地下ホール
地下ホール
塁京二都の政治家たちが、母種の入札額の案出に議論を闘わせていた頃。
大陸中北部、貴霜山の麓に位置するユルツ連邦の邦主国ユルツでは、質量転換炉の臨界実験を目前に控え、計画反対派が不安を煽る宣伝活動を市中で展開していた。対抗するように政府の広報馬車が、計画の安全性を訴えるべく市中を走り回る。
復興省肝入りの広報馬車は、サイトが都から北三百五十キロの彼方にあることを理由に、万一の場合を想定しても、惨禍は都に及ばないと力説する。しかし十年前の惨事では、核力炉の不具合が引き金となって、サイト全体が巻き込まれる事故が発生した。補助的な施設でさえもあれだけの規模の事故が引き起こされたことを思えば、施設の柱である質量転換炉で不測の事態が起きた場合、何が起きるのか……、不安は尽きない。
ファロス計画の反対派の中心にいるのは、褐炭産業組合であり遷都派の評議員である。その狙いは、計画の危険性を指摘し、質量転換炉の臨界実験の開始を遅らせることにある。計画が遅れれば、市民の耐久生活は長引き、現行政府への不満が強まる。計画が長引けば、追加の予算が必要となって財政は圧迫され、そのツケが回りまわって市民に押しつけられれば、現政府への批判は一層高まる。
おそらく炉の臨界実験をあと四カ月遅らせることができれば、たとえ実験が成功したとしても、それが次の選挙までに市民の生活の向上に具体的な成果として現れてこない。なぜなら、サイト2によって生み出される光のエネルギーを都に転送する光伝ケーブルの製造は、予算の関係上、臨界実験の成功が前提だからだ。さらに臨界実験の成功が半年以上遅滞すれば、市民は次の冬も寒さに耐える生活を余儀なくされる。
反対派の目論見は、現政権への不満を育て、不満の頂点で来年の夏に予定されている選挙を迎えることだ。
一方、推進派の側からみれば、それは来年の夏までに、何としてもファロス計画の具体的な成果を、目に見える形で出さなければならないということである。失敗すれば政権は覆り、計画は凍結か中止になる。そのため、第二次ファロス計画の推進派、つまり母体となっている都に不動産利権を持つ一団は、多少の危険は覚悟の上で、炉の臨界実験を前倒し、時期を早めようと、政府やサイト2の現場に有形無形の圧力をかけていた。
この半月ほどの反対派の集中的な情宣活動が効を奏したようで、都では市民があからさまに不安を口にするようになっている。厳冬期にかかるこの時期、政府の配給に対する不満もかしこで耳にする。その不満に乗ずるように、反対派兼遷都派の褐炭組合は、褐炭の無償供与を町中で行っていた。もちろん現政府への批判をささやきながらだ。
危機感はどちらの側にもある。
ただ、古代の炉が危険々々という反対派の喧伝活動に、推進派も手をこまねいていた訳ではない。しかしながら安全性というものは、あまり声高に訴え過ぎると、逆に不安を煽る結果にもなりかねない。それに質量転換炉の解析は、その理論と共にほとんど進んでいないのが実情である。
ユルツ国市民に反対派の意見が浸透していくのを見て、第二次ファロス計画の最高責任者である復興省の大臣ズロボダは、これまで伏せていたサイト1の惨事に関する、ある極秘事項を公表した。前回のサイト1の惨事が、子供のいたずらが引き金となって引き起こされたという事実を公表したのだ。惨事の原因は、サイトの施設そのものにあったのではなく、人為的なものだったと、そう推進派は強調したかったのだろう。
ところが、市民の目は思いのほか厳しかった。
特に反対派は、事実を公表した復興省に対して、子供のいたずら程度で甚大な事故が引き起こされたことこそが問題なのであり、その程度の安全性をも確保できていない技術力が最大の問題なのだと厳しく糾弾。なぜその事実が十年前の専門家の調査で判明しなかったのか、そもそも正確な調査が行なわれたのかどうか、まず国民にそのことを説明すべきだと追及してきた。
計画推進派は子供の人権を守るために、これ以上の事実は公表できないと突っぱねた。
そして反対派の追及をかわすように次の手を打った。
それはダーナが準備していたことだった。
『子供のいたずら……』の件が公表されて一週間後の、十二月十日。
雪と氷に埋もれたユルツ国の首府、霜都ダリアファルの外れにある警邏隊の駐屯地に、一機の双発機が騒々しい音を立てて舞い降りた。
側面のドアを開け、ダーナに続いて、今回の計画の技術部門の責任者であるジャブハ技監が姿を見せる。そのダーナとジャブハ技監の二人に、一足先に機体から降り立ったオバルが、カメラのレンズを向けた。映像の同時中継用の機材は、サイトの機材室にあったもので、撮影した映像を通信衛星経由でサイトの管制室に電送できる。オバルは映像中継機の側面のパネルに、古代語のテキストを呼び出し、使用方法を確かめながら撮影を続けていた。
オバルがサイトに連行されてから五日目のこと、サイトの翻訳作業チームに加えられていたオバルに、ダーナから別の用件が言い渡された。それが映像中継の仕事である。ダーナが企画した都での催しを、サイトの官制室に中継するよう指示されたのだ。
実はダーナは、最初からこの映像中継の仕事をオバルに担当させようと考えていた。
魔鏡帳の扱いに習熟しているオバルは、古代の情報機器全般の扱いにも長けている。それは前回のサイト1の広報部でのオバルの仕事ぶりを見ていて、ダーナが実感したことだ。
ダーナは、政治家として広報活動、広く言えば情宣活動を重視している。
今回の計画では、特にだ。
前回の計画の際には、上からの意向もあり、計画を推し進める側にとって都合の悪い部分は伏せる形で、広報活動が進められた。市民の期待感を煽るだけ煽り、盛り上がった市民の熱気に便乗する形で予算を計上、計画を推進するという方法が取られた。ところが計画が惨事という最悪の結果で終わったことで、反動として市民の中に政府の流す情報への不信感が渦巻くようになった。それは惨事後十年を経た今でも変わっていない。
前回の蹉跌を省みるに、どう広報の戦略を立てるべきか……、
対政府、対市民への情報戦略、広報戦略を見誤ると、復興計画自体が頓挫することも考えられる。検討の末、ダーナは、第二次復興計画の広報活動の柱として、ある方法を採用。映像によって、サイトの状況を逐一市民に伝えることにしたのだ。
ダーナは、古代の政治史における情報操作で、映像がいかに重要な役割を果たしていたかを、政経院時代に学んでいる。「映像とは理性を超えて人を動かす。故にそれを利用することが、世論を動かす上で最も有効な手段となりうる」と、情報戦略史の講師は、しつこいほど繰り返していた。映像がどれほどの力を発揮するものか、ダーナ自身いま一つ実感が持てないし、懐疑的なのだが、おそらくはそうだろうとの読みもある。
音声による公共放送はあっても、映像による放送のない時代である。
単純に映像の目新しさと、そのインパクトだけでも、今回の計画は前回と違うという印象を市民は持つだろう。人は日常的に接するものに親近感を抱く。おそらくは、日々サイトの生の映像に接し、そこで働く人の姿を見続ければ、サイトへの不安感は大幅に緩和されるはずである。そこで醸成されたサイトへの親近感が、猜疑の目を曇らせ、やがて危険を承知でも成功を願う方向に意識がずれ動くはず。
放蕩息子を勘当するのではなく、その矯正と出直しを期待するようにだ。
必要なのは、理詰めで説得することではない。人は理屈で説き伏せられることを欲しない、感情の動物である。必要なのは、いかにしてサイトへの感情移入を図るかだ。
それこそが映像の果たす役割になる。そうダーナは判断した。
ダーナは、映像中継のスタッフ、その中心人物としてオバルに白羽の矢を立てた。
古代の映像機器の扱いに馴れ、かつ前回の計画の際も広報官として実務をこなし、サイトのことを知悉している人物。もちろん情報機器の使用マニュアルを自身で解読できるということも評価してだ。その点においてダーナは、ハン博士同様、オバルを得がたい人材とみなしていた。ただ計画に反対の立場を取るオバルが、素直に協力するとは考えにくい。そこで妹を人質に取り、かつ用心のために、一旦翻訳チームに参加させ、その仕事ぶりを確認したうえで、ようやく任務に就かせる決断を下したのだ。
広報活動は、サイト本体の関連業務に押されて出遅れの感がある。それをオバルがサイトに連行されてきたのを機に、一気に推し進めることにした。その手始めが、ダーナが画策したイベントの中継である。今回は都からサイトへの中継だが、滞りなく遂行後は、直ぐにサイトから都への中継に切り替える予定である。そのための受信用の大型のスクリーンパネルは、すでに都の議会講堂と、都本庁舎のロビーに設置してある。
ダーナとジャブハ技監は、迎えの箱馬車に乗りこんだ。馬車の中は二人がけの座席が対面に据え付けられている。仕事中毒のようなダーナは、椅子に腰を下ろすや、事務官の男から受け取った書類の束に目を通し始めた。
ダーナの対面、事務官の横に腰かけたジャブハ技監の目に、馬車の窓を通して、格納庫の周辺に張り付いた歩哨の姿が見えた。銃を手にした姿はいかにも物々しい。格納庫の中で貨物用の双発機に物資の積み込みが行われているが、ぐるりを高い石壁で囲まれた警邏隊の本部である。何をそれほどまでにと思い、「随分ものものしい警戒ですね、何をやっているのですか」と、ジャブハが隣の事務官に尋ねた。
どう答えようか迷ったのだろう、事務官は判断を仰ぐべくダーナに視線を送るが、ダーナは何事もなかったように俯いたまま書類に視線を送っている。
仕方なく事務官が口を開いた。
「バドゥーナ国から注文のあった、銃火器の積み込みです。バドゥーナ国とゴーダム国は、いま避難民の流入とドバス低地下流部の開発の問題を巡って睨み合っています。不測の事態に備えて、各方面から武器を調達しているのですよ」
事務官の口にした「不測の事態」という言葉に、ジャブハが驚いた表情を見せた。
サイトの現場で仕事に没頭していたジャブハは、この数カ月というもの、ほとんど外部の情報から切り放された生活を送っていた。都に戻るのも四カ月ぶり。仕事中、耳に入ってきたことといえば、今回の計画が失敗に帰した場合、ユルツ国の市民のかなりが、この地を離れ、塁京に移民を余儀なくされるだろうということで、移住先の塁京が緊迫した状態にあるなどということは、初めて耳にすることだった。
ジャブハが更に事務官に質問を投げ掛けようとした時、外での撮影を終えたオバルが馬車に乗り込んできた。
待っていたように御者台で鞭が跳ね、駄馬たちの吐く息が氷の微細な結晶となって宙を舞う。四人を乗せた箱馬車が動き出した。
機材についた雪を拭う手ももどかしく、オバルは座席に座るや、開口一番、書類を手にしたダーナに話しかけた。
「ダーナ、バドゥーナに古代兵器を売り渡すのか、警備の兵たちが噂しているぞ」
ダーナは黙ったまま、切りのいいところまで書類に目を走らせると、対面する事務官を上目遣いに見やって、「警邏隊の情報管制はザルだな」と、苦々しげに吐き捨てた。
さらに体を起こしてオバルを睨むと、「復興院では同期だったが、今は上司だ。公の場での口の利き方には気を配れ。情勢からして、近々正式にブツを売り渡すことになる。しかしこれは機密事項、これ以上の話は不要だ」
ピシャリと言い捨てると、足元に落ちた書類に手を伸ばした。
その手にした書類、それが正にバドゥーナ国との古代兵器譲渡に関する書類、契約書の写しである。ダーナ自身が国務次官とともにバドゥーナ国に出向き、まとめてきた案件で、昨日それが閣僚会議で承認された。契約が効力を発するには、手続き上まだ数日の時間を必要とするが、首尾としては上出来だった。
書類には、代価として支払われる金品や相当量の物資と併せて、非常時の際のユルツ国市民の移民受け入れが明記されている。これが締結されれば、耐久生活を余儀なくされている市民の暮らしにも、幾許かのゆとりが生まれるだろう。それに万が一、今回の第二次ファロス計画が成果を生むことなく終えたとしても、ユルツ国市民の半数はバドゥーナ国に移り住むことができる。
この武器売却と古代兵器譲渡の案件は、第二次ファロス計画が動き始めた当初から、ダーナが抱え込んでいた重要案件の一つだった。
実は昨年来、バドゥーナ国からユルツ国に対して、何度も武器売却の要請がなされていた。バドゥーナ国の狙いは、ユルツ国が保管している相当量の火器や軽砲類、それに秘匿されている古代兵器である。
ユルツ国としても財政貧窮の折、古代兵器は別として、一般の銃火器については、さっさと交渉をまとめて、利益を復興計画と国の財政の立て直しに充てるべきではないか。少なくともダーナはそう考え、大臣のズロボダにそのことを進言、自らも交渉に首を突っこんだ。ところが、交渉の最終責任者である統首のバハリが、ダーナの要請になかなか首を縦に振らない。どうやら統首を補佐している人物が、交渉の進捗を意図的に遅らせるよう横槍を入れている節がうかがえる。
統首の補佐官とは、ダーナの父のブィブァスブィットである。
そのことについてダーナが父に文句を言うと、統首補佐官である父は「有利な条件を引き出すためには、売却を焦ってはならない」と、強い口調でダーナをいさめた。
父、ブィバスブィットは、補佐官の立場として、バハリ統首に時間をかけて少量ずつ武器を売却するよう進言していた。その統首の意向により、いくらバドゥーナ側から高額の売却条件を示されても、一定量以上の武器売却には応じない。その原則が交渉団に課せられた。そうして少量ずつ丁寧に売却交渉を進め、それを繰り返していく。すると最初は安価と思えた売却額が、売却を繰り返すうちにどんどん上がり始めた。当初はそれを不思議に思っていたが、ダーナはある時気づいた。
小出しにそれも時間を置いてバドゥーナ国に兵器を売却することで、バドゥーナ国とゴーダム国の間に、武器弾薬の獲得競争が生まれていたのだ。一度生まれた流れは、見る見るエスカレートしていく。それが兵器という人を殺す道具と、食糧や樹油などの一般商品の違いだった。そして、ある程度売却交渉が成熟するのを待って、本題としての古代兵器の交渉に入る。ユルツ国にとっての最大の目標は、金銭ではなく、バドゥーナ国から移民受け入れの条件を引き出すことにある。通常なら不可能に思える移民条項の締結、それを可能にする戦略として、一般兵器の売却交渉を最大限活用する。それが、父ブィブァスブィットが見据えていた武器売却の戦略だった。
さすが父上と、ダーナが食事の席で感想を述べると、ダーナは冷めた目で諭された。
父、ブィブァスブィットは言う。
「政治の特に外事交渉というものは、たとえそれが直ぐにまとまりそうな事案でも、時間をかけてやるものなのだと。時間をかけ、議論を積み重ねるなかで、交渉相手との関係が作られていく。外事交渉とは、相手との関係をいかに構築していくかということだ。単に相手を説き伏せることや、自国側に有利な条件を引き出すことに気を取られていると、いずれは足元をすくわれる。もっと勉強することだな」と、ダーナは父に一喝された。
もっともな話だった。いつもなら父に反駁するところだが、やはり年の功、学ぶべところは学ばなければと、ダーナは思い直した。
その通常兵器の最後の売却品が、いま双発機に積み込まれている荷だった。
書類を横目で覗きこんだオバルが、納得が行かないとばかりに首をひねった。
「今のバドゥーナ国に移民を受け入れる余裕などないだろうに、ユルツ国のお偉方は、移民の受け入れが空手形だと思わないのか」
オバルとしては、バドゥーナ国が移民条項を受け入れたのも、それをユルツの閣僚たちが信用していることも、嘘としか思えなかった。国民の手前、信じているように見せているだけではないのか……。
オバルの問いかけに、ダーナが注釈を加えた。つまり契約が発効されるための付帯条件があるという。
「昨日、バドゥーナ国からの連絡で、耐塩性火炎樹の母種が入手できたとの一報があった。お偉方は、この報告を待っていた。これで契約は発効される。古代兵器をバドゥーナ国が手にし、デルタの開発を独占すれば、移民は現実の餅になる」
「母種を手にいれた……、バドゥーナ国がか」
母種という、その一言で、オバルも理解した。
オバルは揺れる馬車の窓から、後方に小さくなっていく駐機場の様子を見やった。
新種の火炎樹の母種を手に入れたということ、それはバドゥーナ国が、このあと下流のデルタ地帯の開発に着手するということだ。順当に行けば新規の入植者や移民も受け入れが可能となり、契約の移民受け入れの条項が、絵に描いた餅ではなくなる。そしてユルツ国としては、いざという時の移民先には、是が非でも隣国との開発競争に勝ってもらわなければならない。そのためには古代兵器の譲渡も当然必要という論理だ。そう説明されれば、機密にあたる古代兵器の譲渡を反対している連中も納得せざるを得ない。
オバルが思い出したようにそれを口にした。
「バドゥーナ国の情報部は、ハン博士を捜し出して、古代兵器譲渡の交渉に使おうと考えていたようだが、その必要がなくなったということか」
「博士が見つかれば、古代兵器に付ける弾の量が増える、そういうことだ」
オバルが寂しく笑った。
「なるほどな、大砲だけ渡しても、弾を渡さない限りは、ただの張子の虎。当面の隣国に対する抑止力として考えれば、数回撃てるだけの弾があれば十分。実際の戦争になれば、それなりの量の弾が必要となるが、それはそうなってから売り渡した方が、さらに良い値で売れる。一度に全てを与えない、賢い兵器の与え方だ」
大きく頷きながら、オバルは馬車の進行に合わせて視線を前方に向けた。箱馬車はすでに警邏隊の施設を出て高石垣の内側、町の中に入っていた。
オバルは手にしていた映像中継機のレンズを眼前の町並に合わせた。そして転送のボタンを押す。中継映像がファロスサイトの官制室の映像パネルに映し出されれば、腰の小型の衛星通信機にサイトから折り返し連絡が入るはずだ。
その返事を待ちながら、オバルは久しぶりに霜都の町並を眺めた。
満都中期に創建された霜都ダリアファルは、古都という名が相応しい落ち着いた佇まいを見せている。ドゥルー海北岸、内陸に九十キロほど入ったところに聳えるコニーデ型の秀峰、貴霜山の麓に霜都はある。都の北側はそのまま北方の氷床と接している。
霜都の風景は、基本的にはユカギルを大きくしたものである。町の周囲を高石垣の壁が取り囲み、整然と区画された町に点在する熱井戸も、外壁は町家と同じ煉瓦壁で飾られ、町の風景に溶けこんでいる。ユカギルとの一番の違いは、街中を縦横に走る掘割だろう。
しかし往時十三基あった熱井戸の大半は涸れ、現在稼働しているのは二基、一基は発電用、一基は熱水をそのまま都に供給しているが、それも都の命脈を保つ程の量でしかない。いま現在、都のエネルギー並びに食糧需要を支えているのは、都の南百四十キロ、ドゥルー海に突き出た波崙台地から掘り出される褐炭である。
採掘された褐炭は、燃料としてだけでなく、乾留して油化したのち、火炎樹の樹液と同様の方法で、食糧や衣料、建材などに加工される。一年の半分以上を雪と氷に閉ざされる土地ながら、ユルツ国は今この褐炭によって辛うじて都を存続させていた。
ただしこの十年は、夏場でも雪と氷が町なかに残るようになっている。都の北半分は特にそうで、気候の変動によって氷床上を渡る凍風が屹立する貴霜山にぶつかり、側面で加速されて都の北側に吹きつけるようになったからだ。その凍てつく凍風のために、都の北部は一年を通してつららが絶えることがない。多くの人々が寒さから身を隠すように、地下の部屋で暮らすようになっていた。
そしてこの間幾度となく、都をユルツ国最南端の波崙台地に移す遷都の議論がなされてきた。褐炭を都まで運ぶ手間と費用が、国の経済を圧迫するようになったのが、その主な理由である。だが遷都には、膨大な資金とそれを支える物資や燃料、そして何より人々の熱意が必要になる。そのどれもが萎えかけていた。人々は先細りになる都の暮らしを憂いながらも、引きこもった地下の暮らしから外に出てこれなくなっていた。地下にこもって、じっと寒さに耐えながら、配給の食料を元に細々と暮らしているというのが実情だった。
ユルツ国の困窮ぶりは、馬車で町なかを走っていると良く分かる。
前世紀の名残の石造りの家が続く落ち着いた町並だが、それがまるで博物館に展示されている模型のように、しんと静まり返っている。人の気配がまるで感じられない。都が栄華を誇った満都後期の時代と比べて、人口は六分の一。今では都の半分以上は全くの無人地帯と化している。
古くは、ユルツ国はドゥルー海北西岸の毛織物の生産と流通を一手に担う商都だった。それが地熱エネルギーの枯渇とともに、機械織りの布地の生産もすたれ、それ以後この数世紀、都の経済を支えてきたのは製薬業になる。その成立には、都が疫病で壊滅の危機に瀕したという過去も関係してくるが、何より製薬業が少ないエネルギー資源で高い利益を上げることのできる、技術集約型の小エネ産業だったことが大きい。
ダーナたちを乗せた箱馬車は、住宅街を抜けて町の中心部に出た。
官庁街のようなどっしりとした建物が道の両側に並んでいる。都を南北に流れるエディウェラ川の六連橋を渡る。氷河の底から流れ出た氷河水の川である。このエディウェラ川を初め、都を縦横に流れる堀割には、かつては地下から汲み上げた温水が流され、冬季も凍ることのない、たゆたう水面を見せていた。それが霜都の誇りでもあったのだが、今は完全に凍りついて白銀の道となっている。
再度、橋を渡る、今度は八連橋だ。対岸に立派な劇場風の建物が現れた。
そこだけは閑散とした町とは別世界のように、馬車が幾台も停車し、連れだった人たちが次々と建物の中に吸いこまれていく。
近づくとそれは正に劇場で、箱馬車は建物の前の階段状のテラスに乗りつけた。
居並ぶ人たちは、服装からして一般の市民、性別も年齢も職業も様々だ。その雑多な面々が、正面のアーチ型の入口に並び、カードのようなものを見せては中に入っていく。
ダーナたちは隣の関係者用の受付から劇場に入った。
入口を入って直ぐの正面ロビーには、すでに三百人近い人が集まっていた。ただし、みな外套を着たままである。
ホールの天井を見上げると、吊り下げられたシャンデリアと競うように、氷の氷柱が床に向かって伸びている。華麗なシャンデリア故に氷の宮殿という称号を持つ劇場が、言葉通り氷の劇場となっていた。気休めに過ぎないかもしれないが、それでも三台置かれた石炭ストーブの周りに人々は集まり、これから何が始まるのだろうと、期待と不安の入り混じった面持ちで口吻を交わしていた。
ダーナは、オバルとジャブハ技監を劇場のスタッフに紹介、オバルには予定通り映像中継の試験を行うようにと命じて、受付後方の来賓用のラウンジに向かった。
分厚い革張りの扉を開けた中に、来賓用の待合室がある。その待合室のソファに、官服姿の人物が二人、向かい合って座っていた。かっぷくの良い背中を見せているのが、ダーナの父、ブィブァスブィットで、対面するソファに腰かけた痩せ肩の目つきの鋭い初老の女性が、市民から女帝と呼ばれるユルツ国統首、バハリ女史になる。
その女帝バハリが、庇のような眉の下の抜け目のない灰色の瞳を光らせ、近寄ってきたダーナに「計画の進捗状況は」と、単刀直入に問い質した。女としては格段に低い声と言葉遣いに、声だけを聞いていると男のように聞こえる。
統首の問いかけにダーナが即答する。
「ご心配なく、あと三日で炉は臨界状態に達します」
今回の計画の成否が、今の政権の存続、いや国の存続に関わっている。ダーナも余分な話を抜きに簡潔に答えた。それはこの統首のバハリが、婉曲な表現を好まないのを承知しているからだ。余生幾許もない病床の人間が、残された時間に固執するように、余分なことを削ぎ落とした言い方をする。
バハリ統首が、ダーナの自信を持った口ぶりに「それは重畳」と言って、目つきを和らげた。
ダーナの父、ブィブァスブィットが続けた。
「長引く耐久生活に市民の不満が高まっている。一見すると凍りついた静穏な町だが、都の地下は不満のマグマが溜まる一方で、明日も大規模なデモが予定されている。一歩間違えれば暴動も起こりうる」
ダーナは仮面の位置を整えるように軽く手で押さえると、
「ええ、心得ています。今日はその問題に対する対策をご覧に入れようと思い、閣下に御足労を願いました。今日のセレモニー、閣下もぜひ期待していてください」
ダーナは時計を見て時間が押しているのを確認、統首のことは父に任せて、スタッフとの打ち合せのために来賓室を後にした。
この『氷の宮殿』は、ユルツ国の最も著名な劇場である。ただし都の耐久生活のシンボルとして、ここ数年は閉鎖されたままになっている。そこに突然三百人近い市民が呼び集められた。送付された招待状には、ファロス計画の成果の一部が披露されると書かれているだけで、具体的な内容は何も記されていない。過去に悲惨な事故を引き起こした計画であり、いくらそれが公印の捺された招待状とはいえ、不安は拭い切れない。
招待状を受け取った人々は、招待状の最後に明記された『特別配給の品が参加者全員に配られる』という、その一文につられるように、氷の宮殿に足を運んだのだ。
いったい今日ここで何が行われるというのだろうか。
耐久生活を余儀なくされている一般市民を労うための音楽会でも催されるのではと考えた人もいたが、そんな思いは、ロビーの天井にぶら下がる寒々としたつららを目にして吹き飛んでしまう。氷柱と氷柱の間に小さな白灯が冴々と灯る様は、劇場の華やかさとはまるで正反対。氷の宮殿に足を運んだ人たちは、みな普段の生活と同じように、じっと衣服に体を埋め、寒さを我慢しながら予定の時間が来るのを待った。
そして四半刻、ロビー端の演壇にマイクが引き出され、係の者が調整を始めた。その横で映像中継用のカメラを回すオバルの様子に、ロビーの人々の視線が注がれる。ロビーに集められた人たちは、ほとんどが一般の市民、それも無作為に選ばれた人たちである。あとは報道関係の者が何名かいるだけで、政府や今回の第二次ファロス計画の関係者、それに専門家らしき者の姿は見当たらない。
「閉鎖されていた劇場で、ダーナは何をやるつもりなのだ」
バハリ女史が後ろに付き従うブィブァスブィットに問う。
ブィブァスブィットは椅子に腰かけたまま、太い眉を上下させると、含みを持たせた声で答えた。
「娘に口止めされているので、イベントの内容をお話しする訳にはいかないのですが、招待されているのが民間人であるということは、宣伝というものは、上からではなく下から行なうものだということです。それは閣下も良くご存じのはず。巷の連中の噂話ほど早く広まるものはないですからな。それも信憑性を持ってです。閣下も含め、お越しいただいた数名の評議員のお偉方は、宣伝の箔づけ。ですから、統首も一市民になったつもりで、ご覧になったものの感想を率直に、かつさりげなく周囲の市民に漏らしていただきたい。そういうのが、一番効果があります」
バハリが白髪まじりの茶髪を耳の上にかき上げ、油断なく補佐官の表情を検分した。
「なるほど、今回の催しの知恵袋はお主か、しかし何があるのか楽しみだな」
「じき分かります、さあ、そろそろダーナの開会の弁が始まります、行きましょう」
ほどなく劇場のロビーに、ユルツ議会の評議員数人と、無作為に招待された市民三百名が集まった。簡単な演壇が作られ、そこにダーナがマイクを手にして立つ。
いつ交換したのか、ダーナは淡いピンク色のマスクを付けていた。
仮面をまとった異形のダーナが壇上に立つと、衆目はそこに集まる。照明などつけなくとも、そこだけがスポットライトを浴びたように、異質な空気が流れる。マイクを通して、ダーナの男とも女ともつかぬ、くぐもった声がロビーに響いた。
「本日は、お忙しいなかをご足労いただきました。本日お集まりいただいたのは、政府が総力を挙げて取り組んでいる第二次国土復興計画、事業地の名を取ってファロス計画と呼ばれる事業がもたらすであろう成果の一つを、皆さんにお見せするためです。もちろん事業地にある古代のエネルギー発生装置が稼働するには、いましばらく時間が必要です。今回はその古代の炉の臨界実験に先だって、その炉が稼働すれば都の暮らしがどう変わるのか、未来の改革の様子を皆さんにご覧になってもらおうと、この催しを企画しました」
普段はあまり堅苦しい前口上など口にしないダーナが、丁寧な口調で弁舌を続けている。今日の催しがそれだけ重要な意味を持っているということなのだろう。ロビーの後ろからダーナを眺めていた統首のバハリは、そう見て取った。
くぐもったそれでいて良く通る声が、ロビー全体を包む。それにしてもと、統首のバハリは思う。仮面の中堅議員、ブィブァスブィット補佐官の娘ダーナは、女としての美を失った代わりに、政治家として大きな武器を手にした。仮面と声。視覚と音で人の耳目を集める。政治家にとってそれを得ることが、どれだけ難しいことか。
現統首の羨望の眼差しなど露知らず、仮面のダーナは、手でホール入り口を指し示しながら、自信に満ちた口調で聴衆に話しかけた。
「何事も百聞は一見にしかず、この劇場の地下ホールにその実例があります。それではこれからご案内しますので、足元に気をつけて階段を降りて下さい。詳しい説明は実例を見ながらにしましょう。そうそうそれから、これからお見せするものには、何の危険もありません。その証拠に、あの磐石を叩いて渡るバハリ統首も皆さんに同席される」
人込みの後方で、バハリ女史が軽く手を上げた。人々の間から、統首と同席する場に招待されたことの軽い驚きの声が上がった。
「では私の後に、ついてきてください」
ダーナは壇上から降りると、先頭に立って地下ホールへ降りる階段に向かった。
二十段ほどある階段は、非常灯がついているだけで薄暗い。階段下、地下ホールの大扉の前に、身なりを整えた係官らしき人物の姿があった。
全員が地下のロビーに寿司詰めの状態に降り立つと、見計らったように非常灯が消され、同時に地下ホールの大扉が係員の手によって押し開かれた。
真っ暗で中は見えない。
ダーナが手にした拡声器のスイッチを入れた。
「皆さんもご存じの通り、サイト2で稼動に向けた準備を進めている古代の炉は、物質からある特定の電磁波を発生させるエネルギー発生装置です。その電磁波を私たちは通常『光』と呼んでいます。質量転換炉と呼んでいる古代の炉が動き始めれば、生み出される『光』は、クリスタル繊維で作られた光伝ケーブルを通して、私たちの家庭や様々な施設に送り届けられます」
ダーナの話に耳を傾けながらも、人々の目は前方の開かれた大扉の中に注がれていた。暗闇である。しかしその闇の中から、暖かく湿った空気と共に、なんとも言えない甘い鼻孔をくすぐる匂いが漂ってくる。それはあの火炎樹の樹液を発酵させるときに出る、隠微で少し鼻を刺す匂いとは異なる、心安らぐ香りだ。
匂いに気づいて扉の奥を注視する人たちを焦らすように、ダーナが続けた。
「質量転換炉の立ち上げには、サイト内にある核力炉で発電した電力が使用されます。今回、その核力炉で発電した電力の一部を、質量転換炉の技術の核心の一つでもある乾壺に蓄え、植物育成プラントの一部とともに、この劇場の地下に運び込みました」
一呼吸置くと、「では、ご覧下さい」と言って、ダーナが手にしていたスイッチを押した。
その瞬間、辺りが白い光に包まれた。
突然の眩しい光に誰もが目を閉じる。その目を閉じた人々の鼻を、甘い香りがくすぐる。まるで早く目を開けて匂いの正体を確かめなさいとでも言うように……。
誘われるように目を開くと、一面に咲き乱れる黄色い花々があった。
「どうぞ中へお進みください、そして黄菜の甘い蜜の匂いを楽しんで下さい」
係員に従い花畑の中に設けられた石畳の通路に足を進める。腰の高さほどに茂った草が、溢れるほどに黄色い花を咲き零している。甘い香りが全身を包む。
誰かが頭上を指さす。天井にびっしりとケーブルのようなものが張り巡らされている。
明るさに慣れてくるにつれて、光伝ケーブルの先端に取り付けてあるレンズを通して、暖かな光がホール全面に降り注いでいる様が見えてきた。
寒さで凝り固まった肌が、暖かな光に心地良く解れていく。
椅子の取り払われた地下ホールは、高床式の花畑に変わっていた。
核力発電の電力を乾壺に蓄えて運び、その電力を光に変換してホール内に照射する。光の強さは、単位面積当たり毎分二カロリー。これは、まだ地球が暖かだった光の世紀の太陽光の強さに合わせたもので、かつ、この光には紫外線などの人体に有害な電磁波は一切含まれていない。植物の生育に有益な電磁波のみで構成された光。その光だけで育てられたのが、いま目の前で黄色い花を咲かせている黄菜だ。
半世紀ほど前、大陸西海岸のパルム国で発見された黄菜は、緑の死を越えて生き残った植物の中では、唯一良質の油を種の中に貯える油糧作物だが、残念ながら寒さに弱く、自然の状態ではまず花をつけ実を結ぶことがない。育てようと思うと、あのバドゥーナ国の迎賓館にあるガラス室のような空間が必要となる。
そのパルム国が所蔵していた種を、第一次ファロス計画の際に、ユルツ国は譲り受けた。古代の炉が稼動して無尽蔵に光を生産し始めれば、まずは黄菜の栽培施設を建造する予定だった。もし大地が黄色く染まるほどに黄菜を育てることができれば、火炎樹の樹液から作る偽物の樹油は必要なくなるのだ。
「一年を通して氷の絶えることがないユルツ国でも、豊かな暖房と照明さえあれば、このように黄菜も大きく育ち、馥郁とした蜜の香り溢れる花を咲かせます」
ダーナが、自身も感銘を受けたように感想を口にした。
みな胸に大きく息を吸いこみ、鼻をうごめかせる。あまりの強い匂いにむせ返る人もいる。
「奥にお進みください」
ダーナの声がホールの中に木霊のように響き渡る。
何かに憑かれたように、全員がダーナの言葉のまま、ゾロゾロと前に進む。前方のステージ寄りの一角は、光の照度が一層強く感じられる。実際その照明の下に立つと、肌が焼けるほどの光が照りつけていた。
「ご安心を、作物の生育上少し光を強くしていますが、人体には何ら影響ありません」
黄菜に隠れて見えなかったが、張り巡らされた柵に絡まるようにして蔓草が茂っていた。その茂みのあちこちに、ピンポン玉ほどの大きさの赤い実がぶら下がっている。
「どうぞ手近な実を、もいで食べてみてください」
呼びかけに、一人の婦人が恐る恐る赤い実をちぎり取る。そして周囲の視線を集めるなか、口に入れた。食べた婦人の口から果汁があふれ……と、婦人が目を細めた。それは誰が見ても、豊潤で滋味溢れる料理を口にした時の表情だ。波が拡がるように、次々と周りの人も赤い実に手を伸ばす。いたる所でため息が漏れた。
酸味の中にも甘い香りを含んだ果汁が、歯茎の隙間から舌の裏、口蓋から喉へと流れ、口の中に滲むように広がっていく。それが赤い実だったからだろう手の平に乗せ、「まるで、巨大な紅珊瑚のようだ」と、誰かが感想をもらす。
ダーナが意を得たりとばかりに「それは、紅珊瑚そのものです」と受けた。
苔の間に育つ紅珊瑚は、赤ん坊の小指の先ほどの大きさの実しかつけない。ところがその紅珊瑚も、強い照明と二十度以上の気温で育てると、垣根を這い上がるほどの蔓となって育つ。種を播き、光を照射して二カ月で、実がこの大きさに育ったというダーナの解説に、一同が驚嘆の声を上げた。曠野では、小さな紅珊瑚が実をつけ赤く色づくまでに、三年の月日が必要なのだ。
あちこちで掛け値なしのため息が漏れる。バハリ統首と歳若い婦人が、互いに口の回りについた赤い汁を見て笑い声を上げた。誰彼となく笑顔がこぼれる。そして異口同音に「こんな室内で紅珊瑚が実るなんて」と、感嘆の言葉を口にした。
ダーナのくぐもった解説が、一同の耳に心地良く忍び入る。
「今回はたまたま地下ホールを使いましたが、場所はどこでもいいのです。あなたの家の台所でも、工場の片隅でも、天井裏でも、光伝ケーブルを引けば、どこでもこの黄菜を咲かせ、紅珊瑚の赤い実をたわわに実らせて収穫できるようになる。
誰もが知っているように、地上の全ての生命を支えているエネルギーの源は太陽の光であり、その光を元に育った植物です。残念ながら二千年前の『緑の死』によって、今の地上に残された植物の総数は、苔を除けば二十種ばかり。いにしえの何十万種という植物の繁栄からすれば余りにも少ない。
しかし数は少なくとも、穀類から野菜、果実、繊維の採れる草、樹木、人が利用できる一通りの植物は、それぞれが神の恵みのように生き永らえている。失われたのは植物の育つ環境なのです。だから環境さえ整えてやれば、私たちは光の世紀のように、誰もが豊かな実りを手にすることができる。この赤い果実のようにです」
弱々しい太陽の日差し。赤道周辺でさえ、夏の間に辛うじて苔と丈の低い草が育つ程度の光。人が食べるような作物を育てようとすれば、ガラス室にでも入れて、貴重な石炭や火炎樹の油を燃やして加温してやらなければならない。だがエネルギー源の枯渇した貧窮の時代に、そんな余裕などあろうはずもない。
結局、人は太陽の光を必要とせず、低温でも生長可能な火炎樹に頼るしかなかった。しかし光の世紀から二千年、その火炎樹の育つ土壌という資源も枯渇に直面している。いま人類にとって必要なのは、土壌がなければ育たない火炎樹に代わる、新たな燃料と食料の元となる資源を生み出すこと、その生産のシステムを構築することだ。
ダーナがホールの人たちに問いかける。
「もし物質から直接光を取り出すことのできる古代の炉が蘇れば、どうなると思いますか」
十分な強さの光さえあれば、植物は土壌などなくとも育てることができる。氷床から流れ出る氷河水の養分だけでも、植物は十分に生長することが確かめられている。
火炎樹が、最後、大地をガラスに変えてしまうほどに土壌を収奪するのは、火炎樹が太陽の光のエネルギーの代わりに、土壌を分解して発生するエネルギーを用いるからだ。光さえ潤沢にあれば、その光を元に木を育て、その木を燃やして暖を取ることもできる。
「太陽とは不完全な炉なのです。太陽は生物にとって有害な高エネルギーの電磁波や荷電粒子をまき散らします。地上に降り注ぐ太陽光にして、生物にとって有害な紫外線などを含んでいる。対して、古代の炉が生み出すのは光だけ。もし古代の施設、ファロスサイトが完全に復活するなら、私たちは太陽以上の太陽を手に入れることになるのです」
期せずして拍手が沸き起こった。それは掛け値なしの拍手だった。
人々は、お土産として、ホールで育てられた黄菜の黄色い花と、紅珊瑚の赤い果実を渡され、興奮した面持ちで帰途についた。
市民の一団に混じって行動していたバハリ女史が、果汁で赤く染まった口元を係員から渡された布で拭いていた。どうやら試食は一人一個というダーナの指示を聞き流し、幾つも口に入れたようだ。バハリが、補佐官のブィブァスブィットを見つけて声をかけた。
興奮で顔が赤く上気している。
「ちょっと、はしゃぎすぎたかな」
「いえ、しかし閣下の演技もなかなかのもので、サクラとしては申し分のない働き、おかげで大いに盛り上がりました。これでファロス計画に対する市民の印象も好転するでしょう。もちろん閣下ご自身の人気もですが」
バハリは、にこりともせず、鋭い視線を補佐官に向けると、
「お前が焚きつけても、これ以上の予算は捌けないぞ」
ブィブァスブィットが、肩を揺すって苦笑いをした。
興奮を抑えるようにバハリは用意してあった水を飲み乾すと、急にもう演技は終わりだとばかりに真顔に戻り、庇のような眉の下の目を光らせた。
「ブィット、親馬鹿は抜きにして、お前の目で見て、今回の計画の成功する確率はどの程度だ、はっきり聞かせろ」
補佐官のブィブァスブィットは、小柄な女性統首よりも遙に大柄である。そのブィブァスブィットが、統首の視線をかわすように視線を上に向けた。
「それが一パーセントでも、あの第二次ファロス計画の総監はやるでしょう。残った半分の顔を悪魔にくれてやってもです」
一瞬の間があって、バハリが「その程度なのか」と聞く。
「問題はあの古代の施設に欠陥があるかどうかの問題ではなく、あの施設を私たちが使いこなせるかどうかということでしょう。
統首、赤子に奔馬は乗りこなせない。前世紀の技術に我々はいつも瞠目させられてきた。ところがそれが本当に今の世で役に立つかどうかは、使ってみないと分からない。言い代えれば、人の想像力というのは、その辺りが限界なのです。技術というものは、いつも諸刃の剣、その技術で何が引き起こされるかということは、神の領域。未来は分からない、だから賭けることができる、結果が出るまではいい夢を見てです。
今日集められた市民は、おそらくファロス計画の結果が出るまでは、良い夢を見るでしょう。政治家の仕事というのは、市民に束の間の夢を見せること、そうじゃありませんか。現実の世界に、そんな甘い果実がゴロゴロと転がっているはずはないのですから」
「それはそうだが……」
知将と言われた前国務大臣の説明に、バハリは固い表情で頷くと、
「しかし、お前の娘なら、その厳しい現実の扉をこじ開けることができるかもしれんな」
「そう期待しているところですよ、それが儚い夢でもね」
統首補佐官は、ホールの反対側で市民と話を交わすダーナに視線を向けた。
二人の老練な政治家の眼差しの先に、ダーナの仮面の側の顔があった。
地下ホールでのセレモニーの宣伝効果は大きかった。
その日のうちにユルツ国の市民の間では、近い将来に寒さを気にしないですむ生活がやってくると、まことしやかに囁かれるようになった。それを思えば、街灯に明かりのない暗い夜道も、各家庭で白灯五つ分に制限された電力の使用も、逆に楽しいものとなる。そして計画に異議を唱える人たちは、夢を奪う者、忍耐力のない者として、周囲から冷たい視線を浴びることになった。
急遽、ファロス計画に対するデモは延期、反対派の腰が引けたのだ。
ところが遷都派や褐炭組合のように、経済的な目的や利権目当てで反対していた者たちとは別に、純粋に今回の計画の危険性を感じて反対運動を行っていた者もいる。それが前回のサイト1の事故で肉親を失ったり、事故の後遺症で苦しんでいる人たちである。
先に、惨事の原因として、幼児のいたずら説が政府広報室から発表されていたが、惨事の直接の被害者たちから見れば、それは逆に、計画推進派への不信と、ファロスサイトと呼ばれる古代の施設そのものの危険性を高めるだけにしか映らなかった。
いたずら説は責任の所在を曖昧にするための方便であり、幼児のいたずら程度で暴走するような施設は、どう考えてもシステムとして不完全、欠陥を持っていたとしか考えられない。そして施設そのものの問題点の有無に関しては、事故の調査報告書は何も答えていないのだ。
質量転換炉の核心部分の構造が全くのブラックボックスにあるということ、古代の炉を稼動させるに当たって、頼るべきものが、施設の情報バンクに残された膨大な量の管理運用マニュアルだけという構図は、全く前回の惨事の時と変わっていない。おまけに今回のサイト2は、サイト1の約三倍の規模である。サイト1の事故の時と違って、その影響が都に及ぶ可能性は十二分に考えられた。
世論は地下ホールの一件以来、諸手を挙げて計画賛成、古代炉の早期稼働を期待する雰囲気に変わっている。だがたとえ古代の施設が技術的に完全で、百パーセントの安全を誇っていたとしても、人為的なミス発生の可能性は否定できない。みなが成功の甘い夢を見ているその裏には、悲惨な事故の可能性が貼りついている。成功のカードの中に失敗のジョーカーが紛れていることを忘れてはならない。それがあの十年前の惨事で、消えることのない傷を体と心に負った者の共通の想いだった。
ファロス計画反対派の後ろ楯、褐炭産業組合が、世論の動向を見極めるように様子見の態度を取ったことで、逆に、純粋に計画の中止を訴えていたメンバーは、実力行使で実験を阻止する方向に動きだした。
推進派は炉の臨界実験の予定を前倒しに早めようとしている。当初はサイトの危険性を地道に訴え、計画の再検討や延期を画策していた反対派メンバーも、ここに至って実力行使しか残された道はないと判断、純粋反対派独自の方針として、古代炉の臨界実験を実力で阻止することを決定した。
その行動計画の内容は、ファロス計画の関連施設を破壊して、当分の間、古代炉の臨界実験ができない状態にすること。と同時に、燭甲熱の感染者の濡れ衣を着せられてサイト内に幽閉された反対派の関係者を助け出し、推進派の行っている人権侵害を明らかにすること。そして、今回の計画を推進している現統首バハリの政治グループに、都の地権団体から高額の賄賂が送られている、その証拠の書類を盗み出すこと。それらを一気に実行することした。折しも一週間後に臨界実験を控えて、ユルツ国北方の氷床地帯は激しい吹雪に見舞われていた。
次話「調光シャッター」




