手言葉
手言葉
打ち払われたような澄み切った朝が、マトゥーム盆地に訪れた。
人も牛も岩も苔も何もかもが静まり返った板碑谷に、シーラとインゴットが丞師を伴い戻ってきた。一族の占者である丞師は、旅の疲れが溜まって体調が優れず、インゴットの小屋で横になった。
そして、ウィルタ……。
昨夜、ウィルタは、洞窟にいるところを、ミトの男たちに取り押さえられた。
午後、ミト長のインゴットを囲んで、ウィルタへの処罰が話し合われた。
シクン族は、町の人間から見れば奇異とも思える定めを持っている。この時代の主食である餅のミトへの持ち込み並びに摂食をタブーとしていること。炎を出さない明かりの使用を禁じたことなどが、その例である。クレバスより引き上げた古代の棺、それが炎を出さない明かりを伴っていることから、ウィルタの行為は一族の掟に抵触。共用の毛長牛を無断で連れ出したことと合わせて、懲罰が詮議され、鞭打ち三十回と一週間の蟄居、その間いっさい人と口を利いてはならないことが言い渡された。刑は直ちに執行。蟄居場所は集会所の裏、苔を貯蔵する穴蔵である。
ただ期間中ずっとそこに押し込められるのではない。日中は穴蔵前の板碑石の上に姿勢を正して座すことが要求される。
日中、刑に従ってウィルタが石の上で背を伸ばし、膝の上に手を置いて座していると、年少の子供たちが見物にくる。その挑発や冷やかしに対して言葉を発してはならない。この見世物としての時間が過ぎると、一人で石に座り続ける忍耐のような時間が訪れる。誰とも口を利かず、じっと座っていると眠くなる。睡魔に負けて頭を揺らす。
突然、バシンと派手な音をたてて、リウの鞭がウィルタの背に打ち付けられた。
鞭を打ち据えたのは、この春ミトの子守り役を卒業したユーレンカだ。
去年のこと。先にも述べたように、一族の掟で食べることが禁じられている餅を、ウィルタがミトに持ち込んだ。それをユーレンカの世話する幼女が誤って口に入れ、大変な騒ぎになった。禁を破ったウィルタが処罰されるのは当然として、ユーレンカも子守役として注意不足を咎められ、鞭打ち五回の刑を受けた。
それ以来、ユーレンカはウィルタを目の仇にしている。
懲罰を受ける者の正座の姿勢が崩れた時には、誰がそれを正しても良い。
どうやらユーレンカは恨みを晴らそうと、隠れて見張っていたようだ。奥歯を噛み締め睨み返すウィルタを、ユーレンカが鼻で笑って立ち去る。ただ、このユーレンカを除けば、大人たちは皆、ウィルタのことなど眼中になかった。晩夏の一番忙しい時期なのだ。
蟄居中、唯一気の休まるのが食事で、量は減らされているが、日に二度シーラが届けてくれる。その際、シーラは素早く手を動かす。
シクン族は通常の話し言葉とは別に、一族の物語を語る伝承用の言葉を持っている。その語りを行う際、同時に手も動かして同じ物語を語る。いわゆる手話、手言葉である。
シーラが手言葉を使って「あと四日、がんばりなさい」などと、と励ましの言葉を掛けてくれる。同じ励ましを、仲良しのナムもやってくれる。ナムは集会所脇に繋がれた共用の毛長牛の世話を任されている。世話のついでに、辺りに人気のないのを見計らって手を動かし、情報を伝えてくれるのだ。
そのナムの手言葉でウィルタは知った。雷光騒ぎの翌日、少女の入った棺が洞窟から運び出され、シーラの薬苔小屋に安置されたこと。夜には棺の蓋が開いて、少女が幽霊のように棺の中から起き上がったこと。昨日は、町のレイ先生が薬苔を調達しにきたついでに、少女の体を検診したこと、などなど。
そして、「あること」がナムから伝えられた。
ミトの男たちが突然洞穴に現れた理由である。ブッダのせいだった。雷鳴の夜、ブッダが異常な吠え方をした。不審に思ったミトの男たちは、吠えながら走るブッダの後をつける。その結果、洞穴の中にいるウィルタを見つけたというのだ。
「ブッダのやつ……」
ウィルタの肩が怒りで震える。
その震える肩を、リウの鞭が「バシン!」と打ち据える。またユーレンカだ。
腹立たしい気持ちを抑えて姿勢を正し、目を閉じる。そして棺の中の少女が目を開けた時のことを思い起こす。少女の目は、自分と同じ黒い瞳だった。
とにかく少女は無事に目覚めたのだ。ウィルタは安堵の思いで肩から力を抜いた。
時間は前後するが、雷光の飛び交った翌日のこと。
炭鉱の事務所横、炭鉱馬の厩舎周辺には、高温に曝されて飴のように融けた金属石の屋根と、赤黒く焼け焦げた駄馬の死体が転がっていた。雷光騒ぎの一報を受け、急きょ邦境筋から戻ってきた特捜官は、ドロドロに融けた屋根材の間から角の折れた泡壺を発見した。午後には都の専門家の一団も到着し、現場の検証が始まる。
その段になって、特捜官は、ようやく捜索していたものが密造酒などではなく、古代の高容量の電池であったことを明らかにした。
ガフィも厳しく取り調べられたが、預かった古代の電池を酒と間違って飲もうとしたことに偽りはないようで、窃盗団と関係のないことが裏づけされると、不問に処された。
特捜官は、今回の事件を、酒に意地汚い男が招いた椿事と見なした。
現場の検証を終えると、特査官たちは壊れた古代の電池を持って引き揚げていった。
しかしそれで今回の雷光騒ぎが一件落着かといえば話は逆で、騒ぎはこれから。被雷によって五軒の家が燃え落ち、小火も十件近く起きた。死者こそ出なかったが、火傷を負った者もいるし、炭鉱の駄馬に至っては八頭が哀れにも丸焼きになった。
その原因を作ったのが、ガフィだ。
十年前にもガフィは大きな災いをユカギルにもたらしている。ガフィが口利きをした都の仕事で七名の町の男が亡くなった。加えて今回の雷光騒ぎ。誰が見てもガフィは疫病神にしか思えない。さすがに自責の念が湧いてきたのか、ガフィは皆に断酒を誓ったが、そんなことで町の住人、とりわけ家を燃やされた人たちが納得するはずもない。
そして更に、ガフィに向けられた眼差しを厳しくすることが起きた。
甥のタタンが、手に入れた祖霊様の羽の欠けらを売りさばこうとしているという噂が流れたのだ。祖霊様に矢を射たことだけでも許されざることなのに、祖霊様をタネに金を儲けようとしている。タタンは真っ向から否定したが、町の人たちは、鉄矢を射たのは最初から一儲けを企んでのことだと理解した。
町中の非難の目が、ガフィとタタンのいる酔騏楼に向けられた。
落盤事故と雷光騒ぎの夜から一週間が過ぎた。
火災の跡片付けも終わり、ようやくユカギルの町に平穏な日常が戻ってきた。
この日の夜、雷光騒ぎによって中止になっていた演舞団による公演が、官舎の講堂で催されることになった。脳挫傷で意識不明に陥っていた坑夫が一命を取り留めた。全快はまだ先の話だが、まずはその救命を祝おうというのである。
その際、地の底から奇跡の生還を成し遂げた功労者、黒炭肌のオバル氏への感謝状と金一封の授与も行われる。もし氏が防水ケースを使った脱出方法を思い付かなければ、今頃ユカギルの町には、四人の死者を弔う喪服の列が並んでいただろうからだ。
今やオバル氏は、町のヒーローだった。
将来に暗雲の立ち込めるユカギルにあって、今宵は久々に着飾る衣装を選ぶ楽しみを味わえる。井戸端会議の場では、町の女たちが夜の外出着の話題に花を咲かせていた。
そんな浮かれた女性陣と対照的に、町の酒飲みたちだけは、ガフィの一件の直後でもあり、観劇しながらの飲酒に自粛の要請がなされたことを嘆いていた。
一方、板碑谷のミトでは……。
正午、集会所の前に集まった面々が見つめるなか、ウィルタの懲罰が終了したことをインゴットが宣言。ウィルタは自身の不徳を詫びるように大きく頭を垂れた。
ミトの面々が何事もなかったかのように各自の小屋に散っていくなか、ユーレンカだけが、口惜しそうに集会所の入口に掲げられたリウの鞭を見ていた。
「鍋にミルク粥が残っているから、食事は自分で」
そうシーラはウィルタに告げると、丞師様の世話に、板碑谷北側斜面にある石の祠に向かって、砕石の転がる小路を上がっていった。
丞師様の体調が回復、占事の準備が始まっていた。
土饅頭の間の苔の剥げた小道をウィルタが行く。ほんの百メートルほどしか離れていないシーラの小屋が、やけに遠く感じる。丸々一週間、穴蔵に籠もるか、石の上に正座していたので、足腰が萎えたように重い。
館岩の陰からブッダがウィルタの様子を盗み見ていた。ウィルタが口元に意味深な笑みを浮かべると、ブッダは腰が引けたように後ずさった。
モルバの小屋の前では、ナムが生皮の裏の肉片をナイフでこそげ落していた。これからあの皮をなめすのだろう。力がいるらしく踏ん張りながら手を動かすナムの後ろでは、弟のピッタが、毛長牛の目玉の水晶体を、おはじきのように玩んでいる。
ウィルタは手を振り、地獄からの生還をナムに報告すると、道の先に覗く二連続きの土饅頭、シーラの小屋に視線を向けた。
小屋の前、割れた板碑石に見知らぬ人が腰かけている。
シクンの服を着ているが、見たことのない娘……、そう思って気がついた。あれは、棺の中に横たわっていた少女だ。
石の端にちょこんと腰を落とした少女は、目の前の小さな谷と、谷間の先に広がる盆地の底を見るともなく見ていた。洗い晒しの淡い萌黄色のセーターに、灰茶色の裾を絞ったズボン。短い袖付きのワンピースの上には、蔓豆模様の縫い込まれた赤い前布を巻きつけている。三つ編みにまとめた左右二本の髪は、肩に掛かる程度で、髪の中に編み込まれた東雲色の端布を、髪の先端で小さくリボンに結んで、髪止めにしている。
この時代の娘としては短めの髪と、東雲色のリボンが、少女を幼く見せていた。
蟄居中にナムが手言葉で教えてくれたのは、目覚めた少女が記憶を失い言葉も喋れないということだ。それ自体は蘇生した人間によくあることなので、驚くことではない。
ゆっくりと少女に近づいていく。
遠目には、シクンの娘が腰かけているとしか見えないが、間近で見ると、衣服から覗く肌はミルクの匂いが漂う幼児か、長く病に伏していた病み上がりの柔肌そのもの。ミトの住人は、幼児を除けば、みな日に焼かれ、風に晒され、かさぶたや切り傷の一つは常にほくろのように身に付けているのが、当たり前なのだ。
脇から近寄り、気づかれないように、そっと少女の目を覗きこむ。
黒い瞳……、しかし焦点の合っていない虚ろな目だ。
ウィルタは肩を並べて腰を下ろすと、少女と同じように盆地対岸の穏やかな谷の並びと、その後ろに連なる丘陵地に目を向けた。
斜面の岩場に張りついた苔が、朝夕の冷え込みで淡いオレンジ色に色づき、夕焼けに染まったように見える。盆地の底、街道沿いの丘では、この夏最後の毛長牛の群れが、牛飼いたちに追われて東にゆっくりと移動している。
惜しむように晩夏の景色に視線を投げつつ、ウィルタは少女に話しかけた。
「今が、一番いい季節なんだ。長い冬が終って、融けかけた白い雪の間に、雪融けの水を含んだ緑の苔が顔を覗かせる春も素敵だけど、春は今の季節と違って毛長牛の毛を刈る季節だし、あちこちで小牛を去勢する時の悲鳴が聞こえてね、とてもこんなのんびりした雰囲気にはならない。ギェーッギェーッって、そりゃもう、煩いんだから」
聞こえているのかいないのか、少女は相変わらずぼんやりと遠くを見つめている。
少女の視線のやや右手、ナムが仕事を逃げ出したのだろう、手を振って近づいてくる。反対側の手に握られているのは遠眼鏡。助言が効いたようだ。
数日が過ぎた。
丞師様が行った占事の結果、少女は正式にミト・ソルガで暮らすことが認められた。
当初はインゴットが少女を引き取ると申し出たが、丞師の指示でシーラが世話をすることになった。なお、少女が覚醒して間もなく、どこで情報を聞き込んだのか、蘇生した古代人がいるという噂を聞きつけた都の男たちが数人、ミトに押しかけてきた。しかし少女が記憶を失っていること、棺が破壊されてクレバスに投棄されたことを聞くと、残念そうに引き揚げていった。
蘇生後四日が過ぎても、少女は空ろな瞳で夢うつつのような状態が続いている。時折、唇を震わせ、「あー」とか「うー」と唸り声を出すだけで、意味のある言葉は喋らない。耳は聞こえているようだが、何度も大声で呼びかけて、ようやく振り向くていど。それでも、食べる歩く着るといった生活の基本は体が覚えているらしく、ぎこちない動作ではあるが、何とかこなすことができる。それが、せめてもの救いだった。
覚醒が途中でストップしてしまったような心身の状態だった。
そんな夢遊病者のような少女に、シーラはシクンの手言葉を教え込もうとしていた。
簡単な動詞や名詞を、実際に体を動かし、実際に物を見せながら、手言葉と一緒に声を出して見聞きさせる。丸二日、しつこいくらいにそれを繰り返して、ようやく一つ二つと言葉に目が反応するようになってきた。迷いこんだ迷路の出口を探すような学習方法だが、それでも言葉に眼球が反応した時は、一瞬ながら脳のなかの閉じた回路が繋がったように見える。
シーラは、蟄居明けのウィルタに、手言葉の教師役をバトンタッチした。
そして今日、ウィルタは少女に「食べる、飲む、さじ、コップ」といった、食事の際の言葉を理解させようとしていた。手言葉と一緒に見聞きさせるのだが、これがなかなか難しい。まず聞こえているかどうかが分からない。そのことがウィルタを苛立たせていた。それにウィルタ自身、手言葉はあまり得意ではない。だから、ウィルタが手を動かすことに神経を取られていると、いつの間にか少女の顔が勝手な方向に向いていたりする。
それでもウィルタは、今はこれが自分の仕事だと思って、我慢して続けていた。
そうやって三時間、少女の反応は芳しくない。
口がしびれ、手がだるくなってきた。
いっそのことと思い、ウィルタは手言葉の動作を思い切り誇張してみた。踊るような身ぶりと手ぶりで、やりながら自分で笑ってしまいそうになる。
それでも半ばヤケで派手な動きを繰り返していると、少女の口元が少し緩んだ。
遠い空を眺める目つきそのままの瞳が、ウィルタの手の動きをゆっくりと追う。
「反応した!」
気を良くしたウィルタが、動きをエスカレート。
と、今度は少女の唇が震え、みけんにしわが寄る。
ウィルタが慌てて左右に手を振った。
「いいんだ、無理に反応しなくても。ぼくだって朝起きると、しばらくはボーッとしてるもん。何千年も寝てたんだから、一年くらいは、ぼんやりしてなくちゃさ」
弁解するようにウィルタは捲し立てたが、その時にはもう、少女はウィルタの声も聞こえているのかいないのか、ただ遠い磨ガラスの先にある風景に目を凝らすような、捉えどころのない表情に戻っていた。
結局、朝から昼餉を挟んで五時間少女に向き合い、ウィルタは降参とばかりに自分の顔をわし掴みにした。その指の間に、谷川沿いの道を上がってくる人影が見えた。
首に石黄色のマフラー。
「タターン!」と、ウィルタが手を振る。
坂の下から上がってきたタタンが、挨拶もそこそこに、荒い息をつきながら少女の顔を覗き込んだ。そして感嘆の息を吐く。
「すげえ、本当に蘇生したんだ」
「体はね、でも心は凍りついたままで、解凍の方法が分からない。とにかく話しかけを続けているけど、これが聞こえてるのかどうかも分かんない状態でさ」
ウィルタが少女の方を向いて、見本を見せるように手を動かした。
「これ、タタン、ぼくの、友だち……。タタン、友だち……」
タタンを指差し、手を動かしながら話しかける。
「シクンの手言葉か」
「うん、声だけじゃなくて手の動きも添えた方が、反応がいいんだ」
「なんだか、赤ん坊の相手をしているみたいだな」
「ブッダに芸を仕込もうとした時の方が、大変だったけどね、ブッダのやつ性格悪いから」
声が聞こえたのか、石の上に寝そべっていたブッダが、薄目を開けてウィルタを見た。
タタンが感心したように、話しかけに対する少女の反応を見守る。
タタンの祖父の蔵書には、古代人の蘇生の成功例が紹介されていた。
五十例ほどの蘇生例の中で、記憶まで回復した事例は三件。取り上げられた三人は、共に解凍直後は記憶喪失の状態にあり、のちに何かをきっかけに記憶が戻っている。
一例目は、今から七百年前に蘇生した中年の男性で、蘇生してから四十日後に、渡り鳥の群れを見たことで記憶が回復。二例目は二百五十年前の少女で、この場合はなんと蘇生してから五十年後、亡くなる直前に特殊な香苔の薫りで記憶が戻った。そして三例目は、つい六十年前のこと、二十歳前後の若い女性が、蘇生して八十日後に棺の中に当人と共に納められていた楽器の音を聞いて記憶が回復したとある。
三例とも、記憶は断片的に戻るのではなく、一瞬にして全ての記憶が回復している。
記憶というものは、それを司る脳の回路を閉ざした門さえ開けば、全ての情報が自由に出し入れできるようになるものらしい。
「この子の記憶の閂は、どうやれば外れるんだろう」
「記憶を司る中枢は、理性ではなく本能に近いので、五感に訴えるようなものが効果があると、本には書いてあったぜ」
「五感って……、目や鼻や耳に訴えろってこと?」
ウィルタの言葉で何か思いついたのだろう、タタンが指を鳴らした。
「例の花びらを見せるってのはどうだ。女の子なら、綺麗なものを見れば、回路が反応するんじゃないかな」
「石鼓谷の奥のあそこ……、だね」
目を交わして頷きあうと、二人は少女を立ち上がらせた。
その頃、シーラは町の薬種屋にいた。
ミトの女たちは男たちが曠野で集めた薬の材料を、薬種に加工することを仕事にしている。ブツがある程度溜まると、それを交易の市や町に持ち込んで売るのだが、その売却をミト・ソルガではシーラが担当、月に一度、経堂裏の丹薬商に足を運んでいた。
今日も、ミトの女たちから託された薬種を持ち込んだのだが、珍しく店の主人が留守で、若女将が応対に出てきた。丹薬商は布地の染料や顔料も扱っている。その染料で栗色の髪を一部薄紅色に染めた若女将は、シーラが持ち込んだ薬用の苔や鉱石粉など二十種類ほどの薬種を、慣れない手つきで一つ一つ確かめ始めた。物によっては手帳を捲って何やら確認をしている。そこに旅の夫婦がクスリを求めて来訪した。
普段よりも時間がかかりそうな雲行きである。
接客と検品の作業が終わるのを待つ間、シーラは調薬待ちの客用に置かれた長椅子に腰掛け、背後の棚に並べてある丹薬関連の本や冊子から、大部の辞書を引き抜いた。
町場の店に不釣合な古代語の大辞典である。
この時代、科学技術の用語には古代の言葉が用いられる。そのため技術関連の専門職に就いた者にとっては、古代語を操れることが技能の証となる。そのこともあるのだろう、
都で修行した店主は、店の箔付けも兼ねて、場違いな大部の辞書をこれ見よがしに店頭に飾っていた。
どっしりとした手重な辞書を膝に乗せると、シーラは外套のポケットから四角いプレートを取り出した。冷凍睡眠の棺に差し込まれていたもので、シーラは棺がクレバスに投棄される前にそのプレートを外して保管した。プレートに書き込まれた手書きの文字、古代の文字が、少女の名ではないかと考えたのだ。
実は、少女の名をどうするかが、丞師を囲んだ席で話題になった。
記憶が戻れば当然名前も判明するだろうが、今のところ、その可能性は低そうである。しばらくは記憶の回復を待つとして、当座の呼び名として、シクンの伝承話に登場する眠り姫の名前を少女の呼び名として使うことになった。しかしながら、もしプレートの文字が名を表しているなら、それを少女の名とするのが自然だろう。
プレートに書き込まれた文字の読み方が、薬種問屋の大部の辞書でなら分かるかもしれない。そんな期待を持って、シーラは今日ここに足を運んでいた。
馬車の車軸ほども幅のある辞書を、右に左に捲っていく。
旅の客に市販の廉価薬を勧めていた若女将が、薬種のチェックに復帰。計量皿に薬種を乗せ、分銅を動かしながら、シーラに話しかけてきた。
「わたしね、シクンの男の子が冷凍睡眠の棺を掘り出したって聞いて、てっきり棺の死体でミイラ作りの練習をするんだと思ったんですよ」
世間話のように喋り始めた若女将に、シーラは「またか」と思った。
ミイラ作りの風習は、シクンの民の中でも絶えたものなのだが、町の人たちからすれば、それがよほど奇異な風習に見えるらしく、シクンの話をする際に、野蛮な民を蔑視する見本として、必ず引き合いに出される。町の人間はまことしやかに囁く。非常食にするために、シクンは人の干物を作っているのだと……。
もっとも、若女将に、そういう悪意は見られない。興味本位なのだ。
「残念だったわねえ、そのまま蘇生してしまって」
今はミイラなど作ってませんよと、そう言いたいのを我慢すると、シーラは話題を変えるように店の裏手に視線を投げた。
「随分と経堂に人が集まっているようですけど、何か特別な行事でもあるんですか」
カビ止めの染薬を塗った赤紫色の爪で髪のほつれを掻き上げると、若女将が無邪気な声を上げた。
「ええ祈祷会、ここんとこ炭鉱が事故続きでしょ。パーヴァのところのバカ息子が、祖霊様にいたずらした天罰が当たったんじゃないかって、もっぱらの噂なの。それで一度、お祓いの意味で護摩を焚くことになったらしいわ。うちのダンナも動員されて、いい迷惑よね」
ひとくさり忙しい時期に亭主を呼び出された愚痴をこぼすと、若女将は新たに入ってきた客の対応に天秤の前を離れた。今度の客は身なりのしっかりした夫婦者で、出来合いの薬ではなく調合薬を頼んでいる。時間がかかりそうだ。
軽く嘆息すると、シーラは自身の黒髪を掻き揚げ、再度辞書の文字に目を落した。
ページを数枚めくったところで手が止まる。
指よりも先に、目が羅列してある古代の文字を押さえていた。
「やはりプレートの言葉は名前のようね。名前に汎用される熟語、読み方は『はるか』、意味は、季節の春に芳しい匂いの香り、『春香』か……」
様々な薬種の匂いが混じり合った匂いの坩堝のような店の中に、経堂の中庭で打ち鳴らされる太鼓と、数百人の人が経を唱和する唸りのような読経の音が、高く低く響き合いながら聞こえてきた。
ウィルタとタタンは交互に少女、つまり『春香』の手を引きながら、尾根道を歩いていた。十日ぶりに会ったこともあって声高に話していたタタンが、急に口ごもった。
そして今日、ミトに足を運んだ理由を口にした。
ウィルタが「エエーッ!」と、体をのけ反らせた。
タタンが告げたのだ。自分たちの家族が、ユカギルの町を離れなければならなくなるかもしれないと。離れるというより、追い出されるということらしい。
「それって祖霊様に鉄の矢を放ったことと関係があるの?」
恐る恐る正すウィルタに、タタンが首を振った。
関係無くもないが、一番の原因は叔父のガフィだ。ガフィは十年前に大失態をやらかしている。そこに四日前の雷光による火災騒動。これまでにもガフィは、飲酒の件で散々禁酒派の司経と衝突している。それやこれやで、町の司経は、ガフィが四面楚歌の今を狙って、ガフィを酔騏楼ごと町から追放してしまおうと画策しているということらしい。
これ以上ガフィが町にいると、どんな災いが降りかかってくるやも知れない。経堂令として即刻町から出て行くよう勧告を出すつもりなので、賛同してくれるようにと、そう司経は町の面々に呼び掛けている。おそらくは今日の祈祷会でその提案がなされるはずで、もし勧告が出たら、ガフィはユカギルに住めなくなる。経堂令に法的な拘束力はないが、町の人々の精神的な支柱である経堂の決定は、絶対だ。
絶望の縁に立たされたように、タタンが頭を抱え込んだ。
「片腕の叔父貴を一人で追い出す訳にはいかないだろ、そうなったらお袋と俺も一緒に行動することになる」
「そんな……」
「仕方ない、ガフィの世話を、お袋一人にやらせることはできないし」
先細りの声で言って、タタンは黙り込んでしまった。
ウィルタは何と言っていいか分からず、重い表情で少女の手を握り直した。
無言のまま三人は板碑谷の隣の谷間に入った。ここは石鼓谷と呼ばれる大きな割れ谷で、盆地を取り囲む尾根筋を切り裂き、後ろの丘陵地帯にまで谷の先端を伸ばしている。
石鼓谷を流れる小川は、谷の行き止まりに聳える岩壁の亀裂から流れ出ている。その菱形の割れ目の縁が、流れの上に建築の足場のように張り出し、そこを伝って割れ目の中に入って行けるようになっていた。
「久しぶりだな、ここに入るのは」
「もう二年前になるんだよね」
ここはウィルタとタタンが出会った、思い出の場所だった。
春香を間に挟み、三人は前後一列になって、岩の足場から割れ目に入った。外からの光が流れに反射、岩壁と天井で忙しなく揺れ、その照り返しが足元の濡れた岩肌を照らす。しばらく行くと、水の流れは岩の間に潜り込んで消え、それに代わって岩穴の先に、うっすらと青みがかった空間が見えてくる。岩穴の奥が氷の壁になっているのだ。
マトゥーム盆地の遙か東、オーギュギア山脈の峰々からは、幾多の氷河が流れ出ている。その多くはセヌフォ高原の北方で堆積して氷床となり、時を経て新たな氷河となって更に低い土地へと流れ出ていく。そんな氷床から押し出された小氷河の一つが、マトゥーム盆地の東の窪地で行き止まり、小さな氷河溜まりを形成していた。
目の前の薄青い氷の壁は、その氷河溜まりの側面だった。
なお二人が祖霊様に矢を放ったのは、この小氷河を一時間ほどさかのぼった地点、氷河がちょうど分岐した場所の氷河溜まりになる。
氷の壁に近づくにつれて、氷の表面に食い込んだ岩や砂が見えてくる。
石混じりの氷の壁に、ぽっかりと穴が空いていた。
ウィルタは春香の手を引き寄せると、腰を屈めて氷の穴に足を踏み入れた。
子供の背丈ほどの氷の穴は、氷河の中を水が流れてできた氷洞で、上下左右あらゆる方向にグネグネと迷路のように繋がっている。足を滑らさないように気を配りながら、春香の手を引き奥へと進む。急なところでは二人で春香を支えながら、更に奥へ。
目の前の少女は、何千年もの間氷の中で眠っていた。だから、氷河を見せれば昔のことを思い出すのではないか。よしんば記憶の縁に辿りつかなくとも、表情に変化が現れるのではないか。そう二人は期待をかけていた。それが少女は手を引かれるままに付いてくるだけ。ウィルタは気を取り直すと、狭い割れ目に春香を導き入れた。
そこは氷のホールだった。氷の壁が緩やかな曲線を描いて天井に達し、天井の薄い氷を通して、光のカーテンが幾重にも降り注いでいる。
「話でしか聞いたことがないけど、海の底ってこんな感じじゃないかな。君は何千年もこういう世界で眠っていたんだよ、ねっ」
光のカーテンの下に佇みながら、ウィルタが春香の様子を盗み見る。しかし、ぼんやりとした捉えどころのない表情には、変化の兆候さえ見られない。
落胆した顔のウィルタに、「やっぱ、あれかな」と、タタンがホールの先を示した。
ウィルタは頷くと、荒い手つきで春香の手を引いた。氷の回廊を抜けて二人が春香を引き入れたのは、押し潰されたボールのように平たい氷の穴だった。
狭い穴の中を腹ばいになって進み、体二つぶん入ったところで、ウィルタは春香に上を向かせた。氷の中に淡い薄桃色のものが散らばっている。花びらだ。もちろん本当の花びらではない。おそらくは、装飾用の人工の花弁か何かが、氷に埋もれたものだろう。
二年前、偶然にもタタンとウィルタは、同じ日の同じ時刻に、この石鼓谷奥の氷河に潜り込み、迷い、花びらの散る氷の穴で鉢合わせした。氷の壁を挟んでの出会いだったので、互いに相手をクレバスに落ちて凍りついた人間だと思った。もちろん相手が動いたので、直ぐにその誤解は解けたのだが……、
それ以来二人は、氷穴の友と呼び合う仲になった。
春香が言葉を理解できないのは分かっていたが、ウィルタは構わず話しかける。
「ねっ、綺麗だろう。ここの氷は、遙か東のオーギュギア山脈から流れてきたものなんだ。万年雪に覆われた山脈の麓には、古代の遺跡もあるっていうから、きっとこの花びらも、そういう所から運ばれて来たんじゃないかな」
身振り手振りで喋るウィルタの肘を、タタンが指で突いた。見ると氷の中に金属製の丸いものが埋もれている。氷河が海に没する辺りでは、氷河の運ぶ雑多なものが海岸に打ち寄せられ、時にその中から古代の品が見い出される。しかし氷河の中で古代の遺物に出くわすのは、奇跡のようなもの。ウィルタは腰の革袋からナイフを取り出すと、春香そっちのけで氷の壁にナイフを突きたてた。
氷を砕き、中の物を掘り出す。
透明な蓋の中に長短の三本の針が並んだそれは、懐中時計だった。
時計に顔を寄せたウィルタとタタンが、二人同時に目を見張った。糸のような秒針が、円を描いて回っているのだ。なんと針が動いている。
信じられないとばかりに顔を見合わせた二人の前で、突然、「リン」と、涼やかな音が鳴った。さらに二回「リン……、リン……」と、時報だ。
慌てて盤面に目を戻した二人が、今度は、身を硬くして狭い穴の天井を見上げた。
時計とは関係がない。体を通り抜ける震動を感じたのだ。
タタンがクレバスに落ちた日のことが脳裏によみがえる。震動は小刻みに続いている。嫌な予感が脳裏をよぎり、心臓が訳もなくドキドキする。
大地が揺れる地震というものがあることを、ミト長のインゴットさんから聞いた。セヌフォ高原は、地震の起きない土地だということもだ。だがそもそも、この震動がその地震というものなのか。ユカギルの炭鉱で発破が使われる際にも、大地は揺れる。しかしこの細かな揺れは、その時の震動とは明らかに違う。
外で何が……。
氷の中にいる時は、高い所に上っているのと同じで、不安な気持ちが二倍にも三倍にも膨らむ。春香の手を引くと、タタンとウィルタは急いで氷の洞窟を引き返した。
氷河を這い出し、岩穴を抜けて石鼓谷へ。
複雑に折れ曲がった地形のために、石鼓谷の奥からマトゥーム盆地は見えない。二人は谷を盆地方向へは下らず、逆に後方の尾根筋へと走った。左手の八方尾根は、盆地を取り巻く尾根筋の中で最も高く、名前の通り盆地と盆地周辺を一望にできる。
春香の手を引き、息を切らせて急な斜面を登る。
尾根筋の高台に出た二人の目に、マトゥーム盆地の全景が飛び込んできた。
盆地の西寄り、ユカギルの町に、タタンの目が釘づけになった。
そして数秒、目を皿のようにしてユカギルの町を見つめるタタンの顔に笑みが浮かんだ。
「あれは、そうか……、やったんだ、そうに違いない!」
目を輝かせて言うと、タタンはウィルタの腕を掴んで言い聞かせた。
「見ろよあれを。町の中に大きな煙突があるだろう。そこから白い煙が出てる。黒い煙じゃなくて白だよ、白。あれは蒸気だ。きっと熱井戸の底で、新しい熱床が見つかったんだ!」
ひっくり返らんばかりに胸を反らせたタタンが、空に腕を突き上げる。
「すごい、すごいぞ、熱床が見つかったんだ!」
歓喜の雄たけびを周囲の丘に響かせると、タタンは跳ねるように牧人道を走りだした。
その様子をウィルタは春香の手を引きながら、あっけに取られたように見ていた。
第八話「祝典」・・・・