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星草物語  作者: 東陣正則
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機上


     機上


 翌日の早朝、盤都バンダルバドゥンから一機の双発機が飛び立った。

 六人乗りの双発機は、翼の状態を確かめるように盤都の上空を旋回する。

 機内は、操縦席の後ろに、二人掛けの座席が二列。乗員は、前から正副の操縦士に、ダーナとオバル、兵器引き渡しの事務作業に同乗してきた国務次官とウィルタという順である。皆が、ぶ厚い防寒服に防寒頭巾、防寒手袋に身を固め、窓の外に広がる異国の風景に目を向けるなか、オバルだけは、だらしなく口を開け、鼾をかいていた。

 オバルが眠りこけているのには理由がある。

 飛行機の墜落を経験しているオバルは、飛行機への搭乗を頑なに拒否した。銃を突きつけても「飛行機に乗るくらいなら、殺せ!」と喚いて、動こうとしない。飛行機に乗ることを嫌がっているというよりも、それにかこつけて、追い掛けまわされた鬱憤を晴らそうとしている節が窺える。その頑迷ぶりに業を煮やしたダーナが、睡眠薬を使って眠らせたのだ。また念のためにと、手錠もはめさせた。

 爆音と張り合うようなオバルの大鼾を耳に、皆が窓の外に目を凝らす。

 眼下には、水路と呼ぶにはあまりに広いクルドス分水路が東西に横たわっている。

 その分水路を挟んで対峙する塁京の二つの繁都が、飛行機の旋回に合わせて、回り舞台のように視界の中をずれ動く。盤都が放射状の街路によって整然と街並みが区分されているのと比べ、濠都は街路と堀割が複雑に交錯、面積も盤都の優に四倍はある。それに一重の塁壁に囲われた盤都と異なり、濠都では大小様々な塁壁が、幾重にも泡殻状に都を取り囲んでいる。

 水路を挟んだ二つの都から、視線を周りに移す。

 両都の周辺には、水路と塁堤で区画された火炎樹の農園が、どこまでも続いている。火炎樹の幹は黒い。もし古代人の春香が機に同乗していれば、葉を持たない火炎樹の立ち並ぶ農園は、山火事で細かな枝葉が燃え尽きた果樹園にでも見えたろう。開発が始まって三十年、成木に達した火炎樹の一本一本は、日産六単位の黒い樹液を生産する生きた油井となっている。その巨木の周りで胡麻塩のように黒い点となってうごめくのが、樹液の採取と運搬に携わる人たちだ。

 火炎樹農園の区画と区画をつなぐ一段高くなった土塁上には、軌道が整備され、その上を玩具のような軽便車両が、タンク型の貨車を牽いてユルユルと走り抜けていく。

 また盤都からやや北上したクルドス分水路の河岸には、大型の円筒形のタンクがずらりと並び、水路に突き出た岸壁には、樹液の搬送専用の二本の帆柱を持つ樽船が係留されている。この樽船はクルドス分水路からグンバルディエルを下り、海を経由して大陸南部の諸都市に樹液を搬送する、この時代のタンカーである。

 そうした農園と樹液の生産輸送の諸施設の合間々々に、移住してきた人々の一時定住地が散らばり、さらに塁堤と水路に挟まれたわずかな河岸の空き地にも、窮民街らしき小さな小屋や、果てはテントの波が張りついている。

 旋回を終えたプロペラ機が、機首を上げて一路西方、ユルツ国に向けて針路を取った。

 二都は後方に下がり、前方にクルドス分水路の本流、大河グンバルディエルの滔々とした流れが見えてきた。

 蛇行する大河の両岸に広がるのは、ただひたすらヨシの草原と火炎樹の農園風景。

 その農園と川に挟まれた河岸の塁堤に沿って、吹き寄せられた塵埃のようにせめぎ合っているのが、大陸各地から生活の糧を求めてこの地に流れてきた人々の住まうヨシ小屋で、川が増水でもすれば、あっという間に流されてしまいそうな小さな小屋が、大河沿いの河岸だけでなく、大小の支流、水路の岸まで、まるで小屋と土手が一体であるかのように切れ目なく続いている。

 双発機が高度を上げた。白い雪面に打ち込まれた杭のごとき火炎樹が、小さなピンに変わる。水路に浮かぶ船も、川面に浮かぶ玩具のようだ。

 広大なドバス低地の全貌が目の前に広がろうとしていた。

 オーギュギア山脈の南東に位置する低地帯は、かつて世界が温暖な時代には大陸棚と呼ばれ、海の底にあった。それが寒冷化による海水面の低下とともに姿を現した。この地は、地球の寒冷化ののち、最も遅くに姿を現した地域であり、その広さは青苔平原のほぼ二倍に相当する。ここには、かつて陸上から海に流れ出た膨大な量の土壌が堆積している。それが湿地性の火炎樹の発見とともに、火炎樹農園として開発されることになった。

 開発が始まって三十年、広大な火炎樹の農園から生み出される黒い樹液は、今ではグラミオド大陸に暮らす人々の食料と燃料、さらには樹脂を加工して造り出される様々な資材までを、一手に底支えする源になっている。

 離陸後しばらくの間、ウィルタは窓の外に展開する雄大な景色を眺めていたが、やがて下を向いてしまった。肩を落としたウィルタをプロペラの爆音が揺さぶる。

 双発機が水平飛行に入った。

国務次官が、ウィルタのほうに体を傾けると、声をかけてきた。

「どうした坊主、あの古代人の娘のことを考えているのか。なあに何千年も生き延びた娘だ、簡単に死んだりはしないさ」

 慰めの言葉なのだろうが、ウィルタは何の反応も示さず、ただじっと唇を噛むように膝に置いた自分の手に視線を当てている。安全ベルトを外して体を浮かせた次官が、体を前の座席に寄せると、後からダーナに耳打ちした。ダーナが了解と頷く。

 座席に腰を落とした次官が、意味ありげな目配せとともにウィルタに話しかけた。

「総監から飛行機が離陸するまでは知らせるなと口止めされていたが、春香という娘は生きているそうだ」

 まさか……と、ウィルタが顔を上げた。

「離陸前に教えると、お前が逃げ出すかもしれないということで、知らせなかったのだ。娘は幣舎橋から少し下った場所にある濠都側の窮民街の診療所に収容されている。命に別状はないそうだ」

 信じられなかったのだろう、ウィルタは目を丸くして次官を見つめた。しかし次官の真面目な顔は、とても嘘を付いているようには見えない。それでもまだ信じられないとばかりに、ウィルタが再度問い直そうとすると、前の座席のダーナが振り向いた。

「本当だ。昨日私が会って来たのだから間違いない。安心しろ、助けられて、私の姉のやっている診療所にいる」

 ウィルタは放心したように座席に背をもたれさせた。体中にぶら下っていた鉛の重石が一度に外れて、体が宙に浮いた気分だ。

 ウィルタは「生きてた、生きてた」と、口の中で何度も呟くと、縮こまっていた体と心を伸ばすように大きく息を吸いこみ、窓の外に目を向けた。

 微細な傷で白っぽくなった窓の外で、塁京の二つの繁都は、後方の地平線に同化している。内陸と比べて低地帯は湿度が高いのか、遠くの風景がぼやけて見える。その灰色の地平線に向かって、グンバルディエルの曲がりくねった流れが、白い湿原を切り分けるように伸びる。この川の流れの先に春香はいるのだ。

 ウィルタは窓に顔を張り付けると、心の中で「春香ーっ!」と叫んだ。


 夢の中で、春香は爆音のような音を聞いた気がして目を覚ました。

 しばらくの間、ぼんやりと窓から差し込む日の光を見ていたが、そのうちに、また目を閉じ、夢と現実の境を、風に煽られる蝶のようにフワリフワリと漂い始めた。

 光に音があるという話を何かで読んだことがある。鳥は朝日の音に呼応して朝の囀りを始めるという。目をつむり、窓から差し込む朝日を頬に受けていると、光の音楽が肌の上で踊っているような気がしてくる。

 もしかして自分にもその音が聞こえないかと耳を澄ませた時、耳の奥底に自分を呼ぶ声が聞こえた。ウィルタの声だったように思う。

 目を開け「ウィルタ……」と小さく声に出す。

 その時、衝立ての横からシャン先生の顔が覗いた。先生の口から短い言葉が発せられる。それが朝の挨拶の言葉のような気がして、春香は体を起こすと、「お、は…、よ…う…」と、オウム返しにその言葉を口にしてみた。

 安心したように頷くと、シャンはベッドの縁に腰かけ、春香の手首を取った。

 脈を診ながら春香の目を覗きこむ。

 優しさの奥に厳しさを備えた目が、もう大丈夫とほほ笑む。

 シャンは手を離すと「アヌィ、来なさい」と、衝立ての後ろの人物を手招きした。

 室内履きをペコンペコンと音をたてて出てきたのは、春香より一回り小柄な少女で、両手で盆を囲うように持っている。彫りの深い暗褐色の顔で、クリクリとした黒い大きな瞳は、まるで小鳥の目そっくり。細かくカールした黒髪を、二枚貝の髪留めで纏めて、首の横にさらりと垂らしている。色目も鮮やかな黄色いセーターを袖まくりして着込んだ上に、胸当て付きの白の前掛けを着用、下は丈の短い綿入れのズボンを履いている。

 シャンが紹介した。

「助手のアヌィだ。私はこれから所用で濠都に行ってくる。おまえの世話をこのアヌィに頼むことにした。仲良くやってくれ」

 そう告げると、シャンはもう一度クリクリした目の少女を指して、「ア、ヌ、ィ」と確認するように発音した。

 音を真似て春香が「ア…ヌ…ィ…」と、ゆっくり口に出す。

 少女が口先をすぼめるような可笑しな笑い方をして、首を縦に振った。

 その仕草に思わず噴き出しそうになった春香が、もう一度「ア…ヌ…ィ」と口にする。

 そして今度は自分の方に指を向けて、「ハ…ル…カ」と、ゆっくり口を動かす。

 少女が「ア…ル…カ」と、春香の発音を追いかける。

 春香が笑って「ハ…ル…カ」と、訂正。少女が「ハ…ル…カ」と続けて、これで良いのとばかりに小首を傾げてみせた。

 二人のやりとりを見ていたシャンが、満足したように首を縦に振ると、

「何か仔細があって、この世界の言葉を話せなくなったようだが、その様子なら、じき喋れるようになるだろう。とにかく人の世界で生きていくのに、言葉を喋れるに越したことはない」

 外套を羽織ったシャンが、アヌィの肩に軽く腕をまわして言った。

「このアヌィという少女も、ちょっと特異な経歴の持ち主でな。今、いちから言葉を学んでいるところだ。自分の覚えた言葉を、おまえに教えるように頼んである。午後には戻ってくるから、それまで、このアヌィと言葉のキャッチボールでもやっておいてくれ」

 そう言い残すと、シャンは机の上に置いてあった鞄を手に、戸口で待っている助手らしき男性と一緒に外に出ていった。

 先生を戸口まで見送ったアヌィは、春香の脇に戻ってくると、また口先をすぼめて笑った。そうすることが、まず仲良しになるための最初のステップであると誰かに教わったような杓子定規な笑顔だが、つられて春香も、にっこりと作り笑顔で親愛の情を現す。するとアヌィは、安心したように口元を緩め、ベッド脇の小机の上に置いた盆を指した。そして春香に向かって食べる仕草をした。食事をしろと言っているのだろう。

 春香は分かったと、食べる仕草で答えた。

 ベッドの縁に腰かけ、机の上に置かれた椀を手にとる。仄かに湯気の昇る椀の中身は重湯だろうか、小皿に薬味らしきものが乗せてある。

 匙を手にしたまま薬味を見ている春香に、アヌィが指で摘んで振りかける真似をする。

 春香は了承とばかりに、薬味をパラパラと重湯に振りかけた。

 口に含んだ重湯は、ほんのりと魚の味がした。でも今は、味よりも、体の中に温かなものの入っていくことが嬉しかった。重湯を一口呑み下すと、春香はアヌィに向かって感謝の気持ちを表すように目を細めた。

 食事を始めた春香を見て安心したのか、アヌィはベッドの裾に置いてある診察用の回転椅子に腰掛け、座面を右から左、左から右に回しながら歌を歌い始めた。はっきりとしたメロディーはないが、言葉がハミングしている。歌というよりも小鳥の囀りのようだ。

 喉のどこを使えばあんな涼やかな声が出せるのか不思議だが、とにかく聞いていると心が弾んでくる。春香はその囀りのような歌に耳を傾けながら、もしかしたらアヌィという少女は、一人で食事をしている私を楽しませようとして、歌を歌ってくれているのかもしれないと思った。

 アヌィの歌声を聞きながら重湯を口に運ぶ。

 と重湯の中に少し融けかかった白い塊を見つけた。餅だ。盤都の工場街で見た光景が脳裏に蘇り、思わず匙が止まる。黒いどろどろとした液体の中を、蛆のような白い生きものが這い回っていた。あの蛆を集めて乾燥させて粉に挽き、いま一度、水を加えて固めたものが、皆が食べている餅だという。少なくともオバルさんは、そう教えてくれた。

 しばらくの間、匙で掬った融けかけの餅を思案するように眺めていたが、春香は「今はとても食べる気にならないの、ごめんなさい」と心の中で謝り、椀に戻した。

 その時、春香の耳に「わたしも餅は嫌い、だって油の臭いがするもの」という声が聞こえた。春香がアヌィの方を振り向くと、アヌィは相変わらずクルクルと椅子を回しながら歌を歌っている。

 椅子の回転がゆっくりとなり、やがて止まる。

 アヌィのクリクリ目玉が、驚いたように春香を見ていた。

「融けた餅より、焼いた餅、臭わない。それに、食べやすい」

 アヌィの口は動いていない。でも、いま自分に話しかけてきたのは、明らかにアヌィだ。

 もしかしてと思い、春香は心の中でアヌィに話しかけた。

「食事を残しても、シャン先生、何も言わないかしら」

 すぐに頭の中に声が返ってきた。

「シャン先生、とても厳しい。それにここ、食べ物、残す人、いない。だから、いやな時、噛まない。呑み込む、一番。アヌィ、そうしてる」

「そう、じゃ鼻を摘んで、呑み込んでみるわ」

 春香は椀に戻した餅を、もう一度匙で掬って一息に呑み込んだ。そして呼吸を整えると、アヌィの方を振り向き、「ありがとう、わたしの名前は、ハルカ、十三歳、よろしく」と心の内で話しかけた。

 アヌィが春香の方を不思議そうに眺めながら、同じように心の声を返してきた。

「わたしアヌィ、十一歳。シャン先生の、手伝い、やってる。わたし、わたしと、こうやって、話、できる人。会うの初めて、とても、びっくり」

「わたしもびっくり、でもほっとしてる。言葉が分からなくなって、どうしようと困っていたから」

「そう、でもわたし、言葉、話せなかった。でもいま習って、少し喋る。さっき、先生から、言葉教えて、頼まれ、どうやればって、悩んでた。でも心の言葉、話せる。なら簡単、とても簡単」

 アヌィが、心の内にこみ上げてきた鈴をコロコロと転がすように笑った。

 その愉快げなアヌィに、春香が真面目な顔で尋ねた。

「あの、アヌィちゃん、知っていたら教えてほしいんだけど、わたしと一緒に川に落ちた男の子がいるはずなの、その子が、どうなったか知らない?」

 頭の横に垂れた長い髪を手でいじりながら、アヌィが言った。

「アヌィ、川岸で、橋から車、落ちる、見た。少しして、大きな白いイヌ、川から、春香を、引き上げた」

 春香が驚いて目を見開いた。

「大きなイヌ……、もしかして、それ、オオカミじゃなかった」

「アヌィ、オオカミ、知らない。でも、そのイヌ、白かった」

「シロタテガミだ、ねっ、そのイヌは今どこにいるの」

 椅子の下にぶらぶらしている足を止めると、アヌィが心の声に手の動きを添えて言った。

「白いイヌ、春香、引き上げる、闇の中、歩いてった。この娘を、頼むって」

「白いイヌが、そう言ったのね」

 春香が口元に安らかな笑みを浮かべた。もう会うこともないだろうと思っていたシロタテガミが、自分たちのことを見守っていてくれたのだ。姿を現わさなくても、どこか身近なところに居てくれる。それが信じられるだけでも、例えようもなく嬉しい。

 春香は目を開くと、アヌィにもう一度尋ねた。

「男の子のこと、何か知らない?」

「わたしの、知ってる、これだけ。でも鳥みたい、飛ぶ機械、昨日の昼、都に来た。そして、今朝、また飛んだ。大きな鳥、のっぽの人と男の子、乗せた。それ、噂で聞いた」

 春香は全身の力が抜けるのを感じた。指から力が抜け、匙が椀の中に落ちる。でもそんなことはどうでもよかった、ウィルタもオバルさんも、助かったのだ。

「良かった。本当に良かった」

 思わずそう口にすると、春香は叫び出したい気持ちを抑えるように拳を握りしめた。

 それを見たアヌィが、円らな目をキョトンとさせ、物真似でもするように拳を握った。


 ダーナたちを乗せた双発のプロペラ機は、高度一千五百メートルを、西北西に向かって飛んでいた。眼下には、ランフール川沿いにある長杭の町と、テントの波、それに鎖を繋いだような避難民と家畜の長い列が続いている。昨日、ダーナたちが盤都に向かった際には、雲で隠れて見ることのできなかった光景だ。情報として知っていたつもりの国務次官も、初めてそれを目の当たりにして、カップに注ぐポットの手を止め、眼下に見入る。

「いやはや、これは……、大変な数の人間がドバス低地を目指している」

 興奮気味の次官に、ダーナが気の張った声を返した。

「ドバス低地などと濁して言わずに、はっきり言えばいい。誰もが塁京の都を目指しているとな。そこに行けば、何とか生きていく手立てがあると思ってだ」

「ですが総監、いくら広大な火炎樹の農園があっても、これでは……」

 身を乗り出し耳元に話しかけてくる次官に、ダーナが冷めた口ぶりで断じた。

「そうだ、だから塁京の連中は、都の周囲に高い壁を築き、水路にもほとんど橋を掛けようとしない。それに今また武器まで買い漁り始めた。塁京の政治家たちが武器を欲しがっているのは、対立する国に備えてというよりも、大陸中から雪崩を打って集まってくる人の群れを恐れてのことだ」

 今しも後方に過ぎ去ろうとする長杭の町を振り返りつつ、次官がダーナにカップを渡す。体を温めるためのバター茶、その湯気の立つカップを手に、ダーナが眼下を横目で睨んだ。

 河岸の港湾施設と市場などのある街の中心部は、ほんの一角で、その周囲を波のようにテントの群れが取り囲んでいる。長杭という小さな堰が、群がる人の大波を小さなパイプの出口となって必死になって押し止めている。パイプの後ろは、破裂寸前の風船のように脹らんでいるのにだ。その様子が上空から見ると、手に取るように分かる。

 カップの茶を形だけすすると、ダーナは手にした書類の数字を読み上げた。

「塁京の八つの国の人口が、合わせて二百四十万人。長杭やその他の門京周辺で足止めされ、キャンプ村を形成している避難民が、ほぼ同数の二百十万だ。つい数年前まで、塁京八国は、ほとんど無制限に外からの住人を受け入れてきた。それが奇病の発生以後、脹らみ続ける移民や避難民の膨大さに、今は怖れ戦いている。いつ堰が溢れ決壊するかとな」

「堰が……決壊……だ……?」

 ダーナの左側で寝ぼけた声が上がった。

 オバルである。薄ぼんやりと目を開けている。

 ダーナが、さも感心したように言った。

「さすが大男、もう睡眠薬が切れたか。それとも、薬を常用しているのか」

 オバルが、あくびをつきながら首を振った。

「違う、俺の飲んでる頭痛薬が、睡眠薬の拮抗……」

 喋りながら、オバルが更に大きなあくびをついた。

 後ろから次官が「気付けに、どうですか」と、オバルにバター茶を勧める。

 手錠を填められた手で拝むようにカップを受け取ると、オバルはバター茶を喉に一口流し込むや、ダーナの見立てに噛み付いた。

「塁京の警備を強行突破してまで、避難民が川を渡るというのか」

「当然のこと、キャンプにいても、寒さと飢えで死を待つだけだ。それは避難民の誰もが分かっている。いざとなれば川を渡る手段などいくらでもある。火炎樹の植えられている地域に移住しない限り生きる手立てが得られない以上、いずれ避難民は川を越える」

「塁京の住人と避難民の間で、衝突が起きますね」

 次官の合いの手に、ダーナが当然とばかりに頷く。

「もしくは、それに塁京の中心たる二国の争いを加えて、三つ巴の争いがな。どちらにしても、この成り行きでは、人と人が争うことは避けられない」

 ダーナの表情のない強化樹脂製の仮面が、感情を抜きにして現状を分析しているように見える。仮面の下の口が、機械のように淡々と説明を加える。

「どんなに温厚で平和的な生き物でも、狭いところに数を押し込めば、血で血を洗う抗争を始める。生き物とは、そういうものだ。不幸なのは、塁京の指導者たちが、湿地性の火炎樹の発見に浮かれて、無節操に大規模な農園開発を行ったことだ。不夜城のごとき都の造営が、誘蛾灯のように人を呼び寄せた。

 塁京に集まってくる人の全てが、飢えや病に苦しんでいる連中ではない。家畜を飼い、苔を束ね、なんとか日々一年の暮らしを遣り繰りしている連中だって大勢いる。しかし人は誰でも、良い暮らし、楽な生活を求める。塁京に移り住みさえすれば、誰もがその恩恵に与かれる。あだらその幻想を振りまいたのが、塁京の政治家たちの先見の無さなのだ。今はもうただ押し寄せてくる人の波に怯えて、右往左往している」

「南部の国家に働きかけることで、避難民の流出を抑えることはできませんか」

 次官の問いかけに、ダーナが首を振った。

「無理だな、もう大陸南部の国家は崩壊したも同然、それにこれは政治的な駆け引きの問題ではない」

「では南部の住人に、今のドバス低地の現状を伝えればどうでしょう。少なくとも、幻想を抱いて移住してくるような輩は、いなくなるのでは……」

「誰がそれをやる。実際には、多数の人間が塁京を目指してくれたおかげで、周辺地域では、食料や燃料事情が好転している。食い扶持がよそへ出て行ったんだからな。おまけに場所によっては、家畜の疫病も下火になった。口には出さないが、喜んでいる者も多い。本音で言えば、塁京で戦争でも起きて、人がたくさん死ねば拍手喝采。他人が死ねば、それだけ自分の取り分が増える。おまけに戦争景気で、一時的にせよ経済が活性化され、一儲けの可能性も出てくる」

 いつになくダーナが饒舌に喋り続ける。それは次官も同じで、バドゥーナ国との武器弾薬の売り渡しの交渉が、上々の首尾に終わった安堵感があるのだ。

 その二人に、またいびきが聞こえてきた。

「総監、眠ったようです」

 オバルの首が揺れていた。次官が渡したバター茶に睡眠薬が入れてあったのだ。

「今度のは、頭痛薬と拮抗しないはずです」

「用意周到だな」

「実は自分も同じ体質でして」

 謙遜するように話す次官が、オバルの手にあるカップを取り上げると、控えめな調子でダーナに疑問を投げかけた。

「それよりも総監、この男、私には懸賞金を懸けてまで捜す必要のある人物には、とても思えないのですが。サイト1の第一発見者として名を売ったことは知っていますが」

「役どころは考えてある」

「やはり、遅れている、チャクラチップの解読作業のスタッフとしてですか」

 それには答えず、ダーナは、大いびきをかき始めたオバルを見やった。

 

 この長身の黒炭肌の男、オバル……。

 十年前の惨事の際、この男は自分の部下だった。

 元々、第一次ファロス計画の広報室記録班にオバルを推挙したのは自分だ。もちろんそれは、オバルに映像関連の技術と、古代語の知識があることを評価してのことだ。

 一方で別の目論見もあった。

 遡れば、自分とオバルは、ユルツ国、技術復興院の学徒として、同窓の関係になる。単なる同窓というだけではない。卒業せずに中途で退学したという意味でもだ。

 ダーナ自身は、技術よりも、それを行使する側の世界に興味が移り、政治の世界に転身するために学院を退学した。一方のオバルは、学院の規則を逸脱しての除籍であったが、たとえそれが無くとも、この男は学院を退学していただろう。そうダーナは見ている。

 技術復興院の良家の師弟たちと違って、オバルは物を作る現場で生まれ育った。自分で物を作った経験のないエリートたちが、理想ばかりを口にして現実から乖離した考えをしがちなのと比べて、オバルは、あくまでも現実、現場に即して物を見ようとしていた。難解な理論であればあるほどそれを有り難がるようなエリートたちが、勢い古代の遺物を神格化しがちなのに対して、オバルは古代の遺物であっても、突き詰めれば、それが同じ人間の作った物であるという醒めた目を持っている。

 実際にそうであったかどうかは別にして、当時、自分にはそう思えた。

 古代の遺物に対する冷めた視線、それが、自分がオバルを広報部に推挙した理由だ。政府広報では、お手盛りの上部の意向に沿う仕事をする者が好まれる。しかし、そういう輩を登用することが、逆に組織の活力を奪うということを、政治家の家に生まれ、幼少時から政治の世界に接していた自分は、何度も目にしてきた。だから最高学府から食み出し放擲された彼を、ファロス計画の当時自分が担当していた広報部の仕事に引き入れた。組織に良い意味での緊張感を与えるためだ。

 だが人は実際に使ってみないと分からない。一緒に仕事をやってみての感想は、オバルは、現実を直視する冷めた目など持っていない理想家……、いやどちらかといえば夢想家タイプの男だった。

 同窓だったこともあり、当人のことを分かったつもりになっていたが、サイトの第一発見者として名前が売れ、舞い上がっているオバルを見て、改めて情報局の作成した職員の身上書に目を通した。そしてなるほどと得心した。

 オバルは町工場の家の出だが、両親は零細なネジ屋の将来を悲観して、息子に違う道を歩ませようと勉学に打ちこませた。家の手伝いなどすることなく、机に齧りついた結果の最高学府への入学だった。実家は日々の資金繰りにも汲々とする町工場だが、その実、子供時代のオバルに与えられた境遇は、頭でっかちの復興院のエリートと相通じるものがあった。知識があって理想が高いから、現実を直視するよりも気が先走ってしまう。

 警邏隊の試験飛行での撮影の仕事も、学院の技術覚えたての段階で応募している。普通なら、自分が責任ある職務をまっとうできるかどうか分かりそうなもの。

 幸い事故に遭遇してフィルムが炎上、仕事の出来を問われなかったからいいようなものの、もしフィルムが持ち出せていたら、逆に袋叩きになっていた可能性もある。氷床ハンターの共同発掘で発見した遺跡の評価を任された時もだ。自分のつぎはぎの語学の知識で、憶測半分に遺跡を植物育成プラントと断定したために、後に仲間たちから、総スカンを食っている。自分の能力を客観的に評価するだけの厳しさが持てていない。

 結局は、学院にたむろしている現実を見つめる能力の欠けたエリートまがいの男でしかなかった。救いは、オバルが自分をエリートだと思っていないこと、そしてエリートでない者たち、下積みの人たちに対する蔑視の感情がないことだ。

 十年前は、実社会のなかで自分の居場所を見つけ切れていない不安定感がはっきりと漂っていた。あれから十年。人は刻々と変わるものだ。果して今は……、

 爆音を通して喋ることに疲れたダーナは、次官との話を打ち切って書類に目を戻した。

 そのダーナに、次官の「ああ、あれが大陸のヘソか」という弾んだ声が聞こえた。

 昨日は、バドゥーナ国への飛行航路に、天来山脈越えのルートを取った。そのため海門地峡を見ていない。次官は大陸のヘソ、海門地峡を目撃できたことが、さも嬉しいとばかりに、張り付くように窓に顔を寄せている。つられてダーナも書類から顔を上げた。

 機の前方に、地峡最南端の天柱陵が覗いている。あと数分で機は地峡を横切り、ドゥルー海に出る。そうすれば、後はただひたすら海の上を飛び、四時間後にはドゥルー海北岸、貴霜山の東山麓に位置する霜都ダリアファルに到達するだろう。


 昼を過ぎ、医師のシャンが都での用を終えて診療所に帰ってくると、部屋にいるはずの二人の少女の姿がない。おやっと思っていると、二階建ての診療所の屋上で声がする。シャンが建物外壁の階段を上ると、アヌィと春香が洗濯物を干しながら話をしていた。屋上に上がってきたシャンに気づいて、二人が手を振った。

 春香はアヌィに目で合図すると、先生に向かって、

「おかえり、な、さい、シャン、先生」

 区切るように言ってから、春香はこれで良いのかとばかりに、アヌィを振り返った。

 アヌィが両腕で大きな丸を作る。

 シャンが目を丸くして二人に歩み寄った。

「もうそんなに喋れるようになったのか。一時的な言葉の記憶障害だったのかな」

 シャンは春香の肩に手を置くと、その顔を覗きこんだ。

 体を折り曲げるようにして春香を見ているシャンに、アヌィが身振りを交えて説明、シャンが先程よりも更に目を丸く見開いた。

「なるほど、二人にはそういう特別な能力があるのか。声を発せずに人に思いを伝えるとは、羨ましい能力だな。だがそれは良い。それなら二人で一緒に勉強すればいいのだから。まずはひと安心だ」

 シャンが二人の肩に手を乗せ、軽く揺さぶりながら朗らかな声を上げた。

「鳥の巣に捨てられていた赤ん坊に、氷に埋もれていた少女、まったくこの地にはいろんな人間が流れてくる。まあ私もその一人のようなものだが……」

 最後の一言は、やや自嘲気味だったが、シャンは健康的な笑い声を上げると、二人の少女の背に手を回して、ぐいと引き寄せた。


 ベコス地区と呼ばれる河岸の砂洲からほんの少し内側に入ったところに、周囲よりも一段高くなった丘がある。その丘の上にシャンの診療所はある。周囲に高い物のない診療所の屋上からは、都の展望台には及ばないにしても、周辺が一望にできる。

 クルドス分水路を挟んで造営された二つの都と、それを取り巻く火炎樹農園、そして水路岸の塁堤沿いには、ヨシ葺きの小屋が連なっている。窮民街だ。さらにこの高さからは見ることができないが、診療所の後ろ、北側の火炎樹農園の遙か先には、蕩々とした大河グンバルディエルの川面が横たわり、川沿いから下流にかけては、広大という言葉では形容できないほどのヨシの大デルタ地帯が広がっている。

 シャンが屋上のポールに絡めた紐を引き、黄色い旗を引き上げていく。午後の微風に旗がユルリとはためく。シャンが診療所にいることを示す旗だ。

 シャンの淡雪のような白い髪が、日差しを受けて銀色に煌めく。

 シャンが、晴れ晴れとした顔を日にさらした。

「アヌィ、私の言っていることを春香に伝えてくれ。もちろんおまえも、言葉の勉強をしている最中だ。自分の理解できる範囲でいい。心の言葉とやらで伝えてほしい」

 アヌィが頷くと、シャンは両手を広げ、四方に広がる世界を見渡し言った。

「ここに広がるドバス低地は、今この大陸で最も豊かだと言われている地域だ。その豊かさ故に、大陸中からここを目指して多くの人が集まってくる。しかし大地が豊かであることと、人が幸福に暮らせることは別の問題だ。見てのとおり、川岸には行き場のない流民や避難民の人たちが、住まいと言えない小屋を作って暮らしている。この火炎樹農園の広がる低地帯の川岸には、どこも同じ光景が続いている。

 いずれ案内するが、ここの川沿いで暮らしている人たちには、人が人として生活していく最低の生活、場合によっては生きているだけという人も多い。そんな人たちの頼ることのできる医者が、ここでは圧倒的に少ない。経堂の施療院の僧医を除けば、民間の医薬師は、私を含めて数人という有様だ。だからいつも忙しなく走り回っている。大した面倒は見られないと思うが、それでも良ければここに滞在してくれ、歓迎する」

 シャンの説明のように、水路沿いの川岸には、ヨシで屋根を葺いた泥壁の小屋が建ち並んでいる。それでもベコス地区はまだ良いほうで、ここは塁京に都が造営される以前から、ドバス低地の先住民であるアンユー族が暮らしていた地域だからだ。新たに避難民の人たちが住み着いた河岸の砂洲などでは、ヨシを束ねただけの小屋や、天幕だけの小屋が河岸に打ち寄せられたゴミのように連なっている。

 時折、風に乗って汚物のような臭いが流れてくる。長杭周辺のテント村を過ぎる時に嗅いだ臭いと同じだ。その臭いが、明るく澄んだ日差しと開放的な空間のなかにも、この地の困難さを伝えている。

 黄色い旗を認めたのだろう、診療所下の療養棟を待合室にして先生の帰りを待っていた患者たちが、階段を上がってくる。診療の助手を務める助産婦のブリンプッティさんもだ。

 シャンは二人に語りかけながら、患者たちの挨拶に応じるように手を振った。

 言葉を勉強中のアヌィにとって、いまシャンが語ったことの全てを理解するのは難しいことだった。アヌィは、先生の話の内容をきちんと春香に伝えられたかどうか自信がなかったので、首を傾げながら空を見上げてしまった。

 それでも春香は、切れ切れに伝わってくるアヌィの通訳にも、何となく心が弾んでくる気がしていた。

 思いついてアヌィに「こういうのは、なんて言えばいいの」と、心で聞く。

 すぐに答えが返ってきた。春香はアヌィから返ってきた言葉を二度ほど頭の中で反復すると、姿勢を正した。そして、手すりに片肘を預けた格好で自分を見ているシャン先生に、「よろ、しく、お願い、します」と、畏まって腰を折った。

 その大真面目なあいさつに、シャンが健康的な笑い声を空に響かせた。



次話「ファロスサイト」

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