があった。
そこが今日の往診先だ。
岩壁の反り返った逆台形型の島は、鉄床島と呼ばれる。だが特徴は島の形よりも、岩山が中央でスパッとナイフで切り分けたように、二つに分かれていることだ。
鉄床島の裾に張り出した平たい岩に、鵞目船、船の舳先に目玉模様の描かれた小型の荷船が横付けしていた。菰の下に見え隠れしている大きなエンジン、それに補強された舷側、特別仕立ての船らしい。パバフはその鵞目船の横に馬頭船を寄せた。
馴れた動作でシャンが舳先から岩の上に飛び乗る。春香も後に続くが、濡れた岩の表面に足を取られ、先に上陸した先生に腕を掴まれた。岩の上が海藻でヌルヌルしているのは、岩が満潮の時には水面下に沈むからだ。
桟橋代わりの平たい岩の先に、反り返った岩を庇にして、倉庫が数軒並んでいる。その倉庫の錆の浮き出た扉が開いて、男たちが三人、二人を出迎えるように姿を見せた。
男たちを見て、思わず春香は先生の後ろに体を隠した。
頬に刺青を入れた男、額に十文字傷のある男、腕の先に鈎針を付けている男、三人の誰をとっても、全うな人生を歩んだことのなさそうな顔をしている。
シャンが軽く手を挙げ「ボスは」と、刺青の男に声をかけた。
「ボスなら、いつもと同じ、天国に一番近い部屋でさ」
刺青の男が親指を上に向けた。岩山の一番高い場所にいるということだ。三人の中では、この刺青の男が力を持った立場らしい。
「地獄から一番遠い部屋ってことね」
シャンが笑って切り返した。
刺青の男、ビアボア商会の中頭のボッシュが、先に立って歩きだした。倉庫の裏に岩の裂け目が口を開け、その裂け目に沿って急な階段が続いている。十文字傷は船番として下に残ったようだ。刺青のボッシュと鈎腕の男に前後を挟まれるようにして、階段を上がる。
足元に気を配りつつ、シャンが、この岩山が何であるかを春香に説明する。ここは昔海賊をやっていた連中のアジトなのだ。
「海賊!」と、思わず大きな声を出して、春香は慌てて口を押さえた。
「大丈夫、賊業は休業中、今は裏稼業の商売に精を出しているということだ」
「裏のって?」
声をひそめて聞く春香に、シャンがあっけらかんと言った。
「武器や密輸品の横流し。この万越群島の一帯には、そういう怪しい荷を扱う連中がごまんといるの。悪党の巣窟と言ってもいいわね」
鈎腕の尖った耳が、シャンの話に合わせて、動物の耳のようにピクピク動く。
鈎腕がシャンの話を補足するように続けた。
「裏稼業の最近の一押し商品は、人間の乾した肝臓でしてね、薬の原料としてやたらいい値で捌けるんでさ」
前を行くボッシュが「そうそう、ちょうどそのお嬢さんくらいの女の子の肝臓がいい値で売れる」と、笑いながら合いの手を入れる。
「こらっ、うちの助手はまだ新人なんだ、あまり怖がらせないでくれ」
シャンが冗談もほどほどにと、ボッシュの背中を小突いた。
「へへ、嬉しいですね、怖がってくれる助手ってのは。あの鳥に育てられたって娘は、生首を見せてもケロッとしてましたからね。こっちがせっかく驚かそうと思って、苦労して塩漬けにして保存しておいたのに、全くの、くたびれ儲けでさ」
春香はもう何も言わず、シャンの横にぴったりとくっつくようにして階段を上がった。洞窟は枝分かれを繰り返し、場所によっては刳り貫かれて部屋のようになっている。梯子や行き止まりの壁や中空の階段、頑丈そうな扉に、鉄格子の入った牢まである。岩そっくりの隠し扉を抜けると、そこは天然の鍾乳洞のホールで、密輸の品なのだろう、頑丈に梱包された箱がうず高く積み上げられていた。
そのホールの奥で、発電機らしきものが軽快な唸り音をたてていた。以前春香がオアシス・ギボの湖水堂で見た、樽のような匣電も並んでいる。
春香の視線に気づいたボッシュが、学校の教師のように能弁を垂れた。
「古代、電気は産業の米って言われたそうだが、ここじゃ悪事の肥やしなんだな」
「電気にプラスとマイナスがあるように、人には善悪の表裏ありってね」
鈎腕が嬉しそうに耳をピクピクと反応させた。
ホールから、また狭い横穴に戻る。ボッシュはホールに残り、案内が鈎腕だけになった。
曲がりくねった階段が、天井の高い空間で行き止まりに。鈎腕が壁の窪みにあるウインチを回すと、目の前の壁がギシギシと音をたてて前方に傾き、やがて倒れた壁が、そのまま鉄床島の二つの岩山を中空でつなぐ橋となった。水路が遥か下に見える。いつの間にか三人は、岩山の頂上近くまで上がっていた。
どうぞとばかりに、鈎腕が橋を渡るよう促す。
眼下に目を落としたシャンが、「今日はやけに、いろんなところを通ったな」と、感想に皮肉を込める。
「かわいいゲストがいるんで、サービスでさ」
「ありがとう、堪能したわ」
春香は気丈にそう答えたが、足が小刻みに震えて止まらない。高いところは苦手なのだ。
それを見た鈎腕が、また嬉しそうに耳をピクピクと動かす。
「そんなに喜んでもらえるなら、あそこも見せたかったな。そうそう獄門部屋を改装したんだ。診察の帰りにでも、ぜひ覗いて行って下せえ。昨日一人苛めたところなんで、床に血糊が垂れてますぜ」
「私は医者だ、血糊は見飽きてる。それに今日は急ぎだ、観光は今度でいい」
賊の遊びにそうそう付き合ってられないとばかりに、シャンは呆れ顔で突き放すと、春香の手を引いて橋を渡った。鈎腕がいかにも残念そうにシャンに呼びかけた。
「先生、本当にいい部屋なんです、拷問の責め具もいろいろあって飽きないですぜ」
シャンは鈎腕を無視するように狭い階段の上を見透かすと、春香に耳打ちした。
「こういうところに出入りしていると度胸がつく。これは私にとってのビジネス。あの窮民街ではとても診療代など当てにできないから、どこかで診療所の設備を維持したり、薬を買ったり、自分が食べていくためのお金を稼がなければならない。その貴重な金蔓の一つがここ、私は鉄床島を根城にしている裏商人のボスの主治医をやっているの。
裏稼業に精を出してる連中の健康を支えるのもしゃくだけど、世の中理想だけじゃ生きていけない。春香も診療所での私を見て、私のことを天使かなんかみたいに思ってもらうと困るから、早目にここに連れてきたのよ」
早口で説明すると、シャンは春香の肩に手を置き言い聞かせた。
「ボスには鞄持ちを連れて行くと伝えておいたから、緊張しないで社会勉強のつもりで付いてきなさい」
階段を上りつめた部屋の前に、帚を持った三色髪の青年が立っていた。髪をピシリと左右に分けた三色髪の青年は、シャンを認めるや、裏商人らしくないキリリとした態度で扉をノックした。
「ボス、先生がお見えになりました」
中から喘ぐような声で「入ってもらえ」と声が返ってきた。
鈎腕が扉を開ける。
と二人が部屋の中に足を踏み入れたとたん、「女、女、女……」と、金切り声が鳴り響いた。ギョッとして音の方を見ると、入口横の台の上で、首から上だけの豚の置物が、鼻をヒクヒクさせながら叫んでいる。生きた豚そっくりだが、後ろ半分は皮膚が透明で、中の機械が透けて見える。人工の皮膚を被せた機械仕掛けの人形だ。
古代の遺物から様々なセンサーが見つかっている。熱や振動など物理的な現象を捉えるものから、大気中に漂うほんの数個の粒子をキャッチする分子センサーまで、千差万別。
二千年の昔、センサーの利用と用途の幅は、無限といって良いほど広がっていた。
ヒトを識別するセンサーも多種開発され、その中に、ヒト個人の臭気パターンを識別するセンサーがあった。それを利用したお遊びの道具として、ある機械が商品化された。玄関脇に置いて、帰宅した亭主の体についた匂いを分析するという装置だ。当初は、ユーモアロボットとして売り出されたが、実際は相当リアルな使われ方をして、何度も週刊誌にネタを提供することとなった。今、けたたましく叫び声を上げている悪趣味な豚鼻ロボットも、おそらくはそういったものだろう。
「浮気、浮気、誰だ、誰だ……、慰謝料、慰謝料……」
うるさく叫び続ける豚鼻ロボットを見て、鈎腕が慌てて台についたスイッチを倒した。
「私が来る時は、スイッチを切っておいてくれと言っただろう」
シャンが憤慨したように部屋の中に声をかけると、「悪い、この頃、物忘れが酷くてな」と、ねっとりとした声が返ってきた。
見ると、部屋の中央に置かれた鉄の棒に、ぜい肉の塊のような男がぶら下がっている。戸口に背を向けているために顔は見えない。が、短いシャツのために、顔に代わって腹周りのだぶついた肉がお目見えしている。
鈎腕の男はその肉の塊に兵隊のように一礼すると、そそくさと部屋を出て行った。
その鉄の棒にぶら下がった男、細い腕がブヨブヨした体を支えている姿は、なんだかカエルが万歳をして、草の茎にぶら下がっているように見える。
ボスと呼ばれたカエル男は、胴体に埋もれた首をグリッと回すと、「そこの椅子にでも腰かけてくれ」と言って、やおら数を数えだした。
「六十四、六十五……」
思ったよりも腕力があるのか、それとも膨らんだ腹の中身が空なのか、カエル男は涼しげに数を数え続ける。
カエル男の後ろ、壁の棚に並べられた様々な物が、目に留まる。塑像、絵画、貴金属、値の張りそうなものばかりだ。カエルの置物ばかりを収めたガラスのケースもある。
その美術品の後ろ、岩壁を削り取って填め込まれた窓越しに、岩山の外で舞う鳥が見えた。燕のような細身の鳥だ。
八十八まで数えると、カエル男は手を離した。床からほんの指一本分くらいしか離れていないのに、床に落ちるとドサッと大きな音がして、腹周りの脹らみがプリンを皿に落とした時のようにブルンと揺れる。
カエル男が額の汗を拭いながら、こちらを振り向いた。
厚ぼったい目で、ジャバラのような瞼を細めて物を見る様は、カエルが餌の虫を捕らえる時にそっくりだ。思わずゾクッとして背中に電流が走る。
「お前さんが新入りの助手かい」
「あっ、はい」
緊張した声で返事をする春香に代わって、シャンが保護者のように一歩前に出た。
「見習い中だ、社会勉強の最中といってもいい、名前は春香だ」
「へへっ、社会勉強をするには、いい場所だぜ。なんせここは社会の裏窓だからな」
嬉しそうに言うと、カエル男は、机の上にあったコップの水をズッと吸い上げた。
「俺はビアボアだ、よろしく頼むぜ、お嬢さん」
カエルそっくりの体形のビアボアが、丈の短いシャツと下衣を脱ぎ捨てる。春香は慌てて視線を窓の外に移した。
湖と沼と岩山が混じり合って広がる万越群島の向こうには、つい今しがた下ってきたグンバルディエルの本流が、湿原を大きく二分するように横たわっている。
身を固くしてじっと窓の外を見ている春香をよそに、シャンは慣れた手つきでビアボアの体を診察し始めた。聴診器を胸に当て、脈を取り、血圧を計る。
採血のための駆血帯を腕に巻きながら、シャンがビアボアに話しかけた。
「ビアボア、あなた、バドゥーナ国とゴーダム国の双方に武器を卸して、値段を吊り上げてるって言うじゃない。あまりあくどい商売をやってると、いくら健康に注意したって、そのうち地獄からお呼びが掛かるわよ」
ビアボアがヒッヒッという吸い込むような笑い声を上げた。
「先生、商売ってのは元々あくどいもんなんでさ。人が汗水垂らして作った物を、右から左に動かして金をふんだくるんだからね」
「それをさらに掠め取るのが、あんたたちでしょう」
医者は医者というだけで患者よりも優位に立つ。普段の関係ならとても言えないようなことでも、医者であるが故に口にすることができる。言われる側も、意外と歯に衣を着せぬ言い方をされると、それを心地よく感じてしまうものだ。今のシャンとビアボアは、立場の逆転したカエルとハエのような関係だった。
シャンは採血用の注射器を取り出すと、正直に言いなさいとばかりに、ビアボアのヌメッとした肌に針を突き立てた。柔肌の赤ん坊は血管を探すのが難しいが、ビアボアの肌理の細かい皮膚も血管が分かり難い。針を刺そうとすると、皮膚の下で血管が自由に逃げ回るような不思議な感覚がある。慣れるまでは、シャンもなかなか針が静脈を捕えられなかった。
「先生、今日は一発で的中だね」
面白そうに言うビアボアの前で、シャンはゆっくりと注射器の管を引き上げた。
「ビアボア、あんたが臨時に健康診断を頼む時は、決まって大仕事を企んでいる時よね。どうなの、また何か良からぬ事を考えてるんじゃないの」
ビアボアは直ぐには答えず、針から吸い取られる自分の血を見ていた。まるでタコのように青い血でも出てくるのではと心配気な目つきだが、赤い血が管の中に逆流し始めたのを見てほっとしたのか、長い舌をべろりと出して口の回りを湿らせた。
「まいったな、先生にゃ、今度のは殺しの絡むような仕事じゃねえんだ。海賊の夢でさ、ロマンといってもいい」
「あなたからロマンなんて言葉を聞くとは思わなかったわ」
「先生、あっしにだって、赤ん坊の時代も、ボーイの時代もあったんですぜ」
「悪魔に天使の時代があったと言うようなものね」
さすがに、ビアボアもその言い方に口元を歪め、「まったく、俺にとっちゃ、その天使の頃からの夢なんでさ」と、懺悔の告白でもするかのように言った。
ビアボアの話に耳を傾けつつ、シャンは採血した血をガラスの小瓶に取り分け、試薬を注入して反応を確かめる。
このぶくぶくに太った裏商人のボスは、どうひいき目に見ても悪いところがありそうな体をしているのだが、検査の結果はいつも健康そのもの。見た目は極度の肥満体でも、全体としてみればバランスが取れている。
悪事をやる連中にも二通りのタイプがある。どこかで後ろめたさを感じながら悪事を働く者と、悪事をやるのが楽しくて仕方のないタイプの二通りがだ。さしずめこのビアボアなどは後者の典型で、ガキがいたずらをやるように悪事を楽しむ。楽しいことをやっている人間がストレスを抱えるはずもない。よって健康になる。
シャンは結果を診断書に書き込みながら、「悪事を働くには、健康すぎるくらいだな」と、大袈裟な口ぶりで言った。
ビアボアが体に似合わない笑い声をあげた。その意外なほど可愛い声に、思わずシャンが鞄から心電図の測定器を取り出す手を止める。
その時、入り口の扉が開いて、手下らしき者が一人、部屋の中に駆けこんできた。
「ボス、貢朝船が、予定よりも早く、明日、入宮するそうです」
息を切らせながら喋る太い声は明らかに男、ところが姿は黒い長尺のドレスを着込み、結い上げた黒髪には深紅の髪飾りが差してある。化粧をした顔は明らかに女だが……、
とまた豚鼻が「女、女、……浮気、浮気……」と、わめきだした。
入口に立っていた男声の女が、豚鼻のスイッチを拳で押し叩くと、「うるさい俺は男だ。いい加減に覚えろ!」と、癇走りした声を張り上げた。
興奮した手下をジロリと睨むや、ビアボアが「客のいる席だぞ、ノックぐらいして入れ!」と、重石の聞いた声を響かせる。
言われてシャンの姿に気づいたのか、「あっ、先生でしたか、これはどうも」と、男声の女が慌てて腰を低くした。
「下に行って手下どもをホールに集めておけ」
バスローブを手に取り、さっさと行けと手を払うビアボアの前で、男声の女がドレスの裾をふわりと広げて背を向ける。
その時だった。春香が「アアーッ!」と火柱の立つような声を出した。
春香は、さっきからその太い声の女をどこかで見たことがあると感じていた。外見は女性だが、声や手足の太さからして中身は男性。きっと女装をしているのだとそう思い、服装を見ないようにして、顔だけに意識を集中。しかし思い出せない。思わず眉をしかめて目を閉じた春香の鼻に、特徴ある噛み煙苔の香りが匂った。
その匂いが名前を蘇らせる。春香が弾かれたように叫んだ。
「あなた、あの丸眼鏡の商人、火炎樹の種を運んでいた人よね。確かグリビッチって名乗ってた。わたしの大事な石を返してよ」
ドアの前で足を止めた男声の女が、ゆっくりと振り向き、声の主に目を向けた。
懐から女物の眼鏡を取り出し、もう一度声の主の少女を確かめると、「はて、俺には、こんな小さな友人はいないが」と、とぼけたように首を傾げた。
探りを入れるようなその顔は、春香の記憶にある反り上がった眉と、鰓のような顎ひげをたくわえた丸眼鏡の商人とは、まるで違っている。しかし春香は、ドレスのバンドから垂れた鎖に目を止めるや、相手を追い詰めるように指摘した。
「だったら、その鎖の先にある懐中時計を見せてよ。竜頭の先端に藍玉が埋め込まれているのを、薬売りのラジンさんに自慢してたでしょ」
女装したグリビッチの腕がわずかに反応、口元に薄ら笑いが浮かんだ。
「どこで会ったかな。こちらは、その薬売りとやらにも、とんと覚えがないが」
「しらをきるの。人を騙して荷物を運ばせて、おまけに、人から貰った大事な石まで引ったくって。返してよ、あの石、宝石なんかより、もっと貴重な石なんだから」
「石ねえ……」と、女装のグリビッチが、まるで心当たりがないように首をひねる。
その時、二人のやり取りをじっと見ていたビアボアが、シャンと話していた時とは全く別の、腹に響く声を女装のグリビッチに叩きつけた。
「おい、グリッチ、その石とやらを見せてみろ」
不意打ちを食らったように、「いや、それは……」と、グリビッチが言い淀む。
瞬間、ビアボアが、だぶついた体に似つかない早さで手首を動かした。
カッと拍子木で板を叩くような音がして、グリビッチの横の柱に、細い金属の針が突き刺さった。ビアボアが子分たちに恐れられているのは、体形に似合わぬ俊敏さと、隠れた技からである。ビアボアは針刀の名手だった。どこに隠し持っているのか分からないが、相手が身構えた時には、手の平ほどの長さの針が、相手の心臓目掛けて投げつけられている。外すのは威嚇の場合であって、狙って外れることはないという。
「四の五の言ってないで、見せろ、持ってるんだろう」
頬に触れるほどのところでビリビリと揺れる針に、グリビッチは顔を反らせたまま、慌ててドレスのポケットを探った。中から黒い石が出てきた。
「あーっ、ありました、これでさ、ボス」
怯えた表情を押し殺して、グリビッチがビアボアに石を差し出す。表面のコーティングが磨き落とされて、格段に黒くなった例の石だ。
ビアボアはそれをヒョイと摘み、手の平に乗せて転がすと、春香に向かって「お嬢さん、この石に違いないかな」と、優しげに聞いた。
「ええ、割れた部分の形からしたらそうね。もっとも、わたしがその男に盗られた時は、そんなに磨いてはなかったけど」
ビアボアがカエルのように目を細めて、春香に話しかけた。
「どうだいお嬢さん、これを俺に譲ってくれないかな。もちろん、失礼な手下には謝らせるし、それ相応の謝礼はするぜ」
バーコード頭の店主とのやり取りから、春香はこの石が高価な物に違いないと確信していた。裏商人のボスが、シャン先生にきちんと礼を尽くした対応をしていることからしても、自分を脅して強引に取り上げるようなことはしないだろう。あわや丸焼けにされるところだったのだから、この女装の男、グリビッチ、ここではグリッチと呼ばれている男に、一泡吹かせてやりたいとは思う。でも自分としては、石を取り戻すことに、それほどこだわりはない。それよりも、石を上手く何かに役立てられないか……。
さも譲りたくなさそうに、春香がすねた声を出した。
「でもその石、すっごく貴重なものなの。それに大切な人から貰ったものだから、生半可なことじゃ譲りたくないわ」
「ハハハ、生半可か、こりゃあいい」
笑いながらビアボアが冗談めかして、「それは人の命よりも高いものかな」と聞く。
一瞬答えに詰まったが、すぐに春香は「同じくらい貴重なものよ」と、言い切った。
「分かった、じゃあ、命で支払うから受け取ってくれ」
軽い調子で言って、ビアボアが柔らかなゴムのような体を一揺れさせた。
その瞬間、シャンが「だめっ!」と鋭い声を発して、ビアボアの手首を掴んだ。
女装の男が部屋に入って来た時から、シャンは一歩引いた態勢で目の前の三人、特にビアボアを観察していた。ビアボアが針刀打ちの凄腕の持ち主であることは、以前から聞き及んでいた。それが今回、自分が気づいた時には、すでに針刀はビアボアの左手に握られ、グリッチの横の柱に向かって投げつけられようとするところだった。
自分は裸同然のビアボアを診察していたのだ。断じてビアボアが針刀を持っていたはずはない。では投げた針はどこに隠してあったのか。もしかすると、もう一度ビアボアが針刀を投げる瞬間が訪れるかもしれない、そう思ってシャンは、ビアボアの一挙手一投足を、気配を殺して注視していたのだ。
そしてその瞬間を目撃した。針は隠されていたのではない、いや正確には隠されていたといってもいいのかもしれない。それはビアボアの手の平から湧き出るように伸びて、シャンがエッと思った時には、針刀は左手にしっかりと握られていた。
グリッチは蛇に睨まれたカエルのように、ビアボアを見つめたまま微動だにしない。
もしかするとビアボアの目は、相手を金縛りにしてしまうのかもしれない。カエルに似ているなどというのは全くの嘘、カエルの仮面を被った蛇だ。自分がビアボアの手首を掴まなければ、針刀はグリッチの目か心臓に向けて投げつけられていたろう。
シャンは裏商人の根城に来て、初めて恐怖を感じた。ただそれでも顔色を失くしそうになる気持ちをおくびにも出さず、目の前の蛇に言い寄った。
「勘弁してくれ、ビアボア、医者の前で人を危める気か」
耳元でそう言われたビアボアが、いたずらを見つかった少年のような顔つきに戻った。
いつものカエル顔をシャンに振り向けると、「へへ、わしの左腕はどうにも短気でな」と、懺悔でもするように構えた手を下ろした。
握られていた針は、もうどこにしまわれたのか見えない。きっとまた手に吸い込まれたのだろう。ビアボアのブヨブヨの肉は、その実、針の貯蔵庫なのかもしれない。
ビアボアがシャンに視線を向けたことで、グリッチは金縛りが解け、膝が砕けたように体を傾けた。このビアボアが、荒くれ者の中で頭として恐れられているのは、針刀の技と、相手を射抜く目からだ。小頭のグリッチ自身も、そのことを噂では聞いていたが、自分がその対象にされるとは想像もしていなかった。
ビアボアが冗談とも本気ともつかない声音で言う。
「命くらいここじゃゴロゴロ転がってるんでな、命で譲って貰えるなら、安い買物ができると思ったんだが……」
「冗談ばかり言ってると、怪我をしても診てやらんぞ」
教師のように叱りつけるシャンに、ビアボアは手揉みをすると、窓際にいる春香に向かって物は相談とばかりに話を持ちかけた。
「なあ、お嬢さん、どうだろう。俺は欲しいものは、どうやっても手に入れる主義だ。お前さんがこれを持っていれば、お前さんの首を捻ってでも、手に入れようとする。理屈じゃ殺しは人の道に外れたことだと分かっていても、この左手が勝手にやっちまうんだ。でも、あんたは先生の助手、鳥の首みたいに捻りたくはない。そこで相談だ。ただとはいわん、命以外で欲しいもの、この部屋にあるものと交換しないか。どれも命の十や二十、たっぷりと血を吸ってる掘り出しもんばかりだぜ」
春香は震えそうになる体を押さえながら、部屋にあるものに目を走らせた。
窓際に置いてある螺鈿細工を施された巨大な遠眼鏡、小ぶりながら宝石をちりばめた水差し、ブロンズ像、王冠、部屋中美術館のような品々が並んでいる。春香はなるべくビアボアに目を合わせないようにしながら、それでもはっきりとそれを口にした。
「分かったわ、でもこの部屋にあるものなんかより、わたしは下の水路に留めてあった船が欲しいの。あの目玉の絵を描いたエンジン付きの船よ」
意外な注文に、ビアボアがブルンと体の肉を震わせた。
「特注のエンジン付きだが……、あれが欲しいのか」
「そうよ、先生の診療所には、いろんな患者さんが来るけど、足を運べない患者さんも多いの。先生の方から往診に出向く時に、あの足の速そうな船があればすっごく役に立ちそうだもの」
「それに」と言って、春香はビアボアの顔を覗き込んだ。
「あの船があれば、ビアボアさんが悪事の報いで怪我をしたって、先生がすぐに飛んで来られるわよ」
ビアボアが「ヒヒヒ」と、息を吸い込むような笑い声をたてた。
ビアボアよりも先に、シャンが二人の会話に割って入った。
「春香、あれは燃料が高くて、診療所ではとても使えない」
間髪を入れず「燃料もたっぷりつけてね」と、春香が続けた。
ビアボアの息を吸いこむような笑い声が、部屋中に沸き立つ。ひとしきり笑うと、ビアボアは手揉みをしながら太い首を縦に振った。
「いいだろうお嬢ちゃん、燃料もたっぷり一年分はつけてやろう。しかし、この数日はどうしても使う用があるんでな。それが済んだら整備して診療所に持っていってやる」
ビアボアは、体の調子を計るように手の関節をパキポキ鳴らすと、紙にペンを走らせた。そして大ぶりのカエルの印をポンと押すと、春香にその紙を差し出した。何かと思えば、石と船の交換を確約する証書だった。
裏商人と言えど、商人ではあったようだ。
次話「貢朝船」




