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星草物語  作者: 東陣正則
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降待節


     降待節


 机の上には、宿の食堂から運ばれてきた苔茶が置かれている。足つきの容器に茶葉と湯を注ぎ、先端に小さな穴をびっしりと開けた金属製の吸口を使って、茶葉を濾しながら飲む形式のお茶である。タクタンペック村では筒型の湯飲みを使っていたが、こちらは下膨れの壺型。この容器を茶壺、中身のお茶を壺茶と呼ぶ。

 三人は窓際に椅子を置き、吸口で壺茶を吸い上げながら、港の夜景に見惚れていた。

 雲が出てきたのか真っ暗で、水平線が闇に融けている。

 春香は茶壺を持ったまま立ち上がると、窓際の柱に凭れかかるようにして眼下の波止場に目を落とした。宿の下はそのまま岸壁で、手前の細い桟橋には、小さな船が互いのもやい綱を絡め、肩を寄せ合うように繋がれている。

 春香が小さく声をあげた。桟橋に見たことのある顔を見つけたのだ。

 点々と灯った白灯の下に立っているのは、酔っ払いのヌルブアンだ。

 船乗りが使うサンドバッグのような衣嚢を肩に担ぎ、仲間数人と立ち話をしている姿は、まさに船乗り然としている。

 オバルとウィルタも窓に駆け寄り、桟橋の男に目を向けた。船乗り特有のフード付きの半外套を着たその男が、ちょうど顔をこちらに向けた。やはりヌルブアンだ。

 仲間らしい男と握手を交わすと、ヌルブアンは大股に桟橋を歩きだした。渡し船がいるらしく、桟橋の先で小さなカンテラが波に揺れている。

 桟橋を行くヌルブアンの姿は、背筋が伸びて、とても背を丸め酒に溺れていた人物と同じに思えない。そのヌルブアンに小柄な影が走り寄った。

 長外套の裾がかえり、絞ったズボンの先に小さな革靴が覗く。女だ。

 細身の女が取りすがるように叫ぶ。

 その声をヌルブアンは、立ち止まったまま、振り返りもせずに背中で聞いている。

 街灯のように立ちつくす二人の向こう側を、明かりを灯した船が交差、二人の姿が逆光の中でシルエットに変わる。波に映る白灯の中の二つの影……。

 波止場での男女の邂逅は、まるで映画の一シーンのようだ。

 息を詰めてその光景に見入る春香の横で、オバルが口を開いた。

「浮気した奥さんが、だんなを追ってきて、謝罪をしているといったところかな」

「ヌルブアンさんの方が、港に新しい恋人を作ってたというのかも知れないよ」

 ウィルタが、ませた口調で言い返す。

 春香がテーブルの上に茶壺を置くと、冷ややかな視線を二人に浴びせた。

「もう、二人ともせっかくのロマンチックなシーンなのに、黙っててよ」

 顔を見合わせたオバルとウィルタは、肩をそびやかすと、「はい、はい」と安請け合いに返事をした。

 波止場の二人は、まだ白灯の明かりの下にいた。

 向かい合う二人の男女、だがそれは結局、ほんの数秒のことだった。

 男は女の頬に手を伸ばしかけたが、そのまま手を引くと、くるりと背を向け渡し船に向かって歩きだした。立ちつくす女は、もう男を追いかけることもない。女が見つめるなか、男は桟橋の小船に荷物を投げ込み、舳先に飛び移った。

 小船が桟橋を離れる。風待ちの荷船に向かうようだ。

 男は新たな航海に出るのだろう、女を波止場に残して。

 春香はフーッと大きなため息をつくと、桟橋から視線を離した。

 と、オバルとウィルタの視線が自分に向けられているのに気づいた。

 二人が慌てて視線を外す。

「なによ、二人とも」

 眉を吊り上げた春香に、オバルが笑いを堪えながら言った。

「いやね、夢見る乙女の横顔というのは、いいものだと思ってね」

「右に同じ」と、ウィルタ。

「もう、男って嫌い!」

 叩きつけるように言うと、春香は窓を離れて、長椅子にドサッと腰を落とした。テーブルの上には飲みかけの壺茶。それを吸い上げるように飲み乾すと、机の上に置かれた蒸気風呂の札を手に取った。さっき宿のボーイが、お茶と一緒に置いていったものだ。宿の中に蒸気風呂、いわゆるサウナがあって、泊まり客はサービスとして無料で使える仕組みになっている。ただし一室につき、一名かぎりのサービスだ。

 札を手にした春香が、当然とばかりに言い放った。

「これは私が使ってもいいわよね。男は男同士でないとできない話もいっぱいあるでしょうから、どうぞゆっくり話をしてちょうだい。わたしは長風呂だから、お気遣いなく」

 プリプリした調子で言うと、春香は音をたててドアを出ていった。

 オバルとウィルタが、顔を見合うようにして肩を竦めた。

 オバルが窓の外を覗く。すでに桟橋に先程の女の姿はない。一つのドラマが終わったのだろうか、いやそれは新しいドラマの始まりであるのかもしれない。

 壁に吊るした白灯の明かりが、窓にこびりついた氷で歪に反射するなか、階下から音盤の賑やかな音楽が漏れ聞こえる。窓際を離れ、椅子に腰かけたオバルが、「宿題が残っていたな」と、ウィルタに呼びかけた。

 ウィルタが意外そうな顔でオバルを見た。立っているウィルタの顔と、腰かけたオバルの顔がちょうど同じ高さにある。オバルが告白するように言った。

「君のお父さん、ハン博士のことを、まだ話していない」

 照れくさそうにウィルタが頭を掻いた。

「そうだ、歳しか聞いていなかった」

 その答えに、オバルも苦笑いする。茶壺に湯を注ぎ直し、仕切り直しとばかりに軽く一口吸い上げると、「何から話そう」と、オバルの側から切り出した。

 膝に手を置いたウィルタが、改まったように口を開いた。

「まず、父さんとオバルさんの出会いから聞かせて」

 はっきりした物言いである。オバルが分かったとばかりに腕を組んだ。

 裏街道のあばら屋に泊まった時に約束して以来、オバルはウィルタにハン博士のことをどう話せばいいか考えてきた。そして出した結論は、ウィルタに事故の真相、つまりウィルタの悪戯が惨事を引き起こしたということを、告げないということだった。すでにオバルの自白によって、その事がユルツの関係者に知られているとしても、オバルからそれをウィルタ本人に話す必要はない。もし話す必要があるなら、それは父親であるハン博士がやるべき事だ。

 自分が話すべき事は、オバルとハン博士を結びつけたあの計画、すなわちユルツ国で行われたファロス計画と、その計画が惨事で終わった顛末を語るということ。それが即ち、ハン博士という人物、ウィルタの父親を説明することになる。

 改めて惨事の直接の原因を作ったであろう少年を前にして、オバルの頭のなかに、ハン博士も含め自身も関わった、十年前の計画の苦い記憶が蘇ってきた。

 オバルはまず自分がその計画に関わるようになった経緯を、自己紹介も兼ねて簡単に説明した。都の金属部品加工業を営むネジ屋の家に生まれ、学費稼ぎのために警邏隊の飛行機に同乗して事故に遭遇、怪我の療養中に手にした魔鏡帳で古代語を習得したことが縁で氷床ハンターとなり、その結果、後に惨事の元凶となる古代の遺跡を発見、紆余曲折の末に、ファロス計画の広報記録係として雇われるといった自身の経歴をだ。

 ハン博士とは、第一次のファロス計画に参加して出会った。

 オバルがファロス計画に雇われた当時、ハン博士は三十六歳。現場の技術部門の代表という立場だった。ただし本来の肩書きは、技術復興院の情報言語局主任で、古代の科学技術用語研究の第一人者である。

 今も昔も、いつの時代も、人は言語によって情報を記録し伝達する。古代の技術を調べる際にも、基礎となるのはまず言語である。とくに一般会話などと異なる技術系の用語は、言葉が使われる物や場や理論といったものが失われてしまうと、意味を解き明かすことが難しくなる。光の世紀の遺物のなかで、使い方や何を目的に作られたのか分からない道具や装置が無数にあった。

 そもそもハン博士は、都の国立歴史文書館に勤める父と、技術復興院の医薬部局で研究員をしていた母、つまりレイ医師との間に生まれた。母親のレイは、牧民の出ということらしいが、そのレイが都で職を得るに至った経緯については、オバルは何も知らない。ただ幼少期に家族を疫病で失い、親族の間を点々と、たらい廻しにされたという子供時代の苦労が、その後の職業の選択と、同僚を蹴落としても上の官職に付こうとする性格の強さに現れているというのを、人の噂で耳にしたくらいだ。

 その両親の元、ハン少年は、父親の影響で幼少時から古文書に親しみ、歴史文書を耽溺するおとなしい性格の子供として育った。当人もいずれ父親と同じ仕事につくのを当然と考えていたらしい。ところが、ハン少年が九歳の時に突然父親が病に倒れた。すると上昇指向の強い母親のレイは、息子の希望を抑えて、ハン少年を半ば強引に技術復興院の付属機関に入学させた。

 レイがそうしたことには訳がある。

 当時、歴史文書館の活動は縮小されることが決まっていた。衰退の危機に直面するユルツ国としては、実用性のある研究を優先せざるを得ず、歴史学などという分野は、真っ先に予算を削られる分野だったのだ。それに先々のことを考えれば、花形である技術復興院で学ぶことの方が、将来の展望が開けると考えた。

 エリートでなければ入れない技術復興院に凡庸なハン少年が入学できたのは、なによりレイの尽力による。

 現在のユルツ国の屋台骨を支えている産業は製薬業である。正確には表の産業が製薬で、裏の産業が小型の銃火器などの兵器になる。そのことが、ほかの地域の人たちから、右の手で人を助け、左の手で人の首を絞めると揶揄される所以になるのだが、総じて争うべき富の少ないこの時代、兵器はそれほどの産業たりえず、国の経済はもっぱら製薬業に依存していた。

 その製薬産業を陰で支えていたのが、レイの所属する技術復興院の医薬部局で、その研究室でレイが復元した古代の薬品、マリア熱の特効薬が、大きな富をユルツ国にもたらす。功績を認められたレイは、医薬部局の部長職に抜擢され、その権限で息子を復興院に入学させた。

 ところがハン少年は、科学技術に興味を持てなかった。それに在籍した復興院の同窓はエリートばかり。おとなしい性格のハン少年は、身を竦めるようにしつつ、それでも母親の期待に応えようと机に向かった。そのハン少年が、やがて技術復興院のなかで興味の対象を見つける。それが古代語の研究だった。

 先にも述べたように、科学技術に限らず古代の事物を研究する上で、基礎となるのは、そこで用いられる言語である。言語の研究は、その性格上基礎研究であり、実学を重用せざるを得ないユルツ国では、あまり日の当たることのない分野だった。それは取りも直さず、研究者が少なく、エリート間の競争に身をすり減らす心配もないということで、何よりハン少年にとって、言語は科学技術よりも遥かに興味の持てる分野だった。

 元々幼少時から古文書に親しんできたこともあって、ハン少年はその分野で才を開かせる。ハンは八年の在学を経て学院を卒業、そのまま復興院に入職、やがて情報言語局の古代語分析班の主任を任じられた。

 それが今から十六年前、ウィルタの生まれる六年前のことで、ハンもちょうど結婚をし、仕事も軌道に乗り始めて、今にして思えば一番幸福な時期だったろう。

 しかしながら、ハン個人の幸福とは裏腹に、ユルツ国の情勢は年を追うごとに逼迫の様相を増していた。特に氷床に接している霜都ダリアファルの北部ではそう。

 都のエネルギーを賄っていた熱井戸が次々に枯れ、残った二本の井戸が枯れるのも時間の問題で、更には地熱を補うユルツ国南部の褐炭の採炭量が、往時の四割にまで落ち込むという有様である。異常気象のせいか、北方に広がる氷床が年を追って発達、ダリアファルの町並みをじわりと末端から包みこみ始めていた。

 悪いことは重なる。国の経済を支えてきた製薬業にライバル国が現れた。同じ氷に埋もれつつある北方の大国、アルン・ミラ国が、生き残りを賭けて製薬業に手を出してきたのだ。品質よりも安価を売りにした商法で、大陸の薬市場を席巻。それによって、ユルツ国の製薬業は手ひどい打撃を受ける。

 代替のエネルギーに展望もなく、都を重苦しい空気が支配していた。

 国は解決策として、新しいエネルギーの開発と遷都を計画。だがそれが容易でないのは、エネルギー資源の枯渇と共に放棄された都や町が、大陸の至る所にあることからも明らかである。いくら技術立国を任じるユルツ国でも、代替のエネルギーを簡単に生みだし得るはずがないし、寒さを我慢しながら食いつないでいる国に、遷都をするだけの余力などあるはずもなかった。

 ユルツ国の将来を悲観して、都を捨て、他国に移住する人が後を絶たなかった。その点では、ユルツ国は熱床の見つかる前のユカギルと同じ状況だったといえる。ただユカギルは人口千人に満たない小さな町で、熱床が見つかり熱井戸が一つ復活すれば、それですべての問題が解決する規模の町である。対して都市国家といってもよいユルツ国は、人口十七万の人間が、貴霜山の麓の都に集中して住んでいる。養わなければならない住人の桁が違っていた。往時は十三基余りの熱井戸が都の民を支えていたが、それが今はたった二基、緊急の度合いはユカギルの比ではなかった。

 ユルツ国は市民がなだれを打って都を離れるのを阻止するために、移民の全面的な禁止令を発布した。ところが、それが逆に市民の不安をあおり、暴動が起きかねない状況を引き起こす。とにかく新しいエネルギー源、もしくは潤沢に他国からエネルギーを買い取る資金を生み出す、新たな産業の創出が急務だった。

 そんな時である。

 霜都ダリアファルの北方三百五十キロの氷床の下で、氷床ハンターによって、岩盤の中に埋もれていた古代の施設が発見された。当初その古代の施設は、植物を工場内で生産する植物育成のプラントだと見られた。ところが本格的な調査が始まり、周辺から次々と古代の遺跡が見つかるに及んで、その植物育成プラントは、周辺に広がる遺跡群の中の一付随施設に過ぎないということが分かってきた。

 遺跡の本体は別にあった。

 大陸各所の氷床や氷河の下から見つかる古代の遺跡や遺物は、往々にして膨大な氷の圧力で、原型を留めないほどに潰れるか、バラバラに破壊されているのが常である。しかし今回の遺跡群のなか、厚さ九十メートルの氷床の底で見つかった遺跡は、堅い岩盤をくり貫いた中に、さらに強固なドーム状の天井で覆われた形で発見された。その上、封印されたドーム内が不活性ガスで充填されていたために、施設自体もほとんど劣化することなく、ほぼ二千年前のままの状態に保たれていた。

 すぐに技術復興院が総力を挙げて調査を始める。そして判明したのは、岩盤内の施設が、未知のエネルギー発生システムの研究実験施設らしいということだった。


 光明だった。

 ぶ厚い雲に閉ざされていた空から、突然光が射してきたようなものである。

 岩盤の中に封印されていた巨大な施設は、その施設が人々の未来を明るく照らしてくれることを願って、太古の時代に造られた巨大な伝説の灯台の名を取り、『ファロスサイト』と名づけられた。

 だがこの古代の施設を調査するに当たって、大きな問題があった。それがこの施設に残されていた資料が、特殊な言語によって記述されていたということである。全くの未知の言語ではないが、ほとんど専門家のいない言語だった。

 施設の調査を進めるに当って、まずは言語の分析から始める必要があった。

 その役割を任ぜられたのが、古代語の専門家であるハン博士だった。施設内の情報機器の中に残された膨大な情報の翻訳分析が、ハン博士とそのチームに委ねられた。幸いにも、部分他の既知の言語との対訳も見つかり、情報の翻訳作業が進む。そして薄皮が剥がれるように、次々と施設の内容が明らかになっていった。

 一般的に、人類のエネルギー利用の技術とは、エネルギーの形態を変化させる技術である。エネルギーの形態を変える過程で、人の利用しやすいエネルギーを取り出す技術と言ってもよい。石炭を燃やし蒸気を発生させてタービンを回すということは、石炭が燃焼して酸化する際の化学反応によって放出される熱エネルギーを、水蒸気の運動エネルギーに変え、その運動エネルギーをタービンの回転運動に変えるということである。タービンの回転運動によって発電機の中のコイルが回転し、回転時の運動エネルギーが電気のエネルギーに転化すれば、それは石炭火力発電と呼ばれる技術になる。

 発電された電気のエネルギーを、照明器具で光のエネルギーに変えてといった具合に、エネルギーは果てしなく形を変えながら繋がっていく。

 風の運動エネルギーを利用したり、海水の温度差を利用したり、圧力差を利用したり、振動のエネルギーを利用したりと、人類はありとあらゆる物、あらゆる条件を利用して、エネルギーを取り出し利用してきた。

 そういった様々なエネルギーの利用方法の中でも、最も膨大なエネルギーを生み出す方法として光の世紀に利用されていたのが、物質の原子核の核内粒子の反応を利用したエネルギーの取り出し方法である。

 よく知られているように、物質の質量とエネルギーは等価のものであり、ほんのわずかの質量が、莫大なエネルギーに転換する。小さなコイン一つ分の質量が、数十万トンの石油を燃やした時と同等のエネルギーに変わるのだ。

 ただし、物質の質量が常態でエネルギーに変化することはない。その反応は、太陽内部のような高温高圧下で初めて可能になる。ところが苔を燃やすのと違って、太陽という天然の炉で進行する一千五百万度の核融合反応を、家の竈で再現することはできない。

 太陽の炉はあまりに巨大で、発生する熱エネルギーの量は、一億五千万キロ離れた地球の上に、放出するエネルギーのほんの数十億分の一が届くだけで、赤道直下なら肌が焼けるほどの強い日差しとなる。

 太陽という炉は、元来人が利用するには大きすぎる火なのだ。

 また、太陽の炉は巨大であるだけではない。その巨大な炉から発生するのは、人類に有用なエネルギーだけでなく、人体に有害なX線やガンマ線などの高周波の電磁放射線、あるいは高エネルギーの荷電粒子そのものも放射する。この太陽の放出する有害なエネルギーを、地上で暮らす人々がほとんど意識せずに済んでいるのは、地球の磁場や大気が有害な電磁波や荷電粒子の障壁となっているからである。太陽という炉は、言うなれば、有害な物を吐き出す不完全な炉でしかない。

 そして、古代の施設内にある未知のエネルギー発生炉……、

 『質量転換炉』と名づけられた古代の炉は、基本的には物質の核内粒子の反応を利用して電磁波を発生させる炉と考えられた。特筆すべきは、原子核の核内粒子の反応の結果として外に取り出されるエネルギーが、ある特定の電磁波だけということである。

 特定の電磁波、つまり人が可視光線、『光』と呼んでいる限られた周波数の電磁波だけが、炉から外に取り出される。

 核内粒子の対消滅の反応によって、電磁力以外のエネルギーも発生しているはずなのだが、それらは、光以外の電磁波と共に炉内に閉じ込められ、外に出ることはない。途中の反応を無視して結果だけで考えれば、質量転換炉は物質の質量を光に転換する装置といえた。

 物質の質量をエネルギーに転換する。それも『光』と呼ばれる電磁波のエネルギーに。

 なぜそれが『光』なのか。これは当たり前すぎる質問である。生命としての人が生存していくために、どうしても必要な物は『食料』である。そしてその食料を生み出すエネルギーの根源が、『光』だからだ。

 人という生物は、植物のように光のエネルギーそのものを直接体に取り込むことはできない。『食料』という名の有機物の塊を体内に取り込み、『食料』を分解して化学エネルギーの形にすることで、初めてエネルギーを獲得することができる。

 人が生きていくためには、どうしても光のエネルギーから『食料』を造り出す必要がある。熱エネルギーでもなく電気エネルギーでもなく運動エネルギーでもない。様々なエネルギーの中で『光』が人にとって有用なのは、それが直接『食料』を生み出すエネルギーだからだ。

 植物育成プラントの施設内に、光を圧縮伝送するための光伝ケーブルの製造プラントが併設されていた。質量転換炉で光を発生させ、それを光伝ケーブルで送光、その光で人の生存のための『食料』、植物を育てる。

 人自らの手で光を生み出し、その光で緑を育て、緑の生み出す薪で暖を取り、緑の生み出す穀物や果実で腹を満たす。それはどのような時代、どのような場所にあっても、飢えと寒さに怯えることのない生活を保証するだろう。なぜなら、光を生み出す燃料としての物質、即ち質量自体はほとんど無限にあるからだ。おまけに質量転換炉は、高周波の電磁波や荷電粒子などの有害な物を何も放出することがないという。純粋に光だけを取り出すことのできる炉、まさに人類に福音をもたらす理想の太陽、夢の炉だ。

 もちろんそれが、本当に残された資料や情報通りに稼働するならの話だが。

 ユルツ国評議会、そして連邦府は、全権をもってこの古代の施設を復興させることを決定した。そしてファロス計画が始まる。夢の理想の炉を稼動させる計画が……。


 国中がこのファロス計画に注目するなか、計画は二年目に入る。

 岩盤の中に封印されていたファロスサイトの施設、なかんずく、その中心に位置する質量転換炉を稼働させるためには、越えなければならない幾つかの課題があった。

 大きくは三点。

 その一つが、施設の機能を立ち上げるための一般電力の確保である。質量転換炉は同じサイト内に設置されている核力発電施設、そこから供給される電力によって、稼動するように設計されている。まずはその核力発電施設を稼動させなければならない。しかしこの核力発電施設や、他の諸施設の機能を立ち上げるための電力を供給する設備が、サイト内には含まれていなかった。おそらくこの施設が建造された当時、通常電力はどこからでも簡単に入手できるものだったのだろう。ただし、いったん核力炉が稼動すれば、サイト内で必要とされる電力は、全てそれで賄えるようになっている。

 この一般電力の供給は、霜都ダリアファルから地熱発電の電力を送電、かつサイト内に、小型の褐炭発電施設を建設することで対応することに。

 二点目が、核力発電施設に冷却水を供給する送水システムの整備である。この設備もサイトの内部に設置されていなかった。この問題は、ファロスサイト北方約二十キロの氷床下を流れる氷河水を、サイトに送水することで対処する。

 そして最後、三つ目の課題、それがサイトに残されている膨大な資料を翻訳することである。施設の運用に関する実務上のマニュアル部分だけでも大変な量になる。

 巨大な施設を実際に稼働させるとなれば、そこにあるのは、様々な機器の調整であり、保守点検であり、無数の具体的な実務である。ネジ一つにして、どういうネジ、つまり材質から強度から、果てはその締めつけの程度にいたるまで、決まり事がある。サイトには、部品の種類でいえば万単位、それが個数でいえば千万単位で使われている。保守点検とは、その一つ一つを、人の目と手で確かめていくということで、作業自体も大変なら、そのマニュアルを準備することも、面倒かつ神経を要することになる。

 施設の稼働マニュアルを翻訳し、実際に使える形に整理し直す。これが思った以上に大変な作業となった。

 この三番目の問題を担当したのが、ハン博士のチームである。

 ファロスサイトの試験稼働に向けて、冷却水の送水システムの整備が急ピッチで進む。それは一般電力の供給と併せて、現行の技術で問題なく行える作業である。ところがそういったなか、翻訳作業の遅れが目立つようになった。中途半端な翻訳では、機械の保守や、電子機器の立ち上げはできない。もし間違った操作をした場合、機械やシステムそのものを破壊してしまう恐れがあるのだ。

 そして、あっという間に計画は三年目に入る。

 この頃から、都では計画の遂行に不満を訴える人が出てくるようになった。

 ファロス計画の遂行のために、国の予算のほぼ半分が割り振られた。そのことでユルツ国、とりわけ都の市民は耐久生活を強いられている。なのに事業の成果は、目に見える形で現れてこない。

 やがてこの計画に直接関わる専門家の中にも、ファロスサイトの復興に疑問を唱える者が出てきた。その論拠は、ファロスサイトの心臓部ともいえる質量転換炉の構造が、その理論と共に一向に解明されないということにある。

 質量転換炉は完全な密閉系のブラックボックスとして作られている。炉の内部に入ることができないのだ。加えて、他のサイト内の施設については、運用マニュアルや設計図を含めて詳細過ぎるまでの情報が残されているのに対して、核心部分の質量転換炉に関する情報が、サイト内の資料からかなりの量すっぽりと抜け落ちている。

 たとえ核力炉が発電を始めても、質量転換炉の稼働実験は、理論面の裏づけができるまで待つべきだと、慎重派は声を大にした。そしてあからさまに反対を唱えないまでも、この計画に関わっている多くの人たちが、漠然とした不安感を抱いていた。これだけの施設が、古代の歴史の中に全く記録されていない。そしてサイトに残された資料の中に、この施設の稼動実績に当たるデータが何も残されてないのだ。

 口には出さないが、多くのスタッフが、古代人の残したこの施設は、まだ建設途上にあったのではないのか、あるいは問題を抱えていたが故に、稼働させることなく封印されたのではないかと考え始めた。

 この、現場のスタッフが不安を口にするようになってきたのに対して、都の一般市民の間では、施設の稼働要求が日に日に強まっていた。特に三年目の冬が厳冬で、都中で凍死者が続出するに及んで、ファロスサイトの早期稼働、もしくは施設内の核力発電の施設を独立して利用できないかという意見が噴出するようになった。

 世論の動向は、当然、政府内の計画を推進してきた人たちの責任問題となって取りざたされる。なにしろ国家予算のかなりを割いて進められている事業なのだ。

 そしてその頃、ハン博士はといえば、この施設の危機管理の情報の翻訳に没頭していた。指先ほどのチップに膨大な情報が収められている。理論が解明されていない以上、運用マニュアルの言葉だけでは理解できないことが次々に出てくる。解釈するためには、古代の科学技術全般の高度な専門知識が必要で、そのため各分野の専門家がアドバイザーとしてハン博士についていたが、それでも不明なことは残る。語学の専門家でしかないハン博士にとっては限界があった。

 たとえば、ある工作機器を動かそうと思えば、その使用説明書を読めばいい。たいていの機械なら、説明書を読めば子供でも扱える。しかしもしその工作機器が故障、もしくは破損したら、それを修理するためには、その工作機器に関する理論的な裏づけが必要となる。車の運転くらいは子供でもできるが、車の修理や車自体を作るとなると、その難しさは運転の比ではない。そしてこれだけの巨大かつ複雑な施設である。

 炉は常に危険を伴う。車が走る凶器と言われるのは、車が炉を積んでいるからで、車のエンジンという小さな炉が発生させる運動エネルギーでさえが、時に車を凶器に変えてしまう。それがエネルギー発生装置の持つ留意すべき一面だった。質量転換炉以前に、核力発電装置だけでも、それが生産するであろうエネルギーは、この時代の地熱発電などに比べて、桁の違う量になる。それはその結果として、もたらされるであろう恩恵とともに、もしもの時の危険度の大きさも、飛躍的に大きいということを意味する。当然入念かつ慎重な分析が必要とされた。

 翻訳チームの記録写真を撮りに来たオバルに、ハン博士は語った。

 質量転換炉という古代の炉は、原子核を解体してばらばらの素粒子の混合体にし、各素粒子に対応する反粒子を作り出しながら対消滅させてエネルギーを発生させる。しかし、質量はごく少量でも莫大なエネルギーに変わる。宇宙のレベルで考えれば、ごくありふれたエネルギー量の反応でも、人のレベルで見れば、己の身を焼き尽くす地獄の業火となってしまう。

 その業火を人が安全に利用しうるエネルギー反応にするために、炉の制御装置の中には、膨大な演算能力を備えた電脳が組み込まれ、多様な素粒子の一粒一粒までがその動きを完全に制御されるようになっている。確率論的に存在する量子たる素粒子を、その位置から動きまでを制御する繊細で綱渡り的な四次元の積木パズル、超極小世界の素粒子工学の粋、それがこの質量転換炉だと。

 科学的な原理原則は、突き詰めていけば単純化されるというイメージで一般には捉えられがちだ。ところが素粒子よりも更にミクロな階層の世界では、同時にいくつもの相反する原理が並立するという多原理空間となって、全く想像もつかない現象が発生する。それを操作制御するのは、もう人の認識のレベルではなく、毎秒百万兆回を超える超高速の演算能力を持つ電脳なくしては不可能なことだ。素粒子工学とは、言葉を代えれば、人の認識の外にある仮想空間の電脳工学なのだと。

 人は目のくらむような高層建築の上を、細長い棒の両端に物質とエネルギーという重りをつけて歩いている。人の能力からかけ離れた演算能力を用いて素粒子を操ろうというのだ。しかし、その原理と炉の構造がほとんど解明できていない。そして施設の情報を記録した記録素子、チャクラチップの中には、まだ一度もチェックを入れていないものが七割も残っている。全ての情報に一通り目を通すだけでも、あと三年は必要だ……と。

 苦渋の表情でオバルに語った数日後、ハン博士は臨界実験の期日の延期を要請する書類を、ユルツ国評議会に提出した。しかしそれは全く審議もされずに黙殺された。

 計画は四年目に入り、もう時代は待ち切れないところに来ていた。

 そして国は四年に一度の選挙の年になっていた。国民よりも、政治家が結果、成果を求めた。誰もがどんな形でもいい、結果を求めていた。

 そんな時である。

 ファロスサイトから約北三キロの氷の底で、サイトとほとんど同様の施設が、やはり岩盤に埋もれるようにして発見された。光伝ケーブルの製造プラントと植物育成プラントも、少し離れた場所で見つかる。ファロスサイトの復興事業と並行するように、周辺の氷床地帯の埋没遺跡の調査も継続されていた結果の発見である。

 新しい施設は、サイト2と命名された。

 そこで乾壺が発見される。

 前々から、質量転換炉の内部に乾壺という装置のあるということは分かっていたが、内部がブラックボックスであるため、現物を目にすることはできなかった。それが新しく発見されたサイト内の講義室に、一つだけ保管されていた。どうやら、外部の人間に質量転換炉を説明する際に、使われたものらしい。

 今まで質量転換炉の原理のなかで謎とされてきた事の一つが、その乾壺によって明らかになる。それがエネルギーの封入と取り出しの技術である。乾壺と呼ばれる人頭大の装置は、膨大なエネルギーの圧縮貯蔵装置である。質量転換炉の中で発生した膨大かつ多様なエネルギーは、いったん乾壺の中に貯えられ、その後、光だけが乾壺から取り出される。言い代えれば、光以外の不要なエネルギーを取り除く濾過装置であるともいえた。

 また乾壺は質量転換炉の稼動の際にも重要な役割を果たす。核力発電装置で生み出された電気エネルギーは、まず乾壺に貯えられ、貯蔵された高容量の電気エネルギーを用いて、超高温の状態を作り出し、質量転換炉の中で物質の原子核を解体、原子核を素粒子のスープに変える。その素粒子スープを造り出すことによって、初めて素粒子の積木パズルが可能になるのだ。

 質量転換炉の中で行われるエネルギーの取り出しと封入の理論の一端が、乾壺の発見で垣間見えた。

 この乾壺の発見が、古代の炉に懐疑的になっていた人たちの批判を封じ込める役割を果たした。そして一気に炉が稼動試験に向けて動きだす。もちろん、その裏には、サイト1で失敗してもサイト2があるという意識も働いていた。

 サイトに残されていた情報の全てが解読された訳ではない。それでも見切り発車のように、政府首脳は早期の臨界実験へと舵を切った。

 その本音は、古代の科学技術は、自分たちがどうあがいても太刀打ちできないほどに高度なもので、マニュアルが残されているのなら、その通りやってみればいい。今の時代の専門家など、古代人からみれば裸のサル同然、素人があれこれ詮索しても仕方ない。とにかくやってみれば、施設が使えるか使えないかの結論は出る。原理や理論などは、それから考えればいいといったものだ。

 すでに、通常電力を供給する褐炭発電所や、冷却水を送水する揚水設備などの附帯設備は完成している。元々発見された施設そのものは、保存状態がほぼ完璧であったがゆえに、現場でやることといえば簡単な保守点検ていどである。そして高度な技術になればなるほど、実際の操作は、管制室から電気的な信号、つまり指令を送るだけで済む。科学はそれが高度でかつ複雑になればなるほど、最後、実際にそれを動かす際に人のやることといえば、スイッチを入れたり、レバーを回したりするだけになる。

 極端に言えば、最初に電源のスイッチを入れてしまえば、あとは見ているだけでも良いのだ。意志の決定を行うのは人間だが、あとの作業をするのは機械であり、それを管理制御する演算装置、電脳になる。

 そしてファロスサイトが発見されてから、四年と三か月、ついに炉の臨界実験が行われることが決定。核力炉、質量転換炉ともに、燃料の粒子パックが挿入される。

 そして点火。核力炉の中で核分裂が起こり、その熱が高温の蒸気を生みだし、蒸気タービンが高速で回転して電力を生産し始める。その電力を質量転換炉の中にずらりと並んだ乾壺に流し込む。

 乾壺は底無しの井戸のように電力を吸い込んでいく。

 乾壺に貯えられた電気エネルギーが一定量に達すると、質量転換炉は、乾壺の高容量の電気エネルギーを用いて、物質の原始核を解体、素粒子の積木パズルを始める。その乾壺に核力炉から電気エネルギーを注入し続けて二十六日目、乾壺の充填が完了。

 そして、明けて二十七日目、臨界実験当日。

 悲劇が起きた。

 オバルは惨事に至るまでの経緯をざっと話すと、一息入れるように茶壺に湯を注いだ。

 じっと何も言わずに聞いていたウィルタが、「そして事故が起きた……の?」と、声を低めて聞く。

 吸口から一口茶を吸い上げたオバルが、当時を思い出すように言った。

「想定外のことだった、乾壺に貯えられていた電気のエネルギーが漏れたんだ。原因は不明、しかし、漏れ出たエネルギーで施設内の温度が上昇、電子機器、特に演算装置というのは高温に弱い。制御機構が作動不能になって、乾壺に蓄えてあった電力が一気に開放された。核力炉を巻き込みながらだ」

 気がつくと、淡々と話していたオバルが、顔を上気させている。

「大変な事故だった。スタッフの八割が電気バーストの嵐と、直後に引き起こされた核力炉の爆発で亡くなった。残った者も多くが事故の際に浴びた放射線の重い後遺症に悩まされている。実験の成功をこの目で見ようと雪の降るなか、施設の周囲に集まっていた民間人の多くが巻き添えになった。死者だけで三千人。実態は、乾壺から開放された高温のエネルギー放射で蒸発してしまった人もいることから、もっと多いだろうと言われている」

「そして……」と言って、オバルはウィルタに視線を合わせた。

「その事故の時、君と、君のお父さんのハン博士は、官制室にいた」

 茶壺を持つウィルタの手がピクリと動いた。

 ウィルタは馬車に揺られながら、夢の中で見ていた光景を思い出した。確か極彩色の星が輝く部屋だったように思う。あれがその時の光景なのだろうか。

 オバルの話は続く。

「ハン博士は施設と運命を共にするつもりで、避難せずに管制室に留まっていた。ところが、先に避難させたはずだった息子の君まで、何かの手違いで管制室に残されてしまった。もう避難する時間の余裕はない。博士は管制室で君を抱きしめたまま、画面に写し出された炉が暴走していく様を見ていた。逃げ遅れたぼくが、行き場を失って管制室に逃げ込んだのはその時だった。もう諦めて、どうせなら管制室のモニター画面で、サイトの最後を見届けようと思ったのだ。

 それが、管制室に逃げ込んだことで、九死に一生を得ることに。

 非常時の最後の瞬間に、管制室が施設からロケットのように離脱、サイトから四十キロも離れた地点に不時着したのだ。それは全く予想もしていなかったことで、今にして思えば、非常時に管制室という施設の心臓部を残すことで、後々事故の究明に役立てようということが、予め管制室の制御装置にプログラムされていたのだろう。今でも時々夢でうなされる。制御器機が操作不能になって、計器という計器が極彩色に点滅を始めた時の事をね……」

 じっと身じろぎもせずにオバルの口元を見ていたウィルタが、抑えた声で尋ねた。

「母さんが、この事故で亡くなったって聞いたんだけど……」

 オバルはその質問が出た時にどう答えようか考えていた。事実は、先に避難していたウィルタの母親は、息子のウィルタがいないことに気づいて、もう一度引き返し、その途中で核力炉の爆発に巻き込まれている。だが、そのことをウィルタに話すのは憚かられた。

「避難が遅れて、管制室とは別の場所で惨事に巻き込まれたらしい」

 そう話すとオバルは、「君のお母さんは、サイトの現場で仕事をなさっていた。何度かハン博士と一緒にいるところを見かけたけども、黒髪の素敵な方だったよ」と言い添えた。

 ウィルタは、緊張を崩さず硬い表情のまま、分かったと頷いた。

 オバルはコホンと軽い咳のように喉を鳴らすと、

「管制室の離脱の衝撃でぼくは怪我をしてしまい、そのまま病院に運ばれてしまったから、いま話したことの中には、人から聞いた話も入っている。事故のあとの君の父さんの嘆きは、大変なものだったらしい。想像はつく。奥さんをあの仕事に誘ったのは博士自身だったそうだからね……。

 惨事に至る一年、博士はファロス計画の延長を要求し続けていた。臨界実験の日程が決まってからは、計画の一時凍結を政府に上申したくらいだ。博士としては、もっと強く主張して実験を阻止していれば、数千人もの人命を失わずに済んだと考えただろう。それが主張できる立場にいたのは、現場ではハン博士くらいだったからね。そしてハン博士は、自分が生き残ってしまったことに心を痛めていた。博士は心の痛手が大き過ぎたのか、惨事の半月後、君と共にユルツ国から姿を消してしまった。

 これは君の祖母のレイ先生から教えてもらったことだけど、ハン博士は都を離れた後、君を旧知のシクンの女性のところに預けた。孤児としてだ。

 ハン博士は君の将来を考えた時、自分の息子として育てない方が君のためになるだろうと判断して、君をシクン族の女性に託したんだ。自分の息子として見られた時の、周囲からの迫害を憂慮されたのだろう。だから名前も変えて、まったくの身寄りのない孤児として君を育ててくれるように、その女性に頼んだ……」

 ウィルタが、反発するように肩を揺すった。

「でも、孤児なら孤児でもいいけど、生きているなら、たまには会いに来てくれたっていいと思うけど」

「博士はきっと、君を見ていると、亡くなった奥さんのことを思い出して辛いのだろう。君は奥さんに似ているからね」

 ウィルタが驚いたようにオバルを見た。今まで、そんなことは考えたこともなかった。

「ぼく……、母さんに似ているの?」

 ウィルタが恐る恐るそのことを聞く。

 オバルが、緊張した面持ちのウィルタに、にっこりと微笑みかけた。

「ああ、君はハン博士よりも、お母さんのルシアさんに似ているね」

 オバルは、その姿を思い浮かべるように視線を宙に泳がせた。ウィルタがまた目を見開いた。自分が母親の名前を知らなかったことに気づいたのだ。

 ウィルタが勢い込んで、その名を繰り返した。

「初めて聞いた、母さんの名前だ、ルシア、ルシア、ルシア」

 ウィルタは、口の中で確かめるように母の名前を何度も繰り返した。


 春香は洗いざらしの髪を手拭いでまとめながら、廊下を小走りに走っていた。雪が降り始めたのか、廊下の小さな窓の向こうに、白い粒がパラパラと舞い落ちている。廊下にはフェルトが敷かれているが、暖房が入っていないので、蒸気風呂で暖まった体が足元から冷えてくる。

 自分たちの部屋の前にきて、春香はドアを開けるのをためらった。中がシンとして、人の気配が感じられなかったのだ。二人の話し声が聞こえない。

 ドアを開けて、そっと中を覗きこむ。と窓際のテーブルを挟んで、オバルとウィルタの二人が、彫像のように向かい合っていた。

 何か深刻な話をしているように見える。そう思って、春香が開けた扉をもう一度閉めようとすると、「ああ、春香ちゃん、蒸気風呂はどうだった、暖まったかい」と、春香に気づいたオバルが呼びかけた。

「それより、話は?」

 話の腰を折ったのではと春香が遠慮がちに聞くと、背中を見せていたウィルタが、振り返って晴れやかな声をあげた。

「ねっ、春香ちゃん凄いよ。母さんの名前が分かったんだ。ルシアっていうんだ」

 部屋の中に入ってきた春香に、ウィルタがその名をもう一度口にした。母親の名前を知ったことが、嬉しくて仕方がないといった顔をしている。

 オバルが説明を加えた。

「古の言葉で『人を照らす者』という意味らしい。ウィルタの両親は、共に古代の言葉の研究をやっていた級友なんだ」

 オバルの話を聞きながら、春香はその名前が、自分がいた時代の宗教上の聖人の名に似ていることに気づいた。

「あっ、あれ」

 春香が窓の外を指差した。

 椅子に腰掛けたまま窓の外に視線を流したオバルの横で、ウィルタは椅子から立ち上がって窓の外を見やる。この時代にしては大型の船が岸壁に近づいていた。舷側や帆柱に吊り下げられたカンテラは、まるでイルミネーションで、帆にちりばめられたガラスが赤い灯を映して、光の粉を撒いたように輝いている。光で包まれた船を迎えるのだろう、港には油灯を灯した小船が並び、岸壁にも大勢の人が出ている。

「普通の船じゃないみたいだね」

 オバルが壁に吊るした牛の骨に刻み目を入れたカレンダーに目を向け、「そうか、今日は胚日だ」と、指を鳴らした。

 この時代の宗教は、昔の様々な宗教の教義がモザイクのように組み合わさってできている。冬至の聖なる日に向けた準備期間としての降待節もその一つで、今日はその六週に渡って続く、降待節初日の胚日と呼ばれる祭日だった。

「あの船は、貢朝船だ」

「なに、その貢朝船って」

 春香が窓の外を見ながらオバルに聞く。ウィルタも春香の後を追うようにその質問を口にした。ウィルタ自身は、貢朝船という名を耳にしたことがある。ただその船を実際に目にするのは初めてだ。

 滑るように港に入ってきた船を見ながら、オバルが、かいつまんで説明を入れた。

 貢朝船とは、このグラミオド大陸で最も信仰を集める宗教、モア教の動く経堂と言われる宗教船のことを指す。これから三人が向かおうとしている塁京の近くに、モア教の聖地がある。その聖地に年に数回、各地の宗教区から奉納品が運ばれる。貢朝船とは、その奉納品を運ぶ船のことで、陸路を行く時は当然馬車の隊列になるが、それでもやはり船と称される。ユカギルの町で経堂の司経が集めていた喜捨の幾許かは、この貢朝船を仕立てる資金に回されるはずだ。

 説明を耳にしつつ、春香は光を塗したような船をうっとりと見つめた。

「それにしても、綺麗ね。なんだかお祭りの山車が船になったみたい」

「万更、外れじゃない。あの船が港入りする日は、平日でも聖日の扱いになる。それに、今日は元々、胚日と呼ばれる降待節初日の際日だ。食事も宿の食堂で済ませて外に出なかったから気がつかなかったが、馬車が町に入った際、随分人出が多いと思ったのは、祭りの日だったからなんだ」

「お祭りなら、外に出てみたいな」

 窓に顔をくっつけるようにして春香が言った。

「祭りといっても宗教上の祭りだから、別に歌や踊りがある訳じゃない。ほとんどの人は、家の中で祈りの捧げているよ。人が出ているのは、貢朝船を迎える波止場くらいだろう」

「そうなんだ……」

「でもこの部屋、特等席だね、一望だよ」

 窓の外、波止場に集まった人たちを見下ろしながら、ウィルタが言った。

 今しも光の衣装をまとった船が、岸壁に接岸しようとしていた。見物人は多い。しかし祭りといいつつ、それは静寂に包まれた祭りだ。外の気温は零下のはずだが、船を迎えに波止場に出ている人たちは、じっと蝋燭を持ったまま頭を垂れている。

 それはやはり、祭りというより儀式と言った方が相応しい。

 ウィルタは席を立つと、部屋の白灯の明かりを消した。

 闇に戻った部屋から光の儀式が見える。この時代に生きる人たちの祈りの一つ一つが、蝋燭の明かりとなって灯っているように見えた。



次話「子安街道」

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