盤都
盤都
春香は頬を撫でる微かな風で目を覚ました。
肺に吸いこんだ風が、暖かくて乾いている。
格子模様のようなものが見える。しばらく考えて、それが天井の升目模様だということに気づいた。暖かな風はその天井から吹き下ろしている。
起き上がろうとすると、スポンジに力を吸い取られたように、力が入らない。体がふわふわと宙に浮いている感じだ。どうしてと思い、自分がベッドに寝ていることに気づいた。それもスプリングの効いた、柔らかなマットレスのベッドに……。
力を抜いてダラッと横たわり、そのまま首だけを横に傾ける。
肌理の細かい清潔な壁が、すぐそこ、手の届きそうなところにある。漆喰の剥げ跡だらけの汚れた壁とは違う、清潔で艶やかな壁。その淡いクリーム色の壁の上で、ポツンと一点、光が照り返している。どこから……と、首を逆の側に向ける。
天井まで届きそうな厚手のカーテンの隙間から、日の光が射し込んでいた。
首を回して部屋全体を見渡す。
すっきりとした縦長の部屋に、ベッドが二つ。そして隣のベッドにウィルタがいた。気持ち良さそうに寝息をたてている。でもオバルさんの姿がない。
上半身を起こす。腰から上が引力の強い星に降り立ったように重いのに、下半身は宙に浮いたように軽い。アンバランスで変な感覚だ。ベッドを下りて、壁に手を付きながら足を一歩、また一歩と、動かす。絨毯の細かい毛肌が素足に心地良い。
ほとんど無意識に、ベッドの先を窓と反対側に曲がる。
短い通路の奥にドアがある。その手前の壁にも一回り小さなサイズのドア。夢心地のままドアを開け、壁のスイッチらしきものに手を伸ばす。
チカチカと光が明滅して、太陽の日差しのような白々とした明かりが灯った。脱色されたように白い明かり、蛍光灯の明かりだ。蛇口の二つ付いた洗面台に、棚の上に逆さに伏せたガラスのコップ。磨かれた鏡に乾いたタオル、そして奥にはバスタブ。どこにでもあるホテルのバスルームの光景……。
黒い印のある蛇口を捻ると、冷たい水がほとばしる。それを手に受けて顔を洗う。
タオルで顔を拭き、流れ出る水を直接口に受けて背筋を伸ばす。体の上から下へ、冷たい水が快感の文字を引っ張り込むように沁みこんでいく。
もう一杯、今度はコップで。目を閉じて爽快さを味わう。
耳には、蛇口から流れ出る水の音……。
もし自分が氷に閉ざされた二千年後の世界に目覚めたとしたら、こんな贅沢は決してできなかったろう。室内を煌々と照らす明るい照明に、空調から吹き出す乾いた暖かな風、それに蛇口を捻るだけで音をたてて流れ出す水。こんな生活を、二千年後の耐久生活をしているウィルタに見せてあげれば、きっと腰を抜かすに違いない。
二千年後……、
ハッとして、春香は目の前、鏡の中の自分を見つめた。
長旅で真っ黒に日焼けした顔、先日バレイの宿の鏡で確認したばかりの顔がそこにある。なのに鏡の上には、白々とした蛍光灯が輝き、蛇口からは水が音をたてて……。
慌てて春香は洗面所を飛び出した。と、ドアの外にいたウィルタと、思い切り衝突。
絨毯の上に尻餅をついたウィルタが、寝呆けたような声をあげた。
「痛いよ春香ちゃん、なんで突然、飛び出してくるんだよ」
腰を押さえるウィルタに、咳き込むように春香が聞いた。
「ウィルタ、ここはどこ、今は、いつの時代?」
ウィルタが呆れたように春香の顔を覗き込んだ。
「やだな、何言ってんだよ、ここは塁京だろ。ぼくたち、薬売りの奴に睡眠薬入りの揚げ餅を食べさせられたんだ。眠っているうちに連れて来られた。ここはきっとバドゥーナ国の都、バンダルバドゥンさ」
「バン、ダル、バドゥン……?」
信じられないといった顔で窓に走り寄った春香が、引きちぎらんばかりにカーテンを開けた。心のどこかに、二千年前に戻ったのではという思いがあったのだ。
雪に反射する眩しい光に目が眩む。
しかし目が窓の外の明るさに慣れてくるにつれて、淡い期待は失望に変わった。窓の外に広がっているのは、目にも鮮やかな黄色い甍の波と、白い壁の家並みだ。今まで見てきたどの町よりも大きくて整然とした、都市という言葉のイメージに近い町並み。でもそれは、あくまでもこの時代の都市であり、高層ビルが天を突き、通信と送電のための配線がクモの糸のように張り巡らされた、春香の時代の町ではない。
「すげえ、水が勝手に出てくる」
春香の後ろ、洗面所でウィルタが驚きの声をあげた時、誰かが部屋のドアを叩いた。
ウィルタにも聞こえたのだろう、水の流れる音が止まった。蛇口を締めたようだ。
もう一度ドアを叩く音。
「誰?」と、ウィルタが洗面所から顔を突き出し、ドアに向かって聞く。すると明るい女の声が、ドアの向うから返ってきた。
「お召し物を持って参りました。それから食事の用意ができております。お召し物は、ドアの横に置いておきますので、着替えがお済みになりましたら、下のホールにお越し下さい。なお御用の節は、ドアの右にある青いボタンを押してください。係の者が応対いたします」
声の主は、丁寧な口調でそう言い置くと、ワゴンを押すようなキシキシという音を残して、ドアから離れていった。ウィルタは、足音を忍ばせドアに近づくと、探るようにドアに耳を当てた。春香もウィルタの横に来て、同じようにドアに耳を押し当てる。何も聞こえない。誰もいないようだ。
ウィルタがドアに耳を当てたまま「お召し物って?」と、聞く。
「なに言ってるの、服のことでしょ」
その時初めて春香は、自分たちの着ている服が、いつもと違っていることに気づいた。淡い色調のトレーナーのような服だ。
ドアを開けて顔を出す。真赤な絨毯が目にまばゆい。
天井の高い通路が左右に伸びている。
さきの女性の言葉どおり、ドアの横、飾り卓の上に、見慣れた服が丁寧に折り畳まれた状態で置かれていた。服を取り上げた春香が、小鼻をピクピク膨らませたかと思うと、ふっくらと膨らんだ服に顔を押しつけた。頬ずりをするように顔を左右に動かす。
「これ、石けんの匂いだ」
春香が幸せそうな声をもらした。
真似をしてウィルタも服に鼻を寄せる。きつい香料の匂いが鼻に抜け、思わずくしゃみをしそうになって口を押さえた。
そこに、通路を挟んだ向かい側のドアが開いて、オバルが顔を見せた。
「よお、目が覚めたか、凄いなここは」
「ここはって、ここはどこなの」
聞くのが当然とばかりに、春香が尋ねる。
オバルは、通路の天井一面に施された組紐のような盤腸模様の装飾を見上げると、「都の迎賓館だろう」と、自信満々に言った。
確かに天井の精緻な装飾も、通路の壁に飾られた重厚なタッチの絵画も、通路の端々に置かれた工芸品のような家具も、都という名に相応しい豪華さだ。
「国賓並みの扱いだな、こりゃ」
おどけた調子で感想を口にすると、オバルは子供たちがまだ寝巻姿なのを見て、「早く顔を洗って服を着替えろ、ホールとやらに飯を食いに行こうぜ」と、手を煽って催促した。
折り目のついた肌着とシャツに、猫の毛のようにフワフワに膨らんだセーター。
気分も一新、春香とウィルタは、久しぶりのすっきりとした気分で部屋を出た。廊下も暖かい。建物全体に暖房が入っているようで、着込んだセーターが少々暑苦しい。
廊下の左、突き当たりが階段で、下に踊り場が覗いている。かかとに届くような白いガウンをまとった紅毛碧眼薄土肌の男性が、大扉の前に張り付くように立っていた。オバル同様の長身だが、螺髪黒眼黒炭肌のオバルとは対照的な美丈夫である。その白い柱のような男性が、階段から下りてくる三人を認めると、腰から体を折るようにして礼をした。
観音開きの大扉が、絨毯の上を滑るように開く。
扇型に広がった大広間に、テーブルと椅子が整然と並べられていた。客の姿はない。
中にいた白い詰襟姿の中年の給仕が、三人に歩み寄ると「こちらへ」と言って、先導するように歩きだした。先ほどの扉の男性と同じで、紅毛碧眼薄土肌、髪を頭の中央で左右に分け、練り油で固めたようにきりりと整えてある。これが給仕の正装らしい。
天井には煌くようなガラス細工の照明器具、正面奥には一段高くなったステージが。厨房手前の棚には、磨き上げられたガラスの器や磁器が、ショーウインドウのように飾られ、左側の壁面には一面、緞帳のように重厚な幕が引かれている。
きょろきょろとホールの中を見回す三人を、中年の給仕は、その緞帳際の席に案内した。しみ一つない白い卓布の掛けられたテーブルに、三人分の食器が客の到来を待つように並べられている。
案内をしてくれた給仕に、ウィルタが聞いた。
「ガランとしてるね、ほかに人はいないの」
「いえ、もう皆さん、昼食は、お済ませになられた時間です」
フーンと頷きながら、ウィルタが頭をボリボリと掻く。
春香もウィルタと同様、さっきから頭がむずむずして仕方がなかった。急に暖かいところに身を置いたせいで、髪の隙間にいるダニかシラミが活動を始めたのかもしれない。服を清潔なものに着替えても、体はバレイの宿で蒸気風呂に入ったきりだ。
それでもさすがに春香は、ウィルタのように人前で体を掻くことはしなかった。
中年の給仕がウィルタの態度に眉をひそめた。
構わずウィルタは、腕を後ろに折り曲げ、背中の中まで掻こうとしている。
恥ずかしくて、春香は思わず下を向いてしまった。
その春香の耳に、厚みのある太い声が聞こえた。
ホールの入り口に、声に相応しい分厚い胸の男性が立っていた。黒髪茶眼焼肌のその男は、がっしりとした上半身にジャケット風の上着をざっくりと羽織った、気さくな出立ちである。ところが親しみやすい服装とは別に、ゴツゴツとした顔の中の硬い弾丸のような目は、目標を捕らえた照準機のように、しっかりと三人を見すえていた。
「おはよう、皆さん。昨夜は特別に良く眠れたのではないですかな」
男は、その『特別に』という所に力を込めた。三人が薬で眠らされたということを、暗に指摘しているのだ。
体格だけでなく歩き方もゴツゴツとしたその男が、椅子とテーブルを引っ繰り返しそうな勢いで、三人のいるテーブルに向かってきた。近づく前から手が出ている。どうやらせっかちな性格らしい。磊落な声が三人の前で轟いた。
「ようこそ、バドゥーナ国へ。私はこの国の国務大臣を務めるガヤフです。昨日は部下が失礼なお出迎えをしたと思うが、そこは『この景色で』ご容赦いただきたい」
握手もそこそこに、大臣のガヤフはテーブルの上、リモコンのスイッチを押した。
ジーッと機械の鳴動が室内に響き、壁面を塞いでいた緞帳が劇場の開演時のようにスルスルと左右に開く。と同時に、頭上の照明が絞られ、暗い室内に溢れるような光が差し込んできた。瞳孔が射抜かれるような眩しさに、思わず目を閉じかけた春香だが、光の先にあるものを見て逆に目を見開いた。
春香は信じられない面持ちで目を凝らした。
緞帳の後ろは壁ではなくガラスだった。天井まで届きそうなガラスの窓の向こうに、体が染まりそうなほどの緑があった。
その緑の林の上方にもガラスが覗いている。ということは、これはガラス室、それも三階建てくらいの大きなガラス室だ。
目を丸くしている三人の後ろで、ガヤフが太い鼻筋を更に太くして解説を加えた。
「このガラス室には、二千年前の異変を乗り越えて生き残った植物が世界中から集められておる。中でも木。グラミオド大陸に残された木は五種と言われておるが、その全てを一度に見ることのできる場所はここだけのはず」
そこまで言って話を区切ると、ガヤフが春香に視線を流した。
「もっとも、そちらの古代のお嬢さんにとっては、取り立てて珍しい光景ではないかもしれんが」
ガヤフが岩のような顔全体で笑った。
椅子から立ち上がり、窓に寄って体を押しつけるようにして、オバルとウィルタがガラス室の木々を見上げる。その二人の後ろ、一歩引いた位置で、春香は身じろぎもせずに緑の林を見ていた。
それは春香の時代の尺度で言えば、とても森と言えるものではない。林、それもかなり疎らな林といっていい。開発の進んだ住宅地の間にちょこっと残っていそうな雑木林、そんな感じの木立ちだ。それでもリウの茂みなどとは比較にならない林、いや十分に森といってもいいものだろう。
珍しくないなんてことが、あるはずがなかった。遠い昔の緑あふれる森を知っているからこそ、このとても森とまでもいかないような林でも、例えようもないほど懐かしく、また貴重なものだということが分かる。
ガラス室の風景に見とれている三人に、ガヤフは満足げに喉を鳴らした。
「あなたたち三人は大切な客人、ただしそれはこの建物、迎賓館の別館にいる限りにおいてだ。そのことをようく覚えておいてほしい」
それはつまり、ここから出てはいけない、出れば容赦しないということだ。
ガヤフは念を押すように再度そのことを指摘すると、声を砕けた調子に戻した。
「係の者に言えば、ガラス室の中に入ることもできる。良ければ後で散策なさるがいい。ここからは見えないが、散策用の路も整備されているし、奥には都の御神木たる霊樹もある。それから……」
一言間を置くと、ガヤフはウィルタを見やって渋面を作った。
「メイドが言い忘れたようだが、部屋には湯場がついている。都でも常時湯を使える場所は限られる。ぜひ利用することをお勧めする。湯を浴びれば、体についたそのダニも、不潔な臭いも退散することだろう」
言ってガヤフは、顔だけでなく体全身を震わせるような大きな笑い声を上げると、ホールに入って来た時と同じように、体を揺すりながら大扉を出ていった。
「なんだよ、人を不潔だなんて」と、ウィルタが不愉快そうに口を尖らせると、オバルが分厚い唇の間に白い歯を覗かせ、ウィルタの背中を叩いた。
「仕方ないだろう、さっきから、背中をボリボリ掻いてるぜ」
「だって、三カ月も着の身着のままで旅をしてれば、ダニくらいつくさ」
開き直ったウィルタの頭を、オバルは混ぜ返すように手の平で撫でた。
「このボサボサ頭も、洗った方がいいな」
注文を付けた手で、オバルがさも自慢げに自分の螺髪を撫でつける。縮れた黒い螺髪のために分かり難いが、長旅で埃っぽくなった髪が、艶やかな光沢を放っている。
オバルのグローブほどもある手を睨むと、ウィルタが拗ねたように言い返した。
「そういえばオバルさんの髪、いい匂いがしてるけど、それって石けんの匂いだろ。ずるいんだよな、一人だけ先に洗って」
「いいじゃないか、俺だって、二カ月、髪を洗ってなかったんだ」
二人のやりとりを春香は黙って聞いていた。けれども、目は眼前のガラスに向いていた。緑の林とホールを区切る分厚いガラスに、自分の姿が映っている。
洗濯をしてもらったおかげで、星草模様のセーターも灰褐色のズボンも、清潔で綺麗になった。ところが服からのぞく顔や手は、浅黒く日に灼け、まるで山の中から迷い出た遭難者然としている。よくぞこの顔で、良家のお嬢さまを気取って、黒い石を売り込みに行ったものだ。バレイの宿で久しぶりに髪を洗ったから、自分では綺麗になったと思い込んでいたのに、それがこんな、みすぼらしい姿だったなんて。
門京周辺にいる生死の境を行ったり来たりしている人と比べれば、品よく見えたかもしれない。でもそれが、ここの塵一つ落ちてない迎賓館の中だと、まるで乞食娘だ。さっきテーブルに案内してくれた給仕の男性は、なんでお前たちみたいな連中がこのホールに来るんだという目で見ていた。それにホールの隅に立っている若い給仕たちは、今この瞬間も、わたしたちを指して、鼻を摘む仕草をしている。ガラスに映ったその様子を、わたしが見ていることに気づいていないのだ。
おかげでせっかくの感動が色褪せてしまった。
思わず春香は「なんだか人間って、嫌らしいな」と、声を漏らした。
ウィルタが振り向き「春香ちゃん、今、何て言った」と、キョトンとした顔で聞き直す。
くったくのない顔……。
「ううん、何にも」
首を振る春香の後ろで、若い給仕の声がした。
「用意ができましたので、テーブルにお着きください」
中年の給仕に代わって若い給仕が二人、テーブルの横に立っていた。顔にあばたの残る給仕と、この世界で角毛というそっくり返った癖毛の給仕。どちらも二十歳にはまだ数年ありそうな若者だ。薄汚れた客なら、若い給仕で十分と判断されたのかもしれない。
ホールの奥でわたしたちを馬鹿にしていた二人が、作ったような笑顔を浮かべている。
とても笑顔を返す気になれず、春香は硬い表情のままテーブルに戻った。
あばた顔の給仕が椅子を引き、春香が腰を落とす。
客は三人だけなので、残りの給仕たちは、厨房の出入口でこちらの様子を盗み見しながら、ひそひそと声を交わしている。なんだか話の内容まで聞こえてきそうな気がして、春香は給仕たちの視線を外すようにガラス室に目を戻した。
緑は緑、嘘もつかないし、おべっかも言わない、ましてや嘲りの表情も浮かべない。日の光を受けて緑に輝いているだけだ。緑は人の心を癒すというけど、それはこういうことなのだろうか。折しも、昼下がりの明るい日の光がガラスの天井を抜けて差し込み、緑の林が命を吹き込まれたように輝きだす。洗われるような緑……。
それを見ているうちに、春香の気持ちが変わってきた。雪と氷と苔ばかりの世界に来て、緑の林を見ることができた。それだけでも今は神様に感謝の気持ちを捧げたくなる。
そう思えば、後のことはどうでもいい。
春香は体を起こすと、食器の横に置かれた厚手の手拭いを手に取り、膝の上に拡げた。
春香の仕草を見ていたあばたの給仕が、同僚の癖毛に耳打ち。頷いた癖毛の給仕が、春香に体を寄せ、「お飲み物はいかがいたしましょう」と、改まった口ぶりで声をかけてきた。
突然の慇懃な態度、しかしそれもまた彼らの仕事なのだろう。
「わたしは子供だから、アルコールはだめね」と、悪戯っぽい目を給仕に返すと、春香はガラスの向こう、こんもりとした木立ちに目を向けた。先ほどから気になる木があった。
「ねっ、あそこに拳くらいの大きさの実が生ってるでしょう。緑色の実よ。ここはお部屋がとても暖かいから、喉が渇いたわ。あの実を軽く絞って、砂糖か蜜を入れて、氷で割ってもらえると嬉しいんだけど」
突然予想もしていなかった注文を出されて、癖毛の給仕が困惑した表情を浮かべる。
追討ちを掛けるように、春香が注文を追加する。
「そうそう、それから、せっかくの素敵な眺めなんだから、できれば入り口横の棚に並べてある、カットグラスを使ってもらえると嬉しいな。爽やかな緑の林にぴったりだと思うの。ねっ、あなたもそう思わない」
癖毛の給仕が、顎を引き、喉を詰まらせながら答えた。
「あっ、あのグラスは、普段は使わないもので、料理長の許可が……」
どうやら、そういう注文を受けたことがないらしい。
「いいのよ、無理にとは言わないから」
春香は落胆の表情を動作に匂わせながら、給仕から視線を外した。
「ちょっと、待っていて下さい。いま給仕長に聞いてきますから」
そう言い置くと、癖毛の給仕は小走りに奥の厨房へと駆けて行った。その後ろを、あばたの給仕も追いかける。
やりとりを聞いていたオバルが、感心したようにテーブルの縁をトンと叩いた。
「さすがだな春香ちゃん。俺なんか、背の高い木ばかり見ていて、実の生っている木があるなんて、全く気がつかなかった」
「春香ちゃん、あの実、緑色なのに甘いの?」
ウィルタの頭のなかにあるのは紅珊瑚の実だろう。緑の紅珊瑚は渋くて食べられない。
不思議そうに聞いてくるウィルタに、春香が指先を振った。
「あれは、酸味を楽しむ果実よ」
「酸味って酸っぱいことだろ。それを楽しむって?」
穴の空くような視線を緑の果実に向けているウィルタを前に、春香は思った。確かにそうだ。紅珊瑚の小指の先ほどの小さな果実しかない世界で、果実を風味付けのために酸っぱいうちに早採りするなんて、絶対にするはずがない。
春香は恥ずかしい注文を出してしまったかなと、少しだけ心のなかで反省した。
でも緑はいいなと、またガラス室に目を戻す。体が内側まで染まりそうな緑だ。
オバルとウィルタが、春香の真似をして厚手の手拭いを膝の上に広げていると、ホールの奥からすらりとした初老の男性が出てきた。給仕長らしい。白髪まじりの髪が丁寧に櫛で揃えられている。給仕長が丁寧な口調で春香に話しかけてきた。
「お嬢さま、誠に申し訳ないのですが、あそこにある果実は、非常に貴重なものでして、当方としては、お客様にお出しする訳にはいかないのです。代わりと言ってはなんですが、食巧品の果物でよろしければ、デザートに御用意できますが」
給仕長が春香の視線を厨房の入口に誘う。そこに、さきほどの癖毛の給仕が、果物を山盛りにした皿を手に立っている。
「うん、お任せ」と、春香が目をクリッと動かした。
「承りました。飲物はあの果物の酸味と似たものを御用意いたします。もちろんグラスは特上のもので……」
ていねいな口調でそう言い置くと、給仕長は一礼して奥へと下がっていった。
次々と料理が運ばれてくる。
この時代の食事は、料理を一同に並べてから食べ始めるのが基本である。
むろん日々の食事は、主食の餅と副菜の二品か、餅入りのスープや粥状のもの一品だけというシンプルさなので、一度に並べるほどのことはない。それはともかく、迎賓館のレストランという特別な場とはいえ、料理が一品ずつ出てくる。それも次々と。
新たに登場する料理への興味から、ウィルタとオバルは、しきりと厨房の様子を窺い、合間にガラス室に目を向け、料理もほおばりつつ話も交わしと、どうにも落ち着きがない。
その二人と比べて、春香は静かに料理を口に運んでいた。
オバルとウィルタが、目配せを交わしては小声でなにかを言い合う。
春香が二人を目で咎めた。
「なによ、男二人で内緒話なんて」
肉を突き刺したフォークを手にオバルが、「いやね」と首を振った。
「春香には見えないだろうが、給仕たちがこちらを指して、なにやらヒソヒソやってんだ。たぶんこんなことを言ってんじゃないかって、いまウィルタと話してたんだ」
「あら、どんなこと」
オバルが、黒い肌に溶け込んだ薄い眉を上下させた。
「お姫様と、そのお付きの下男二人が食事をしてるってね」
真剣な眼差しでウィルタが、「もしかして、春香ちゃんて、昔の世界ではお姫様だったの」と聞く。
「実はそうなの」と答えると、春香はコホンと咳をついた。
まさかという目のオバルとウィルタに、春香は漂白したように真っ白な手拭いで、軽く口元を押さえた。
「嘘々、これは昔の食事の作法の一つ。通ってた学校に世界の作法教室なんてのがあって、一通りのことは習わされたの。すっごく厳しい先生だったから、ナイフとフォークを手に持つと、叱られないかと思って条件反射で背筋が立っちゃうの、可笑しいでしょ」
「可笑しかないよ、ぼくだって、食事の作法はシーラさんに厳しく言われたもん。音をたててスープを飲んだら、匙を持ってる手をピシリと叩かれたからね」
横でスープをすすっていたオバルが、ゲホッと咽返った。
「なんだか、食べづらいな」
「いいのよ、食べ方なんか。散らかしながら食べるのが礼儀の場合だってあるんだから。料理は美味しく食べるのが一番、自分の食べやすい方法で食べればいいの」
春香は出された料理を半分ほど食べ終えると、ナイフとフォークを皿の端にきっちり揃えた。そうして右手を肘から軽く立てた。
壁ぎわに控えていた先ほどの給仕長が、春香の横に歩み寄ると、腰を折るようにして顔を寄せた。若い給仕とは違う落ち着いた身のこなしだ。
「なにか」と、柔らかな口調で声をかけてくれる。安心できる声だ。
期待を込めた声で「何か、甘いデザートはある?」と春香が聞く。
「残念ながら一種類だけ、紅珊瑚の砂糖漬けを餅粉で包んだ、甘い揚げ菓子になりますが」
「そう、じゃあそれをお願い。それと、そのデザートに合う、口の中がさっぱりするような温かい飲み物があったら、一緒にお願いするわ」
「承りました」
落ち着いた受け答えをしてもらえるだけで、料理が何倍も美味しく感じられる。
春香は「もう一つだけお願いが」と言って、軽く人差し指を立てた。
初老の給仕長が半身のまま、春香の言葉を待つように軽く首を傾げる。
「同じものを召使たちにも、もちろん食事の最後にね」
言って春香がにっこりと微笑む。
笑顔には笑顔で。「かしこまりました」と給仕長が笑みを返す。
給仕長がテーブルに背中を向けるや、ウィルタが口をモグモグさせながら春香を睨んだ。
「なんだなんだ、いつからぼくたち、春香の召使になったんだよ」
皿の上の肉片をフォークで追いかけつつ、オバルがしたり顔で説く。
「諦めろウィルタ、女は一皮むけば、みんな女王様さ」
「チェッ」と、ウィルタが口を尖らせた。
食事と格闘でもするような二人から、木漏れ日のシャワー降りしきるガラスの向こうに視線を投げると、春香は二人にというよりも、自分に言い聞かせるように呟いた。
「いいじゃない、こんな夢みたいなところに、ずっといられるはずないんだから」
聞こえたのか、オバルが同感とばかりにフォークを振る。
「そりゃそうだ。でも俺は召使だってなんだっていいぜ、旨いもんが食えるなら」
宣言するように言って、オバルが握り直したフォークを、ソースの程良くかかった肉に突き立てた。
「今のうちに食えるだけ食ってやるさ」
「ぼくも」と、ウィルタも同じようにフォークを振りかざす。
「ちょっと二人とも、みっともない食べ方をしないでよ、わたしまで同類に見られちゃうじゃない」
「はいはいお姫様」
冗談めかして答えながら、それでも手と口は動き続ける。料理はまだまだある。そしてそのどれもが、オバルとウィルタにとっては、初めて口にするものだった。
お祭り騒ぎのような二人からも、目の前の料理からも、春香は視線を外した。
お腹が空いていない訳ではない。しかしガラス室の緑の木々を見ているうちに、胸が一杯になって、食べる意欲が失せてしまったのだ。
ちょうど若葉の頃の木がある。ガラス室の上から降り注ぐ日の光が、萌え出たばかりの柔らかな若葉を通して、淡く輝くような萌黄色を透かし出している。空調の風が流れているのだろう、若葉が風にそよぎ、ホールに零れた木漏れ日が、食卓の上でチラチラと揺らめく。手の平で遊ぶ木漏れ日の断片が、ほのかに太陽の温もりを伝えて嬉しい。
懐かしい感覚だった。
遠い昔のこと、自分は庭の木陰のベンチに座って本を読むのが好きだった。木漏れ日ゆらめく初夏の昼下がり、あまりの心地良さについ居眠りを始め、ハッと顔を上げると、母が手作りのシフォンケーキと紅茶を持って目の前に立っていた。それを折畳み式の小さな木のテーブルに載せ、母とお喋りを交わしながらいただく。足元では愛犬の牛丸が寝そべり、そこにコンピューターの画面を見ることに疲れた父が、目をしばつかせながらやってきて、息抜きとばかりに、母と仲良くケーキを分け合いながら話の輪に加わる。
家族三人での他愛ないお喋り、それがどれだけ貴重な時間だったか。
鼻をくすぐる懐かしい匂いで我に返った。
目の前に、琥珀色の飲み物が、仄かな湯気を立てて置かれていた。
「お口に合うとよろしいのですが」と、さっきの初老の給仕長が優しく言う。
切なくなるほど懐かしいその匂いを胸の中に送り届けながら、「ありがとう、わたし、この匂いとっても好きなの」と、春香は最上の笑みを給仕長に返した。
シナモンの香り、まだこの時代にも残っていたのだ。
食事を終えて部屋に戻る。
カーテンが開かれた部屋は光に満ち、乱れたベッドも整えられていた。小卓の上のメモに、建物から外に出ないようにということが、念を押すように書き記されていた。
ウィルタは、食べ切れなかったデザート用の果物を取り分け、部屋に持ち帰っていた。食巧品と話していたので何だろうと給仕長に尋ねると、本物の生果ではなく、果物に似せて作った水分の多い菓子のようなものなのだ。見かけは古代の果物そっくりに作ってあるが、味や触感は全く別。タクタンペック村で監視役をやっていたグッジョが、羨望の眼差しで「塁京には果物が……」と話していたのが、おそらくこれ。果物に限らず、様々な古代の食材が、専門の食巧職人の手によって再現されて、町の市場に並べられているという。材料は全て餅粉だそうだ。
小卓の上に皿の果物を並べ始めたウィルタをよそに、春香は窓に駆け寄った。
ベランダも何もない填めこみ式の大きな窓だが、開けることはできなくても、十分外の世界を一望することはできる。
下に見えている庭の様子からして、自分たちのいるこの部屋は建物の二階。ただ町の風景からすると、もっと高いように思える。この迎賓館自体が高台にあるようだ。
真っ青な空の下、白い壁と黄色い瓦を葺いた屋根が、さざなみのように広がっている。道端や路地に雪が積もっているのに、大通りや屋根の上に雪がないのは、雪を融かす仕掛けがあるのだろう。それにしても、黄色い屋根と白い雪、それに青い蒼穹のコントラストが、冷えた空気のなかに、とても鮮やか。
都の道は迎賓館のある付近を中心として放射状に伸びている。ここが町の中心らしい。雪のない幹線の大路が黒っぽく見えるのは、きっと長杭と同じで、火炎樹の樹液から取ったタールで舗装してあるからだろう。迎賓館のやや左手から前方に伸びる大通りを、馬車が行き交う。飾りたてた角牛の馬車、罵鈴の音が聞こえてきそうだ。
少し視線を上げると、円形の競技場のようなものがあった。楕円形の走路を、荷橇を付けた馬たちが走っている。荷橇のレースだろうか。その競技場の斜め上、大通りに隣接するようにして広場があり、そこを中心として人と馬車の坩堝ができている。市場らしい。
広場の喧噪を掻き分けるようにして動くものが目に入った。
小さく声を上げると、春香は窓ガラスに顔を押しつけた。馬のいない、ただの箱型の車。買物の荷物を持った人々が、その箱車の進行方向に道を空ける。
一台、二台……、三台も走っている。
「ウィルタ、見て見て、自動車よ、自動車が走っている、ねえ、ウィルタ」
ウィルタが返事をしない。アレッと思って振り返ると、洗面所から声が返ってきた。
「いっぱい食べたから、出す物を出してるところ」
「ばか!」
春香が手洗いに向けて、怒りの言葉をぶつけた。
「実況しなくていい、ゆっくりやってなさい」
言い返して、また直ぐに視線をさきほどの箱車に戻す。
かつて自動車と呼ばれたエンジン搭載の自走車が、市場前の雑踏を抜け、そのまま大通りをこちらの視線から逃れるように遠ざかってゆく。三台とも箱型の荷台に大きな車輪をつけた、ワゴン車よりも少し大きいサイズの車だ。荷台側面に小さな窓が一つあるだけなので、どこか厳めしい。そんな車が三台も走っているのに、通りを歩く人たちは注意を払おうともしない。ここでは、あの車は珍しいものではないらしい。
視界を大通りから都全体に広げると、ユカギルの町と同様、バンダルバドゥンという都も、ぐるりを壁で囲まれているのが見て取れる。
オバルの説明では、塁京という呼び名は、水路沿いの塁堤という土手と、町を囲む塁壁という壁から来ている。きっとあの壁が塁壁なのだ。
家が建ち並んでいるのは、その塁壁の内側だけで、壁の向こう側は道を挟んで即、果樹園のような林に変わる。幹だけのような木、火炎樹だ。
迎賓館からは塁壁がすぐそこのように見える。でもそれは、ここと塁壁の間に視界を遮るものがないからで、実際はかなり離れている。ここからだと二〜三キロはあるだろう。
春香は元々視力のいい方だった。それがこの世界に来て、パソコンやモバイルと全く縁の無い暮らしをしているうちに、どんどん遠くの物が見えるようになってきた。よく砂漠や草原に暮らす人たちの視力が四とか五とか聞かされて、まさかと思っていたが、それが今ではなんとなく実感できる。本当に遠くの物が良く見えるのだ。
その磨ぎ澄まされてきた目を、塁壁に当てじっくりと眺める。
厚みと高さのある城壁のような壁だ。上に道が通っているらしく、人はおろか馬や馬車までが行きかっている。城壁の内と外をつなぐ出入り口が、大通りの突き当たりにある楼閣のような門。二本の経塔に挟まれた楼閣の下がアーチ状に開いて、通路となっている。
今しも先ほどの三台の自走車が、経閣門と呼ばれるその楼閣の下を走り抜けた。
町の外に出た自走車に続いて、視線も壁の外へ。
塁壁の外には、雪原に火炎樹の林がどこまでも広がっている。
火炎樹の並木の間を走る車のおかげで、ここからでも火炎樹の大きさがよく分かる。以前タクタンペック村で見た火炎樹などとは、較べようもないほどの大きな樹。天に向かって聳える塔のような樹だ。
車は火炎樹農園の中に見え隠れしながら、やがて姿を消した。車の残像を追いかけ視線をずらせていくと、火炎樹農園の樹冠の先に、黒い帯となって川面が現れた。
水路のような川だが、それでもここからの距離で考えれば、かなりの河幅だ。対岸と結ぶ一本の線は、橋に違いない。中央に緩やかな傾斜のアーチがある。その下を船が潜り抜けていく。
視線が自走車に代わって橋を渡る。
対岸の岸辺、その後ろの土塁、そしてまた火炎樹の林……、
春香の視線が、対岸の林の後方、赤い甍の波に釘づけになった時、いつ横に来たのか、ウィルタがタオル地の手拭いで顔を拭きながら言った。
「あれが、この町と双子のゴル、濠都ゴルだと思うよ」
「双子の?」
「うん、昨日、春香とオバルさんが銭床から出て来るのを待っている間、近くにいた物売りのおじさんとお喋りして、教えてもらったんだ。もし石が売れなかったら別の手を考えなきゃならないからね。少しでも情報集めをしておこうと思ってさ」
物売りの男性から聞いた話では、ドバス低地の塁京と呼ばれる地域の八つの国は、二つのグループに分かれる。大陸南部の牧人と繋がりの深い国と、中北部の熱井戸や石炭に依存している地域と繋がりの深い国とにだ。その二つのグループの代表が、バドゥーナ国とゴーダム国であり、その首府繁都が、いま眼下に広がる黄色い甍の盤都バンダルバドゥンと、水路を挟んだ対岸の赤い甍の濠都ゴルになる。
物売りのおじさんは強調した。塁京の盟主たるバドゥーナ国とゴーダム国が、今にも取っ組み合いの喧嘩をしそうな状態になっているのだと。
説明に頷きながら、春香は水路の向こうの赤い甍の都に、もう一度目を向けた。
残念ながらゴーダム国の都までは距離がありすぎて、分かるのは、家々の屋根が赤瓦で葺かれているということ。その赤い瓦の都が、こちらの黄色い瓦の都バンダルバドゥンよりも広そうだということぐらいだ。瓦の赤い色は、牧人の赤いセーターを彷彿とさせる。ただ目を凝らしたからといって、二つの国が対立しているという、そういう事情が見えてくる訳ではない。
視線をもう一度こちら側、バンダルバドゥンの都に戻す。
春香がこの世界に来てから目にした、一番美しい町だ。すっきりとした街と言ってもいい。通りを行き交う人や馬車にも、菜の花畑のような黄甍にも、その下で紛争の種が疼いているとは、とても思えない。
しかし……と、思いながら、さらにじっと目に映るものを吟味するように見ていく。
「対立」という視点で見直せば、塁壁の上の道を歩いている人に混じって、所々に直立不動の制服姿の人が立っている。肩から下げている棒のようなものは銃だろうか。もしかしたら、さっきの厳めしい三台の箱車は、その筋の車で、何か事件が起きて、慌てて町の外に出ていったのかもしれない。そんな風に考えていくと、買物籠を抱えている人たちだって、その実、非常時に備えて買い出しをしている人かもしれないし……。
広場の人混みに目を凝らす春香の横で、ウィルタが迎賓館のすぐ前方を指差した。
「春香ちゃん、あれを見て!」
ウィルタが指しているもの、それはさっきの箱型の自走車よりも二回り大きなトラックだった。荷台に掛けられたシートの下から食み出た筒のようなもの……。
「あれ、大砲……かな」
自信なさげな春香の声を捉えて、ウィルタが「なに?」と大声で聞き返す。
しかし春香が説明する前に、トラックは建物の陰に隠れてしまった。
本当に大砲だったのだろうか。
春香が実際に見たことのある大砲といえば、博物館に展示してあるような、鉄の球を飛ばして敵の城や船を破壊する、骨董品のような大筒だけだ。もちろん、もっと近代化された兵器としてのロケット砲や機械砲も、映像や写真で見て知ってはいる。でもそれは、あくまでも知識としての兵器で、身近に戦争を体験したことのない春香にとっては、ゲームの中に出てくる架空の兵器と変わりない。
と同じ場所を、同じようなトラックが横切る。今度は、砲筒らしき部分はシートで隠されているが、それを支える台座がむき出しになっていた。砲筒の角度や向きを調整するための機械だろうか。それは、春香の時代では当たり前のハイテクを装備したロボットめいた兵器とは異なる、武骨に鉄の部品が組み合わされた人間臭い金属の塊だった。
二台目のトラックも建物の陰に。
トラックの隠れた建物を見つめながら、春香は都の黄色い甍の下に隠れた世界があることを感じていた。そして、いま自分が体を寄せているこの窓からは見えない、都のほかの場所に想像を巡らせた。迎賓館の後ろ側にあるだろう残り半分の都が、目の前に広がっている風景の続きである保証はどこにもないのだ。
春香の想像の翼をもぐように、後ろの洗面所でウィルタの叫び声が上がった。
「ヒャーッ、なんだこりゃ」
横にいたと思ったら、もう洗面所に戻っている。春香にとってはどうということのない迎賓館の設備が、ウィルタにとってはよほど珍しいのだ。
洗面所に走ると、湯気が霧のごとく湧いている。
「どうしたのよ、ウィルタ」
「どうしたのって、春香ちゃん、これ何、蛇口を捻ったらお湯が出てきた」
見ると、二つある蛇口の赤いマークの方から、お湯が迸っていた。
お湯用の蛇口でも最初は水が出る。お湯が出ることを知らずに水を洗面台に溜めようとして、蛇口を捻ったままにしたのだろう。洗面台から溢れたお湯が、湯気とともに下に流れ落ちている。
呆然としているウィルタに、「迎賓館なんだからお湯ぐらい出るでしょ」と突っぱねると、春香はキュッと音をたてて蛇口を捻った。
信じられないという目で、ウィルタが赤い印のついた蛇口に視線を貼りつける。
「だって、春香ちゃん、お湯だよ、お湯。なんで管からお湯が出るんだよ、どこかで管を温めているのかな」
「ボイラー室でお湯を沸かして、配管に流しているの」
苛ついた顔で春香は洗面所を出た。お湯が出ることで、どうして苛々するのかが分からない。その分からない自分に余計苛立っていた。
ウィルタが蛇口を捻ったのか、また水の跳ねる音が聞こえてきた。音からして、何度も蛇口を開けたり閉じたりしている。お湯の出るのを確かめているのだ。
春香は窓際に椅子を移動させると、腰を落ち着け、外の景色に対坐した。
町の通りを人が行き来している。鞄を小脇に抱えてせかせかと歩く男性もいれば、立ち止まって立ち話をしている婦人に、杖をついたまま道路脇のベンチに座り込んでいるお年寄り、湯気のたつ紙包みの中身をやり取りしている少女たちのグループも……。
二千年が過ぎて、着る物も、話す言葉も、食べる物も、いろんな事が変わってしまっても、人は人、同じように生きて暮らしている。きっと二本足で立ち上がった頃から、ずっとずーっと、同じことを繰り返してきたのだ。
それはとても不思議なこと?
それとも当たり前のこと?
春香が窓枠に首を凭れさせて、とりとめのない考えに浸り始めたところに、また後ろからウィルタが声をかけてきた。髪を拭きながら、幸せそうに目を細めている。
「春香ちゃん、お湯で髪を洗うと気持ちがいい、天国だよ」
それを聞いて春香は「ヨシッ」と、拳を固めて立ち上がった。
何かを決意したような春香を見て、思わずウィルタが半歩後ろに下がる。
「わたし、お風呂に入る」
春香はそう宣言すると、洗面所にパタパタと走った。
それは本当に久しぶりの風呂だった。この世界で目覚めて以来、お湯で体を流すことはあっても、湯に浸かることはなかった。ないというより不可能だった。お湯で体を拭くことですら贅沢だったのだ。もったいないとは思いつつ、春香は浴槽に湯を張った。裸の身を湯船に滑り込ませると、溢れたお湯が浴槽から音をたてて流れ出す。なんという贅沢。曠野の暮らしでこれだけのお湯を沸かそうとしたら、どれだけの苔を集めて燃やさなければならないか……。
その思いが脳裏を掠めた時、春香はもう考えることがばかばかしくなって、頭ごと体をお湯の中に沈めた。今はこの久しぶりのお湯に浸かる心地良さを、何も考えずに味わえばいい。考えることはいつだってできる。
体がじんわりと暖まってきた。
すると不思議なことに、面倒なことが頭の中から、湯気と一緒に抜けていく。そして気がつくと春香は歌を歌い出していた。
何もかも忘れさせてくれる、それがお湯のいいところだ。
前にオバルさんに聞いたような気がする。炭坑や熱井戸の坑夫たちが、なぜ地下のきつくて辛い仕事を厭わないか。それは地下で噴出する熱水を使って、温泉を味わえるからだ。真理かもしれない。この心地良さのためなら、人間少々面倒なことだって我慢できる。
春香は、また考え事を始めた自分が嫌になって、思い切り浴槽に体を沈めた。
一風呂浴びて体が芯から温まる。すると不思議と生き返ったような気になる。蝉や蟹が脱皮するように、それまでのことをみんなお湯の中に捨てて、別の人間に生まれ変わったような気分になれるのだ。
気持ちはとりあえず晴れやかになった。
そして……、春香は嫌がるウィルタを、何でも経験だと言って風呂に押しこんだ。どんなことでも、見るのと実際に自分でやってみるのとでは大違い。何でも一度は経験してみなくては。それにやはり自分一人が入るだけでは、浴槽に張ったお湯がもったいない。
そうしておいて、春香はまた窓辺に戻った。
先ほどまでは感じなかったことだが、迎賓館の周りは高い壁に囲まれている。その壁際の所々に警備の人が立っている。壁の外側にも同じ見張りの人がいるかどうかは分からないが、見張りの人は明らかにこちらの迎賓館の方を向いている。迎賓館にいる人を守るというよりも、内側にいる人を見張っている感じだ。
窓ガラスに頬をくっつけ建物の右手に視線を移すと、漆喰塗りの建物から張り出すガラス室が見えた。春香は思い立って窓を離れた。
洗面所のドア越しに、ウィルタの歌うラテンっぽいノリの歌が聞こえる。サッチモさんの馬車でかかっていた曲だ。もっとも音程が外れて、いま一つ上手くない。でも、歌っている本人の気持ち良さそうな気分は伝わってくる。春香はドアをノックした。
「ウィルタ、わたし体がほてったから、ちょっと外の風を浴びてくるね」
「どうぞごゆっくり。それより春香ちゃん、風呂ってすっごく気持ちいいよ、このまま眠っちゃいそう」
ご機嫌に話すウィルタの声が、鼻歌になっている。
ウィルタを部屋に残し春香は外へ。廊下に人の気配はなかった。
次話「ガラス室」




