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星草物語  作者: 東陣正則
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往診


     往診


 午後、春香は鞄持ちとして、シャン先生の往診のお供をすることになった。

 シャン先生の診療所は、濠都ゴルの東南側に張り出すベコス地区と呼ばれる砂洲にある。このベコス地区は、クルドス分水路沿いに広がる窮民街の中では最も古い地区で、住人は都の前身の宿郷時代からこの地に暮らしている人たちが大半を占めている。

 どちらを向いても、泥壁ヨシ葺き、あるいは壁も屋根もヨシでできた小屋が、せめぎ合うように並んでいる。その河岸を縁どる窮民街の後ろには、塁堤が防波堤のようにうねうねと連なり、その背後に堤から食みだすようにして火炎樹の樹冠が覗いている。

 シャンは春香を連れ、ベコス地区から先に続くヨシ小屋の窮民街に入った。大陸南部の牧人と北部系の避難民の混在する窮民街である。

 ヨシ小屋は、刻んだヨシを混ぜた土壁に、ヨシの屋根を葺いて作る。天井の梁だけは火炎樹の樹脂を固めたウォトの材を用いるが、それ以外の部分は全てヨシ。床にもヨシが厚く敷きつめられる。暖房と炊事共用のかまどは、家の隅に土で整形して設けられるが、そこで燃やされるのも、当然ヨシ。そのヨシは、夏の間に刈り集められ、乾され、家の中や軒下に所狭と積まれる。そのため大方の住まいは、家の中が家畜のまぐさ小屋のようになる。まるでヨシのサイロの中で暮らしているようなものだ。

 ヨシの生長の終わる夏の後半、下流の湿原で刈ったヨシを運ぶ平底の桝船が、水路に列をなす。水路沿いに拡がる窮民街は、まさにヨシで支えられていた。

 そもそもこのドバス低地という場所は、豊富なヨシゆえに、生きていくための最低限の暖と煮炊きの燃料には困らない。食料も魚貝類が豊富で、砂漠や荒野などに較べれば、格段に恵まれた土地である。それでいて、つい数十年前までここは、ほとんど人が住むことのない人口希薄な土地だった。その理由が先にも述べた各種の風土病である。

 過湿な泥湿地特有の風土病が、幾つもこの地にはあった。

 貝に潜む線虫が引き起こす皮膚がブヨブヨに脹らむ水皮病、小型のネズミにつくダニが媒介する腎肥病、刺し蝿の媒介するウイルスによって皮膚がケロイド状にただれる泥皮病、などなど。風土病それも皮膚病の見本市のようなところだった。

 なかでも、やっかいな病が、夏場に大発生する小型の蚊によって媒介される急性熱で、四十度近い熱が続き、数日で死に至ってしまうマリア熱である。このマリア熱は、目が真っ赤に充血することから別名を赤眼病、あるいはそれが悪魔の目のように見えることから、邪眼熱と呼ばれる。以前、セヌフォ高原のシクンのミトで、レイ医師が診察を頼まれた少女の罹っていたのが、この病である。

 少数民族のアンユー族がこの地に居を構えることができたのは、アンユー族がこの急性熱に対して遺伝的に耐性を持っていたからで、アンユー族以外の人々がこの病を恐れずにこの地で暮らすことができるようになったのは、マリア熱の特効薬の開発以降のことになる。しかし薬が開発されて二十年を経た今でも、この特効薬は高価なため、その恩恵に与れるのは富裕な都の住人に限られ、河岸で窮民街を形成している避難民や流民の多くは、今も日々、マリア熱の不安と戦いながら暮らすことを強いられている。

 ちなみにマリア熱という優雅な病名は、病の最後、脳裏に天上の光に包まれた古代の聖女を垣間見るというところから、付けられたものだという。ただ実際は、一度発病するとほとんど救いのないこの病に、せめて名前だけでも救いを求めたいと付けられたというのが真相らしい。

 どこまでも河岸の斜面に貼りつくようにヨシ小屋が並んでいる。

 足元がぬかるむのを避けるために、ヨシ小屋の間の通路にはヨシが敷かれる。そのヨシと雪と泥が混じりあって汚らしい。小屋と小屋の間の狭い隘路を、シャン先生は早足に進む。ドバス低地の水路沿いに拡がる窮民街には、塁京八国の管轄内だけでも、百万を越える避難民や移民の人たちが住みついている。その中で医療活動を行っているのは、経堂の施療院や牧人の互助団体が主で、個人で医療活動を行っているケースはほとんどない。一人で何もかもやらなければならないのだから、ゆっくり歩いてなどいられない。

 その急ぎ足で歩くシャン先生の周りを、窮民街の子供たちがゾロゾロと付いて歩く。

 着ているものなど、みなバラバラ。皮の牧童衣に炭坑の作業着、毛玉の塊のようなセーターに、片袖の取れたよれよれの官服、リウの薄皮で編んだ荷袋を縫い合わせて服にしている子もいる。色が褪せ、破れ、つぎはぎになった服ばかりだが、重ね着をしているので暖は取れているようだ。しかし一様に痩せた首筋が寒々しい。救いは、皆くったくのない明るい表情をしているということだ。子供たちの何人かが、車輪を付けた板の上に、足の萎えた男の子を乗せて、ロープで引っ張っていた。

  子供たちには、シャンがどの家に立ち寄るか分かっているらしく、先生が立ち寄る家へ家へと先回りをして走っていく。先生の到来を家の人に知らせているのだ。

 新しい病人が出た家も子供たちが教えてくれる。その小さな水先案内人の声に引っ張られるようにして、先生はせかせかと歩く。

 はしゃぎながら走っていた子供たちが、急に静かになって立ち止まった。

 ヨシ小屋の並びの前で、シャンは呼吸を整えるように深呼吸をした。

 ヨシの束を板状に縛ったものが、泥壁の入り口に扉代わりに立てかけてある。その扉が内側から開いて、女の子が出てきた。垢と埃にまみれ、淡い金色らしき髪が泥に染まって毛長牛の腹の毛のように、よれて絡みあっている。まぶたの下の薄緑色の瞳だけが、体のなかで汚れていない場所かもしれない。その瞳が赤く潤んでいた。

 シャンは女の子の泥まみれの金髪を軽く撫でると、ヨシの扉を潜った。六畳ほどの部屋の左半分に腰の高さまでヨシが積み上げられ、その上に輸出用の板餅を入れる黄色い大袋が、毛布代わりに敷きつめてある。この家の居間であり、食堂であり、寝台でもあるその場所に、男の子が二人寝かされていた。

 シャンの来訪に気づいて、右側の男の子が薄く目を開けた。真っ赤に充血している。邪眼熱だ。先生に聞くまでもなく、男の子がマリア熱に罹っていることが春香にも分かった。それもすでに末期。発疹性の他の熱も併発しているらしく、衣服から出ている顔や手に、赤い湿疹がブツブツと無数に浮き出ている。熱で苦しいのか、口を開け、舌をだらりと垂らして息をしている。隣に寄り添うようにして寝ている男の子は、目を閉じたままだ。同じような顔立ち、双子らしい。

 鞄を開けて注射の準備を始めたシャンに、右の男の子が手を伸ばしてきた。

「春香、手を握ってあげなさい。熱でやられて目が見えないんだ。人の手の感触は心を落ち着かせる」

 言われて春香は、慌てて男の子の手を握った。高熱でうなされているというのに、手はぞっとするほど冷たく、皮膚の下がすぐに骨になっているような感触があった。昔、亡くなる直前の曾祖父の老いた手を握った記憶が蘇ってくる。しかし手の感触よりも、赤い発疹が気持ち悪くて、春香は思わず目をそらした。

 その外した視線の先、敷いてある荷袋の上を這う小さな生き物が目に留まった。カメムシのような虫で、見ると、男の子の肉が削げてできた首筋のしわの間にも、淡いピンク色の蝨がびっしりと並んでいる。白い蝨がピンク色に見えるのは、血を吸っているからだ。その蝨がポロポロと剥がれるように荷袋の上に落ちる。手元に目を移すと、男の子の手を伝って自分の手に蝨が這い寄っていた。

 思わず春香は悲鳴を上げそうになった。

「我慢できないなら、横に立って見ていなさい」

 機先を制するような先生の言葉に、春香は悲鳴を喉の奥に呑みこむと、「大丈夫です」と気丈に言って、放しかけた男の子の手を逆に握りしめた。それでも寝台から浮かせた腰を、もう一度下に降ろすことはできなかった。目標を失った小さな吸血鬼たちが、寝台のあちこちでユラユラと手足を宙にさまよわせ、その一部は先生に向かってモゾモゾと行軍の矛先を変えている。春香はとても見ていられなくて、男の子の手を握ったまま目を閉じた。

 春香が再び目を開けた時、すでに注射は終わっていた。

 シャンはポケットから飴を取り出すと、男の子の耳元に優しく話しかけた。

「よし、注射は終わったぞ、これで痛みは引く、これはご褒美の飴だ」

 そう言って先生は、軽く自分の口の中で融かした飴を、男の子の口に押しこんだ。

 男の子が、赤い目を細めた。

 さっきの薄緑色の目の少女、双子の兄弟の妹が、水の入った桶を持ってきた。シャンはその桶で手を洗うと、痩せて目ばかりが大きく見える女の子にも飴を渡した。ところが薄緑色の目の女の子は、もらった飴を手にしたまま無表情に突っ立っている。シャンは女の子から飴を取り上げると、包装の油紙を剥がし、半開きの女の子の口に押しこんだ。それでも女の子は、じっとしたまま口を動かそうとしない。

 女の子の視線の先、男の子の口から、なめかけの飴がポトリと荷袋の上に落ちた。その瞬間、春香は自分の握っている手から、何かが体の向こうに去っていくのを感じた。

「手を」と、先生が視線の定まらない春香の背を叩いた。

 先生は、春香の指を男の子の手から剥がすように拡げると、着ている衣類よりも軽そうな男の子の手を、彼の胸の上に戻した。


 近所の人とシャン先生が、何やら話を交わしている。それが終わるのを、春香は家の戸口に立ってぼんやりと見ていた。集まって来た大人たちが話しかけてくれるのだが、言葉が耳を素通りして、頭の中に入ってこない。音に自分の体と心が反応してくれない。

 薄緑色の瞳の女の子は、二人の兄の死にも泣こうとはしなかった。泣く涙が枯れていたのかもしれない。この一週間で、あの少女は、親と兄姉五人を続けざまに亡くした。狭い家の中で家族がくっつくように生活していると、家族全員が病に伏してしまうということがよくある。そして一度病に倒れると、日々飢餓の線上を行きつ戻りつしている人たちに、回復する力は残っていない。

 さっき先生が注射を打ち終えたと思ったのは錯覚で、結局注射はしなかったようだ。人の体にたかっている虫たちは、宿主が亡くなると一斉にその体を離れる。さっきは美味しそうな宿主の春香が近くに来たので、一足先に古い宿主を離れたのだ。ただ寄生している虫が逃げ出すようになれば、それは決してその人が回復することがないということの証でもある。それを見て先生は注射を止めたのだ。

気がつくと春香は先生と肩を並べて、ヨシのあばら小屋の並ぶ狭い路地を歩いていた。 後ろから付いてくる子供たちの喧騒が耳に戻ってきた。

 鞄は先生が自分で持っていた。

 春香は恥ずかしくなって、無言で先生の手から鞄を自分の方に引き寄せた。

 何事もなかったように先生は春香に鞄を託す。と鞄の縁にカメムシが這っていた。春香はそれを無言で払い落とすと、先生の背中にもその虫を見つけ、手を伸ばした。

「うむ、ありがとう、虫は診療所に帰ってから、まとめて退治している」

 春香は診療所の入口横にある、小さなトイレのような空間を思い出した。虫があまりに多い時、先生はあの小部屋で虫払いの香を焚きしめる。

 シャンが感心したように言った。

「偉いもんだ。男の子の手から虫が移ってきた時、春香は握った手を放さなかったな」

「そうでしたっけ……」

 春香は恥ずかしくてとぼけた。あの時春香は手を放したのだ。でも男の子の手が春香の手を握り締めて離さなかった。まるで自分を見捨てないでくれと言わんばかりに。むろんそんなことは百も承知で、先生は自分を誉めてくれているのかもしれない。

 サッチモさんの言っていた「人の生と同じだけ、死がある」という言葉が、脳裏に蘇る。

 先生の説明が耳に届いた。

「都と違って、この河岸の地では、満一歳になるまでに、幼児の半数は死ぬ。十歳の誕生日を迎えられるのは、四人に一人。ここはそういう土地なんだ。だから、生き残っている連中は、皆なかなかしぶとい。踏んでも叩いても死にそうにないやつらばかりだ」

 笑って話す先生の前を、洗濯物の桶を抱えたおかみさんたちが、陽気にあいさつを交わしながら通り過ぎる。確かに生き残った者が逞しいというのは当たっている。

「ここで暮らしていれば、腐るほど人の死に付き合うことになる。人の死は悲しい。しかしその死によって、残された者が生かされているという気にもなる。さっきの少女、家族八人の中で彼女だけは病気に罹らずに生き残った。彼女はたぶん生きるだろう、いや生かされるに違いない。先に死んだ家族のためにもな。よしんば彼女が死んだとしても、そのほかの誰かが生きる。必ず誰かが生き残って、生を繋げていく」

 ヨシの小屋が途切れ、小さな水路を渡る。水路の上を抜ける風が外套の隙間から吹きこみ、体に纏わりついた圧迫感を少しだけ払い飛ばしてくれる。川面と逆の側に目を向ければ、ヨシ小屋の背後に塁堤が迫り出し、その向こうに火炎樹の威圧するような太い幹がそそり立つ光景が、どこまでも続いている。

 後ろをついてくる子供たちが、何かほかに面白いものでも見つけたのか、川岸に向けて走り出した。取り残された板の上の男の子、足が干物のように萎えた男の子が、両手で土を掻くようにして台車を動かしながら、仲間を追いかける。

 先生が一息入れるように立ち止まると、話す声を低めた。

「子供の死だけは、何度立ち合っても馴れるということがない。とくに薬さえあれば助かったという場合には、遣り切れなさだけが残る。医者でありながら、口に飴玉を入れてやるくらいしかできないとなると、歯噛みしたくもなる。あの双子の男の子だって、発病後すぐに薬を服用していれば、かなりの確率で生き延びることができたのだ」

「薬、ないんですか」

 川岸に打ち上げられたものを囲んで、みなが口々に何か言い合っている。

「川イルカのキュロンだ!」という声が聞こえてきた。

 その騒動を見ながら、春香の問いに先生が答えた。

「うむ、先日、ゴーダム国の高官に少し融通してくれるように頼んでみたのだが、どうやら郡部に流れ込んでいる避難民の懐柔策に薬を配布しているようで、余分は無いと言って断られた。ゴーダム国にとっても、バドゥーナ国にとっても、河岸のヨシ小屋に住んでいる連中のことなどは、どうでもいいことなのだ」

 話す先生の表情がいつもと違って重く強ばっている。そのことに自分で気づいたのか、先生は照れ笑いを浮かべた。春香が抑えた声で聞く。

「家族が死んでしまって、あの女の子はどうなるのですか」

「それは心配ない、この川沿いに住んでいる者は、誰もが似たような境遇の持ち主だ。あの少女のことは、周りに住んでいる者たちでなんとかするだろう」

 自信を持って言うと、先生はまた歩きだした。

 ヨシの屋根と屋根の間の空間に、干した魚が揺れている。

 ほとんどは子供の手の平くらいの大きさの魚だが、中には座布団サイズのものも。ヨシの簾を広げ、その上に小さな海老や雑魚を敷きつめたもの、それがいくつもいくつも川岸の斜面に並ぶ様は、壮観だ。窮民街の女たちが群がり、寒風を吹きとばすように陽気に喋りながら、雑魚の中からゴミを選り分けている。脇の共同小屋の中では、男たちが魚やカニを取るカゴをヨシの茎で編み、その小屋の前、岸辺では、岸に上げたヨシ船を燻す煙が、幾筋も空に立ち昇っている。

 火炎樹農園の仕事に有りつけなかった窮民街の住人にとっては、魚を獲るのが一番手っ取り早い現金収入の道になる。とはいえ、ヨシ船を使っての漁なので、それほど遠い場所までは足を伸ばせない。家族の食料分に少し足す程度の魚が捕れるくらいだ。

「ヨシ船ではなくて、ウォト製の船でもあればと思うが……」

 先生が悔しそうな顔をした。その視線の先に、川面を波をたてて疾走する警邏艇の姿がある。船尾にゴーダム国の赤い旗がはためいている。

 岸辺の高台でぼんやり座っていたと思った子供が、慌てて脇の小屋に駆け寄り、中に向かって叫ぶ。ほとんど同時に、小屋の入り口がヨシのすだれで塞がれた。

 何だろうと思って足を止めると、すかさず先生が説明してくれた。

 火炎樹の根は、土塁を越えて農園からこちらの河岸の地下にも伸びている。火炎樹は幹と同様、根からも相応の樹液が採れる。そこでこっそりと穴を掘り、剥き出しになった根を傷つけて樹液を採るのだ。もちろん違法行為で、見つかれば塁京から追放される。そのため、採掘穴のある小屋の周囲に見張りを何人もたてる。あの子供は、警邏艇が近づいてきたのを見て、小屋の中が見えないように、すだれを下ろしたのだ。

 そういえば、すだれを下ろす直前、小屋の中の地面に、人の顔が覗いたような気がした。

 見張りの子供が河岸の所定の位置に戻る。

 みんな生きるために必死なのだ。

 歩き出した二人の後方から、黒っぽい塊を担いだ青年が近づき、追い越しざまに足を止めた。黒炭肌の青年は、先生に挨拶をすると、担いでいる物を見せた。墓穴を掘っていて見つけたのだというそれは、天然の木、つまり古代の木だ。長い間地中にあって水をたっぷりと吸いこんだ木片は、見るからに黒くて重そうだ。

 二千年前にこの世界で緑の死が起きた時、世界中で洪水が起きた。山に生える木々は、その一つ一つが小さな貯水池のようなもので、緑が失われると、陸に降った雨は一瀉千里に海に注ぐ。その堰を外したような怒濤の洪水によって、枯死した大量の樹木が土砂とともに海に流れ込み、そのまま海の底に土とともに堆積した。

 水に浸かったままの木は腐敗し難い。海水面の低下で姿を現した海岸地帯、特に河川の河口部だった所では、時々地中からそういう埋没木が見つかる。この地では、その埋もれた古代の木を睡木と呼ぶ。いつか掘り出されるのを待って眠っている木という意味である。その睡木が貴重な木材資源として、もっぱら工芸品などの材料に用いられていた。

 こんな話もある。

 かつてドバス低地の開発の始まった頃に、幹周り十一メートルという巨木の幹が土中から掘り出された。あまりの見事さに製材して加工するのではなく、バドゥーナ国の都、盤都バンダルバドゥンの迎賓館のなかに、オブジェとして飾られることになった。そしてガラス室に運びこんで数年、なんとその木から芽が吹き、やがて根も出て、盤都というよりもバドゥーナ国のご神木となった。種ならまだ分かるが、海底の泥に埋もれていた枯木の幹から芽が出たのだ。まさに眠っていた木が目覚めた。その木が都の象徴とされるのも、得心の行くことだった。

 いま青年が担いできたのは、女性の太腿ほどの睡木だ。

「都の市場に持っていくのか」と、シャンが聞くと、

「この大きさだと、そのまま売るよりも、加工した方が儲かるでしょう」

青年は嬉しげに木を撫でると、宝物を見つけた子供のように、陽気な足取りで前方へと駆けていった。ちょうど、これから先生が行く家で、その加工をやっているという。

「次に訪問する家にも病気の子供がいるのですか」

 春香が恐る恐る聞くと、

「命に別状はないが、寝たきりのお内儀さんだ」と、シャンが安心させるように言った。

 数分後、「そこだ」と、先生が二軒つながりのヨシ葺き屋根の家を指した。家の前では、先ほどの青年が、掘り当てた睡木の汚れを、丸めたヨシの葉で汚れをこそげ落としていた。

 窮民街の家の造りはどこもほとんど同じだ。中を覗くと、竃にかけた鍋から湯気が立ち昇っている。窓らしい窓のない換気の悪い部屋の中で、ヨシを積み上げた寝台の上に、中年の婦人が横になっていた。婦人は農園で仕事をしている最中に足を滑らせ、背中を打って下半身が動かなくなったという。脊髄を傷つけたのだ。

 シャンは挨拶もそこそこに、婦人の足を曲げて感覚を確かめる。

「しばらくかかるから、隣の仕事場を覗かしてもらってきなさい」と、シャンが春香に声をかけた。機能回復の針を打つという。先生の言葉に甘えて、春香は小屋の外に出た。

「こんにちはーっ」と、作り笑顔で隣の小屋を覗く。

 小屋の河岸側に、魚の浮き袋を縫い合わせた小窓が取り付けてあるのだが、そのゴワゴワとした窓から差し込む薄明かりの元で、年配の男性が睡木を削っていた。

「何を作っているのですか」と問いかけるが、黙々と削刀を動かすだけで男性は答えない。

 もう一度声をかけようかどうしようか迷って、春香は結局外に出た。

 家の横では、さっきの青年が、睡木に桶の水を掛けながら、汚れをこそげ落としていた。

 春香の声が聞こえたのだろう、青年の方から話しかけてきた。

「親父のやつ、何も話さないだろう、仕事のことを聞かれるのが好きじゃねえんだ」

 腕まくりをした青年が、白い歯を口元に零れさせて言った。オバルと同じ黒炭肌にチリチリの螺髪頭、オバルが蚕豆サイズの螺髪なら、この青年は小豆サイズ。

 青年の話では、父親の作っているのは木のアクセサリーだという。

 この時代、古代の天然の木を素材にした工芸品は良い値で売れるのだ。いくらウォトが擬木として使えるとしても、その風情肌合いは自然の木には太刀打ちできない。

 若者の父は大陸南西部の町で飾り鞍の金具職人をしていた。飾り鞍はウォトの樹脂を固めた擬木に、細かい彫りと金属金具をちりばめて作る、祭礼用の鞍である。

 濠都から注文が来たのを機に、若者の父は仕事の減っていた南部を離れて、こちらに移り住むことにした。それが旅の途中で事故にあい、指先を失って細かい仕事ができなくなる。職人に与えられる巧人特例で、塁壁の内側での生活が保障されるはずだったのが、それもご破算。仕方なく窮民街に住み着き、父に代わって母が火炎樹農園に働きに出ることになった。ところが悪いことは続くもので、母も腰を痛めて寝たきりになってしまう。

 今の父の指では、細かい細工物の仕事をすることはできない。仕方なく睡木の欠けらを使って、耳飾りなどの簡単な小物を作る。本物の木を材料にした飾り物は、彫りを入れずに生地を活かして仕上げるだけで売れるため、指を痛めた父にとって好都合に思えるのだが、父はそれが不満なのだ。美術品のような飾り鞍を作っていた自分が、子供騙しのようなものを作っていることに腹が立つらしい。指先が不自由でも、もっとましなものが作れるという自負があるのだろう。

 残念ながら、窮民街でのカツカツの暮らしでは、金具を作るための地金を買うことができない。それに地金が手に入っても、それを加工する強い火がヨシでは熾せない。見ると小屋の入口に、金属加工に使う玉台が錆を浮かせたまま置かれていた。

 青年はいい話し相手が来たとばかりに話を続ける。

「俺は貰い子なんで実感が沸かないんだが、親父はあれでもかなりの腕の工芸師だったらしい。親父の作った飾り箱が一つだけ残してあるんだけど、これが凄いんだ」

 声が聞こえていたのか、家の中から怒鳴り声が飛んできた。

「ばかやろう、くだらねえことをゴチャゴチャ話してないで、こっちに来て手伝え」

若者は肩を竦めると、父親に負けない大声で怒鳴り返した。

「いい睡木が手に入ったんで洗ってんだ、材料が百は取れるぜ、見るかい親父」

 家の中から返事はなかった。若者は腰に吊したボロ布で手を拭くと、春香に目配せをして小屋の中に入った。親子の言い合う声が、筒抜けに小屋の外に零れる。

 春香は先生のいる小屋に戻った。

 婦人の腰に刺した針を先生が抜くところだった。ヨシのベッドの後ろに目を向けると、棚の上に宝石入れほどの大きさの箱が乗っていた。様々な色と形のウォト材を組み合わせて作った組木の小箱で、四隅と鍵縁には、細かい紋様の金具が取り付けてある。祭礼用の豪華な装飾鞍を彷彿とさせる飾り箱だ。

 その横には、ウォトの樹脂で作った小さな車椅子が、並べるように置かれていた。

 家を辞した後、先生が話してくれた。

 あの一家に必要なのは夢なのだという。婦人には、何が何でも歩けるようになりたいという意志を支えてくれる夢。亭主に関しては、自分の技術を活かせる場がどこかにあるという夢。不自由になったとはいえ、あの親父さんの物作りの腕はなかなかの物で、金工の技術だけでなく、組木の技も相当なものらしい。あそこの息子に言わせれば、その夢の一つが、棚の上に置いてあった車椅子なのだという。

 青年の母親は、若い頃に経楽の合唱隊に所属していた。今の母の夢は、経堂で歌うことだ。しかし寝たままでは歌は歌えない。立つことは無理でも、せめて背筋を伸ばして座ることのできる椅子は必要になる。もちろん合唱隊に参加する経堂までの足もだ。

 車椅子があればそれが実現できるが、窮民街では車椅子を作るための金属を手に入れることも、それを加工することも難しい。そこで青年は、手に入り易い火炎樹の樹脂で車椅子を作ることにした。その見本用に作ったのが、棚の上に置いてあった小さな車椅子。

 いま青年は、車椅子の部品の一つ一つを、手に入れてきたウォト樹脂を型取りしながら作っている。皆が着飾って参加する経堂に出ても恥ずかしくない素敵な車椅子をと、寄木細工を組み立てるように、試行錯誤を繰り返している。

 すると、最初は、お前になぞ出来るはずがないと見向きもしなかった父親が、それとなく助言もしてくれるようになった。

 シャンが、チラリと後ろを振り返った。

「寄せ木細工の車椅子を作ることで、あの頑固者の父には、先達の技術者として息子に技を伝えるきっかけができる。そして息子にとっては、両親を元気づける夢。母親には、いずれ車椅子に乗って経堂で歌を歌うことができるという夢が……」

 そこまで話すと、シャンが春香の額を指先でチョンと押した。

「どうだ、少しは気持ちが晴れたか」

 その時になって春香は気づいた。きっと双子の男の子の家を出たあと、自分は酷い顔をしていたに違いない。春香は恥ずかしくなって、足元を確かめる振りをして俯いた。

 そして「はい」と、小さく返事を返す。

「病人に接していると、どうしても患者の重苦しい空気が乗り移って、こちらも暗い顔になってしまう。しかし医者がそういう顔をしていたのでは、診られる方はたまったもんじゃない。嘘でもいいから明るい顔をしていなくてはな」

言って先生は笑う。朗らかな笑いだ。いつも明るいシャン先生の表情は、そうすることを心がけてきた結果なのかもしれない。

 春香も顔を上げ、真似をしてニッと口元を吊り上げる。ところが、どうにもぎこちない作り笑いで、自分でやっていても気持ちが悪い。でも憂欝な顔をしているよりは益しだろう。シャンが春香の笑った顔を覗きこんで微笑んだ。

「おっ、いい顔だ。片えくぼか、ぜひ今後もそのえくぼを見せてくれ」

 春香は、もう一度口角を上げると、右頬にえくぼを作った。


 午後から夕方にかけて十四軒の家をまわる。内、四軒で先生は針を打った。

 先生が針治療を診療所の看板に掲げているのは、それが貧者の治療法だからだ。確かに薬や高価な医療器材を必要としない針療法は、懐の寂しい窮民街向けかもしれない。ただ、慢性病には効果を発揮しても、針で細菌による感染症や、当然のこと外傷を治すことはできない。限界はあると、悔しそうに先生は空を仰いだ。

 とにかく、先生のお供で窮民街を歩いて分かったことは、診療所まで足を運ぶことのできない人が、ここにはたくさんいるということだ。薬を買ったり治療を受けるためのお金がないために、怪我を放置して傷口を化膿させてしまった人。潰瘍も酷くなると肉が抉れ、それが骨に達すれば死に繋がることにもなる。狭い小屋で、それも小さな明かり取りの窓しかない小屋でヨシを燃やしているせいか、眼を病んだ人も多い。診察はしなかったが、長く寝たきりになっているような人を、何度も目にした。ほとんどが風土病の腎肥病の患者で、病気に罹ると極度の脱力感で動けなくなるのだそうだ。

 そして皮膚病の巣窟と言われる通り、皮膚病の人をやたら目にする。

 爛れた皮膚やケロイドのように溶けた皮膚、それに親指大の瘤、白っぽい手や、青くけばだったような手足まであった。先生にちゃんと顔を近づけてよく見なさいと言われて目を向けると、皮膚の上がカビのようなもので覆われていた。患部の手の甲が、まるで餅の表面にカビが噴いたようになっている。

 満都時代の医学研究書によると、春香の時代とこの時代の病気で違うことは、人につくカビが増えたことだ。植物の大半が消失して、その植物に寄生していたカビが、人間に寄生するようになったのではないかという。今ある皮膚病のほとんどが、このカビの感染で起きている。大げさに言えば、キノコがニョキニョキと人の体に生えるようになったということだろう。

「昔と較べてどうだ」と先生に聞かれて、自分の知っているカビの病気といえば、水虫くらいだと答えた。確かに自分のいた時代、人につくカビはあまりいなかったような気がする。先生が、カビにまみれた患者の手の甲を叩くと、カビの胞子がパッと辺りに散った。皮膚のあちこちが盛り上がった瘤も、その中にカビの菌が巣喰っているとのこと。

 春香は植物の葉によくある虫瘤を思い出した。

 カビの病気はすぐに命に関わるようなものではない。だが、かゆみを伴うものが多いために、体を掻いて、そこから他の病原菌が侵入して、重い病気に移ることがけっこうある。それに栄養不足の人たちにとって、かゆみによる寝不足は、相当に辛いことらしい。問題の根本は衛生状態の悪いことなのだが、とても今はその改善まで手が回らないのが実状だと、先生は説明した。

 牧人の人たちが多く暮らす窮民街に足を踏み入れた際、先生が家並みの裏に視線を向けた。雪の上に黒っぽいものが辺り構わず転がっている。何だろうと思ったら、人の排泄物、つまりウンチだ。

 移動生活をしている牧人は、一定の場所でトイレをする習慣がない。物陰ならどこでもトイレにしてしまう。今の季節はまだ排泄物がすぐに凍りついて問題にならないが、これが氷の融ける季節になると、猛烈な臭いをたてて不衛生極まりない状態になる。汚物が雨で川に流れ込み、飲み水が汚染される。病気が蔓延する。何度トイレを作れと言っても、永年の習慣は簡単に変えられるものではない。

牧人と北の熱井戸や火炎樹産業に依存している民は、そりが合わない。その同じところに住まない理由は、意外と日々の暮らしの習慣にある。

 トイレなどはそのいい例だった。

 そういえば、こんなこともあった。腕に怪我をした牧人さんの手当てを、夕刻に行った。

 北部系の住民と密造酒のことで喧嘩をして負った怪我だという。

 北の連中のなかに、盗んだ樹液を発酵させて酒を造り、それを闇で流して儲ける者がいる。その密造酒が牧人系の窮民街に流れこむ。仕事がなく希望が持てない生活が続くと、いくら宗教上の禁忌とはいえ、酒に憂さを晴らす者も出てくる。北の人間はそれを仕方のないことと見なすが、牧人会の厳格に禁酒を守っている者たちからすれば、同輩を誘惑する密造酒を造ること自体が、許せない行為に映る。だから見つけては裏で濠都の警邏隊に通報する。そのため密造酒造りの北のグループと、密告する牧人側の間に争いが絶えない。

 シャン先生が、怪我をした牧人の青年を、彼の小屋で手当てしていると、青灰色の僧衣姿の女性が入ってきた。一瞬先生は迷ったようだが、広げた鞄の中身を手早くしまうと、場を譲るように立ち上がった。

 僧衣姿の女性は、モア教の施療院の僧医だった。牧人系の窮民街で医療活動を行っているのは、ほぼ百パーセント牧人会の援助を受けた施療院になる。対して北部系の住民の住む地域で活動する非牧人系の施療院も数は少ないがある。しかしどちらにせよ、それは布教と抱き合わせの医療だった。シャンはその下心のある医療を嫌っていた。シャン自身は、宗教民族出自に関係なく治療を行っているが、そのため周辺の施療院との間で摩擦が起きていた。患者を挟んだライバル関係といってもいい。

 そのせいだろう、牧人の僧医は、立ち去るシャンを鋭い目で見ていた。

 その牧人会の施療院も、外からだけだが覗くことができた。

 読経所の横に併設された施療院の待合室は、人で溢れていた。その大勢の人たちが、待合室の中央に置かれたフクロウ型の機械から流れる放送のようなものを聞いている。

 ゴーダム国は、半年ほど前から、衛星通信の可能なスポット域を用いて、音声放送による公共放送を始めた。フクロウ型の機械は受信機、つまりラジオだ。待合室の人たちには、放送がお目当ての健康そのものといった人もたくさん混じっている。

 おそらくは、診療だけでなく、ラジオという娯楽も含めて人を呼び集め、お帰りには読経も……という布教方針なのだろう。

 ちょっと、ショックなことも目撃した。

 入り口を閉ざした小屋の中で、麻苔を仕込んだパイプを吸っている若者たちがいた。先生の話では、見える所で吸っているのは良い方なのだそう。中毒の進んだ連中は、樹液の盗掘穴の中でそれをやる。気化した麻苔を穴の中に充満させ、終日その淀んだ空気を吸って過ごす。穴によっては、手足が萎えて動けなくなった連中が、ゴロゴロと丸太のように転がっているという。

 この麻苔だけでなく、もっと習慣性の強い人工的な薬、百乗粒丸と呼ばれる麻薬の使用も問題となっている。ちょうど古い盗掘穴から、その百乗粒丸の中毒患者の遺体が運び出される現場に行き会わせた。中毒の女性は、まるでミイラのように干からびた体になっていた。百乗粒丸を服用すると、体から水分が抜けてしまうのだ。ただこの強力な幻覚作用を持つ百乗粒丸は、値段が張るために窮民街ではほとんど出回っていない。流行が問題になっているのは、塁壁の内側だ。

 その干からびた遺体を見送った先、塁壁にへばりつくようなヨシ小屋の一角に、数軒雑貨を売る店が軒を並べていた。窮民街の商店街といったところだ。

「繁華街ですね」と、春香が感想を口にすると、「裏も覗いてみるか」と、先生が春香を雑貨屋の後ろの狭い通路に連れて入った。

 一軒間口のヨシ小屋がずらりと並び、その前に女がたむろしている。窮民街の色街だった。皮膚の色がまだらに黒ずんだおばさんが、小さな棚に瓶を並べて何か売っている。瓶の中に入っているのは、塩漬けの毛長牛の腸や魚の浮き袋。避妊具である。火炎樹の樹脂で作る避妊具と較べて、値は安いが使い勝手が悪いから、男たちはなかなか使いたがらない。先生は、皮膚の黒ずんだおばさんの体調を確かめていた。性病を患っているらしい。

 薄暗くなってきた。

 後についてくる子供たちもいなくなった診療所の帰り道、一度に色々なことを見て放心状態に陥っている春香の口に、シャンが飴を押し込んだ。自分も一つ口に放り込むと、「疲れた時は甘いものがいい。自分の生活は贅沢とは縁のない暮らしだが、一日に飴一個くらいのご褒美は許されるだろう」と、肩の荷を一つ降ろしたように、ひとり言を吐いた。

 疲れた様子が表情に浮いて出ている。でも、そう話す先生の言葉は、言外に、飴の一個も食べることのできない人がここにはいるのよと、言っているようだ。

 春香が飴を口に含んだまま深刻な顔をしていたのだろう、先生が「ほら、えくぼ、えくぼ」と、春香の頬をついた。

「そう深刻な顔をするな。一見悲惨なようにも見えるが、慣れればどうということはない。人は色々な理由で死ぬ。飢えで死ぬこともあれば、事故でも戦争でも病気でも死ぬ。どこにだって、どんな世界にだって、良い面と悪い面がある」

 ちょうど診療所手前の小屋の扉が開いたままになっていて、中にうず高く積み上げられたヨシが覗いていた。

「このドバス低地のいい所は、あのヨシだ。ヨシで作った寝台、あれは気持ちがいいぞ。乾いたヨシの葉はなんとも言えない良い匂いがする。まあ、慣れない私なんかが横になると、葉の間に隠れているダニに肌を食われて、身体中真っ赤になってしまうがな」

 シャン先生が疲れを吹き飛ばすように声をあげて笑った。

 診療所の扉が開いて、アヌィと助産婦のブリンプッティさんが顔を見せた。アヌィが手を振っている。半日歩きまわって足は棒のようになっている。それに初めての往診に緊張のしっぱなしで、実はもうくたくただ。

 それでも春香はなぜか心が浮き浮きしてくるのを感じていた。それに目の前の診療所を見て、自分の家に帰って来たという気持ちが湧いてきた。それがなんとも嬉しい。この世界に目覚めて以来、シーラさんの小屋はともかく、ずっと旅の連続だった。それがやっと自分の帰る家ができたと感じることができた。そのことが嬉しい。

「わたしの家」

 春香は小さくそう口に出すと、アヌィに手を振って、明るい顔に戻って走り出した。

「ただいまーっ!」



次話「入札」

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