入札
入札
十二月六日、正午前。
大臣ガヤフの手元に、入札額を書き込みバドゥーナ国代表のサインと国璽を捺印した用紙が用意された。あとは正午ちょうどに、用紙を画像通信機の所定の位置に置いて、送信ボタンを押すだけである。そうすれば自動的に用紙の画像が、日輪洋行とゴーダム国に送信される。画像通信機を閣僚たちが取り囲み、その時を待っていた。
ガヤフが疲労の溜まった目をしばたく。用紙に記入する額が決定するまでのこの数日、避難民対策や警邏隊の装備問題なども含めて、延々と会議が続けられた。もし入札に敗れたらという思いもあるが、とにかく今はもう何も考えずに待つだけだ。
三日前の第一回目の入札で、バドゥーナ国は三億ボルの額を提示した。この提示額は、万が一母種の争奪戦に敗れ、代用の殻種をゲルバ護国から買い付けることになった際の想定額である。この三億ボルを基準に、最終入札額は、各省庁の予算を均等に二割削減して、一億五千万ボルを捻出、それを上乗せして四億五千万ボルとすることに。緊急の際に内部の結束を固めることを優先して、各省庁痛み分けの資金捻出の方法をとった。
対するゴーダム国は、第一回目の入札でバドゥーナ国の最終入札予定額を少し上まわる、四億六千万ボルという、予想外の高額を提示。
まるでバドゥーナ国の懐具合を見透かしたような額である。
膨大な避難民を抱えて果たしてそれだけの額が出せるのか、疑問符もつけられるが、何がなんでも母種を当方にという意志は、その額から感じ取れた。
三日前の第一回入札額提示の直後、ゴーダム国内部に潜入させてある情報部員から連絡が入った。ゴーダム国は、避難民対策の費用をばっさりと切り捨て、それを入札費用に割り当てたという。その決定にはゴーダム国統首の強力な一存があったらしい。加えてゴーダム国には、バドゥーナ国側が把握していなかった非常時用の裏の準備金があった。灯下管制や物資配給などで貯えた資金が、予想以上の額で隠匿されていたのだ。
バドゥーナ国としては、当然、最終入札で四億六千万ボルを上回る額を出さなければならない。情報では、ゴーダム国はおそらく六億ボル近い金額を出してくるのではと推測される。だが均等な予算削減の方向で、それだけの額をひねり出すのは難しい。どうしても削れない医療などの予算があるのだ。均等削減ではなく、どこかで一刀両断に何かを大きく削らなければならない。また一から方針を立て直さなければならなかった。
しかし最終入札までの時間は、丸一日、二十四時間。
目標は六億ボル。
今のバドゥーナ国の財政事情では、かなり厳しい数字である。都の財政の破綻を取るか、破綻するのを承知でデルタの開発を取るかだが、もし財政が破綻した状態で、ゴーダム国との武力衝突や避難民の一斉流入のような事態にでもなれば、とても持ち堪えることはできない。それにたとえ母種を入手できたとして、その後の開発事業が息切れしてしまう公算が大きい。開発が遅れれば、いずれゲルバ護国から殻種を買い付けて参入してくるであろうゴーダム国に、追い越し追い越されてしまう。なにせゴーダム国はバドゥーナ国の四倍の人口を有している、人海戦術の競争になれば、とても太刀打ちできない。
会議が混迷するなか、一つの情報がもたらされた。
万越群島の交易商人たちの世界に潜り込ませておいた情報局の部員が、今回の母種の売り込みを図っている日輪洋行なる団体が、海賊上がりのビアボア商会という裏商人グループであることを突き止めたのだ。
ただし母種は一味の根城である鉄床島にはないという。
警邏隊を派遣して一味を縛り上げ、母種のありかを吐かせるという手も考えられるが、一歩間違えば、逆に入札交渉を破談にして、母種を無条件でゴーダム国側に売り渡す後押しをする怖れもある。慎重に検討した結果、一味を取り押さえるのは、入札に敗れた場合の次善の策とする。そして入札の結果次第で直ちに日輪洋行を急襲できるよう、極秘に準備を進めることに……。
とにかく今は、入札で相手を上回る条件を提示することが急務だった。
そのことに関して、日輪洋行、すなちビアボア商会に関する報告のある点が注目された。一味の首領であるビアボアという男が、光の世紀の美術品のコレクターであるというのだ。それも、今は絶滅したカエルをあしらった工芸品や、装飾品に目がないという。
案が出された。
盤都の迎賓館地下倉庫には、塁京の繁栄のなかで大陸全土から流れこんだ、美術宝飾品のたぐいが多数眠っている。多くは満都時代の物だが、なかには二千年前の人類滅亡の災厄を生き延びた、光の世紀の貴重な品も入っている。傷みが酷く、満都時代の美術品に比べて価値は低いが、美術品というものはそれを評価する者にとっては、億万の富とも交換しうる物である。これを利用できないかというのだ。
入札の代価は、金銀貨と宝飾品で支払うことが明記されている。美術品を入札の金額に上乗せしようとするのは、官邸の内部に入り込んでいる隣国の手の者によって、すぐにゴーダム国側に伝わるだろう。しかしこれは情報が漏れても問題ない。おそらくゴーダム国は判断する。バドゥーナ国が苦し紛れに、金貨銀貨の不足を美術品で補おうとしているのだと。それにこの方法の利点は、ゴーダム国に真似される怖れがないことだ。
従来移動生活を行う牧人は、財貨を金銀宝石に替えて貯える習慣がある。牧人にとっての財貨とは、移動時に嵩張らないことが必須条件なのだ。ゴーダム国政府が裏の国庫に大量の金貨を秘匿していたのは、この習慣とも関係がある。対して北出身者の多いバドゥーナ国は、金銀宝飾品は当然として、同時に美術品や工芸品、あるいは技術資料なども、財貨相当物と見なして投資する。バドゥーナ国の迎賓館地下の宝物庫に、美術品や光の世紀の遺物が多数収納されているのはそのためだ。
バドゥーナ国の入札内容が決定した。
六億ボル分の内、金銀宝飾品での支払いが五億二千万ボル。それにバドゥーナ国側の見立てで、八千万ボル分の美術奇覯品を上積みすることで、最終入札額とすることに。もちろん奇覯品の中には、こちらの意図を悟られないように、一点だけ、七十個のルビーをちりばめたカエルの置物が、さりげなく盛り込まれた。
バドゥーナ国の取った入札方針によって、今回の母種の入札競争は、牧人の貯えた金銀貨と北の民の収集した美術稀覯品、この二つの価値を日輪洋行がどう評価するかということに懸かってきた。
そして入札指定日の正午、入札条件を記入した紙が画像通信機にセットされる。
果たして……、
ちょうどその入札時刻、盤都迎賓館のガラス室に、情報局のラジンはいた。
ラジンは禽鳴舎前の円卓に書類の束を積み上げたまま、うたた寝をしていた。情報局の仕事は、議論をするための資料を集め分析することである。春香の時代の政府でいえば、インテリジェンスを担当する部署になる。通常なら分析結果を提出してしまえば、会議に顔を出すことはない。元来が裏方の仕事なのだ。ところが今回の入札に関する討議では、時間的な制約もあって、会議の場で情報の提示と分析を求められた。その大役から解放され、しばし休息を入れたかったが、実はまだ仕事は終わっていない。
入札の翌日正午に、日輪洋行から入札結果が届く。
一種の電子入札であるから、互いに電送されてきた入札条件の書面を確認すれば、それで勝負の結果は一目瞭然と思えるのだが、大きな取引、とくに国家レベルの取引となると、実際の条件以外にも、付帯事項の検討や煩雑な手続きがあり、簡単に結論は出ない。今回の場合にも、実際に代価として支払われる貨幣の種類の確認など、いくつもの検討課題があった。物の受け渡し条件等の細かなことの確認を経て、初めて入札の決定が下される。その手続きに要する時間をとって、中一日を置いての入札結果の告示となる。
その一日の猶予の間に、情報局としては、やっておかなければならないことがあった。 それは首尾良くバドゥーナ国が母種を落札したとして、ゴーダム国がそのことにどう対応してくるかということだ。それを分析しておかなければならない。
入札の段階でも見通しは立ててある。だが種を入手できなかった時のリスクは検討されても、入手できたときのリスクの検討は甘くなるのが常。それを早急に検討し直す必要があった。極端な話、種を入手できなかったことで、ゴーダム国が一気に武力でもって母種を奪いにくる可能性もある。冷静に状況を見極めなければならなかった。
ところが四日間に渡る会議に付き合って、頭は飽和状態に陥っている。その腫れ膨れた頭を休めるために、緑のガラス室に足を運んだのだ。
目に飛び込む緑と、緑が発散する香気が、疲れた脳細胞を癒してくれる。少しは回復したかなと、ラジンは目を開け、傍らに置いた資料をパラパラとめくるが、まだ文字が目を素通り。集中力が戻っていない。
と、ラジンの重いまぶたの下の目が、積み重ねられたファイルの一つを捉えた。
ハン博士の行方の探索に当たっている部下から提出された書類で、この二週間ほどの間に行なった、ハン博士の足取りに関する調査の結果をまとめたものだ。母種入札の件で忙殺されていたために、ラジンはざっと目を通しただけで、後は完璧に報告書のことを忘れていた。若干の懐かしさを込めてファイルをめくる。
報告書は、この十年間のハン博士の動向を追ったものだが、その内容は予想外のものだった。
十年前の惨事の後、ハン博士は母や息子を捨てて失踪、かつて妻と訪れたことのあるチェムジュ半島の海辺に家を借りて、世捨て人のような生活を送り始めた。しかしそれは二年間だけのことで、やがて博士はチェムジュ半島の家を空けるようになる。チェムジュ半島の家には通信機材だけを残し、年に一度帰るか帰らないかの生活である。旅に出たというよりも、生活の拠点を移したのではと考えられた。
捜索の結果、ハン博士の新しい滞在先は、事前の情報通り、塁京の小国ティムシュタット国にあった。この十年で考えれば、最初の二年を除けば、博士はティムシュタット国で生活をしていたといってもよい。ティムシュタット国を拠点として、大陸の各地に赴いていたことが、定宿としていた臥温館という宿の主人の発言からうかがえる。
博士は、ラジン同様、旅の丸薬商をやっていた。おそらく母親が薬剤の専門家であったこともあり、多少なりとも薬に関する知識を持ち合わせていたのだろう。
だが旅の丸薬商としてティムシュタット国の宿を利用していたのは三年前までで、ハン博士はその後宿に立ち寄っていない。宿の主人の話では、ちょうど二年前に、ハンの知り合いという人物が訪ねてきて、預けてあった薬箱その他の荷物を引き取っていった。知り合いが訪ねてくるかも知れないということは、事前にハンから聞かされていたし、ハンからの手紙を携えていたので、宿の主人は荷物を渡したという。
足取りを辿れるのはここまでで、その後は、まったくの行方知れずとなる。
思案げな表情を浮かべている聞き込みの部員に、臥温館の主人が目配せをする。情報があるというのだ。さっそく部員が相応の金を掴ませると、主人は声を潜めてあることを語った。それは宿の番犬が、ハンの友人と名乗る男を吠えなかったというのだ。宿の主人が思うに、その知人なる人物が、ハン本人だったのではないか……。
おそらくは顔を変えたのだろう。それでも、そこでハンの足取りは途切れる。
博士は行商の旅から戻ると、良く旅先の話をしていたという。行き先は大陸の全土に及んでいる。驚くべきことに、東の地の果てといわれる氷亜大陸の一歩手前や、亀甲台地南端の聖地までも足を運んでいる。「自分は薬を売ることよりも、旅をすることが好きなのだ」というのが、ハンの口癖だったらしい。
そうやって薬売りを装って世界各地を渡り歩いていたハンが、顔を変えた。
何のために?
書類にはハン博士の写真が添えられていた。写真の裏面に『ユルツ国情報局より入手』と、但し書きがされてある。
その写真を眺める。十年以上前、例の惨事前に撮られた写真である。学者とはいえ、思ったよりも精悍な顔つきの男という印象だ。ただし目つきは、いかにも学者風の物事を少し距離を置いて眺めるような、静かな目をしている。
報告は、今後のハン博士探索に関してご指示をと、締めくくってあった。
ラジンは天を仰ぐ。
ハン博士は何の目的で丸薬商に扮して大陸各地へ出かけて行ったのか。自分と同様、何かを調べるためなのか。それに拠点としてドバス低地、更にはティムシュタット国を選んだことに何か明確な理由があったのか。そして今でもこの地にいるのか。いや問題は、顔を変えたということだ。いったい何のために。何かから逃れるためなのか、それとも顔を変えて何かを行おうとしているのか。
一番考えられるのは、顔を変えてユルツ国に戻るということだ。計画復興に反対するために……、いや違う、計画が再興に向けて動き出したのは、つい一年半前のことだ。三年前に顔を変えたというなら、理由は他にある。
一番可能性のあるのは、やはり十年前の惨事がらみの事になるだろう。だがそれが、大陸各地にまで出かけて行かなければ、できないことなのか。
ハン博士は宿の主人に「長い旅に出るので当分ここには戻れない」と言って、宿を引き払ったという。宿の主人はその言葉を額面通り旅と受け取ったようだが、おそらくそれは旅ではなく、博士が行うとしていることに、相応の月日がかかるということだ。
それにしても、手元の少ない情報だけで推測を重ねるのは難しい。それに推測に推測を重ねるのは、道を誤る元でもある。推理は単純でなければならない。大切なのは、いま分かっていることから逸脱しないこと、情報の本質を探ることだ。重要なのは、三年前にハン博士が顔を変えたということ、そして活動の拠点に塁京のティムシュッット国を選んだということだ。ティムシュタット国は、荷船業を中心とする門京といってもいい小国である。そこに十年前の惨事とつながるものが、あるのだろうか。
自分の気づいていない何かが……。
ラジンは疲れの取れない頭を解すように、ハン博士探索の糸口に思いを巡らせた。目を閉じ、ハンという男のイメージを頭の中に描き出す。自分がハン博士になったつもりで考えるのだ。自分が博士なら何をするか。何をやらなければならないと考えるか。
目を閉じて一心に頭を磨ぎ澄まそうとするラジンの耳に、歌声が聞こえた。歌というより喉を震わす鈴のような響きだ。
大木の朽ち木の陰から、ぼんぼり髪の少女が、レンガの径をスキップしながら走ってくる。派手な蛍光色のピンクの服装、ガヤフ大臣の娘だ。娘は、禽鳴舎手前の丸卓にラジンが書類の束とともに座っているのを見ると、ピタリと足を止めた。
ラジンは、以前ガヤフ大臣本人から「これが女房の置き土産だ」と、娘を紹介されたことがある。大臣の娘らしからぬ、うわついたピンク色の服装と、人の目を見てしっかりと話す大人のような身ぶりが、妙にアンバランスで印象に残っている。
ところが、その時聞いた娘の名前が、とっさのことで出てこない。
ラジンは軽く手を振って国務大臣の娘に声をかけた。
「ガヤフ様のお嬢さんではないですか、南からの客人でもいらしたのかと思いました」
ジャーバラは直ぐにラジンの顔を思い出したのか、軽く微笑むと、ツツッとラジンの側に歩み寄り、怪訝そうな顔をして尋ねた。
「ラジンさん、この曲を知っているの」
ジャーバラにしてみれば、さっき沸砂語の先生から習ったばかりの歌だ。この都ではついぞ耳にすることのない牧人の歌である。それをこの情報局の役人は知っているという。
「ええ、南の牧人、イボイの歌でしょう、独特の発声方法です」
「さすが、情報局の人は、何でも良く知っているのね」
ようやく頭の中のファイルから娘の名前を引き当てたラジンは、
「仕事で大陸中を旅していますからね、つい雑学ばかり頭に入ります。以前仕事で沸砂平原に行った折に、似たような歌を耳にしました。でもその時の歌い手よりも、ジャーバラお嬢さんの方が遙かにいい。お嬢さんは天性の歌声をお持ちなのでしょう」
誉められてジャーバラも万更でない様子で、「情報局って、お世辞を言うのも仕事なの」と、にっこりと微笑み返した。
「はは、これは本心ですよ」
「ありがとう」と率直に礼を言うと、ジャーバラはラジンの横に腰かけた。
「わたしね、今、お父様の言いつけで、沸砂語を習っているの。でも言葉って、文法や単語だけ覚えたってつまらないでしょ。だから先生に頼んで歌を教えてもらっているの」
一般的には、北の人々は南の牧人の歌を歌わない。知らないということもあるが、その節まわしが何となく生理的に合わないのだ。それが沸砂平原のごく一部、イボイの民の歌だけは、例外的にそれを南の牧人の歌と知らずに歌うことがある。これはイボイの民が無類の歌謡文化を持っているからで、芸が文化の垣根を乗り越えていく良い例だった。
ラジンはその一曲を口ずさみながら、
「そうですか、沸砂平原のイボイ地区は、いい歌謡いを輩出している所だ」
「そうなの、何曲か先生が歌ってくれたんだけど、びっくりしたわ。乾燥して広々としてる土地の歌っていいわね。先生の説明だと、声を風に乗せるんだって言うの。声が空に広がっていくような響きをしていて、歌っているとこちらも気分が晴れ晴れとしてくる。面倒な政治学や法律書を読む間の気分転換には、もう最適」
楽しげに話しながら、ジャーバラは腕の時計に目を落とすと、慌てて立ち上がった。
「あーっ、ダメダメ。こんなところで油を売ってちゃだめなんだ、宿題をやらなきゃ」
急いで走り出そうとしたジャーバラが、前傾姿勢のまま足を止めると、何かを思い出したかのようにポンと額を手で打ち、ラジンの方を振り返った。その顔が法律書という言葉とは縁のなさそうな、いかにも人なつっこい笑みを浮かべている。
「そうだ、ねっ、ラジンさん。情報局の筋で、マリア熱の薬が手に入らない。友だちが欲しいって言ってるの」
突然の申し出に、ラジンは少女の意図を計りかねたのか、少し用心深い声になって問い返した。
「それはわたくしよりも、お父様に頼まれた方がいいでしょう」
「だめだめ、あんな頑固親父。それにお父様に頼んだりしたら、その見返りに勉強時間を増やされるのがオチだもん。ちょこっとでいいの、一回分でも二回分でも。別に横に流して、お小遣いに代えるようなことはしないから」
ラジンは苦笑いを浮かべ、
「その程度の量で宜しいんでしたら、局内の備品の誤差でどうにでもなりますが、いったいどのようなお友達に差し上げるんですか」
「ほら、ここに囚われてたユルツ国の女の子がいたでしょ、あの子よ」
「ああ、あの娘、なるほど」
ラジンはやっと薬の用途が、シャンの診療所用なのだということに気づいて、「ベコスの診療所ですか」と、確かめるように聞いた。
ジャーバラが、さすがという表情でコクンと頷く。
「それならそうと、最初からベコスの診療所用にと、おっしゃっていただければいいのに」
「だって、民間の診療所に無料配布するのは、一年に一度、難民救済用に備蓄してある医薬品の、緊急配布分の一パーセントを転用するのが慣例でしょ。へたに余分の配布請求を出して、次年度分を削られたりしたら悪いもん。だからわたしが個人的に友人にあげる形にするの。それだと記録に残らないでしょ、雑供出の項目に入るから」
「はは、恐れ入りました。しかし、今からそんな裏の方法をおやりにならなくても、お嬢様なら、正攻法で請求なさって大丈夫だと思いますが」
ジャーバラが額に手を当て、抗弁するように言った。
「ンーッ、政治学って、本で読むと理屈ばっかりでつまんないの。政治って実用学でしょ、実際に表も裏も試してみないと実感が湧かないのよね。理論と実践っていうか、まっ、それはわたしの言い分だけど。ほんと、友だちがぜひなんとかならないかって悲鳴を上げているの。よろしくお願い。うまく手に入ったら、今度、歌を聞かせてあげるから」
大きなピンクのリボンをキュッと左右に引っ張ると、ジャーバラは、ラジンの元に走り寄り、軽くその頬にキスをした。
そして「もうほんとに、行かなきゃ」と言って、出口に向かって走り出した。
あっけに取られるラジンに、大木の脇で足を止めたジャーバラが、振り向きざまに一言付け加えた。
「そうだ、薬はいつも避難民の人たちに配布している、期限切れのシールを付け替えたんじゃないのがいいな」
そう言うと、後はもう振り向くこともなく、スキップをしながら通路を出ていった。
ピンクの蝶が林の中をフワフワと飛び去るように、ジャーバラのリボンが緑の林の向こうに吸い込まれていく。国務大臣の娘を見送りながら、ラジンは少女の唇の触れた頬に手をやった。なぜか、ごたごたした考え事がどうでもよくなっていた。そして思った。そういえば、あの古代人の娘はベコス地区の診療所にいるのだ。死なずに助かったのを知った時は、ラジンもほっとしたものだ。
「診療所の、シャンのところか……」
呟きながら頭のなかのファイルをめくって、シャンの項目を探る。そのラジンの耳に、どこからかジャーバラの歌声が聞こえてきた。ラジンは苦笑した。
あのピンクファッションの娘の要望なら、この忙しい最中でも薬の手配がそれほど手間に思えない、そう思っている自分に苦笑いしたのだ。どの程度の分量の薬を調達しようかと考えながら、やがてファイルをめくっていた指が、診療所の医薬師シャンの項目を探し当てて止まる。そして、はっと顔を上げた。
医師のシャン、本名は確か、ブィブァスブィット・イル・シャン。ユルツ国の著名な政治家の娘。それも例の復興計画の旗振り役をやっているダーナの双子の姉である。そのことが、脳裏に蘇ってきたのだ。その情報がハン博士の探索とつながる。
すかさずラジンは懐に手を入れると、小型の無線機を取りだした。薬箱の底に忍ばせていた小型の衛星通信機だ。情報部員は都の内部にいても、通信はこの古代のモバイルを使う。ラジンは、その手の平に乗る通信機のキーのいくつかを素早く押した。すぐにモバイルはつながり、ラジンの耳に部下の声が飛びこんできた。
「部長ですか、さっき警邏隊のガンボジ総統から連絡が入って、すぐに官舎の第一会議室に来てくれということです」
「分かった、十分ほどで行くとお伝えしてくれ。それから、これは至急調べてほしいのだが、このドバス低地に在住の主要なユルツ国の出身者と、それから……」
ラジンは書類に添付されたハンの写真に目を落としながら、早口に部下に指示を出した。
次話「地下ホール」




