祝典
祝典
熱井戸に蒸気が復活して一週間が過ぎた。
少女は相変わらず、ぼんやりとした表情に沈んでいたが、ユカギルの町には明るい笑顔が溢れていた。熱井戸に蒸気が復活したのだ。
この時代を旅する人は、マトゥーム盆地に限らず、世界のあちこちで地面に穿たれた穴を目にすることになる。井戸は正式には熱井戸と呼ばれる。
今から二千年以上も前のこと、この惑星を二つの災厄が襲った。一つが『緑の消失』、もう一つが、『巨大隕石群の衝突』で、世界は未曾有の混乱に陥る。そして存亡の縁に立たされた人類に、更なる試練が降りかかる。急激な寒冷化だ。主な原因は、大地に降り注ぐ太陽の日射し、輻射熱の減少にあると見られたが、ほんの数十年の間に、この惑星は全球凍結の一歩手前まで冷え込んでしまう。
その後太陽の輻射熱はやや回復し、地球は氷の惑星となる危機を免れたが、それでも赤道直下でさえも凍土のツンドラに覆われていることに、違いはない。
この寒冷化した大地にあって、生きていくためにどうしても必要なものは、体を内側から温める食料と、体を外側から温める燃料である。その内、食料は二つの災厄直後に作り出された火炎樹と呼ばれる擬似植物が、重要な役割を果たした。
そして燃料。すでに石油は枯渇一歩手前で、手っ取り早く煮炊きや暖房に用いることのできるエネルギー源は、石炭しか残されていない。その燃料としての石炭も、どこにでもあるというものではない。様々な代替のエネルギーが模索された。
その一つが、大地の熱を利用することで、人は温水の湧くような場所を見つけると、次々と熱水を汲み上げる井戸を掘った。ユカギルの熱井戸のようにだ。この地熱にすがれば、凍てつく冬を心配する必要はない。地熱は石炭や石油のように利用すれば無くなるものではなく、汲めども尽きぬ井戸の水だと、そう誰もが考えた。
ところが、この地熱までもが涸れ始めた。大地の奥深くでマントルは対流している。その流れが変わったのかとも考えられたが、どうやら原因は、低温のマントル流の発生にあるようだった。次々と熱井戸の源、熱床が涸れるなか、細々とながら命脈を保っていたユカギルの熱井戸も、ついに蒸気の発生を途絶えさせる。
それが今から六十年前のことである。
その後ユカギルの町が廃虚とならずに人の暮らしが維持されてきたのは、幸運にも町周辺の地下に、石炭の地層が残されていたからだが、その石炭も、あと数年で掘り尽くされる見込みだ。
将来を見切ったように、町を捨てる者が後を断たない。住人も今では二千人、ユカギルがセヌフォ高原随一の囲郷として賑わっていた往時の五分の一である。しかしユカギルを離れたからといって、豊かな陽光の降り注ぐ楽園がどこかにあるわけではない。移り住んだ土地で待っているのは、形は違えど、寒さに耐える生活なのだ。
だからこそだ。だからこそ、新しい熱床の見つかったことが、町の人たちにとって喜びとなる。マントル上部の数百度という高温の岩体によって気化された水蒸気の白い煙が井戸の口から立ち昇ること、それを眺めることが喜びとなる。
白い煙はまさに希望の煙だった。
熱井戸の排熱塔から水蒸気の白い煙が立ち昇るようになってちょうど二週間、板碑谷から遠望する白い煙も、すでに見慣れた風景になっていた。
窓ぎわの椅子に腰かけ、ウィルタとシーラ、そして春香の三人が朝の食事を取っていた。
星草の堅くて小さな種を突き臼で根気よく脱穀、殻の取れた砂粒のような種を水に晒して毒を洗い出す。一回ではとてもアクが取れず、都合七〜八回は水に晒さなければならない。そのアク抜きした粒を、水車の挽き臼で丁寧に砕いて粉に加工。その粉末を湯で溶きゼリー状にまとめ、温めたミルクに入れてスプーンですくって食べる。それがシクンの主食のミルク粥と言われるものだ。
ウィルタが、シーラの話を聞いて大きな声をあげた。
「えーっ、シーラさん、蒸気が復活するって、分かってたの」
「丹薬屋の若女将から聞いたの。正確には、レイ先生からということになるかな」
落盤事故の際、炭鉱地下の詰め所に駆け付けたレイ先生は、岩盤の間から噴き出す水で手を洗おうとして、その水がやけに温かなことに気づき、「もしや」と思った。
そこで仕事が一段落してから炭鉱の連中に尋ねると、「熱床の見つかる可能性は高い、しかし百パーセント確実になるまでは、公表するのは控えておこう」と、炭鉱と町の上層部の人たちの間で話が決まっていたというのだ。ただそのことは、一般の住人にも薄々伝わっていて、それがレイ先生から丹薬屋の若女将、若女将から薬種を卸しに行ったシーラに伝言ゲームのように伝わったのだ。
「だってそうでしょ、もし駄目で糠喜びをさせることになったら、それこそ大変だもの。町の未来が懸かっていることなんだから」
ウィルタが不服そうに小鼻を膨らませた。
「でもぼくは町の人間じゃないよ、教えてくれたっていいじゃないか」
「あら、じゃあ、ウィルタは町に行って何をやっているか、私に報告してくれる?」
やり込められたウィルタが、口元を歪めてスープを掻きまぜる。
それを愉快そうに眺めながらシーラが聞いた。
「ウィルタ、今日は町で蒸気の開通式があるんでしょ、そろそろ行かなくていいの」
「えっ、行ってもいいの」
驚いてウィルタが顔を上げる。その弾みで机が揺れ、スープの飛沫が春香の手の甲にかかる。湯気の立つスープは、かなりの熱さだが、春香はそれに気づく風もなく、機械のようにぎこちなくスープをすくっては、匙を口に運んでいる。
見兼ねたシーラが、手拭いを取り出し、春香の手を拭った。
それでようやく気づいたのか、春香が自身の手に目を向ける。
春香の手に自分の手を重ねると、シーラが願うように話しかけた。
「あなたに必要なのは、あなたの心を目覚めさせてくれる鍵なんでしょうね。それが、祭りの場にあればいいんだけど」
話しながらそっと手の甲を撫でる。しかし聞こえているのかいないのか、春香は首の座らない赤子のように自分の手に視線を落としたままだ。
軽く嘆息すると、シーラは、きつい調子でウィルタに言い聞かせた。
「ウィルタ、どうせ駄目といっても、私の目を盗んで行く気だったんでしょう。今回は特別、夜までゆっくりと祭りを楽しんで来なさい。ただし条件があります。春香ちゃんを連れていくこと」
予想外の提案に、ウィルタは口からスープを吹きこぼした。
「ぼくが春香ちゃんを連れて行くの」
「そうよ、今の春香ちゃんには、きっかけが必要なの。心の扉を開くきっかけがね。分かっていると思うけど、春香ちゃんは、心も体も中途半端にしか目覚めていない。手の甲にスープが跳ねても、何の反応も示さなかったでしょ。こうやって手を撫でてあげても、ぼんやりと不思議そうな顔をしているだけ。きっと熱いとか寒いとか、そういう感覚も中途半端にしか戻っていないのね、だから……」
春香の髪にそっと手を這わすと、シーラは祈るような目で春香を見やった。
「心が目覚めるには、まずは五感を取り戻さなければ。体が何かを感じるようになれば、それに合わせて心も蘇ってくるかもしれない。ウィルタ、彼女を町に連れて行って、色々な人に会わせてあげなさい。夜の祭りには出し物も出るでしょう。彼女を立ち止まらせるような面白い物が屋台に並んでいるかもしれない。もし売っている物に彼女が興味を示すなら、遠慮せずに買ってあげて。とにかく彼女に色々なものを見せて、聞かせて、触れさせて、何かを感じさせてあげて」
「わかったよ」
不承不承答えると、ウィルタは黙ってシーラの前に手を突き出した。
訝しげにその手を見やるシーラに、ウィルタが指先を丸めて催促する。
「気にいったものがあったら買ってあげるんだろ。物を買うには、いるだろう、お金がさ」
シーラが冷ややかな声を投げつけた。
「なにを言ってるの、あなた、ズヴェルを売ってたんまり稼いでるんでしょ。春香ちゃんは、あなたのお姫様なんだから、あなたがお世話なさい」
養母のにべもない物言いに、ウィルタは思わず頬を掻いた。
ウィルタの要望をピシャリと突き放すと、シーラは立ち上がって、部屋の奥、寝床の横に置かれた行李を開けた。事前に準備してあったのだろう、子牛の革の外套を取り出すと、それを両腕で捧げ持つようにして、窓際の編み机に戻る。くたびれてはいるが、小動物のフワフワした毛が縫い付けられた外套は、いかにも暖かそうに見える。
シーラは春香を机の脇に立たせると、その外套に袖を通させた。
「うん、思った通りぴったし。これはね、私が春香ちゃんくらいの歳に着ていたものなの」
「へえっ、シーラさんにも、春香ちゃんみたいな頃があったんだ」
茶々を入れるウィルタを無言で睨みつけると、シーラは春香の前にひざまずき、外套のボタンを下から順に合わせた。その様子は、まるで母と娘。
「この外套を着てくれる娘ができて嬉しいわ。さあ春香ちゃん、そろそろ夜が冷える頃に入ってきたから、暖かくして行ってらっしゃい」
外套を着た春香を、髪を梳くように眺め下ろすと、シーラは満足そうに目を細めた。
「チェッ、同じ女だからって、甘いんだから」
ウィルタが拗ねたように靴先を編み机の足に打ちつける。そのウィルタの手をシーラが掴んで、手の平に何か押し付けた。見ると、四つ折りにした札が二枚。
出し抜けのことで、初めてお金を手にした赤子のようにポカンとしているウィルタを、手の平を振ってシーラが急き立てた。
「ほらウィルタ、早くしないと、演説好きの町長の独演会に間に合わないわよ」
促されるままに春香の手を取り外へ。一歩小屋を出てウィルタは目を見張った。
なんとそこに、正装したミトの子供たちが、ずらりと並んでいたのだ。後ろには大人たちの姿もある。ユーレンカが着込んでいるのは、なんと婚礼用の衣装だ。
思わず後ずさったウィルタに、シーラが澄ました声で言う。
「そうそう、言い忘れたことがあったわ。ユカギルの町長さんから、ミト・ソルガの住人全員に、熱井戸の開通式の招待状が届いたの。囲郷の人たちが曠野の住人を招待するなんて、有り得ないこと。よほど熱井戸の復活が喜ばしいのね。インゴットさんの判断で、子供たち全員と、その保護者として大人数人を派遣することにしたのよ」
数人といっても、並んでいる大人たちを見れば、いま曠野に出かけている男とインゴットさんを除く、ミトにいる全員である。
あっけに取られたように口を開けたウィルタが、恐る恐る「シーラさんは」と聞く。
シーラが、この時ばかりは残念そうに肩を竦めた。
「私は丞師様のお世話があるから参加できない。いいことウィルタ、あなたはミトで一番町に詳しいんだから、皆が迷わないようにしっかり案内するのよ。さっきのお金は、そのお駄賃、遠慮しないで取っておいて」
ドアに寄りかかって呻き声を上げたウィルタに、珍しくブッダが媚を売るような目で体を擦りつけてきた。
「おいおい、おまえまで一緒に行くって言うんじゃないだろうな」
ウィルタが情けない声で足元の老犬に話しかけると、所々毛の禿げかけたブッダが、ハイとでも言うように威勢のいい声で吠えた。
見ていたミトの面々から、どっと笑い声が起きた。
ウィルタを先頭に、着飾ったミト・ソルガの一行が川沿いの小径を下っていく。
一行がユカギルの正面口、焙暘門を潜る頃、ミトの面々と入れ代わるように一人の大柄な老女が、板碑谷の北側斜面、例の岩の割れ目から姿を見せた。
ヒョコヒョコと足を引きずる動きは、医薬師のレイである。数頭の毛長牛が苔を食むだけで人気の失せたミトの土饅頭の間を、脇目もふらずに横切っていく。老医薬師の匂いを覚えてしまったのか、ミトの犬たちも、一頭が軽く挨拶でもするように吠えただけだ。
レイは、小川の手前にあるシーラの小屋の前に立った。
入り口も窓も開け放たれたままで、中に人の姿はない。しかし小屋の前、石を並べた竈の上では、煤けて真っ黒になった鍋から湯気が昇っている。ミトでは悪天候の時以外は、屋外で食事を作る。
レイが辺りを見回していると、小川で洗い物をしていたシーラが、人の気配を察して、戻ってきた。
シーラは驚いたように足を止めると、「あら、レイ先生じゃありませんか、これから開通式があるのでは……」とそこまで言って、思いついたように「注文の薬苔ですか」と、自身の額を指先で押さえた。
レイが違うとばかりに左右に手を振る。
「丹薬屋の若女将から、あなたが式典に出ないで板碑谷に残っているはずと聞いたものでね。ちょっとお話ししたいことがあって、お伺いしたんですよ」
大柄な体を揺するようにして、レイがそう説明した。
話……と聞いて、シーラは一瞬表情を固くしたが、すぐにいつもの柔和な表情に戻ると、「小屋の中に椅子がありますから、座って待っていてください。私は丞師様に昼餉をお持ちしなくてはならないので、それが済んだら直ぐに戻ってきます」
レイに小屋の中に入ることを勧めると、シーラは軽く会釈をして鍋に手をかけた。
湯煎していたミルク粥を器に移し替える。
戸口に立ってシーラの所作を見つめていたレイは、シーラが湯気の立つ粥を盆に乗せて立ち去るのを見届けると、遠慮がちに入り口の皮布をめくった。
日差しのきつい外から小屋の中に入ると、目が塞がれて闇に落ちたように感じる。
シクンは明かり取り用の窓を、動物の内臓の皮を張って作る。入り口横、石積みの間に填め込まれたその小窓が外され、開いた穴から外の風が流れ込む。風は彫像のように立ち尽くすレイの周りをすり抜け、天井の隙間から外へ。
レイがシーラの小屋を訪れるのは、これが六度目。今までは直接隣の薬苔小屋に入っていたので、生活のためのこちらの小屋を見るのは初めてだ。正直言って何もない塹壕のような住まいである。右側に土を削り出して作った寝床があるが、家財道具といえば、寝床の縁に置かれた行李一つに納まるもので、牛の背一つあれば、すぐにでも引っ越しのできる暮らしぶりだ。
いつでも移動できる身軽な暮らし、それはさぞかし気楽なものだろう。
十年前のこと、レイは都にあった自分の住まいを引き払う際、荷物を整理していて、いかにそれが大変なことかを痛感させられた。自分の人生が物として蓄えられていた。結局すべてを捨て、最低限の衣類と本を入れた鞄二つで都を去る。捨てた荷物と共にそこに張り付いていた責任やしがらみも捨てたのだ。
それはそれで爽快なことだった。その点に関してだけは、自分が都を去らなければならない原因を作った息子に、感謝してもいいと思う。
窓辺の椅子に腰掛けたレイの手首で、腕の時計が午前十時の時報を鳴らす。新薬の開発に成功した際、記念に恩寵された時計だが、週に五分ほど進んでしまう。それをいつも週初めに合わせるのだが、今週はそれを忘れていた。竜頭を回しながら、そういえばシクンの民が時計を持っているのを見たことがないなと、レイはそのことを思い起こした。
窓の抜けた四角い石積みの外、盆地の対岸に望むユカギルの町に、レイは目を向けた。
ミトの面々が町に到着すると、広場はすでに人で埋まり、今しも蒸気の開通式が始まろうとしていた。ユカギルの住人だけでなく、セヌフォ高原の東部に点在する囲郷の住人、それに旅の商人や牧人も混じっている。とにかく蒸気の復活を祝ってくれそうな人は、皆ここに呼び集められたという感じだ。しかし、かつてない人混みで前が見えない。
ウィルタは広場の隅にある石炭槽の扉を開けると、そこにミトの一同を引き入れた。
積み上げられた石炭の山に上ると、視界が開ける。広場の中央に設けられた壇上で打ち合わせのようなことをしているのは、町長と助役だ。
いつもは嫌みばかり口にするナムの母親のモルバが、「さすが、シーラの目を盗んで、町に通っているだけのことはあるわね」と、珍しく笑みを振り向けてきた。
面映ゆそうに首を竦めたウィルタが、「それはいいけど、おばさん、壁に寄り掛かると、せっかくの服が石炭の粉で汚れちゃうよ」と忠告。弾かれたようにモルバが壁から離れた。
一張羅についた黒い粉を払うモルバをよそに、前方で拍手と歓声が沸き起こった。
背伸びをするミトの面々に、太鼓腹の町長が壇上のマイクの前に立つのが見えた。
正装した町長のタルバガンが、両腕をゆっくり扇のように広げ、その手が宙に静止。広場からざわめきが消え、町長のよく通る太い声が広場を満たす。
「ユカギルの諸君、井戸が枯れて、かれこれもう六十年。その間に町の織り機は錆つき、たくさんの仲間が町を去っていった。もし今年も井戸に蒸気が戻らぬ時は、わしとても、この町を捨てねばならんかと思っておった。それがじゃ……」
タルバガンが声を詰まらせた。
天を仰いだ町長に、聴衆から野次が飛ぶ。
「どうした町長、工場の機械のように弁舌の舌も錆ついたか」
緊張で固くなった口元を解すように動かすと、町長が「いやあ、あまりに嬉しくてな」と言って頭を掻いた。そして仕切り直しとばかりに満面に笑みを浮かべると、やおら町全体に届くような朗々たる声を広場に響かせた。
「今回新しく見つかった熱床は、深度六千、熱容量七億単位。つまりだ、百年に一度見つかるかどうかの素晴らしい熱床じゃ。諸君、わしらは救われたんじゃ」
町長のその一言を待っていたように、一斉に拍手と歓声が沸き起こった。町長を胴上げしようと、坑夫たちが壇上に駆け上がり、ユカギルの住人や祝福に駆けつけた周辺囲郷の人たちの手拍子のなか、胴上げが始まる。
式典を見るのはミトの一行に譲って、ウィルタは一番後ろで伸びをしながら、ぼんやりと広場全体を眺めていた。そのウィルタの背を誰かが引っ張った。
タタンだ。
会うのは、春香を連れて氷河に入って以来。ウィルタが嬉しそうに春香を指さした。
「この子の名前が分かったんだ、『はるか』って言うんだ」
「へえ、不思議な響きの名前だな、おれのこと、覚えてるかな」
タタンが春香の顔を覗き込むが、春香の目はいつものように、あらぬところを見ている。
「まだ夢の中か」
「でも手言葉は、ずいぶん覚えたよ」
春香の顔の前で手を動かしながら、ウィルタが対応する言葉を口にする。
「友だち、名前、タタン……、友だち、名前、タタン……」
ぼんやりとしているようで、春香の眼球がウィルタの手の動きに反応して、ピクピクと揺れ動く。ウィルタが「友だち、名前、タタン」と三度ほど繰り返し、指先をゆっくりタタンに向けると、春香の眼球がウィルタの指先を追いかけ、眼球の動きにつられるように顔がタタンの方を向いた。そのままじっとタタンの顔を見ている。どうやらタタンという存在を認めたらしい。
タタンが感心したように眉を上下させた。
壇上では次から次へと胴上げが続いている。
タタンは首を伸ばして群衆の頭越しにその様子を見流すと、「ちょっと広場の外に出ないか、面白いものが見れるんだ」と、石炭槽の外に指先を向けた。
ところがウィルタは、済まなさそうに首を振ると、石炭槽の端に並んで食い入るような視線を演壇に向けているミトの面々を、目で示した。
「駄目なんだ、今日は、みんなのお守り役だから」
「引率ということか」
タタンは理解したようだったが、「それでも」と、ウィルタの袖を引っ張った。
「ちょっとくらいならいいだろう。しばらくはお偉方の祝辞で、一段落するまでは、この人出でみな身動きできない。その時までに戻ってくればいいさ」
「でも、彼女もいるし……」
「連れていけばいい。別に町の外に出るんじゃない、熱井戸の後ろ側に行くだけだ」
タタンは半ば強引にウィルタの手を引き、二人を石炭槽の外に連れ出した。
広場に背を向けた三人の後ろで、相変わらずの胴上げと歓声が続いていた。
第九話「老医薬師」・・・・第十三話「覚醒」・・・・