老医薬師
老医薬師
式典の始まったその同じ頃、シーラの小屋では、町を遠望する窓際の机を挟んで、レイとシーラの二人が向かい合っていた。リウの編机の上では、入れたばかりの苔茶が馥郁とした香りを漂わせている。シーラが念を押すようにレイに聞き返した。
「ウィルタが、先生のお孫さんだとおっしゃるんですね」
「間違いありません」
女とはいえ大柄なレイが姿勢を正すと、机の周りに仄かな威圧感が漂う。
しかしそのレイの突然の発言にも、シーラは驚いた様子を見せず、穏やかな眼差しでレイを見つめ返した。
「驚きました。私、先生はそのことに、お気づきになってないものだとばかり、思っていましたから」
言葉の意味を計りかねたように、レイが身を固くした。
「ということは……」
身を乗り出したレイに、シーラが丁寧な口ぶりでそのことを口にした。
「はい、私、先生がウィルタの祖母であることを、存じあげていました」
「あなた、知っていたというの、でも……」
「ええ、それから、先生の息子さんのハンのこともです」
シーラは、ハンという名をさりげなく口にしたつもりだった。ところが、それを耳にしたとたん、レイはギョッとしたように目を見開き、「息子のことを知っているというのですか」と、詰問するように声を高めた。
「しかし、あなたは、あのウィルタという子を、親の分からない捨て子だと……」
後は言葉が続かなかったのか、レイはカップを握り締めたまま黙り込んでしまった。
ハンとは、今年四十五歳になるレイの息子の名である。ウィルタの養母がその名を口にすることを、レイは全く予想していなかった。それはそうだろう、レイが薬苔の調達にミト・ソルガを訪れるようになって半年、目の前の女は、ウィルタのことを全く身寄りのない捨て子と説明してきたからだ。
食い入るように自分を睨みつけるレイに、シーラは思わず首を垂れた。
「申し訳ありませんでした。ハンから息子さんを預けられた時、ウィルタを両親の分からない孤児として育ててくれるように頼まれたものですから、それで今までお話しせずにいました」
シーラは軽く咳をつくと、「もう十年も前のことになるのですが」と、ウィルタを預かった時のことを話し始めた。
都で大きな事故のあった年のこと。
当事、シーラの暮らすミトは、ここから歩いて四日ほどの砂礫の原野にあった。
周囲に町などない曠野の只中で、冬入りを告げる新雪が舞っていた。日が沈んで間がない時刻、当時幼犬だったブッダがしきりに戸口に向かって吠えるので、不審に思って扉代わりの皮布をめくると、そこに体を雪まみれにした人が立っていた。服装からしてシクンの者ではない。ポンチョを頭からすっぽりと被っているため、顔も見えない。口元のひげで、ようやくシーラは、その人物がハンであることに気づいた。
元々シーラとハンの関係は、曠野で行き倒れになっていたハンを、シーラが助けたことから始まる。曠野の産物を取り引きする町の業者を除けば、町の人間と曠野の民が個人的に交友を結ぶことはない。ところがその時以降、ハンは折につけ、シーラのいるミトに足を運ぶようになった。ただ訪れるといっても、年に一度訪れるかどうかといった程度である。実際、最後にハンがシーラの小屋に顔を見せてから、四年の月日が経っていた。
カンテラの明かりのなか、ハンの頭や肩に雪が乱れたように舞い落ちる。
棒立ちのまま何も話そうとしないハンの頭巾が風で煽られ、後ろにずれる。露わになったハンの顔を見て、思わずシーラは口に手を当てた。頬がこけ、目が窪み、憔悴しきった顔がそこにあったのだ。
驚いてシーラが声をかけようとすると、ハンがポンチョを払うように脱いで、シーラに背を向けた。そこに抱き布で包まれた幼児がくくり付けられていた。
帯を解くのももどかしく、ハンはその子を抱え直すと、シーラに向かって差し出した。
ハンが何をしようとしているのか分からなかった。しかし女というものは、子どもを差し出されれば無条件に受け取るものである。シーラは、とっさに両手を掬うように伸ばして、その子を受け取った。それがあの子、ウィルタだった。
子供を渡したことで、ハンは気持ちが落ち着いたのか、ほっとしたように深い息をついた。しかし、落ち窪んだ眼窟のなかの目は、シーラの知っている優しい眼差しとは程遠い、すえたような目だ。やっとのようにハンが口を開いた。
「この子は自分の息子だが、事情があって育てることができなくなった。それにつけては、ぜひあなたに育ててほしい……」
突然の申し出に、シーラは事情の説明を求めた。対してハンは、自分の子供だと分かると不都合が起きるからだとしか答えず、それ以上は何も聞かないでくれと請うような目で頼むのだった。すがるような目といっても良い。
雪が強く吹きつけ始めていた。
「戸口ではなく、とにかく中に入って話を」と、ハンを小屋の中に誘うが、ハンはそれを頑なに拒むと、「できればこの子は、置き去りにされていた孤児として育ててほしい。さらにこれは勝手な言い分だが、子供のいないあなただ。あなたさえ良ければ、自身の子として育ててもらえるとありがたい」とまで言い切った。
シーラはどう返事をして良いか分からず、子供を抱えたまま家の前に立ち尽くすしかなかった。ところがハンは、シーラが黙っていることで申し出を了承してくれたと思ったのか、ザックを担ぎ上げると小屋の前から踵を返した。
背中を見せたハンにシーラが問いかける。
「この子の母親はどうしたのですか」
一寸の躊躇の後、ハンは「亡くなった」と、消えいるような声で答えた。
家の中から漏れた油灯の明かりが、半身のまま俯くハンの横顔を照らしていた。
それは本当にやつれた顔で、体中の精気が、心が、燃え尽きたような顔だった。
背を向けたハンが「今お願いできるのはあなただけだ、なにも言わずに……」と、絞り出すような声をもらした。ハンは深々と頭を下げると、後はシーラと目を合わせることもなく、逃げるように降りしきる雪の中を去っていった。
そうして、シーラの腕の中に二歳半の幼児が残された。
老医薬師に昔の話を語りながら、シーラは当時のことに想いを馳せるように視線を宙に這わせた。あれからもう十年が過ぎた。ミトの仲間たちにも、ウィルタのことは、小屋の前に置き去りにされていた町の子供だとしか、説明していない。
それでも当時のことは、昨日のことのように頭の中に刻みこまれている。
そう、あれから十年が経ったのだ。
身じろぎもせず話に耳を傾けていたレイも、シーラ同様、当時のことを思い起こしていた。息子のハンが、孫とともに失踪した時のことを……。
マトゥーム盆地のはるか西、セヌフォ高原の丘の波が途切れた先に、円錐形の秀峰と北の氷床に挟まれるようにして、ユルツ連邦の邦主国、ユルツはある。
当時、ユルツ国では、先細りの地熱に代わる代替のエネルギーを模索して、国を挙げての大がかりな事業が進められていた。成功すればユルツ国だけでなく、この時代に生きる全ての人々にとって朗報となる、画期的なエネルギーの開発事業だった。それが計画の最終段階になって突発的な事故が発生。スタッフや関係者だけでなく、見学に訪れていた多数の市民が事故に巻き込まれ、三千人以上の人命が失われる大惨事となった。その計画の技術部門の最高責任者であったのが、当時三十四歳のレイの息子、ハン博士である。
惨事のあった日のことは、レイもよく覚えている。
寒波が到来する直前の良く晴れた日だった。
国の医療研究機関に所属していたレイは、その日ユルツ国の繁都ダリアファルの市街地にある研究所にいた。午前十一時を少し回った時刻、突然突き刺すような烈光が辺りを包んだ。四半刻の間を置いて、今度は窓ガラスがビリビリと激しい音をたてて揺れる。
エネルギー開発の事業地は北方の氷床地帯にある。
その日そこで、エネルギー発生炉の臨界実験が、政府関係者や民間人を多数招いて行われる予定になっていた。烈光と衝撃波の時間的なずれからして、事業地で何か不測の事態が発生したことが知れた。事業地まではアイスバイクで丸一日半。それだけの距離がありながら、都の建物を揺さぶるほどの振動を起こすとなると、それが生半可な事故でないことは容易に察しがつく。
とっさに爆発の規模を推測、レイは血の気が下がって頭の中が真っ白になり、腰が砕けてしまったのを覚えている。衝撃波の中心にいるはずの息子の死を確信したのだ。
惨事の一報が入る。
エネルギー発生炉のあった実験の中心地付近は、何もかもが原形を残さないほどに溶融、大変な数の死傷者が出ているという。ところが意外にも第二報で、「ハン博士が奇跡的に助かったらしい、それも無傷で」という報が届いた。
吉報を伝える電信館の事務員の言葉に、レイはホッとすると同時に、その後にくる息子の困難な立場を予想して、奥歯を噛みしめた。国家の命運を握る事業、その現場の最高責任者としての息子の立場を考えれば、それは当然のことである。
早く息子に会って無事を確認したいと願ったが、そんな余裕など微塵もなかった。死者が三千人に達する未曽有の事故である。都のありとあらゆる医療機関の関係者が動員され、大量の負傷者への対応に忙殺されることになった。すべては当面の被災者への対応が優先されるなか、息子とは、この緊急時が一段落した後にでも、ゆっくり話をすればいいと考えた。そして死傷者への応急処置が一段落し、合同の葬儀が終わって久々に自宅に戻る。ところがその時、息子と孫の姿はどこにもなかった。
追悼式の際、息子は関係者の最前列に列席していた。それは確かだ。遺族の冷たい視線を浴びながらも、遺骨も残さずに蒸発してしまった亡き妻に手を合わせていた息子ハンの姿を、自分も見ている。息子の姿を見たのは、それが最後だ。
二日経ち、三日経ち、息子の失踪はすぐに表面化した。なにしろ国の予算の半分を注ぎ込んだ計画を崩壊させた爆発事故である。おまけに膨大な数の死傷者が出ている。責任の所在を明らかにするためにも、すぐに原因の究明に当たらなければならない。それが、こともあろうか、その一番の責任者が姿を隠してしまったのだ。
息子に対する誹謗中傷は想像に難くない。
非難の眼差しは、当然のごとく残された唯一の肉親である母親にも及び、自分は永年培った職を解かれ、追われるように都を去った。
その後、息子を捜したこともある。
しかし足取りの一端を掴むことさえできずに、時間だけが過ぎていった。息子が事故の重責を苦に自ら命を断つ姿が頭をよぎることもなかった訳ではない。だが命を断つほどの決断力があるなら、国に戻って責任を取ろうとするだろう。そのくらいの正義感は持ち合わせている人物だという、息子に対する信頼感はあった。何か自分の知らない別の事情があるのかもしれない。
ずっと、そう思ってきた。そう信じようとしてきた。
そして息子の消息を掴むことができないまま、自分は生きていくために、地方の雇われ医師に職を得た。長く研究者としてやってきたため、現場で治療に当たることに不安があった。が、それも慣れた。地方を点々とする旅芸人のような町医者稼業、このユカギルの隣町のベリアフが、三カ所目の任地だ。気がつけば十年が過ぎていた。
この数年、もう生きているうちに息子に会うことはないだろうと諦めかけていた。ところが、全くの偶然から孫の所在が明らかになった。
もしかしたら、息子も……、
窓の外に吊るしてあるリウの束が、風でキシキシと乾いた音をたてる。
話が途切れ、気がつくと、シーラがじっとレイを見つめていた。
我に返ったように、レイが話の先を促す。
「それから十年、あなたがあの子を育ててきたのですね」
シーラは頷くと「でも……」と、小さく首を振った。
「考えた末に、私はウィルタを自分の子供としては育てませんでした。ハンはそうしてもらっていいと言いましたが、それが彼の熟慮の結果だとはとても思えませんでしたし、私があの子の母親として相応しいかどうかということもあります。それに、いつの日か、ハンが子供を迎えにくるかもしれないという、そのことも考えました」
シーラは、そこで話を区切ると、重い口ぶりで告げた。
「でも十年、結局ハンからは何の連絡もありませんでした。彼はやはりあの子を捨ててしまったのかもしれません」
「まったく何も連絡はないのですか」
「ええ一度も」
レイは肩で息をついた。
かなりの期待を持って、レイは今日この場所に足を運んだ。第一の目的は、もちろん、孫の素性を養母である女に確かめることだ。しかしそれ以上に、レイは息子のハンのことが知りたかった。養母に問い質せば、息子の行方に関しても何か手掛かりが掴めるのではないか、あわ良くば居場所が分かるのではないかと、そう思っていたのだ。それがこの女は何も知らないという。
偏見かもしれないが、自分は、曠野で暮らしている民に対して、文化的に劣った印象を持っていた。しかしこの女の話し方、応対、物腰を見ていると、特に隠し事をするような人物には見えない。いい意味で欲望を削がれた、落ち着きというものが感じられる。
レイは気負い込んでいた肩の力を抜くと、率直に尋ねた。
「ハンは立ち去る時に、これからどこへ行くのか、その後どうするのか、何か言い残さなかったのですか」
申し訳ないといった表情で首を振ると、シーラは「先生こそ、彼のことについて、何かご存じではないのですか」と逆に聞き返した。
問われるまでもなく、シーラ自身も、ハンの居場所については気になっていた。そして目の前の老医薬師が自分同様、首を振るのを見て、残念そうに思いのたけを吐露した。
「私は、レイ先生に聞けば、彼と連絡が取れるのではと期待していたのです。早いうちに彼と会って、ウィルタのことを相談したいと思っていたものですから」
「相談?」
シーラが姿勢を正した。
ユカギルの町では、タタン、ウィルタ、春香の三人が、曲がりくねった路地を歩いていた。勝手知った道なのだろう、タタンは軽い足取りで路地を突き進む。その後ろを、ウィルタが春香の手を引っ張りながら、遅れまいと小走りに駆ける。三人の頭上には、広場の拡音器から流れ出る大音量の祝辞が、うるさいほどに鳴り響いていた。
熱井戸を挟んで広場の反対側、そこに閉鎖された織り機の工場街がある。工場といっても外見は普通の住宅と同じで、違うのは二階建ての家が吹き抜けになっており、そこに蒸気で動く動力機が据え付けられているということだ。
ウィルタが錆びた配管に足を引っかけ、工場の壁に手をつく。壁の一部が鈍い音をたてて春香の足元に崩れ落ちた。
「お姫様の足元に気をつけてやれよ」
兄貴ぶって忠告するタタンが、早く来いとばかりに手をしゃくった。
「そんな、タタンがどんどん先へ歩いていくからだろう。いったいどこまで行くのさ」
珍しくトゲのある口調で言い返すウィルタに、タタンが足を止めた。
「ここら辺りでいいか。よし、あの特大の配管の横で待つことにしよう」
前方に熱井戸の壁が視界を塞ぐようにそそり立っている。そこから子供の背丈ほどもある太い管が突き出し、枝分かれを繰り返しながら周囲の工場に引き込まれている。
町の人たちの歓声が聞こえてきた。
「六十八……、六十七……、六十六……」
蒸気のバルブを開く秒読みだ。地の底に水を送り込むポンプの軽快な音も空気を震わせている。高温の岩体によって気化した水は、蒸気となって地上に噴き出す。
「そうか、この管の中を蒸気が通るんだ!」
タタンが口笛を鳴らした。
「そういうこと。ただし、それだけじゃないぜ」
「すぐに分かるさ」と言って、タタンが意味深に片目をつむって見せた。
歓声とともに皆が唱和する数が一桁となり、そして、「三、二、一、ゼロ!」という大合唱が、ユカギルの町の上空に高らかに響き渡る。
水を打ったような静寂のあと、どこからともなく囁くような音が聞こえてきた。
錆だらけの管に当てたウィルタの耳に、うごめく何かが感じられた。
タタンも緊張した面持ちで管に耳を寄せている。互いに目配せをして身構える二人の横で、春香だけがぼんやりと所在なさげに立っていた。
その春香に、ウィルタが管の中の音を聞かせようとした時だ。
管という管から、シューッという音が沸き上がった。大小様々の管に流れ込んだ蒸気が、管の節目や錆びた穴から白い煙となって噴き出してきた。
あっという間に辺り一面が蒸気で包まれる。
手で蒸気を払いながら、タタンが声を昂ぶらせた。
「工場の機械は蒸気で動いていた。だから……」
噴出す蒸気の音に阻まれタタンの声が聞き取れない。おまけに蒸気の音に、ギュィ…ギィィ…という金属の軋み擦れ合う音が重なり始めた。何だろうと首を振るウィルタの前方、工場の中から、バタン、ガシャンという音が聞こえてきた。
放置されていた機械が動きだしたのだ。もっともそのほとんどは、軋みながら、やがてそれが限界とばかりに、次々と止まってしまうのだが……。
「凄いな、本当に動いたぜ」
蒸気を掻い潜ってタタンが顔を見せた。目が輝いている。
井戸の向こう側、広場の配管にも蒸気が通ったのか、ひときわ大きな歓声が上がり、それに合わせて、祝福の花火が町の上空の抜けるような青空に軽快な音を弾けさせる。
その聞こえてくる蒸気開通の歓声に、やったなとばかりに拳をぶつけ合うタタンとウィルタの傍らで、春香は眠たげに首を傾げていた。
だらんと下げた腕の先、指がピクピクと痙攣したように動く。
そして唇が震え「し…ろ…い…、く…も…」という喉を締めつけたような声が、春香の口から漏れた。しかし噴き出す蒸気や動いては止まる機械に夢中になっているタタンとウィルタが、春香の苦しげな声に気づくことはなかった。
蒸気が開通したその頃、板碑谷を後にしたレイは、ユカギルの町を遠望する尾根沿いの牧人道を歩いていた。花火の炸裂する音が風に乗って聞こえてくるが、演舞台と呼ばれる台形の岩が邪魔になって、花火そのものは見えない。久しぶりの祝い事で、花火の打ち上げに手間取っているのか、さっきから数発打ち上げてはしばらく休み、また数発打ち上げることを繰り返している。もっとも集まった人たちにとっては、その待ち時間までが楽しいことだろう。
祝いの席に興味のないレイにとって、急いで町に戻る必要はなかった。ゆっくりと歩を進めながら、レイは今し方、孫の養母と交した話の内容を思い出していた。ハンの行方については、あのシーラという女は何も知らないようだった。それは仕方のないこととして、逆に孫のことで重要な問いを投げかけられた。
孫の将来についてである。
シーラによると、シクンの社会では、男児は十四歳で成人を迎える。ウィルタにとっては来年の春がその節目の年に当たる。
言うまでもなく、ウィルタはシクンの民の中でシクンの子供として育てられた。毛長牛の乳を飲み、星草の実を粉に挽き、苔を燃やし、リウの繊維を紡ぐ暮らしをしてだ。このまま行けば、ウィルタはシクンの男として曠野で暮らしていくことになる。シーラとしては、そうできるように一通りのことは教えてあるという。
ただし、父親のハンがウィルタを迎えにきた時のことも考え、将来、町の人間としても暮らしていけるよう、折につけ町の世界に触れられるよう配慮もしてきた。とくに自分たちの暮らすミト・ソルガが、囲郷ユカギルのあるマトゥーム盆地に移ってきてからはそうだ。来春、ウィルタは成人式を迎える。
もしウィルタがこの後もシクンの男として生きていくなら、そのために覚えなければならないこと、済ませなければならない儀式が幾つも控えている。それは町の人間として生きていくにしても同じだろう。大人となり、仕事を持ち、人と関わって生きていくために学ばなければならないことは、山ほどあるからだ。
シーラは気に掛けていた。ウィルタがシクンの一員として生きるか、町に戻るかの判断をしなければならない時期に来ているということを。このまま何となく父親のハンがウィルタの前に現れるのを、待っている訳にはいかなくなっていた。
「だから」と、シーラが理解を求めるような目でレイを見た。
「いずれ私は、ウィルタがレイ先生のお孫さんであることを明かして、彼、ハンの連絡先を教えていただこうと思っていたのです」
シーラは、ハンの実母であるレイ先生なら、その居場所を知っているだろうと考えていたのだ。
残念ながらレイは、シーラの言葉に苦笑するよりなかった。情けない話だが、自分は息子の行方の手がかり一つ掴んでいない。お手上げとばかりにレイは両手を上げた。
レイは、失踪した息子は孫と一緒に暮らしているのだと思い込んでいた。それが孫だけが捨て子のように曠野の民の集落で暮らしていた。この間さりげなく板碑谷の仮住村を観察してきたが、ハンが出入りをしている気配はなかった。この女の言うように、ハンとの連絡が途絶えているというのは本当だろう。何よりの証拠は、当のウィルタが、自分が孤児であるということを信じ切っていることだ。
ハンは息子を置き去りにして姿を隠した……。
なぜ、どこに?
あまりの惨事と妻を失ったために、子供を育てていく気力を無くしたということなのか。子煩悩だったハンのことだ。もしかしたら、自身の息子を惨事の責任者の子として育てたくなかった、ということなのかも知れない。それは預ける時に、自分の子として育てないよう、あの女に頼んだことでも分かる。
しかし、子供を捨てるように預け、その後は……。
多少なりとも責任感のある人物なら、子供を世評の冷たい目から隔離できたなら、責任を全うするために、自らが立つべきところに帰ってくるはず。なのに息子は姿を晦ませたまま、一度も都に戻っていない。息子はそんな弱い人間ではないと思いつつ、伏せていた疑念が頭の中に首を擡げる。自殺、あるいは惨事の真相を闇に葬るために消された。
考え込みながら歩いていたレイが、石につまずきよろけた。
顔を上げると、目の前に風車が並んでいる。風車越しにユカギルの町が見える。
いったい何発目の花火だろう。自分のいる尾根筋の道と同じくらいの高さで、花火が数発続けざまに軽快な音をたてて炸裂した。
レイが去った板碑谷のミト、シクンの小屋で、シーラは椅子に腰掛け、力の抜けたような目で花火の残す白い煙を遠望していた。編み机の上には、空になった真鍮製のコップと薬缶が置いてある。何度目かの花火に、シーラは目覚めたように立ち上がると、薬缶を手に小屋を出た。
消えてしまった焚き火に火を戻しつつ、思いはまたレイ先生との話に戻っていく。
話を終え、岩の割れ目に向かって並んで歩いていると、レイ先生が「せっかくの、めでたい日に、堅苦しい話をさせてしまったかしら」と、気遣うように話しかけてきた。
シーラはとんでもないと、強く首を振った。
「先生がユカギルにいらっしゃるようになってから、いつか、この話をしなければならない日が来るだろうと思っていました。繰り返すようですが、そろそろウィルタの将来を考えなくてはならない時期なのです。むろん最後は、ウィルタ自身の気持ちを尊重することになると思いますが、でもハンと連絡が取れない以上……」
足を止めるとシーラは、「もし、ウィルタが町の暮らしを望んだとしたら、その時は先生、ウィルタのことを宜しくお願いします」と、改まったように頭を下げた。
シーラはそのことを、さらりと口にしたつもりだった。しかし……、
自身の顔に複雑な表情が浮かんでいたのかもしれない。同じ女性として、レイは敏感にそれを感じ取ったのか、念を押すように問い直してきた。
「ウィルタがそれを希望したとして、あなたはそれでいいのですか、ずっと一緒に暮らしてきたのでしょう」
意地の悪い質問だなと思った。子供を産み育てた経験がある先生なら、そんなことは聞かずとも分かることだろう。そう言い返したい気持ちを抑えながら、シーラは達観したように空を見上げた。
「子供はいずれ巣立つもの、それは子供をお育てになった先生なら、よくお分かりじゃありませんか」
投げ返された言葉を「それはそうだ」と、レイは曖昧な口調で受けた。
「あの子、きっと曠野の暮らしなんかよりも、町を選ぶんじゃないですかね。町の暮らしに憧れているみたいですから。人って、たぶん手を伸ばしても届かないくらいのものでないと、魅力を感じないものなんでしょう」
言って、シーラは涼やかに笑った。
岩の割れ目の前に来ていた。別れ際、シーラは確かめるように聞いた。
「それよりレイ先生、ウィルタに、父親の存在と、何より先生が祖母であることを、いつどうやって打ち明けましょう」
自分では決めかねていることだった。おそらくレイ先生が姿を見せなければ、ずるずると言わずに終わっていたかもしれない。
レイは瞬時には考えがまとまらない様子で口ごもると、「今しばらくは伏せておきましょう。まずは、ウィルタ君の考えを確かめる方が先でしょうから」
言って小さく礼を返すと、レイはそのまま岩の割れ目を上っていった。
シーラは思う。ウィルタの考え、そう、ウィルタはどちらの生き方を選ぶだろう。
石の竈の中で、火のついた苔が燻るように煙を立ち昇らせる。その煙から目を逸らすようにシーラは顔を上げた。見慣れた板碑谷の斜面と、その向こうにマトゥーム盆地が拡がっている。ここに来て八年、それはウィルタとの八年だったといって良い。
ハンから、あなたの子供として育ててほしいと言われ、その時は即座に断った。けれど、内心は自分の子供にしたいとの思いを捨て切れずにいた。預かって育て始める時、自分のことを母ではなく、シーラさんと呼ばせるようにした時に、踏ん切りはつけていたはずだ。子供のできない体になってしまった自分に、十年に渡って子育ての楽しさを味あわせてもらった、それだけでも良とすべきだろう。
じき丞師様の占事が下る。間違いなくミトは曠野の奥に移ることになる。私の体にも巫女としての血が流れているから、そのくらいのことは分かる。そうなれば、町との接点も無くなる。それに別の予感もある。
ウィルタはどちらを選ぶだろう。いやそれよりも、その判断をきちんと下せるだろうか。
谷間の向こうに目を向けたまま考えこんでしまったシーラを呼ぶ声がした。
祝典には行かずミトに残っていたミト長のインゴットだ。
立ち上がったシーラに、肩を揺するようにしてインゴットが歩み寄った。
「啓示が下りる、薫苔の準備をしてくれ」
「分かりました、これで夏の間に、ミトの移転を済ますことができそうですね」
シーラは丞師様の占事がミトの移転に関してだと思い、そう言った。しかしインゴットは別のことを考えていたのか、「ああ」と重い口ぶりで話を濁した。
「ほかに、何かあるのですか?」
インゴットは何か言いかけたが「占事が済めば、はっきりするだろう」とだけ口にすると、後は口をつぐんで、シーラを促すように大股で歩きだした。
薫苔の道具を取りに集会所に向かいながら、シーラは眉根を寄せた。ミト長の口ぶりからすると、何か良からぬことが起きているようにも受け取れる。高齢の丞師様の体に、また不具合が現れたのだろうか……。
シーラは無言で丞師様のいる岩場の祠堂を見やった。
第十話「義眼」・・・・第十二話「夏送り」・・・・