ファロスサイト
ファロスサイト
洋上を飛ぶ双発機の向こうに、白い大地が見えてきた。
ドゥルー海の北岸、海岸沿いを帯状に伸びる麦苔平原も、今は、まったき雪の平原に変わっている。後方に迫り上がるようにして台地状に拡がっているのが、セヌフォ高原である。この高原地帯を東に進めば、その東端にユカギルの熱井戸の町が、そして更に東方にはオーギュギア山脈が南北に連なっている。
ダーナたちを乗せた双発機は、セヌフォ高原の西端を掠めると、進路をさらに西寄りに変えた。左前方に美しいコニーデ型の秀峰、貴霜山が近づいてくる。貴霜山の東麓の裾野に、ユルツ国の霜都ダリアファルはある。
都に近づくにつれて、幾何学的に分割された石造りの町並みと、都の内外に点在する熱井戸が見えてくる。ところが十基以上ある熱井戸の中で、陽炎のような熱気を立ち昇らせているのは二基だけ。その陽炎も明らかに弱々しい。
都の中を縦横に堀割が走る。かつては温水を流し一年を通して不凍を誇った堀割も、今は完全に凍りつき、橋が無ければ道と見間違いそうだ。上空から見ていても、往来を行きかう人や馬車の数は数えるほど。雪と氷の中に都全体が眠りについている。
ダーナを乗せた双発機は、都には降下せず、そのまま上空を過ぎ、貴霜山を左に見ながら、進路をほぼ真北に取って飛行を続けた。
眼下は直ぐに白一色の世界に変わる。
人の息吹の感じられない雪と氷の世界、氷床である。深いところでは厚さ一千メートルにも及ぶという。その氷床の上に、所々取り残されたように黒い岩山が顔を覗かせている。氷床の下に埋もれた山稜の頂上部分が、氷原に突き出ているのだ。点在する岩山が、白一色の世界を旅する際の指標となるため、氷床上に散らばる山稜や岩山をつなぎ、夜空の星座のように形ある物に見立てて名前がつけられた。
前方に散らばる一群の岩山、台形の山から、西に向かって小さな岩山が並んでいる。人はこれを水掛け座と呼ぶ。頂上の平たい台形の岩山が桶で、小さな岩山が水しぶきという見立てである。双発機は飛沫岩の一つ、第三飛沫岩の東側を掠め、更に北へ。
やがて眼下に、丈の低い鉄塔が氷床上に規則正しく並んでいるのが見えてきた。鉄塔と鉄塔が細いワイヤーでつながれている。ユルツ国の電力をファロスサイトに送る送電線だ。元々は、北方開発の拠点である警邏隊駐屯地と都を結ぶ、送電送信用の架線設備だったが、今はこれを補強する形で都の電力をサイトに送っている。
保守隊の一行が、鉄塔と送電線についた氷を落とす作業をしている。
その鉄塔の並ぶ先に、次の岩山が姿を見せた。
機の西側にうねうねと波打っているのが羊背山。前方東側に見えるのが、六本の星腕を持つヒトデ型の六滂星山である。
放射型をした六滂星山の六本の星腕は、北の星腕から時計回りに、第一、第二、第三星腕……と、順に名づけられている。警邏隊六滂星駐屯地は、南東側の第三星腕の先端にあり、ファロスサイトの事業地、サイト1とサイト2は、西側の第五、第六星腕のちょうど中間地点に、約半馬里の距離を置いて南北に並んでいる。サイト1が南側、都寄りである。
機の西側下方に見えていた送電線が右側に移る。
送電線はこの先で分岐し、一本は駐屯地、一本はサイトへ向かう。
六滂星の岩山が眼前に迫ってきた。岩山の上部が雪を被っているのに対して、外郭の急な斜面は黒々とした岩肌を曝している。上空真上から眺めると、六滂星の岩山は黒い星型のリングとなって眼下に立ち現れる。
ダーナの横で、オバルがブルッと体を震わせた。焦点の合わない目を半眼に開く。
気づいたダーナが揶揄するように声をかけた。
「いい夢は見れたか」
「最悪だ……、昔の墜落事故のことが蘇ってきた」
夢うつつに口にしてから、オバルは隣のダーナも墜落事故の経験者であったことに気づき、「そっちは、事故のことを思い出さないのか」と切り返した。
「あの事故で、飛行機では落ちても死なないという自信がついた」
事もなげに言うと、「あと五分で、サイトだ」と告げて、ダーナは書類の束を鞄にねじこんだ。
窓の外、眼下に聳え立つ六滂星山の黒い岩肌を覗みながら、オバルが後ろの国務次官に眠そうな声を投げつけた。
「今度睡眠薬を飲ませるなら、もっと効果が長持ちするやつを頼む」
「了解、記録に残しておきます」
次官から事務的な答えが返ってきた。
フンと鼻を鳴らすと、オバルは外を見ることを拒むように、きつく目を閉じた。
機が高度を落としながら、六滂星の第五星腕の突端を掠める。
十年前の爆発事故の直後、サイト1の跡地は、氷床上に巨大な擂り鉢型の穴を曝していた。それが今は、大地の窪みも完全に氷雪に埋まり、ただの氷原と見分けがつかない。
双発機が送電線の鉄塔の左側に移る。
サイト1の跡地を越え、さらに半馬里先のサイト2へ。
ウィルタは窓に顔を押しつけていた。しかし傷で磨硝子のようになった窓と、雪面の光の反射が眩しく、何も見えない。一方ダーナの側では、白一色の世界に浮き立つ鉄塔のおかげで、機が高度を下げているのがはっきりと見て取れる。
やがて氷原が視界の底から迫り上がり、送電線が真横になったと思った瞬間、機の底に取り付けられた橇が氷面に接地、軽い衝撃が乗客を揺さぶった。無事に着陸。
が機が停止しても、意地を張るようにオバルが目を閉じている。ダーナが呆れたようにオバルの頭をペンで叩いた。
渋々目を開けたオバルの眼前に、白い地平線が広がっていた。
扉を開けて氷原に下りる。室温六度の機内から氷点下二十度の冷気のなかに出ると、露出した皮膚の体毛が瞬時に凍りつき、体が押し固められたように縮こまる。
飛行機の離発着場といっても、小型機の入る格納庫代わりの倉庫が二つと、照明用の低い鉄塔が何本か建っているだけだ。
外套の首元を締め、辺りを見回すウィルタの横で、オバルは手錠を外された手首を擦りながら、格納庫らしき建物を凝視していた。格納庫の先、二重の金網の向こう側に、ぼんやりと白い霧が広がっている。
微風があるのか、その霧の塊がこちらに向かって流れてくる。
数秒後、そこにいた全員が霧に包まれた。日差しを受けて霧の粒がキラキラと輝く。ダイアモンドダストの霧だ。
氷床を等高線状に掘り下げ、氷の下の岩盤を刳り貫いた岩窟の中に、ファロスサイトと呼ばれる施設はある。その岩窟の内側、施設から噴き出した蒸気が氷上の冷気で凍りつき、氷の霧となって漂っているのだ。そのチラチラと輝く氷の霧を突いて、軽快なエンジン音が近づいてきた。目の前に、アイスバイクが現れた。一台、また一台。
ダーナたち一行は、そのアイスバイクの後ろに繋がれた橇に乗り込んだ。
走り出したアイスバイクは、敬礼する保衛官の横を通り、銀粉を散らしたような霧に突っ込んだ。光の粒が糸を引くように後ろに流れるなか、アイスバイクの左右で氷の壁が迫り上がってくる。氷の斜面に入った。
睡眠薬の残効だろう霞のかかった頭で、オバルは思い出していた。
自分が発見に関わったサイト1は、氷床下四十メートルの岩盤の中にあった。
サイトの全面発掘は、氷床の氷を階段状に掘り下げ、岩盤の層を露出させることから始まる。前回と同じ方法を採用しているとすれば、いまアイスバイクは、鉱山の露天掘りのように氷を階段状に掘り下げた巨大な穴の斜面を下っていることになる。
このファロスサイトが、通常の古代の遺跡と異なるのは、何よりその施設が、岩の中にあるということだ。岩に埋もれているのではない、岩を刳り貫いたのとも違う、岩と一体となってそれはある。例えるなら、岩を液体と考えれば、液体の中に固体が沈み込めば、固体は完全に液体に覆われる。そのように、サイトは岩盤の中に、岩と隙間なく接するように埋もれている。
サイトは多様な施設の複合体であり、全体としてドーム状を成している。ドーム外壁の岩盤に接する部分は、金属石の外殻で包まれ、さらにその外側が一定の幅でガラス化した岩の層で覆われる。それは岩盤が高熱で溶けて固まったような層で、何らかの方法で岩盤を溶かし、その中にできた空間に施設を建造したものが、サイトと考えられる。
とにかくファロスサイトは、金属石の外殻と、ガラス化した石の層、そして岩盤という、三重の層によって覆われていた。
サイトが北方開発の拠点である六滂星駐屯地から比較的近い場所にありながら、長きに渡って人に発見されることなく、氷床の下に眠り続けた理由がそこにある。岩盤の中にあったファロスサイトは、遺物を探す音波探査の網に引っ掛からなかったのだ。
その封印されたごとく地中に眠るファロスサイト、それが見出されるきっかけになったのが、オバルたち氷床ハンターによる、植物育成プラントの発見である。
ただ惜しむらくは、オバルたちのグループは、育成プラントとサイト本体をつなぐ送光ケーブルを見落とし、植物育成プラントを単体の独立した施設と見なしてしまう。
やがて復興院による本格的な調査によって、隣接する巨大な施設が発見され、更にはそれが未知のエネルギー発生装置の実験場であることが判明するや、即座に施設の復興計画、ファロス計画が立ち上げられた。
計画が始まり、三年後にはサイト2の存在も明らかに。しかし、資金面の問題もあり、サイト2は基礎調査だけで再び封印された。
その数カ月後、サイト1は臨界実験中の事故によって、サイト2を残して消失。
そのサイト2に、いま一行は下りて行こうとしている。
アイスバイクが氷の洞窟に入った。
通常、氷の下に埋もれた施設は、膨大な氷の圧力で、バラバラに押しつぶされるか変形を余儀なくされるものである。ところが、古代の施設ファロスサイトは、岩盤の中に完全に埋没するように建造されていたために、全く氷の影響を受けていなかった。
金属石の外殻と、その外殻にコーティングを施したようなガラス質の層によって、サイトのドーム内が完全な密封状態に置かれていたのが、その理由である。加えて内部が不活性ガスで満たされていたことで、サイト内の施設や装置の劣化が抑えられた。ネジ一つ、電子基盤の一つ一つまでが、まるでそれが作られた当時のままに保たれていた。
十年前、ユルツ国の評議員総会で古代施設の復活を軸とした国土復興計画が立案されたのも、ファロスサイトという施設が、ほとんど建造当時のままに保存されていた事によっている。もし施設が随所で破損、あるいは劣化が進んでいれば、誰もこの古代の施設を復活させようなどと思わなかっただろう。いや、やろうと思っても、できなかったはずである。施設の中で使われている様々な装置、部品、素材、どれを取っても、氷の世紀の技術では作ることのできないものばかりだからだ。
信じられないことだが、大量のエネルギーを生み出すであろう古代の新型炉は、ほとんどスイッチを押せば良い状態で発見された。これは、エネルギーに窮するこの時代の人々にとって、腹を空かせた駄馬の鼻面に突き出された麦苔、あるいは寒さに身を震わせる人の前に立ち現れた、暖炉の炎のようなものだ。
その家の扉を開けさえすれば……。
オバルたちを乗せたアイスバイクが、氷の洞窟から、さらに岩肌剥き出しの岩の穴に入った。やがて固い玄武岩の荒削りの壁が、真っ黒なガラス質の壁面に変わったと思うと、アイスバイクは速度を緩めた。バイクはすでに人工の構造物の中に入っていた。
アイスバイクが気密扉の前で停止、金属ではないウォト樹脂製の扉である。
橇を下りて、分厚い扉の中へ。内側の部屋では、天井から乾いた暖かい風が吹き下ろしている。気密扉を閉め、奥の部屋へ。
オバルとウィルタは、そこで飛行機に同乗してきた一行と別れた。そして医務官風の人物に、医療機器の並ぶ個室に招き入れられた。
この夏、ユルツ国では、悪性のウイルス性感冒である燭甲熱が流行の兆しを見せている。そのこともあって、ファロスサイトに出入りする関係者は、病気の有無が入念に調べられる。数種類の検査の後、服を脱ぎ、滅菌用の薬液の入ったプールを潜らされたうえに、紫外線のシャワーまで浴びなければならない。
まるで化学実験をする前のガラス器具のようにピカピカに磨き上げられた後、最後に、こざっぱりとしたシャツとズボンに着替える。薄い生地の衛生服だが、サイト内は暖房が効いているので寒さは感じない。
浄化措置のおかげか、オバルのぼんやりとした頭の霧も晴れ渡った。すっきりとした頭に温風を当てて髪を乾かすオバルを、担当の係官が迎えにきた。
長身のオバルが、係官に促されて気密扉を抜ける。とそこは紛れもなく古代の施設、ファロスサイトの内部だった。係官に先導されて通路を進む。
窓のない通路……、通路の壁を眺めながら、オバルが前を行く係官に話しかけた。
「サイト1と同じだな」
「サイト2は、サイト1の円周率倍の規模になるそうだ」
「管制室に向かっているのか」
「連れて来いという命令だ」
素っ気なく返事を返すと、係官は足早に通路を急いだ。
何度も階段を上がり下りし、通路を曲がる。窓が無いために方角が分からない。見ていると、係官は通路に印字されたラインや数字を辿っている。
天井の高い通路に出た。壁面の所々に監視窓のような小さい窓がある。その窓の向こう、円筒型の巨大な水槽内で、パイプの束が青白く輝いている。核力炉だ。炉から放出された放射線が、容器内の水の分子と衝突して光を放っている。
通路から通路へ。サイトの内部は、それぞれの区画が分厚い隔壁によって仕切られている。施設自体も殻で覆われているが、内部も殻で区切られ、人は多重泡殻構造の殻と殻の隙間に作られた通路を移動する。サイトではサイトが主体であり、そこで働く人の機能性や快適性よりも、サイトの構造自体が優先される。そのため、サイト内を移動する人は、アスレチック体操でもやるように上ったり下りたり、隔壁毎に設置されたハッチを身を屈めて潜り抜けるということを、繰り返させられる。
長い上り階段を上った所で、案内の係官が荒い息をつきながらオバルに言った。
「狭い飛行機に乗っていたんだ、いい運動になるだろう」
「どんなに身軽なやつでも、この迷路では、炉心が融ければ逃げ遅れるさ」
即座に言い返しながら、オバルは、十年前に自分が必死に通路を駆け抜け、管制室に飛び込んだ時のことを思い出していた。
前を行く係官が「ここだ」と言って、立ち止まった。扉に管制室という手書きのネームプレートが貼り付けてある。
係官が扉横のパネルにカードを入れ、暗証番号を押すと扉が開いた。
一瞬、オバルは、手足が硬直、首筋が冷えるのを感じた。
十年前のあの時、管制室に駆け込むと、正面のスクリーンパネルに、溶融する核力炉の炉心が大映しになっていた。耐熱、耐震、防音、防電磁波構造の管制室である。警報装置が作動しなければ、隔壁を挟んで隣の区画が緊急事態に陥っていたとしても、それを知らずに済んでしまう。あの時も、核力炉の区画と違って、管制室は全くの静穏の内にあった。ハン博士が操作盤に向かって打つキーの音だけが室内に響き、その静けさのなかで、管制室正面のスクリーンパネルや無数のモニター群に、融けた炉心が次々と隔壁を呑み込んでいく様子が映し出されていた。
もし今この管制室のパネルにそれが映っていたらと、その想いが脳裏を掠める。
妄想を振り払うように首を震わせたオバルの背を、係官が押した。
管制室に足を踏み入れる。真っ先に眼を向けた正面のスクリーンパネルには、様々な画像やデータ類が映し出されていた。スタッフたちも何事もなく操作盤に向かっている。
非常事態ではなかった。
管制室のホールのような空間には、正面のスクリーンパネルを扇状に取り囲む形で、サイト内の各ブロックを管轄するブースが並んでいる。中央後方のブースにいたダーナが、片手を上げると、オバルを自分のところに連れてくるよう係官に命じた。
そのオバルが管制室に足を踏み入れた同じ頃……。
ウィルタは、サイト内を別の係官に連れられて歩いていた。淡空色の衛生服の着用を命じられたが、初めて着るタイプの服で、どうにも落ち着かない。
無人の通路を二人の係官に前後を挟まれるようにして歩く。
ツルツルの廊下に何度も足を滑らしそうになるが、どう転んでも服が汚れることのない無菌室のような通路だ。照明はないが、天井や壁が淡く発光、通路全体を均質に照らしている。無影灯ならぬ無影壁といえばいいか。足元に影ができない。
ウィルタは、以前夢で見た白い通路を思い出していた。幼児らしき自分が、泣きながら歩いていた通路である。
あの時は右手に大きなガラスの窓があり、その向こうに気味の悪い黒い建物が見えていた。しかし今はただ淡いクリーム色の壁が、どこまでも続いているだけだ。
窓がないので、自分がどこをどう歩いているのか判断のしようがない。たまに窓らしきものがあっても、見えるのは外の風景ではなく、同じような施設の内部だ。
階段が多く、通路が不定形な曲線を描く場所もあって、まったくもって迷路としか言いようがない。それに人の姿も目にしない。
小さな覗き窓から、無数に配線の垂れ下がった部屋が見えた。防護服のような服を着た人たちが作業をしているが、防音構造のために中の音が聞こえない。ゴミ一つない通路と吸音性の床のせいで、自分の足音さえ耳に触れないのだ。
通路に沿って同じような扉が幾つも並んだ場所に出た。係官は扉の一つを開けると、ウィルタに中に入るよう命じた。
「しばらくこの部屋に入ってもらう」
案内してくれた係官は、吊り上がった眉に三白眼、細い鼻に曲がった薄い唇と、いかにも底意地の悪そうな顔をしている。ただ髪を短く切りつめ、ひげをツルツルに剃ってあるので、色白な肌と合わせて、どこかひ弱な病人のようにも見える。この時代、大人の男はひげを生やすのが当たり前なのだ。
そのつる肌の係官が、早口で幾つかの決まり事を並べ立てた。
食事は一日に三度。時間になれば、入口左側の配給口に届けられる。外部と連絡が取りたい場合は、部屋の中の映像電話が保衛室につながる。操作は卓上のリモコン。入口の扉は登録した者しか開けることはできない、等々。
最後に係官が眉を吊り上げ、「逃げ出そうと思わないことだ。ここには危険な場所もたくさんある、勝手に逃げると、自分から火に飛び込むことになるぞ」とウィルタを脅すと、手にしたスイッチをこれ見よがしに押した。
ドアが音もなくスライド、ぴたりと閉ざされた。とっさにウィルタがドアに耳を押し当てるも、すでにドアの中だけでなく、ドアの向こう側にいるはずの係官の気配も感じられなくなっていた。防音なのだ。耳を離しドアの把手を引いてみるが、一枚岩のように動かない。ドアと壁が溶接でもされたような閉まり方だった。
振り返って部屋の中を見渡す。
入口を入ってすぐの右側に、開いたままの一回り小さなドアがある。洗面室らしい。その小部屋には入らず奥へ。八畳ほどの縦長の部屋で、部屋の奥が一面灰色の壁になっている。その壁の手前右側に、ベッドと小机、それに椅子が一脚、机の上に手の平サイズの薄い金属板が置いてある。係官が口にしたリモコンとは、このことだろうか。そう思って金属板に手を触れた瞬間、表面に画像が現れた。上半分が四角い画面で、下にキーが並んでいる。絵文字の透けて見えるキーだ。
試しに照明器具らしきマークに指先を触れると、灰色のキーがオレンジ色に変化、同時に部屋の天井が明るくなった。天井全体が光っている。次は四角いマーク。触れると机の一部が迫り上がってきた。薄い鏡のような板で、鏡の色が自動的に灰色から青に変化。キーが赤く点灯したので、試しにもう一度指先を……。
青の画面上に白い横線が何本か走っただけで、特に変わりはと思っていると、画面から男の声が流れた。
「何の用だ」
さっきのつる肌の係官だ。
とっさにウィルタは「水が飲みたいんだけど」と、思いついたことを口にした。
「手洗いの水道の水が飲める。あとは食事の時間まで我慢しろ。それから、この映像電話のパネルは故障中で、何も映らない。以上だ!」
係官の無愛想な声がプツリと途切れ、後に青い画面だけが残った。
肩を竦めると、ウィルタは「ありがとう」と言って、キーに指先を這わせた。
パネルが、青から灰色に戻った。
リモコンを手にしたまま入り口横の部屋を覗く。洗面台に水道管、蛇口の上の小さな戸棚にはコップと手拭い。こういう点は塁京の迎賓館の部屋とそっくりだ。
ウィルタはコップに水を注ぎ、部屋の奥に戻って椅子に腰かけた。水を飲みながら天井を見上げる。肌に感じる暖かな風は、部屋の四隅にある小さな送風口からだ。
一通り、リモコンのスイッチを試す。すると一番下のスイッチに触れた直後、部屋の奥、灰色の壁が明るくなってきた。見る間に壁の上半分が透明に変わり、外の光が部屋の中に差してくる。灰色の壁は、壁ではなく窓、透過する光の量や色を調整できる、可変調光ガラスの窓だった。窓に張り付き外を見やる。
ダイアモンドダストの霧の向こうに、おぼろに黒い影。
今しも岩窟の中に風が吹き込み、霧が払われ、その物が姿を現す。
曲がりくねった不定形の配管が絡みあって、全体として巨大な円柱を成している。黒紫色のヌメッとした質感の配管は、腐った動物の内臓を思わせる。その薄気味の悪い巨大な構造物は、遠い記憶のそれと同じだ。あのツルツルの廊下を何かを捜し求めるように泣きながら歩いていた時、透明な壁の向こうに見えていた異形の塊。あれがオバルさんから聞いたファロスサイトの心臓部、古代の新型炉、質量転換炉に違いない。
視野を広げる。一棟のビルほどもある質量転換炉を、様々な施設がドーナッツ状に取り囲んでいる。配管やタンクや機械類が剥き出しになったものもある。そこだけを見ると、盤都の工場街の精油工場のように見える。
ダイアモンドダストの霧が晴れ、日が射し込む。絡み合った配管が陽光に冷ややかに照り映える。上方に目を移すと、巨大な炉の上に迫り出した庇。上部が開閉式の天蓋になっているのだ。そして更にその上に、岩盤の層が……。
重層的な天蓋と岩盤の作る楕円形の空間の向こうに、青い空が覗いていた。
ファロスサイトの施設全体を統括する管制室の中では、ダーナが、サイトの情報解析チームにオバルを引き合わせていた。
サイトの情報バンクに残された膨大な情報は、まだその翻訳・解析の途上にある。第一次ファロス計画の時と同様、核となる質量転換炉の構造が明らかになっていないために、翻訳内容の確定作業が遅れているのだ。臨界実験にいたる工程の最優先の課題は、情報バンクに保存されている情報を、少しでも早く翻訳・分析し終えることだ。
ダーナは、その作業への参加をオバルに要請。いや、命じた。
ところがオバルが開き直ったように、その指示を突っぱねる。
「俺をここに連れて来たのは、おまえさんの勝手だが、俺は協力するつもりはない。ほかにも古代語を扱える人材はいるだろう」
「集める人材は全て集めた、おまえと博士を除いてな」
「ハン博士の行方は反対派でも掴めていない、諦めた方が正解じゃないか」
その木で鼻を括ったような言い方に、ダーナが毅然と言い放った。
「必ず見つけ出す。それにハン博士が見つからなくとも、残された情報を全て翻訳解析し終えなくとも、臨界実験は行う予定だ」
今度はオバルが拳でデスクを叩いた。
それを冷ややかな目で見返すと、ダーナが突き放すように言った。
「議会がそう決めたのだ。すでに事故の詳細な調査結果が出ている。サイト1の設備には何ら問題はなかった、全てはハン博士の単純な操作ミスによるものだったというな」
「冗談だろ、施設本体は溶融、管制室も緊急離脱で不時着後、爆発炎上している。そんな結果が出せるデータは、どこにも残っていないはずだ」
「データは無ければ作ればいい、そのくらいのことは御用学者でも十分できる」
「捏造したのか」
気色ばんだオバルに、ダーナが一歩引いた姿勢で言い聞かせる。
「政府の作る報告書のたぐいは学問じゃない。目的を実行するための熨斗のようなものだ。目的が変更されれば内容も変わる。今回は最初からプロジェクト再開という道ができていた。そういうことだ」
「その道を作ったのはお前だろう」
「そうさ、それのどこに問題がある」
ダーナが口元に冷たい笑みを浮かべると、これを見ろと、手元の操作盤のスイッチを前方にかざした。管制室前面のスクリーンパネルに質量転換炉が大映しに。黒紫色の円筒型の炉を取り巻くように足場が組んである。炉の調査のために作った足場だ。
ダーナがスイッチを切り替えながら、次々にサイトの各部署の作業の進捗状況を画像として映していく。
ダーナの自信に溢れた声が管制室に響く。
「国のお偉方には、古代の科学を崇拝している連中が多い。前回の事故にしても、施設そのもの、システムそのものに欠陥があったのではなく、スタッフの操作ミスが原因という意見が大勢だ。人によっては、あの事故は、ハン博士がファロス計画を強引に中止させようと仕組んだ罠が嵩じての結果ではと考えている。サイトの中心部にいて助かったのが、ハン博士だけだからだ。
古代人の残した指示どおりにやっていれば、事故など起こるはずがない。運用方法の詳細な説明書があるのだから、ほかの連中でもできるはずと考えているのさ。古代の様々な装置のほとんどは、どんなに高度で複雑な機能を持ったものでも、子供でも扱えるように作られている、そのことを都の連中は良く知っているんだ」
「しかし、玩具の模型を動かすのとは訳が違う。だいたいが装置といっても、サイズの桁が違うだろう。もし万一、この施設が残された情報通りに動かなかったら、その時は取り返しのつかないことになるんだぞ」
顔を赤らめオバルが声を張り上げる。
その辺りを憚らない大声に、管制室にいた三十人ばかりのスタッフ全員が顔を上げるが、ダーナはオバルの興奮を平然と受け流した。
「もちろんそうだろう。だが緊急の際は子供でも飛行機の操縦桿を握らねばならない。たとえ操縦のことを何も知らなくともだ」
ダーナがスクリーンパネルの画面を切り替えた。
今度は核力炉の映像である。十年前の惨事の時は、核力炉からの熱水の漏出がきっかけとなって、施設全体が破局に突っ走った。映像は核力炉の炉心そのものとなり、青白い水を映し出す。今あの炉から膨大な核分裂のエネルギーが吐き出されている。
青白く光る水の映像を背に、ダーナがオバルを正面から見すえた。
「オバル、今は計画のリスクよりもメリットが語られる時世だ。ここで働く連中に意見を聞いてみるがいい。都の有線放送に耳を澄ませてみるがいい。民衆も政治家も専門家たちも、みなが共に何を期待しているかが分かるだろう。もうユルツ国の市民は、寒さを我慢することに疲れている。早晩地熱は枯れ、都は雪と氷に埋もれる。ならば相応の危険があるとしても、可能性にかけようという意見が都では大勢なのだ」
ダーナの金属の仮面に、操作盤上のモニター群の映像が鏡のように映る。仮面の上で数値やグラフが刻々と変化し、消えていく。
「いいかオバル、歴史は繰り返す。ユルツ国を包んでいるのは十年前と同じ空気だ。今は夢を語る者が支持される、危険を語る者よりもだ。政治家は世論に敏感だ。今は誰もが、サイトの可能性を語って支持を取り付けようとしている、反対論者は臆病者とな」
上下の歯を擦るようにして口を歪めるオバルに、ダーナが畳みかける。
「心配する必要がどこにある。成功すれば英雄、失敗したところで、都が一つ蒸発して消えてなくなるだけのこと。この星の歴史からすれば露ほどのこともない。何もせずに寒さに震える人生を選ぶか、死の危険を冒しても薪を探しに吹雪の中に出て行くか、その違いだ。小屋の中で凍え死ぬくらいなら、吹雪をかき分け、雪に食らいついてでも前のめりに死にたいと思わないか」
仮面の中の淡い灰色の瞳は微動だにしない。迷いがない、いや迷いはあるだろう。だが、それをおくびにも出さない。人を扇動しようと思えば、いや人を導く導師になろうと思えば、目に迷うことのない自信の光を宿らせることだ。迷える羊は、その光に導かれて後ろに付き従う。そしてそれは、オバルには絶対に持てないものだった。
オバルが口元を歪め、悔しそうに吐き捨てた。
「フン、政治家の娘だな、気持ちが煽られる」
一段声を大きくすると、ダーナがほかの者にも聞こえるはっきりとした声でオバルに呼びかけた。
「人にはそれぞれ闘いの場がある、社会を動かすのは良くも悪くも戦う者だ。座して死を待つような者には何も変えられぬ。技術を持つ者は、技術を持つ者としての闘いがあろう。戦ってくれ、最高の戦場を用意したのだからな」
オバルは、しばしダーナの灰色の瞳を睨むように見つめ返すと、視線をそらせた。
そして「俺は頑固なんだ……」と、ぼそりと呟いた。
それは全くオバルの正直な想いだった。オバルの中にも古代の科学技術への信奉心はある。だが同僚を含め数千人の人が亡くなった、その人たちへの信義として、あの惨事をもう一度繰り返す危険は受け入れられなかった。たとえそれがどれだけ魅力的なものであろうともだ。
ダーナは半分呆れた目でオバルを見ると、仕方ないとばかりに、小型のモニターに別の映像を呼び出した。画面に一人の婦人が映し出された。
それをオバルに見せ「これでも、協力できないかね」と話しかけた。
オバルの目が言葉を失ったように画面に釘づけになった。そこに映っていたのは、オバルの妹だった。ドゥルー海沿岸の港町の従兄弟の家にいるはずの妹、借金に喘いでいるはずの妹である。
ダーナが言って聞かす。
「借金の形に身売りされそうになっていたのを、こちらで引き取らせてもらった。使いたくない手だが、こちらも財政難で借金の肩代わりをするつもりはない。そこで彼女を燭甲熱の保菌者に仕立て、債権者に彼女を手放させた。彼女は今、六滂星駐屯地近くの隔離施設に移されている。菌の保菌状態が切れるまでの半年は、そこにいて貰うだろう。もし彼女の兄が計画に協力するようなら、菌の保菌状態が切れたのち、彼女は都に戻る。もし彼女の兄が協力しないようであれば、その時は……」
そこで言葉を切ると、ダーナはオバルを見た。荒い息を吐きながら自分を睨むオバルに、ダーナが指先で仮面を叩きながら、悪びれもせずに言う。
「何を興奮している、良い取引だと思わないか」
「悪党め、この十年で本物の政治家になりやがったな」
「目的のためなら裏もまた正なり、それが政治の世界だ」
オバルが歯噛みをしつつ、ダーナの灰色の瞳を射抜くように睨んだ。
次話「園丁」




