デジャフスグイ
デジャフスグイ
翌日、淡い茜色の湖面を湛えた大きな湖、デジャフ湖の脇を抜ける。そこに、この間の寂れた街道沿いとしては、珍しく賑わっている町があった。珠造りの工芸村デジャフスグイである。湖が茜色をしているのは、湖の底に沈む隕石、声紋石から溶け出す物質のせいで、その声紋石を拾うための泥を掻く打瀬船が、湖面に四角い帆を並べている。
声紋石は、表面に細かい指紋のような紋様の浮かぶ隕石で、読経時に使う念珠用の石として、大陸全土に普及している。デジャフスグイは、この湖が声紋石の産地であったためにできた町だが、石があまり採れなくなった今でも、各地から石を運んで珠造りや石の工芸品作りが続けられている。
声紋石という隕石が、なぜ念珠に用いられるようになったか。
それには、ある古代の出土品が関わっている。
古代の遺跡から一風変わったチャクラチップ、情報ディスクが掘り出された。
通常の法輪模様に重なるようにして特有の紋様が浮かび上がったチャクラチップである。凹凸のある紋ではない。彩色を施しているのでもない。光の向きによって、表面に細かい指紋のような紋様が見えるのだ。発見されたその特異なチャクラチップは、透明なケースに収納され、脇に解説のプレートが添えられていた。
その解説の内容……。
情報ディスクであるチャクラチップには、膨大な量の情報が記録できる。当然のこと、二千年の昔、その機能を用いて様々な試みが為された。その一つが、地球上の全ての人の声を一片のディスクに収録する、『人類の声プロジェクト』である。
計画当初の目的は、太陽系外惑星への探査機に、人類紹介のアイテムの一つとして搭載することであったが、それ以外の用途も検討され、その副次的な利用の一つとして、複製したディスクが各国首脳や国際機関の要人に進呈されることになった。
プロジェクトの趣旨が、世界中の人々に伝えられる。
当時世界の人々にあまねく普及していた携帯型の情報端末から、ホスト機器のディスクにメッセージ、つまり声を吹き込んでもらう。送られてくるメッセージは、その内容に関わらず全てディスクに収録、蓄積されていく。なかには罵声のたぐいや、良識を外れた誹謗中傷の声も含まれていたが、それとて地球百億の民の声であることに変わりはない。全ての声が削除されることなくディスクに収められていく。
ほんの数日で、収録された声の数は一億を突破。また収録作業が軌道に乗った段階で、ホストディスクとは別に、送られてきたメッセージを分類した個別のディスクの製作も始まる。国別、年齢別、性別といった基本的な項目以外にも、内容別による分類も行われた。
曰く、怒りの声、喜びの声、祈りの声、嘆きの声……等々。
吹き込まれるメッセージは秒単位で増え続ける。
そして異変が現れた。内容別のディスクの内、『祈りの声』を収録、集積したディスクの表面に、独特の紋様が浮かび上がってきたのだ。メッセージの吹き込み者数が、五億人を超えた辺りからそれは顕著となり、やがて十億人を過ぎると、それは誰が見てもはっきりと分かる指紋のような紋様となって立ち現れた。ほかのテーマ別のディスクには見られない現象で、理由は分からない。
最終的に七十五億人の声が収められたホストディスクは、複製され、各国首脳や国際機関の要人に贈呈された。もちろん探査機にも搭載された。
世界中の誰もが、ホストディスクにアクセス可能で、それを複製することも許された。
紋様が現れたという怪現象のこともあり、人々が最もアクセスを希望したのは、『祈りの声』のディスクであった。
祈りの声の登録者数は、六十億人。重さにすればほんの小鳥の体重ほど、三十グラムのディスクである。しかしそれは手の平に乗せた時、腰が砕けるほどの重みに感じられたと、当時の国際機関の代表はインタビューに答えている。
その世界の『祈りの声』を集めたディスク、チャクラチップに浮かび出た紋様と、隕石の一種、声紋石の紋様が、コピーと見まごうほど、そっくりなのだ。人々の祈りを封じ込めたチャクラチップと同様の紋様を持つ隕石、それが念珠の珠に用いられるのは、自然の成り行きだった。
このデジャフ湖の泥からは、声紋石を初め、様々な隕石が洗い出される。
青苔平原を取り囲む山稜から川の流れに乗って運ばれ堆積したものだが、隕石には地球の石と区別の付き難いものもある。それに声紋石自体も、紋様の形状や鮮明度によって等級が分かれる。そのため、町には公設の隕石の鑑定所が設けられ、そこで鑑定士が日常的に隕石の鑑定を行うようになった。
この日、翔蹄号はデジャフスグイの街なかの宿に投宿、その宿の横に鑑定所があった。
通りの対面には、間口の狭い私設の鑑定所も並んでいる。
春香とウィルタは宿で出された茶を一飲みすると、その鑑定所を覗いた。
ちょうど鑑定士が、客の持ち込んだ拳ほどの石に、聴診器のようなものを当てていた。
隕石の識別のポイントは、一に見た目、二に匂い、三に音だと、馬車の中でオバルが話していた。地上に転がる隕石は、九割方、玉のような質感を持っている。それゆえ大まかな区別は見た目でできる。
外観でざっと仕分けした隕石を、次は第二の指標、匂いで分類していく。
隕石と地球の石、あるいは隕石同士を擦り合わせると、その組み合わせによって特有の匂いが立つ。ただし軽微な匂いなので、それを嗅ぎ取り同定するには、かなりの嗅覚と熟練を必要とする。それゆえ声紋石の鑑定は、特別の訓練を受けた匂いのスペシャリストに委ねられる。ほんの数年前まで、隕石の鑑定といえば、この匂いによる鑑定だった。
それが、斬新かつ簡便な鑑定方法の確立によって激変した。
第三の指標、音の出現である。
音で石を鑑定するとは、どういうことだろう。
生物非生物を問わず、物質は固有の電磁波を発している。苔は苔なりの、石は石、水は水、人は人なりの電磁波を発している。もちろん極微細な電磁波であるため、人はそれを五感で感じることはできない。その見方で言えば、唱鉄隕石は放射する電磁波が極端に強いものと解釈することもできる。
物質が出す微細な電磁波をキャッチ、人の耳に聞こえる音に変換する装置が、古代の高性能の電磁派センサーを用いて作られた。いま鑑定士が耳に当てている聴診器のような器具がそれである。この隕石鑑定用の聴診器が二年ほど前から急速に広まり、あっという間に、旧来の匂いによる鑑定に取って代わった。
オバルの話に、春香は学校の芸術実験の授業で、植物が出している電磁波をセンサーでパソコンに取り込み、楽器の音を振り当てて音楽にした時のことを思い出した。それはリズムともメロディーとも違う不思議な音の響きだった。
二人が真剣な表情で鑑定所を覗いていると、「どうした、見てもらいたい石でも持っているのか」と、オバルが話しかけてきた。
二人は顔を見合わせると、複雑な表情で頷いた。
ウィルタの腰の革袋には、ウロジイから渡された灰色の石が入っている。
石を手渡す際にウロジイは言った。困った時には、きっとこの石が助けになってくれるはずだと。お金になるとは言わなかったが、助けになるとは、そういうことだろう。小ナマズの話では、砂漠の穴掘りキャンプにいた目利きは、この石を糞石と罵ったという。しかしウロジイが願をかけてくれた石が、ただの石ころであるはずがない。それを確かめるために、正規の鑑定士にもう一度鑑定をと、二人は考えた。
ところが店の表書きには、相応の鑑定料が必要と書いてある。悔しいかな、いま二人は一文無し。どうしたものかと思いつつ、鑑定の様子を覗いていたのだ。
「見せてみな、石の同定には、オレも一家言あるんだ」
ウィルタが巾着袋から出した石を、オバルはヒョイと取り上げ、手の平で転がした。
ザラッとした質感のくすんだ色の石である。オバルは数回手の上でその灰色の石を転がすと、二人に了解を得た上で、小指に填めた指輪を石の上で斜めに滑らせた。指輪はリング状の亀甲石で、鑑定の指標石として使われるものだ。薄く引っかいたような傷が残る。硬度は六くらい。オバルは指輪と灰色の石を鼻先で擦り合わせた。
「どう、オバルさん」
特大の団子鼻をヒクヒクと動かしつつ、オバルが首を捻った。
「臭いがしない。ということは隕石ではないということだ。結晶も見えないし、肌理からすれば堆積岩でもない。古代に作られた人造石とも考えられるが、そうなるとオレの管轄外。やはり鑑定士に見てもらうべきかな……」
一家言あると吹聴した手前もあってか、「鑑定料はオレが出してやるよ」と、オバルが苦笑しながらウィルタに石を返した。
「いいの、出してもらって」
「もし金目の石だった場合は、儲けは山分け、半分もらうぞ」
「ひどいよ。三人いるんだから、せめて三分の一にしてよ」
「冗談だよ、オレも石の正体を知りたいのさ」
オバルは二人の背を押すと、私設の鑑定所の扉を開けた。
その三人が間口の狭い入り口を抜けようとした時、戸口手前の敷石に座り込んでいた男が、ウィルタにすがりついてきた。ボロを体に巻きつけた乞食同然の男が、アウーアウーと意味の分からない言葉を発しながら、ウィルタの巾着袋に手を突っ込もうとする。
近くにいた警務官が駆け付け、ウィルタから男を引き剥がした。
鑑定は、ほんの数分で終わった。まだ二十歳そこそこの鑑定士の若者は、認定書に『凡石』とペンを走らせると、鑑定済みの丸印を仰々しく押した。鑑定料は最低の額、飴数個分の料金だった。石の価値に合わせて手数料が請求されるというのは後から知った。
貴重な石なら売ってお金に代えるつもりだったが、それはウロジイの思い出の石を手放すことでもある。その必要がなくなってホッとする反面、ウロジイが託してくれた石だから、やはりこの石は特別な石なのではという、未練がましい想いも残る。
くすぶるような気持ちを抱えて店を出た。通りの反対側では、先ほどのボロをまとった男を、警務官が馬車に押し込もうとしていた。
「都の更生院送りだな」
扉から顔を出して、先ほどの鑑定士の若者が、しれっと言った。
「あれでも昔は名の知れた鑑定士だったらしいが、ああなっちゃ人間おしまいさ」
憐れむように言うと、鑑定士の若者は、三人の後ろでピシャリとドアを閉めた。
ボロの男を乗せた馬車が、走り去っていく。
夜、宿の主人に話を聞いた。
この町には、大陸でも名うての鑑定士が何人もいた。それがこの数年で、みな廃業に追い込まれた。年配の鑑定士ほどそうで、石の嗅ぎ分けに自信がある分、新しい聴診器を使ってのお手軽な鑑定を受け入れられなかったのだ。
廃業した者は、みな町を離れて行ったが、あのボロ布の男だけは、未だに町に居残り、鑑定所の界隈を離れない。理由はここが大陸随一の石の集積地だからだ。ここにいれば、声紋石だけでなく、大陸中から集まってくる石を見ることができる。
根っからの石好きであるボロの男には、何十年も想い焦がれた石がある。昔一度だけ目にし、訳あって自分のものにし損なった石で、男は、その石にもう一度出会いたい一心で、この湖畔の町にしがみついている。日々鑑定所の界隈をうろつき、客が持ち込もうとする石に目を光らせ、それらしい石を見つけると、奇声を上げてその石を奪い取ろうとする。騒ぎを起こすと都の更生院に放り込まれるが、いつの間にか舞い戻って、また騒ぎを起こすのだった。
夕日で本物の茜色に染まってきた湖を、春香とウィルタは見ていた。
二人には与り知らぬことではあったが、あのボロをまとい、奇声を上げていた元鑑定士には、ウロジイに繋がる人生があった。
三十七年前、人でごった返す大陸随一の石の即売市でのこと。
年に一度の市に足を運んだ人たちは、取りたてて見栄えのしない灰色の石を挟んで、二人の男が睨み合っているのを、不思議な面持ちで見ていた。
ほかの人たちには分からなかったが、その二人、貴石の商いを始めたばかりの青年と、駆け出しの篆刻職人の若者には見えていた。
貴石商の青年は、その灰色の石を名石の素質ありと見定め、加工して自分の店の看板商品にしようと考えていた。磨けばその灰色の石は、世の全てを吸い込むような漆黒の闇を顕現する石となるはずだ。片や歳若い篆刻師は、篆刻の競技展に出展する作品用の良い印材を手に入れたいと願っていた。篆刻の若者には、石を彫って現れる高貴な輝きが見えていた。どちらも譲らなかった。
見兼ねて会の主催者が、二人に馬将譜で決着をつけてはと、仲裁案を持ちかけた。
二人とも馬棋譜の腕には覚えがある。異存はなかった。
そして勝負の結果、篆刻師の若者が勝ち、満面の笑みとともに石を手に入れた。
その若い篆刻師というのが、当時二十歳のウロジイである。
この時代、良い印を彫る職人は、国お抱えの巧人として生活が保障される。もし自身の能力が認められれば、妻と腹の中にいる子に楽をさせられる。それに幼少時にジンバに売られた双子の兄を捜し、救い出す手だても見つかるやもしれない。もちろん没落した一族を再興させることもだ。自分に運気が巡ってきたのかもしれない。その高揚した気持ちが、家族の住む町に帰る途中に馬将譜を指して時間を潰してしまうという大失態を呼び込んだ。そして遅れた時間を取り戻すように氷湖を横断しようとして、クレバスに……。
ウロジイは三十七年の長きに渡って、氷の底の孤独な暮らしに押し潰されることなく生き抜いた。常人なら、とうの昔に発狂していたはずである。おそらくは弟のムワン同様、心の中に、生まれ出ずる前に神と交わした約束が、諦念を持って受け入れられていたのだろう。長き孤独に耐える人生という神との契約である。
一方、ウロジイと争った貴石商の青年はどうなったか。
石の鑑定士としての才能に恵まれた青年は、才を生かして石の町デジャフスグイで商売に励んだ。そして財を成し、それを元手に四十にして旅に出た。自分が若き日に手に入れ損ねた石を探す旅に出たのだ。自分の目に狂いはない。あの石は世に出てしかるべき石だ。探せば必ずや見つけ出すことができる。そう信じて男は旅を続けた。
しかし積年の夢を果たすことは出来なかった。男は失意のなか、酒に溺れ、体を壊してデジャフスグイに舞い戻った。しかし時代は個人の目利きに頼る鑑定から、聴診器による機械的な鑑定へと移っている。男が鑑定士として再スタートを切ることはなかった。それにすでに男は心を病んでいた。
男は昔の石の幻影の中に暮らすようになっていた。
おそらくは、ウィルタの持っている石を見せたとしても、男がそれを自分の恋焦がれていた石と認めることはなかったろう。思い出の中の石は、男が数十年の長きに渡って磨き続けた結果、本来のものとは全く別のものに変貌していたからだ。
湖畔の宿に泊まった翌日、翔蹄号は裏街道の穹鉄道から表街道に出た。
青苔平原を南北に縦断する一番の幹線道、鋼栄道である。この鋼栄道を北に半日進むとマカ国の首府のイボルバに、南に進めば中二日で街道の終点バレイに到着する。もちろん翔蹄号は街道を南に進路を取る。
暖かな陽気で、かつ風もなく、日の高い時間帯ということもあって、珍しく翔蹄号の客も外套を脱いで、たくし上げた幌の外、街道沿いの光景に目を遊ばせている。
首府近くの本街道とあって道は賑やかだ。ウィルタと体調の戻ってきた春香は、御者席のボナの横に座って、その賑わいに好奇の目を向けていた。
もっとも同じ物珍しさでも、ウィルタと春香では感じ方が違う。ウィルタが賑やかさ自体を驚いていたのに対し、春香の場合は、馬車が道を行き来していることに新鮮な感動を覚えていた。
二千年前、春香の暮らしていた国では、馬車は遊園地や観光地でしか見ることのできない、日々の生活とは縁遠いものになっていた。比べてウィルタが感心している往来の交通量の多さは、古代の交通ラッシュを知っている春香にしてみれば、のんびりとした牧歌的な賑わいにしか見えない。警笛が鳴るわけでなし、馬車が数珠つなぎになっているのでもない。一時間に四〜五台の馬車が通り過ぎる、閑散とした交通量なのだ。
ただ春香がその感想を口にすることはなかった。雪の中から救出されてこの方、街道を北から南に移動するにつれて、人の気配がどんどん濃くなってくる。それはやはり何かしら心を浮き浮きとさせるものだったからだ。
様々な馬車を目にする。街なかで人を運ぶ辻馬車から、物資を運ぶ荷馬車、駒牛一頭の小さな荷車から、毛長牛六頭建てのトレーラーのような大型の運搬車、飾りたてた角牛が牽く箱馬車まで目にする。見かけでいえば翔蹄号は一番質素な馬車だろう。いかにも地方から出てきましたといわんばかりの、つぎはぎの幌に、風雪をくぐり抜けたような荷台を、ヨボヨボの老いた駄馬が牽いているのだ。
本街道に出ればもっと増しな馬車に乗り換えると息巻いていたクッチョボ婦人も、目的地の終点まであと一息というところに来て、開き直ったのか、澄ました顔で外の景色を眺めている。
春香は膝の上に両肘を着き、重ねた手の上に顎を乗せて、街道に目を向けていた。起伏のない一枚板のような大地の上に、街道は一直線に伸びている。こんな真っ直ぐな街道を見るのは、旅に出て以来初めてだ。
交通量の多い本街道には、車輪の轍の跡、道のえぐれた跡が左右に二本ずつ付いている。翔蹄号は左側の轍の溝を外さないように進む。左側通行なのだ。様々な形式の馬車がある一方で、車輪の幅は統一されているということだ。
定規で引いたように真っ直ぐな道を眺めていた春香が、顔を上げ、街道右手の土手に視線を流した。歓声が口を突いて出る。
本街道に抜けて以来、街道からやや離れたところを、一段高い土盛りが街道と並走していることに春香も気づいていた。別の道でもあるのかと思っていたが、ちょうどそこを、駄馬たちに牽かれた六両編成の貨車が走り抜けていく。満都時代の鉄道網の軌道を使って、馬車鉄道が敷設されているのだ。
大陸各所の鉄道網は、すでにほとんどが消えるか、もしくは軌道を取り払って街道そのものに変わっている。それがこの平坦な起伏の少ない青苔平原の中では生きている。
あのマトゥーム盆地を走っていた軽便鉄道も、同様の満都時代の名残である。
その馬車鉄道、玩具のような車両を、駄馬が軌条の上を歩きながら引っ張る。貨車に荷が積んでいなければ、遊園地の乗り物に見えるだろう。駄馬の歩みに合わせて、貨車がゴロゴロと車輪の音を響かせながら進む。街道を行く馬車よりも心持ち速い程度で、その馬車鉄道の車両が翔蹄号を追い越し、右手前方に小さくなっていった。
そうして、ビルも工場も商店も住宅も電柱も舗道も街路樹も道路標識も何もない平坦な大地と、真っ直ぐな道が戻ってくる。
昔は地面の上に色んな物があったと思う。それが今あるのは地面だけ。さっぱりし過ぎて何か物足りない。地面の上には、もっと色々なものがあっていい。ここではあまりにも大地と空がのさばっている。あくびをついても何も変わらない。本当に地面の上にあった物は、どこに消えたのだろう。いつもゴミの処分に困っていたのに、二千年も経てばその痕跡すらない。こんなことなら、面倒なゴミの分別や処分場なんて気にせず、散らかし放題にしていても良かったのに、などと思ってしまう。
大あくびをついた春香の横で、ウィルタは平原の西に覗く白い山稜に目を凝らしていた。
「ねえ、ボナさん。天来山脈がこちらに向かって来てるの」
「そうさな……」
ボナの気のない返事が返ってきた。
荒れた裏街道と違って、平坦で邪魔な石くれも転がっていない鋼栄道は、ボナにとっては退屈なのか、さっきから春香と同じように、あくびばかりついている。そのボナが、暇をつぶすように街道の終点のバレイに至るまでの地理の説明をしてくれた。
いま翔蹄号は、青苔平原の南東部に差しかかったところだ。
青苔平原は、その最南端で、くびれるように細くなる。それは西の天来山脈と東の竜尾山脈が、示し合わせたように平原の内側に向かって湾曲してくるからで、背を屈めるようにして大地に没する天来山脈の末端と、竜尾山脈の尾にあたる尾骨山の狭い隙間を割るようにして、鋼栄道は青苔平原から外に抜け出る。その先は、ドゥルー海の波が西から打ち寄せる塩沼地で、その海岸沿いの塩沼地を半日ほど南下すると、前方に巨大な岩の断崖が見えてくる。大陸を北と南に分ける亀甲台地の北壁だ。
その亀甲台地の断崖と手前の岩山に挟まれた港町が、マカ国最南端の町で、かつマカ国唯一の港町のバレイになる。翔蹄号はそのバレイで客と荷を下ろすと、折り返し、また新たな客を乗せて、街道を北へと上がっていくのだ。
港町のバレイまで、あと丸二日。翔蹄号は東西から挟み撃ちでもするように迫る天来山脈と竜尾山脈の間にできた要衝の町、キャバの入り口まで来ていた。
そのキャバに入る直前、街道脇の広場に馬車溜りができていた。
検問である。
保衛官が街道に柵を渡し、馬車を停車させては積み荷と人を調べている。翔蹄号もその順番待ちで、広場の脇に停車させられた。
風のように情報が伝わってくる。どうやら密輸の銃が運ばれているという情報が当局に寄せられ、急遽検問を設置して取り調べを行うことになったらしい。
ただそれが本当に検問の目的かどうかは分からない。検問をすると荷が滞るし、荷装をやり直さなければならない。手間を取りたくない御者たちは、保衛官に袖の下を渡して検問を素通りする。その賄賂目当てに検問が設置されることがままあるのだ。小遣い稼ぎの意図を伏せるために、密輸品の検査とは一番良く使われる方便だった。
もっとも通常なら、検問は二つの山脈がぶつかってできる峡谷の出口に設置され、平原側に設置されることはない。そのことからすれば、逆にこの臨時の検問は、本当に密輸の摘発を目的としたものかもしれなかった。
面白いことに、人の集まる場所には物売りが顔を出す。隣の馬車の列で、揚げ餅を売る青年と、箱馬車の客とが、売り値を巡って激しく言い合っている。御者台の上、ボナの横に座ってその様子を眺めていたウィルタは、物売りの先に止まっている一台の馬車に目を留め、首を傾げた。
風に煽られると倒れてしまいそうな背の高い幌付きの馬車だが、荷台に見覚えがあった。一昨日の午後、駄馬に鞭を入れながら翔蹄号を追い抜いて行った馬車に似ている。それにあのクッション。ジャンジャさんが口にした、ネジバネという言葉が蘇ってくる。
馬櫛の目を掃除しているボナに、ウィルタが聞いた。
「おじさん、あの馬車、二日前にぼくらを追い越していった馬車じゃないかな」
顔を上げることもなくボナが、「そうさな」と、いつもののんびりとした口調で応じた。
物売りが、こちらの列に移ってきた。
オバルがウィルタの見ている馬車を指して、「馬も幌も替えてあるが、台車は前のままだ」と、さも当然のごとく断定した。
この時代、馬車を走らせたことのある者は、瞬時に馬車の型、例えば車輪や台車の作り、板ばねの効き具合などを見て取る。それは春香の時代に、車の型や年式や整備の具合を、少し車に詳しい者なら一目で判断できたのと同じことだ。日々馬車に接しているこの時代、オバルの反応は当たり前のことだった。
荷は食料品と雑貨で、怪しいものじゃないと説明するたて型幌の御者に、保衛官が声高に幌の取り外しを命じる。
肩夫たちが強引に幌を外しだしたのを見て、つい先ほどまでは早く検問を通せと息巻いていた連中が、馬車を降りて、野次馬根性丸だしに検査の現場に集まってきた。すでに検問を終えた馬車も、先に進まず検問付近に留まって、事の成り行きを見守っている。
保衛官が警棒を振り回し、「さっさと行け」と、見物の連中を怒鳴りつけるが、「なら、早く白黒つけろ」と、御者台や幌の中から、更には物売りの連中からも野次が飛ぶ。
騒々しい野次馬たちに、保衛官の連れている犬が凄味のある声で吠え返した。
退屈な旅をしている乗り合い馬車の客にしてみれば、めったにない土産話の種が降って沸いたのだ。簡単に引き下がるはずがない。次々に集まってくる野次馬を見かねて、保衛官が威嚇するように銃をかざした。
あっという間に幌が剥がされたて荷台が露わに。リウの編み箱がうず高く積み上げてある。肩夫たちが、その箱を外に下ろし、保衛官が蓋を開けて中身を改める。
目の前で進行する保衛官と見物人のやりとりに気を取られているうちに、気がつくと翔蹄号に検問の順番が回ってきた。
黒犬を連れた検査の保衛官が、御者台に上がって幌を捲る。
ざっと中を見まわすと、保衛官は御者代の後ろに積んである荷に目を向けた。
一番上はオロロバ氏の板箱。それを棒鞭で叩く。開けろというのだ。
手を合わせて拝授の礼を返すと、オロロバ氏は紐を解き、ウォト製の頑丈な蓋を取った。赤い経札の束の下に泡壺が二つ、ヨシくずを充填材に収められている。ただ一つは大きくひびが入り、割れた口から、中に消し炭のような物が覗いている。
「二万単位の珍しい泡壺なんですがね、うっかり一つ割っちまいやして」
念珠を珠送りしながら、オロロバ氏が割れた壺の縁をさも口惜しそうに指先でなぞった。
ところがわざわざ開けろと命じておきながら、保衛官は泡壺を一瞥すると、意外にも氏が手に握り締めていた念珠を指して、「見せろ!」と顎をしゃくった。
一瞬表情を変えた氏だが、直ぐにその念珠を保衛官に差し出す。
五十個ほどの珠を繋げた念珠を、保衛官は試すように一つ一つ珠送り。特に異常はないとみたのか、十個ほど珠を送ったところで保衛官は念珠をオロロバ氏に返すと、今度は、下のリウの編み箱に鞭を向けた。ジャンジャの編み箱である。
狭い幌の中で、ジャンジャとオロロバ氏が、体をすり合わせるようにして位置を交代。
保衛官に愛想笑いを浮かべながら、ジャンジャが編み箱の紐を払う。
二段組の編み箱の上段に、ボロ布に包んだ雑多な機械の部品が、下段に小箱がいくつも押し込まれている。小箱の一つを引き抜いた保衛官が、蓋を開けるや驚きの声を上げた。
「なんと、ゲルバの同調回路か、良く手に入れたな」
次は隣の小箱。蓋を取ると、中身は淡黄色の玉っぽい石、見るからに隕石だ。
詰め込まれた石の一つ摘み上げると、保衛官はオバル同様、指にはめた亀甲石のリングと石を鼻先で擦り合わせた。
しかし今ひとつ匂いに確証が持てないのか、眉間に皺を寄せている。
ジャンジャが気を利かせて「隕鉄染めの原石でさ」と、保衛官に注釈を入れる。
「この渋味のある匂いは、藍晶石だな」
皆の背後でそう言ったのは、オバルだ。隕石には染色効果を持つものがある。中でも深い青の発色剤に用いられる藍晶石は、その発色の美しさと稀少さで、かなり貴重なものだ。
「あんたいい鼻をしてるね」
感心したように口走るクッチョボ婦人の目、そして他の乗客の視線が、保衛官の手元に集まった。編み箱の底から保衛官が引き出したのは、寸胴蓋つきの短いパイプ、色合いからすると鉛のパイプである。
ネジ式の蓋を開けるや、「何本ある」と、保衛官がジャンジャに質した。
「八本……、でさ」
神妙な顔で答えると、ジャンジャは懐から出した書面を保衛官に差し出した。荷の明細らしい。書面に目を落す保衛官のポケットに、ジャンジャが素早く包みを押し込んだ。
保衛官はニコリともせず、「税金だ」と言い捨てると、御者台にいる助手に手にしたパイプを一本手渡した。
翔蹄号の真横に止まっていた馬車の客たちが、ヒソヒソと話を交わす。
「鉛のパイプということは、アヴィルジーンの羽じゃねえのか」
「ああ、健康おたくの金持ちに、良い値で売れるっていうからな」
平静を装ってはいるが、ジャンジャの靴が腹立たしげに馬車の床を掻く。
検査済み証明書をジャンジャに渡すと、保衛官は次の荷に目を移した。
火炎樹の殻種の入った箱、グリビッチの荷だ。一抱えほどある箱が都合五つ、ザックなどの荷物の下に土台のように押し込まれている。
保衛官が自分の荷に目を向けたと見るや、グリビッチは座席の下に突っ込んである見本の箱を引き出した。ところが保衛官はそれを無視、重ねてある一番下の箱を靴先で突いて、「開けろ!」と居丈高に命令した。
「そっちは釘で打ちつけてあるんだが……」
渋々箱に手をかけたグリビッチが、しかめっ面で腰を押えた。腰に難のあるグリビッチは、馬車が大揺れする度に、電流が走ると言って顔を歪めている。どうやら屈もうとして腰を捻ったらしい。ザックに突っ込んであったバールを保衛官に渡すと、「悪いが自分で開けてくれるかな」と言って、グリビッチは越しを摩りながら馬車を下りてしまった。
一寸グリビッチを睨んだ保衛官だが、直ぐに足元の箱を引き出し、バールで箱をこじ開ける。中にラグビーボール大の灰色の殻種が六つ、きっちりと隙間なく収められていた。
一箱だけ確認すると、保衛官は「終了」と助手に呼びかけ、御者台に座り込んでいた黒犬を連れて翔蹄号から下りた。
保衛官のいなくなった幌の中では、乗客全員の目がジャンジャの編み箱に集まっていた。
検査の際に出てきたのは、同調回路に藍晶石、それにアヴィルジーンの羽である。どれも高額で取引されるものだ。今までは、みなジャンジャのことを、機械の部品を運んで小金を稼ぐ労夫崩れの、しがない運び屋と見ていた。それが実は相当のやり手の商人ではないかと見直したのだ。はやる好奇心が抑えられないのか、クッチョボ婦人が身をくねらせるようにして言い寄る。
「ねえ、ジャンジャさん、その編み箱、まるで玉手箱だね。ほかの袋や小箱には何が入ってんだい。田舎者なんか、見たこともないものが入ってんだろう。旅のよしみ、チラッとでいいから、見せておくれでないかい」
腕を掴んで体を摺り寄せてくるクッチョボ婦人に、ジャンジャが助けを求めるように、同乗の男性陣に視線を送る。ところが誰も目を合わせようとしない。
旅の最中、他人の荷物の中身は詮索しないのが礼儀である。しかし本音で言えば興味深々。ジャンジャの労夫風の風采からは想像もつかない高額の品が出てきたのだ。それに保衛官が調べたのは、荷の一部、小箱二つと鉛管だけだ。残りの箱には何が? と思うのは、人として正直すぎる反応だろう。
クッチョボ婦人が押しの一手でジャンジャの残りの箱を開けさせる、それを皆が期待しているのは明らかだ。その期待を感じているのかいないのか、クッチョボ婦人は見せてくれるまでは絶対に離さないよとばかりに、ジャンジャの腕を両手で握り締める。ジャンジャが迷惑顔に婦人の手を振り解こうとすると、更にしがみつく。この時代にはいないが、まるでスッポン。業を煮やしたジャンジャが、それならと条件を切り出した。
「拝観料をたっぷり払ってもらえば、見せてもいいぜ」
「あんた、馬車で肩を触れ合わせた女から、金を取るのかい」
腕を掴んだまま、クッチョボ婦人が金切り声を上げる。
「いやならよせ」と突き放されても、「ケチ、じゃあ幾らなら見せるのよ」と怯まない。
「十万ブロシュでどうだ」
「冗談は明日にしておくれ、一ビスカでどう」
「十一万ブロシュ」と、ジャンジャが辟易したようにやり返す。
「何で値が上がるのよ。女を苛めるような男は地獄に落ちるよ、なら一ビスカ」
婦人が声のトーンを跳ね上げる。
「金があれば、地獄も天国。十二万」
「バレイに着いたらサービスするから、これでも若い頃は宿郷の看板娘だったんだよ」
「どうりで板のような顔だと思った、カンナで削って人生出直しな、十三万」
「出直すから、その前にご祝儀で見せておくれよ、一ビスカ」
どちらもしぶとい。
「十四万!」
「一ビスカ!」
拝観料の値段で、二人が激しく言い合う。
そのバカバカしいやり取りを、グリビッチは御者台の横板に寄りかかって聞いていた。
翔蹄号を降りた保衛官は、後ろの馬車の検査に入っている。グリビッチは、その官服の背中に厳しい視線を送ると、「官権のゴミめ!」と、抑えた声で怒鳴った。それは翔蹄号の中での商人らしい言葉使いとは全く別の、激した口ぶりだった。
用を足しに行っていたウィルタとボナが戻ってきた。
幌の中では、まだジャンジャとクッチョボ婦人が盛んに言い合いを続けている。ただし争点は値段ではなく、拝観料を前払いにするか後払いにするかだ。
その白熱したやり取りとは別に、オロロバ氏は一人ブツブツと、「僧侶の数珠を調べるとは失礼千万な」と、保衛官の態度を罵っている。
聞き留めたラジンが、宥めるように氏の肩を叩いた。
「先月、念珠に百乗粒丸を仕込んでいた輩が捕まったそうだ。それでだろう」
その瞬間、クッチョボ婦人が目を輝かせて振り向いた。
「百乗粒丸って、あの麻薬のかい。あたしゃまだ現物を見たことがないんだ。綺麗なピンク色の粒なんだってね」
聞き耳を立てていたような反応の良さに、ジャンジャが呆れたように首を振った。
「現物を拝んでいるところを見つかったら、後は吊るした縄を拝むことになるぜ」
忠告するように、ジャンジャが首に縄をまわす仕草をしてみせる。
それを受けて、珍しくオロロバ氏が弾んだ明るい声を出した。
「祝いの経は不得手だが、葬送の経はオハコ、いつでも駆けつけるぜ」
幌の中に陰気な笑いが広がったところで、グリビッチが幌の中に戻ってきた。
腰を押さえながら椅子に座ったグリビッチが、「イチチ、全く痛むのは懐具合だけにして欲しいもんだ」と、いつものとぼけた調子でぼやいた。
検査が隣の馬車の列に移った。
御者のボナは、保衛官の助手から検査済みの伝票を受け取ると、軽く会釈をして手綱を引いた。翔蹄号が車輪を軋ませ動き出す。
クッチョボ婦人が、ジャンジャとの交渉を打ち切るように、金切り声をあげた。
「どうして先に進むのよ、せっかくいいところなのに。もうしばらく見物を……」
銃を手にした保衛官が、きつい目でクッチョボ婦人を睨み付ける。
しかし婦人も怯まない。この件の一部始終を見届ければ、それが後でどれだけ自分の口先を潤してくれるか、それを考えただけでも体が疼くくらいに火照るのだ。
負けじと保衛官を睨み返すと、「なによケチ、そんだから保衛隊は嫌われるのよ」と、クッチョボ婦人が幌を切り裂くような声を浴びせかける。
「うるさい、黙ってろ、検査の邪魔だ」
銃を持つ手に力をこめた保衛官から、婦人に罵声が飛ぶ。
そんな客と保衛官のやり取りなど興味ないとばかりに、ボナが手綱をしゃくる。
最前列にいる係官が旗を振って進行を促したのを機に、滞っていた他の検査済の馬車も、見物を諦めて先に進み始める。たて型幌の馬車に積まれた荷の多さからして、検査の結果が出るには、まだかなり時間がかかるだろうと判断したのだ。
ぼやきつつ箱の蓋を閉め直すグリビッチに、ラジンが小声で伝える。
「保衛隊の倉庫から密かに銃を持ち出し、売りさばいているグループがいたらしい。内部告発があって、一斉取り締まりになったそうだ」
売り子に小銭をやって聞き出した情報である。
特に驚くでもなく頷きながら、グリビッチが後方の検問に視線を流した。
「塁京では何でも売れる、とくに銃はな。こちらも伝さえあれば、買い集めて塁京に持ち込みたいが、元手も少ない貧乏商人、火炎樹の殻種を扱うのが関の山というところだ」
「はは、同感、薬などたいした儲けにならない」
二人は同業相哀れむように笑った。
周りの馬車が動き出すと、翔蹄号はあっという間に、ほかの馬車から取り残されて後尾にまわった。いや実際にはもう一台。老いた牧夫風の男が、それこそヨボヨボの駄馬に荷車を牽かせて後ろをついてくる。荷台を食み出し山積みにされているのは、リウの細かい枝だ。牧夫が老馬に間断なく入れる鞭の音が、車輪の音に混じって聞く者の耳をうすら寒くする。
クッチョボ婦人は、諦め切れない様子で後ろの検問を何度も振り返っていた。
しかし歩みは遅くとも翔蹄号も着実に検問を離れる。と、ひとしきり進んだところでボナが馬車を止め、「用を足してくる」と言って御者台を下りた。
クッチョボ婦人が拳を握り締め叫んだ。
「なによ、止めるなら、どうしてさっきの検問を出たところで、止めないの!」
検問に戻っていくボナを憎々しげに睨む婦人の真横を、先のリウの枝を積んだ荷車が過ぎていく。いやそれだけではない、検査を終えた馬車が、次々と遅れた時間を取り戻すように追い越していく。
なかなか戻ってこないボナに、「また死にぞこないの老馬でも見つけたんじゃないか」と、グリビッチがうんざりした表情でこぼした時、荷台の面々に、銃を手に勢いよく馬を走らせ、こちらに向かってくる保衛官たちが見えた。
保衛官を乗せた馬は、そのまま前方へと駆けて行く。
銃声が轟いた。場所はさして離れていない。
クッチョボ婦人が、馬車から飛び降りそうな勢いで前方に首を伸ばす。それが悔しいかな、前の馬車が衝立となって何も見えない。
「そういうことか」と、情勢を見守っていたオバルが指を鳴らした。
「何が、そういうことなの」と聞く春香に、オバルが興奮気味に言った。
「つまりあのたて型幌の馬車は、おとりなんだ。おとりに検問所の保衛官の注意を引きつけておいて、その間に、密輸品を積んだ他の馬車を通過させる」
「それ、本当かい!」
婦人が食いつきそうな目でオバルに体を寄せる。
オバルが逃げ腰に婦人から体を逸らせたとき、御者のボナが戻ってきた。
ようやく翔蹄号が動きだす。
何事も無かったかのように平然としているボナに、「おめえさんのおかげで、せっかくのいい場面を見逃したな」と、ラジンが珍しく嫌味を投げつけた。
聞こえているのかいないのか、ボナは淡々と手綱をさばく。
「馬耳東風とはよく言ったもんだわ。馬好きのだんなは、耳まで馬になってるのよ」
クッチョボ婦人のこれ見よがしの皮肉にも、ボナは黙ったままだ。
話しかけるだけ無駄と思ったのか、静かになった幌の中の面々に、前方の人だかりが見えてきた。先ほど銃声のした辺りだ。
馬車と人だかりの脇を、翔蹄号がゆるゆると過ぎて行く。
倒れた牧夫の横、粗朶の束の中に、わずかだが箱らしきものが見えた。よれよれの駄馬も、老人風に見せた服装も、それからどうということはないリウの粗朶の山も、すべておとりの馬車が注目を集めている間に検問を通り抜けるための、演出だったようだ。
それに、リウの粗朶を積んだ馬車が怪しいということを保衛官に通告したのはボナだ。
そのことはウィルタも分かっていた。つい今しがた現場の人ごみを抜ける際、保衛官の一人が、ボナに敬礼したのが見えたのだ。
幌のなかの全員の視線が、ボナの背に集まる。
しかしボナは我関せずと、馬の背とその向こうに続く街道を見ている。
ボナが、ぼそりと呟いた。
「おれは密輸なんて興味ねえ、ただ馬を苛めるやつは嫌いだ、そんだけのことだ」
翔蹄号は人の早歩き程度の速さで進む。速いとも遅いとも、どちらともいえない不思議な足並みだ。それでも時間とともに、馬車は確実に前へ進んでいく。
気がつくともう検問のあった場所は、緩やかな街道の起伏の向こうに隠れていた。
その日は、キャバの町の宿に泊まった。
次話「バレイ港」




