トゥワーニ
トゥワーニ
三人はジョノに案内されるままに、餅菌の発酵場から、四角い包みがラインの上に並ぶ板餅の包装工場を抜け、工場と工場の間の狭い路地に入った。錆の浮いたパイプの立ち並ぶ狭い隘路である。
隘路から隘路、そして行き止まりにあった階段を上る。足を乗せれば崩れ落ちそうな階段で、おまけに氷がびっしりと張り付いている。滑って足を取られそうになる。屋根の間から見える工場街は、パイプやタンクが複雑に立ち並び、巨大なリウの薮のように見える。
樹液の分溜分別工場だろうというオバルの指摘どおり、火炎樹の樹液から各種の油を分離精製しているのか、刺激を帯びた臭いが漂っている。振り返ると、パイプの薮の間に、迎賓館がお城のように光り輝いていた。
階段を上り切ると、工場の壁と壁の間に、屋根材を継ぎ合わせた小屋があった。無数のパイプに支えられた様は、なんだか鳥籠のようでもある。
ジョノが鳥籠の扉を叩くと、少し枯れてはいるが声量のある声が返ってきた。
「ジョノかい、やけに早いね。今夜はパーティーの片づけで遅くなるはずじゃ……」
答えずジョノが扉を開ける。と中が暗い。
暗闇のなかから、「お客さんかい」と声がかかる。
「そうだ、三人いる」と今度は返事を返すと、ジョノが身ぶりで三人に入るよう誘った。戸口に吊り下げた防寒用のフェルトを捲り、電灯のスイッチを捻る。
春香にとっては懐かしい蛍光球の白々とした明かりが部屋に灯る。
手織りの機の置かれた六畳ほどの広さの部屋で、機の手前ちゃぶ台の横に、初老の女性が目を瞬かせながら立っていた。褐炭肌の骨格のはっきりした顔で、重ね着をしたセーターの上に、さらにショールを数枚巻きつけた、ゆったりとしたなりをしている。
ジョノは、初老の女性の脇をすり抜けると、隣の部屋に身を滑り込ませた。ざっくりと織った仕切り代わりの織布の向こうにも明かりが灯り、寝台と天井から吊るされた衣類が布越しに透けて見える。
下水の臭いのついた衣類をアタフタと着替えながら、ジョノがぼやいた。
「おふくろは、どうしていつも明かりをつけないんだよ。ここは工場の電気をただで使えるんだぜ」
おふくろと呼ばれた初老の女性が、ジョノに声高に言い返す。
「そういうこすっからいことは嫌だよ。それより早くお客さんを紹介しておくれ」
「詳しい話は、その人たちに聞いてくれ。俺は迎賓館に戻らなきゃ。会場の片づけがあるんだ」
ジョノは着替えを済ますと、「十二時までには戻る」と言って、慌ただしく家を飛び出していった。
結局ジョノは、初老の母親に三人の事を何も説明しないまま行ってしまった。あっけに取られた三人は、工場と工場に挟まれた鳥籠のような家に残された。
「いつも慌ただしい子だよ」
言ってジョノの母親が、右肘の関節に左手を添えて伸ばすと、蛍光球の明かりを絞った。その際、明かりに顔が近づき、母親の顔がくっきりと照らし出される。しわの刻まれた顔は、しゃきっとした声のイメージよりも遙かに高齢で、ジョノは、おふくろさんと呼んでいたが、どうみても母親というよりも祖母。それにジョノは薄土肌なのに、彼女は褐炭肌だ。年齢の開きからしても、何か事情があるのだろう。
ジョノのおふくろさんが、ちゃぶ台の上に陶器の湯呑みを並べて、ヤカンの湯を注ぐ。
立ち昇る焦げた薬のような香りは、煎苔茶だ。
見ていると、ジョノのおふくろさんは、手足に障害でもあるのか動作が悠長で、時々動きがカクンカクンと止まっては、また動くことを繰り返している。まるで機械仕掛けの人形のようだ。それに動く前に必ず肘を曲げ伸ばしする。
ネジを巻くようにゆっくりと顔を上げたおふくろさんが、絞った天井の明かりを見上げて、やはり気に入らないとばかりに首を振ると、「悪いけど明かりを消させてもらうよ」と、蛍光球のスイッチを切った。その際の動作が、また右肘を曲げ、腰を伸ばし、体を捻ってと、まるでパントマイムでもしているように見える。
その動きを春香は不思議な面持ちで見守った。
部屋の中が暗くなると、入れ代わるように頭上から月の光が差し込んできた。天井に明かり取りの窓が填め込まれているのだ。
窓の格子が、ちゃぶ台に十字の影を映し出す。
ジョノのおふくろさんが、湯気の昇る湯呑みを三人の前に置いた。
時折、外で金属の配管同士が触れ合う硬質な音が鳴るほかは、森閑とした森の中にでもいるような静寂が部屋を包んでいる。
三人が湯呑みに口を付けるのを待っていたように、ジョノのおふくろさんが口を開いた。
「可笑しいだろ、私は田舎の出なもんでね。未だに電灯の白々しい光が苦手なのさ。政府が無償で配布してくれるから、みな、この蛍光球を使うけど、あたしゃ、今日みたいに月明かりの差す夜は、それで十分」
体の動きはぎこちないが、気風のいい喋りだ。ジョノおふくろさんは、湯呑みを両手で包むように捧げ持つと、はっきりと音をたてて茶をすすった。そして唐突に自分の名前を口にした。
「言うのを忘れていたね、私はトゥワーニって言うの、六十七歳さ」
天井から差し込む月の光が、トゥワーニと名乗った老女の白髪の一本一本を、くっきりと照らし出す。トゥワーニは、もう一口茶をすすると、話を続けた。
「この辺りには、油の精製工場がいっぱいあってね、年柄年中油の臭いが漂っているの。油の臭いから逃げるように、工場の管理小屋を移動させているうちに、こんな鳥の巣のような高いところに越してしまったってわけ」
トゥワーニが切れのいい涼やかな声でホホホホと笑った。
鼻をくゆらせてみるが、油の臭いは感じられない。香るのは煎苔茶の匂いだけ。臭い消しの茶だろうか。春香が尋ねた。
「ねえ、トゥワーニさんは、わたしたちが何者か聞かないんですか」
トゥワーニが、またホホホホと笑う。
「話したければ話しとくれ、年寄りというものは、話を聞くのも話すのも好きな生き物だからね。でも嫌なら話さなくていいんだよ。あんたたちは息子の連れてきたお客さん、それだけで私は十分」
春香とウィルタは顔を見合わせた。
二人とも、このお婆さんのようなジョノの母親を気に入っていた。月明かりの下、ちゃぶ台を前に背筋を伸ばして茶を飲んでいる姿は、なんとなくシーラさんが歳を経ればこうなるのではという雰囲気を漂わせている。
春香とウィルタは、どちらからともなく、ここに至るまでの旅のことを話しだした。
子供たちの話に耳を傾けながら、トゥワーニは、フンフンと相槌を打つ以外、とくに質問を挟むこともしない。
春香もウィルタも、それぞれ自分のことを包み隠さずに話した。春香は自分が古代人であること、ウィルタは自分に懸賞金が懸けられているということをだ。このトゥワーニさんになら何を話しても問題ない、そう思わせるものが、この白髪の老女にはあった。
一通り自己紹介も兼ねた旅の話に区切りがつくと、耳を傾けていたトゥワーニが、ウンウンと一人納得したように頷きながら天井を見上げた。差し込んでくる月の光が、ちゃぶ台の上に置かれたトゥワーニの指の爪に当たって鈍く反射する。
軽くリズムでも取るように揺れる爪の動きが止まり、トゥワーニが口を開いた。
「息子があなたたちを連れてきた理由が分かったわ。ジョノは、あなた、ええと、春香ちゃんと言いましたっけね、あなたを私に引き会わせたかったのでしょう」
「わたしを?」
春香が不思議そうに、自分を指した。
「そう、あなたよ」
トゥワーニが壁に立て掛けてあった楽器を手に取った。鼓のような胴と長い柄、そこに一本だけ弦が張られている。胡弦と呼ばれる楽器である。トゥワーニは弓の張り具合を軽く調整すると、スッと絃に弓を添わせた。そしてゆっくりと引き絞る。体の中に染み入るような絃の響きが部屋の中に満ちてくる。腕が素直に動かないからか、手首の返しがぎこちないが、それが弦の響きを微妙に狂わせ、音がなんとも言えない自然な揺らぎを醸しだす。ゆったりとしなうような旋律が、物悲しくも望郷の念を誘う。
気がつくと、春香はトゥワーニの弾く旋律を一緒に口ずさんでいた。それは春香のよく知っている童謡だった。
曲を弾き終えると、トゥワーニが春香を見てニッコリと微笑んだ。
「おばあさん、どうしてその曲を……」
トゥワーニは手にした胡弦に視線を投げると、喜びとも悲しみともつかない憂いを帯びた表情を浮べた。
「覚えていたのは、この曲だけだったの」
その言葉が何を意味するのか、とっさに春香は理解できなかった。
しかし聞き直そうとして、春香は手にした湯飲みを落としそうになった。
「ということは……」
見つめる春香に、トゥワーニが「そうなの」と、さらりと言った。そう、つまりこの白髪の初老の婦人トゥワーニも、古代に生きた人物だった。
体の一部のようになった楽器を抱えて、トゥワーニが自分のことを語り始めた。
もう四十年よりもっと前のこと、胡弦を胸に抱いた女性が、冷凍睡眠の棺に入った状態で大陸東の海岸で発見された。氷河に埋もれたまま陸から海に押し出され、洋上を漂って流れ着いたものと推測された。
ドロドロに融けることもなく女性は蘇生した。
棺から目覚めた当時、女性は推定で二十五歳。推定というのは、歳を確認できる物が何も残されていなかったのだ。通常、冷凍睡眠の棺の操作盤には、睡眠に付された人物に関する情報が記録されているものだが、それが何も残されていなかった。
機械の中に無かっただけでなく、彼女の脳の中にも情報は残されていなかった。つまり棺から目覚めた時、彼女は過去の記憶の一切を失っていた。唯一覚えていたのが曲だった。ほんの数曲だが、棺に納められていた楽器で奏でる曲を、指が覚えていた。
女性はこの世界で生きるにあたって、トゥワーニという名前を与えられた。月日は流れ、棺から蘇生して今年で四十二年。その間、トゥワーニに過去の記憶が蘇ることはなかった。
軽く弦を指で弾くと、トゥワーニが愛しむような目で春香を見た。
「羨ましいわ、あなたには過去の記憶が残っているのね」
年配の人は、よく過去を回想するような目つきをする。トゥワーニもそう。しかしトゥワーニの心の中には、二十五歳以前の事は、思い出そうにも何一つ浮かんでこない。
静かな笑みを浮かべるトゥワーニに、「ええ残っています、でも……」と、春香が言い訳を口にした。
「悪い思い出もいっぱい。それに世界が変わり過ぎてて、覚えていても役に立ちそうもない記憶ばっかりなんです」
楽器の胴をポンと叩くと、「そんな贅沢を言っちゃ駄目」と、トゥワーニが春香をたしなめた。「私なんか、二十五歳までの記憶が何も残ってないのよ。私が人の身の上を詮索しないのは、自分が昔のことを聞かれるのが、好きじゃないから。だって、良いことも悪いことも、人生で一番刺激的で輝いている時代の記憶が何も残ってないんだもの」
腕のなかの楽器を撫でながら、トゥワーニが想いを馳せるように言葉を紡ぐ。
「さっきの曲を弾いていると、何か思い出しそうな気になるの。でもいつも、もう一歩のところで、思い出は手の届かないところに逃げてしまう」
トゥワーニが気の張った目元に寂しげな陰を浮かべると、
「気がついたら、もう棺桶に片足を突っ込んだ歳になってしまったわ」
「ごめんなさい、わたし、そういうことだとは知らなくて」
「あら、いいのよ、年寄りの愚痴を本気にしちゃだめ。まあそれはそれで良かったのかもしれない。過去の記憶を持っていなかったから、特別扱いもされずに、この世界に生まれた者として生きていくことができたもの。過去の記憶を持っている人のなかには、そのことで苦しむ人もいるそうだから」
胡弦をその楽器だけが自分が古代人であることの証のように撫でると、「それでも」と、トゥワーニが潤んだ目を春香に向けた。
「私、死ぬまでに一度でいいから、私と同じ時代を生きた人から、自分が青春を過ごした時代の話を聞いてみたかったの」
トゥワーニの目が、壁に貼りつけてある写真を見ていた。ジョノの子供時代の写真だ。
「一時期、私は口癖のようにその事をジョノに話していたわ。きっと、ジョノはそれを覚えていて、あなたを見つけた時、私に会わせたいと考えたのでしょう」
言って、トゥワーニが嬉しそうに口元に笑みを浮かべる。それは母親が子供の話をする際に見せる、誇りを含んだ笑みだ。
春香は湯呑みをちゃぶ台に戻すと、改まって尋ねた。
「わたし、何を話せばいいんでしょう。忘れていることが多くて、何でも話せるというんじゃないけど」
「いいのよ、何でもいいの。あなたの楽しかった思い出を聞かせて。いい思い出を、少しだけ私に分けてちょうだい」
トゥワーニだけではない、ウィルタとオバルまでが、興味深げな顔を春香に向けた。
集まる視線に春香はずがゆくなって頬を掻いた。
「もうそんなに、じっと見ないでよ。恥ずかしくて話し難いじゃない」
「じゃ、後ろを向いてようか」
小さく「バカ」と言うと、春香はコホンと咳払いをした。
話す内容を探るように数回首を回すと、春香はゆっくりと語り始めた。
最初は楽器にまつわる話から。胡弦を抱えたトゥワーニさんを見ているうちに、音楽の話ならきっと何か伝わるものがあるのではと思ったのだ。そして話しながら考えていた。冷凍睡眠の装置に楽器が入れてあったということは、トゥワーニさんは、きっと音楽が好きで、楽器を肌身離さず持ち歩くような暮らしをしていたに違いない。もしかしたら、音楽を仕事にするような青春を送っていたかもしれない。
春香の話は、音楽から始まり、自分の住んでいた町の話、食べ物の話、可愛がっていた犬の話……と、とめどなく続いていく。話しているうちに、さっきトゥワーニさんが弾いたあの曲に『月の雫』という名前がついていたことを思い出した。
トゥワーニが三度目の煎苔茶を入れた時、家の扉をノックする音がして、ジョノが入ってきた。オバルが腕の時計を見ると、すでにこの家に来てから三時間が経っていた。
無言で部屋に入ってきたジョノは、蛍光球に明かりを灯すと、押し殺した声で言った。
「警邏隊が犬を使って捜索している。ここにいては見つかってしまう」
慌てて立ち上がりかけた三人を、トゥワーニが咳をついて押し留めた。
「せっかく月夜に目が慣れているの、それに犬の鳴き声が聞こえるわ」
戸口に耳を寄せたジョノの後ろで、再度トゥワーニが頭上の蛍光球を消す。
闇に戻った部屋の中で春香が声を震わせた。
「残念だわ、トゥワーニさんに、もっといろんな話を聞かせてあげたかったのに」
月明かりのなか、トゥワーニは背もたれにしていた行李から暖かそうなショールを一枚引き出すと、それを春香の肩に掛けた。そうして春香の顔を両手で包み込むようにして引き寄せた。
「しっかり聞かせてもらったわ、春香さん。私の生まれた時代が、幻ではなかったというだけでも、私には十分。おまけに覚えていたあの曲の名前が分かったのよ。私は、自分の生きた時代が、すごく不幸な時代だったんじゃないかと思っていたの。だから両親が私の記憶を消して、長い眠りに付かせたんじゃないかって。でも、あなたの話を聞いて、昔も今と同じくらいに素敵な時代だってことが分かった。それがとても嬉しい。鍵は掛かっているけど、心の引き出しのどこかに、そういう世界で過ごした楽しい思い出が詰まっている。それが信じられるだけでも、とても幸せなことよ」
地味な作業服に着替えたジョノが、外套を羽織りながら母親をせっついた。
「おふくろ、いい加減にしてくれ。早くこの人たちを連れ出さないと、何のために苦労して、排水坑を潜ってきたのか分からなくなる」
「でもねジョノ、あの曲の名前が分かったのよ。いつも私が弾いていた曲は『月の雫』って名前なの。当たらずとも遠からず、当てずっぽであなたが付けてくれた名前が『満月の宵』だったんだから。あーっ、これでもう心残りなく、あの世に行けるわ」
「縁起でもないこと言うなよ。おふくろは、生まれたのが二十五歳の時なんだから、人よりその分長生きしないとだめだろう」
ジョノが、春香の体を抱き締めているトゥワーニの背中を引いた時、今度は犬の鳴き声が、そこにいる全員にはっきりと聞こえた。
「いけね、ほんとに、早く行かないと」
トゥワーニは、これが最後とばかりに春香を強く抱き締めると、「ありがとう、元気で生きるのよ」と、願うように言った。
「さあ、行こう。もう一度地下に潜るんだ」
扉の外からジョノが手招き。トゥワーニが見送るなか、三人はジョノに続いて凍りついた鉄の階段を下った。
次話「自走車」




