園丁
園丁
ウィルタが氷原のサイトに収容され、春香が窮民街の診療所でアヌィとこの地の言葉を一から学び始めた日の夕刻、薄暗くなった盤都迎賓館のガラス室では、少し苛立ったピーノの音が鳴り響いていた。
「いかがなされましたか、ジャーバラお嬢様」
籠を持った園丁のホロが、禽鳴舎後方の煉瓦道に現れた。ジャーバラは聞こえないふりをして、しばらく音を鳴らしていたが、集中力が切れてしまったのが自分でも分かったのだろう、ピタリと弾くのを止めると声の主に目を合わせた。
いつも通り背筋をぴんと伸ばしたホロが、ステージの縁に立っていた。どうしてそうまで背筋を伸ばしていられるのだろうと、不思議になる。
「なにか嫌なことでもお有りでしたか」
直立不動のまま、口だけが動く。
ジャーバラは、ぼんぼり頭のピンクのリボンをブルンと揺らすと、立ち上がって禽鳴舎の外に出た。そのまま円卓の一つに歩み寄り、脇の丸椅子に腰を下ろす。円卓の上には、ジャーバラが学塾に行く際に使っている背負い鞄と、大人の使う四角い書類入れのような革袋が無造作に置かれている。
手で顔を覆ったジャーバラが、年嵩の園丁に疲れた声で話しかけた。
「ホロは、いい歳なんでしょ。立ってないで座りなさいよ、椅子はいっぱいあるんだし」
園丁のホロは、姿勢を崩さず、ジャーバラに生真面目に言葉を返した。
「いえ、わたくしはこの方が楽なのです。園丁をやる前に衛士を長くやっておりましたので。ご存じのように、あれはじっと立っていることが仕事ですから。長く立つことのコツは、背筋を伸ばすことでして。それよりお嬢様の方こそ、いかがなされました」
ジャーバラは手首からピンクの腕輪を引き抜くと、苛つくような目をホロに向けた。
齢五十に手が届く園丁のホロが、テラスに上がる階段のすぐ手前に立っている。テラスの煉瓦が、四角い煉瓦から翼模様の入った飾り煉瓦に変わる半歩手前、そこにピシリと両足が揃えられている。まるでここから先は自分の入るべき場所ではないといわんばかりの律儀さだ。すでに日が陰っているため、その姿がまるで彫像のように見える。同じ長身でも、黒炭肌のオバルが、古代のサバンナで牛と暮らしていた民の血を引いているとすれば、この園丁のホロは、北の地で馴鹿と共に暮らしていた白い肌の民の血を受けているように見える。白い肌に見事な金髪である。
このすらりとした長身の園丁は、迎賓館別館のガラス室に自由に出入りできる数少ない民間人であり、それゆえにジャーバラの数少ない話し相手でもあった。
「ねえ、ホロも学校へは行ったんでしょ」
ジャーバラが年上の人間に甘えるような声を出した。ところがジャーバラの砕けた物言いにも、ホロは姿勢と同じように律儀な口調で答える。
「はい、まだこの都が造営される前、自分がドレ・ベベル山稜の町に住んでいた時の話です。経堂の運営する座学に、三年ほど通っておりました」
「ホロは勉強が好きだった、嫌いだった?」
「はっ、わたくしがですか……、それはもう、大嫌いでした。ですからおふくろに、これ以上おまえを座学にやる金がない、悪いけど今日を最後に辞めてくれと言われた時は、それは嬉しかったものです。でもお嬢様、それがどうかなさいましたか」
カバンの止め具を指先でいじりながら、ジャーバラがため息をついた。
「いいな、ホロは、わたしは絶対に勉強を止めろなんて言われっこないもん」
「学塾で何か嫌なことでもおありになったのでしょう、お嬢様」
自分のことを「お嬢様」と呼ぶのは止めてくれと言っているのに、この園丁は口癖のようにお嬢様と言う。もう諦めているのだが、それでも抗議を込めてチラッとホロの顔を睨み返すと、ジャーバラは自分の四倍近くも生きてきたであろう園丁に、ため息まじりにもらした。
「わたしは別に勉強が嫌いって訳じゃないの、でもねえ……」
言いかけて言葉を止めると、ジャーバラは、やおら机の上においた書類鞄をひっくり返した。机の上にバサバサと書類の束と専門書、さらには計算器までが転がり出る。その鞄の中身をジャーバラは、怒りを込めて睨んだ。
「父さんに、ピーノの練習時間を半分に削って、その時間を沸砂語の勉強に当てろって言われたの。見てよ、こっちの本は数理経済に経営学の概論、それに政治講話集に、書類の束は法律事例集の切り抜き。これをみんな学校が終わったあとに、専門の家庭教師がついて勉強してるのよ。それ以外にも体を鍛えるための柔術と乗馬、発声法なんてのもやっているわ。いい演説をするためには、まずしっかり声が出せないとだめだからって。それもこれも、来年の選挙の十五歳枠で立候補するには時間がない、いや来年の選挙のことよりも、とにかく長い目で見ていい政治家になるためには……、とか言ってよ」
喋っているうちに気持ちが昂ぶってきたのか、声が大きくなってくる。
「ねえ、ホロ。わたしは、まだ十四歳よ。どうして十四歳の女の子が、国民から恨まれない税金の取り立て方や、人のスピーチの揚げ足の取り方を学ばなきゃだめなの。子供の頃、おままごとをしたい時に、陣取りゲームと殖産ゲームばかりやらされたわ。勝たなくちゃおやつがもらえないから、必死になってやったけど。女の子なのに人形の一つも触ったことがないなんて、同級生の女の子たちと何を話題にすればいいのよ。
おまけに、わたしが嫌がると、これは亡くなった母さんが、遺言としておまえにやってほしいと言い残したことなんだって、母さんが娘のために作った学習カリキュラムをやっているだけなんだって、そう言うのよ。それって卑怯じゃない。死んだ母さんを持ち出すなんて、反論のしようがないもの」
「そうでしたか」
律儀に頷く園丁に、ジャーバラが心のわだかまりを曝け出すように続ける。
「だからとにかく母さんの言いつけは守るから、その代わりにピーノだけは好きにやらせてって頼んだの、これだけはわたしが自分でやりたくてやってるんだからって。なのに、今度はそのピーノの練習時間を削って、沸砂語の勉強時間を増やせって言うの。母さんが亡くなって父さんも寂しいだろうから、少しでも父さんを喜ばせてあげようと思ってずっと頑張ってきたけど、もう限界。わたし、普通の十四歳の女の子に戻る。もうこんな小難しい勉強なんかやらない」
両手の拳を握り、ぼんぼり髪とピンクのリボンをブルブル震わせると、ジャーバラは「わたし、絶対政治家になんかならない」と、宣言するように叫んだ。そして最後は、机につっぷし、声を上げて泣き始めた。
感情を昂ぶらせている国務大臣の娘に、園丁は戸惑いの表情を浮かべていたが、抱えていた籠を下に置くと、意を決したように飾り煉瓦の上に足を踏み出し、そのままテラスの階段を上がって禽鳴舎に入った。
そしてピーノの鍵盤の上に、白くて長い人差し指を落とす。
小さなハンマーが絃を叩き、硬質な音が禽鳴舎に広がる。その音の残響に重なるように、別の鍵盤に指を。不器用に音がつながり、ゆったりとした旋律らしきものが、その場に流れる。ジャーバラが顔をもたげ、禽鳴舎の中にいるホロを見た。逆光のなか、園丁帽から食み出た産毛のような金髪に、傾いた日差しが当たって淡く輝いている。時代が違えば、高貴な牛飼いの王族といってもいいような気品が、ホロの姿には漂っている。
少女が泣き止んだことに気づいたホロは、鍵盤から手を引くと、ジャーバラの方を振り向き、腰から体を折るようにして礼をした。
「お嬢様、許可を頂かずにピーノに触れました。お許し下さい。歳の離れた姪が、亡くなる前に、一度でいいからピーノを弾いてみたかったと、言っていたものですから」
それを聞いたジャーバラが、先ほどまでの昂ぶっていた感情など忘れたように、「どういうこと、それ」と、身を乗り出してきた。
ホロが、禽鳴舎を出て、さっきまで立っていた四角い煉瓦の上に戻る。そして姿勢を正すと、座学の子供が先生に答えるような丁寧な口調で口を開いた。
「遺言の話で、つい姪の事を思い出しました次第です」
「ピーノを弾くのが、ホロの姪ごさんの夢だったの」
「そういうことです」
「もう少し詳しく聞かせて」
「しかし、数理経済学が」
「いいのよ、もう勉強は止めにしたんだから」
ジャーバラが、円卓の上に散らばっていた本や書類を、目障りだとばかりに机の端に押しやった。分厚い経営学の本が、床に落ちて、ドサッと派手な音をたてる。
駆け寄ったホロが、本を拾って机の上に戻すと、
「しかし、それでは、わたくしが勉強の邪魔をしたことになって、父上からおしかりを受けます」
「分かった、じゃあホロの名前は出さない。昼寝をして寝過ごしたことにするわ。あっ、それより、弁解答弁の実習のために、わざと遅れましたがいいな」
大臣の娘がいつもの快活な少女に戻ったことに安堵しつつ、ホロは困った表情を浮かべた。園丁の自分が、要人の娘に個人的な話をすることが、園丁の分を越えた行為になるのではと考えたのだ。だがピーノに手を出してしまったということもある。
ホロは意を決して頷くと、亡くなった自分の姪の話を語り始めた。
話は今から二十七年ほど前に遡る。
耐水性の火炎樹の種が発見され、ドバス低地の開発が始まって間もない三年目のこと、ホロの一家十八名は、ドバス低地北方のドレ・ベベル山地の麓の寒村から、バドゥーナ国に移り住んだ。都を造営するための土盛りも終わり、塁壁が半分ほど立ち上がった時期である。各地から人が流れ込んでいた。しかしながら、その全ての人が塁壁の内側に居を構えることができたのではない。建都の時期というのは、都の塁壁の内側に住む者と、外側に住む者の選別が始まった時期でもある。
当時、塁壁の外側には、塁壁の内側の数倍の規模で、農園の単純労働に携わる人たちの暮らす労夫長屋が軒を連ねていた。移住してきたホロの一家は、その労夫長屋の片隅にテントを張って暮らし始めた。ただそこはまさに塁壁の真下、ウォトの廃材で作ったあばら小屋が軒を接するように立ち並ぶ場所で、塁壁の上から投げ捨てられる塵埃が落ちてくることから、ゴミかぶりと、有り難くない呼び名を付けられた場所でもあった。
汚物が頭の上から降り注ぎ、衣服にも体にも、そして家にも、臭いが染みついて離れないような暮らしではあったが、良いこともあった。ゴミに混じって使えるものが一緒に落ちてくるということではない。塁壁の内側から、時折、楽器を奏でる音が聞こえてくるのだ。ホロの家族の住みついた場所のすぐ上、塁壁の内側の家にピーノがあったらしく、毎日夕刻の決まった時刻になると、ピーノを弾く音が聞こえてくる。この時代、ピーノを持っている家は珍しく、またそれを見たり聞いたりすること自体が希なことだった。
移住してきた当初、ホロは火炎樹農園の水路建設に従事していた。
十年に渡り水路掘削の人夫をした後、ホロは都の衛士の仕事にありつく。長身と端正な顔立ちが採用された理由だったらしい。収入は増えたが、それでも住む場所は相変わらず。なにせ養うべき親族が二十人近くもいたのだ。
毎日経閣門の横に立ち続ける仕事である。足が本物の棒のようになって家に帰り、疲れた体を休ませる。その休息の一時、頭上から聞こえてくる楽器の音は、まさに空から授かる天上の音楽であり、やすらぎの調べでもあった。いつしかホロの家族は、夕食前のひと時、そのピーノの音を聞きながら苔茶を飲むのを楽しみとするようになった。
そのことを何より人一倍楽しみにしていたのが、同じ屋根の下で暮らしていた弟の娘だった。結婚してはいたが子供のいなかったホロは、当時八歳の姪を自分の子供のように可愛がっていた。その姪が、いつか自分も仕事を持って、壁の向こう側の住人となってピーノを弾くんだと、繰り返し口にしていた。ただそのためには勉強をしなくてはならない。そして勉強をするためには、学費を稼がなければならなかった。
資金を貯めるために、姪は八歳で泥運びの肉体労働に出た。まだ骨格も成長しきっていない少女にとって、それはいくら実入りが多くても過酷な労働で、結局姪は一年で体を壊し、マリア熱に罹って、あっけなく天に召されてしまった。その姪の最後の言葉が、自分の代わりに、いつかピーノを弾いてくれというものだった。
今から九年前、姪の死の一年後のこと、塁壁周辺の労夫長屋は取り壊され、その際幸運にも、ホロの一家は塁壁の内側の住人となることができた。やがてホロは都の衛士を引退、縁あって三年前からガラス室の管理の仕事、園丁の仕事に就いた。
立ったまま、当時を思い出すかのような目つきでホロが話を続ける。
「音痴の伯父ちゃんには、とてもピーノを弾くなんてできないだろうけど、でもピーノの鍵盤に触れるだけでもいいからと、そう言って自分の指を握り締めたまま、姪のやつはあの世に去っちまいやがったんでさ」
知らないうちに、言葉使いが田舎言葉に戻っている。そのことに気づいたのか、ホロは恥ずかしそうに目をしばたかせると、
「相済みませんです、お嬢さん。こんな打ち明け話なんか、お聞かせしちまって。実は衛士を辞めてガラス室の園丁になったのも、ここにピーノがあることを知ったからなんです。いつか機会があれば、姪っ子の夢を果たしてやれるんじゃないかと思いまして。今まで、お嬢さんにお願いしたいと思いつつも言い出せなかったのですが、さっきの遺言という言葉を聞いたとたん、どうしても姪の想いを果たしてやりたくなりまして……」
話し終えると、ホロはいかにも元衛士らしく、「先にお許しを戴いてから触るべきでした」と言って、深々と腰を折り曲げた。
大の大人に謝られて面映ゆいのか、ジャーバラは居心地が悪そうに身をよじった。
「そんなこと……、遠慮せずに、もっと早く言ってくれれば良かったのに。でもさっきホロが弾いたの、あれって何かのメロディーだったの」
「ええ、昔、姪が亡くなる前でしたか、いつも塁壁の中から聞こえてきて、耳の底に貼りついている曲なんです。いま家に拾った玩具のピーノがありまして、時々その鍵盤を叩いてるんですが、やはり本物のピーノじゃ勝手が違って、安直に上手く弾けるってもんじゃないですね」
ジャーバラは「ふーん」と鼻声を響かせると、つっと立ち上がり、禽鳴舎の中のピーノに歩み寄った。そして片手で無造作に、あるメロディーを弾いた。
ホロが顔を上げるや叫んだ。
「お嬢さん、それです、その曲です。しかし、さっきのあんな音から、良くそのメロディーがお分かりに、さすがはお嬢様だ」
感心して自分を見ているホロに、ジャーバラは答えなかった。
分かっていた。そのピーノを弾いていたのが誰であるか。それは紛れもなく自分の母だ。母はジャーバラの幼少時に亡くなっている。自分の中に母の記憶はほとんど残っていない。それでも、さっきホロが鍵盤を叩いて出したほんの数音が、眠っていた記憶を呼び覚ました。やさしいメロディーである。きっと母はこれを繰り返し子守歌として自分に聞かせてくれたのだろう。
もう一度そのメロディーを単音でぽつりぽつりと弾き鳴らすと、ジャーバラは静かに鍵盤の蓋を閉じた。これ以上弾くと、今度は演技なしに本当に声を上げて泣いてしまいそうだった。ジャーバラはホロの方を振り返ると、心を落ち着けるように言った。
「ありがとう、大切な話を聞かせてくれて、専門書を何十冊読むよりも、貴重なことを教わったように思うわ」
「お嬢様にそう言ってもらえると、気が楽になります」
形式ばった物言いを変えないホロに、ジャーバラが「もしホロがピーノを弾いてみたいと思ったら、いつでも弾いて」と、気さくに声をかけた。
「お嬢様のそのお気持ちだけを、ありがたく受け取っておきます」
ホロが深々とお辞儀を返した。
とそのホロが、何を思ったか、突然真剣な顔でジャーバラを見つめた。
「お嬢様、これは差し出がましいことかもしれませんが、ホロには、お嬢様が政治家になる勉強に抵抗を感じてらっしゃるように見えます。ですが、この世界のほとんどの連中は、あっしの姪のように、一生ピーノに触れる機会もないまま、あの世にいっちまう人間なんです。もちろん恵まれた人たちには、恵まれた人なりの、お悩みがあるというのは良く存じあげています。それでも、この世の中のほとんどの連中は、自分の人生に何をやるかなんて選ぶ余地もない、毎日生きていくだけで精一杯の人生を送って死んでいきます。
お嬢様は、たぶんこのままお父上のおっしゃる勉強をやっても、大人になってから、もう一度、別の人生に乗り換えようと思って、それができる。そのことを忘れてほしくないんです。そこからもう一度、ピーノをやることだってできる。いやそれ以外のことだって、何だって選べる人生なんですから」
言ってしまって、やはり言い過ぎたと思ったのか、ホロは手の甲を掻きながら「済みません、園丁風情が説教臭いことを申しあげて」と、恥じるように身を屈めた。
初老の域に入りかけた園丁の話を、ジャーバラは外したピンクの腕輪をいじりながら聞いていた。同じ話を学塾の先生や父親から聞かされたなら、そんな事は言われなくても分かっていると、意地を張ってそっぽを向いただろう。それが腰の低い朴訥な園丁に意見されると、不思議と反発する気持ちは起きなかった。
「いいのよ、ありがとう、ホロ」
ジャーバラは率直に頷いた。そしてまるで友達に話すように、自分の意見を口にした。
「わたしは別に政治の勉強が嫌いな訳じゃないの。自分のやることを父さんにどんどん決められるのが嫌なだけ。そうね、恵まれているというのは本当にそう。勉強だからって言われて、閣僚の視察会に同行させられたわ。街道筋で死体から服を剥ぎとって生活費を稼いでいる子供たちだって見たし、河岸の掘っ立て小屋の中で、寝たきりの人たちが一杯いるのだって見た。わたしの人生は、それに比べれば恵まれすぎなよね」
ジャーバラは革の書類入れから冊子を一冊引き出した。それを風でも送るようにパラパラと捲る。裁判の事例集である。様々な人の所業や人生が、一枚の紙となって捲れていく。それは人の運命の過酷さの事例集でもある。
「ホロ、人間って弱いものよね。自分に嫌なことや不都合があると、つい自分だけどうしてこんな目に、なんて思ってしまう」
ホロが優しく反駁する。
「いやそれは人間なら当然のことでしょう。お嬢様は恵まれた生活と、豊かな才能をお持ちだ。その才能をぜひ開花させてほしい、そう思うのですよ」
「ありがとう、ホロ。今日はいろいろ愚痴を聞いてくれて。実は、ホロの話を聞いていて、一つはっきりしたことがあるの。わたし、ピーノよりもやりたいことが見つかったの。もちろんピーノは好きよ。でも何て言うかな、ピーノを弾いてる時の自分って、半分は母さんの分身って感じ、百パーセントの自分がそこにいるって感じじゃないの」
喋りながらジャーバラの目は、ガラス室の天井のさらにその上を見ていた。
「いい声を出すことが政治家には必修だと言われて、発声や朗読の練習をやらされて、そこで気づいたの。歌を歌っている時は、ピーノと違って百パーセント自分の遺伝子、自分だけの遺伝子が反応してるって。さっきわたし、ピーノの時間を削られるから腹を立てたって言ったけど、あれはピーノの時間を半分にして、残りの半分で歌の練習をしようと思ってた矢先に、新しい勉強が割り込んできたから。わたしがやっと見つけたわたし自身の本当にやりたいことが、できなくなりそうだったから、腹を立ててたの」
ジャーバラは、そこまで言うと、今度はホロの真似でもするかのように背筋を伸ばし、「わたしね、今、すっごく歌が歌いたいの!」と、そのことを自分自身で確かめるように口にした。
ただ少女らしからぬ、しっかりとした口ぶりとは別に、ジャーバラは自分の本心を曝け出したことが恥ずかしかったのか、顔を赤らめた。そして、「そうだ、これをホロに頼もうと思ってたの」と、ポケットの中から小さな布の包みを取りだした。
「ホロは指先が器用でしょ。この石に耳止めの金具を付けられないかな、耳飾りにしたいんだけど」
包みから出てきたのは、春香がドレスのお礼にと残していった、小指の先ほどの石の欠けらだった。
平たい雨滴型をした石は、滑らかな面が灰色なのに対して、ガラスを割ったような切り口は深い烏色をしている。ただ、ピンク三昧を決め込んだ少女が身につけるアクセサリーとしては、いかにも地味。そう思って、石の欠けらとジャーバラの服を見較べる園丁に、ぼんぼり髪に結んだピンクのリボンをジャーバラが指先で弾いた。
「ねえホロ、わたしが好きで、こんな幼稚なピンクの飾り物を身に着けてると思う」
首を傾げるホロに、ジャーバラが、いかにも内緒話でもするように声を潜めた。
「これ秘密よ。わたしって、十四の娘としては小難しい勉強ばかりしてるでしょ。こんなわたしが同級生とつき合うには、技術がいるの。政治や法律の本を抱えた大臣の娘が、同級生に溶け込もうと思えば、小難しい事と反対のことをするのが一番。それがこの幼稚なファッションなの。頭の痛くなりそうな勉強をしている娘でも、こういう格好をしていれば、みんな安心してつき合ってくれるのよ」
「何となく分かるような気はしますが……」
首を捻りつつ頷くホロに、ジャーバラが憤慨したように続けた。
「それにね、このファッションをしてると、父さんが岩のような顔を歪めて、嫌な顔をするの。「中身のある人間は、そんなチャラチャラしたアクセサリーなんか着けない。外見を飾る暇があったら、中身を磨け!」って、そりゃあ、うるさいんだから。
でも娘に能弁垂れる割に父さんったら、会議々々で、いつも帰宅は深夜だし、それに都ができてから、ずーっと大臣をやってきて、父さん自信過剰なところがあるの。家族として見ていると、それが良く分かる。人間一つくらい自分ではどうにもならないことがあった方が、頭が冷えて、父さんのためにもなるの。まっ、それが、わたしがこのピンクファッションをしてる理由かな」
最後ほくそ笑むように話すと、ジャーバラは我に返ったように明るい声で、
「あっ、でもね、この深い烏色、私の好みなの。父さんの見えないところで、これを着けるんだ。だからホロお願い」
そう言って、ジャーバラは困惑気味のホロの手に石の欠けらを押しこんだ。
ホロは諦めたように石の欠けらを受け取った。そして思う。ジャーバラ嬢の押しの強さは、明らかに母親ではなく父親譲りのものだろうと。
ジャーバラが腕の時計を見て「おっと、もう行かなくちゃ、これ以上遅れたら本当に言い訳ができなくなる」と、おどけた声を上げた。
ジャーバラは机の上の荷物を抱え上げると、軽いつむじ風をその場に残して、ガラス室の木々の間を走り抜けていった。
次話「奏海」




