ガラス室
ガラス室
春香は部屋の前の廊下を右に進んだ。左に進めばホールに降りる階段がある。もう一度あのガラス室を見たい気持ちもあったが、それよりも迎賓館の全体がどうなっているか、それを知りたい気持ちのほうが勝っていた。
突き当たりまで行くと小さな踊り場、そして階段がある。
と脇の柱の影から、給仕姿の男がさっと体を寄せてきた。
「ここより先には、お通ししないよう、言づかっております」
話し方はていねいだが、目に威圧するような光が宿っている。
「そうなの、じゃあ仕方ないわね」
春香はあっさり引き下がると、廊下を元の方向に戻った。
男の鋭い視線が、自分の背中に注がれているのが分かる。もう一度部屋の前に戻り、今度は左に進んで階段を上へ。と途中の踊り場に、やはり給仕姿の男が立っていた。
「分かってるわよ、ここから先へは行っちゃダメなんでしょ」
先手を打って春香は自分の方から話しかけると、ハイハイと言いながらクルリと向きを変えて、そのまま階段を下へ。ホールの前には誰もいなかった。
入口の観音扉を押すと、絨毯の擦れる音とともに扉は開いた。しかし照明が消され、分厚いカーテンの引かれたホールの中は、いかにも暗い。奥の調理場も静まり返っている。
午後の休憩時間だろうか。
人気のないことを確かめると、春香はホールに体を滑りこませた。薄暗い室内にテーブルと椅子だけが並ぶ様子は、まるで放課後の教室にでも忍びこんだようだ。ガラス室を覗いてみようと、春香が緞帳のようなカーテンに歩み寄る、と何かが聞こえた。
かすかな音だが春香にとっては懐かしい響き、ピアノの音だ。
音はガラス室の中で鳴っている。
しのび足でカーテンに体を寄せると、春香は、ずっしりと重いカーテンの裾を持ち上げ、ガラスとの間の狭い空間にもぐりこんだ。
食事の時よりも時間が過ぎた分、緑を梳かすように日が斜めに差し込んでいる。
ガラスに押し当てた耳に、確かにその音、ピアノの音が聞こえた。途中でつまって弾き直している。音盤の再生音ではない、誰かがガラス室の中でピアノを弾いている。
どこだろうと木々の間に目を凝らすが、小さな庭園ほどもあるガラス室の中は、疎林とはいえ、木々が重なりあって見通しが悪い。ガラス室の奥に、煉瓦積みの壁のようなものが見えた。あそこだろうか。春香は音の方向に視線を合わせたまま、ガラスとカーテンの間をカニのように横向きに歩きだした。ガラス窓六枚分横に移動、例の緑の果実の木が目の前に。さらに歩を進める。林の右手、木立の上に、釣鐘状の屋根が突き出ている。音はあの辺りからだ。東屋でもあるのだろうか。
もう少し何か見えないかと背伸びをするが、手前の木が邪魔で分からない。
と、ふいにピアノの音が止んだ。
どうしたのだろうと動きを止めて、様子をうかがう。
すると釣鐘型の屋根とは逆の方向、手前の灌木がガサリと揺れ、ピンク色のものが現れた。ピンクと感じたのは、姿を見せた自分と同じくらいの背丈の女の子が、全身ピンク、それも蛍光の入ったような派手なピンク色の衣装や飾り物を身に付けていたからだ。ピンクの徳利のセーターに、ピンクのズボン、ピンク縞の靴下に、ピンクの靴、まくり上げた袖の下に覗く腕には、ピンクの腕輪を填め、ネズミの耳のような天然パーマのぼんぼり髪には、これまた大きなピンクの花柄のリボンを結んでいる。
そのピンクピンクの少女が、両腕を腰に当ててガラス越しに春香を睨んだ。
ファッションの色に気を取られていたが、改めて見る、と少女は春香よりも褐色の強い土漠色の肌をしている。ピンクが不似合いな気の強そうな太い眉と、眉の下の二重の大きな黒い瞳が、真っ直ぐに春香を見すえていた。
突然のことで、どうしていいのか分からず、春香はとりあえずニコッと笑ってみた。
一瞬ムッとした表情を顔に浮かべた少女が、人差し指を右に向けた。なんと指の爪が、これまたピンクに塗られている。
拳をガラスに打ちつけ、ピンクの少女が窓に沿って歩き始めた。
慌ててガラスとカーテンの間を、少女を追いかけ横走りに駆ける。途中ドアがあったが、そこは素通り。きっと鍵が掛かっているのだ。
ピンクの少女は、せかせかとホールの端に歩み寄ると、ガラスの下を靴先で叩いた。割れたガラスの穴が半透明の板で塞いである。そこから出入りできるというのだ。板を横にずらすと、ちょうど子供が通り抜けのできる隙間が空いた。
「突っ立ってないで、こっちに来たら」
よく響く張りのある声が届いた。上から見下ろすような喋り方にカチンときたが、春香は音の正体がピアノであることを確かめたかったので、素直なふりをして答えた。
「ホールにいたら、なにか綺麗な音が聞こえるなって思って、だから……」
春香の返事が終わらないうちに、ピンクの少女が、ピンクのリボンをブルンと振ると、「まあいいわ、こっちへ来て」と歩きだした。
春香は急いでガラスの穴を潜り抜けると、ピンクの少女に続いた。
ホールからでは見えなかったが、ガラス室に入ると、赤い煉瓦を敷いた散策路が整備されていた。茂みの間を縫う散策路に沿って、子供の腰ほどの高さの石柱が据えてある。先端に銅製の鳥の飾り物を付けた石柱で、鳥は小鳥、どれも動きのある瞬間を捉えたリアルなものだ。今まさに枝に止まろうとしているもの、空中でひらりと体を反転したもの、胸を反らせて囀っているもの、などなど。
小首を傾げた小鳥の飾りを乗せた石柱の前で、春香は足を止めた。
ピンクの少女が振り返った。
「何してる、来ないの」
手招きをするピンクの少女に「いい香り、これ森の匂いだわ」と言って、春香が懐かしそうに深呼吸をした。何度も胸を上下させている春香を見て、「この匂いが好きなら、立ち止まってなくてさっさと歩きな、匂いの元はこっち」と気ぜわしげに言って、ピンクの少女が、またスタスタと歩きだした。
赤い煉瓦の道をたどる。まるで童話の主人公にでもなったようだ。
鉄柵で囲まれた中に先ほどの香りの源、木があった。
大人数人が手を繋いでも届きそうにないほどの太い幹が、地面に突き刺さるように生えている。ただ幹は途中で裂け、外側の皮も剥げて枯れ落ちている。ただ木の裏側に回ると、地際から春香の足ほどの太さの枝が数本、朽ち木の高さを追い越すほどに伸びて、円錐形の茂みを作っていた。心地良い香りは、その茂みからだった。
もう木の名前は忘れてしまったが、母さんと山に行った時、ある高さまで登ると、突然山道が木から流れ出る香気で包まれたことがあった。辺りは一面針葉樹の林で、立ちこめた香りを胸一杯に吸い込むと、体が内側から透明になっていくような、なんとも心地良い気分になったのを思い出す。
葉っぱを揉むと香りが立つのを思い出し、春香が目の前の葉に手を伸ばす。
ピシャッと、ピンクの少女が春香の手を打った。
「貴重な木よ、みだりに触るもんじゃないわ。ガラス室に入るのだって、一般の人には許されてないんだから。見ることができただけでも、感謝すべきなの」
頭ごなしに言われて、まぶたがピクピクと反応するが、それでも辺りに漂う芳しい香気に、春香はニコッとほほえむと、視線を香木の横、煉瓦道の先に向けた。
緑に囲まれた階段状のテラスに、釣鐘状の屋根を乗せた東屋がある。その柱だけの小屋の中央に、懐かしい楽器が置かれていた。ピアノだ。
ピンクの少女は、ついて来なとばかりに煉瓦道からテラスの階段を駆け下りると、東屋の前に並べられたテーブルに春香を誘った。
椅子を指して「座って」と命じると、腕組みをして春香の顔を覗きこむ。春香が挨拶をしようとすると、先んずるように、ピンクの少女が「フン」と鼻を鳴らした。
「迎賓館に囚われの身のお姫さまがいるって聞いたから、どんなお姫さまがって興味が涌いたんだけど、なんだ、ただの女の子じゃない。着ている物だってダサイし、顔だって田舎臭くて、日焼けして真っ黒。それとも、あなたはそのお姫様の下女なの」
さすがに下女と言われ、先ほどからの横柄な口ぶりに腹を立てていた春香は、目の前の少女をキッと睨み返すと、まくし立てるように言い返した。
「あなたがどう誤解しようと、わたしの知ったことではないけど、わたし、自分がお姫さまだなんて言った覚えは、これっぽっちもありませんから。それに、わたしの肌が黒いのは、何カ月も旅をしてきたからで、あなただって苦労して旅をすれば、その元々の焦げたような茶色の肌が、きっと煤のようになってよ。それに、人と人が会ったら、相手がどんな人であろうと、まずはその人に敬意を表して、友好を深めようとするもんだわ。わたし、ピアノの音が聞こえたから、いったいどんな人が弾いているか凄く興味があったの。だって音楽を嗜むということは、知性と教養の証だもの。それがこの地では、下品で野蛮の代名詞みたいね」
眉を吊り上げ一息に言い切った。「下品で野蛮」という言葉を口にする時は、一瞬ためらったが、中途半端なことを言うよりはと思って、勢いで目の前の少女に言葉を投げつけた。
そして、相手を蹴飛ばすように、フンと顔を横に向けた。
気配で少女の顔色が変わったのが分かった。
いい気味だと心のなかで舌を出す。チラッと横目で見ると、ピンクピンクの少女は、肌を赤らめ唇を震わせている。
ピンクの少女が、怪獣が火でも吐き出すように叫んだ。
「囚われの身って聞いたから、ピーノの演奏を聞かせて、慰めてあげようと思ったのに。どうせ音楽なんか、これっぽちも分からない田舎の山牛じゃない、聞かせるだけ無駄ってもんね」
売り言葉に買い言葉である。
山牛と言われて、春香も自分の頬に朱が差すのが分かった。
こっちだって保育園から小学五年生までは、毎日四時間たっぷり、遊びたいのを我慢して楽器に向わされたのだ。音楽好きの母さんのおかげで、小学生のくせにライブハウスにも出入りしていたし、古典のコテコテの演奏会だって定期的に足を運んでた。こんな幼稚園児のような演奏しかできない娘に、とやかく言われる筋合いはなかった。
鼻を鳴らすと、剣のある声で言い返す。
「あら、もしかして、さっき弾いていたのが演奏なの、わたしは犬が鍵盤の上を走り回っているのかと思ったわ」
相手の腕に填めたピンクの腕輪がブルブルと震え始める。
それを見て春香は、ざまあみろと心の中で舌を出した。喧嘩は興奮した方が負けだ。なんでもおっしゃりたかったら聞いてあげるわよと、耳に手を添え少女に突き出す。
ピンクの少女が腕をつっぱり、椅子から立ち上がった。
「よくも人の演奏を。こんな侮辱的な発言を聞かされたの、生まれて初めてだわ。わたしはこれでも、今年の演奏会で優秀賞を貰ったんだから。あんたなんか父さんに頼んで、縛り首にして、火炎樹の肥やしにしてやるから」
叫ぶように少女がそう言った時、脇の茂みが揺れて、背筋の伸びた長身の男が姿を見せた。白土肌の年配の男性で、腕貫を手首に巻き、腰にはハサミの入った道具入れを吊っている。姿格好からして園丁だろう。その長身の男性が、ピンクの少女の前に立つと、諌めるように話しかけた。
「これは、ジャーバラ様、大臣のお嬢様ともあろうものが、そのような暴力的な言葉を口にするものではありませんな」
「だって、ホロ、この小娘が」
ジャーバラと呼ばれたピンクの少女が、棘のある目を春香に突き刺す。
園丁の男性は、ピンク三昧に着飾った少女の指をやんわり押し下げると、春香の方に向き直った。植物を相手にしているからだろうか、穏やかな眼差しである。
「まあ、そちらのお嬢さんも、ちゃんとジャーバラ様の演奏を聞いたのではありますまい。たとえ聞いたにしても、そのようなものの言い方は感心しませんな」
「ふん、音楽なんか解かりもしない田舎娘のくせに」
園丁の背中の陰から、ジャーバラが吼えた。
髪を振り乱さんばかりの形相の少女に、思い切り舌を突き出すと、「解かるわよ、ピアノくらい誰にだって弾けるわ」と、春香もやり返す。
「ピーノくらいですって」
楽器をばかにされたと思ったのだろう、もう後に引けないとばかりに、ジャーバラが園丁を押しのけ、春香に詰め寄った。
「そこまで言うなら、弾いてもらいましょうよ。ええ、ぜひ、聞かせてもらいたいわ、もし弾けなかったら、大嘘つきの罪で、火炎樹の肥やしにしてやるから。この国で偽証罪は、禁固二十年の大罪なんだから」
伸しかかるように言われて、春香のなかに不安がもたげた。
確かに四歳から十一歳までは、みっちり楽器の練習をやった。ここではピーノと呼ぶらしい楽器や、いくつかの他の楽器もだ。でもその後は訳あって、自分は楽器の演奏から離れた。だから……、
「あ、でも……」
弱気な表情を見せた春香に、ジャーバラが勝ち誇ったように手を叩いた。
「でもなによ、ふんやっぱり弾けないんじゃない。この大嘘つき、禁固十年は確実ね」
「違うわ」
「なにが違うのよ」
園丁のホロが、慌てて二人の間に割って入った。
「そこのお嬢さん、もしピーノをお弾きになるのなら、この園丁にも、ぜひお聞かせ願いたい。いつもジャーバラ様の演奏ばかり聞いていたので、たまには違った曲を……」
電線にでも触れたように、ピンクのリボンがブルンと撥ねた。
「ホロ、ばかりとはなによ。侮辱罪で、お父さまに言って火炎樹の肥やしに」
「弾きます!」
二人の横で、春香が姿勢を正して宣言した。
「けど……」
「けどなによ、できないならできないって謝れば、火炎樹の肥やしにするのは止めにしてあげてよ、わたしは情け深いんだから」
勝ち誇ったように自分を見下す少女から、春香は曖昧に目を逸らすと、
「ずーっと、弾いてなかったから……、いえ、それより、わたしの弾き方は少し変わっているかもしれないけど、気にしないで聞いてほしいの」
「ふん、往生際の悪いこと、前置きはいいから、弾けるものがあるなら、何でも弾いてみなさいよ」
勝利を確信して鼻高々のピンク娘を無視、春香は立ち上がると、ピアノに歩み寄った。八畳ほどの広さの堂の中央に、昔でいうアップライト風のピアノが、ポツンと置かれている。鍵盤の蓋は開いたままだ。懐かしい白と黒の二色の鍵盤が目の前にある。ペダルも三つで、わたしの使っていたのと同じ。ジャーバラ嬢に合わせているのだろう、椅子も春香にちょうどいい高さだ。
二千年ぶりのピアノで、さすがに指が震える。
果たして指が動いてくれるだろうか。いや、そのことよりも……、
春香が楽器の演奏から離れたのには理由がある。
小学五年生の夏のこと、春香は酷い夏風邪をひいて高熱を出した。
病後、熱の後遺症か、耳に異変が現れた。難聴の一種らしい症状の特徴は、ある音域の音が聞こえないということだ。聞き取れなくなったのは、周波数にして四百四十ヘルツ辺り、音階で言えば『ラ』の音。病気による一過性のものであって欲しいと願いつつ、ひと月、息を潜めて耳の回復を待つ。ところが、一向に四百四十ヘルツの『ラ』の音は戻ってこない。
声を出して歌う時は、自分がその高さの音を出しているという実感があるし、直接頭の中に伝わる音があるので、なんとなく『ラ』の音を感じることができる。ところが、楽器の音の場合は、音が出ているかどうかが分からない。それに和音などは全く別の響きになってしまう。
二カ月が経ち、三カ月が過ぎても、『ラ』の音は戻らない。自分は体から芯が抜けたような、虚脱状態に陥ってしまった。何もできない日々が続いた。
結局音は戻らず、自分は『ラ』の音を失ってしまった。昔の耳の聞こえなくなった大作曲家は、ピアノの上に顎を乗せて、伝わってくる骨音でピアノの振動を感じながら作曲を続けたという。でも……、将来は音楽を仕事にできればと思っていた自分にとっては、目の前が真っ暗になるような衝撃だった。
そして、追討ちを掛けるように、今度は『レ』の音が聞こえ難くなってきた。
ショックどころではない。いずれ音という音、レの次はミ、ミの次はドと、次々と音が消えて、音という音が聴こえなくなってしまうのではないか。恐怖が襲う。とても楽器どころではなかった。
気がつくと、自分は楽器だけでなく、音の出る道具や機械から距離を取っていた。
正直、見るのも怖かった。やがて半年が経ち、レの高さの音は、完全に聞こえなくなる前の段階で、何とか踏み留まってくれた。ただその頃には、自分は楽器に触れることも、音楽を聴くことも止めてしまっていた。
そして六年生に。
自分は完全に音楽から離れた暮らしをしていた。学校の音楽の授業は、理由をつけて休むことが多くなった。父親がこのままではいけないと思ったのか、スポーツと絵を勧めてくれた。でも生来、運動神経が鈍く、指先も無器用な自分には、スポーツも絵も縁遠いものだ。何もやる気が起きず、部屋にこもって毎日をやり過ごす日々が続く。
そして、小学生最後の夏休み。
わたしは母の郷里の南の島を訪問した。両親は帰らず一人での帰郷だ。母から事情を聞いていた祖母は、気落ちして無気力になっている孫娘を見て、酷く心配したようだ。体を動かせば気も紛れるだろうと、自分をあちこちと連れまわす。そして帰郷して数日後、祖母は尻込みをするわたしを、島の踊りの会に引っ張っていった。
踊りの輪に参加せず、夕刻の海風に吹かれながら、自分は島の人たちが踊る姿をぼんやりと眺めていた。そして、あることに気づいた。
自分が何の違和感もなく、踊りの伴奏の音を聞いているということに。
なぜ違和感がなかったのか。踊りの伴奏が、ちょうど自分の聴き取れない音域の音を抜いた演奏だったのだ。三歳で初めて楽器を手にして以来、様々な曲を弾き、世界には様々な音階の音楽があるということを知っていたはずなのに、自分はそのことすっかり忘れていた。母の郷里の島の歌を聞いていて、そのことに気づかされた。
ラの音が無くとも、音楽はできる。ラ抜きの音階の曲を弾けばいいのだ。もし和音の響きが歪に感じるなら、メロディーだけを弾けばいい。よしんばメロディーがだめなら、リズムを楽しめばいい。たとえ次々と音が失われていっても、一音でも何か聞き取れるなら、それで音を楽しむことはできる。
目の覚める想いだった。
祖母の島から都会の家に帰って、わたしはまた楽器に向かった。
聞こえない音は仕方ない。無理をして弾いても音楽にはならない。いま聞こえる音で、音を楽しむ。それが自分に与えられた音を楽しむ音楽の条件だ。
晶砂砂漠の砂掘り職人の部落で、手灯の少女の歌に伴奏を入れようとして、上手く弾けなかった。金属バネの弦が欠けていたせいではない。ザビの歌が普通のラ入りの曲だったのだ。わたしが弾くことのできるのは、『ラ』の無い音楽。
目の前に、二千年振りの鍵盤がある。その『ラ』の無い曲を……。
ゆっくりと鍵盤に指を落とす。そし指を運ぶ。
ミの音が鳴る。硬質の弦を小さなハンマーで叩く音だ。そして『ファ』の音……、ゆっくりと音を繋げていく。
自分は『ラ』を失った。レは半分くらい。レは音が小さく、ノッポの人の間に立った小人のよう。部分音を失ったことで、自分の音に対する関わりが、決定的に変わってしまったように思う。
それがどういうことなのかは、未だに自分でも、はっきりしないけれど……。
六年生の冬に、またピアノに触れるようになった時、教えてもらう先生も代わった。ピアノの先生というよりも、音の先生といった方が良い初老の男性で、その先生は音の大きさにとても拘わる先生だった。
音というものは、ガラスのようにとても壊れやすいものだから、そーっと、そっと、一音一音大切に扱いなさいと、口癖のように言っていた。今の時代は大きな音がとても力を持っている。電子楽器なら指先で軽く触れるだけで、人を弾き飛ばすほどの音が出てしまう。でもそれは音で空間を満たしているだけ。空間を音で満たせば、聞いている人は嫌でもその音を聞く、聞かなければならない。でもそれは、音さえ大きくすれば誰にでもできること。暴力的に音を食べさせるようなものだ。大切なのは、音を相手の心に届けること。聞いてくれる人の胸のなかに、響かせることだよ、と。
空間に音を響かせようとしないで、先生の心に音を届けるようにして弾いてみて、それも大きな音を使わずに、出来るだけ小さな音でささやくように……。そう言って先生は目を閉じ、春香の出す音の手紙が届くのを待つように、微笑むのだった。
さっき、ジャーバラという少女が弾くピーノという楽器の音を聞いて、この楽器が自分のいた時代のピアノと少し違うことに気づいた。弦やそれを叩くハンマーの材質が違っているのかもしれない。それにもう一つ。このピーノという楽器は、ジャーバラ嬢がするように叩き付けるのではなく、そっと音を届けるように弾くのにぴったしの楽器だということ。そうする方がこの楽器は喜んでくれる。
そう思って、二千年前の、それも『ラ音』抜きの曲を、一音一音紡いでいく。
静かに弾いて、そしてゆっくりと最後の音を閉じる。手紙に封をするように……。
一曲弾き終えて、春香は両手を鍵盤から下ろした。そして振り返った。
すぐ後ろに、太い眉を微動だにせず春香を見ているピンク三昧の少女がいた。怒ったような顔で春香を睨んでいる。しかし何も言わない。
春香は「お粗末さま」と言う訳にもいかず、何となく視線を足元に落とした。
その微妙な空気を察知したのか、後ろに控えていた長身の園丁が口を開いた。
「あっ……、わたくしは、音楽のことは良く分かりませんが、昔、座学で人の体の半分以上が水でできていると聞いたことがあります。人は歩く水瓶だと。その水瓶に音が満ちて、静かに周りに溢れていくような、そんな心地良さがありましたです」
園丁の言葉を追いかけるように、ジャーバラが強ばった顔の筋肉を緩めた。
「音楽は人を説得するためにあるんじゃない、そういうことなのよね」
ジャーバラ嬢は肩から力を抜くと、そっと両手を合わせるように手を叩いた。ピンクに塗られた爪が合わさり、また離れる。空気を手の平にゆっくりと包み込むような手の叩き方が、春香の演奏に相応しいとでも言うように。
「ありがとう、自分の知らない場所に扉が隠されていたのを、教えてもらったような気がするわ。わたしには向かない演奏だけど、でもあなたの出した音の方が、ピーノは喜びそうね。それ、とても悔しいことだけど……」
ジャーバラというピンクピンクの娘が、春香に向かって微笑んだ。
春香も、はにかむように微笑み返した。
翌日の午後、同じようにガラス室の東屋、禽鳴舎で会う約束をして、春香とジャーバラは別れた。部屋に戻ると、ウィルタが気持ち悪そうにベッドに横になっていた。
「春香ちゃんお帰り、遅かったね、何をしてたの」
「それよりどうしたの、具合でも悪いの」
脇に立って上から覗きこむ春香に、薄目を開けたウィルタが情けない声を吐いた。
「うん、気持ち良過ぎて、何度もお湯に浸かってたら、吐き気がしてきて……」
「それ、湯当たりって言うのよ、寝ていれば良くなるから、水飲む?」
春香はベッド脇の小卓から空のコップを取り上げると、洗面所に行った。水道があって、その水が飲める、それは物凄く便利なことだ。ベッドの横に戻り、ウィルタにコップを差し出しながら、「オバルさんは」と聞く。
「さあ、お昼を食べてからは、なんにも……、部屋にいるんじゃないかな」
水を二杯立て続けに飲み乾すと、ウィルタは倒れるようにベッドに横になった。ウィルタがまだ気持ち悪そうにしているのを見て、春香はウィルタに話しかけるのを止め、オバルの様子を見るために部屋を出た。
春香が廊下に出て向かいの部屋をノックすると、果たして奥から力のない声が返ってきた。ドアを開けて中に入ると、オバルがベッドに横になっていた。昼の食事を食べ過ぎたせいで、あれから腹の具合が思わしくないという。
春香はやれやれと、ベッドから足を食み出させたオバルの長い体を見やった。
「わかったわ、メイドさんを探して、薬をもらってきてあげる」
「よろしく頼む、お姫様」
「本当に、男たちったら、だらしがないんだから」
部屋の電気を消して、ドアを閉める。
うまい具合に、通路の先に前掛け姿のメイドが見えたので、捉まえてオバルとウィルタの状態を説明。薬の手配と、二人の夕食は消化の良いものを部屋に届けて貰えるよう、お願いする。そうしておいて、春香は自分の部屋に戻り、ベッドにゴロンと横になった。
横ではウィルタが軽い寝息をたてている。この調子なら、一眠りすれば湯当たりは回復するだろう。
ウィルタの寝息を聞いているうちに、いつしか春香もウトウトと寝入ってしまった。
ドアをノックする音で目を覚ました時、窓の外はもう暗くなっていた。
少し間を置いて、またノックの音。
春香はヒョイとベッドから跳ね起きると、入り口のドアに走った。気配で分かったのだろう、ドアの向こうから「お託けを、持ってまいりました」という声が聞こえた。
お託け……、何だろうと思いながら、春香は、その声が夕方薬を頼んだメイドの声だと気づいて、直ぐにドアを開けた。
ドアの外では、メイドが布地のような物を捧げ持つようにして立っていた。
「お託け?」と、小首を傾げながら春香が尋ねる。
「はい、ジャーバラお嬢様からです」
線の細い声で答えて、メイドが捧げ持っていた物を春香に差し出した。突然何かわからないものを突き出されて面食らったが、見るとそれは丁寧に折り畳んだ服だった。
「ジャーバラって、あの、ピーノを弾いてた、ピンク色の服を着た女の子よね」
「ええ、そうです、ガヤフ大臣のお嬢様です」
畏まって答えたメイドに、「彼女がどうしてそれを」と、春香が重ねて聞く。
春香より少し歳上のメイドは、朴訥とした顔にちょっとだけ迷いを浮かべると、遠慮がちに口を開いた。
「あの、ジャーバラ様は、何でもずけずけとおっしゃる方で、ぜんぜん悪気はないと思うのですが、今のお姫様のお召し物は、全くダサイとおっしゃいまして」
春香の服に目を走らせたメイドが、慌てて視線を外して、
「囚われの身だから仕方ないだろうけど、食事の時くらいは、もう少しましなものを着たらとおっしゃって、これをお姫様にお渡しするようにと」
メイドが、再度手にしていた布の包みを春香の方に突き出した。
いかにも彼女らしい口ぶりだなとジャーバラの顔を思い浮かべながら、春香は服を受け取った。そしてその場でハラリと広げた。両手で肩の部分を持ち、前に突き出すようにして眺める。体の保温が優先されるこの時代には珍しい薄手の布地で、鮮やかなブルーの生地に、細かいラメの刺繍が施されたドレスだ。とても、あのピンクかぶれのジャーバラ嬢が選んだとは思えない、落ち着きのあるデザインと色調である。
広げたドレスをメイドにもよく見えるように体の向きを変えながら、「ちょっと大人っぽくないかしら」と、メイドに意見を求める。
「いえ、お似合いだと、いま姫様がお召しになっているセーターの上から羽織れば、ちょうど色のバランスが取れると思います」
春香はドレスを自分の体に当ててみた。たっぷりと余裕のある裾のフレアが足に触れて心地いい。
「うん、気に入った。もしジャーバラさんに会ったら、ありがとうってお礼を言っておいて、さっそく着させてもらうからって」
使いの役目が果たせてほっとしたのだろう、メイドは了解しましたとばかりに軽く会釈をすると、「夕食は、いつでも召し上がれる準備ができています。ぜひ、その衣装をお召しになってホールにいらして下さい」と、階下のホールを手で示した。
そして遠慮がちに「メイド仲間が、今度ぜひ、お姫様のピーノの演奏を聞きたいと言っております」と言い添えると、礼でもするかのように大きく体を折り曲げた。
どうやら自分がピーノを弾いたことが伝わっているらしい。
それにしても……と、春香は頬を掻いた。
「お姫様ねえ」と、口の中で呟き、春香は背中がむず痒くなるのを感じていた。
夕食。春香はその青いドレスを着て階下のホールに赴いた。髪もちょっとおしゃれをして三つ編みに編みあげ頭の両側に円くまとめた。さらにはドレスと一緒に届けられていたメイクセットを使って、軽く化粧も……。
夜のホールは、シャンデリアに明かりが灯り華やかだ。しかし客は春香一人で、昼間何人かいた給仕のウエイターも一人いるだけ。
その給仕の口から「ホーッ」と、感嘆の声が漏れた。
「まっ、馬子にも衣装といったところね」と、春香が照れを誤魔化し肩を上下させる。
椅子を引いてくれたのは、昼食の時とは別の青年だ。その青年が、「よくお似合いで、ございます」と、はにかみながら誉めてくれる。
給仕の青年は、歳は十六、七。若すぎて言葉遣いにぎこちなさが残るが、上っ面だけの丁寧な喋り方よりも、よほど好感がもてる。
「ありがとう」と軽く受けると、「今夜は、監視役の下男たちがいないから、ちょっと羽目を外しちゃおうかな」と、春香は茶目っ気のある目でウインクを返した。
あの癖毛とあばたの給仕もそうだったが、この若い給仕も明るい色の肌をしている。そういう採用の条件でもあるのだろうか。テーブルクロスに白を使った方が、清潔感が出しやすいというようなものかもしれない。
それはともかく、目の前の青年は、薄土色の肌に赤い鼻がよく目立つ。その赤鼻の青年が、何を頼まれるのだろうと、不安と興味の入り混じった表情を浮かべてこちらを見ている。それが何とも初々しい。昔、伯母さんのやっている外国人向けのギフトショップの店番を頼まれ、初めてお客さんに接した時の事を思い出す。
場の緊張を解すべく軽く伸びをした春香が、「ブランデー、ええと、薫りのいい蒸留酒はある?」と注文を繰り出す。
給仕の青年は一瞬驚いたように春香を見たが、すぐに襟を正して「もちろん揃えてありますが、アルコールをお飲みになるのですか」と、遠慮がちに伺いをたてる。
すかさず春香が肩をそびやかして言った。
「少女も正装すれば、レディなの。軽く食前酒くらいいただいてもいいでしょ。何も水代りに飲もうって訳じゃないんだから。昼に出してもらった酸味のあるジュース、あのジュースに、少しだけリキュール代わりにお酒を垂らしたものを出してもらいたいの」
なるほどといった風に給仕の青年が頷いた。
「分かりました、ええ、確か古代の酒を復元したものがあると思います。えーっ、お酒の名前は……」
とっさのことで酒の名前が出てこないようだ。下を向き、また上を向いて考えている。
春香は吹き出したくなるのを堪え「うん、その復元したお酒でいいと思う」と、手で了承のサインを送った。
やっと思い出したのか給仕の青年が、時間差攻撃のように酒の名を口にした。
「確か奉南酒、そう奉南酒というお酒です、それをお持ちいたします」
嬉しそうに酒の名前を繰り返すと、給仕の青年は素早く厨房に駆け戻っていった。
「ふふ、一升瓶でも持って来そうな勢いね」
青年の対応に気の解れた春香は、ゆったりと椅子にかけ直すと、窓の外に目を向けた。ガラス室の木々がライトアップ、それを楽しみながらのディナーだ。一人での食事を楽しんでもらえるようにと、カーテンを開けておいてくれたようだ。
料理が運ばれてくる。昼間は気がつかなかったが、ガラス室の中、右手の禽鳴舎とは逆の側に、小さな泉水があり、噴き上がった水にライトの光が戯れている。明かりが灯された夜の庭園には、木漏れ日の舞う昼間の庭とはまた別の美しさがある。
それでも広いホールに一人きりというのは味気ない。それに間が持たない。
春香は少し椅子を横にずらすと、後ろに控えた給仕の青年に話しかけた。
「ねっ、こんな広いホールに、お客さんて、わたしだけなの」
大人の仲間入りをしたばかりといった年頃の青年は、緊張した面持ちで姿勢を正すと、「いえ、そんなことはありません。とくに今日は催しものがあるとかで、本館には、たくさんのお客さんがお見えになっています。先輩たちは全員そちらに借り出されて、それでぼく、いえ、わたくしが、お姫様のお世話の大役を任ぜられました」
それで分かった。昼間のすれた給仕たちも借り出されたという訳だ。でもそのおかげで、この実直そうなニキビ面の赤鼻の青年に給仕をしてもらえる。
思いついて春香は、その赤鼻の青年に尋ねた。
「ね、知っていたら教えてもらいたいんだけど、昼間、ガヤフ大臣のお嬢さんて方に会ったの、その子はよくここに来るの」
砕けた調子で聞かれて、給仕の青年は戸惑ったようだが、周りに同僚がいないということもあってか口を開いた。
「いつもということではないです。時々ガラス室のピーノを弾くために、お見えになっています。気さくなお嬢様で、政治家になるための勉強ばかりやらされているから、ピーノを弾くのが唯一の気分転換だとおっしゃってました。頼まれて一度、林の中の禽鳴舎に飲み物をお持ちしました」
この時代、代議員制を採用している国の多くは、世代別に議員枠を割り振っている。春香の時代に政治家が高齢の者に偏っていたのと違う点だ。盤都の場合、最年少の議員枠は、十五歳から二十歳の枠となり、さらには議員の男女比も、人口比に合わせて決定されるという。その最年少枠に、ジャーバラは今年、初めて立候補するということだった。
言葉を交わしているうちに気づいた。この給仕の青年、お嬢様と言う時の顔が少し赤らんでいる。もしかしたらジャーバラのことを、憧れを込めて見ているのかもしれない。
「フーン、ピンクの彼女、政治家の卵なんだ、女の子、それもあの歳で」
「はい、お父上のガヤフ大臣は娘さんしかいらっしゃらないので、一人娘の彼女を自分の後継者にと考えておられるとのこと。でもジャーバラお嬢様は、音楽家になりたいと常々おっしゃっています」
豆腐のように柔らかな肉をナイフで切り分けながら、春香は小声で零した。
「そっか、じゃあ、あんなこと言わなければ良かったかな」
「何か」
「うん、なんでもないの」
小さく首を振ると、春香は空になったグラスを給仕の青年に差し出した。
「ねえ、もう一杯もらっていい」
「はい、お姫様」
顔をほんのりと赤く染めて部屋に戻る。
部屋の前のワゴンに、食べ残しの料理の乗った皿が置いてあった。ドアを開けると電気が消えている。ドア口から、ベッドの上に投げ出されたウィルタの足が見える。どうやらウィルタは、夕食を食べるとまた眠ってしまったようだ。
そのベッドの先、開いたままのカーテンの向こうが明るい。
ウィルタを起こさないよう足を忍ばせ窓に歩み寄る。と一瞬、目の中が黄色に染まったような錯覚を覚えた。カーテンを手にしたまま、その場に立ち尽くす。
目が慣れてきた春香に、盤都の夜景が浮かび上がってきた。
町が黄色く輝いている。砂漠の宿ハジルで女将が嬉しそうに灯していた電照灯、安息灯の明かりだ。その安息灯が都の街路の至る所に灯されている。それだけではない、家々の屋根が淡く黄色に発光している。後に知るが、盤都の黄色い屋根瓦には残光性の蛍光物質が混ぜてあり、それが日中、太陽光のエネルギーを吸収、夜になると黄色い光を発するのだそうだ。
遠い昔、油を絞る黄菜で有名な外国の町を、学会帰りの父と訪れたことがある。地平線まで広がる黄菜のお花畑の一画が、夜間の観光用にライトアップされていた。それはまるで、夜の底が黄色の原色に染まったような光景だった。ただその時の目に迫るような派手な夜景と違って、目の前の盤都の夜景は、明るく穏やか。それがラジンさんの説明にあった、α波の光ということなのかもしれない。
しばらく窓辺で都の夜景を眺めていたが、春香はカーテンを閉めると、そっと部屋を出た。オバルさんの部屋の電気も消えている。廊下の右手はと見れば、踊り場から煙苔の煙が一筋。相変わらず監視の男がいるようだ。
春香はもう一度ホールに戻ることにした。
ホールの大扉を開けると、すでに片づけも終わり、カーテンも閉じられていた。照明も非常灯を残して全て消されたために、真っ暗。その闇の中に春香は体を滑りこませた。
カーテンに沿って手探りでながら歩き、一番奥で緞帳のようなカーテンの裾を持ち上げる。どんぴしゃ、昼間ジャーバラ嬢に教えてもらったガラスの割れ目が足元にある。
塞いだ板を外して、ガラス室へ。
木立の中で立ち上がると、木の匂いが自分を包みこむ。目眩のしそうな強い匂いだ。視覚の働く昼間よりも、夜の方が嗅覚は鋭敏になる。植物も命あるものとして息をしている。その緑の吐き出す呼気と、地面の湿気を孕んだ少し黴臭い匂いが、濃密なスープとなって辺り一面に立ちこめているのだ。
ガラス室の空気に体を慣らすべく息を吸ったり吐いたりしているうちに、春香はこの息苦しいほどの匂いの原因が、空調が止まっているせいだと気づいた。
濃密な匂いのなかに針葉樹の香りを嗅ぎ留めると、春香はその方向に歩きだした。
建物の廂の陰を抜けると、足元がほんのり明らむ。月明かりかと思うが、その色合いが心もち黄みを帯びている。迎賓館の壁面をライトアップしている投光照明の光が、建物の壁面で反射してガラス室に差し込んでいるのだ。木立の葉群れと、ガラス室の骨組みの直線が、重なり合うようにして煉瓦の上に影を描く。
夜の木漏れ日に鳥を模ったモニュメントが浮かび上がる。昼間は気づかなかったが、石柱だけでなく、足元の煉瓦にまで鳥のレリーフが施されている。
そういえば、昼間見た禽鳴舎の柱飾りも、小鳥をデザインしたものだった。
二千年前の災厄の際、植物だけでなく、動物もそのほとんどが地上から姿を消した。鳥は比較的生き残った方だが、それでも生き延びたものはわずかで、その多くは渡りを行う水辺の鳥か海鳥だったという。
野山の鳥、特に森を住みかとしていた鳥は、ほとんどが死に絶えた。
かつて、森は小鳥のさえずりと共にあった。
世界に残る木々を集めてガラス室の中に森を再現した時、人はどこかその森が古代から言い伝えられてきた森とは違うと感じた。何が、と考えて気づく。静かすぎるのだ。それは鳥のさえずりの聞こえない森だった。そのことに気づくと、補うようにガラス室の中に鳥をあしらった装飾を施し、音楽堂を作った。今は行われていないが、以前は鳥のさえずりを模した合成音が、ガラス室の中に流されていたという。
石柱の様々な小鳥を目印に、煉瓦道を進む。
木の実を啄ばむ小鳥、首を反らせて歌う小鳥、耳を澄ませるように小首を傾げた小鳥。
春香は昼間のことを思い出していた。
本当に久しぶりに鍵盤を前にした。そしてジャーバラ嬢の前で指を動かしながら、最初は上手く指が動いてくれるかどうかが気になった、なにしろ二千年ぶりだ。
次には、この『ラ』の抜けた音階の曲を、後ろで聞いている生意気な娘がどう受け取るだろうと、そのことが気になった。口ほどにもない演奏、おかしな曲……、そう受け取られやしないだろうか、つい、そんなことを心に思い浮べた。
それが、祖母や母、そして父も好きだった曲を弾いているうちに、そんなことはどうでもよくなってきた。そして、ある確信のような想いが湧いてきた。
音楽なら、二千年の時を越えて、自分の想いを母に伝えることができるのではないか。いや絶対に伝えることができる。
あの曲なら、あの曲を弾けば、大好きだった母に……、
故郷の島から戻ってきた娘がまたピアノを始めたのを見て、母は本当に嬉しそうにしていた。そして、十二歳の誕生日のこと。趣味で作曲をしていた母は、誕生日のプレゼントに自作の曲を贈ってくれた。楽譜の上に手書きで、『ラのいないわたし』という題名が書き込まれていた。数学を専攻している母らしい素っ気ない題だったけど、嬉しかった。
『わたし』の曲なのだ。
「音楽は空間に共鳴するんじゃなくて、人の心に共鳴するの。この曲に共鳴してくれる人がたくさんいるといいわね」
にこやかに言って、母は、すぐにその楽譜を弾こうとするわたしの手を止め、「母さん頑張って作曲したんだから、春香も頑張って練習して、納得して弾けるようになったら、聞かせて」と言って、笑いながら春香の部屋を出ていった。
わたしは一人でその曲を弾いた。
人は長い人生の間に様々な物を失う。失うことは、後に残った物を発見するということでもある。ラを失うということは、それ以外の音、わたしがまだ持っている音を発見することでもあった。そして母の曲は、ラの音が無くとも、こんなに美しい旋律が奏でられるということを感じさせてくれるものだった。ただ、技巧的には難しい曲だった。
わたしはその曲を練習して、母の誕生日に聞かせてあげることにした。母にとっては、それが何よりのプレゼントになると思ったのだ。
そして、そうして……、
母の誕生日の前日、わたしと母は飛行機に乗った。
その飛行機に乗れば、母に我が家のピアノで演奏を聞かせてあげられると思ったのだ。
それが……、
飛行機の事故で、わたしは母を失ってしまう。母だけではない、結果としては父もだ。そして友人も。自分の生きた時代も、何もかも……。
あの時代にわたしの周りにあった何もかもを、わたしは失ってしまった。
この場合、後に残った物とは、何になるのだろう。
ジャーバラの視線を感じながら、得意にしていた南の島の曲を演奏しながら、わたしが思ったのは、一度でいいから母に、母からプレゼントされた『ラのいないわたし』という曲を、演奏して聞かせてあげたかったということだ。
香りの大木の脇を抜けると、頭上を覆っていた葉むらの黒い影が途切れ、木々の梢とガラスの天井越しに、本物の月が覗いた。下弦の月だ。
この世界に蘇ってから、一日として母さんのことを忘れたことなどなかった。自分の我ままが母を事故に巻き込み、かつ自分自身をこのような境遇におとしめた。
だから心の中でずっと母に謝り続けてきた。母さんに謝らなければという想いが、心の中に重石となって伸しかかっていた。母に詫びたいし、自分が二千年後の未来に蘇って、そこで生きているということを伝えたかった。
伝わる。きっと伝わると思う。音楽なら、あの曲なら、二千年の時空を超えて、自分の想いを母に伝えることができる。絶対に……、
禽鳴舎に足を踏み入れ、身震いを感じながらピーノの鍵盤の蓋に手をかける。
と春香は緊張の糸がプツンと切れたように、大きく息をついた。ピーノの蓋に鍵が掛かっていたのだ。
春香は気が抜けたように脇の椅子に座りこんだ。
ぼんやりと眺めるテラスに、淡い月光が葉むらの影を落としている。
とその影が揺らぐ。空調が戻った。いやきっと、夜間は空調が間欠運転なのだ。
人はあることに神経を磨ぎ澄ませると、それ以外のことは感じなくなる。絞り込んでいた感覚の糸がばらけると同時に、周囲の音が耳に戻ってきた。虫の鳴声が聞こえる。この世界にも、マツムシのように鳴く虫が生き残っていたのだ。
「ファ#の虫」と小さく口にすると、春香はニコッと一人微笑んだ。
針の触れ合うような微かなファ#の虫の鳴声に混じって、どこからか人の話すざわめきのような音も聞こえる。春香は立ち上がると、ライトアップの反射光に照らし出された煉瓦道を、来た時とは別の方向に向かって歩きだした。
人のざわめきの聞こえてくる方向に……。
母に演奏を聞かせてあげることができなくなった今、なぜか無性に気の紛れることをしたかった。
曲がりくねった園路は、所々でガラス室の建物の壁面と接している。壁のどこかに扉でもと、気をつけて覗き込むが、出入口らしきものは見当たらない。仕方なくUターンしようとした時、茂みの覆い被さった壁で何か光った。近寄ると、そこに小さな潜り戸があった。夜光塗料でも塗ってあるのだろう、フクロウを模った掛け金が鈍い光を放っている。掛け金を外すと、小さな戸は何の抵抗もなく開いた。
白灯の灯る通路があった。絨毯は敷いてあるが、壁際に箱が積み上げてある。業務用の通路らしい。春香はためらうことなく通路に足を踏み出した。
しばらく進んで音を頼りに通路の突き当たりを右に折れると、その先に短い上り階段、そのまま上がると、天井の高い大きな回廊が左右に伸びていた。壁面に穿たれた小さな窓の向こうに、ガラス室の屋根と、黄色い光でライトアップされた建物の壁面が見える。おそらくあれが、自分のいた迎賓館の別館だ。ということは、別館と逆の方向に本館があるということ。実際、ざわめきも、そちらの方から聞こえてくる。
春香は辺りに人影がないのを確認すると、赤い絨毯の回廊を、ざわめきに向かって歩きだした。
進むにつれて、聞こえる音が人の話し声に変わってくる。低い男の声に混じって甲高い女の声も。何かを解説しているマイクを通した声もあれば、機械音や信号音のような音まで。食事の時に給仕の青年が話していた集会というのが、これだろう。
そう思って春香が聞こえてくる会話に神経を集中させた時、すぐ後ろで、人の話し声がした。とっさに春香は脇の小さな通路に飛び込んだ。
ドンと何かにぶつかる。驚いて目を上げると、ハンカチを手にした中年の女性が自分を見下ろしていた。「ごめんなさい」と頭を下げながら、素早く目を走らせる。鏡の前で着飾った女性が髪を直している。ここは化粧室だ。春香は、うつむきき加減にもう一度「ごめんなさい」と口走ると、個室の一つに飛び込んだ。
「何よ、いまの娘」という声が外でしている。
春香はトイレの荷物台に腰掛けると、便器の水を流して胸の鼓動がおさまるのを待った。二度ほど水を流し、音が静まると、すでに化粧室の中に人の気配は無くなっていた。個室の扉を開けて外の様子を窺うが誰もいない。
春香は大きく深呼吸をすると、外の通路に出た。元来た方向に引き返すこともできたが、先を覗いてみたい気持ちの方が勝った。隣の男性用の手洗いから出てきた、かっぷくのいい紳士の後ろをコバンザメのようについていく。回廊の突き当たりの角を曲がると、前方に大広間と、人の波が見えた。
大胆すぎるかなとは思う。でも別に悪いことをしているのではないし、なにより、体の中に残っていた夕食時のお酒が気持ちを大きくしていた。それにジャーバラから渡された素敵なドレスを着ているということも……。
大広間の上に掲げられた垂れ幕が見えてきた。垂れ幕には『古代技術復興展示会』という言葉が書かれていた。
次話「展望台」




