展望台
展望台
飲食物を提供するコーナーに、昼食の際に給仕をしてくれた癖毛の青年が立っていた。春香が会釈をすると、にこやかな笑顔を返してくれる。どうやら気がつかなかったようだ。ドレスを着て髪型も変えてある。教えられない限り、絶対にダニが頭を這っていた田舎娘と同じ人物だとは思わないだろう。
春香は安心して胸を張った。
丸盆にグラスを乗せたボーイが近寄ってきたので、ブルーの飲み物の入ったワイングラスをもらい、それを片手に人の輪の中へ。
二階まで吹き抜けになった体育館ほどの広さの大広間は、壁際が衝立てで小区画に仕切られ、そこに様々な物が展示されている。ざっと見た感じでは、古代技術復興展示会という大げさな看板に反して、家庭で使う電化製品のような、こじんまりとした物が多い。
自動調理器に、音響機器に、介護ロボット……、
春香の時代とその百年前の時代とで、人の使う技術で何が一番変わったかと言えば、それは機械が電気を必要とするようになったことだろう。人の使うあらゆる機械や道具が、電気の使用を抜きには考えられなくなった。車のようにエンジンを搭載しているものにして、その制御に電気を必要としたようにだ。
見慣れたものもあるが、それはごく一部で、ほとんどの物は、春香が初めて目にするものばかりだ。自分が事故で意識を失い世界が異変に巻き込まれるまでの間に、それほどまでに新しい物が生み出されたのかと思い、すぐに考え直す。新しい製品が開発されても、ほんの数年の間に、目まぐるしく機能やデザインが改良されるため、少し古い物は、もう遠い昔の物のように忘れ去られるのが常だった。
次々に新しい物が開発されては、時代の波に呑まれ埋もれて行ったことだろう。見慣れたような物も、どこかしら自分の記憶のなかの物と違っていたりする。
中央のブースに懐かしい道具を見つけた。
携帯型の通信器だ。
ポケットサイズの無線衛星通信機。世界中どこでも誰とでも会話ができる通信機。一昔前は、町のあちこちに電波の中継アンテナが林立していたが、微弱な電波を受信できる高性能の通信衛星の打ち上げによって、中継アンテナがいらなくなった。
しかし、展示台の横で係の人が解説するのを聞いて、見かけは同じでも、中身はさらに進んでいたのを知る。なんとそのポケットサイズの通信機の中にある情報ディスクには、会話なら人の一生分の会話が記録できるという。つまり、その通信機で話されたことの全てが、その情報ディスクの中に残されているというのだ。おそらく春香が使っていた頃の記録素子よりも、遙かに容量のある素子が開発されたのだろう。
「一生分の会話を録音しておいて、古代人は何の役に立てていたのですか」
取り巻きの人から質問が上がる。
当然のことだろう。私の時代でも、情報ディスク十枚で、一年時間単位の映像が録画保存できた。人の一生全てを録画しても一千枚のディスクに収めることができる。それは人生を八十年として、四十年生きて自分の映像を誰かに撮らせ、残り四十年をひたすら撮影された自分の映像を眺めて過ごす人生だって可能ということだ。平均二時間ほどの映像ドラマにしても、おそらく当時あったソフトだけでも、人が一生かかっても見ることのできないものが溢れていた。生活に困らない人なら、ただ椅子に腰掛け、一生架空の映像を見続ける人生を送ることもできたのだ。
有り余るほどの映像ディスク……。
『映像を見るには人の人生は短か過ぎる』とは、よく言われたことだ。
映像も文字も音声も、情報である。それが信じられないほどの量で溢れていた。
それは増え続ける一方だった。
「今の時代の人は記録病に罹かっているの」と、母がよく口にしていた。
文字を使うようになって三千年、でも映像や音を記録することはできなかった。それを残すことができればとずーっと考え、憧れ、夢想し、そしてようやくそれが可能になった時、今までの渇望の裏返しだろう、人は何もかもを記録し始めた。熱病に罹かったように。
新しい技術を手にすれば、とりあえず、それを使ってみたくなるというのは理解できる。
でも……。
何もかも記録したがる、それが今の時代。あと十年もすれば、記録することに飽きて、本当に必要な物しか残さないようになるんじゃないかしら。母は含みのある声でそう言って、ほとんど録音された音楽を聞こうとしなかった。私は生の音だけでいいのと、いつも公言していた。それはそれで変人だと思うけど、ゴーグルのような映像再生装置を目と耳に被せ、寸暇を惜しんで映像ドラマの世界に填り込んでいる従兄弟や、寝ても覚めても補聴器型の音の再生装置で音楽を聞き続けている部活の先輩、そしてタッチパネル方式のモバイルを赤ちゃんの哺乳瓶のように手から離そうとしない通勤通学の友人連中を見ると、あれもちょっと変だと思ったものだ。たまにはぼんやりと窓の外の景色を眺めたり、風の音でも聞いてみればと言いたくなる。そんなことを口にするわたしは、友だちから、若年寄りと馬鹿にされていたんだけど……。
わたしの時代から十余年。人はまだまだ記録し続けることに飽きなかったようだ。情報の時代、それは記録の時代でもあるのだろう。人の人生の会話すべてが、数枚のディスクに記録し保存される時代。そんな時代からすれば、この氷の世紀は、エネルギーだけでなく、情報までが枯渇したような時代だ。でも、人は普通に生きている。不思議なものだ。人が生きていくために本当に必要な情報量というのは、どのくらいだろう。
ディスク一枚、十枚、千枚、百万枚、それともやはり際限なく……?
有限な人の生に、無限は似合わない気もするけど。
見ているだけで疲れてきた春香は、人混みを抜け出した。
そして、少し離れたところから会場を眺めた。
この古代技術復興展示会は、展示解説の場というよりも、社交場といった感じがする。集まっている人も、専門家というよりは、お偉方とその家族といった雰囲気だ。ただ夜の会ということもあって、子供の姿はない。わたしもドレスを着ていなければ、場違いになっただろう。なにやら社会科の教科書に載っていた殖産興業の見本市、この国でこんな物が使えるようになりたいですねという、国のイメージを皆に宣伝するための会のように思える。それでも不思議な熱気が、会場を充たしていた。
わたしの生まれる前の時代によく使われた標語に、『人類の進歩と繁栄のために』という決まり文句があったそうだ。その『進歩』という、どこか、いかがわしい響きを持った、けれど、それゆえに人を引きつける魔力が、この会場にはあるように思う。
『人類の発展を陰で支えてきたのが科学技術の進歩である』と、教科書の文字が太字だったのを思い出す。火の使用から始まり、鉄の利用、火薬の発明に、活版印刷による情報の大衆化、エンジンの発明による生産と移動手段の発達、電話の発明による通信革命……。
革新的な技術は、初めてそれに接する人たちにすれば、まさに夢のような技で、それを手にすることができれば、夢と幸福を自分たちにもたらしてくれるに違いないと思わせるに足る、魔法の杖のようなものだ。
係の男性が、解説のパンフを手に、にこやかに話しかけてきた。
「お嬢さん、展示には興味が湧きませんか。もし解からないことがあれば、説明いたしますよ。ほら、そこに展示してある装置なんか、面白いですよ。研究用の機械ですが、ダイヤモンドを燃やしてエネルギーに変える装置。ダイヤモンドは炭素の塊で、要は固い石炭、昔の人は、あらゆる物を……燃やし……エネ……変……」
勝手に説明を始めた男性の言葉が、脳細胞の間をすきま風のように擦り抜けていく。
春香はブルブルッと首を振ると、手にしていたグラスを係の男性に渡して言った。
「もう十分過ぎるくらい昔の物は見たわ。それよりわたし、人に酔ったみたいなの。どこか外の風に当たれる場所はないかしら」
係の男性は、差出しかけたパンフを引っ込めると、ホール真ん中の階段を示した。
「階段を上がると、途中に踊り場があります。そこなら、ここよりは涼しいかと。確か椅子とテーブルもあったと思います、ご案内いたしましょうか」
慇懃に春香の腕を取ろうとする係員の手を、春香は笑って押し返した。
「ううん大丈夫よ。ありがとう、一人で行けるわ。それより……」
春香が、後ろの人だかりのしているブースを指した。
「あの液晶画面の機械を扱っている男の人、画面が固定してしまって、元に戻すのに手こずっているみたい。一言伝えてほしいの。下の左端のボタンを押したまま、上の段の……、そうすれば、画面が一番始めに戻るはずだから」
春香は一方的に言い伝えると、不思議そうな目で自分を見つめる係の男性に背を向け、階段に足を向けた。中二階に踊り場があり、ガラス戸が僅かだが開いて、外の冷気が隙間から流れ込んでいた。それがホールから引きつれてきた喧騒の熱を奪い取ってくれる。見るとガラス戸の外、テラスに雪が積もっている。暖かい建物の中にいると、つい忘れてしまうが、外は雪と氷の世界なのだ。
テラスに出てみようとガラス戸に手をかけるが、ストッパーのために、それ以上開かない。春香は踊り場に置かれた椅子には腰を下ろさず、そのまま階段の上に視線を移した。
常夜灯だけの乏しい明かりのなか、つづら折りに階段は続いている。
明る過ぎる会場の照明と、大勢の人の発散する熱気に疲れた春香は、上り階段に足を踏み出した。二階、三階、幅広い階段は四階で終わり、そこから先は、狭くて急な螺旋階段になっている。人の気配はない。ホールの喧騒が暖まった風となって、かすかに上に向かって吹き上げている。
最上階は三百六十度、どちらを向いてもガラスの窓。展望室だ。
天井を支える柱以外は何もない、ガランとした楕円形のホールである。小さな非常灯が申し訳ていどに付いているだけなので、窓の外の方が圧倒的に明るい。自分の背丈の三倍はある窓に駆け寄ると、別館の部屋で見た都の夜景が目に飛び込んできた。
都の通りという通り、路地という路地に街灯が並んでいる。黄色い明かりは、どれも安息灯だろう。無数の安息灯の明かりに、所々華々しい電照灯の白い光が混じる夜景は、都全体が巨大な光り輝くガラスの結晶にでもなったかのようだ。
その鉱物結晶のような盤都の夜景の先、塁壁の向こう側に目を向ければ、火炎樹の並木の間を走る道沿いには、白灯がどこまでも灯され、それが白い雪の大地に黒い木々の連なりを浮かび上がらせている。そして火炎樹農園の先、水路の黒い闇の向こうには、ゴーダム国の都、濠都ゴルの夜景も……。
盤都の夜景が黄色なら、濠都は白。青白い夜景といっていい。全体として、盤都ほどの明々しさはない。
春香の生まれ育った国は、蛍光灯の白っぽい光を好む文化を持っていた。蛍光灯の明かりは、一見すると冷たい感じがするが、清潔感はあるし色彩も鮮やかに見える。のちに知るが、ゴーダム国の建物には、壁面に色ガラスの装飾模様が施されている。夜間それを美しく見せようと思えば、やはり白々とした明かりが相応しいのだろう。対する盤都の建物の壁面は白の漆喰で、淡い黄色の安息灯の明かりが壁に映えて、何とも心が温まる。
春香は窓に沿ってゆっくりと歩を進めた。
都は塁壁に囲われ、町の内と外がはっきり区別できる。町の大きさで言えば、自分が幼稚園時代に住んでいた首都圏郊外の中堅都市くらい。駅をドーナツ状に囲む住宅街を抜けると、突然景色が畑や田んぼしかない農村に切り替わる。夜など駅の高架のプラットホームから町を眺めると、住宅街の明かりが、途中でプッツリと消えて闇になる。その夜景とどこか似ている。
もう一度視線を手前に戻す。住宅街の目映さと対照的に、迎賓館の近くに照明の消えた箱型の建物が並んでいる。官庁街、あるいはビジネス街といったところか。
窓に沿って進むにつれて、都の反対側が見えてきた。
そこには全く違う景色が展開していた。オーギュギア山脈の西と東で、ガラッと気候が変わるように、この都も前と後ろでは全く世界が違うようだ。先に見た大通りとそれに繋がる経閣門のある側を表とすると、こちらは明らかに裏。極端に明かりが少ない。白灯の小さな明かりがほとんどで、その薄暗い明かりに、大きな平屋根の建物の輪郭線が板を重ねたように並んでいる。細部に目を凝らせば、工場や倉庫風の建物の合間には、タンクや配管が押し固めたように詰め込まれている。これはどう見ても工場街だ。もっとも都の裏側の照明が暗いといっても、それは表側と比べたらの話で、この工場街でさえ、バレイの町より、よほど明るい。
工場街の縁を塁壁が取り囲み、塁壁の外には、火炎樹の林と、火炎樹の林を分断するように黒い川や水路がうねっている。表側の眩しすぎる夜景よりも、こちらの漆黒の流れの方が目に落ち着く。
ぼんやりと眺めること数分、目が都の裏側の暗さに慣れてくると共に、河岸に灯る微かな明かりが見えてきた。赤い灯だ。明かりが小さすぎてよく見えないが、そこにも人が住んでいるらしい。
そう言えばと翻って、もう一度都の表側、目映いばかりの住宅街の側に戻る。
盤都バンダルバドゥンと濠都ゴルの二つの都を隔てる河のような水路、その水路の両岸に目を向ける。都の照明に紛れて分かり難いが、やはり針を落としたように小さな赤い灯が、川に沿って点々と並んでいる。人の暮らしは夜の明かりと共にある。塁壁の内側、都とは別に、川岸に暮らしている人たちがいるようだ。
どういう人たちがそこに……と春香が思いを巡らせていると、階段に人の気配がした。
話し声がつづら折の階段を煙突のように抜けて近づいてくる。
別に隠れる必要はなかったが、春香は何となく柱の陰に身を寄せた。
男性が二人、階段の手すり越しに姿を見せた。
地味な防寒ジャケット姿の二人は、明らかに下の催しに参加している客とは様子が異なる。久しぶりに展望台に上がって来たのか、二人の男は、しばし都の明かりを楽しむように窓に沿って歩くと、春香の隠れている柱のすぐ側で足を止めた。
その二人連れの男の声を聞いて、春香はドキッとした。共に聞き覚えのある声だったのだ。一人はあの薬売り、ギョロ目のラジンで、もう一人は昼食の時にホールに現れた国務大臣のガヤフだ。ラジンの話に、ガヤフが質問を挟みながら耳を傾けている。ラジンの話し方は、部下が上司に報告をするような、それもかなり親密な部下が上司に耳打ちするような話し方だ。そして話に耳を澄ませているうちに、目を見開く。
ラジンが語る話の内容は、晶砂砂漠で行方不明になっていた耐塩性火炎樹の母種、あの銀白色の種の行方と追跡の顛末だったのだ。
それは……、
四カ月ほど前のこと、ゲルバ護国は「新種の火炎樹発見」の件を公表した。
それを知って色めき立ったのは、ドバス低地の国々である。塩分に強い耐塩性の火炎樹があれば、広大なドバス低地の半分以上を占める海寄りの地域の開発が可能になる。ドバス低地の二大国、バドゥーナとゴーダムの両国は、直ちにその種を入手すべく、ゲルバ護国に特使と情報収集のための専門家を派遣した。
バドゥーナ国情報局の主任分析官であるラジンも、その一人だ。もちろんラジンという名は仮の名で、局内での呼称は別にある。任務を受けた時、ラジンは別の用件でユルツ国に出向いていた。あのユカギルの熱井戸の開通式の日、ウィルタやタタン、そして赤毛の八角帽が熱井戸近くの路地ですれ違った男が、このラジンである。
それはそれ……、特使と交渉団の陰で情報収集に当るのがラジンの役目だ。
新種の火炎樹を元に満都復興を目論むゲルバ護国は、全く母種の売却に応じようとしない。交渉が難航するなか、五個あった母種のうちの一個、オアシス・ギボで一般に公開中の母種が盗まれた。ウィルタが巻き込まれた盗難騒動である。
もし盗まれた母種を見つけ出し手に入れれば、ゲルバ護国との交渉は不要になる。
母種の盗難発覚後、バドゥーナ、ゴーダム、アルン・ミラの三国は、直ちに追加の要員を派遣、三国の要員入り乱れての母種探索競争が始まった。
この段階では、母種を盗み出したのは、火炎樹の育苗業を国の基盤産業に持つ、アルン・ミラ国ではないかと見られていた。ゲルバ護国が新種の火炎樹を使って火炎樹の育苗産業に参入することにより、一番影響を受けるのがアルン・ミラ国だからだ。そのため先手を打つ形でアルン・ミラ国が母種を盗み出したと、誰もが考えた。
だがアルン・ミラ国は、それを即座に否定。
おそらくバドゥーナ、ゴーダム、アルン・ミラの三国合わせて、百人以上の要員が、晶砂砂漠内に散っていたはずである。それが半月以上を経過しても、盗まれた母種の行方は杳と知れない。唯一判明したのは、最初にオアシス・ギボの展示場から母種を盗み出したのが、砂漠南縁部に縄張りを持つ場末の盗賊団だったということである。ところが盗み出された母種は、直後に別の一団によって掠め取られ、それ以後、母種の行方は砂上の足跡のように完全に掻き消えてしまった。
そして、ある情報が流れる。
盗まれた母種は、すでに晶砂砂漠から持ち出され、北に運ばれたらしい。母種を盗み出したのは、やはりアルン・ミラ国の手の者で、そのことを隠蔽するために、アルン・ミラ国は、わざと盗まれた母種の探索に要員を派遣。晶砂砂漠に派遣された要員たちの仕事は、実は種を探すことではなく、入手した種を、ゲルバ族や塁京の手の者に見つからないように守り、砂漠の外に持ち出すことだったというのだ。
アルン・ミラ国政府は、この噂を一笑に付したが、真偽のほどは定かではない。
情報はどのようにでも解釈できる。
すでに持ち出されたというのは、実は持ち出しが難航、その困難な状況を打開すべく、巡検隊の監視の目を緩めようとして流された誣言であるかもしれないのだ。
様々な情報が飛び交う。
その頃、ラジンは晶砂砂漠西縁の街道筋にいた。情報は事件事物の中心にいる方が集めやすいが、情勢は距離を取って外側に身を置いた方が掴みやすい。ラジンは砂漠周縁の街道筋に移動し、漏れ出てくる情報に網を張りながら、今回の母種紛失騒動の今後の動向を見極めようとしていた。ところが耳に入ってくるのは、憶測に類するものばかり。情報局の要職にあるラジンが、いつまでも都を離れていることはできない。
種が盗難にあってから十日、ラジンは状況を見守りながら、オーギュギア山脈東の街道を南に下り、塁京への路を辿ることにした。薬売りに扮してである。
諜報活動、昔風に言えば、候人業を営む人間は、旅の商人と紙一重。その代表が薬売りである。売薬という稼業は、人の命に関わる薬を売ることで、閉鎖的な村や人の心の内に入り込むことができる。元々旅の薬売りを本業としていたラジンは、候人としての才を見出されて、バドゥーナ国の情報局に抜擢された。その抜擢した主が、国務大臣のガヤフである。
ラジンは、現在の主任分析官という立場から、ほとんど塁京から外に出ることはない。それでも年に一度一カ月ほどの予定で、現場の視察を兼ねて大陸の各所に赴く。そしてその際には、もちろん一介の薬売りに扮するのだ。
諜石街道から、羚繍街道、いくつかの小街道を経てマカ国の穹鉄道へ。
その穹鉄道で拾った乗り合いの馬橇の中で、ラジンは、火炎樹の殻種を携えた丸眼鏡の商人に出会った。これは長年候人業をやってきたラジンだから気づいたことだが、その商人は偽装用にひげをつけていた。それに顔つきも、口の中に型枠を填めこみ、微妙に変形させている。同業者かと思ったが、話しぶりや知識は商人そのもの。なら一介の商人がなぜ変装をするのか。
丸眼鏡の商人グリビッチは、投宿する度に荷の殻種を箱から取り出し、異常がないか確認、その際、同乗の客たちにウンチクも披露している。崩れかけたあばら屋に宿泊した折には、自分もグリビッチが箱から取り出した殻種を手に取らせてもらった。それは間違いなくアルン・ミラ国の刻印のある殻種だった。
しかし余りに開けっ広げなところが、逆に怪しくもある。変装をしていることも合わせて疑念は募る。丸眼鏡の商人が運んでいる殻種は、一箱六個で都合三十個だが……。
一計を案じることにした。
『街道筋で麻苔が運ばれている』という噂を、部下を使ってマカ国の保衛隊向けに流させる。それも『麻苔が火炎樹の殻種を刳り貫いた中に詰められて……』と。
保衛隊に検問を意図的に作らせ、検問でのグリビッチの反応を見てみようと考えたのだ。
ラジンの意図どおり、突然の検問が設置された。
検問の名目は密輸の銃の摘発となっていたが、それが麻苔の運び屋を油断させるための保衛隊の口上であることは直ぐに分かった。検査官が麻苔捜査専門の犬をしっかり帯同していたからだ。そして荷の検査……、
用心深くグリビッチの様子を観察。が期待に反して、係官が釘づけしてある箱を開けるよう命じても、グリビッチは平然としたままで、箱を開けるためのバールを係官に渡すと、さっさと馬車を下りてしまった。そして係官が任意に選んで開けた箱の中にあったのは、まさしく殻種だった。係官は、グリビッチの素ぶりと、捜査犬が反応しなかったことで、残りの箱には手をつけなかった。だが、おそらくは残りの箱の中身も只の殻種だったろう。検問で本当に密輸の銃が見つかったのはご愛嬌だったが……、
それでもだ、どこかに微妙な違和感が残った。
諜報上、同じ馬車に乗り続けることはない。いつもなら次々と馬車を乗り換え、様々な人の声に耳をそばだてる。それを押して翔蹄号を離れなかったのは、グリビッチの変装が最後まで引っかかったからだ。それに同じ馬車に乗り合わせている二人の子供と長身の男のこともあった。ユルツ国の手配している子供と技師である。
全くの偶然であったが、馬車に同乗して三日目、技師のオバルが、助けた少年にハン博士のことを漏らすのを聞き留めた。ユルツ国が必死で所在を突き止めようとしているハン博士が、塁京のティムシュタット国にいるという。これは一級の情報である。直ぐに本部に連絡、ハン探索のチームを編成させて、部員をティムシュタット国とチェムジュ半島に派遣させるよう手配する。上手くハン博士の身柄を確保できれば、自国が進めているユルツ国との交渉に役立てることができるだろう。
最重要の課題は消えた母種の探索だが、支障を来さない範囲で、ユルツ国がらみの三人と、丸眼鏡の商人の足取りも追う。そう方針を定めたラジンは、港町のバレイで部下と見張りを交代するまで翔蹄号の車輪に身を任せた。
なお子安街道に入ってのち、オバルたち三人とグリビッチが乗り合わせた馬車の後ろには、ラジンの部下が別の馬車で付かず離れず続いていた。
候人業とは、情報収集とその分析を任とする仕事である。それは先入観に惑わされず、冷徹に物事を見極める能力が要求される、ある種の科学だ。ただその科学の果てに本当に必要とされるのは、情報を突き抜けた先のインスピレーション。これは全くの勘に過ぎないが、ラジンには、グリビッチと消失した火炎樹の母種が、どこかで繋がっているのではという予感があった。
そして長杭に到着。
ところが直後にグリビッチを取り逃がしてしまう。ラジンの部下の目の前で、オバルたち三人とグリビッチは裏通りの事務所の二階に上がった。見張りを任せた部下は、まさかグリビッチが、オバルたち三人を閉じ込めたまま火を放つとは、想像もしていなかった。後から検証したところでは、グリビッチは仲間ともども姿を変えて、反対側の通りから出ていったらしい。今にして思えば、口の中に型を入れて顔形を変えていたことからしても、変装して姿をくらませることは大いに考えられることだった。
ボヤで終わったが、建物が二軒、都合五つほど部屋が燃えた。消火に来た長杭の保衛隊員に金を握らせて聞き出したところでは、事務所は半年の契約で借り出されたもので、出火の原因はカンテラの油漏れによる失火。そして燃え尽きたガラクタに混じって、箱に入ったまま黒焦げになった火炎樹の種が見つかったという。
ラジンは野次馬たちから少し距離を取って、現場を眺めながら考えた。
いったいあのグリビッチという商人は何を考えていたのか。遠路はるばる運んだ火炎樹の殻種を、いともあっさりと燃やしてしまった。ほとんど捨てるように。
そうこうするうちに、先ほどの小火騒ぎを不審に思ったのだろう、ゴーダム国の手の者が動き出したという報告が届く。
長杭には相当数のゴーダム国の手の者が配置されている。早晩、ユルツ国が捜索しているオバルたちの存在にも気づく。ラジンは三人の身柄を拘束することにした。手落ちがないようラジン自身が三人の前に姿を現し、臨時の外輪船に誘導。途中でオバルがユルツ国の手の者と遭遇したため、ひと悶着起きたが、最後は滞りなく三人をバドゥーナ国に連行することができた。それもゴーダム国の連中に気づかれずにだ。
昨夜盤都に戻る警邏艇の中で、ラジンは今回の出張の報告書をまとめた。
タイプを打ちながら気になったのは、やはりあの丸眼鏡の商人、グリビッチのことである。どうにも腑に落ちなかった。なぜ運んだ殻種を捨てるように燃やしたのか。種を燃やすこと自体はよくある。この大陸で流通する火炎樹の殻種には、生産地ごとに地域印と生産番号が一個一個刻印されており、通し番号を照合すれば、扱った業者や流通経路は直ぐに判明する。それは取りも直さず、殻種が盗品であれば足が付くということだ。だから裏の業界では、刻印を消すために火炎樹を燃やす。鉱物質の内果皮を持つ殻種は、燃やしても内部の胚珠は死なず、刻印を押した外皮の部分だけが炭化して灰となる。
ただ燃やしてしまえば、その殻種は盗品として、通常の二割ほどの値しかつかない。もし入手した種が正規の物であれば、それを燃やしてしまうようなことをする者はいない。殻種とはいえ、アルン・ミラ産の良質の殻種は、塁京の国々で生産される殻種よりも、品質、つまり成樹になった時の樹液生産量で勝っているため、火炎樹の農園開発がほぼ終了した今でも、高額で取り引きされている。
遠路はるばる運んできたアルン・ミラ産の殻種を燃やしてしまう。捨てるようにだ。
これが何を意味するのか。種が必要なくなったということなのか。
ゲルバ護国に残って情報収集を続けている部下からの報告では、紛失した耐塩性火炎樹の母種は、依然行方知れずで、手がかり一つ見つかってない。またアルン・ミラ国も未だ母種を入手していないとのこと。
今のところ、報告書には「母種は行方不明」と書くしかないだろう。
警邏艇の中で報告書を書き終え、最後、追記事項に、あのマカ国のキャバでの検問のことを書き留めている時、あることに意識が反応した。こちらが仕かけた検問ではあったが、あの銃の密輸騒動の現場にいた不審な幌馬車は、明らかに官権の注意を逸らすための囮だった……、
囮……、丸眼鏡のグリビッチという商人が、囮であった可能性はないだろうか。馬車に揺られていた時には、考えもしなかったことだが。
これ見よがしの種の入った箱に、それらしい変装。場末の倉庫に、目つきの悪い仲間たち。何か、いかがわしい物や事が行われていそうだと思わせるに足る道具立てだ。髭や口の中の儀装も、素人は気づかず、その道のプロが気づくであろう程度の変装である。
それが意図されたものだとしたら。
同じ翔蹄号に乗っていた兜目の坊商の顔が浮かぶ。時間つぶしに、グリビッチと馬将譜を差していた坊商の男。運んでいた二個の泡壺のうち、一つを割って、いかにも残念といった顔で、ブツブツと経か愚痴か分からない文句を唱えていた。割れた泡壺を買い取ってくれる場がどこかにないかと、グリビッチに泣きついていた……。
泡壺は蓋を空けてしまえば、二度と使いものにならない。だから誰も端から蓋を空けろとは言わない。あのもう一つの割れていない方の泡壺、あれが本当に泡壺だったのか。あの壺は、ちょうどラグビーボールサイズの火炎樹の母種を入れるのに好適のサイズだ。もしあの壺の中に……、
今回の晶砂沙漠での新種の火炎樹騒動のことを知っている者なら、まず殻種を運んでいる丸眼鏡の商人に注目する。扱っているのは、アルン・ミラの公印のある殻種だと言うものの、男はいかにもプロっぽい変装をしているのだ。疑いは丸眼鏡の商人に注がれ、泡壺を割って陰気に経を唱える坊商などには向かわない。丸眼鏡は最後まで殻種を運ぶ演技をして、最後に姿をくらませる。盗品である殻種の刻印を消すために、失火を装い貸し事務所ごと殻種を灰にしてしまってだ。
もちろん、今となっては何の確証もない。しかし……、
そしてバドゥーナ国に戻って翌日、つまり今日、ラジンの元に新たな情報が届いた。
情報局の部員がある噂を聞きつけてきた。
ドバス低地で武器や密輸品などの売買を行っている裏稼業の一味が、新種の火炎樹、その母種を手に入れたという噂である。母種は晶砂砂漠のゲルバ護国から持ち出された種で、噂の出所は特定できないが、近い内にその母種が売りに出されるという。
噂の流れたタイミングといい、もしその噂が本当なら、十中八九あの丸眼鏡のグリビッチと兜目の坊商が、母種をこの地に持ち込んだに違いない。母種を自分たちの手元に運び終えるのを待って、大々的に噂を流す。もちろん自分たちでだ。
流れた噂は、噂ではない。これは母種売り出しの予告、宣伝だ。
そして宣伝を流すということは、母種が絶対に安全なところにあるということだろう。
報告書には載せなかったが、その一連の事情を、ラジンは上司のガヤフに口頭で説明した。ガヤフは一通り話に耳を傾けると、肩を揺すって笑った。
「腐った固乳に群がる豚虫のように、この低地には裏稼業に手を染める輩が集まっている。しかし、どういう連中だろうな、バドゥーナにゴーダム、おまけにアルン・ミラの情報部員が入り乱れて屯ろしている中を、出し抜いて種を掠め取るとは」
「大手の裏稼業集団、五つくらいに絞られると思いますが」
「まあ、母種がアルン・ミラに渡らず、塁京に来たのだ。その点に関しては、裏稼業の連中に感謝しなくてはならんだろう」
「大臣、それは、最終的に母種がゴーダム国でなく、我が国に来たらの話でしょう」
「もちろんだ」と語気を強めて言うと、ガヤフはそれでもと軽くため息をついた。
「しかし、お前がその坊商に気づいていれば、濡手に粟だったかもしれんとなると、さすがに口惜しいな。まあ世の中に、楽な商売はないということだ。もし本当に母種が売りに出されれば、アルン・ミラ国を入れた三国での争奪戦が、ゴーダム国との一騎打ちに変わるという事だからな」
腕組みをしたまま、大臣のガヤフは外の夜景に目を向けた。
二つの都を隔てる暗い川面の先に、隣国の濠都ゴルの青白い夜景が広がっている。川を挟んで向かい合うゴーダム国とバドゥーナ国だが、兄弟国と言われるものの、政治、文化、習慣、すべてに渡って様々な違いがある。夜の照明の色もその一つだ。
しばらくの間、二人は小声で何か話し合っていた。断片的に聞こえてきたことを繋ぎ合わせて分かったことは、大量の避難民の流入で、ドバス低地の国々の財政が圧迫されているということ。その避難民の流入がきっかけとなって、塁京の国々が二分され、抜き差しならない事態に陥ろうとしているということだ。
昼間、迎賓館の窓から見えた大砲を乗せた自走車や、塁壁の上の銃を持った衛士らしき人の姿に、もしやとは思っていた。でも一見した限りでは平穏そのもの、そんな緊迫感など微塵も感じられない。しかしいつの時代も、お伽話のような豪勢な暮らしのすぐ外に貧民街が広がっているということはある。ここも一歩都の塁壁の外に出れば、まったく違う世界が広がっているのかもしれない。
隣国の明かりを遠望しながら、再び国務大臣のガヤフがラジンに問う。
「ところで、外務の連中が行っているユルツ国との兵器購入の交渉、進み具合はどうだ」
「それは私ではなく、直接、外務の者に聞いていただいた方が……」
「分かっておる、しかし外務の官僚たちは、交渉が上手く行った時にしか報告を寄越さん。あれでは非常時には役に立たん。情報局なら、交渉の進捗具合も把握しておるだろう」
この時代、兵器といわれる物は小型の火器が中心で、古代の鉄の塊のような大口径の砲車や砲船、あるいは銃器を装備した飛行機の類などはない。もちろんコンピューター制御の自立飛行マシーンや、目に見えないナノサイズの兵器もだ。
最も広く行き渡っているのが、満都時代に普及した家畜の牽引で移動する山砲で、大型のものでも射程距離十キロ前後の榴弾砲止まり。その貧弱な砲塔類に代わって、爆薬の類は炭鉱の採掘などで使われるために、質量ともにかなり豊富である。
国家規模の戦闘が絶えて久しかった。国家が覇権を競うほどの、まとまった富が失われていることが大きな理由だが、そのために産業としての兵器造りは衰退していた。実際にまとまった兵器を集めるとなると、それは大陸の各地から、中古の銃器や砲を、かき集めるということになる。
あまり何でも聞かれても困るというように、ラジンは懐から手帳を出すと、これ見よがしにパラパラとめくった。
「分かりました、それでは差し出がましいようですが報告します。外務の交渉団はかなり手こずっている様子。一般の銃火器に関しては目標の半分、例の古代兵器にいたっては、ほとんど白紙の状態でしょう。対価の問題よりも、ユルツ国が武器の売り渡しと引き換えに、移民の受け入れ枠の大幅な増加を要求していることが原因です」
ガヤフが、フムと顎を一撫でした。
「避難民としてならともかく、市民待遇の移民は、もうこれ以上は議会が良しとしないだろう、難しいところだな」
「交渉団は、大幅な金額の上乗せと、食料、燃料の将来十年に渡る安定供給で何とかまとめたいと考えているようです。ただそれでも無理な場合は……、これは当方の母種の入手が前提ですが、ドバス低地下流域の共同開発に参画を要請するという案を提示する腹積もりのようです」
「入植したければ、武器を寄越せというわけだ」
「ただ、それでも古代兵器に関しては難しいのでは、というのが私の感想です。なにしろ門外不出の機密に当たる兵器ですので」
「やはりそうか……」
しばし沈黙すると、ガヤフが唐突に話題を変えた。
「それで、例の件への先方の反応はどうだった」
とっさにラジンが周囲を窺った。
「大臣、声が大きいようで、ユルツ側の統首の考えは、昨日お渡しした書簡に……」
「ああ、婉曲な表現を使ってはいたが、いざという時は呑んでくれそうだな」
「ええ、相当に微妙な話ですので……」
小声になった二人は、しばらくの間、顔を寄せて話を交わしていたが、やがてガヤフが腕の時計に目をやり、大きな声を出した。
「おっ、いかん、会議の時間だ。全く形だけの会議をだらだらとやりたがる手合いが多すぎる、決断力のなさの見本だ」
言って踵を返そうとしたガヤフに、ラジンが思い出したように付け加えた。
「大臣、一つ、ユルツ国に関わることで、報告し忘れていたことがあります」
「何だ?」
「大臣もご存じのように、ユルツ国では、いま国の存亡をかけた事業が進行中。その鍵となる人物が行方不明で、ユルツ国の情報局は血眼になってその人物を探しています」
「聞いた、十年前の惨事の後失踪した、ファロス計画の責任者だな」
「その男、ハン博士といいますが、その男がどうやら塁京に潜んでいるらしいのです。具体的にはティムシュタット国です」
大臣のガヤフは、時間を気にしながらも興味を覚えたのか、歩きかけた足を止めると、話の先を促すようにラジンを見すえた。
「情報を入手したのが一週間前、直ちに手の者を差し向けて、探索に当たっています」
「発見の可能性は?」
「当人はまだですが、三年前にその男が出入りしていた宿までは、突き止めることができました。それに、ハン博士と同時に、ユルツ国が懸賞金を懸けて探している博士の息子は、すでに当方で身柄を確保。明日到着するユルツ国の交渉団に引き渡す予定で、この後、ハン博士も発見できれば、兵器購入の熨斗程度には使えましょう」
「ああ、迎賓館に閉じ込めてある子供だな。昼間、別用で足を運んだ折に会ってきた。親の方が見つかれば、熨斗よりは有効に使えるだろう。探索は継続しろ、朗報を期待している。それから、今回のユルツ国の統首との橋渡し、ご苦労だった」
「ありがとうございます。しかし大臣、できれば例の案は、外務の者には伏せたままに」
「当然だ、早々と切り札を与えたのでは、外務の連中を甘やかすことになる。火炎樹の肥やしされたくなければ、外務のやつらも必死に食い下がるだろう。とにかく、最後の手立てに目処が立ったことはいいことだ」
展望が見えたのだろう、ガヤフは最後、豪快に口を開けて笑った。
次話「シミュレーター」




