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星草物語  作者: 東陣正則
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点福様



     点福様


 塁京の周縁部は騒然とした状態に陥っていたが、グンバルディエルの本流沿いや、塁京の二都は静穏の内にあった。それは二つの都に挟まれたクルドス分水路沿いの窮民街も同じで、診療所のあるベコス地区でも普段と変わらぬ生活が営まれていた。

 この時代、人々の暮らしは宗教と共にある。一日二十四時間、一年三百六十五日、暮らしのリズムは、日に四回、あるいは五回の読経と、年間二百にも及ぶ祭事によって刻まれている。信奉する宗教に関わらず、二日に一度は何らかの宗教的な儀式が執り行われるというのが、この時代を生きる人々にとって、当たり前の事だった。

 都や囲郷では経堂で、小さな集落では読経所で、移動を糧とする民は携帯用の祠の前で、それさえない人々は赤い経札の前で経を詠じた。

 そして、河岸の窮民街……、

 窮民街とはいえ都創建当時からの古い歴史を持つベコス地区には、例外的に読経所が設置されている。ただ場所が集会所のある西寄りではなく、反対の東側になるため、集会所周辺の住人は、読経所に町の助経師が顔を見せる日以外は、集会所横の祠の前で手を合わせる。その祠、集会所に寄り添うように作られた人の背丈ほどの祠の中には、経札や薫苔用の壺、手鐘などと共に、赤ん坊の胴体ほどの睡木が置かれている。木目の形が人の目鼻立ちにそっくりの、何とも微笑ましい表情をした人面木である。

 いつの頃からか、周辺の住人は、赤い経札と共に、この睡木をテンプク様と呼んで、手を合わせるようになっていた。テンプクとは『点福』、ささやかな幸福感を授けてくださる福の神のことである。今ではこのテンプク様が、ベコス地区の御神体になっていた。

 そのテンプク様の奉られた祠と集会所の壁の隙間で、人が動いた。

 両足の萎えた目も白い片腕の少女が、茣蓙の上に座っていた。

 この隻腕盲目の少女は、毎日隣の窮民街から、車輪付きの台車に乗ってやってくる。

 経堂などの宗教施設の門前には、必ずといって良いほど物乞いが集まる。その多くは身体に不具合を持つ者だが、この少女は物乞いではなく物売り。その証しに、茣蓙の上には、蓋付きのヨシの丸カゴと、ヨシで作った細工物の牛が並んでいる。

 昼の読経が終わって直ぐということもあり、人が散っている。その客がいない時間を利用して、少女はせっせとヨシを編んでいた。手と口を使ってだ。

 歳の頃は春香と同じか少し上、丸みを帯びた娘時代の顔立ちから、骨格のはっきりとした大人の顔立ちに変わる一歩手前といったところだ。土莫肌の卵型の顔の中に、キュッと突き出た鼻先と、大きな口がメリハリ良く並んでいる。軽くウェーブのかかった黒髪を頭の後ろでひっつめにまとめているが、片手では上手くまとめ切れないらしく、短い前髪が二筋、折れ残った櫛の歯のように額の上に垂れている。

 細工物が一つ出来あがった。それを手探りで茣蓙の上に並べると、少女は一息入れるように、首に巻いたマフラーの間から紐を引き出した。紐の先に結んだものが午後の日差しを眩しく反射する。鏡だ。手の平に納まるサイズの割れた鏡を、ひとしきり顔の前にかざすと、少女はまたヨシを編み始めた。

 

 ヨシの細工に余念のない少女に、「頑張っとるな」と声がかかった。

 少女が背をもたれさせた集会所の壁には、採光と煙出しを兼ねて小窓がいくつか口を空けている。形も大きさも不揃いの窓だが、その窓という窓が開いて、中にいた年寄りたちが顔を覗かせた。四方山話に興じていた地区の年寄りたちである。

 耳たぶが大きく垂れ下がった老女が、十人ほどいる仲間の先陣を切るように、眼下の少女に話しかけた。鼻にかかったハスキーな声である。

「どう、フィルル、今日の売り上げは?」

 フィルルと呼ばれた少女が、カゴを編む手と口を止めると、小首を上げて答える。

「理想は十個で、目標は三個、でも現実は私の目と同じく白旗よ」

 はきはきとした物言いに、先の老女の隣、鼻が顎の下まで垂れ下がった翁が聞く。

「人がわんさかおる都の読経所の前、あそこで店を開けば、おまえさんの丁寧に編んだカゴじゃ、直ぐに現実が目標を飛び越えて、理想に届くだろうに」

 フィルルが小気味良く鼻先を左右に振った。

「理想は現実よりも恐いものよ。それにあそこは買うんじゃなくて、恵んでくれるだけ」

「じゃが、売れなきゃ仕方ないだろう」

「いいの、あそこはたくさん売れるけど、取られるのも多いから」

 垂れ鼻の翁が指摘するように、町の経堂には多くの人が祈りを捧げに足を運ぶ。そういった場には、喜捨を求めて物乞いも集まる。本物の物乞いから、偽の物乞い、物乞い同然の物売りまで、金目当ての連中が、屠場の血糊に群がる蠅のように集まるのだ。勢い競争は激しくなり、その激しさゆえに、仲間内での喧嘩も起きる。物乞いは良い場所を確保できるかどうかが勝負だからだ。おまけに、そういう一等地は、大抵その筋の者が権利を押さえ、喜捨や売り上げの七割は場所代として取られてしまう。

 またそのこと以前に、人からお恵みを受けようと思えば、情けを買うよう悲惨さを強調する必要も出てくるし、おまけに競争相手のいる中で商品を確実に売るには、値引きもしなければならない。それに……、

「あたい、体を売りたくないもん」

 フィルルは、自身の斜め上にいる翁に向かって、ピシャリと言った。

 障害を持った女性の場合、少女の間は物乞いでも食っていける。しかし大人になれば、まず施しは貰えない。そうなった時、生きていくためにやれることといえば、性を売ることぐらいだ。悲しいかな、それがここの現実で、そうなりたくない者は、何としても生きるための手立てを見つけなければならない。

 手足に加えて目も不自由なフィルルは、それを何とかヨシのカゴ作りで出来ないかと考えていた。

「よーし、久々に一つ買おう」

 少女の真上の小窓から、目袋がプックリと膨らんだ翁が手を突き出した。

「同情じゃ嫌よ、ちゃんと、使う必要がある時に買って」

「分かっとるわい、煙苔のもぐさ入れじゃ。その小ぶりの蓋付きのやつをくれ」

「そう、じゃ売ってあげる。二ビスカ半ね。おじいちゃん、お孫さんはいる?」

 目袋の翁が答える前に、隣の垂れ鼻の翁が冷やかすように横槍を入れた。

「孫どころか、こいつには曽孫も夜叉孫もいるぞ、こいつの家系には豚虫の血が入っとるとのもっぱらの噂、多産系じゃ」

「ふーん、じゃ、これはおまけね」

 フィルルが、丸カゴの中にヨシで編んだ牛を入れ、それを声のした方に差し上げた。

 カゴと交換に受け取った二枚のコインを握りしめ、フィルルが言う。

「カゴの形が崩れてきたら言って、三カ月以内なら、ただで新しいのと取り替えるから。でも使い始める前に、竈の上に一週間ほどぶら下げておけば、燻されて一年は虫がつかないし、ヨシが締まって型崩れも防げる。それから……」

「まだ、何かあるのか」

「もちろんよ、ありがとうドンベチさん。また宜しくね」

 突然名前を呼ばれた目袋の翁が、「なんと、良く、わしの名が分かったの」と、目を丸くして自分で自分の顔を指した。

「あたい、耳はいいの」

 そう言って尖った鼻先を自慢げにピクピクと動かすフィルルに、しゃがれた声が飛んだ。

「おい娘、お前、本当は見えておるんじゃないか。さっきマフラーの間から鏡を出して、自分の顔を眺めおったろう」

 声は集会所の離れ、便所の窓からだ。

 大人なら胴体がつかえそうな小さな窓から、顔にイボのあるやや年若い翁が、顔と手を突き出していた。キセルを持つ指にも、ずらりとイボが並んでいる。

 そのイボ指の翁が「見えておるんじゃろう」と、疑わしそうな声で繰り返す。

 フィルルが声の方向に白い目を向けた。

「あたい、毎日ここで壁に寄りかかって、みんなの話し声を聞いているのよ。嫌でも声と名前くらい覚えるわ」

 憤慨したように言って、フィルルが先程から背中の壁越しに聞こえていた声の主を、五名ほど並べたてた。実はフィルルがこの場所でカゴ売りを始めた一番の理由は、集会所の中で交わされる年寄りたちの四方山話を聞くことにある。目の見えないフィルルにとって、経験豊富な年寄りたちの話を聞くことは、何よりの楽しみなのだ。

「おまけよ」と、フィルルが、地区の年寄りたちの名を、更に五名ほど並べたてる。その抜群の記憶力に、窓から顔を出していた目袋、垂れ鼻の両翁、それに餅耳の嫗の三人が、そろって感嘆の声を漏らした。

 それでも納得できないのか、イボ指の翁が、キセルを壁の柱に打ち当て追求する。

「物覚えがいいのは分かったわい、しかし、お前さんが鏡を見ていたのは確かだぞ」

 しつこく言い張るイボ指の翁に、フィルルがマフラーの間から、先程の紐に結んだ鏡を取り出した。それを、年寄りたちに良く見えるように頭上に掲げる。

 三角に割れた、手の平の半分ほどの大きさの鏡だ。

「あら、手鏡に良さそうな鏡ね」

 鼻で歌うような嫗に、フィルルが説明を入れた。

「ほかの鏡というものを、あたいは知らないから、でも、イボ指のゴズネルヒさんの見たというのは、こういうのでしょ」

 話しながらフィルルが、頭上にかざした三角の鏡を、自分の顔の前に持ってきた。

「あたいの目は、残念ながら世の中の物を何も見てくれないわ。でも一つだけ見ることができるものがある、それがこれ」

 フィルルが太陽の光を鏡で受けて、自分の顔に向かって反射させた。フィルルの垢と雪焼けで黒くなった頬の上に、鏡の形のままに日の光が映し出される。

 最初、年寄りたちは、フィルルが何をしようとしているのか分からなかった。しかし、フィルルが同じ動作を繰り返すのを見て、なるほどと頷いた。光を見ることはできない。けれども暖かな日差しを感じることはできる。フィルルは肌で太陽を感じているのだ。

「太陽は丸いそうだけど、あたいのお日様は三角なの、分かった?」

 フィルルは、イボ指の翁に向かって言うと、その鏡の破片を宝物を扱うように、そっとマフラーの間に押しこんだ。

 そして自分を見下ろしている年寄りたちに向かって呼びかけた。

「さあ、他にあたいのカゴを買ってくれる人はいない。いないなら、あたいはオマケの牛を作りたいの。十分ほどでイゴーが来るわ。今日はたくさん売れそうな予感がするの。オマケの牛も余分に作っとかなくちゃ」

「イゴーが?」

 餅耳の嫗が、垂れた耳たぶを左右の手で持ち上げ、周囲の音を探るように首を回す。

 やがて一点で首を止めた嫗が、感心したように眼下の娘を見やった。

「フィルル、あなたって本当にいい耳をしてるわね。私よりも先に気づくなんて。間違いなく罵鈴が鳴ってる。音からすれば、隣の窮民街の読経所を過ぎた辺りだわ」

 それを聞いて、土壁の窓から顔を覗かせていた年寄りたちが次々に首を引っ込め、集会所の外に姿を現す。そして各自、家のあるヨシ小屋の並びへと散っていく。

 戸口に姿を見せた目袋の翁も、「地獄耳のお嬢が言うんなら、本当じゃな。どれ、ワシもへそくりを取ってくるか」、と、ヨシ小屋への小道を、そそくさと歩き出した。

 その年寄りたちの姿が消えた窓の下で、フィルルがまたヨシの茎を編み始めた。

 

 水路沿いの窮民街には、細い生活道が通っている。密集したヨシ葺きの家々の間を縫い、溝を跨ぎ、時に火炎樹を見上げる土塁の脇を抜けて、馬車一台が通れるほどの道が続いているのだ。その凍りついた雪道を、小型の瘤牛に牽かせた荷橇が、ガランガランと騒々しい罵鈴を鳴らしながら、べコス地区の集会所に近づいてきた。

 河岸の窮民街を巡回しながら生活雑貨や食料品を販売している、引き売りの移動商店、イゴーである。橇の上、屋台に積まれた食品や雑貨には、けばけばしい色合いのものが多い。そのため色味の乏しい窮民街では、イゴーの荷橇は、まるでそこに花が咲いたように良く目立つ。おまけにイゴーの主人が、鈴付きの太鼓をドンジャラと打ち鳴らすのだ。

 その賑やかさに、撒き餌に集まる雑魚のように窮民街の住人が集まってくる。

 イゴーの荷橇は診療所下、集会所の前でその車輪を止めた。

 財布を取りに家に戻っていた先ほどの年寄りたちが、待ち構えたようにイゴーに群がる。フィルルと話をしていた翁、嫗の姿もある。その年寄りたちが一様に独特の風よけの帽子を被っている。左右の耳当てとは別に、背中側に垂らした先細りの風よけの鍔が、牛の舌に似ていることから、牛の古称を取ってベコ帽と呼ばれる帽子だ。このベコ帽を被った地区の年寄りたちを、ここではベコ連と呼ぶ。

 ヨシ小屋の間の路地を抜けて、隣の窮民街の連中も集まってきた。ただそのほとんどは年寄りと子供。避難民流入の騒然とした空気が伝わるなか、大人の男たちは、塁壁の補強工事という、久々の仕事に出向いて留守なのだ。

 あっという間にイゴーの荷橇は、集まった年寄りと子供たちに取り囲まれてしまった。

 ただ直ぐに商品を買おうという者はいない。みな雑貨の山を眺めながら、イゴーの主人に話しかけたり、集まってきた者同士で雑談を交わすだけだ。

 そんななか、しつこくフィルルを追及していたイボ指のゴズネルヒが、へそくりの入った革袋を片手に、荷橇の最前列に並ぶガラス瓶に手を突っこんだ。瓶の中にはぎっしりと小さな包み、人工の甘味料を使った板菓子が詰め込まれている。

 ゴズネルヒのイボ指が、瓶の中を掻き回しながら、板菓子を一つ摘みあげた。

 板菓子の包装紙には、タテヨコ三段に九つの枡目が切られ、それぞれの枡目に紅か白の丸が描いてある。この紅白の丸を爪で擦ると、表面の塗料が剥げて下地に様々な生き物の絵が現れる。好きな枡目を二つ剥がして同じ生き物の絵が揃えば、もう一つ同じ板菓子が貰えるという懸賞付きの菓子である。

 ベコ連の年寄りたちの目が、一斉にゴズネルヒの手元に注がれる。ところがゴズネルヒの指の動きがもどかしい。なかなか枡目の塗料が剥がれない。それでも取り囲んだ仲間の年寄りたちは、急ぐ風でもなく、穴の開いた手袋を擦り合わせながら、ゴズネルヒの指先をのんびりと眺める。ささやかでも賭け事、結果が分かるまでのこの一時が楽しいのだ。

 年寄りたちの横で、イゴーの主人が折畳みの椅子に腰かけ、キセルに火をつけた。引き売りの商売は、家の家計を預かる女将さんたちが集まってからが勝負である。

 残念ながら、枡目のくじは牛と鳥で外れだった。

 ゴズネルヒは包装紙を子供たちにくれてやると、懐に入れていた折畳み式のナイフで、紙の中の板菓子を切り分け始めた。

 指先がおぼつかない割には、ナイフさばきは慣れたもの。現役時代に魚の干物作りをやっていたゴズネルヒは、切り別けた菓子の欠けらを、気前よく仲間の年寄りたちの手の平に置いていく。ささやかな甘味が、口の中にひとときの幸福をもたらす。そうして、やれ俺の欠けらは小さい、形が悪いなどと言い合いながら、話に興ずる。まるで駄菓子屋に集まる子供のようなものだ。

 イゴーの荷橇の側面には、板菓子の包装紙と同じ碁盤の目に紅白の円を描いた模様が描かれている。この囲碁のような碁盤模様が、もちろんイゴーの名の由来である。

 その年寄りと子供たちが姦しく騒いでいるところに、厚手の半外套を羽織ったシャンの助手、マフポップが、太り気味の体を揺すりながら、診療所前の階段を下りてきた。相変わらず耳にヘッドフォンをつけている。ただ兇音は聞いていないようだ。

 マフポップは、イゴーの主人に歩み寄ると、手にした紙片を主人の顔に突きつけた。

 注文品のメモらしい。

 紙片を受け取ったイゴーの主人が紙片に目を落とし、

「ええ、板餅…大袋を、七袋。粗挽き餅、二キロ入り…、二つ、それから…」

 文字を読むのが得意ではないのだろう、イゴーの主人は目頭を擦りながら、書かれた商品名をたどたどしく読み上げる。

 その様子を見ていたベコ連の幹事役、喉袋のジトパカ翁が、ずかずかと二人の元に歩み寄ると、マフポップの尻に濡れ手拭いをバシンと叩きつけた。そして喉元に垂れた肉を膨らませ、気合い一発、怒鳴りつけた。

「こら、マフポップ。挨拶もなしに、黙ってメモを突き出すやつがあるか。まずは人と会ったら挨拶をするもんじゃ。それにメモを使って買い物をする時は、ここに、これこれしかじか注文の品が書いてあるので、お願いしますと、ちゃんと口上を述べにゃならん」

 叱りつけられても、まだぼんやり立っているマフポップを見て、ジトパカが「ちょいと借りるぞ、旦那」と苛つくように言って、イゴーの主人の手にある紙片を取り上げ、マフポップに突き返した。

「ほら、もう一度、挨拶からやり直してみろ」

 ジトパカは大声である。それに話す度に、大きな喉袋が風船のように膨らむ。

 そのジトパカの有無を言わせぬ剣幕に、マフポップが口をもごもごさせつつ、イゴーの主人に向き直る。そしてメモを差し出しながら、「あ、どうも……、これ……」

 とたん「違う!」と、ジトパカが一喝。

「どうもとはなんじゃ、『こんにちは、ご苦労様です』くらい言えんか。挨拶くらいできんと、お前よりも、お前の先生が馬鹿にされるんじゃぞ。それに、書面を人に渡す時は、相手が読みやすいように上下を確かめて渡すもんじゃ。おまえの頭には脳味噌が入っとらんのか、もっと脳味噌を使って、考えて喋れ!」

 頭ごなしに怒鳴られ萎縮したのか、マフポップは余計にボソボソと声を落とす。

「声が小さい!」

 腰の引けた体勢でメモを読み上げるマフポップに、周りの年寄り連中が野次を飛ばす。

「無理に真似せんでええぞ、ジトパカの声が大きすぎるんじゃ」

 ギロッと、ジトパカがベコ連の仲間を睨んだ。

「おおこわ」と、全員が一斉に身をのけ反らせる。

 恐縮しているイゴーの主人など気にせず、ジトパカはマフポップに四度ほど挨拶と注文をやり直させた。幼児のように怒鳴られるシャンの助手に気を遣ったのか、イゴーの主人は、いつもよりも更に腰を低くして、注文の品をマフポップに手渡した。

 ジトパカの小言から逃れるように、マフポップが品物を受け取り、自分の部屋のある風車小屋へと駆け上がっていく。

 ベコ連の年寄りたちが呆れたように両手を広げた。

「どうしたジトパカ、近頃やけにあの変わりもんに、ちょっかいを出しとるじゃないか」

「あの兇音狂いに教育なんざしたって、無駄じゃよ、無駄」

「そうそう、三十過ぎて、挨拶もろくにできん都のボンになんざ、説教するだけ説教損、あいつは人の声を聞くよりも兇音の方が好きなんじゃ」

 手厳しいベコ連の仲間に、ジトパカが首を振って言い返した。

「そう決めつけるな。ここで暮らしている以上、挨拶くらいはできてくれんと、こちらも楽しくなかろう。それにどんな人間でも、探せば良いところの一つや二つはあろうて」

「これがか」と、垂れ鼻の翁が、手にしていたガラスの瓶の表面を、小銭の縁でキィィィーッと擦り上げる。周りにいた年寄りたちが一斉に身悶えをした。

 イボ指のゴズネルヒが耳の穴を指先でほじくり、「兇音を聞いてニヤニヤしているあの男を見ると、耳の芯が腐ってきそうだわい」と、吐き捨てた。

 同感とばかりに、別の翁も鼻を鳴らす。

「ああいう手合いは、一度死なにゃあ治らんもんよ」

 けんもほろろの言い草に嘆息しつつ、ジトパカはマフポップが駆け込んだ診療所の風車小屋を見上げた。そして思った。仲間たちの意見も分からないではない。自分も少し前までは、そういう目であのシャンの助手を見ていたからだ。

 四六時中ヘッドフォンを耳に当て、窮民街の者が挨拶してもろくに返事もしない姿は、地区の住人との交わりを拒絶しているとしか見えない。塁壁の内側から来た金持ちの子弟、礼節の欠けらも知らない若輩者、そう自分も思っていた。それが二カ月ほど前のこと、自分の判断が、もしかしたら一面的に過ぎたのではと思い直す事があった。

 その日ジトパカは、近づく冬に備えて、集会所の泥壁の穴埋め作業をしていた。隙間風対策である。その隙間穴の向こうに、テンプク様の祠と集会所の壁の間でいつものようにヨシの細工物を作る、フィルルの姿があった。順に隙間を塞ぎ、最後フィルルの見える穴を埋めようと泥を一掴みした時、フィルルの前に誰か人が立っているのに気づいた。膝から下しか見えないが、窮民街では見かけない上等の革靴から、それがシャンの助手のマフポップだと知れた。

 マフポップは、折り畳んだマフラーらしき物を茣蓙の上に置くと、その上に数枚の札を重ね、そのまま無言で立ち去った。

 いつもなら、フィルルは喜捨を差し出してくれた人に、お金を恵んでくれるよりもカゴを買ってくれと訴える。それが、無言……、おそらく喜捨の金が窮民街ではあり得ない紙の札であったために、気づくのが遅れたのだろう、言いそびれたように見えた。

 

 マフポップがシャンの診療所に住み込んだのは、ちょうど一年前のことになる。

 当時、ジトパカは、マフポップという人物についてシャンに尋ねた。シャンが助手として診療所に住まわせる人物としては、余りに人としての振舞いができていない。それが不思議でならなかったのだ。

 ジトパカの疑問に対し、シャンは困惑した顔で理由を口にした。

「マフポップは助手というよりも、患者なのだ」と。

「患者に対しての守秘義務があるため、詳細を明かすことはできない。しかし、彼の病は、肉体的な障害が心の病に転じたもので、一見すると変わり者に見えるかもしれないが、当人も自分を変えようと努力している。責任ある仕事を任せることが、病の克服につながると考え、治療の一環として助手としての役割を与えている。彼がいることで、色々不愉快な思いをすることがあるかも知れないが、彼を特別視せず、普通に接してくれるとありがたい。そうしてくれるのが、彼のためにもなる……」と。

 フィルルに対する対応を目にするまでは、特に用でもない限り、マフポップに話しかけることはなかった。それがこの数カ月、ジトパカは、マフポップの姿を見れば、こちらから声をかけて、小言を言って叱りつけもするようになった。自分の働きかけが拒絶されるのではと最初の内は心配したが、思ったよりも受け止めてくれている。変わり者であるのは確かだが、根は素直なのだろう。

 

 ジトパカが風車小屋をぼんやり見上げていると、後ろで子供たちの歓声が上がった。誰かがイゴーのくじを当てたようだ。その歓声を聞きつけたように、窮民街の路地を猛然とダッシュしてくる者がある。アヌィだ。

 薬を届けに行った帰りらしく、薬専用の鞄を体の前に回しかけている。

 ジトパカの前を横切ると、アヌィはイゴーの棚に飛びついた。

 アヌィはイゴーで売っている硬貨を型取った泡餅、ビスカのファンなのだ。

 この泡餅、満都時代にサクサクとした歯応えのある波型硬貨のような泡餅が大流行した。商品名をビスカという。その過熱ぶりは凄まじく、商品の代金代わりに、泡餅のビスカが使われることもあったという。そんな狂騒の名残が、少額貨幣の単位の名として今に残っている。

 それはそれ、アヌィは満面に笑みを浮かべて、懐から小遣い入れを引っ張り出した。

 瓶の中のビスカに目を吸いつかせているアヌィに、イゴーの主人が声をかけた。

 丁寧に包装された小箱を手にしている。

「すいやせん、診療所の娘さん。この小箱、マフポップさんに、お願いしようと思ったんですが」

 アヌィが、泡餅の入った瓶に手を突っ込んだまま、「マグ、呼ぶの、ちょっと、待って」と、気もそぞろに答える。

「その必要はないんで、この小箱を、診療所の春香さんて人に渡してもらえればいいんで」

「春香ちゃんへの、荷物?」

 イゴーの主人が、荷物の裏に書かれた人の名を指で示した。

「ええ、頼まれたのは盤都の園丁の旦那からなんですが、都に住んでいるジャーバラさんという方からのお遣い物なんだそうで。ええ、駄賃はもうしっかりいただいてやすから、受け取っていただければ、それで結構なんですが」

 防水紙で包装した箱を受け取ると、アヌィは重さを確かめるように箱を持ち上げた。

 腰の低いイゴーの主人が「中にお手紙が入っているそうです」と、注釈を入れた。

「分かった、渡しておく」と気軽に答えると、アヌィは直ぐに視線を瓶に移して、中の泡餅を選び始めた。

 そのアヌィが真剣な表情で泡餅を選んでいるところに、診療所の扉が開き、往診着姿のシャンと春香が出てきた。

 春香は昨日から浅黄色のワンピースのような看護衣を着用するようになった。胸の下の大きなポケットに、メモ帳とクリップ付きの筆記用具を留めている。その姿は、いかにも研修生という出立ちだ。

 看護衣の上から防寒外套を羽織った春香を従え、シャンが階段を下っていると、療養棟から今朝生まれたばかりの赤ん坊を抱えた母親が顔を見せた。先生の診療助手をしている助産婦のブリンプッティさんが付き添っている。シャンは赤ん坊の状態を確かめ、何か一言二言母親に言い聞かせると、集会所の前に足を運び、イゴーの主人と話を始めた。

 そのシャンに、渡し船の番屋番、使い走りの少年が走り寄る。

「船の準備ができています」

 少年らしい元気な声が辺りに響いた。


 先生とイゴーの主人の話が終わるのを待つ間、春香は渡されたばかりの看護手帳を取り出し、表紙の裏に記された看護師の心構えに目を通していた。春香は来週から週に二回、ブリンプッティさんから看護技術の実習を受けることになった。その講習が始まるまでに、手帳の内容に一通り目を通しておくようにと、シャン先生から言いつかったのだ。

 箇条書きの条文をブツブツと口の中で唱える春香の元に、泡餅を頬張ったアヌィが、油紙で包まれた箱を持って駆け寄ってきた。

「春香ちゃん宛の、荷物、中に手紙も、入ってるって」

 差し出された箱を受け取りながら、春香が首を傾げた。

「荷物、誰からだろう?」

「ええと、ジャー……、バラ、だったかな」

 名前を聞いたとたん、春香の目が輝いた。箱を開けると、ガラスの小瓶が半ダースずつ二段に収納されている。瓶の中身は黄色い錠剤だ。

 口の周りに泡餅の粉をくっつけたアヌィが、驚きの声を上げた。

「ちょっと、それ、マリア熱の薬、なぜ?」

 薬の管理を担当しているアヌィは、マリア熱の薬が診療所の金庫に収められているのを知っている。高価な薬なのだ。

 アヌィの疑問を笑って誤魔化すと、春香は急いで同封された手紙に目を通した。

 ジャーバラの手紙には、『いま宿題の山に埋もれて、自分で薬を届けに行くことができない。だから依頼の品は、引き売りのおじさんに届けてもらうことにした。この薬が役に立ってくれることを願ってる。何か必要なものがあれば、いつでも言って……』と、そういったことが簡潔に書かれていた。そして手紙の最後に、『自分は歌を習い始めた、今度、春香の伴奏で歌が歌えたらいいな』という一文が、添えられていた。

 少し離れたところにいた餅耳の嫗が、突然春香に向かって手を振った。

「ねえ、ジャーバラって、バドゥーナの国務大臣の娘の名でしょ、そうよね」

 どうやら、春香とアヌィの会話に聞き耳を立てていたようだ。

 探りを入れるような目でこちらを見ている嫗に、「ふーん、ジャーバラって、大臣の娘さんなんだ」と惚けると、春香は愉快そうに空を仰いだ。

「囚われの身になった成果ね。さっそくお礼の手紙を出さなくちゃ」

 箱の蓋を閉じた春香に、シャン先生から「出発だ!」と声がかかった。

 並んで桟橋に向かう。洗濯小屋に、やりかけの洗濯物が散らばっている。おかみさんたちは皆、買い物のためのお金を取りに家に戻ったようだ。

 船頭組合の番屋の先に、杭に板を縛りつけただけの桟橋がある。いつもならそこに桝船を含め、三〜四艘の小型の船が繋がれているのだが、今日はシャンが予約した馬頭船の一艘のみ。他の船はみな客を乗せて出払っている。

 桝船の倍ほどの長さの馬頭船は、櫓漕ぎの細身の船で、船の名は舳先に付けられた馬の頭の彫り物からきている。窮民街で暮らす人たちが馬頭船に乗るのは、病人の搬送など緊急の場合だけだが、それでも湿地帯での暮らしにはなくてはならない移動の足で、ベコス地区でも、もしもの時を考え、無尽講による共同購入で一艘の馬頭船を所有していた。

 耳当て付きの帽子を被った船頭のパバフが、船の上でキセルを燻らせながら待っていた。

 船頭のゴツゴツとした手に引っ張られるようにして船に乗りこむ。シャンと春香が座る場所を決める間もなく、パバフが櫓を引いた。

 泡餅を頬張りながら桟橋で見送るアヌィの姿が、薄い霧の中を離れていく。あっという間に二人の姿が、小さな点となって川岸の風景に融ける。

 集会所の前では、ベコス地区の女将さんたちがイゴーを取り囲み、商売の本番が始まろうとしていた。



次話「鉄床島」

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