子安街道
子安街道
青苔平原の南端に位置する港町のバレイには、ドゥルー海に面する国々から様々な物資や商品が船で運ばれてくる。その荷のほとんどは馬車に積み替えられ、陸路この大陸で一番の繁栄を謳歌する塁京へと運ばれる。
朝一番で港に荷揚げされた物資に、搬送を請け負う馬車屋が砂糖にたかるアリのように群がる。次々と荷を積み込んだ馬車が、港の馬車溜りを出発し、馬車のいなくなった隙間を埋めるように空荷の馬車が割り込んでくる。
遠目には、吐き出される白い息の数で、その町の活気が分かる。
馬車や牛車に、人が人を運ぶ人力車、小さな手押しの一輪車に、小回りの効く三輪車、そういった車物の間を縫うように人が行き交う。広場に隣接する市場から流れてきた買物帰りの人や、歩きながらの物売り、港の肩夫と呼ばれる荷役の労務者、朝の読経に経堂へ急ぐ人たち、物乞いに、朝一番の便で町を離れる旅装の人たちと、ありとあらゆる人たちが、広場の空間を埋めるように縦横に歩き回っている。
空間を埋めるのは馬車や人だけではない。靴音、轍の軋み、呼び声、家畜のいななき、音盤から流れる経楽の旋律、物売りの口上、経堂の鐘の音、馬車の警笛、この町の名前の由来となった家畜の首につける罵鈴の鈴の音、音までもがここでは町の隙間を充填する。音もこの空間で生き残るためには、声を張り上げていなければならない。
その中でも一際耳につくのが、馬車の乗客を求める呼び子の甲高い声だ。広場の至る所で、喧騒を煽るように声を張り上げている。積み荷に余裕のある場合、馬車屋は荷の隙間に人を積む。その便乗客を探しているのだ。
呼び子は数を叫ぶ。馬車の行き先は、ほとんどが塁京方面のため、呼び子は目的地が塁京以外の場合にしか行き先を叫ばない。広場を行き来する馬車の間を擦り抜けながら、呼び子は必要とする客の数を叫ぶ。首を前後左右に忙しなく動かしながら、頭上に指を振りかざし、数を叫ぶ。
また、客の方も希望する人数分の指を立て、馬車の間を歩く。人だけを乗せる普通の乗り合い馬車もあるが、そちらは便も少なく、割高で時に倍近くの料金になる。少しでも安く乗れる馬車を見つけようと、客も必死なのだ。
呼び子は手配した客の人数に合わせて、御者から割り前をもらう。
呼び子という商売は誰もがすぐにできる仕事のため、子供から仕事にあぶれた大人まで、喰えない連中がまず最初に手を染める仕事となる。そのため、時には客の数よりも呼び子の方が多くなる。勢い、呼び子同士の客の争奪は激しいものとなり、ますます呼び子の叫び声にも似た大声が耳をつんざくようになる。
悲鳴のような呼び子の叫び声、客を求める声が絶え間なく広場の空間を満たし、喧騒と活力を港町の朝の光景に与えていく。
その喧噪渦巻く広場のほぼ中央に、長身の黒炭肌の男が指を二本立てて立っていた。
オバルである。子供たちの体調を考え、オバルは海の見える宿屋で中一日休養を取り、今日塁京に向かって出発することにした。子供たちが宿で休んでいる間、オバルは二人の身分証を手に入れるために奔走した。それにオバルとしては、ユルツ連邦の港町にいる妹のことも気がかりだった。抱え込んだ借金の三十七万ブロシュ、その利息の支払い期限を延ばして貰えるよう、バレイの電信館から債務先に問い合わせの衛星通信を入れ、返事をティムシュタット国の電信館宛に送ってもらえるように手配した。
利息分の金を稼ぐ方法が塁京に行けば見つかるかどうか、それは分からない。万一の場合はハン博士を捜し出し、その情報をユルツ国に売って報奨金を手にするしかないのかもしれない。脳裏に浮かぶその考えを頭の奥に押し込み、今は子供たちと塁京の門を潜ることだけを考える。妹の借金はそれからのことだ。
そんなことを漠然と思いながら、オバルは便乗便の馬車を探していた。
オバルのV字型の二本指を目ざとく見つけた呼び子の少年が、ダー、ダー、と確認するように叫びながら、走り寄ってきた。ダーは馬喰たちの数字を呼ぶ際の符丁で、二を意味する。
肩に小さな布袋を回しかけたウィルタと同い歳くらいの男の子が、長身のオバルに駆け寄ると、ザックを背負って立っている二人の子供を見て、「ダー、二人か、それとも三人、ジャンか」と忙しげに聞く。
オバルは目線を下げるように腰を落とすと、呼び子の少年に向かって言った。
「俺と子供二人、合わせて三人だ。でも子供は半人扱いだから、合わせて二人分でいいだろ」
しかし呼び子の少年は、オバルの体に目を走らせると、「駄目だ、おまえがでかい、三人だ」と突き放し、オバルの手を掴んで、「はい三人、ジャン、ジャン、ジャン」と、いかにも獲物を自慢でもするように声を張り上げながら歩きだした。
その後を、ウィルタと春香がクスクスと笑いながらついていく。
「オバルさんは、絶対、商売人にはなれないね」
軽く頷いたオバルが、「こういうのは、押しの強いのが勝ちだからな」と言って、肩を竦めた。
大人用の半外套を着た呼び子の少年は、背中に瘤のある駄馬二頭だての馬車に歩み寄ると、オバルたちを御者の男に引き合わせた。
黒いひげを簾のように円環のビーズで纏めた、ビーズひげの御者が、「塁京まで一人、六ブロシュだ」と、つっけんどんな声で言った。白っぽい砂肌に、沼のような泥緑色の目、ひび割れた唇には煙苔の脂が赤黒く染みつき、すり切れた二枚重ねの外套の下に、分厚い胴巻きを着こんでいる。そのビーズひげの御者は、オバルから受け取った金を無造作に胴巻きに押し込むと、乗れと顎をしゃくった。
幌のない荷馬車で、荷台には土嚢のような大袋が山と積まれ、袋の継ぎ目から黄色い粉がこぼれている。粉末のウォトに混ぜて色瓦を作る際に使う顔料で、その顔料が人の汗のような臭いを馬車の上に漂わせている。
三人が袋の間に体を落ち着ける間もなく、御者のビーズひげが駄馬に鞭を入れた。振り返ると、呼び子の少年は、もう次の客を探して喧騒の中に姿を消していた。
金属板を張りつけた硬ウォト製の車輪が、悲鳴のような音をたてて回り、路面に張りついた氷をバリバリと砕きながら動き出す。
ウィルタと春香は、朝の町の光景を見ようと、荷袋の上に腰かけた。そこは路上を行き交う人々の頭より一寸高い。視点が上にあがって広場全体が視野に入り、人や馬車や荷担ぎなどの、うねるような流れが目に飛び込んできた。
広場を行き来する間中、ずっと大人の体に阻まれて、背伸びをしても何も見ることのできなかった春香とウィルタにとって、それは快感に等しい解放感だった。おまけに市場の猥雑な淀んだ空気から頭が抜けだし、風が体の周りを抜けていく。
ウィルタは両腕を頭の上に伸ばして背伸びをすると、オバルを見て羨ましそうに言った。
「これ、ちょうど地面に立った時のオバルさんの目の位置だ。オバルさんたら、いつもこんな風に周りを見てたんだね」
何を言われたのか分からなかったオバルは、指摘された意味に気づいたのだろう、「空が人より少しだけ近い、それが子供の時から自慢だったさ」と、目を細めた。
広場の出口は渋滞していた。
朝の一番混雑する時間帯、おまけに荷崩れの馬車が往来の馬車の流れを塞き止めている。
人の波を見ていた春香が「あっ、あそこ」と、声を上げた。
春香の指す方向、経柱が二本立ち並ぶ広場の出口の手前を、金髪を後ろでまとめた男が、みすぼらしい老馬を引いて歩いていた。ボナだ。
行き交う人と馬車に見え隠れはするが、確かに御者のボナだ。
建物の間を通して斜めに差し込んでくる眩しい朝の光を手で遮りながら、春香が弾んだ声を上げた。
「よれよれの駄馬を引いている。もしかしたら、また捨てられた駄馬を拾ってきたのかな」
「そうだ、そうだよ」と、ウィルタが身を乗り出し手を叩く。
オバルも首を伸ばして二人の視線の先に目を向けた。そして「ふむ」と顎を一撫ですると、子供たちに打ち明け話を持ち出した。
昨夕、オバルは市場で買い出しをした帰りに、保衛隊の事務所の前で、偶然あの駄馬を連れたボナに出会った。あいさつがてら聞くと、バレイの町では、市場の塵芥置場に、老いた荷役の家畜が置き去りにされることがある。以前、そういう捨てられた馬をボナは役所に請われて引き取った。そのことを覚えていた保衛隊の係官が、またお願いできないかと、ボナのところに老馬を連れてきたのだ。女房が嫌がるからとボナは断ろうとしたのだが、馬の方がボナに擦り寄ってきたので、結局引き取ることにしたという。
出口周辺の渋滞が動き始めた。
数珠つなぎの馬車の列に合わせて、ウィルタたちの乗った馬車がボナに近づいていく。
老馬を引くボナに向かって、春香が手を振った。
「ありがとうボナさん、元気でね」
顔を上げたボナに、ウィルタも手を振りながら叫ぶ。
「翔蹄号、すっごく乗り心地良かったよ、馬たちにありがとうって伝えてね」
ボナが馬のように前歯を見せて笑った。
あとに続く馬車と人に押されるようにして、広場の門を抜ける。すでに老馬を連れたボナの姿は、後続の馬車の陰に隠れて見えなくなっていた。
しかしウィルタと春香には、あの小柄な年老いた駄馬が、ボナの家の裏でのんびりと苔を食む姿が見えるような気がしていた。
もちろん、ボナの奥さんの爆雷のような怒鳴り声も……。
町並みと人の群れが、潮が引くように後方に退いていく。
建物の密集している港の一角を抜けると、辺りはすぐに人家も何もない殺風景な荒地に変わる。この町が純粋に交易で成立している町だということがよく分かる。
町から出てしまうと、街道だけが動きのある世界だ。
前にも後ろにも馬車が続き、馬車の合間々々には、荷を担いで歩く人の姿もチラホラ。道と人と馬車、それ以外で目立つのは、丈の低い、人の背丈ほどの電柱が立っていることだ。バレイの町の電信館と、この先にある分所を結ぶ電信用のケーブルである。ちなみに、あの鋼栄道の平坦な馬車鉄道の下にも、街道沿いの町を結ぶ電信用のケーブルが、ウォトの配管に収納された形で埋設されているそうだ。
バレイの町の東に見えていた亀甲台地の岩壁が、迫り上がるように近づいてきた。
岩壁を右に見ながら街道を進む。
馬車も人も皆が同じ方向を向いている。この街道の先に、塁京のあるドバス低地が広がっているのだ。
半刻ほど進み、街道を行く馬車がばらけだした頃、亀甲台地の岸壁の襞と重なり合うように見えていた「あるもの」が近づいてきた。空に向かって伸びる巨大な経柱である。高さが亀甲台地の断崖上部に届くほどもある。満都衰亡時に建てられたものだというが、まさに天を突くような経柱である。春香の時代、世界の国々が競って都市のシンボルとして建立した高層タワーの経柱版といえるかもしれない。
大陸のヘソと言われるこの地ゆえに建てられた地鐘祭用の経柱だが、あまりの巨大さに櫓を作って持ち上げることなどできるはずもなく、建立後は赤道柱として崇められるようになった。ただ数百年の歳月が、表面を覆っていた経板を剥がし、今では中のブロック状の石積みが剥き出しになっている。
歴史の星霜は、人の願いを奔放な流れで押し流し、波立つ泡沫のごとく一瞬にして跡形もなく消し去る。その巨大な経柱も後方に過ぎた。
亀甲台地の岩壁を右に見上げながら、さらに半刻ほど進むと、今度は左側に尖った小山が林立する景色が近づいてきた。はるか北方から連なるオーギュギア山脈の南部、竜尾山脈の尾の剣先にあたる天柱陵である。先端に丸い岩を乗せた砂岩質の塔のような岩山が、びっしりと立ち並んでいる。見た目の通り、岩が混じる砂質の柔らかい地層が侵食されてできた地形で、砂岩の塔の間にできた峡谷、天柱峡がそのまま街道となっている。
立ち並ぶ砂岩の塔の間、右手に、亀甲台地の岩壁が見え隠れする。
竜尾山脈が大地に没し、低い海岸地帯の丘となって平伏、最後亀甲台地の縁で天柱陵の無数の岩の柱となって再び立ち上がるまでの一帯を、海門地峡と呼ぶ。海門地峡は、北の竜尾・天来山系、西のドゥルー海、南の亀甲台地、そして東のドバス低地に四方を囲まれた、大陸のヘソである。
天柱陵の砂岩の塔の林を抜けると、前方の視界が一気に開けた。
街道が消えてしまったかのように前方に空しか見えない。突然宙に放り出されたような錯覚に陥る。天柱陵の裏側が絶壁になっているのだ。
竜尾山脈から海門地峡、天柱陵、亀甲台地と続く細長い地峡のドバス低地側は、落差二百メートル前後の絶壁となっており、その縁に立つと、両腕を開いたように断崖が左右の視界の端へと消えていく。天柱陵を抜けて前方に広がるのは、広大な遮るもののない真っ平らな白い大地、ドバス低地だ。
オーギュギア山脈や亀甲台地、それに周囲の山稜地帯から遙々流れ下った河川が、黒い糸を撚り合わせて集まり、雪で覆われた白銀の低地帯を大河となってうねるように流れている。所々、太陽の日差しを反射して鏡のように光る大河の流れる先、霞のかかった白い平原の先に塁京があるのだ。
塁京とは、このドバス低地に栄える八つの国々を指す。ウィルタの父の手紙の差し出し印にあるティムシュタット国は、ドバス低地の北東に位置する小国で、そこまであと一週間ほどの距離に来ていた。ウィルタは、この開放的な低地のどこかに父がいるような気がして、霞む地平線に昂ぶる眼差しを向けた。
その肩に力の入ったウィルタを茶化すように、オバルが声をかけた。
「絶景が眺められるのは、下の低地に下りる間だけだ。せいぜい楽しもう」
ほとんど垂直に二百メートル近い斜面を下る道、その断崖に石垣を築いて作られた細いつづら折りの道を、馬車が間隔を取りながら下っている。前の馬車に続いて、ビーズひげの御者も、奈落の底に落ちるような道に馬車を乗り入れた。
景色は絶景だが、残念ながら、それを楽しむ余裕はない。なにせ揺れる馬車のすぐ脇は断崖で、馬車から首を伸ばせば、崖下に転がる馬車の残骸が否応なく目に飛び込んでくる。
春香とウィルタは、荷台の袋にしがみ付いているのがやっとだった。
気がついた時には、馬車は下の低地に下りていた。
崖を下った場所がマカ国の国境で、断崖から少し離れたところに、検問と税関がある。検問所の建物を挟んで反対側に、入国手続きの順番待ちをする荷馬車が待機していた。街道を東からやってきた荷馬車で、これから断崖を上ってバレイに向かい、塁京から運んできた餅関連の食料品やウォトの加工品などと引き換えに、ドゥルー海沿岸の諸地域から集められた様々な産物を積み込み、明朝、検問所の出国口側に並ぶのだ。
三人の乗った顔料を積んだ荷馬車は、出国口で簡単な監札の切符を受け取ると、ドバス低地の雪原を二分するように伸びる子安街道を走りだした。
この子安街道沿いの地域は、特定の国に属しない共栄地帯と呼ばれる。
街道は、断崖下から塁京の入口に当たる門前町まで、馬車で丸四日の行程で続いている。子安街道を通って塁京に向かう人は、街道終点の長杭という町で塁京への入塁許可を取り、馬車から船に乗り換えて目的とする塁京の個別の国に渡る。
低地に下りるや雲がかかり、絵はがきのようなパノラマの風景に幕が下りた。そして日が陰るとともに一気に空気が冷えてきた。
崖の上から見れば広大で見晴らしの良い低地も、下に降りれば、ただの薄く雪が積もった砂地にすぎない。振り返ると、下ってきた断崖にいく筋もの縞模様が刻み込まれている。地球が寒冷化していくなかで、海面が低下していった跡が縞となって残っているのだ。
寒冷化による海水面の低下は、二百メートルにも及び、かつて大陸棚と呼ばれていた浅い海域が、大陸の周辺に低地帯として出現した。目の前に広がる広大なドバス低地がその好例で、馬車の車輪に抉られた街道の道に目を凝らせば、汚れた砂に混じって白い貝殻が見てとれる。その貝のなかには、街道の名の由来となった子安貝も混じっている。古代から安産を祈願する際に用いられた貝である。
その貝殻まじりの砂の上に、雹がバラバラと音をたてて落ちてきた。
幌のない吹きさらしの馬車の上は寒い。
三人は袋と袋の間に身を屈めるようにして寄り添った。ウィルタは帽子の耳当てを下ろすと、オバルに冗談まじりの泣き言をこぼした。
「お金をけちらずに、乗り合いの馬車にすれば良かったね」
「乗り合い馬車だと、他の乗客にあれこれ詮索されるぜ。多少寒くても、俺はこっちの方が気楽でいいと思うがな」
そう言いつつ体をくの字に曲げ、手を擦り合わせるオバルを見て、春香が冷やかした。
「こういうときは背の高いのって損ね、だって風をまともに受けるもん」
「まったくだ」
正直寒いのだろう、マフラーを首に巻き直したオバルが、「天幕はないのか」と御者のビーズひげに呼びかける。が、「ない」と素っ気なく答えただけで、ビーズひげは振り向きもせずに紫煙をくゆらせている。
その無愛想な反応に、「荷台の上の物は、人でも荷物扱いなんだそうだ」と子供たちに耳打ち。オバルはバレイの市場で調達したポンチョがわりの防水布を二人の上に被せると、自身も風を避けるように長身の体を袋の間に押し込んだ。
幸い雹も止み、風も緩んで、寒さは感じなくなった。
初めての場所はどこでも目新しいもの、再度首を伸ばして景色を見やる。
それが断崖の上から見た例えようもないほどに雄大な景色と比べて、低地はあまりに単調。目に飛び込んで来るような物が何もないうえに、厚い雲が上空を覆って、どちらを向いても薄暗い陰欝とした灰色の世界に融けている。
当初は三人とも亀のように首を伸ばして周囲を見回していたが、オバルとウィルタは、すぐにその寒々とした景色に飽きてしまったのか、防水布の下に身を沈めてしまった。春香だけが目の前に広がる景色を、飽きもせずに眺めていた。
大陸棚が干上がった土地ということもあってか、真っ平らな地面が続いている。
この辺りはドバス低地のなかでも高台で、かつて火炎樹の栽培が行われていたこともあり、雪の下にはガラスの砂が広がっている。潮風に吹かれながら育った火炎樹は、晶化すると淡い黄色を帯びるそうで、雪さえなければ、黄色い大地が望めるという。
が、とにかく今は雪に覆われて、どこもかしこも白一色。
雪が舞い始めた。
単調な景色から、馬車の隊列に目を戻す。
バレイの町を出た時には街道に列をなしていた荷馬車の群れも、いつしか前後が開き、疎らな行軍になっていた。
思い出したように、バレイに向かう幌付きの馬車や荷車が、対向するように近づいては通り過ぎていく。そのすれ違う際、御者同士が春香の知らない言葉をやり取りしている。呼び子の叫んでいた数字のように、御者仲間だけに通用する言葉があるようだ。
今もまた、前方に荷馬車が現れた。揺れながらこちらに近づいてくる。随分とでこぼこに荷を積んでいるなと思って見ていると、すれ違う段になって、それが身を寄せ合わせた人だと分かった。荷も人も雪を被って一体になっている。中に自分と同じくらいの歳格好の少女が、大人たちに挟まれるようにして座っていた。
体を縮め震えながら寒さを耐えている少女と、すれ違いざまに目が合う。灰色の世界のなかで、少女の空のように青い瞳だけが印象に残った。
でもそれはそれだけのこと。馬車は互いに車輪の下の氷雪をバリバリと踏みしだきながら通り過ぎる。馬車の上の乗客たちは、誰も対向して走る馬車の客に手を振ったりしない。馬車も、その上の客も、自分たちの目の前を過ぎていく風景と同じだ。
雪に雹がまじるようになった。先程のものより粒が大きい。
荷の上に落ちたものが、跳ねて春香の頬をピシリと打つ。
叩かれた鈍い痛みが繰り返される。
春香は思う。自分の生きていた時代とは、人の暮らしの厳しさがまるで違うと。
スイッチ一つでお湯が沸き、スイッチ一つで部屋の中が二十四時間、三百六十五日、快適な温度に保たれるような暮らしとは、まるで違う世界だ。この世界では忍耐が要求される。もちろん自分のいた時代でも、辛い生活をしていた人は、いっぱいいただろう。それでも寒い世界というのは、それだけで辛さや苦しさが倍になって感じられる世界だ。
すれ違った馬車に乗っていた少女の青い瞳に、自分はどう映っただろう。
雹に打たれながらじっと寒さを我慢しているこの時代の娘の一人に見えただろうか。いや見えたに違いない。誰もわたしが陽光さんざめく過去の世界を知っている古代の少女などと、思いもしないだろう。強い日差しを避け、椰子の葉陰で冷たい飲み物で喉を潤すような時代が、どのようなものであったかなど想像もできないはずだ。
人は誰もが、じっと自分の生まれてしまった時代を生きていくしかない。この時代では、寒さに耐えることが当たり前なのだと思って、生きるしかない。
『おまえもこの時代の奴隷なのだから……』
随分前のことのように思う。
ユカギルの町に黒服たちが踏み込んできた時、わたしは官舎の一室で警邏隊の指揮官の前に連れ出された。その時、指揮官の女性が口にした言葉だ。
『おまえもこの時代の奴隷なのだから……』
なんとなく聞き流したその言葉が、耳朶に蘇ってくる。
そうなのだろう。この時代で生きていくしかない以上、過去を知っていようがいまいが、自分が時代の囚われの身であることに変わりはない。
自分にとって過去を知っていることが何になるだろう。なんの役にも立たないかもしれない。それでも自分は、この時代に生まれさせられた。それが祝福されるものであるかどうか、そんなことが、わたしに分かるはずがない。時代に好かれようが、嫌われようが、時代の寵児となろうが、異端児となろうが、わたしはこの時代で生きていくしかない。
わたしはこの時代に生まれさせられた。そして、この時代の子供でしかありえない。
また、別の馬車が目の前を通り過ぎていく。
目が馬車を追いかける。しかし春香の意識は、目が見ているものを離れて、様々な想いに移っていた。遠い過去のことや、新しい世界に目覚めてからのこと、両親のこと、友だちのこと、この世界で出会った人たちのこと。その想いを馳せる春香の顔を、また雹のつぶてが打ちつける。春香はなんだか意地でも防水布の下に頭を引っ込めたくない気分で、雹の落ちてくる空を睨みつけた。
この世界に目覚めて、はや四カ月近い。わたしは自分の目覚めた世界が、どんな世界なのか知りたいという気持ちから、ウィルタにくっついて旅に出た。そして、たぶんもう前の時代では絶対にすることのないような経験をいっぱいした。
もう十分、もう十分だった。
夜眠りにつく際、「次に目覚める時は元の世界で」と、何度そう願ったことだろう。でも何度目を閉じ、そして開いても、自分のいる世界が変わることはなかった。わたしの生きていく世界は、やっぱりこの世界なのだ。
防水布の上で跳ねた雹がまぶたに当たり、思わず目を閉じる。いったいこれから自分は、この世界でどんなふうに、何をやって生きていくことになるんだろう。
不思議に思う。この世界では、わたしが何をやろうが、誰も文句を言わない。これが前の時代なら、習い事を一つするのだって、旅行に行くのだって、親の許可が必要だった。服装は友達の目があった。食べる物は、おばあちゃんが煩かった。でも今は違う。何を食べようが、何を着ようが、どこへ行こうが、どんな仕事をやろうが、誰も何の注文もつけない。わたしは何をやってもいい、わたしは元々ここにいた人間ではないからだ。極端な話、わたしが生きていようが死んでいようが、どうでもいいことなのだ。
そして、わたしが何を思い、何を考えているかということは、わたしが口にしない限り誰にも分からない。
一昨日、港の宿に入ってショックなことがあった。旅に出て以来、いやこの世界に目覚めて以来、初めて個室のある宿屋だった。オバルさんが遅ればせながら、雪の中から君たちが助かったお祝いだといって、奮発していい部屋を借りてくれたのだ。
もちろん同じ部屋の中にウィルタとオバルさんはいるけれど、久しぶりに手足を伸ばして、人の目を気にせずに過ごせる空間だった。そして部屋の中にある手洗いに入って愕然とした。水が瓶に入れてあるのはこの世界では当たり前、とうに水道なんてものは期待しなくなっていた。もちろん、トイレの紙やウォシュレットもだ。
トイレの後始末は、砂漠では砂でおしりを拭いたし、苔を使うところも多かった。人糞のついた苔は、毛長牛が好んで食べる。一番笑えたのは、タクタンペック村のトゥカチちゃんのところだ。トイレの箱の中に乾いた泥団子が置いてあった。それで拭けというのだろう。まるで一昔前の寄生虫の検査のようだ。汚物のついた泥は、そのまま火炎樹の根元に運ばれると聞いた。
トイレの話はともかく、わたしが宿でショックを受けたのは、手洗いの手水鉢の上に取りつけてあった鏡を見た時だ。わたしは嬉々として、鏡を覗きこんだ。
いつから鏡を見ていなかったろう。朝顔を洗う時は、水盤の水鏡に顔を映して、自分が自分であることを確認していたように思う。水鏡よりもうちょっと増しな場合でも、金属やガラスに映った姿を見るくらい。それがその手洗いには、そこに不釣り合いなほどの大きな鏡が、どんと立てかけてあった。姿見だ。
この世界に来て初めて、自分の全身をまじまじと眺めた。ところがその時、わたしはそこに映っているのが誰だか分からず、しばらくの間、首を傾げて突っ立ってしまった。
自分と似てはいるが、誰か知らない人としか思えない少女がそこにいた。記憶の中の自分とは服装や表情がまるで違う。何度か手足を動かし、表情を変え、その人物が自分とそっくり同じに動くのを確かめて、ようやく鏡に中の人物が自分なのだと納得した。
わたしの記憶の中にある自分は、二千年前のわたしだ。着せ替え人形のように毎日服を替え、朝のシャンプーを欠かさない、中学一年の女の子なのだ。それが鏡の中の女の子は、民族学の本にでも紹介されそうな薄汚れた格好をしている。おまけに髪はバサバサで、頬と鼻の頭は、雪の照り返しと陽射しに赤黒く焼け、皮がまだらに剥がれている。
人の体を作る物質は、日々の新陳代謝で一カ月ほどで全て入れ替わってしまうと、科学の時間に教わった。ということは、冷凍睡眠から目覚めた時の私の体は、全てもうこの時代の物質に置き換わってしまったということだ。
心は、まだ二千年前のことを引きずっているのに、体はとっくに新しい世界に同化している。本当にこれがわたし、わたしなの?
わたしもいつの日にか、この世界で仕事を持ち、恋をして、伴侶を得て、子供を作り、やがて老いていく、そういう人生を歩むことになるのだろうか。
鏡の中の自分に向かって問いかける。
あなたは、わたし?
いったいあなたは、どんな未来を夢見ているの?
春香が雹を睨みつけているその傍ら、防水布の下で、オバルは鼾をかいていた。昨日遅くまで子供たちの身分証を手に入れるために奔走した疲れが出てきたのだ。その横ではウィルタが膝を抱え、居眠り一歩手前の状態で、バレイの宿でオバルから聞いた話を思い出していた。オバルの話は、貢朝船を迎える行事を眺めた後、春香も交えて続いたのだ。
春香が十年前の計画が再開された経緯を尋ねた。春香にしてみれば、そんな何千人もの人が亡くなる事故を引き起こした計画が簡単に再開されてしまったということ、そのことが腑に落ちなかった。
話を聞いていない春香のために、オバルは、サイトと呼ばれる施設が二つあることを、簡単に説明し直した。
十年前の惨事の半年ほど前に、ファロス計画の事業地から三キロほど離れた氷床下の岩盤の中で、同様の古代の施設が発見された。これ以後、最初の施設がサイト1、後から見つかった施設がサイト2と呼ばれることになる。調査の結果、サイト2は細部で若干の違いがあるものの、基本的な構造はサイト1と同じであることが確かめられた。ただし、サイト1の計画が進んでいたため、サイト2は調査を終えると再び封印された。
それが……、その二カ月後に、サイト1が事故で消失。
その後直ちに、サイト2を使って復興計画が再開されなかったのは、財政難と同時に、関わっていた専門家の多くが亡くなり、かつサイト1の施設そのものが、原形を留めぬほどに消失してしまったために、事故の原因が究明できなかったからである。
事故の原因究明が難しく憶測だけが飛び交うなか、やがて惨事に至った古代の施設が未完成の物だったとか、あるいは何か欠陥を抱えていたのではないかという考え方が広がり始める。もしサイト1の事故の原因がそうであるなら、サイト2の復興には非常な危険が伴う。なにしろ、サイト2はサイト1のほぼ三倍の規模を持っているのだ。
もしサイト2の復興に手を付けるのなら、それは、この未知のエネルギー発生装置の理論と構造が完全に解明できた場合に限るべきだと、残された専門家たちは主張するようになった。
しかし、サイト2の封印が解かれなかった最大の理由は、やはりユルツ国の市民感情だろう。人口十七万人の市民のうち、事故で三千人余りの人々が亡くなっている。怪我や放射線を浴びて後遺症に悩む人たちを加えれば、その数は倍に膨らむ。市民のほとんどが親族知人に被災者を抱えていた。
その人たちにとって、残されたサイト2に手を付けることは、悪夢の再現でもある。
おまけに原因も解明されず、計画を遂行した政府関係者は、失踪したハン博士に責任を押しつけて安穏と暮らしている。被害者が多すぎて、補償もほとんど行われていない。これではサイト2を使っての計画の再開に賛同できるはずがなかった。
そして惨事から七年の歳月が流れる。
惨事後もユルツ国、とりわけ霜都ダリアファルのエネルギー事情は、着実に貧窮の度を深めている。将来を絶望して都を離れる人が右肩上がりで増加、あまりの人の流出に、ユルツ国評議会は移民を一時禁止する法案を議会に提出、それが逆に市民の国外脱出を加速させる原因ともなった。
国家が傾くと、真っ先に逃げだすのは、逃げ出す能力と経済力を持った人たちで、貧者は逃げ出すこともできずに取り残されるのが世の常だ。
このままではユルツ国が崩壊するのではないか。そんな危機感が広がり始めた。
しかし苦境を変える妙案はない。遷都はすでに経済的に不可能、国庫はほとんど底をついている。そこに真綿で首を絞めるように、熱井戸の蒸気の噴出量が低下していく。
生き残る道はどこに……。
そして人々の意識が変わり始めた。
いや、それは変わらざるを得なかったと言う方が正しい。飢えた時に食べるものを選べないように。事故のあと、「夢の炉」など二度と懲りごりといっていた人たちも、生き残るために藁をも掴む気持ちになっていく。そして、人々の目の前にあるのは、サイト2という一本の藁だけなのだ。
結果、封印していたサイト2の入り口が開かれた。
再びサイト2の調査が始まる。その調査が始まって直ぐのこと、サイト2がある程度の期間実際に稼動していたことが、残された資料から明らかになった。そしてサイト1とサイト2の二つの施設の関係について、ある考えが浮上した。サイト2が実験炉で、サイト1が実用炉なのではというのだ。
発見された順に、サイト1、サイト2と名づけたために混同しやすいが、サイト2が建造された後に、サイト1が作られている。一般的に、実験施設は実用施設よりも規模を縮小して作られる。ところが、この光を生み出す質量転換炉では、規模の大きなサイト2が実証検証用の実験炉で、規模の小さいサイト1が実用炉なのではというのだ。
膨大なエネルギーを発生させる装置は、規模を小さくすることの方が難しい。つまりサイト2での成功をふまえ、その次の段階で、大き過ぎる出力を実用的な出力に設定し直して建造されたのが、サイト1なのではという解釈である。
調査委員会がまとめた報告は、『サイト2は、実証炉として安全が確認された炉であるから、サイト1のような事故の危険性はない』と結論づけた。
その報告が出ることによって、前回の事故の原因は、やはりサイト1が未完成だったことに因るとの解釈が確定。未完成ゆえに実際に稼働することなく岩盤の中に封印された。それを発見した二千年後の子孫は、そのことに気づかずに、古代の炉に点火して事故を招いた。事故は操作上の失策ではなく、また施設本来の欠陥でもない。単に施設が未完成だったが故の不幸な巡り合わせなのだということだ。
春香が呆れてオバルに尋ねた。余りにも楽天的なご都合主義の考えに思えたのだ。三千人という人が亡くなる大惨事を招いた施設なのに、何だか自分たちの希望に沿うように物事を判断している気がする。
首を傾げた春香に、「それが一番の問題なんだ」と、オバルが困った表情を浮かべた。つまり惨事を引き起こした問題の根幹にあるのは、古代技術の復興に熱心な人たちに巣食う、光の世紀への信奉心なのだという。
世界の各地で見つかる光の世紀の遺物は、今の時代に暮らす人々からすれば、どれも想像もつかない高度な技術が駆使されたものだ。膨大な情報を保存できる記録素子にせよ、本物以上の性能を持つ人工臓器にせよ、映像伝達機器にせよ、目に見えないサイズのナノマシーンにせよ、それはたとえそういう技術が、結果として世界を破滅に導いたかもしれないものだとしても、凍りつき震えながら暮らさなければならない今の人々にとっては、夢の技術であり、人々を盲目的に陶酔させる麻薬的な魅力をもった魔術のようなものだ。光の世紀への信奉心が、時として冷静な判断を誤らせてしまう。
曠野育ちのウィルタにしても、そのことはよく理解できた。自分の胸にぶら下げてある光を紡ぐ紡光メダルを使うたびに、古代技術の凄さを実感していたからだ。
おそらく十年前の惨事の際にも、まず人々が考えたのは、事故を引き起こしたのは施設の構造上の欠陥ではなく、それを動かした自分たちの側の失策だったのではということだ。
しかしながら、大半の専門家が事故の巻き添えで死亡、さらには計画の中心にいたハン博士も失踪するにいたって、事故の原因の究明は曖昧なままに終わってしまう。
残ったのは、相も変わらぬ古の技術への信仰にも似た崇拝心と、自分たちの能力の無さへの自責の念、そしてそういう形で惨事の責任が曖昧にされたことによる、罹災した人たちの割り切れない想いだった。
だが時代はもう残されたサイト2の再興という方向に向かって走り出している。もちろんそれに当たって、前回の事故の再調査も行われたが、それはすでにサイト2の再興という既定の路線の上での再調査、新しい計画の露払い程度の意味しか持たなかった。人々の意識はもう新しい炉、サイト2の復興に傾いている。そのためには多少の犠牲が出ても止むなしという方向にだ。
流れは一度できると、奔流のように流れ始める。
全ては第二次ファロス計画として動き出す。そして国家的な事業を遂行するために必要なのは、資金と物資と人材と、そして強力なリーダーシップを発揮できる指導者である。
今回の第二次ファロス計画の中心にいるのは、ユカギルの占領の時も陣頭に立っていた仮面の女性、ダーナだ。
彼女の父は、前回の計画の際に、復興省大臣としての要職にあり、惨事の後に責任を取るかたちで辞任。当時広報部長としてファロス計画に関わっていた彼女にとっては、その父親の敵討ちの意味もあるし、六年前から政界に参画している彼女自身の初の大仕事でもある。そのダーナが、今回は政界から技術復興院、おまけに警邏隊までを仮面の辣腕を使って動かし、遮二無二に計画を前へ前へと推し進めている。
資金は国家予算の三割を割くことが決定。懸案は計画の再開に反対の立場を取る遷都派の封じ込めと、技術スタッフの確保である。反対派兼遷都派を陰で支えているのは、貧窮する生活と市民の現政権への不満だが、それはユカギルの熱井戸を接収して開始した、地熱発電の電力を都に送ることでガス抜きが計られた。
残るは人材、つまり専門的な知識を持った技術スタッフの確保である。前回の事故で専門家の多くが亡くなっている。それに運良く生き残ったスタッフも、事故を目の当たりにしているだけに、計画に積極的に協力しようとする者は少ない。協力というよりも反対の立場を取る者の方が多いのが実情だ。
その問題に対しては、特例として高級官僚並みの俸給や、様々な優遇措置を与えることで懐柔した。それでも非協力的な人物には、情報局の協力を得て、裏の力で脅してでも計画に参画させるように仕向けた。徹底的に飴と鞭を使い分けた。更には製薬業のライバル国、アルン・ミラ国から、高額の報奨金を払って技術者を引き抜くことまで行っているという。それでも圧倒的に人材は不足している。
時間的な猶予は余りない。ユルツ国の疲弊は極限に達している。霜都ダリアファルが氷に埋もれてしまう可能性もある。早急に結果を出さなければならなかった。
その流れの中での、ハン博士の捜索である。
前回の計画の中枢にいて、ファロスサイトの全容を熟知し、かつ古代の言語とその技術情報に精通しているハン博士、これほどの人材に代わる者がいなかった。懸賞金を懸けてまで、国の諜報員を各地に派遣してまで、ハン博士を探す必要がここにあった。
ただ専門家であるハン博士が必要とされるのは当然といえば当然のこと。
ウィルタはずっと疑問を抱いていた。なぜ父だけでなく、自分までもが懸賞金の対象にされているのかということをだ。
オバルはいったん話を切って立ち上がると、壁に掛けてあった服を外して、春香の上に被せた。春香は腕組みをしたまま居眠りをしていた。蒸気風呂に入って旅の疲れが出たのだろう。
オバルはそのまま窓際に行くと、気分転換でもするように窓のガラスに顔を近づけた。
そのまま外を眺めながら「最初の計画の際だ」と言って、続きを話しだした。
古代のエネルギー発生装置の復興に、ハン博士は途中から懐疑的になっていた。それはあのサイトで働いていた者なら誰もが知っていることで、人によっては、あの事故は、ハン博士がファロス計画を中止に追い込むために仕組んだことではなかったかと考えている。そのこともあって、サイトの復興に反対の立場を取るであろうハン博士を新たな計画に参加させるに当たっては、それ相応の安全弁を用意する必要があると、復興計画の中心にいる連中たちは考えた。
「安全弁……」
「ああ、君の父さんが、計画を中止させるようなことを画策したりしないような、脅しが必要だということだ。施設内にハン博士の肉親を収容して、いやでも計画を成功に導かざるを得ないようにすべきだと、そう考えているのだろう」
「それがぼくだっていうの」
「そういうことだ」
断言すると、オバルはコホンと咳払いをした。
「もちろん、人質なら母親のレイ先生でも良かっただろう。しかし残念ながら、博士の母親であり、君の祖母でもあるレイ先生は、ユカギルの町がユルツ国の警邏隊に接収されて、三日後に亡くなっている。肝陰虚だったそうだ」
ウィルタがハッと顔を上げた。ウィルタの視線を外すように、オバルは伏し目がちに頷いた。
「そうなんだ。レイ先生が亡くなり、ハン博士の身内が君だけになったことで、ダーナは、君に懸賞金まで懸けて探す気になったのだろう。おそらくは、博士を計画に協力させること以前に、まずは姿を隠しているハン博士を誘い出すための道具として、君を使おうと考えているのだと思う」
話に耳を傾けながらウィルタは祖母の姿を思い起こした。最後に姿を見たのは、夜の高石垣の近く、自分とタタンを警邏隊の隊員の目から逃がしてくれた時だ。あれが最後の姿だった。身を屈めて小走りに走る後方で、銃を突きつけられたレイ先生が、隊員と何か話を交わしていた。振り向いた自分の目に、おばあちゃんの口が僅かに動いたように見えた。
おぼろになった記憶を辿る。おばあちゃんはあの時、何と言ったのだろう。
微かな口の動き。
「さよう、なら、わたしの、まご……、よ」
そうであったかもしれないし、そうでないかも知れない。でもきっと、おばあちゃんは、あれがぼくとの最後の時になるということが、分かっていたのだろう。そして、ぼくに別れの視線を送ってくれたのだ。
ウィルタが子供らしからぬ、深く大きなため息をついた。
そしてもう一度、大きくため息をつくと、目が醒めたように顔を上げた。
長身のオバルが、窓枠の上段に手を伸ばしていた。掛け金を外すカチャリという音が、心に張られた糸をピンと弾く。換気用の小窓が開き、外の冷気が流れ込む。
ウィルタは椅子から立ち上がると、オバルの横に歩み寄った。
流れ込む刺すような冷気の向こうに、夜の港が広がっている。
貢朝船を迎えた人の姿はすでにない。一面に吊るされたカンテラの明かりも消え、今は貢朝船もほかの船と同様に、小さな灯を船首と船尾に灯すだけだ。その船の明かりの遙か上空に、冴々とした星が輝いている。
オバルはその星の冷たい瞬きが胸に刺さるような気がしていた。うまくウィルタに、例のことを話さずに説明ができたことへの安堵とともに、心の痛みが冷気とともに胸を刺す。本当のことは父親であるハン博士に聞いてくれ、そう心の中で呟くと、オバルは頭上に拡がる冷たい瞬きに目を戻した。
オバルが言った。
「レイ先生は、都の無縁墓地に埋葬されたそうだ」
人の霊は死後天に昇って星になるという。もうおばあちゃんも、幾多星霜の星の輝きの一つとなっただろうか。ウィルタは窓の外の瞬く星を見上げた。
次話「エルフェ族」




