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星草物語  作者: 東陣正則
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洗濯


     洗濯


 春香がシャンの診療所で暮らすようになってから六日が過ぎた。

 昼間は診療所の雑用、そして空いた時間や夜に、アヌィと会話の練習をするのが日課である。まだ一週間足らずだが、それでも春香は、この世界の言葉をかなり喋れるようになった。話したいことの最初の一言が出てくれば、あとは何となく次の言葉が浮かんでくるのだ。どうやら頭の中に埋めこまれた翻訳機で喋っていた言葉の記憶が、どこかに残っているらしい。それでもまだ言葉に詰まることも多く、そういう時は迷わずアヌィと心の言葉で話を交わすのだった。

 シャン先生は何か交渉事があるとかで、ゴルの町に出ている。この数日、先生は度々都の衛生局に足を運んでいる。どうやら、新しく産科の治療を始める、その補助金の申請をしているらしい。

 それはそうと、主のいない診療所の上に、久しぶりのスポーンと抜けた青空が広がっている。絶好の洗濯日和だ。このところの曇天で、シーツや包帯の汚れ物がどっさりと溜まっている。それを川岸の洗濯場まで持って行って、洗わなければならない。

 春香は窮民街の女たちの真似をして、洗濯物を山盛りにしたタライを頭に乗せ、診療所前の階段を下った。手で持つよりも頭に乗せた方が背筋が伸びて安定がいいと、アヌィに言われたからだが、実際にやってみると、重心が高くなってバランスが崩れやすい。案の定、階段の途中で足を滑らせ、洗濯物をばらまいてしまった。それを診療所の下、療養棟の建物から出てきた男性陣が、拾い集めてくれる。

 土盛りの丘の上に作られたシャンの診療所は、下から平屋の療養棟、風車小屋、二階建ての診察所と建物が並んでいる。診療技師の助手の人がいた昨年までは、療養棟の十床ほどのベッドはいつも満床だったという。それが今は、腎肥病の顔色の悪い男性が三名いるだけ。その三人に見送られるようにして、川岸の洗濯場へ。

 診療所の階段を下りて春香の歩幅で四百歩くらい。びっしりと立ち並ぶヨシ小屋の間を抜けると、二抱えほどの岩がゴロゴロと転がる、川岸の斜面に出る。転がる岩は、牛の鼻面のように細かいしわの入った岩で、周辺の人たちはこの岩をベコ岩と呼ぶ。ベコス地区の名の由来となった岩である。一見すると巨大な声紋石に見えることから、この岩を初めて目にした者は、異口同音に、これが声紋石なら大儲けが出来て一生安楽に暮らせるのにと、浮かれた声をあげる。しかし近寄って良く見れば、紋様が浮き出て見える声紋石と異なり、ベコ岩は見た目どおりのデコボコの筋が走る、ただの石だ。

 そのベコ岩の転がる斜面の階段を下りた場所に、地区の共同の洗濯場として使われる小屋がある。なお階段をそのまま下まで降りると、分水路を対岸に渡る渡し船用の桟橋と、船頭たちが詰める番屋がある。

 壁のない洗濯小屋の一番の特徴は、中央に特大のベコ岩、それも平らなベコ岩があるということだ。ここでの洗濯は、この平たいベコ岩に汚れ物を擦りつけて行う。ベコ岩の細かいしわが、洗濯用の波板の役目をするのだ。

 すでに小屋では、ベコス地区のおかみさんたちが洗濯に精を出していた。

 この洗濯という仕事、実際にやってみると、思った以上に重労働である。

 洗濯をするには、下の桟橋で水を汲んで来なければならない。そのためには、まず川岸に張っている氷を割る必要がある。それも鉄の棒を使ってだ。これが力のない春香にとっては一苦労。それだけではない、桶で水を運ぶのも一苦労なら、ヨシの灰汁を使って汚れ物をベコ岩に押しつけるようにして洗うのも一苦労。なにせ水が冷たく、指がジンジンとかじかんで、すぐに感覚がなくなってしまう。

 診療所に来て一週間も経たないのに、水周りの雑用だけで、春香の手は垢切れと霜焼けで真っ赤になってしまった。その赤く腫れた指に氷のような水が沁みる。隣で洗濯をしているおばさんたちが、シーツを揉む春香の悲壮な顔を見て、カラカラと笑った。

「あんたの細腕じゃ、シーツを手で洗うのは無理、足で踏み洗いをした方がいいよ」

 おばさんたちが口々に小屋の隅を指す。そこにウォト樹脂製の長靴が干してある。毛布などの大物は、長靴を履いて踏み洗いをするのだ。

「もっとも今日みたいに暖ったかい日にゃ、あたしらなら、素足でやるけどね」

 そう言っておばさんたちは、またカラカラと笑った。

 言われたように、長靴に履き替えてシーツを踏み洗いしてみる。確かに楽だ。けれども靴下を脱いだ足の指先が、長靴の中で凍えて悲鳴をあげる。とにかく大物は踏み洗いをするとして、小物の包帯や手拭い、下ばきの類などは、やはり手で洗わなければならない。力を込めて揉み洗いをするうちに、春香はすぐに息を上げてしまった。

 手足は完全に感覚がなくなっている。それでもなんとかタライ二つ分の汚れ物を洗い終えると、次に待っているのは、川岸の氷の間でのすすぎだ。屈んでやるために腰が痛くなる。それよりも大変なのが、最後の洗濯物を絞ること。シーツなどは重くて大きいし、とても一人で絞るなんてできそうにない。

 本当に全自動の洗濯機が懐かしい……。

 春香が水辺で悪戦苦闘をしていると、小屋のおばさんたちが、今度は真面目な顔つきで、「濡れたままでいいからこっちへ持ってきな」と言って手招き。

 言われたことの意味が分からず、キョトンとしている春香に、脇の長椅子に腰かけ、一服つけていたおばさんが、まどろっこしいとばかりに、割れた氷を蹴飛ばしながら水場に下りてきた。派手なオレンジ色の前掛けに、南瓜型に髪を結い上げたおばさんは、ヒョイと山積みの洗濯物を乗せたタライを持ち上げると、一息で階段を駆け上がった。

 その南瓜頭のおばさんがタライを下ろした小屋の横に、手回し式のローラーがある。二本のローラーの間に洗濯物を挟み、大きなハンドルでローラーを回して水を絞る仕掛けだ。僧会が寄付した機械だが、川岸のおかみさんたちは誰もローラーを回したりはしない。ローラーを固定してある柱の横木に、水の滴るシーツを二つ折りにしてぶら下げ、両端を持って力任せにねじる。南瓜頭のおばさんが、濡れたシーツを引っかけて腕に力を入れると、水がすだれのように滴り落ちてきた。

「ローラーは使わないんですか」と春香が聞くと、鼻歌を唄いながら水を絞り出しているおばさんの後ろで、周りのおかみさん連中が声を合わせた。

「あたいらの腕がローラーなのさ。あんな見かけ倒しの絞り器なんかより、二本の腕でやったほうが早いし、よっぽどしっかり絞れる」

 そう言えば確かにそんな風に見える。南瓜頭のおばさんは、体格も小柄で、袖をまくった腕も枯れ木のように骨と皮だけだ。なのにもう一枚目のシーツを絞り終えて、二枚目にかかっている。

 春香の視線に気づいたのか、南瓜頭のおばさんが威勢のいい声をあげた。

「ほら、あんた、小物は自分で絞りな。なあに半年もやっていれば、あんただって、あたいらみたいな鋼の腕になるさ」

 景気のいい声でそう言うと、腕にぐっと力をこめた。なるほど、細いけれど脂肪のない締まった腕に、筋肉が解剖標本みたいに浮き出ている。

「まっ、こんな腕になっちまえば、男どもは寄り付かなくなるけどね」

 周り中の女がゲラゲラと笑い声をあげた。

 洗濯場に集まる女たちは、みな頭から肩にかけて思い思いに柄物のスカーフを被り、腰にも派手な色物の腰布を巻きつけている。耳環や首飾りを付けたおばさんも多い。

 そんな軽く着飾った女たちが、洗濯半分、話半分でワイワイと洗い物に精を出す。洗濯場は女たちの社交場なのだ。


 結局、タライ二つ分の洗濯に午前中いっぱい掛かってしまう。洗った洗濯物を抱えて診療所へ戻る頃には、もう春香の腕の筋肉はパンパンに張っていた。それを我慢して、山盛りの洗濯物を抱えて診療所へ。療養棟の窓から腎肥病の男性陣が顔をのぞかせ、「ご苦労さん、足を滑らすなよ」と、声をかけてくれる。

 足元に気をつけながら階段を上へ。物干し場は診療所の屋上にある。

 洗濯だけで息の上がってしまった春香が、タライを手にしたまま階段途中の手すりに寄り掛かっていると、目の前の風車小屋の扉が開いて、毛の防寒服を着こんだ小太りの男性が出てきた。肩に革袋を引っかけ、防寒用の耳当てそっくりの拡音器、ヘッドホンを頭に乗せている。春香が診療所に運び込まれた次の日、シャン先生から「私の患者兼助手だ」と言って紹介された、マフポップ……さんだ。

 助手といっても診療の手伝いではなく、診療所の資材調達や機材の保守点検を任されている人物で、歳は三十二歳、薄土肌で、栗色の髪に薄茶の瞳。ただこの目が、どこに視線を合わせているのか分からない、ぼやけた目をしている。本来なら目上の人だから、さん付けで呼びたいところだけど、この人の場合は……、

 扉から出てきたマフポップは、目の前の春香に気づく風でもなく、そのままスタスタと階段を下りて行った。マフポップのヘッドホンからは、キンキンガシャガシャという酷い音が漏れている。マフポップは、療養棟の男性陣に話しかけられても一言も声を返さず、窮民街のほうに歩いていった。声をかけた男性三人が、そろって肩を竦めた。

 この間何度か、春香もマフポップに挨拶の声をかけたが、返事が返ってきたのは一度だけだった。一体どういう人なのだろうとアヌィに聞くと、「変人、頭痛持ちのカチカチ男」という返事が返ってきた。何がカチカチなのかと思ったら、診療所の用がない時、マフポップは風車小屋の部屋にこもって、電鍵通信の電鍵を叩いているのだそう。

 兇電の混信する無線通信は、普通の人ならまず一分と聞いていられない。それをマフポップは全く気にしない。この世界には、ごく希に兇音を苦にしないタイプの人がいる。ホーシュもそうだったが、マフポップもその一人らしい。

 マフポップは、一日中耳にヘッドホンを当てている。部屋にいる時は、ドバス低地にいる同じ体質の人と電鍵通信を交わし、外に出る時は、肩下げ袋に電波の受信機を入れて、歩きながら兇音に耳を澄ませる。兇音がBGM代わりなのだ。

 先ほどヘッドホンから漏れていた音からすれば、相当な音量で聞いていることになる。春香の時代なら、歩きながら音楽を聞いていても誰も変に思わないが、この時代では、かなり奇異な姿だ。おまけに聞いているのが、誰もが耳を塞ぎたくなる音とくれば、変人というレッテルを貼られても不思議ではないだろう。

 春香がなるほどと頷いていると、アヌィが「それだけじゃない、あいつ、鳥肉を、好物って、言ったの!」と、憎々しげに眉を吊り上げた。

 どうやらアヌィがマフポップに良い印象を持っていないのは、鳥肉のことがあるかららしい。鳥の巣に捨てられ、鳥の雛と一緒に過ごした経験のあるアヌィは、絶対に鳥の肉を食べない。もちろん卵もだ。アヌィにとって、鳥肉を食べるということは、絶対に許せないことなのだ。

 鳥肉のことはさて置いても、マフポップが変人というのは当たっている。

 とにかく無愛想で挨拶もろくにしない。こちらが話しかけても知らんぷりをしていることがある。診療所の一員として先生から紹介されたし、歳上の人だから、返事が返ってこなくても挨拶は続けているが、できれば近づきたくないタイプだ。

 療養棟の患者さんに限らず、ベコス地区の人たちもそう思っているらしく、ほとんどの人はマフポップを距離を置いた目で見ている。この間見ていた限りで、マフポップと話を交しているのは、下の集会所に集まるお年寄りたちくらいだ。

 窮民街に入ったマフポップを、ベコス地区の子供たちが「兇音バカ!」と呼んで囃し立てる。ところがその野次もまるで聞こえないかのように、マフポップはヘッドホンに手を添えながら、ヨシ小屋の間の狭い道に姿を消した。

 マフポップの姿を目で追いかけていた春香の耳に、屋上からアヌィの囀るような声が聞こえてきた。アヌィの声に本物の水鳥たちの騒々しい鳴き声が混じる。

 春香は気合いを入れ直してタライを持ち上げると、荒い息をつきながら階段を上がった。そして屋上に出たとたん、本当に息が切れて、座り込んでしまった。

 手すりに列を作って停まっていた水鳥たちが、春香の方に首を向ける。そして春香が呼吸を整えてヨイショと立ち上がると同時に、一斉に飛び立った。

「ごめん、鳥さんたちを驚かせちゃった」

「いいの、もう十分喋る、した。それに、鳥たち、お昼食べる、東の湿原、行く時間」

 そう話すアヌィの目は、本当に鳥のように黒くてつぶら。

「なんだ、じゃ、これをあげたかったな。干し餅の砕いたのを持ってたんだけど」

 前掛けのポケットから餅くずの入った袋を取り出そうとして、春香はそれを落としそうになった。揉み洗いで指の力を使い果たし、袋を掴む手に力が入らないのだ。

 アヌィがキャラキャラと笑った。

「洗濯、大変、アヌィ、いつも、思う」

 シャン先生は、診療所の手伝いをしてくれる人には、まず最初に洗濯をお願いするという。診療所の仕事はどうしても医師の自分が目立ってしまうが、実際には、裏方の仕事も医師の仕事と同様に、大変でかつ不可欠。それを分かって欲しくてやってもらうのだそうだ。むろん春香の洗濯には、体力作りという別の目的もある。

 アヌィからそのことを教えられて、春香はなるほどと思った。今夜寝る時には、シーツを洗ってくれた人に感謝の一言を捧げようと、そう思ったばかりだからだ。頭で分かったつもりになっていても、実際に自分の体を動かしてやってみないと、なかなか人の立場になって考えることはできないものだ。その事が嫌というほど分かった気がする。

 黒い瞳をキラキラさせたアヌィが、春香の心の内を見透かすように、

「最初、すごーく、大変。でも今、きれいなシーツを見る。洗濯の、おばちゃんたち、ご苦労さま、言いたい」

 春香が真面目な顔で「でも、わたしの腕も、毎日洗濯をやってたら、おばさんたちの腕みたいになるのかな」と言うと、アヌィがまたキャラキャラと笑い声を上げた。

「絶対、間違い、ない、絶対!」

 春香も鋼のようになった自分の腕を想像して、思わず身をよじった。

 そして笑いながら、袋の中の餅くずを一つかみ掴むと、アヌィに手渡した。水鳥たちがアヌィの鈴のような笑い声に誘われ、上空からこちらに向かってくる。

 鳥たちに見えるように、パーッと餅くずを屋上高く放り上げる。宙に舞う白い粒を見て、鳥たちが次々とダイブするように急降下してきた。

 屋上に散らばった餅くずを水鳥たちが平たい嘴で器用についばむ様子を眺めながら、二人は手の平にくっついた餅の欠けらをなめた。行儀の悪いことは楽しいことだ。空の青さもなぜか愉快。春香はこの世界に来て、初めて充足感を感じたような気がしていた。

 浮き浮きした気分で空を見上げる。

 手を伸ばせば届きそうな高さの空から、ドバス低地の全てを見渡せるような遙か上空まで、様々な高さを鳥が舞っている。このドバス低地、それも河口のデルタ地帯は、水鳥たちの楽園なのだ。水鳥だけでなく、内陸の鳥たちまでもが、大陸各地から長い冬を過ごすために、ここに渡ってくる。寒さだけなら、この時期、大陸南西部の方が暖かくて過ごしやすい。しかし餌の豊富な場所として、このドバス低地の右に出る場所はない。

 アヌィが上空の渡り鳥を見ながら、さっきまでの明るい表情とは打って変わって、重苦しい表情を顔に浮かべた。

 気づいた春香が「どうしたの」と、アヌィの顔を覗きこむと、アヌィが不安げな表情を隠そうともせずに話しだした。

「うん、この時期、水鳥、気流つよい上空、昇らない。でも今年は、へん。冬越しに来た。なのに、別のところ、移る鳥、いる。それおかしい。それで、鳥さんに聞いた」

「それで?」

 口ごもったアヌィに、春香が催促する。

 アヌィは何か考えているようだったが、「うん」と言って、重い口を開いた。

「鳥たち、噂、してる。この低地、良くないこと、起きる。それで、おびえてる」

 この数日、アヌィが憂欝そうな顔をしていたのは、この事だったのかと春香は思った。

 古来から、野生の生き物が天変地異を察知して棲処を逃げ出すという話は多い。眉唾なものもあるが、シロタテガミと一緒に旅をしてきた春香は、動物たちの特殊な感覚というものを、信じられるようになっていた。アヌィがじかに鳥たちに聞いたというのだから、間違いないだろう。この地で何かが起きるという。でも、いったい何が……。

 春香は不安な面持ちで、はるか上空を飛ぶ水鳥たちを見上げた。

「それって、シャン先生の言ってた、この周辺でもうじき争いが起きるかもしれないってことと、関係があるのかな」

「うん、そのことも、聞いた。でも違う、みたい。だって、海辺の湿原、どこも迷路。病気もいっぱい。人、行かない。何か別のこと、起ころうとしてる、そんな気する」

 アヌィの話に耳を傾け、春香は火炎樹農園の向こう、大河の流れて行く先に拡がる、ドバス低地の大デルタ地帯に思いを巡らせた。海抜ゼロの広大な湿原地帯、主要な水路以外は、ほとんど人が入って行くことのない汽水の泥湿地、それは水鳥たちにとっての楽園だ。そこの鳥たちが何かの予兆に怯えている。

 じっと不安気な表情で彼方を見つめる春香の横で、アヌィが首を振った。

「まっ、起きるの、天変地異、なら考える、意味ない」

「それはそうだけど……」

 神経質そうな表情で相槌を打つ春香に、アヌィが思い出したように言った。

「言うこと、忘れてた、ほかにも、鳥たち、話してた」

「え、なに」

「昼から、雪に、なるって」

 急に現実に引き戻された春香は、唖然とした顔で足元のタライに目を落とした。

「えーっ、そっちの方が重要じゃん。なら、洗濯物を部屋の中に干さなきゃ。あーあ、しんどい思いをして、屋上まで運び上げるんじゃなかった」

「じゃ、下に降ろす、アヌィ、やる」

 アヌィは小柄な体に似合わない力で、ひょいと洗濯物のタライを持ち上げると、足取りも軽やかに階段を下りていった。

 その後ろ姿を見ながら、春香は自分の非力な体に、ため息をついた。そうして、もう一度確かめるように湿原の彼方に目を向けた。

「この湿原で何かが……」

 そう呟いた春香が、ハッとして何かに耳をそばだてた。

 耳の奥、いや頭の奥で、誰かが自分を呼んだような気がしたのだ。誰の声だか分からない、しかし確かに、何かが聞こえたと感じた。湿原の方角から、いやそのもっとずーっと先からだったような気がする。

 言葉のようでもあったし、歌といえば歌のようでもあった。初めて自分の血液の流れる音を聞いた時のような、なんとも不思議で、でもどこか懐かしく心の落ち着く音だった。

 人の耳が音として聴き取ることのできる空気の振動は、ごく限られた範囲の振動数だけだ。人の耳は、生まれた時から、ある特定の音域の音にしか反応しない。それと同じように、人の目は、生まれた時からある特定の領域の電磁波、可視光線と呼ばれている領域の電磁波しか感じ取ることができない。この世界には音と電磁波が無限に溢れているのにだ。

 人が感じ取ることのできる物の、いかに限られていることか。

 無数の空気の波が鼓膜を揺さぶり、様々な波長の電磁波が網膜を刺激しているのに、その中で人の受け取ることのできるのは、ほんの一握りだけ。もし人の耳に、太陽の周りを猛烈な早さで回る地球の鼓動が聞こえたら、それは心臓を止めてしまうほどの驚きの音になるだろうか、それとも懐かしさで涙を誘う音になるだろうか。

 生まれてこの方、ずーっと誰かが耳元でささやき続けてくれていて、それに突然気づいたような、そんな驚きと懐かしさと、そして堪え難い郷愁を誘う音のようなもの。それが自分の体の中を一瞬共鳴して通り過ぎていった。

 地球をめぐる風に乗って聞こえる声とでもいうのだろうか。

 春香は思い出した。今しがた自分の耳が捉えた声のようなものが、晶砂砂漠の端に立つ、古代のビルの残骸の上で聞いた声と同じものであるということを。

 もう一度、その声の感触を……、

 そう思って、春香が目を瞑り、耳を澄ませたところに、階下からアヌィの声が届いた。

「ねえ、春香ちゃん、洗濯物、干すロープ、どこ、置いたーっ?」

 緊張が途切れ、声は風の中に姿を隠してしまう。

 いま一度と思い、春香は声を感じた方角に向かって、目を瞑り耳を澄ます。しかし聞こえるのは、湿原を吹き渡る風が耳元を通り過ぎる音だけだ。

「仕方ない、そのうちまた聞こえるだろう」

 肩を落として呟くと、春香は半ば自棄気味に声を張り上げた。

「戸棚の一番下の引き出しーっ!」

 少し掠れ気味の自分の声に自分で苦笑しながら、春香は階段を降りていった。

 前方の窮民街と診療所をつなぐ緩やかな坂を、シャン先生と、助産婦のブリンプッティさん、そして来春都の看護学院を卒業したら先生の診療所に来ることになっている、ブリンプッティさんの娘さんが、上がってくるのが見えた。

 先生は診療所の階段に春香の姿を見つけると、「昼からちょっと河岸の往診に出かける、一緒に行くかーっ」と声をかけてきた。

 それに「ハーイ」と明るく答えると、春香は先生を待つように診療所の扉を開けた。

 上空に淡い雲の欠けらが散らばり始めていた。



次話「往診」

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