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星草物語  作者: 東陣正則
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テント村


     テント村


 夕刻、だだっ広い湿原のなかの宿郷に到着した。

 建物の並んだ村ではない、テント村である。雨期の増水期に施設を撤収できるよう、沼湖地に囲まれた街道沿いの宿営地では、宿泊施設にテントが使われる。そのテント村の周りでは、家畜の背が石を敷きつめたようにひしめき、その家畜の背に埋もれるようにして、牧人たちの天幕が見え隠れしていた。

 春香たちを乗せた荷馬車は、テント村の二重の柵で囲われた一角に乗り入れた。そこに、街道筋で馬車業を営む者たちが共同で運営する、ゲスト用のテントがある。

 馬車を降りた三人に御者のビーズひげが、「人間、腹が減れば心が荒む。日が沈んだらエルフェの連中のテントには近づくな。それに荷物は自分の手から離さねえことだ」

 そう忠告すると「明朝の出発は七時だ」と言って、鉄刺線で囲われた馬車溜りの中に荷馬車を率入れていった。

 三人は直ぐに客引きに囲まれ、受付の天幕の下に連れて行かれた。宿泊するための鑑札を買うのだ。渡された鑑札にテントの番号が刻まれている。

 入り口が二重になった大型の円錐形のテントが三十ほど並ぶ。手前から五番目のテントに、鑑札と同じ数字があった。

 垂れ幕をめくって中に入ると、天井が高いせいか思ったよりも広く感じる。支柱で支えられたテントの中央部分は、オバルが手を伸ばしても届かないほどだ。翔蹄号の幌と同じように、テントの側面に数カ所、透明なシートが明かり取り用に填め込まれ、床には防水シートの上に厚手のフェルトが敷き詰められている。

「当たりだな、このテントは」と、オバルが嬉しそうに指を鳴らした。

 新式のテントらしい。さらにテント中央、支柱の脇には、油を燃やすストーブが置かれていた。それを見てオバルがウンウンと何度も頷く。火炎樹の樹脂から精製した油は、餅などに加工できる大切な原料で、ほかの地域なら暖房に使うことはない。この先の塁京で油が豊富に生産されていることの証だろう。

 テントの中ではすでに家族連れが一組、旅装を解いていた。

 オバルは風邪気味ということもあってか、テントの奥の暖かそうな場所を確保すると、すぐに寝袋を広げた。そのオバルが咳を抑えて二人に言った。

「荷物は俺が見てるから、君たちは外で食事をしてくるといい。そのついでに何か温かいものを買ってきてくれ」

「三人前、それとも四人前」

 オバルが微熱で火照り気味の顔を崩した。

「体のサイズは二人前だが、胃袋は人並み。普通でいい」

 二人は声を揃えて「オーケー」と返事をすると、雪の舞う外へ飛び出して行った。

 雲のせいか辺りは薄暗い。二人は、まずは宿泊用のテントの先、湯気らしきものが立ち昇っている場所に足を向けた。

 幌馬車が通路を挟むように左右に二列、荷台を通路側に向けて停めてある。通路の上に綱を渡して天幕で覆っている様子は、即席のアーケード街である。

 様々な商品が荷台に並べられている。衣類、乾物、医薬品、工具、酒、靴、燃料にする家畜の糞まである。人だかりがしているのは、おおむね食料を扱う店だ。買い出しをする人の間に分け入り、アーケードを抜けると、蒸気を立ち昇らせる大鍋が、露天に据えられていた。温かい乳や、肉の放つ濃厚な匂いが辺りに渦巻いている。

 ありきたりのミルク鍋に始まり、乳粥に、モツ鍋に、血のスープに、屑餅のダンゴの入った雑煮鍋、脂肪がギトギトと浮いた舌を火傷しそうな油汁まで、鍋だけでもよりどりみどり。沸き立つ湯気の向こうでは、熱油のなかの餅が泡音激しく弾け、油切りのカゴの上では、引き上げられた素揚げの肉が、香ばしそうな匂いを辺り一面にまき散らしている。馬車の上で寒風に曝されていた体が、待ち切れないとばかりに生唾をこみ上げさせる。

 なかでも一番食指が伸びるのが、モツ鍋だ。

 旅に出た当初、盲楽の宿郷で買ったモツ鍋が、具を探すのに苦労するような泥汁だったのと比べ、こちらは正真正銘、牛の内臓がぎっちり放り込まれた、モツの煮込み汁だ。

 ところが、ほかの鍋に人だかりがしているのに、この具沢山のモツ鍋に、ほとんど人が寄りついていない。それでも匂いにつられたのか、御者帽姿の若い男がモツの煮込みを椀に買って、その場でズッとすすり上げた。

 脇で眺めていた同業の猪首男が、「どうだ」と声をかける。

 若い御者がしかめっ面で顔を上げた。

「モツ鍋は煮詰まってから食べるもんだ、食べ頃になるには、まだ半日かかる」

 言って先輩風を吹かす歳嵩の猪首男に、別の年配の御者が「お前だって、ここに流れてきた時ゃ、真っ先に生煮えのモツ鍋に手を出しただろうが」と、笑って冷やかす。

「止せよ、昔の話は」と頭を掻きながらも、猪首の男が、椀を手にした若い御者に言い聞かせる。つまりモツ鍋は、作って丸一日以上経った、鍋の底に残ったやつが一等旨いのだ。ここではその煮こごりを、蒸し餅に挟んで食べるのが通の食べ方だった。

 御者仲間は、朝一番に煮詰まったモツ鍋を食べてから御者台に上がる。そうすると一日体が冷えることがない。朝はモツ鍋、夜が酒。それが御者たちの決まり文句だ。まだ胴巻きも様になっていない御者なりたての若い男は、そのことを知らなかったらしい。

 とにかく寒空の下で仕事をしている連中にとって、唯一の楽しみは、体を温めてくれる酒と食い物。話題が食べることとなると、誰彼と言いたいことがあって、鍋の煮こごりを奪い合うように話を始める。御者仲間は、モツ鍋をストーブ代わりに囲み、口々にこの街道の食い物談義に花を咲かせ始めた。

 その御者たちの話に聞き耳を立てていたウィルタを、春香が引っ張った。

 乳粥の大鍋が吹き上げる湯気の向こうに、テント村全体を囲った柵がある。その柵に張られた金網に、赤い衣服の子供たちが顔を押しつけ、こちらを見ていた。

 子供たちの後ろには、痩せた牛の群れと、天幕の下で夕餉の支度をするエルフェの人たちの姿がある。ヨシの一束で温めたミルク粥を、天からの授かり物のように啜っている。風邪引きの人が多いのか、咳き込む音が引きも切らずに漏れ聞こえる。

 春香とウィルタは顔を見合わせると、鍋を買うのは辺りを一回りしてからということにして、その場を離れた。馬車の屋台はまだ先にも続いている。

 宿郷で売られる商品は、町なかよりも割高になるのが普通で、そのため旅に必要な物の買い出しは、バレイの町で済ませてある。それでも、アーケードの左右に並べられた盛りだくさんの商品を見るのは、お祭りの屋台を覗くようで楽しい。

 衣料品が安いことに春香が驚きの声をあげた。

「うわあ、残念、どれもバレイの市場の半額以下だわ」

「ほんとうに安いや、こんなことなら、ここで買うんだったな」

 そう言いつつも楽しげに商品を見ていたウィルタが、吊るしてある帽子の値札を見たとたん、口をへの字に押し曲げた。そして悔しそうに頭の防寒帽を手で押さえた。

 ここまでの旅の間、ウィルタは帽子を被っていない。

 シクンのミトを後にする直前のこと、ユカギルの町を見下ろす尾根筋で、風車の羽に愛用の帽子を掠め取られ、それを取り戻せないまま旅に出てしまっている。この間ずっと、外套の頭巾か手ぬぐいが帽子代わりで、旅の途中で手にした本式の帽子といえば、グーの籠の中に入っていた毛皮の賊帽だけだ。ところがこれは、下手に被って賊と間違われても困るので、結局石鱗病の人たちの長屋に残してきた。

 そしてその後は、また帽子のない旅を続けることに。

 どうしても帽子が必要というのではない。しかし幼い頃からシクンの民族帽を肌身離さず被ってきたウィルタとしては、頭の上に帽子がないというのは、何とも落ち着かないことだった。そんなこともあって、ウィルタとしては早くどこかで良い帽子、できれば以前から憧れていた、タタンの革の防寒帽と同じものを手に入れたいと考えていた。

 それがようやく実現した。オバルさんに宿の主人と交渉してもらい、盗賊の拳銃を買い取ってもらった。そのお金を使って、バレイの市場で購入したのだ。

 手に入れたのはタタンの帽子と瓜ふたつの防寒帽。ところがそれとそっくりの帽子が、いま目の前で、五分の一ほどの値で売られている。ていねいに脂を塗り込めて手入れした自分の帽子が、なんだか馬鹿にされたようで情けなかった。

 ウィルタは、その口惜しい気持ちを振り払うように、背伸びをして辺りを見回した。

 心が嫌な想いに占領された時は、何か美味しい物を食べるに限る。お腹を膨らませて、嫌な気持ちを体の外に押し出すしかない。

 とにかく何か食べよう。そう思って革の防寒帽をギュッと被り直したウィルタに、衣料品をずらりとぶら下げた屋台の下の、あるものが目に止まった。

 ウィルタが春香の袖を引っ張った。

「そういえば、春香ちゃんは、まだ一度もお金を使ってなかったよね」

 問われて春香が頷く。実はそうなのだ。

 ユカギルを出発する際、シーラはウィルタに一括してお金を渡した。当たり前だが、あの時の春香は、まだ片言の言葉しか喋れず、この世界のことを何も知らなかった。その後、普通に喋れるようになってからは、お金を使う機会がなかった。改まってお金を持たせてくれと頼むのも変で、そのままお金を持たない旅を続けてきた。

 ウィルタは春香の手を取ると、「この世界で生きていくには、お金の使い方も覚えなきゃ」と、衣料品の並ぶ荷台の前に春香を誘った。ぶら下げられた衣類の下に、雑多なデザインの小物入れが山積みになっている。

 その中からウィルタが、真っ青な藍晶色の巾着袋を引き抜いた。

 胡坐をかいて座っている店の男に値段を聞く。そして駆け引き。

 こういう時のウィルタは、意外と粘り強い。曠野の育ちだが、百尺屋の親父とズヴェルの値段を交渉した経験が生きている。しつこくやり合い、二十八ビスカと言われたのを、半値以下の十二ビスカに負けさせてしまった。

 お金と交換に巾着袋を受け取ると、「これが春香のお財布」と言って、ウィルタが藍晶色の巾着袋を春香に手渡す。さらに自分の財布から小銭を取り出し、春香の手に並べた。

 お金を渡されて嬉しそうな顔をするのも子供っぽいと思い、春香がわざと「お札はないの」と、ぶっきらぼうに聞くと、「うん、慣れてきたら順番にね、無駄遣いをするといけないだろう」と、ウィルタが軽くウインク。

「はいはい、大蔵大臣様」と、春香はいかにも不満げに答えたが、それでも内心は気持ちが弾んでくるのを感じていた。この世界に来て初めてお金を手にしたのだ。何といってもお金で物を買うのは、二千年と三カ月ぶりだ。

 春香はさっそく貰った硬貨を握りしめ、アーケードの出店を覗き始めた。素見で眺めるだけと、買うことを前提に見るのとでは、気合いの入り方が違ってくる。

「ほら春香ちゃん、手始めに、そこの屋台で売ってる焼き餅を買ってみなよ」

 旅の間に何度も口にしてきた、赤いタレを塗ってこんがりと焼き上げた焼き餅が、四角い網の上でジリジリと耳をくすぐる音をたてている。今までに見てきた板餅よりも一まわり大きな板餅で、ソースの上には細かく刻んだ緑色のものがまぶしてある。

 春香が屋台の前で止まると、店のおばさんが、試食してみなよとばかりに、切り落としの小さな焼き餅を味見用に差し出してくれた。

 味見もそこそこに、大ぶりの焼き餅を二つ注文。一個二ビスカで、二個四ビスカ。

 硬貨の上に五と刻印されてある炎樹紋の硬貨を、おばさんに渡すと、油紙に包まれた焼き餅が二個、それにお釣りとして、ヨシの穂柄の、やはり五と刻印された穴あき硬貨と、一と刻印された日輪マークの硬貨の、合わせて二個の硬貨が返ってきた。

 首を傾げて手の平の硬貨を確かめる春香を、店のおばさんが不審げに見やる。

 ニヤニヤしながら、ウィルタが春香の顔を覗き込んだ。

 つまりこういうことだった。硬貨の額は、表の数字ではなく、その材質と大きさで決まっているのだ。満都時代に作られた五ビスカ硬貨は、今の額面に換算して十ビスカ硬貨として流通。額面通りなのは、日輪マークの一ビスカ硬貨と、塁京で発行されている幾つかの波形硬貨だけで、それ以外の約二十種類の様々な地域や時代の硬貨は、額面の数値が今の評価額と異なるので、町なかの子供たちは、座学の幼年コースで、まずその換算方法を教わるのだという。

「どうしてそれを先に教えてくれないのよ」

「人間、最初につまずいたほうが、早く覚えるだろう」

「ウーン、親切なのか意地悪なのか、よく分からない」

 ぼやきつつ春香が買ったばかりの焼き餅を、ウィルタの口元にちらつかせる。

それを受け取り、ウィルタがガブリとかぶりつく。

 とたんウィルタが「アチィーッ」と悲鳴を上げた。口から舌を突き出し、ハーハー息をする。焼き餅の中から熱々の融けた固乳が垂れている。

 その様子を春香は手の平のコインをもてあそびながら、澄ました顔で見ていた。

 もちろん春香は、まだ焼き餅に口をつけていない。

 ウィルタが口をハフハフさせながら、春香を睨んだ。

「熱いのを知ってて、教えなかっただろ」

「あら、そういえば店のおばさん何か言ってたな、舌を火傷しないようにだっけ」

「まったく、二千歳の化石人間!」

 ウィルタが鼻の穴を広げて文句を投げる。

「なによ、貝の蓋!」

「何だよそれ」

「財布の口が固いケチをそう言うのよ」

「言ったな」

 互いに文句をキャッチボール。それでも顔は笑っていた。手に伝わってくる焼き餅の熱さと、鼻をくすぐる香ばしい匂いが、自然と表情を綻ばせる。

 二人はトロリと融けた固乳入りの焼き餅を頬ばりながら、出店に並んでいるものを見て歩いた。そしてそろそろモツ鍋の場所に戻ろうとした時、出店の横の広場に、人だかりを見つけた。食べ物とは違った良い香りが漂っている。二人が大人たちの背と背の間から中を覗くと、見慣れた人の姿がそこにあった。

 あの薬売りのラジンが、雪の上に即席の店を開いていた。

 借り物なのか、周りの屋台でも使っている小卓と、背もたれのない足の短い丸椅子が四脚ほど並べてある。小ぶりの卓の上で、ラジンは薬苔茶をたてていた。辺りに漂う良い香りは、その薬苔茶の匂いだ。

 ラジンの後ろには『薬を買ってくれた人には、薬苔茶を一杯ご馳走』と、赤地に黄色で染め抜かれた派手な幟が掲げてある。が、その『買ってくれたら』という文句と関係なく、ラジンは、たてた薬苔茶を集まった人にどんどん振る舞っている。

 一通り茶を行き渡らせると、ラジンは視線を集めるように鈴を鳴らし、取り囲んだ人たちに薬箱のからくりを披露し始めた。

 小手調べのように二つほどからくりを見せると、引き出しの一つを開け、中を改めたうえで、そこの手近な持ち物を何か入れてくれるよう、客に呼びかけた。

「協力してくれた人には、薬苔茶を進呈」と気前良く言って、ラジンが小袋を振ると、呼び水に乗ったように、最前列にいた太鼓帽の男が「これを」と、腰に吊るしたベルト飾りを差し出した。その根付のような金属製の飾りを、男の手で引き出しに入れてもらい、きっちり閉める。ラジンが箱の鈴を二度ほど鳴らして呪文を唱え、再び引き出しを開けると、ベルト飾りは消えていた。

「さてさて根付はいずこに」と、口上よろしくラジンが別の引き出しを開ける。

 当然見物の客たちも、そこにベルト飾りが……と思っていると、引き出しの中には、薬苔茶の小袋が入っているだけだ。

 困惑顔の太鼓帽の男を横目に、ラジンが引き出しの小袋の束を掻き混ぜ、なかの一袋を摘み上げた。太鼓帽の男に小袋を渡して、開けてみてくれと催促する。

 男が小袋の封を切ると、中から茶葉にまみれたベルト飾りが出てきた。

 あっけに取られた太鼓帽の男を前に、ラジンが大げさに胸を撫で下ろした。

「いやあ出てきてよかった。時々本当に無くなってしまうことがあるんだ。だんな、こちらの封を切ってない袋は、ベルト飾りを貸していただいたお礼、受け取ってください」

 期せずして、パラパラと拍手が鳴った。

 春香はラジンさんの手際に、学芸会で先生が演じた手品を思い出した。借りたものを仕舞うように見せて、実は自分の手の中に入れておき、持ち出したパンや果物にそっと押し込んで、客にそのパンや果物を割ってもらうのだ。まあ奇術の種はいいとして、ラジンは、それでも薬苔茶を売ろうとしない。またまた、サービスのお茶を入れ始めた。

 お茶を配りながら、慣れた口調で客に話しかけ、箱のからくりを披露し、そして合間に、薬や薬苔茶のウンチクをたれる。からくり付きの薬箱が人寄せの道具だと分かっていても、ラジンの手際や口上には、投げ銭をしたくなるような心地良さがあった。

 そうこうするうちに、ぽつぽつと薬苔茶を買う客も出てきた。その間にもラジンは、サービスの薬苔茶をたてていく。

 おかげでどんどん見物人の数が増え、前で何をやっているのか分からない後ろの人たちが、割り込もうとして前列の人を押す。その押し合いする人に挟まれて、ウィルタは足の甲を靴で踏まれた。思わず目を閉じ、顔をしかめて屈みこんだ拍子に、二人は最前列に押し出されてしまった。

 そのとたん、ラジンと目が合う。

「また会ったな」という目で、ラジンは嬉しげに口元を緩めると、ポケットに手を突っ込み、手の平にすっぽりと収まる牛の人形を取り出した。周りを取り囲んだ客たちも、今度は何が始まるだろうと注目している。これはもう、ほとんど大道芸の世界だ。

 ラジンに請われて、ウィルタが牛の人形を箱の上の出っ張りに差し込む。すると人形がオルゴールの音とともに回り始め、音楽に合わせて、牛の絵の描かれた引き出しが、迫り出すように前に出てきた。

 ラジンが引き出しから丸い飴のようなものを摘み上げた。

「さあて、これが何の薬か分かるかな」

 ギョロリとした目玉を悪戯小僧のように細めたラジンに、

「薬なの、ぼく、飴かと思った」と、ウィルタが小首を傾げて答える。

「ははっ、これはミルクキャンディー。子供にとって、キャンディーは薬。この飴を持っていれば、寒い雪のなか、牛を連れて歩かなくてもいい。おまけにキャンディーの中には、風邪薬が仕込んである。この寒さだ、子供はいつ風邪を引くか分からない。ぜひ、お子さんに、ミルクキャンディー味の風邪薬を。一個、たったの一ビスカ、お買い得だよ、さあどうだい」

ウィルタに向かって話しているようで、その実、周りの大人たちに呼びかけている。

 ウィルタはラジンの軽い口調に乗せられて、思わず「牛の人形と、キャンデー二粒で合わせて十ビスカ」と、注文を口にした。

 ラジンは頭を掻きながら、それでも待ってましたとばかりに、

「牛飼いが牛を売っちゃあ、ミルクが取れない。それは後生だ。でも、ご愛敬。飴三個で二ビスカに負けとくよ、さあ、どうだ」

 いいテンポの駆け引きに、思わず周りの客もつられて、笑いがこぼれる。

 春香がウィルタの肘を突いた。

「なに?」

「あの飴、オバルさんにどうかな」

「そっか、風邪気味なんだよな」

 ウィルタがさっと手をあげ、「分かった、一つ」と応じる。

「ほい、まいど」と返すと、ラジンはギョロ目に真面目な光を浮かべ、「どうした、風邪なのか」と、小声でウィルタにささやいた。

 ウィルタが肩を竦ませ「ぼくじゃなくて、あのノッポのオバル、いやルボッックさん。風邪気味で熱ぽいって言ってたから」

「なるほど、でも、あの図体では三個でもまだ足りない。それに大人にはもっと良い薬がある、苦い薬がね。大人には、口がひん曲がるくらい苦いのがいい。人生の甘いも酸いも嗅ぎわけた大人には、こういう苦いのが効く」

 ラジンが今度は小細工なしに、スラッと引き出しを開けた。

 そして取り出した丸薬を指で摘み、周りの客に回し見せる。

「はいはい、大人用には、この苦い風邪薬。大人にしか分からない苦み、人生の苦みが沁み込んでいるよ。艱難辛苦の重みで風邪も退散、さあ、お立ち合い」

 口上を口にしながらラジンは、その苦い薬を二個、端紙に包むと、

「はい、大事なお父さんに薬を買って帰るその優しい心に、感謝感激感動の雨あられ、二個で大負けの、一ビスカだ」

 ラジンは薬苔茶の一袋と合わせて、その小さな紙包みをウィルタにヒョイと手渡した。

「ありがとう」と、笑顔で包みを受け取る。

 そして腰のバッグに手を入れ、ウィルタはアレッとバッグの中を探った。入れてあるはずの巾着がない。さっき春香に小銭を渡した後、ちゃんとバッグに戻したはずなのに。

 ウィルタが体のあちこちを探る。その様子を見て、春香が先ほどお釣りで貰った一ビスカ硬貨を、素早くラジンに差し出した。

「偉いねえ、もうサイフの紐を握っているとは、お嬢ちゃん、いい女将さんになるよ」

 ラジンが笑って春香の手から一ビスカ硬貨を受け取った。

 礼を言って、二人は人だかりの外に出た。

 ウィルタは、まだ不安な表情で、外套の内ポケットを探っている。

「どうしたの」と春香が聞くと、「財布がなくなっているんだ」と、ウィルタが泣きそうな顔で答えた。「盗られたんじゃ?」という春香の指摘に、「そうか、さっき足を踏まれた時だ」と、ウィルタが頭を抱えた。

 踏まれた足に注意を向けておき、その間に物を抜き取る。よくある手口だ。

 後ろを振り向き、ラジンさんを取り囲んでいる大人たちの背中を、きつい表情で睨む。

 と眉の吊り上ったウィルタの目が、人だかりの手前に落ちているものを見つけた。

 巾着袋だ。走り寄って拾いあげると、靴で踏まれたのか、泥まじりの雪が、靴底の模様のままにへばりついている。その巾着袋の底がツーッと下がった。

 袋を開けると案の定、中に入っていたお金は全て抜き取られ、残っていたのは、ウロジイから貰った灰色の石だけ。その細長い筒型の石も、先が割れている。

 袋をひっくり返すと、小指の先くらいの小さな欠けらが二つ、手の上に転がり出た。

「あーあ、欠けちゃったね」

 ウィルタは石のことも、そして中身のお金のことももちろんだが、それ以上に、巾着袋が他人の靴で踏みにじられたことに腹が立っていた。その巾着袋は、ウィルタの十歳の誕生日に、「町に出入りしているあなたには、財布が必要かしらね」と、シーラさんが渡してくれた記念のものだ。

 脇で見ていたのだろう餅屋の親父が、薄笑いをしながら話しかけてきた。

「盗られたんなら諦めな、金は紐でも結んでない限り、返ってきやしねえ。命を盗られなかったことに感謝して、今日はさっさと寝ちまうことだ」

 慰めとも嘲りともいいがたい言葉に、ウィルタの顔が歪む。そして手の平に乗っていた石を地面に叩きつけようと、手を振り上げ……、

 慌てて春香がその手を止めた。

「駄目よ、せっかくウロジイが、旅が無事に成就するようにって願を掛けてくれた石なのに。割れてたっていい、持っていれば、きっと良いことがあるわ。ほら、チャビンさんのくれたお守りだって、ちゃんと役に立ってくれたじゃない。人の気持ちの込められた物は、粗末にしちゃいけないの」

 ウィルタの背中をさすりながら、春香が子供を諭すように言い聞かせる。

 振りかざした手をゆっくり下ろすと、ウィルタは奥歯を噛みしめ、ウロジイの石を巾着袋に押しこんだ。

 春香が、ウィルタの手に残った石の欠けらを、指先で摘み上げた。

「この欠けらは、わたしが貰うね。わたしもウロジイの思い出の品、持っていたいもん」

 指先ほどの欠けらを二つ、丁寧に胸の内ポケットに仕舞うと、春香はウィルタの背に手を当て「行こう」と促した。

 歩きながら、怒りが治まらないのか、ウィルタが荒い鼻息をつく。

 その気持ちを労わるように、春香が誘った。

「ねっ、さっきの乳粥を買って、オバルさんの所に帰ろう。あの乳粥美味しそうだもん。あれを食べて今日は寝よう。お金のことは、オバルさんに相談すればいいじゃない」

 ウィルタは黙って頷き、春香に引っ張られるようにして天幕の湯気に向かった。

 持参した器に乳粥を入れてもらいテントに戻る。

 うなだれるウィルタに代わって、春香が事情を説明すると、オバルは自分の手持ちの金でそのくらいはなんとかなると、ウィルタを慰めた。

「代わりにこの薬を」と、春香がさっきラジンさんから買った丸薬を渡すと、

「ウーン、高い薬についたな」と、オバルが火照った顔をのけ反らせた。

 それでも温かい乳粥を食べると、ウィルタも諦めがついたのか、強ばった表情が解れてきた。オバルが乳粥の上澄みの汁で薬を飲みながら、慰めるように言った。

「高い授業料を払ったっていうのかな。今後は気をつけろということだ。難民同然の人が、こんなに出てる。人の心も荒んで当たり前、とにかく貴重品は身につけて離さないようにした方がいい」

 日が暮れかけているのか、テントの中にぶら下げてある白灯の輝きが、明るく感じられる。その明かりに魅かれるように、食事を済ませた人たちが、荷物を抱えてテントの中に入ってきた。最初からテントの中にいた家族連れは、すでに寝袋に潜り込んでいる。続くように、荷物の整理を終えた者が寝袋を広げる。中央のストーブに足を向けての雑魚寝で、あっという間にテントの中に鼾が響き始めた。

 ウィルタたちも夕食を済ますと、直ぐに寝袋に入った。

 オバルの地響きのような鼾が鳴り響く。体が大きいだけあって豪快な音だ。

 八時を回って、見まわりの人が白灯の明かりを絞ってからは、遅れて入ってきた一団が酒を飲みながらボソボソと話をするだけで、みな完全に寝入っていた。

 ところがウィルタは、お金を盗られたこと、財布を踏みにじられたこと、それにオバルの豪快な鼾が耳について、なかなか寝つかれないでいた。旅の疲れを取るためにもそろそろ眠らなければと固く目を閉じるのだが、一向に眠くならない。

 やがて、その声が耳に入った。

 酒を飲みながら話をしている一団のなかに、聞いたことのある声が混じっている。聞き役といった感じであまり喋らないが、確かに耳にしたことのある声だ。なかなか思い出せなかったが、しばらく耳を澄ませているうちに、それが翔蹄号で一緒だった丸眼鏡の商人、グリビッチさんの声だということに気づいた。

 話し声は一度気になると、自分の意識とは関係なく、耳が勝手にその音を追いかけてしまう。眠らなくてはという気持ちとは裏腹に、余計に目が冴えてしまった。

 困ったものだと嘆息しつつ、昼間、馬車の上でオバルの真似をして耳栓を作ったことを思い出した。どこに……と、ポケットの中に手を入れ、耳栓の布切れを指が探し当てた時、「懸賞金」という言葉が耳に飛び込んできた。

 反射的に聞き耳をたてる。ただそういう時に限って、声は小さくなって、何を話しているのか分からなくなる。しばらく耳を澄ませて、またウトウトとしかけてきた時、今度は耳がしっかりと話の内容を捉えた。

 男たちは、先日マカ国のキャバで行われた、銃の取り締まりのことを話題にしていた。

「おまえ、あの摘発の現場を見たんだろう」と、誰かが話を振ると、振られた方の男は、喋りたくてうずうずしていたのか、「ああ、なかなかの見ものだったぜ」と、すぐに話に乗ってきた。

「あんなボロい荷車で運んでいたなんてな。長銃六十丁。それに最初にとっ捕まった馬車は、おとりだったっていうんだ」

 なんとなく気配で、車座になって話をしている連中が身を乗り出したのが分かる。同じ一点から声が聞こえてくる感じだ。別の男の声が続く。

「しかし、禁制の銃をなんで運んだりするかね、捕まったら五年は閉門扱いだろう。少々の儲けじゃ、割に合わねえと思うが」

「馬鹿だな、銃が一番いい儲けになるからだよ。おまえさんは北から流れて来たばかりだから分からねえだろうが、いま塁京の二つの都の関係が危ういんだ。表立っては友好関係を保っているが、裏では、いざという時のために、武器を買い漁っている。そのせいで、銃の値段が十倍近くに跳ね上がっているのさ」

 ガラス瓶とコップの触れ合うカチャカチャという音に続いて、現場に居合わせたという男の声に戻る。

「それより、大捕り物があった後、おかしな話を聞いたんだ。押収した六十丁の銃、それが、どれも旧式の粗悪品で、良い値で売れるような代物じゃなかったっていうんだ」

「どういうことだ」

「そんな危険を冒したり、おとりを使ってまで運ぶようなブツじゃないってことさ」

「よく分からねえな」

「まったく、血の巡りの悪いやつだな」

 会話の中心にいる男が、見下したように言う。

「つまり、六十丁の銃の方も、官憲の目を晦ませるための、おとりだったんじゃないかって。二重三重の手を打って、どうしてもあの街道を抜けさせたかったブツがあったらしい」

 男たちの息遺いが止まった。

 一呼吸置いて「考え過ぎなんじゃねえか」と、グリビッチの声。

 しかし、現場を見たという男が言い張る。

「いや銃の押収で、現場の役人は表向きは大手柄だ。実のところ、下手な賄賂なんかよりも、そういうことの方が裏工作では効くんだ。手柄と引き替えに街道をパスさせてもらう。察するに、これはかなり大物の仕込んだ策略だぜ」

「考え過ぎのような気がするな。つまるところ、最初の馬車も何の関係もなくて、端からボロい銃を運んでいたというだけの話だったんじゃねえか」

「ありそうなことだ」

 話は尽きそうになかったが、ウィルタは聞き耳をたてるのに疲れ、握り締めていた栓を耳の穴に押し込んだ。

 男たちの話はその後も続いたようだ。


 そして夜半、ウィルタは何となく寝苦しくて、目を覚ました。

 テントの天井に、光量を絞った白灯の明かりが映っている。さすがに人の話し声は聞こえない。そう思ったら、自分が耳栓をしていたことに気づいて、ウィルタは苦笑いした。

 耳栓を外すと、テントの外も音が絶えている。この静けさからして外は雪だろう。寝息が幾つも鳴っている。オバルさんのいびきも治まったようだ。

 ほっとして目を閉じようとした時、ウィルタは自分の体が妙に熱っぽいのに気づいた。オバルさんの風邪がうつったのだろうか。額に手を当ててみるが、寝袋の口から出ている額は冷たい。熱っぽいのは上半身ではなく、腰の下だ。

 実際、手を回すと腰の辺りが生温かい。まさか寝小便……、と思った時、手が温かい物を探り当てた。革の腰袋だ。眠る時に、ウィルタは腰袋をベルトから外す。その腰袋がカイロのようにほんわかとしていた。

 不審に思って腰袋を手元に引き寄せると、確かに温かい。自分の体温よりもかなり熱い。それに腰袋の隙間から、ぼんやりと光が漏れている。

 恐る恐る腰袋のボタンを外す。

 もちろんある程度の予感はあった。中に入っているものは限られる。ナイフ、飴、マッチ、折畳みの小さな地図、ボロ布、そして中身のない財布代わりの巾着袋。いや中身はある、ウロジイのくれた灰色の石が……。

 腰袋を覗くと、果たして灰色の石を入れた巾着袋が光っていた。

 巾着袋を取り出し、中に指を突っ込んで石を引き出す。すると親指を一まわり大きくしたような石が、オレンジ色に輝いていた。いやオレンジ色というよりも金色に近い。

 見つめるうちにも、石を摘んだウィルタの指先がジワッと温まってくる。

 その時、「もう、朝か」と声がした。

 声はストーブの反対側からだが、ウィルタは反射的に寝袋の中に石を引き入れた。手探りで巾着袋に石を押し込む。見られてはいけないと思ったのだ。

 金色の光は人の心を惑わす。お金などよりも、もっともっと人を惑わす、そういう話を今までに何度も耳にしてきた。

 ウィルタは寝袋の中で身を屈め、耳に神経を集中。しばらく間をおいて、「もう、朝か」と、今度はつぶやくような声が……。

 どうやら寝言らしい。ほっとして、でも用心深く寝袋の中で再度石を取り出す。先程より幾分弱くなっているが、それでも確かに光っている。夢ではない金色の光だ。

 ウィルタはその怪しげな光を、まるで魔法の光でも見るかのように眺め……、そうしてそのまま、光に魅入られたように眠ってしまった。

 ウィルタが石の発光現象に気づき、疲れもあって寝入ってしまうまで時間にして十分くらい、その間、ウィルタは金色の光自体に意識が集中して気がつかなかった。しかしこの時、石の断面には細かい指紋のような紋様が浮かび出ていた。そしてその特徴ある紋様は、光が消えると共に、石の中に吸い込まれるように消えてしまった。

 ウィルタは、この金色の光を誰にも気づかれなかったと思っていた。ところが実は目撃した者がいたのだ。それは小用を足しにテントの外に出ていた男で、男はテントの入り口に立ったまま、ウィルタが光る石を取り出し、不思議そうに眺める一部始終を見ていた。

 その男、丸眼鏡の商人グリビッチは、しばしテントの入口に佇んでいたが、中には入らず、足を忍ばせるようにテントから離れた。


 地面を覆う雪のために、夜明けが近づくと、空よりも先に地面から光が満ちてくる。

 仄白い雪明かりがテントを包み始めた。

 旅人の朝は早い。春香たちが目を覚ました時には、すでにテントの中にいた人の大半は姿を消していた。あの子連れの家族も姿がない。春香が体を起こすと、隣でオバルが半身を起こしたまま、ため息をついていた。

「どうしたの、オバルさん、風邪が悪化した?」

「いや君たちが買ってきてくれた薬はよく効いたよ。風邪じゃなくてね……」

 参ったという表情でオバルは後ろを見やると、テントの裾を指で示した。

 オバルの背中側、荷物を置いてあった側のテントの布地が、子供の腕ほどの長さでスパッと切り裂かれていた。開いた穴から外の光が射し込んでいる。

 力が抜けたように情けない声をオバルが吐いた。

「ザックに入れてあった貴重品を抜かれてしまった。大失敗、寝る時は必ず貴重品を寝袋の中に入れるんだが、風邪気味だったこともあって、うっかり忘れていた」

「貴重品って、お金を盗られたの?」

「ああ、残ったのは、ポケットの中の小銭だけだ」

 二人の会話が聞こえたのか、ウィルタが寝袋からガバッと体を起こした。そしてテントに開いた無残な切り口を見て絶句した。

「まったく……、昨日の、君たちのことが、あったばかりなのに」

 頭を抱えたオバルを、春香が心配そうな顔で覗きこんだ。

 労わりの視線を向けられ、オバルが自身に反省を促すように螺髪頭を叩いた。

「塁京の表玄関の町、長杭までは、昨日の馬車に乗って行ける。あと丸二日の行程だ。長杭まで行けば、知人に連絡をして為替を送ってもらおう」

 春香がポケットから藍晶色の巾着袋を取り出し、中身をオバルに見せる。

「これでなんとかなる?」

 昨夜オバルから分けてもらったお金で、十ブロシュ札、つまり百ビスカ札三枚と、硬貨が四十ビスカ分。先にウィルタから渡された小銭と合わせれば、ほぼ四百ビスカだ。

「ああ、それだけあれば飢え死にしなくて済む。よろしく頼む、大蔵大臣」

 無理やり笑顔を浮かべたオバルに、「任せといて」と、春香が右腕を折り曲げ、力こぶを作る。がその後三人が三人、そろって顔に手を当て、大きくため息をついた。


 荷作りをしてテントを出る。

 昨日のモツ煮屋さんで、餅入りのモツ鍋スープを食べる。一杯五ビスカ。聞き齧った通りで、確かにスープがこなれている。

 味の馴じんだ濃厚なスープを胃に流し込んで体が温まってくると、なぜか落ちるところまで落ちて、次は何かいい事が起こりそうと、そんな予感が湧いてくる。

 少し元気を取り戻した三人は、昨日、ビーズひげの御者に言われた出発の時間、七の刻が近づいてきたので、二重の金網に囲まれた馬車溜りに足を運んだ。

 ところが、そこで三人は、モツ煮で温まった体に冷水を浴びせられることに。昨日自分たちの乗ってきた馬車が、どこにも見当らないのだ。すでに馬車溜りには数台の馬車が残っているだけで、どこをどう見ても三人が乗って来た馬車はない。

 当然、あのビーズひげの姿もない。

 顔色を変えてオバルが馬車溜まりの出入口に立っている監視の男に問う。

 目出し帽を被り、地面まで届きそうな長外套をまとった監視の男は、冷たい目でオバルを見やると、乗車券を見せろと手を突き出した。

「乗車券などない!」と腹立たしげにオバルが首を振る。

 すると監視の男は「長杭までの公式の乗車券さえあれば、乗り合いの馬車はどれにでも乗れる。しかし、個人が雇った馬車の場合は管轄外、無理だ!」と、冷たく言い捨てた。

 掃き溜め同然の馬車溜まりをうろつき、散らばるゴミを拾い集めていた老婆が、したり顔で言った。

「あんたら、いっぱい食ったんだよ。朝の七の刻って、その七の刻はバレイの時間かえ、それとも塁京の時間かえ、それをちゃんと確かめたのかい」

 オバルはハッとした。バレイのあるマカ国と塁京では半刻の時差がある。一般的に、特定の国に所属しない共栄地帯では、状況に合わせて周辺国の時刻が使われる。まだバレイを出発したばかりだから、てっきりマカ国時間だとばかり思っていたが……。

「へへ、間抜けな客は一杯喰わされるんだよ。馬車は今頃、半馬里は先に行っているさ。約束の時間に現れなかった間抜けな客を残してね」

「しかし、金はちゃんと払ってある」

「へえ、じゃあ、ちゃんと御者から長杭まで乗せてやるって確約を取ったかい。取ってないだろう、客引きに案内されて、長杭に行く馬車だっていうんで、さっさと乗っちまった、そうじゃないかえ」

「しかし……」と言ったまま、オバルはその先を言い返す言葉が見つからなかった。

 老婆の言う通りなのだ。オバルは自分が甘かったことに気づいた。

 引きつった顔のオバルに、老婆が追い打ちをかけるように言葉を投げつける。

「あんたら、馬車の荷台で、エルフェの連中がドロドロになって歩くのを眺めてたんだろ。だったらいいじゃないか、たまには自分たちが、そうやって歩いてみれば」

 老婆が、ヒッヒッと息を吸い込みながら、不快な笑い声を上げた。

 ウィルタと春香は老婆を睨みつけると、取って返すようにオバルの腕を引っ張った。

「オバルさん行こう、別に足を怪我してる訳じゃないし、オバルさんの風邪だって良くなったんだから。馬車で二日の距離なら、歩いたって大した距離じゃない。食料だって手持ちがあるし、テント代わりの天幕だって持ってる」

 拳を震わせながらそう言うと、ウィルタはザックを背負った。一秒たりともこんな所にいたくない、そういう気分だった。そして、すたすたと歩き始めたウィルタと春香に、普段でも少し猫背加減の背をさらに丸めたオバルが続く。

 街道では、エルフェの人たちが家畜とともに列をなしていた。みな昨日と同じように荷を担ぎ、家畜を引き、重い足取りで行軍の一歩を踏み出している。

 風邪の抜けたオバルが自棄気味にこぼす。

「俺の足は一等長いから、歩くのは速い。春香ちゃんのお金があれば、長杭までの運賃は出るだろう。二人とも先に行って、向こうで待っていてくれれば……」

 即座に春香が首を振った。

「オバルさん淋しいことを言わないで、一緒に行こう。それより、わたしたちオバルさんみたいに長い足じゃないんだから、ゆっくり歩いてね」

 自分の腰ほどの背丈の少女に言われて、シュンとなったのか、オバルは頭を掻いた。

 エルフェの人や家畜に混じって、一路、子安街道を東へ。

 三人は塁京の門前町である長杭という町に向かって歩きだした。

 土盛りのされた街道は、周囲の雪原よりも心持ち高い。夜半から雲が切れて気温が下がったのか、昨夜降った水分の多い雪が凍りつき、それが馬車の車輪や家畜の蹄に踏みしだかれて、氷の破片となって道の上に散り転げている。

 氷の破片ごと足を滑らしやすいが、それでも昨日の雪のぬかるみに比べれば格段に歩きやすい。ただ、このところ馬車に揺られていたため、久しぶりにザックを背負って歩くと、直ぐに息が切れてきた。

 三人がほかのエルフェの人たちと同じように、ふらふらと歩いているところを、後ろから、けたたましい警笛を鳴らして馬車が追い越していく。まるで背後から怒鳴られているようだ。気がつくと、昨日、馬車の上から見ていたエルフェの人たちの立場に、自分たちが置かれていた。

 と荷馬車を避けた方向に、後ろから別の荷馬車が突っ込んできた。

 避けようとした春香が、氷の窪みにつまずいて転倒。仰向けに転んだために、荷物の重みで直ぐには立ち上がれない。もがく春香に馬車の御者台から罵声が飛ぶ。

 慌ててウィルタが走り寄ろうとすると、それより先に、側を歩いていたエルフェの若い婦人が、春香の腕を掴んで引き起こした。毛糸の編み帽の長い耳当てを顎の下でしっかりと引き結んだ婦人は、浅黒い顔のなかの窪んだ目で、春香に力なく微笑んだ。そうして何事もなかったようにまた歩きだした。

 荷物を背負ったエルフェの婦人は、春香の横を一歩一歩、地面の存在を確かめるように歩を進める。外套の胸元が大きく膨らんでいる。赤ん坊を抱いているのだ。

 駆け寄ってきたウィルタが、走り去る馬車に怒りの拳を振り上げた。

 まだこの時間、対向の塁京方向からバレイに向かう馬車は通らない。走っているのは、昨夜テント村に宿泊して今朝出発した馬車ばかりだ。この背後から来る馬車は避け難い。見ればほとんどの人は、後方からの馬車を避けるように、道の両脇を歩いていた。

 歩き初めて一時間、ようやく体が歩くことに慣れてきた。

 春香たちは、歩きながら、どんどんエルフェの人たちを追い越していく。当たり前である。エルフェの人たちは、もう何週間も、いや人によっては何カ月も歩き続けているのだ。昨日まで休養たっぷりに馬車で旅をしていた三人とは、比べようもないくらい疲れている。いや人だけではない、荷を乗せた駄馬も毛長牛も、疲れているのが一目瞭然。どちらを向いても、ガリガリに痩せ、骨格標本に皮を貼りつけたような家畜ばかりだ。

 街道を歩いているうちに、道の土手に、こんもりと雪を被った膨らみが目につくようになった。エルフェの人たちがここまで背負ってきて、その重さに運ぶのを諦めて放棄した荷物が、雪を被って転がっているのだ。倒れた家畜の形そのままに雪が積もっているところもある。

 二時間ほど歩いて、ウィルタが用を足したいというのに合わせて、小休止。

 オバルは休息の時も腰を落とさない。立ったままの方が楽だと言いながら、荷物だけを足元に置いて休む。

 春香は、後ろから歩いてくるエルフェの人たちの邪魔にならないようにと、道端に体を寄せた。そして雪の土手に腰を下ろそうとして、中腰のまま口に手を当てた。対面する反対側の道端に、雪を被った靴を見つけたのだ。靴に続く雪の脹らみの先には、五本の指が覗いている。人が埋もれているのだ。その土手から食み出た靴の前を、エルフェの人たちが、立ち止まることなく通り過ぎていく。

「可哀想だが、力尽きたんだな」

 オバルが水筒の水を口に含みながら言った。

「でも、あのままじゃ」

 春香が口に手を当て、引きつった声を上げる。

「埋葬する余裕のある人が、エルフェの人たちの中にいないんだろう」

「だったら、馬車を使っている人が……」

 訴えるような目の春香に、オバルが首を振った。

「きっと馬車の連中、あの連中は連中で、余裕がないんだ。それに遺体を一体だけ埋めても仕方ない。いちいち埋めていたら、埋める本人が、塁京に辿りつく前に埋められる側に回ってしまう」

 オバルが言い難そうに春香の足元に視線を移した。

「それに春香ちゃん、いま君が座ろうとしている雪の塚も、どうやら下には人が横たわっているみたいだよ」

 弾かれたように春香が腰を浮かした。そして怖いものでも見るように、足元の雪の塚を振り返った。雪のなかにエルフェの赤いセーターが、淡いピンク色となって見えていた。

 何か言おうとするが、それが言葉にならない。

 春香が唇を震わせていると、道の反対側から、空気を切り裂くような女の声が上がった。

 さっき春香を助け起こしてくれた婦人だ。連れの夫らしい男性が、女の手から何か取り上げようとしている。

「亡くなった赤ん坊だろう、さっき追い越す時に臭った。あの婦人、亡くなった赤ん坊を捨てきれずに、抱いて歩いていたんだ」

 男は取り上げた赤ん坊を道の脇に置くと、持っていた棒で雪の土手を砕き始めた。凍りついた土手に打ち込まれる棒の音が、ガツガツと辺りに響く。女は惚けたような表情で傍らに座りこんでしまった。その横を、相変わらずエルフェの人たちが、黙々と歩いていく。その誰もが、虚ろな目の婦人に注意を払おうともしない。

 明日は自分の姿であるかもしれない、そう思っているのだろうか。

 まとまった毛長牛の一群が、エルフェの牧人に連れられて、目の前をゾロゾロと横切っていく。その一行が通り過ぎた時、道の反対側では、もう氷を割る作業は終わり、夫らしき男性が、出来たばかりの小塚に雪を盛っていた。婦人もよろけるように立ち上がると、その小塚に氷の欠けらを積み上げる。

 数分後、小さな氷の塚に並んで頭を垂れる夫婦がいた。

 雪原で用を足し土手に戻ってきたウィルタが、深刻な顔をしている春香に気づいて、オバルの袖を引っ張った。オバルが組んでいた腕を解くと、ウィルタの耳元に口を寄せる。だが状況を説明されるまでもなく、ウィルタは小塚に祈りを捧げる夫婦を見て、そこで何が行われたのかを理解した。

 ウィルタも用を足しにいった場所で、凍りついたエルフェの人を見たばかりだ。

 ウィルタが出会ったのは老人だった。膝を抱えたまま、雪の窪みで彫像のように固まっていた。足に添え木を当てた老人の周りには、ネズミが引き出したのか、ザックの中身が散乱していた。老人がなぜ塁京を目の前にして街道を離れたのか、理由は分からない。もしかしたら一族で旅をしていて、怪我をした自分が皆の負担にならないようにと、列を離れたのかもしれない。

 色あせてはいるが萌黄色の布袋が、白い雪の中でネズミに食いちぎられて転がっていた。旅の間に、春香が飛行機事故の話を聞かせてくれたことがある。夜の闇の底に散らばる無数の荷物。もしかしたら春香は、雪の下に見え隠れする遺体と荷物に、過去の記憶を重ね合わせているのかもしれない。

 牧人の夫婦を見つめる春香の背を、ウィルタがそっと押した。

「行こう春香ちゃん、まだ先は長いよ」



次話「賛馬号」

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