診療所
診療所
バドゥーナ国の首府、盤都バンダルバドゥンの官邸で、国と国の取引に必要な煩雑な手続きが行われている頃、盤都対岸、ベコス地区と呼ばれる窮民街の砂洲にある診療所の一室、その仕切りに囲まれた寝台の上で、春香は目を覚ました。
窓から差し込む光が水平に近づき、漆喰塗りの白壁の上部を黄色く染めている。衝立ての向こうを賑わせていた患者たちの話し声もすでにない。しかし人の気配は残っている。春香は体を起こすと、ベッドの下に置かれた草履を履いた。
色々あったからだろう、体がふらつく。春香は脇の手すりで体を支えながら、衝立てで仕切られた一角から外に出た。
仕切りのない二十畳ほどの広さの部屋に、荷台のようなベッドと車輪付きの搬送台、幾つかの検査機器、壁際には薬品や書類の入った戸棚などが並んでいる。
ベッドとは反対側に、カーテンで仕切られた小部屋があり、そこに人の気配があった。近寄りカーテンの隙間から中を覗くと、薬品棚に囲まれた机に向かって、昼間の白衣の女性が薬の調合らしきことをしていた。カーテンの揺らぎに、白衣の女性が手を止め振り向く。気性根のある、それでいて柔らかな眼差しが、春香に向けられた。
真っ白な短いブラシのような髪に加えて、白衣を着ているからだろう、どこか異世界の人のような印象がある。春香は、そのやや細面の顔を、どこかで見たような気がして、思わず白衣の女性の顔を見つめ返した。
視線を交わすこと数秒、白衣の女性が「具合はどうだ」と、話しかけてきた。
言ってから、白衣の女性は何を思ったのか、春香の目の前で両手をパンと打ち鳴らした。音に対する春香の反応を確かめたかったらしい。そして納得したように頷く。
「音は普通に聞こえているようだな。ということは、言葉の意味が分からないのか」
先に目覚めた時、春香は、その女性が「シャン」と名乗ったことを思い出した。周りにいた人たちも、この女医らしき人物を「シャン何がし……」と呼んでいた。あれは、きっとシャン先生と呼んでいたのだろう。
そのシャン先生に、春香は「お手洗いはどこですか」と聞いてみた。
シャンが首を傾げたまま春香を見る。春香の口にした言葉の意味が分からなかったのだ。
自分の話す言葉は通じないのだと見て、春香は下腹部を押さえてみせた。
シャンが朗らかな笑い声を上げて、部屋の隅にあるドアを指さした。
くっきりとした眉が黙っているときつい印象を与えるが、笑うとガラッと印象が変わって、人なつっこく見える。シャンは薬品の並べられた小部屋から出て、診察室の隅に行くと、ドアを開けて、客を店に招き入れるように手の平をドアの内側に向けた。
誰にでも分かる男性と女性のマークが扉の奥に見えた。
女性の印のあるドアを眼で示すと、シャンは「ごゆっくり」と言ってまた笑った。
春香は分かったということを伝えるために、指でオーケーのマークを作った。
医師のシャンは、少女が手洗いのドアを丁寧に閉めるのを見届けると、診察室の椅子に戻った。机の上に散らばった書類の中に名前の記入されていない患者のカルテがある。いま手洗いに入った少女のものだ。
不思議なものだと思う。音が聞こえているのだから、耳に異常があるのではない。喋れるのだから唖でもない。物腰はきちんと教育を受けた者のそれだ。こちらの言っている言葉が理解できないのは、言葉を知らないということなのか。しかしあの表情や動作は、精薄とは別のものだ。ここには大陸中から様々な人間が集まっている。日々そういった連中を診ている関係で、たいていの言葉は片言くらい理解できる。ということは、まだ自分の知らない言葉を喋る連中が、この大陸にはいるということなのだろうか。
カルテを手にシャンがそんなことを考えていると、唐突に診察室のドアが叩かれた。ここの住人なら、ノックなどせずに、自分のことを「先生」と大声で呼ぶ。
不審に思ったシャンが、ドアに向かって言った。
「誰だ、今日の診察はもう終わった、急患なら別だが」
ドアの向こうから、くぐもった声が返ってきた。
「私だ、ダーナだ」
弾かれるように立ち上がったシャンが、ドアに駆け寄りノブを引く。ドアを開けたそこに、顔の半分を金属の仮面で覆ったシャンの妹が立っていた。
「ダーナ……、突然、どうして……。驚いたわ、さっ、中に入って」
部屋に足を踏み入れたダーナが、土産のつもりなのだろう、布袋を机の上に置いた。
「バドゥーナ国に用があって、ついでだからと寄ってみた。これは土産のマリア熱の薬だ」
「ありがとう、助かるわ。相変わらずの貧乏所帯で、ないものだらけなの。薬はどんなものでも大歓迎よ。もっともほかの物でも、貰える物なら何でも貰うわ」
はしゃいだように喋る同い歳の姉に、ダーナは口元に笑みを浮かべると、先ほど国務大臣のガヤフから渡された小切手を差し出した。
「こちらは、バドゥーナ国の大臣からのプレゼントだ」
手にした小切手に目を走らせると、シャンはそれを机の引き出しに放り込んだ。
「有り難いわ、ユルツ国のご威光のおこぼれという訳ね。もっとも、外部の人間が薬を買おうとすると手続きが大変なの。何度も局まで出向かないとだめだから。今度小切手を発行してもらう時は、大臣のお墨つきのサインを入れておいて貰えるよう、言っておいて」
ダーナは軽く笑うと、
「姉さんも逞しくなったな」
「一人でこの地に来て、八年になるのよ」
シャンは自身の真っ白な髪をかき上げながら、顔の右半分に自分とそっくりの顔を持つ双子の妹を見つめた。
十年近い歳月が、二人をそれぞれの境遇の顔に仕立て上げていた。人の顔は日々の暮らしのノミで、石を削るように少しずつ彫り出される。多くの場合、そのノミを動かすのは職業、仕事だ。ダーナは駆け出しの政治家から、国の運営に関わる実務を負わされた、中堅政治家の顔つきへと変わりつつあった。
謀計渦巻く政治の世界が、ダーナの顔から女性的な丸みを奪い去り、浮き出た骨格を鎧のようにまとった目は、物事を射抜く鋭い眼光と、他者を自分の意志に従わせようとする緊迫感を発している。人はすぐに顔の半分を覆った仮面に目を奪われるが、残された半分の顔に目を向ければ、そこには強靭な意志が滲み出ていた。
その双子の妹のダーナが、自分の顔を意図的に政治家らしく人に印象づけるように形作ってきたのと対照的に、医師である姉のシャンは、容姿などは全く関心ないとばかりに、染みのついた白衣を羽織っただけの素っ気ない姿である。
一見すると淡雪のような白い髪に病的な印象を持つが、肌は健康的に日に灼け、日々窮民街での治療活動に忙殺される疲れが体に浮き出ているものの、その目はダーナとは対照的に、慈愛に満ちた豊かな潤いを湛えている。
仮面と淡雪のような髪、あまりに特徴的な容貌を持つ二人ではあったが、春香がシャンを見て、誰かに似ていると感じたのは、シャンとダーナが双子の姉妹であったからだ。しかしながら歳月は様々な意味で人を分かつ。シャンとダーナ、この双子の姉妹は、二人を目の前にしても、全くの別人としか思えないほどに、その顔の印象を変えていた。
姉のシャンをダーナもしばし見つめ返すと、「早いものだ、もう八年になるのか」と、感慨深げに大きなため息をもらした。
「私が都の家を去る時、ダーナは、まだ惨事の後遺症でボロボロに落ちこんでいた」
「ハハ、もう遠い昔の話だ」
「でもとにかく元気そう」
「お互いにな」
久方ぶりに耳にする声を懐かしむように挨拶を交すと、姉妹は離れていた時間を埋めるべく、ひしと抱き合った。しばし無言で互いの人生を確かめ合った後、シャンは「お茶を入れるわ」と立ち上がった。
落日前の読経の音が、どこからともなく流れてきた。その読経の単調な繰り返しの旋律に合わせて、ヤカンを手にしたシャンの口から経文がこぼれる。
気づいたダーナが、姉も変わったものだなと思う。
熱病に罹り死の縁から生還した姉は、命と引き換えに豊かなセピア色の髪を失った。それがきっかけで、姉は医者の道を目ざした。昔なら、姉は絶対に経文など口にしなかった。経文で人の命が救えれば苦労しないと、医学生の頃によく漏らしていたものだ。
もしかしたら入信したのだろうか。しかし、あえてそのことを問おうとも思わない。
人には人の人生があり、考えがある。住む世界は違ってしまったが、それで縁が切れるわけでもない。思想や人生観の違いとは別のところで、姉妹としての血の繋がりはある。そしてそういう人の繋がりも悪いものではないと、ダーナは近頃思うようになった。
もっとも、そんな考えに至ること自体、自分がもういい歳になったからなのだろう。
ダーナは自分の思いに苦笑しながら、コップに苔茶を注ぐ双子の姉に話しかけた。
「父上も歳でな、僧官に嫁いだ上の姉はともかく、窮民街で医者をやっているシャンのことは、特別心配なご様子。食事時にはいつも口に上る。まあだからといって、父上を安心させるために戻って来いと言って、戻るようなシャンでもあるまいが」
苔茶をダーナに勧めながら、シャンは達観したように声を返した。
「それはそうね。私はここで泥に塗れているのが性に合っているのよ。名門政治家一家の重みを全てあなたに押しつけたことは、少し後ろめたく思っているけど」
ダーナがくぐもった声で笑った。
「また心にも無いことを。それに私が父の後を継いで政治の世界に首を突っ込んだのは、私の意志でだ。私は私で十分満足している、たとえ顔の半分を失ったとしてもな」
気張りを込めてダーナがまた笑いかけた時、手洗いのドアが開いて春香が出てきた。
春香とダーナの視線が重なる。
「お前は……、ほう、ここにいたのか」
「ダーナ、あなた、この娘を知っているの」
シャンが驚いたように妹と春香を交互に見やる。
「ああ、セヌフォ高原の氷河の中で発見された、古代人の娘だ」
聞いて、改めてシャンは、自分の診療所に運び込まれた少女に目を向けた。遠い故郷の片隅で、冷凍睡眠の少女が蘇生したらしいという、その話は風の便りに聞いていた。
春香は春香で、自分を見つめる二人の女性を驚きの目で見つめていた。そしてやっと、自分を保護してくれた女医が、誰に似ていたのかということに気づいた。
半刻ほどで、ダーナはシャンの診療所を辞した。
ダーナが自分のことをシャンに説明しているのが、何となく春香にも分かった。おそらくウィルタのこと、盤都でのことも話しただろう。ただ、ダーナは春香を連れて行こうとはしなかった。ダーナにとって、古代人の少女は特に必要な存在ではなかった。むろん連れて帰れば復興院の御用学者たちは喜ぶ。だが自分の業績しか目に入らない学者たちに、研究材料を提供するほどの老婆心はなかった。それに一番の問題は、以前自分が尋問した時には、片言ながらもこの世界の言葉を喋っていた娘が、今は全く喋れなくなっているということだ。
そのこともあってダーナは、この娘は医師の姉のところに置いておくのが良いだろうと判断した。そして夕闇の忍び寄るなか、ダーナは馬に飛び乗ると、対岸の盤都を目指して馬の尻にムチを当てた。
ダーナを見送ったシャンが部屋に戻る。すると明かりのない薄暗い部屋の中で、春香が一人ぽつんと椅子に腰かけていた。シャンが壁の白灯にスイッチを入れる。
春香は椅子に座ったまま、膝に置いた手をきつく握りしめ、肩を震わせていた。
後ろからシャンが優しく声をかける。
女性の医師が自分に何を話しかけようとしているのか、それは優しい声音で春香にも十分感じ取れた。でも意味が分からない。
自分の言葉を分かってくれる人がどこにもいないということ、自分が誰の言葉も理解できないということが、春香はただ無性に切なく悲しかった。
そして気がつくと、春香は声を上げて泣いていた。
泣きはらす春香を、シャンがあやすように抱きかかえて、ベッドに連れていく。
しゃくりあげるように泣く春香が顔を上げると、シャンが注射器を手にしていた。
「沈静剤よ、少し眠るといいわ、心の痛みには眠りが一番の薬なの」
腕に打った注射が効き始め、眠りに落ちていく春香の耳に、シャンの歌う唄が聞こえていた。子守歌なのか、意味は分からなくとも、ゆったりとした旋律が春香の心を優しく撫でてくれる。それでも春香は、ひたすら悲しかった。言葉の意味が分からなくなったこともある。でもそれ以上に、新しい世界に目覚めて、今まで自分が何とか生きてこれたのは、父が自分の頭の中に埋めこんでくれた翻訳機のおかげだったということに、今さらながら気づいたのだ。
自分はずっと父の思いやりに守られていた。その翻訳機が壊れてしまった。自分と父を繋いでいた手が離れ、二度と届かない遠くに去ってしまった。そして自分は、本当にこの世界で一人ぼっちになってしまった。そのことに気づいた時、春香はあまりの孤独で胸が張り裂けそうになった。
ひたすら孤独が身にしみた。
ただその孤独感も、沈静剤が効いてくるとともにぼやけ、やがて春香は深い眠りに落ちていった。
次話「機上」




