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星草物語  作者: 東陣正則
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長杭


     長杭


 バレイの港町を出てから四日目。

 ドバス低地の周縁部から内側に入ってきた。もう一息で塁京の入り口となる門京の一つ、長杭である。

 そもそも塁京という言葉は、護岸のために土を盛った町という意味である。ドバス低地の国は、どこも火炎樹農園を夏場の増水から守るために、河岸に塁堤と呼ばれる護岸を築き、また人家の集中する町や都には、塁壁と呼ばれる城壁のような壁を作って、町全体を囲っている。

 春香は塁京が一つの国だと思い込んでいたが、旅の過中あれこれ人から話を聞くうちに、塁京というのはドバス低地に点在する国々の総称であり、ドバス低地の湿地帯には、大小あわせて八つの国があるということを知った。その八カ国の盟主がバドゥーナ国とゴーダム国の二国で、残りはその衛星国のような小国になる。このバドゥーナとゴーダムの二国を指して、塁京二都という。

 なお、ウィルタの父のいるティムシュタット国は、大河グンバルディエルの下流方向に位置し、火炎樹栽培と共に海運業を財政の基盤とする、バドゥーナ国の衛星国になる。

 また塁京の国々の周辺には、塁京の隆盛によって発達した、物資の流通拠点としての門京と呼ばれる自治都市が点在し、塁京への門前町の役目を果たしている。街道を旅してきた人々は、この門京に設置された各国の出先機関で入国許可を取り、船もしくは艀を使って、それぞれの国に渡る。

 近づいてきた長杭は門京の中でも最大のもので、子安街道の東の端、グンバルディエルの二つの支流、ランフール川とクブ川の合流点に位置する。三十年前に小さな荷船の係留地であったところが、塁京の繁栄とともに、低地西南部の人と荷が集まる商都に発展したものだ。ティムシュタット国へ向かうには、塁京八国を定期航路で結んでいる巡回船に乗る方法と、いったん塁京二都のどちらかに渡って、そこから衛星国への直行便の渡し船に乗るという、二つの方法がある。


 相変わらず小雪がちらつくなか、全身をまだらに白く染めた人々が黙々と歩を進める。

 正午、街道がまたランフール川の河畔に出た。川沿いに進めば、あと三時間ほどで長杭である。街道がしっかりと盛り土されており、町が近いことが感じられる。

 馬車の周りを歩いていた人たちが、立ち止まっては川の方向を見やる。

 ウィルタが「あれは」と、川の一点を指した。

 言われなくとも、雪に霞んではいるが、川岸近くを白波をたてて走る船がある。

 帆を張った船とは異なるエンジンで走る船、機船だ。昔の小型の漁船程度の大きさだが、それでも大気を震わせ伝わってくるエンジンの音は、初めて聞く者にとっては、水上を駆ける怪物に思える。

 木材のないこの時代、船の建造には、火炎樹の樹脂を固めたウォトの擬材が用いられる。そのウォト材とともに、燃料油とエンジンは貴重品である。そのため、ほかの地域では、まず機船を目にすることはない。塁京で生産される膨大な火炎樹の樹液があって、初めて走らせることのできる船だった。

 いま目の前を波をけたてて走り過ぎる機船は、川を越えて塁京に侵入しようとする不法入塁者を取り締まる水上警邏艇で、この水上を快速で走る機船を用いることで、塁京の国々は、水路と河川が織りなす迷路のような低地帯を統括していた。

 疲弊した避難民の人たちにとって、凍てつく水の流れ、それも蕩々とした大河のような水路は、天然の障壁である。それでも人は様々な手段を用いて冷たい水の障壁を越えて行こうとする。それを断固として許さないということを示威する意味で、塁京各国は避難民の集積する門京周辺に警邏艇を巡回させていた。

 春香が「ということは……」と、さも問いたげな目でオバルを見た。

 オバルが「そうだ」と、地図を取り出す。

「雪に煙っているが、対岸は塁京。ゴーダム国南部のゴルビナ郡だな」

 地図の一点を示しながら、オバルも少し興奮しているようだ。

 ウィルタが目を輝かせて、雪で灰色に煙る対岸を見やった。

 亀甲台地からこの地に至るルートは、子安街道だけではない。台地から沁みだす川のように、何本も大小の街道がランフール河畔に伸びている。その街道の一本が合流したらしい。街道を行く人の数が膨れ上がった。相変わらず圧倒的多数はエルフェの人たちだが、今までに見たことのない顔つきや、服装の人も混じっている。

 亀甲台地を含むグラミオド大陸南部にも、熱井戸に頼って暮らす人々や、小規模ながら火炎樹栽培で生計をたてている人がいる。そういう地域から、奇病の流行や、土壌の枯渇、果ては町が氷に閉ざされるなど、様々な理由で故郷を後にした人たちが、ドバス低地に生活の糧を求めてやってくる。それはたぶん子安街道に限らない。ドバス低地に繋がるどの街道でも、それぞれの事情で故郷を離れた人たちが、黙々と行軍を行っていることだろう。

 街道の周辺に、牧人たちのテントが目につくようになった。それに家畜の群れも。

 家畜を連れて旅をしてきた人たちは、ここに至って、連れてきた家畜の処遇に困るようになる。餌が手に入らなくなるのだ。低地帯での毛長牛の餌はヨシ。そのヨシが、押しなべてどこも嘗めたように刈り取られている。

 それに実際問題、奇病の発生以後、毛長牛は塁京への連れ込みが禁止されている。そのことを知っていても、唯一かつ一番の財産といえる家畜を手放すことができるはずもなく、ほとんどの牧人は、わずかな家財道具とともに、奇病を逃れて生き残った毛長牛を帯同しながら旅を続けてきた。それが、ここから先に進むには、家畜を金に変えるか、家畜を放棄するかのどちらかしかない。塁京の内側で牛を飼うわけにはいかないのだ。

 その家畜を手放すしかない避難民の足元を見透かすように、塁京の食肉業者が家畜をただ同然の値段で買い叩いていく。それでも売れる牛はまだいい方で、長旅で痩せこけた牛のほとんどは、周辺に打ち捨てられ、餌を探して移動するうちに水路に阻まれて、寒さと飢えで倒れてしまう。長杭の町に近づくにつれて、街道沿いの至る所で凍りついた家畜の骸を見かけるようになった。

 唯一の救いは、栄養失調寸前の状態で旅を続けてきたエルフェの人たちが、放置された牛を食べて、しばし体力を回復できたことだろう。

 しかし大変な数のテントだった。街道の両側には排水用の水路が掘られている。土盛りがしてある街道から水路越しに、びっしりと折り重なるように張られたテントと天幕の波が望める。まさに波としかいいようのない光景で、無数の避難民が、塁京に入る機会を待って、テント村に留まっているのだ。昨年の段階で十五万人ということだったが、今では、どれだけの人がここにいるのか、誰も把握できないでいる。

 行けども行けども天幕の波。そして風に混じって、ムッとするような臭いが流れてきた。

 汚穢の臭い、人の生活の腐った臭いだ。

 いつしか賛馬号の音楽は止んでいた。

「今の季節は汚物もすぐに凍りつく、だからこの程度の臭いで済んでいるが、来年の雨の季節になれば、いったいどうなることやら」

 うんざりした顔でサッチモが鼻の頭を掻いた。

 下水もトイレも何も無いところに、これだけの人が集まっているのだ。汚物だけでも大変な量になる。凍りついた汚物が、融けて腐敗した臭いを一斉に放ち始めたとしたら、それは考えただけでも鼻を摘みたくなることだ。現に今年の夏には、あまりの異臭で街道を通る際、目を開けていられなくなったという。おまけに大量に発生した蝿が黒い霧のように上空を漂い、払っても払い切れない蝿が餅粥の椀に群がって、虫除けの網の中でないと粥がすすれない有り様で、大規模な疫病の発生がなかったのが、奇跡というしかない惨状だった。

「御者たちに売りつける防臭マスクでも仕入れておくか、あと、虫避けの蚊帳をな」

 眼鏡のレンズを拭きながら、グリビッチが九割方本音と取れる声で言った。

 確かにグリビッチの提案に同意したくなる臭いが、直後に流れてきた。喉の奥から胃液が込み上げてくる。思わず手ぬぐいで口元を覆った春香の目に、屏風のように左右に伸びる土塁が見えた。長杭だ。

 いつしか避難民の人たちは、周囲のキャンプに吸い込まれて、まばらになっていた。門京の町に入るにも、様々な手順があり条件がある。避難民の人たちは、いったん郷里の仲間のいるテントに身を寄せ、それから次の行動に移るのだそうだ。

 避難民のキャンプと長杭の町を分ける土塁と濠が近づいてきた。

 濠の端々に丈の高い杭が突き出ている。長杭の名前の由来となった竿杭だ。かつてはその長い杭の先に、熱病退散、商売繁盛、水害回避などを祈願する細長い旗がひるがえっていたという。その竿杭の立ち並ぶ水路にかかった橋を渡る。

 馬車に乗っている者は、特に検査もなく通ることができるが、明らかに避難民と分かる風采の者は、橋の手前の検問で調べられる。だがそれほど厳重なチェックではない。牧人らしき姿の人も勝手に橋を往来している。あくまで無制限な人の流入を抑えるといった程度の検査らしい。ただし、長杭の町なかでの野宿は禁止されているとのことだ。

 橋を渡ると、その向こうにも、もう一つ土塁があり、その先に長杭の町並みが見えてきた。町全体に土盛りが施されているらしく、地盤がやや高い。

 内側の土塁を越える緩やかな斜面を上る。

 土塁の頂点に開いた門を抜けると、黒いしっくい塗りの壁が目に飛び込んできた。倉庫街である。通りを二つ跨いで、ずらりと並んでいる。ただそれよりも驚いたのが、道だ。轍で削られた雪と氷の下に、タールで厚く塗り固められた黒い道が覗いていた。雨期のぬかるみ防止に、火炎樹の樹脂から抽出したタールのブロックで、舗装してあるのだ。ほかの地域では、とても考えられない贅沢な道だった。

 倉庫街を抜け、川沿いの大通りに出る。道なりに進むと、川岸に巨大な巻き取り機が見えてきた。二十頭余りの牛が、鞭で叩かれながら巻き取り用の滑車を回している。川を渡る艀を鎖で引いているのだ。三百メートルほど先の対岸に見えているのが、ゴーダム国所領の中洲だという。艀が川面をジリジリとこちらに向かってくる。人でごったがえす艀の乗船所を横目に、二階建ての家が連なる町の中心部に分け入る。

 通りの左手に、船荷を扱う水運業者の事務所が軒を連ね、右手に宿屋と商店が並んでいる。前を走る荷馬車が、水運業者の事務所の前で停止。並びの事務所のあちらこちらで、荷の積み降ろしが行われている。水運業者の家は、一階が荷物の保管場所で、裏がそのまま各店の船着場になっている。一階の開いたドアから、薄暗い店内を通して、向こう側にランフール川の川面と小船が見えていた。

 さらに進むと、突然家並みが開け広場となった。右手に官庁や経堂のような重量感のある建物、左手に馬車溜まりと荷置き場、市場の箱のような建物が、均等に区画を分け合っている。この広場が、バレイから続く子安街道の終点だった。

「だんな、どこで降ろしやしょう」

 グリビッチが馬車溜まり右手の水難祈願碑を指した。

「俺は、祈願碑手前の階段のところでいい。後ろの三人もあそこがいいだろう。あそこなら広場の全体が見渡せるから、初めての者には町の全体が掴みやすい。それに、塁京の合同庁舎も目の前だしな」

 サッチモが手綱を絞り、賛馬号は洪水除けの祈願碑の手前で停止した。

 そこで便乗してきたグリビッチ以下三名は下車。グリビッチは、北のアルン・ミラ国から喋石街道、その他四つの街道を馬車で乗り継ぎ、はるばる運んできた火炎樹の殻種の入った箱を、馬車の荷台から降ろした。もちろんウィルタもそれを手伝う。

 オバルが丁寧に腰を曲げて礼をするのを、サッチモは照れたように首を掻きながら聞いていたが、何を思いついたのか春香を手招きすると、荷台に積んであった箱から小さな瓶を一つ取り出した。

「お嬢ちゃん、何かの縁だ、これを持っていきな」

「でもそれ、おじさんがわざわざ仕入れた売り物の品でしょ」

 春香が遠慮がちに断ろうとすると、

「いいさ、これは俺が自分の金で買いつけた商品、紅珊瑚のジャムだ。味は保証できるぜ」

 サッチモは春香の外套のポケットに、その小瓶を捻じ込んだ。

 グリビッチの差し出した乗車賃を受け取ると、サッチモはにっこりと笑い「だんな、また機会があったら乗ってくだせえ。それじゃ、皆さんお元気で」と頭を下げ、御者台の端を靴でトンと叩いた。

 その音で駄馬たちは歩きだす。動き出した賛馬号から、軽快な音楽が聞こえてきた。

 サッチモの乗った賛馬号は、すぐにほかの馬車で混雑する広場の中に見えなくなった。

 目の前の雑踏を、軽快な音楽だけがゆっくりと離れていく。

 最初に嫌なビーズひげの馬車に乗ってしまったが、良い御者さんだっているのだ。春香とウィルタが別れを惜しむように、賛馬号の音楽に耳を澄ませていると、後ろからオバルが二人の肩を叩いた。

「グリビッチさんが、荷を事務所まで運ぶのを、手伝ってくれないかと言ってるんだ」

 オバルが、グリビッチの横に積み上げてある五つの箱を示した。

「肩夫を頼んでもいいんだが、頼むほどの荷でも距離でもない」

 言って腰を押さえるグリビッチに、春香とウィルタが、もちろんと元気に相槌を打った。

 箱は五つ。すべて中身は火炎樹の殻種。オバルが三箱に、グリビッチとウィルタが一箱ずつ。春香が、ほかの余分な荷物を持つ。

 グリビッチの後をついて広場を離れる。表通りから裏通りへ。表通りを外れても、けっこう人は行き交っている。さらに奥の路地へ。

 間口の狭い二階建ての建物が軒を連ねる一画に入った。一階はどれも倉庫、臨時の貸し事務所などの多い地区だという。その並びの一軒、二階に上がる急な階段を見上げて、グリビッチが腰をさすった。

「この階段が腰痛持ちには鬼門でね。一人で五箱全部を担ぎ上げると、腰が悲鳴を上げちまう。お前さんたちがいてくれて助かったよ」

 階段を上がり切ったところの扉を押し開け、中へ。部屋の奥に、同じような箱が無造作に積み上げてある。グリビッチが、外套の懐から布袋を取り出すと言った。

「茶でも一杯と言いたいところだが、ごらんの通り何もない所でな」

 お構いなくと手を振ろうとするオバルに、グリビッチがにこやかな顔で、布袋から右手を引き出した。手に銃が握られている。

 思わず、オバルがグリビッチの顔を見やった。

 そのグリビッチの顔、にこやかに笑ってはいるが、丸眼鏡の奥の目は冷ややかにオバルを見据えている。銃の先端が動いてオバルの胸を指した。

 事態が飲み込めないでいるオバルに、後ろにいたウィルタが「オバルさん!」と、上ずった声を上げる。いつそこに現われたのか、上背のある男が扉を塞ぐように立っていた。

 その番頭っぽい前掛け姿の男に加えて、隣の部屋からも、尖った目の男が体を滑らすように出てきた。こちらは口入れ屋風に小襟の半外套を着ている。

 とっさにオバルが二人の子供たちを庇うように両腕を広げ、「どういうことだ」と正す。

 グリビッチが丸眼鏡の縁を軽く上に押し上げ、

「見ての通りだ、馬車の上で塁京への入域手続きの説明をしてやっただろ、その代金を払ってもらおうと思ってな」

 逃げようにも扉は閉められ、目つきの鋭い男が前後を固めている。

 オバルは怯まず、怒りを込めた目で言い返した。

「どういうつもりか知らないが、こちらに手持ちがないのは知っているだろう、ないものは払えない」

「じゃあ、銭の代わりに命でも貰うか」

「なっ!」

「冗談だよ」

 グリビッチは銃を持ったまま両腕を組むと、半眼に細めた目をウィルタに向けた。

 商品を吟味するような目で睨むと、グリビッチは「俺が頂きたいのは、おまえさんの持っている石だ」と、今までにない押しの強い声でウィルタに迫った。

「何のことだよ、ぼくは石なんか……」

 言いかけたウィルタの頭を、口入れ屋風の男の太い指が鷲づかみにする。

 ウィルタの靴が宙に浮く。

 とっさにウィルタに手を差し伸べようとしたオバルの首元で、前掛け男のナイフが光る。

「小僧、その男の握力は強いぞ、早く石を出さないと、頭蓋骨が陥没するぜ」

 こめかみを万力のような指で掴まれ、一瞬にして気が遠のく。出そうにも声が出ない。

 ウィルタの異変に気づいた春香が叫んだ。

「ウィルタ、早く石を出して、殺されちゃう」

 男の指先の力がゆるんだ瞬間、ウィルタが「だ、出すよ」と、か細い声を絞り出した。

 男が指を開き、ウィルタが音をたてて床に倒れ込む。

 頭を抱え肩で息をつくウィルタに、「早く出しな、商売は時間が命だ」と、グリビッチが催促、ウィルタがぎこちない手つきで巾着袋を取り出し、中の物を手の平に開けた。

 転がり出た灰色の石を、「これですかい」と、前掛け男がしなやかな指で取り上げる。

 渡された石に粘るような視線を向けると、グリビッチはウィルタの顎を銃口で上に向かせた。

「欠けてる、破片はどこだ」

 ウィルタが、ふてくされたように言った。

「捨てたよ、そんな汚れた石の破片なん……」

「パシッ」と物を叩く音と同時に、ウィルタの上体が弓なりにしなる。グリビッチの手がウィルタの頬を打ったのだ。慌てて春香が倒れたウィルタを抱き起こす。

 グリビッチが、とても商人とは思えないドスの効いた声を吐いた。

「ウソ言え。なら捨てるような石を、どうして後生大事に袋に入れていた」

 頭を抱えて動かないウィルタを見て、春香が代わりに叫んだ。

「知り合いのおじいさんから、お守りと言われて渡された石よ。石が割れた時、欠けらはいらないだろうって捨ててしまったの」

 唇を震わせる春香の前で、「小頭、その汚ねえ石に何かあるんですか」と、前掛け男が探るような目をグリビッチの手にした石に向ける。

「そのうち教えてやる」

 手下の視線を跳ねつけると、グリビッチが急かすように銃口をしゃくった。

「こいつらの荷物と体を調べろ。別の石を持っているかもしれん」

 たちまちザックの中身が床にぶちまけられた。荒っぽいやり方で、どうみても商売人の手つき、身のこなしには見えない。めぼしい物が出てこない腹いせに、春香の巾着袋に残っていた金が抜かれた。

 手下二人が「何もないですぜ」と、首を横に振った時、階段を上る足音に続いて、扉の下を叩く信号のような音が鳴った。

 口入れ屋風の男が、見かけに寄らず素早い動作で扉に体を寄せると、ガタリと閂を抜く。体を滑り込ませてきた男が、「準備ができました」と、グリビッチに耳打ち。

「後は手筈どおりだ」と、グリビッチが銃を胸元に押し込んだ。


 ウィルタたち三人は、手足を縛られ、さらには目隠しまでされて、部屋の柱に縛り付けられた。口に布をかまされ、声も出せない。

 人の動く気配から、男たちは隣の部屋に移ったようだ。

 と、扉の開く音がして、縛られた三人に足音が近づいてきた。

 中年の男としてはややハスキーなグリビッチの声がした。

「旅のよしみだ。それに荷物を運んでもらった謝礼に、命は取らずにおくぜ」

 グリビッチは含み笑いを残して、奥の部屋に戻っていった。

 静けさが戻り、部屋の中は、通りを行く人と馬車の音が聞こえるだけになった。

 オバルがもぞもぞと体を動かす。縄を解こうとするが、逆手後手に縛られ、さらには柱に固定されているために、ほとんど動くことができない。

 オバルにつられて春香も体をよじるが、動くのは指先だけ。体に触れる感触で、左側にウィルタがいるのが分かる。そのウィルタがピクリともしない。気を失っているようだ。

 ただ春香にとって、今はウィルタのことどころではなかった。実は馬車を下りる頃からトイレに行きたくなっていた。荷物を運ぶというので、その先でトイレを借りればいいと考えていた。それが手足を縛られて身動き一つできない。じかに床に座っているために、じっとりとした冷たさが腰から這い上がってくる。とてもあと半刻も我慢できない。

 このままの状態が続いたらと、そう思うと冷汗が出てくる。

 そんな春香の横で、すでにウィルタは意識が戻っていた。

 いや実は最初から、気など失ってはいなかった。その振りをしていただけだ。そして手足を縛られ目隠しをされてからは、あの能力を使っていた。目を閉じたまま、右目の能力で、建物の中にいる男たちの動向を探っていたのだ。

 ウィルタが目に意識を集中した直後、グリビッチたちは隣の部屋に移った。

 手下らしき三人の男は、それぞれ肩夫や牧夫などに姿を変え、取り外した壁板の後ろの穴に体を潜り込ませた。別の建物に繋がる通路があるらしい。

 最後は丸眼鏡のグリビッチが一人部屋に残った。

 ウィルタは、湧き上がる頭痛に耐えながら、グリビッチに右目の意識を集中。と何かが変わっていることに気づいた。グリビッチの着ているものが、女物の衣服なのだ。襟の大きな外套の下に、翔蹄号で散々けなしていたクッチョボ婦人愛用の、薔薇牡丹柄のセーターを着込んでいる。ウィルタが覗き見るその前で、グリビッチは頭に玉葱型に結い上げたかつらを被せ、安っぽい櫛を差した。

 女装……、そう思って、改めてグリビッチは顔を見れば、眼鏡は外され、ひげもなく、卵型の凡庸な婦人の顔になっている。その田舎っぽい中年婦人姿のグリビッチは、口の中から吐き出した噛み煙苔に線香を突き立てると、「遠路はるばる砂漠にまで出張したんだ、余禄の一つくらい貰っても罰は当たらねえだろう」と、うそぶいた。

 もちろんウィルタに、グリビッチのその独言までは分からない。

 やがて中年女に変身したグリビッチは、匂い消しの香水を口の中に軽く一振り吹きつけると、生き生きとした表情で壁の隠し通路に入っていった。

 人の気配の失せた部屋に、うっすらと一筋煙が立ち昇っていく。噛み煙苔に突き立てた線香である。線香は皿の上、そして皿の中にはトロリとした……、

 目隠しの下で、ウィルタが赤い目をカッと見開いた。机の上には空になった油瓶が転がっている。つまり皿の液体は油だ。もし線香の火が油に移れば……、

 縛った紐を解こうと体をよじるウィルタに、オバルが呼びかけた。

「なんか、臭うな……、線香か、これは……」

 口を塞がれているために声がくぐもる。

 体を右に左にくねらせながら、ウィルタが喉の奥で声を絞った。

「隣の、部屋、線香……、火だ……、か、火事に……、なる」

 オバルの体が折れ曲がるように動いた。事態を把握したのだ。

 とにかく紐を解かなければならない。オバルが満身の力で体を突っ張る。

 ところが紐が解けるどころか、逆に手首に喰い込んでくる。

 こちらの動きをあざ笑うようにびくともしない紐に、身をよじり、くねらせつつ、ウィルタはさっき透視をした時に、自分の周りに荷物が散乱していたことを思い出した。春香の小物入れも床に転がっていた。あの小物入れには、裁縫用のハサミが入っている。

 ウィルタは縛られた足を、探るように床の上に伸ばした。

 靴先がそれらしい物に触れた。と同時に、くすぶるような臭いが鼻の奥を刺す。

 後は時間との競争だった。

 なんとか鋏を取り出して紐を切り、目隠しを取った時には、もう隣の部屋からこちらの部屋に、煙が渦を巻くように流れ込み始めていた。

 煙を吸い込まないように体を屈め、扉を開けて階段を駆け下りる。

 建物の裏手から人の騒ぐ声が聞こえてきた。火事だと叫んでいる。火をつけられた隣の部屋は、反対側の通りに面していたらしい。

 まわりの建物から、次々と人が飛び出してきた。

 縛られていた手首を擦りながら、オバルが二人を促した。

「行こう、ここにいて、放火犯にされたら大変だ」

 集まってくる人を避けるように、三人はその場を離れた。


 広場に戻った三人に、家並みを越えて火事場の喧騒が聞こえる。行き交う人の話では、どうやら小火で終わったようだ。

 オバルとウィルタは、馬車溜りの横、公衆便所の長椅子に座って、春香が用を足して出てくるのを待っていた。通りからここに来るまでの間、気をつけて見ていたが、グリビッチと、その仲間らしき目つきの悪い男たちの姿はなかった。

 オバルとウィルタ、二人はともに無言である。

 オバルはこれからのことを考えていた。煙に追われて、グリビッチの事務所から逃げだす際に持ち出せた物といえば、空のザックに貴重品くらいで、手元に残ったお金といえば、春香の巾着袋の小銭が数枚だけ。口入れ屋風の男も手を出さなかった小銭だ。

 今後のことを考えれば、とにかく急いで金の工面をしなければならない。

 空の財布を眺めながら、オバルはその方策に頭を抱えていた。いや方策だけではない、酷い頭痛にも頭を抱えていた。頭のなかで、ブスブスと痛みの刺が脳髄に突き刺さる。オバルは自白剤を処方されて以来、ストレスがかかると頭痛が湧くようになっていた。頭を締めつけるような頭痛ではなく、針の山を頭に押しつけたような痛みだ。

 吐き気を催すような痛みに耐えるオバルの横で、ウィルタも額を手の平で押さえていた。ほんの数分、透視をしただけなのに、頭の中にズキンズキンと痛みの鉄槌が落ちてくる。

 火の手の上がった裏通りから広場に戻る道すがら、頭を押さえこむウィルタを見て、春香はウィルタが何をしたのか理解した。ただウィルタの能力のことを知らないオバルは、それを煙を吸い込んだせいと思ったようだ。

 苦悶の表情のオバルが、ポケットから小瓶を取り出し、中の錠剤をウィルタに勧めた。

「頭痛の即効薬だ、飲むか」

 渡された白い錠剤を、ウィルタは口に放りこんだ。

 横でオバルも三錠ほど頬張るように口に押し込む。

 水がないため、錠剤が喉に引っかかる。それを何度も唾を飲み、喉の奥にむりやり落とし込みながら、ウィルタはさっき透視した時に見たことを思い出していた。グリビッチが中年の女に変わってしまったということをだ。体形や姿勢も含めて、それは全く女性としか言いようのない見事なものだった。あの変身ぶりからすると、もしかして自分たちが馬車のなかで見ていたグリビッチも、変装した姿だったのかもしれない。あの捻りひげのモングーティのようにだ。

 もう一度確認するように、最後に見たグリビッチの顔を思い出そうとして頭の奥に力を込めた瞬間、ウィルタの頭の中に痛みの鉄槌が束になって落ちてきた。

 思わず両手で頭を抱えこんだウィルタの耳元で、春香の声がした。

「ああ、すっきりした」

「われわれ一行のサイフの中身も同じ、すっきりこっきり、やれやれだよ」

 毛を刈り取られた羊のような情けない顔で、オバルが空の財布をゆすった。

 春香が「どう、頭痛は」と、ウィルタの背中をさする。

 ウィルタが思い切り顔をしかめてみせた。そしてオヤッと言うように、そのしかめっ面を緩めた。薬が効いてきたのか、頭痛が火にかけた鍋の雪のようにどんどん消えていく。

 驚いて目を白黒させるウィルタに、オバルが自慢げに言った。

「効いてきたようだな、古代の復元薬だ」

「すごい、リウの刺のように絡んで取れない頭痛が、頭痛の方からどんどん離れてく」

「初めて飲んだ時は俺もそうだった。もっとも今じゃ、三錠は飲まないと同じ効果が現れないが」

 厚い雲が胡散霧消するように痛みが取れてきた二人の頭上で、本物の雪雲が割れ、青空が覗き始めた。午後の日差しが辺りを照らし、ざらめの雪に日差しが瞳を射抜くように反射する。思わず目を細めた二人に、春香が「この後、どうするの」と尋ねた。

オバルはお手上げとばかりに肩をそびやかすと、「そっちは、いくら残ってるんだっけ」と、逆に問い返した。

「んーっと、ちょっと待って」

 春香はポケットから大事そうに藍晶染めの巾着袋を取り出すと、中身を手の平に開けた。一目で分かる。一ビスカ硬貨が四枚に、二ビスカ硬貨が一枚、それだけだ。

 分かっていたことだが、それでもオバルは、やれやれと天を仰いだ。

「六ビスカか、これは結構大変だな」

 ため息の塊のようなオバルに、春香がもう一度、「なにかいい方法はないの」と聞く。

 焦りを抑えるように、のんびりとした口調でオバルが答えた。

「電信館で友人に『金送れ』の衛星通信文を送るのに、十ビスカ。一発逆転を狙って無尽札を買うのに、五ビスカ。人を脅すためのナイフは、安物でも八十ビスカ。飴玉は最低のやつが一個半ビスカ。苔茶は安物でも一杯二ビスカはする。この際、いっそ俺たちも強盗か追剥ぎにでもなるか。それなら元手なしで金が稼げる」

 頭痛が取れ、晴れ晴れとした顔になったウィルタが、肘でオバルの脇を突いた。

「オバルさん大人だろ、もっと真剣に考えてよ。この町に知り合いでもいないの」

「そうよ、オバルさん。わたしたちのこれからは、オバルさんに掛かっているのよ」

 子供たちに言われる間でもなく、オバルは何か良い方法がないか考えていた。しかし、この地に知り合いはいない。金を借りる当てなど、どこにもなかった。時間さえあれば、仕事を探して金を稼ぐことはできる。だが、いま必要なのは、今夜の宿代、今夜の飯代、いま知人に連絡を入れるための電信代だ。

 それが悲しいかな、手持ちの荷物の中に、金に代えることのできそうな物は何も残っていない。子供たちの手前、大人の自分がオロオロしてはみっともないと思い、のんびり構えたふりをしてはいるが、自分だって頭を抱えてしまいたいというのが本音だった。

「どうすんのさ」

 ウィルタが、尖った声でオバルをせっつく。

 こういう時の子供というのは意地が悪い。

 と、オバルは突然背筋を伸ばすと、ウィルタに向き直ってきっぱりと言った。

「よし決めた、俺たちも悪党になって、人の金を分捕ろう。文無しのやれる仕事といえば、物乞いか、こそ泥と相場は決まってる。あのグリビッチの奴の真似をするんだ」

「オバルさんたら」と、春香が呆れ顔で非難の視線を向ける。

 その春香に、オバルは引きつりそうになる口元を笑いで誤魔化し、

「もちろんさ、そうならないために、どうすればいいか考えるんだ。さあ三人で茶でも飲みに行こう」

 オバルは気合を入れて立ち上がると、二人の意見を聞くことなく歩きだした。

 慌ててウィルタと春香も立ち上がる。

 追いかけてくる子供たちに、大股で歩くオバルが自信たっぷりに講釈を垂れる。

「こういう時に大切なのは、じたばたしないで落ち着くことだ。そのためには、どこか見晴らしのいい場所で茶でも飲むに限る。そうすれば、いい考えが浮かぶさ。さあ、その場所を探すぞ」

「大人の知恵ってそんなものなのかよ」

 そう言いかけて、ウィルタは後の言葉を呑み込んだ。あっという間に、オバルが道の先まで歩いて行ってしまったのだ。小走りでオバルの背を追いかけながら、春香がウィルタにささやいた。

「あのオバルさんが、人を置いてどんどん行っちゃうってことは、相当焦ってる証拠ね」

 同感とばかりにウィルタが頷く。そして春香にささやき返した。

「でもやっぱり、ここは一発どこかで腰を落ち着けるのが正解かもしれない。オバルさんのためにも、そしてぼくたちのためにも」

 互いに肩を竦め合った二人は、オバルの倍の速さで足を動かしながら、雪の積もったタールの道を小走りに走った。



次話「銭床」

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