幣舎共栄橋
幣舎共栄橋
頭の中でゆらゆらと揺れるような感覚が続いていた。
意識の中では、アクセルを踏んで車を走らせている。しかし……。
ゆっくり目を開けると、自分はハンドルに胸を凭れかけた状態で、腕をだらんと垂らしていた。揺れていると思ったのは、ウィルタが前にいて、両手で体を揺さぶっていたからだ。何かが変だと思った、なぜウィルタが前からと考え、車の屋根が無くなっていることに気づいた。目を擦りながら春香は体を起こした。
「どうなったの、わたしたち」
外に出て車の前に回っていたウィルタが、後方を指した。振り向くと、経閣門が随分離れた場所にある。その門の脇から黒煙が噴き上がっている。
「門を抜けた時に車の屋根が飛ばされた。その後、春香ちゃんは気を失ったまま車を走らせ、道端の雪に突っ込んだんだ」
確かに車の屋根とドアが無くなっている。それに頭の上は真っ暗な空。いやそれ以上に風が吹きつけて寒い。春香は思わず胴震いをすると、「オバルさんは」と口にして、周りに目を走らせた。オバルの長い体が雪の上に倒れていた。牽引車が雪の山に衝突した衝撃で、助手席から投げ出されたらしい。
「揺すったんだけど起きない。体が大きい分、衝撃が大きかったのかも」
話しながらウィルタが、目つきを険しくした。
経閣門の外に出てきた人たちが、こちらを指して腕を振っている。
「オバルさんを」と首を振ってウィルタに合図すると、春香は素早くキーを回した。
幸い一発でエンジンが掛かった。
ウィルタがオバルの体を引きずり後部座席に引き込むのと、経閣門横の補助門が開いて、馬に乗った騎走隊が繰り出してくるのが同時だった。
待っていたように、春香が雪の中に突っ込んだ車を引き出す。ガクガクと揺れる車体に、ボンネットの上の雪が振り落とされていく。
「どっちへ」と、ハンドルを握りしめた春香が、助手席のウィルタに問う。
ウィルタではなく、後の座席から「とにかく都から離れろ」と声が返ってきた。
意識が戻ったようだ。肩を押さえながらオバルが呻くように指示した。
「とにかく川に向かって走れ。川岸の土手は車でも走れるはずだ。そこまで行けば、次は橋を探す。橋を渡って対岸へ行こう。ゴーダム国にさえ入ってしまえば、バドゥーナの追跡隊も簡単には手を出せない。その間に船を探す」
「分かった、オバルさんは寝てて、なんとかやってみる」
凍えた顔を武者震いでもするようにブルッと一振りすると、春香は前方の闇に向かってアクセルを踏み込んだ。ライトは経閣門突破の衝撃で壊れたのか、点灯しない。それでも走るしかない。薄闇の底に轍を認めた春香は、その二本の溝にハンドルを向けた。
轍は前方の火炎樹の林に続いている。
と突然、周囲が白く輝いた。塁壁の上に設置された投光機の明かりだ。雪に照明が反射、眩しくて目が開けられない。それに光のせいで、照らされている場所以外が見えない。
後方の騎走隊が、明かりに浮かぶ牽引車目指して走り出した。
とにかく光の檻から逃れるようにハンドルを切る。が、すぐに光の輪に捕まってしまう。仕方なくライトに照らされたまま走る。
展望塔から見た時の記憶では、火炎樹の林の中に街路灯の並んだ道が走っていた。それが前方の巨木の森は闇に包まれて、真っ暗。自分たちが門を強行突破したことで、街路灯を消したか。それとも、設備に何か不具合でも起きて……。
そんなことを考えているうちに、後方からの光が薄れてきた。これならもう一息で投光機の投映圏から抜け出せる。しかし安心はできない。火炎樹の偉容さが眼前に迫ってきた。立ち並ぶ黒い影は、まるで地面から突き出た巨大な神殿の柱だ。
まずいことに、雲が出てきたらしく森が完全に夜の闇に落ちる。ぼんやり見えていた雪面までが闇に溶けてしまう。
騎走隊が各馬明かりを点灯、後方に小さな明かりが並ぶ。それを引き離すように、春香は闇夜一歩手前の火炎樹の林に牽引車を突っ込ませた。
樹高二十メートル前後の火炎樹が、八十メートル間隔の升目状に植えられている。幹幅は大人が腕を広げたほど。満都時代の聳え立つ巌のような巨大火炎樹と比べれば、小ぶりでかつ細身のすらりとした樹相だが、それでも闇の中、突然姿を現す火炎樹の幹は、幹が二倍にも三倍にも太く感じられ、まるで地面に打ち込まれた鉄槌の化け物に思える。
騎走隊の明かりが右から左に大きく散開を始めた。こちらを取り囲もうというのだ。
車体の右側面で、ガリガリと耳を圧する音が弾けた。車体が幹を擦った。
春香が悲痛な声を上げた。
「ウィルタ、ダメ、これ以上は走れない。樹にぶつかる」
「右前方、火炎樹」
唐突に、ウィルタが春香の顔の前に腕を突き出した。
とっさにハンドルを左に切る。
右方向、手を伸ばせば届きそうな所を火炎樹の幹が掠めた。
ほっとする間もなく「左斜め前、三十メートル」と、またウィルタの声。
すかさずハンドルを右に。火炎樹の根に車輪が引っ掛かったのか、大きく波打つように車体が跳ねる。
「次は、こっち」と、大きな声とともにウィルタが腕の向きを変えた。
「ぼくの手の方向に進んで!」と、ウィルタが大声で指示を出す。
春香は思い出した。地底の湖で、ウィルタが出口の方向を手で示した時のことを。同じことをウィルタがやろうとしている。
「分かった、手の方向に走らせればいいのね」
春香は了解とばかりにウィルタの耳元に声を投げると、後はウィルタの腕の向きに合わせて、ハンドルを切った。右に左に切り続ける。天井を剥ぎ取られ、吹き曝しの状態で走っているため、顔も、ハンドルを握る手も、すでに感覚が失せている。
火炎樹の林の先がかすかに明るい。
黒々とした太い幹の間に、点々と並ぶ赤い小さな灯が見えてきた。
舌を噛みそうな声が、後ろの座席で上がった。
「川岸の窮民街だ、あの明かりに向かって進め!」
後方に目を向けたオバルが騎走隊の明かりを見て、「しつこいやつらだ」と吐き捨てた。
急に辺りが明るくなった。雲が途切れ、切れ間から月が覗いたのだ。
その月明かりで、林が切れた先の土手が浮かび上がった。
「ウィルタ、見て、土手よ、土手があるわ!」
ところが、春香の呼びかけにウィルタが答えない。横に目を走らせると、ウィルタがエビのように体を丸め、車の扉に凭れかかっていた。
「オバルさん、ウィルタが……」
オバルが後ろから手を伸ばし、ウィルタの体を揺さぶる。
「何が……」と聞くオバルに、「説明は後で!」と返すと、春香はアクセルに力を込めた。
腰を浮かせていたオバルが背中から後部座席に落下、圧し潰されたカエルのような声をあげた。構わず春香は車を加速。暗闇の中を走っていたせいで、月明かりでもすごく明るく感じる。土手の上にいる人の姿が見えてきた。灯明を手にしている。
その赤い灯の行列とは別に、土手の右手から眩しい光が迫っている。自走車だ。
春香は火炎樹の林を飛び出すと、勢いのまま土手の斜面に突っ込んだ。右に左に大きく車体を揺らしながら斜面を這い上がり、土手の上に飛び上がる。勢い余って、車が凍結した道の上を、キリキリと身を縮める音をたてて横滑り、土手の上にいた人たちが追われるように身をかわす。車は土手の反対側の斜面一歩手前で、辛うじて停止した。
春香は詰めていた息を一息に吐き出すと、重しでも乗せたような固いハンドルを全身の力を込めて回し、車を都と反対の方向に向けた。
外套の頭巾が後ろにずれ、バタバタと煩くはねる。
「右に見えているのが橋よね」と、オバルに確認。
ゆったりとカーブした土手道の先に、丸い街灯が一直線に並んでいる。その明かりが、川面と橋の雪面に白々と照り映え、一服の絵画のように美しい。クルドス分水路を跨ぐ幣舎共栄橋、バドゥーナ国とゴーダム国の国境でもある。
春香はその幣舎共栄橋に向かって車を疾走させた。
土手の右側河川敷に、ヨシ葺きの屋根がせめぎ合うように並んでいる。薄ぼんやりと見て取れる川沿いの家から、次々と土手に人が上がってくる。けたたましいサイレンの音や、銃声や、自走車の走る音に、何事かと様子を見に来たのだ。
その人たちの前を、警笛を鳴らしっ放しで突っ走る。
道端の人たちに気を取られているうちに、後方の車は二台になっていた。おまけに前方にも別の車が。まだ距離はあるが、明らかにこちらに向かってくる。両方から挟み撃ちにしようというのだ。ライトが眩しい。
「しまった、どうするかな」
後ろから首を突き出したオバルが、前後に首を振りながら声を詰まらせた。
逡巡するオバルに、春香が言葉を叩きつけた。
「このまま突っ走る、喧嘩は道を譲ったほうが負けよ!」
春香は気を奮い立たせるようにハンドルを掴んだ。しかし、向かってくる車のライトが眩しくて、土手の道が良く見えない。このままでは衝突してしまう。
春香は半ばやけくそに、対向するライトに向かって車を突っ込ませた。
相手の車が慌ててハンドルを切るのが分かった。車と車が交差、車体の側面がぶつかり、金属を削るような音が鳴って火花が散る。
直後、身を竦めるような衝突音が後方で轟いた。
三台の車が、もつれるようにして斜面を横転、転げ落ちていく。
その様子を見定めることなく先へ。
前方に橋の袂の検問所が見えてきた。投光機のライトが吸いつくようにこちらに向けられた。車のライトとは較べものにならないくらいに明るく、目が痛い。それでも目を細めると、橋の袂に数人、銃らしきものを構えた人がいるのが見て取れた。
オバルは後部座席から身を乗り出すと、憑かれたようにハンドルを握る少女に目を見張った。猛烈な音と振動にもかかわらず、少女は涼やかな顔を前方に向けている。
オバルが問いかけた。
「銃の弾は車より速いぞ」
「知ってる、でも過去に向けては、発射できないわ」
その言葉は、鉄の車輪が路面の氷を砕く音に紛れて、オバルの耳には届かなかった。
オバルは「任せる」とだけ言うと、助手席のウィルタを後部座席に引き抜き、両腕でしっかりと抱きかかえた。
凍風が顔をなぶる。冷たいという感覚はとうに失せていた。ハンドルを掴む手も、力を入れているのか、いないのか。しかしなぜか気持ちは良かった。次の瞬間、自分が生きているかどうか分からない、その命を賭したような緊張感が、自分から五感を奪っていた。心が磨ぎ澄まされたように、目の辺りに集まってくる。
アクセルを踏み込む力を増していく。もうひと押しすれば、車は最大スピードに達する。百二十キロくらいか。ハンドルを誤れば、その時自分は、母さんといた二千年前の事故の現場に戻っているかもしれない。そんな幻想が浮かぶ。しかしそうはならないだろうという気持ちも……。
春香は体を小刻みに震えさせると、橋の手前の検問所を見すえた。
銃を構える制服姿の衛士たちの手前に、作りかけの建物の土台がある。その横には資材を運ぶ運搬路だろう、斜めに地盛りが……。
その一点を凝視しながら考える。可能性はどのくらいだろうか。限りなく低いかもしれない。だが、ゼロではない。夢の中なら、どんなことでも実現できる。わたしの生きている今が夢なら必ずできるだろう。映画の絵空事のようなことだって、それが車なんか、ろくすっぽ運転したことのない少女にだって……。
春香は、怖れもなく最後の一押しをアクセルに加えると、道端の資材搬入路に牽引車を突っ込ませた。
牽引車は搬入路の斜面を一気に駆け上り、弾丸のように宙に飛び上がる。そして、あっけに取られる衛士たちの真上をスルリと跳び越えると、次の瞬間、検問所の反対側に着地した。奇跡の女神が車の上に舞い降りたのか、ほとんど衝撃もなく牽引車の金属のタイヤは路面を掴むと、最後、橋の袂でクルクルと回転しながら停止した。
目の前に幣舎共栄橋の真っすぐな雪の路面が対岸に伸びている。
ウィルタを抱いたまま、オバルが夢でも見るように辺りを見回した。
橋の衛士は、銃口を下に向けたまま、呆然と牽引車を見ている。衛士と視線の合った春香は、ニコッと頬にエクボを浮かべると、アクセルに力を込めた。
幣舎共栄橋は、水路中央にある幣舎島と呼ばれる国境の岩場を跨いで、六百メートルほどの分水路上を一直線に伸びている。橋の欄干から垂れたつららが、対岸まで続く街路灯の明かりを受けて、キラキラと真珠の輝きを放つ様は、両都の繁栄と友好のシンボルに相応しい美しさだ。その光を塗したような橋に、牽引車は悠然と乗り入れた。
これで一見落着かと後ろを振り向いたオバルが、声にならない声をあげた。立ち尽くす衛士の背後に、肩に筒のような物を担いだ男が姿を見せていた。
「まずい、急いで橋を渡るんだ」
「なに?」と春香が聞き直した瞬間、後方で白煙が上がった。
衛士の一人が携帯式の無反動砲を発射したのだ。
ドンという凍えた大気を震わす音が聞こえた直後、激しい爆裂音とともに、牽引車の後部がフワリと宙に持ち上がった。車輪の下で弾頭が炸裂したのだ。
さらにもう一発。三人を乗せた牽引車は、連続する爆発の反動で完全に宙に浮き、そのまま、つららで輝く橋の欄干を突き破った。そうして、後はまるでスローモーションでも見るかのように、ゆっくりと街路灯の明かりを映す暗い川面に落ちていった。
次話「分水路」




