音盤ニュース
音盤ニュース
南北に伸びる穹鉄道に東西方向の小街道が合流する地点、そこに通りを挟んで土間作りの家がパラパラと八軒ほど建っている。どの家も申し合わせたように屋根の上に小さな風車を頭飾りのように乗せている。その一軒にボナは馬車を乗り入れた。
宿から割れたような音が漏れ聞こえる。雑音混じりの音、音盤の再生音だ。この音盤の音を聞くと、不思議と人の住む場所にやってきたという気分になる。
田舎の宿屋は看板を出していないことが多いが、建物を見れば直ぐにそれと知れる。家がコの字型になっているのだ。コの字に囲まれた中庭が馬車の駐車場、家屋の右棟が駄馬の厩舎、左棟が宿泊所、正面奥が宿の受付ならびに食堂兼休憩所で、これが町なかの宿屋になると建物が二階建てに変わるが、地方ではまず平屋である。客間は寝台が並んだ共同宿泊所の形をとる。なお今日の宿には、中二階の屋根裏部屋がついていた。
御者のボナは、駄馬たちを車から外すと、後ろに繋いだ鹿毛の老馬と一緒に、宿の裏手に姿を消した。乗客は荷物を持ってぞろぞろと宿に入る。
宿屋らしい調度は整っているが、家具には埃が積もり、客足の減った場末の閑散とした気配が色濃く漂っている。そんななか、辛うじて宿屋らしい華やかさを演出しているのが、談話室の棚に並べられた拡音器たち。ラッパ型の拡音器があることで、この宿はラッパ屋と呼ばれていた。
翔蹄号の乗客が旅装を解いて談話室に出てくると、酔っ払いが酒瓶を抱え、幸せそうに杯を傾けていた。自家製の酒があったのだ。
厨房から女将さんが顔を出し、全員に温かい苔茶と質素な餅菓子が振る舞われた。みな思い思いに椅子に腰かけ、その苔茶をいただく。久しぶりにちゃんとした宿に投宿できた安堵感もあり、和んだ空気が皆を包む。
馬車が穹鉄道北端の宿郷を出発して、はや十日。途中から乗車してきた薬売りと二人の子供を除けば、全員が最初からの乗客である。好き嫌いはあるにせよ、さすがに十日も狭い空間で体を寄せ合い、揺れを共にしていると、お互いの素性や気心も知れてくる。
酔っ払いのヌルブアンは、穹鉄道終点のバレイの港を拠点とする廻船の船乗りで、半年ぶりに船を下りて田舎の家に戻ると、女房が浮気をしていたとかで、憂さ晴らしに酒に溺れている。こん棒のようながっしりとした腕には、水竜の刺青が刻まれている。
ショールの婦人、黄土肌のクッチョボ婦人は、港町のバレイにいる妹に子供ができたとかで、手伝いに行くところ。この婦人の特徴は服装で、薔薇牡丹と呼ばれる派手な柄のショールとセーターを着こんだ上に、ズボンは紫縞。衣服のあちこちに飾り物を結びつけ、髪を尖った玉ねぎのように結い上げている。正直いって理解不能な出で立ちで、田舎者が見栄を張って自分を飾りたてようとしている風にしか見えない。
丸眼鏡の商人グリビッチは、薄土肌の卵のような顔立ちだが、反り上がった眉と幅広の顎ひげのせいで、厳つい強欲商人のように見える。服装は一見黒っぽくて地味だが、丸眼鏡のフレームには浅い浮き彫りが施され、商人チョッキのポケットから出し入れする懐中時計の竜頭には、青い貴石がはめ込まれている。クッチョボ婦人が、しきりにグリビッチに口喧嘩を仕かけるのは、お洒落に対抗意識があるからだろう。北の都で仕入れた火炎樹の殻種を、塁京に売り込みに行くところだ。
薬売りのラジンは、地方を巡回しながら薬を売り歩く行商の丹薬売り。ただし注文に応じて調剤もするので、正確には万剤商だが、当人は謙遜して丹薬売りと称している。四カ月ぶりに自宅のある塁京に戻る、その道すがらということだ。
このラジンのように、大陸全土を旅しながら行商する者を、別名、赤道跨ぎという。大陸の北が雪のシーズンは大陸の南に、南が雪のシーズンは北へと、季節が変わるたびに、赤道を越えて移動するからだ。ラジンは塁京に戻って半月ほど休養を取り、十一月からは大陸の南に出かける予定だという。
そして、石黄色の僧衣をまとった坊商のオロロバ氏。
兜目という通り、目が極端に落ち窪んでいて、表情が分かり難い。いつも数珠をカチカチと珠送りしながら小声で経を唱えている。商人としての仕事は、匣電や泡壺の売買で、今回は仕入れた二個の泡壺の片方を割ってしまったと嘆いている。オロロバ氏が陰気なのは、泡壺の破損も関係しているようだ。とにかく経か愚痴か分からない言葉を、いつもブツブツとこぼしている。なおオロロバ氏は、経文を書き込んだ赤い札、経札も売っている。
乗客のうちの最年長、労夫のジャンジャは、猫背を通り越して、せむしのような体形をしている。長らく務めた荷担ぎ業のせいだが、その労夫業はすでに廃業、今は雑多な荷の運び屋をしている。元労夫らしく、外套の下に年季の入った作業着を着込んでいる。荷物のリウの編みカゴの中身は、機械の部品、売却先はもちろん塁京だ。
ちなみに、クッチョボ婦人も売るための物を運んでいる。強精剤の原料になる毛長牛の乾燥ペニス。これをバレイの町で売って、帰りのお土産を買う予定で、薬売りのラジンにしつこく値段の相場を確かめていた。この時代、どこかに移動するということは、売るための荷を運ぶということでもある。
そしてルボック、つまりオバルは、ユルツ連邦西方の熱井戸の町で働いていたポンプ技師と自分を紹介。井戸が閉鎖されたために、塁京に仕事を探しにいくという触れ込みである。湿地帯の塁京ではポンプ技師は高給で雇ってもらえる。ルボックの売る荷は、自分の技術といったところだろう。煙苔を禁煙中とかで、時々禁煙ギセルという、キセルの吸口のような物を口にくわえて、ボーッとしている。
最後がウィルタと春香。つまりホーシュとアチャの兄妹で、不治の病に冒された末の妹を救う方法を探して、砂漠の孤島のような岩船屋敷から旅に出たという設定である。
ウィルタが、これまでの旅の顛末を話し始めた。自分たちのことを黙っていると逆に疑われる怖れがあるというオバルの忠告に従ったのだ。それに話はまとめて話す方が話しやすい。夕食までの一時が、ウィルタの独演会となった。
当然のことながら、ホブルの息子という設定のため、旅の始まりは、トゥンバ氏にくっついて岩船屋敷を後にするところからである。それでもガラスの森の崩壊に、砂呑窟、砂嵐、手灯の少女、新種の火炎樹の盗難騒動から、盗賊に奴隷として連れ去られそうになった話、鱗堆丘、グーの怪我、狼に襲われて氷の川に落ちる話と、なかなかの冒険譚である。馬車の中では断片的にしか耳にしていなかったので、皆ようやく話の本体に出会えたという感じで聞き入っている。
もちろんオアシス・ギボでの麻黄苔がらみの大騒動や、シロタテガミのこと、ウィルタの目の能力など都合の悪いことは伏せ、適当に脚色しての話だ。
雪原で遭難して、気がつくと馬車の中に寝かされていたところまでを一気に話し終えると、いつの間にか宿の主人までが、客に混じってウィルタの話に聞き入っていた。
話の終了と共に、全員がホーッと大きなため息をつく。宿の主人の後ろでは、宿の女将さんと並んで、村の男衆たちも何人か、感心したような視線をウィルタに送っていた。
薬の調合をしながら話を聞いていたラジンに、クッチョボ婦人が「あんた、いろんな薬を扱ってるんだろう、心臓を良くする薬を知らないのかい」と、涙ぐんだ目を向ける。
作業の手を止めたラジンは、大きな目をしばたくと、
「生まれついての心臓の病だとすると、薬で簡単に治るものじゃない。それに、もしそういう症状に効く薬があったとして、ぼくは旅の薬売りで、一粒一ビスカの家庭用の丹薬を売っている身、難病に効く薬の知識までは持ち合わせてないですよ」
「でも、この子たちは、はるばる塁京まで行って、薬を探そうとしているんだよ。塁京のどこに行けばそういう薬に関する情報が手に入るか、そのくらいのことは、あんたでも分かるだろう、それを教えてあげるのが、旅の縁というものでしょう」
子供たちの運命を一手に引き受けたようなクッチョボ婦人の話しぶりに、ラジンは困ったように薬匙の柄で眉の生えぎわを掻いた。
「しかしですねえ、曖昧なことを教えて無駄足を踏ませても悪いし、それにそういう難しい病気の治療法は、新興国の塁京よりも、製薬業の盛んなユルツやアルン・ミラの方が、進んでいると思いますよ。特にユルツ国は、古代科学の研究が盛んな国でしょう。復元された古代の薬で、役に立っているものが随分ありますからね。ユルツ国の医薬事情に詳しい人に話を聞くと、いいんじゃないですかね」
言い訳するように話すと、ラジンがオバルに話を振った。
「ルボックさん、あなたは確かユルツ連邦の出身と仰ってましたね。何か、そういう特殊な薬を扱っている業者とか、専門機関とかを知らないんですか」
オバルはウィルタが上手く砂漠の子供を演じ切れるか気を揉んでいた。それが無難に話をまとめ上げたのを見て、ほっと一息ついたところだ。
思わず口ごもってしまうが、「いやあ」と、考えるふりをしながら時間を稼ぐと、
「俺が仕事をしていたのは、ユルツ連邦といっても地方の熱井戸だったんでね、ユルツ国の事情には疎いんだ。それにもし特別な薬や治療方法があったとして、ユルツ国の復興院は閉鎖的なところだというのがもっぱらの噂だから、よそ者が行ってもなかなか相手にしてくれないんじゃないかな」
冷や汗をかきつつオバルが意見を述べていると、談話室の隅でシーツの繕いをしていた宿の娘が「あたいも、そう思うな」と、話に首を突っ込んできた。
娘をやっと卒業したばかりの年頃の娘で、繕い物などよりも、客とおしゃべりをしたいというのが、そわそわした挙動に見え隠れしている。その宿の娘がまくしたてた。
「薬や治療法を探すんなら、やっぱり塁京と思うな。なんたってあそこは、今この大陸で一番栄えているところだもの。人や物も、何もかもが、吸い寄せられるように集まってるのよ。余裕がなければ、人は赤の他人に手助けなんかしないでしょ。雪と氷に埋もれて右往左往しているユルツ国なんか、当てにならないと思うわ」
娘の意見にもっともとばかり頷く者もいれば、首を捻る者もいる。
「それはどうかな」と、丸眼鏡のグリビッチが娘の話に楔を打った。
「物が溢れてるから人に優しくなれるかと言えば、そうでもないぜお嬢さん。人間ってやつは、貧乏人ほど、貧乏の辛さが分かっているから、同じ境遇の者に手を差しのべるもんだ。俺なら、塁京よりも、存亡の危機にあるユルツ国の方が、人の情けが分かるんじゃないかと思うがね」
歯の具合でも悪いのか頬の下を押さえながら喋るグリビッチの、いかにも商人らしい読みに、皆がなるほどと頷いていると、酔っ払いのヌルブアンが異議をがなりたてる。
「ふん、情けの分かる国が、人が汗水たらして掘りあてた熱井戸を、土足で分捕るような真似をするかね」
酒にありつけてご機嫌と思いきや、吐き捨てるような口振り。しかし、もっともな指摘である。グリビッチが一本取られたように、自身の額をポンと叩いた。
とそこに、また宿の娘がしゃしゃり出る。
「そうよ、せっかくいい熱床を掘り当てたのに、ユルツの警邏隊がやってきて、井戸を横取りしてしまったって話でしょ」
「ふん、またぞろ十年前に失敗した計画を再開しようってことだろう。どうせ、何もかもふっ飛んじまって終わりさ」
しつこく毒づくヌルブアンに、クッチョボ婦人が剣のある目を向けた。
「なんだね酔っ払いさん、随分ユルツに対して、きつい言い方をするじゃないかえ。もしかして、おまえさんの女房を寝取った男ってのは、ユルツの出身だったりするのかえ」
ヌルブアンが「ドン!」と、拳をテーブルに打ちつけた。
ヒヤリとした空気が、談話室に流れる。
その重しのかかった空気を打ち消すように、「ザーッ」という音が談話室の全体に鳴り響いた。宿の主人が、ラッパのスイッチを入れたのだ。
ラッパの下で赤い円盤が回り、軽快な音がラッパの口から流れ出す。談話室で客が揉めたり、気まずい関係になりそうな時は、雰囲気を変えるためにラッパ、つまり拡音器で音楽を流す。もっとも擦り切れるまで何度も掛けているせいで、音盤のパチパチプチプチという雑音の方が耳につく。
クッチョボ婦人がもっと良い音盤がないのかと、露骨に宿の主人を睨みつけたところに、赤い鞄を肩に下げた官服姿の男、マカ国の郵便官が駆け込んできた。宿の主人が待ってましたとばかりに、郵便官から防水紙の包みを受け取る。中身は真新しい音盤だ。
宿の主人が包みからチリ一つ付いていない音盤を取り出す。
それに合わせて、談話室の中にぞろぞろと女たちが入ってきた。先に談話室の一角に陣取り酒を飲んでいた村男たちと話を交わす様子からして、近所の女衆らしい。
その村女の一人が、前掛けで手を拭きながら「早く掛けとくれよ」と宿の主人を急すが、それをマアマアとなだめ、宿の主人は音盤にキズがないか入念に調べる。
数分後、宿の主人が新しい音盤を器械の上に置いた時には、近所の男衆女衆は、みな椅子に座るか、壁に寄り掛かるなりして、ピタッと動きを止めていた。
音盤に針が下ろされ、ラッパから読経の音が流れる。
「経はいいから」と、また村女の一人が注文をつけると、隣の亭主らしき男が「焦るなって、どうせ当分同じものを聞くんだ」と、女の脇腹を肘で突いた。
一分ほどで読経は終わり、飾鈴の音に続いて、ラッパから女性の声が聞こえてきた。青苔平原を統治するマカ国国首の声である。女性としては低い声。しかし、だからこそ落ち着いて聞こえる。政治家としてはいい声だろう。その女性国首の挨拶のあと、別の女性の声でニュースが読み上げられる。こちらはやや高く、そして早口だ。
月に一度、マカ国の国府広報が、全国に音盤の形で届けられる。文盲の多い地域では、文字よりも音の方が力を持つ。読経の間はゆったりと構えていた村人が、ニュースが始まると、耳を澄ますように姿勢を正した。
ニュースがマカ国の話題から大陸各地の話題へと移る。
青苔平原は毛長牛の移牧の地であるため、畜産関係のニュースがトップを飾ることが多い。今月も、冒頭は南の亀甲大地で起きている家畜の奇病の話だ。
話題は塁京から大陸西端のパルム国へと続き、最後にドルゥー海北岸、ユルツ国の国土復興計画の進捗状況を伝えるニュースが、特集として組まれていた。
特集では、耐久生活を余儀なくされた市民の暮しぶりと、新しい新型炉の運用が成功した場合のマカ国の牧畜業に及ぼす影響が述べられ、最後にユルツ国の今後の動向として、国民にプロジェクトの成果を先行して示すために、厳冬期に入る前に、試験的な臨界実験が行なわれるのではないかという、識者の見解が紹介された。
家畜の話題では身を乗り出していた村の男たちが、ユルツ国の話では所在なさげに、あくびをついている。それがニュースの終わりを告げる飾鈴の音と同時に、再び男たちの背筋がシャキッと伸びた。女性陣もだ。
音盤の後半には音楽が収められている。政府の広報やニュースなどよりも、地方の人たちは、音盤に録音された音楽を聞くことを楽しみにしている。
ニュースが音楽に代わったとたん、村男の一人が拡音器の摘みをひねった。音量が上がり、女性の歌声と伴奏の音が談話室いっぱいに鳴り響く。曲を聞く村人たちの顔は真剣そのもの。テンポのいい曲に移ると、全員が声を出して歌い始めた。前の曲が初めて耳にする新曲で、いま鳴っているのが馴染みの歌らしい。
クッチョボ婦人、そして坊商のオロロバ氏までが一緒に口ずさんでいる。
さらに三曲目、歌が演舞曲に変わるや、村の衆が一斉に立ち上がって、談話室の中で輪を描いて踊り出した。ギボで目にした旋回舞踏が洗練された神に捧げる踊りなら、こちらは娯楽のための踊り。しかし、とにかく回る回る、歌と共に……。
この談話室が陽気に盛り上がったさなか、激しい怒鳴り声が宿屋の裏手で上がった。
動きを止めた村の男衆女衆の耳に、もののぶつかる派手な音に続いて、「なんだね、あんた!」という、怒号のような声が壁越しに伝わってきた。
男の声……と思うが、良く聞けば女の声だ。
「またかい、また馬を連れて来たのかい。あんた、こんな老いぼれ馬が、何の役に立つっていうのさ。いい加減にしておくれよ!」
爆雷のような大声が、窓のガラスをビリビリと震わせる。
「しかしこいつ、この怪我じゃ、冬を越せないだろう」
嗄れた声は御者のボナだ。御者台にいる時と違い、縮こまった声で言い訳をしている。
裏窓を通して聞こえてくる言い争いに、宿の主人が、またかという目で厨房の小窓から外を見やった。
腹に響く大きな声。言葉の一つ一つが、壁の向こう側からこちら側へと、耳の穴を押し広げるように聞こえてくる。特に「あ・ん・た!」と怒鳴る時の声は、尋常ではない。とても音盤の音に合わせて歌い踊るという雰囲気ではなくなってしまった。
また一際大きな声が窓を震わせた。
「あんた、あんたはいいわよ。そうやって、役立たずの老いぼれ馬を連れて帰って、いい事をしたような気分になってんだから。でも、あんたが留守の間、馬たちの世話をするのは、あたいなんだよ。あ・た・い。いいかい、餌の手配だって大変なんだからね」
立ち上がって窓から外を覗いていた薬売りのラジンが、にやにやしながら言った。
「どうやら裏の家は、御者のだんなの住まいのようだな」
真っ先に腰を上げると、はしたないと思われるのが嫌で、腰を浮かしたまま我慢していたクッチョボ婦人が、すかさず席を立って窓に駆け寄ると、怒鳴り声の方に目を走らせた。
外では、ありとあらゆる罵詈雑言が、御者のボナに投げつけられていた。
ラッパのスイッチを切った村の衆が、厨房にいる宿の主人に視線を送った。
宿の主人は「まあ一時の辛抱だから、それまで茶でも飲んで待っててくれ」と、手を下に振って宥めると、湯気の上がる大きな土瓶を箱火鉢から持ち上げた。
時間稼ぎの茶をまわす間にも、怒鳴り声は激しさを増す。村の衆に一通り湯気の立つ苔茶を行き渡らせると、宿の主人は、馬車の客たちに歩み寄って、平謝りに頭を下げた。
「いつものことで。ボナのやつ、捨てられた老馬を見つけては、ここに連れて帰ってくるんでさ」
「ここでは、馬が捨てられるんですか」
窓側の耳を手で塞ぎながら、オバルが聞いた。
「そうなんで、ここ十年で、この辺りはどこもゴーストタウンになっちまいましてね」
客の器に茶を足しつつ、主人がそうこぼす。
馬車に揺られながら、オバルも穹鉄道沿いの極端な寂れ具合が気になっていた。またそれ以上に、青苔平原と呼び習わされた豊穣の大地が、赤茶けた岩肌剥き出しの地に変わっていることに驚いていた。それなりにこの地で何が起きているのかは、オバルも伝え聞いている。しかし改めて宿の主人からそのことの説明を受けて、ため息をついた。
主人の話では、この地が荒廃した最大の原因は、塁京の繁栄にある。
湿地性の火炎樹の導入によって、塁京と呼ばれるドバス低地の開発が始まったのが三十年前。火炎樹が生長、やがて樹液の採取が始まり、本格的に塁京の都が栄えだしたのが、二十年前だ。それ以降、大陸中から塁京の繁栄に与かろうと、人々が仕事を求めて移り住むようになった。塁京の人口は猛烈な勢いで増加、当然ながら、その膨れ上がった人口を養うために、周辺各国で食料の調達が始まる。結果、以前とは比較にならないほど大量に、かつ高額で、乾燥肉や固乳や塩脂が売れるようになった。
その買い付けの一番の標的になったのが、塁京に地勢的に近い、青苔平原のマディオカカルトゥング国、マカ国である。牧畜の規模でいえば、南の亀甲大地の方が遥かに大きいのだが、運送上の利便性などから、この青苔平原が塁京の食料庫と化した。
問題は、その流れに乗って、家畜の増産が大々的に行われたことで、数年で青苔平原で飼養される家畜の数は数倍に膨れ上がり、そして十年ののち、増えすぎた家畜によって苔の大地は食い尽くされ、剥き出しの岩肌を曝すようになってしまった。
元々この地には、国法とは別に、必要以上に家畜は増やさないようにする伝統的な慣習法がある。それに塁京以前は、家畜を増やしたところで売れる当てもないため、誰もあえて掟を破ってまで、家畜の頭数を増やそうとはしなかった。それが増やせば増やすだけ売れるようになったのだ。そして誰か一人が増産に走り出すと、あとは我も我もで、みなが家畜の頭数を増やしだす。
宿の主人が首を折り曲げ、視線を宙に投げた。
「人間なんて浅ましいものでさ。隣の人間がいい儲けをやって、ラッパを買ったとする。すると周りの連中も当然それが欲しくなるから、銭を儲けようと余分に家畜を飼う。家畜を増やし過ぎるとどうなるかなんてことは、牛飼いなら誰だって骨の髄から分かっていることなのに、自分だけが貧乏であることに耐えられない。本当に人ってやつはね……」
気がついた時には、この辺りはどこも、牛の飼えない荒地に変わっていた。
荒地の出現は、否応なくこの地を、牛も人もいない世界へと変えていく。牛の飼えない世界では牛飼いも暮らしていけない。だから牛飼いの九割は村を離れた。そのほとんどは塁京へ向かった。塁京に行けば、牛飼いよりも楽に稼げる仕事があるという宣伝に乗ってだ。残った一割の牛飼いも、大半は青苔平原でも比較的苔の残る、西の天来山脈の裾野に家畜を連れて移って行った。
そうした村を離れる連中は、荷役用の役立たずの老馬を荒地に置き去りにしていく。毛長牛は潰せば肉として売れるが、荷役の馬を食べる習慣のないこの地では、老いた駄馬は無用の長物となる。その捨てられ盛りを過ぎた馬が、今よれよれの死にぞこないの老馬となって、この街道沿いをうろついているのだ。
「そういう老馬を、あのボナの野郎は連れて帰ってくるんで」
話に一息入れると、主人は自分の器に茶を入れ、ズズッと一口すすった。
裏の罵声は続いている。
宿の主人は顔を上げると、窓から外の様子を見ている女将さんに、行って止めさせてこいとばかりに、顎をしゃくった。
女将は、またかとばかりに鼻にしわを寄せると、「やれやれ、男は面倒な仕事とみると、みんな女に押しつけるんだからね」と、一くさり愚痴をこぼす。
その女将が渋々裏の扉から外に出て数秒、恫喝するような大声が家の裏に轟いた。
「うるさいんだよ、客に迷惑なんだ、喧嘩なら荒野の真ん中でやりな!」
あまりの大声に人も家も何もかもが沈黙する。
口をあんぐりと開けた宿の客に、主人がささやいた。
「でかい声だろ、実は、うちのかみさん、ボナのかみさんとは姉妹なんだ」
「血か……」と、感心したようにオバルが呟く。
「血統と言わないと、怒鳴られるがね」
主人が軽く目配せをした。
裏の夫婦喧嘩は、そのまま消えるように治まった。
「いつものことでさ」と主人は肩をすくめ、「どこまで話したっけね」と言って、また話の続きを始めた。
御者のボナは心底馬が好きで、老いさらばえた馬を放っておけない。仕事で街道に馬車を走らせながら、老馬を見つけては自宅に連れ帰ってくる。それが今では二十頭を超え、ボナが留守の間、馬たちの世話を押しつけられる女将さんが頭にきて、それでああやって喧嘩になるのだという。
それでもボナのやつは、女将さんに怒鳴られながらも、懲りずに馬を連れてくる。
野に放たれた馬は、半年もすると、前の主人が姿を見せても身をひるがえす。人を寄せつけなくなるのだが、その野生に戻った馬が、ボナにだけは恭順の意を示すように、馬の方から寄ってくるらしい。ボナが馬の鼻面と自分の鼻を擦りつけるようにして挨拶するのを見ていると、まるでボナのやつが、馬と話ができるんじゃないかとさえ思えるという。
話を聞いていたウィルタは、昼間ボナが岩陰の馬に寄って行った、影絵のような光景を思い出した。
宿の主人が、自嘲気味に笑った。
「弟は捨てられた馬を集め、俺は街道を去っていく連中からラッパを買い取る。以前は俺が拡音器のラッパを買うたびに、女房に例の大声で怒鳴られていたんだがね」
照れるように言って、宿の主人は談話室の棚に並べられたラッパに視線を投げた。
同じラッパに目を向けながら、思わずオバルが「弟!」と聞き返す。
なんと御者のボナは、ラッパ屋の主人の弟、つまり裏の御者夫妻と宿の夫妻は、兄弟と姉妹同士の夫婦なのだ。大声自慢のかみさんに、収集癖のある亭主。そういえば、宿の主人も薄土肌、細面の顔立ちに金髪で、ボナと風貌がよく似ている。
「怒鳴り声が血なら、収集癖も血ですかな」
そう穏やかに話す宿の主人を見ながら、オバルは納得したように片肘をついた。
談話室の棚に並べられた拡音器のラッパは、都合四十はある。この街道筋が塁京景気に沸いたほんの数年の間に、皆が競って買ったもので、当時流行った型の品だ。しかし見てくれは大きくて格好いいが、音質はお世辞にも良くない、今はもっと性能のいいものが出回っている。
オバルは「収集癖ねえ」と口の中で呟きながら、心の中でそれを否定した。きっと宿の主人は、趣味でラッパを集めたのではないだろう。故郷を離れざるを得ない人たちに、ラッパを買い取ることで細やかな餞別を渡したのだ。いや、遠くに行ってしまう人たちの記念を、自らの宿に残して置きたかったのかもしれない。きっと主人の耳には、それぞれのラッパの口から、この地を離れた隣人の声が聞こえていることだろう。
最後まで窓にへばりついていたクッチョボ婦人が、卓に戻ってきた。どうやら夫婦喧嘩に決着が着いたようだ。宿の女将さんも、裏の木戸を開けて戻ってきた。
壁の拡音器から読経が聞こえてきた。音盤を初めから聞き始めたのかと思ったら、別の音盤、読経だけが録音された音盤で、祈りの時間にはそれを流すのだという。
経に合わせて、オロロバ氏にクッチョボ婦人、あの酔っ払いのヌルブアンまでが、部屋の東の壁に貼られた赤い護符に向かって、お祈りを始めた。談話室の床に敷いた小さな絨毯の上で、地元の男衆女衆は、体を折り曲げるようにして祈りの言葉を詠唱している。祈りをしていないのは、ウィルタとオバルくらいだ。春香はすでに屋根裏部屋で横になっている。ウィルタが、居心地悪そうにオバルを見た。
同じ気持ちだったのか、オバルが悪戯っぽく片目をつぶると、「牛飼いの国はどこも信心深いからな、真似してやってみるか」と、そう言って床に跪いた。
ウィルタも見様見まねで体を折り曲げる。馬車の椅子に座り続けて固まった体を解すには、ちょうどいい運動かもしれない。
体を何度も床に平伏しながら思う。ついさっきまで喧嘩をしていたボナと大声の女将さんも、祈りの時間となれば、こうやって並んでお祈りをするのだろうか。
頭の中でその光景を想像して、思わずクスリと笑う。それを横で祈りを捧げていたクッチョボ婦人が、きつい目で睨んだ。
夕食後、談話室では、グリビッチとオロロバ氏が馬将譜の駒を拡げたのをきっかけに、即席の馬将譜大会が始まった。酒を片手に雑談の花を咲かせながらの大会である。その賑わいをよそに、ウィルタは早々に宿泊棟の中二階に引っ込んだ。春香はもちろんのこと、ウィルタもまだ本調子ではない。それに談話室にいれば、あれこれと質問を浴びるのは目に見えている。
先に休んだ春香に、薬を飲むための白湯を運ぶ。
ヨシ葺きの天井に頭が当たりそうな中二階、そこに使われなくなった家具に混じって、丈の低い寝台が並べられていた。街道が寂れてからは使っていなかった中二階を、体調不良の春香が他の客から離れて静かに眠ることができるようにと、宿の女将さんが整えてくれたのだ。燻した苔の臭いが鼻につく寝台だが、有り難い配慮だ。
壁には寝台と同じ高さに、明かり取りの窓がついている。そこから中天と地平線の間に浮かぶ、椀のような月が見えた。
月が西の空に傾くのに合わせて、夜空の主役が星に移っていく。
薄い月明りに照らされた外の風景を、春香は枕に頭を半分埋めた格好で眺めていた。
ウィルタはコップを床に置くと、膝を着いて窓の外に目を向けた。目が慣れてくるに従い、青白い夜の大地に街道が白い筋となって浮かび上がってくる。街道沿いに点々と並ぶヨシ葺きの家で、明かりが漏れているのは、ほんの数軒。
春香は体を起こすと、毛布を抱いたままウィルタの横に膝を抱えて座った。暖房は入っていない。ウィルタも寝台に掛けてあった毛布を引き寄せ、体に巻きつけた。
談話室からの陽気な話し声に合わせて、焦げた臭いが上がってきた。
「鍋を焦がした!」という宿の娘の悲鳴に、「娘さんなら、鍋を焦がさず胸を焦がしな」と、ジャンジャさんの軽口も聞こえてくる。
階下の陽気さと較べて、外の青白い風景は死んだように静まり返っている。
手前に寄り添って建つ三軒並びの一軒、家の小さな丸窓から赤い灯がこぼれている。祈祷室だろうが、遠目には、まるで闇夜に浮かぶ紅珊瑚だ。
黙ってじっと窓の外を見ていた春香がぽそりと声を落とした。
「シロタテガミ、どうしてるかな」
「うん、ぼくもそれを考えてた」
ウィルタが静かに相槌をうつ。
「シロタテガミが馬車を止めてくれなければ、ぼくたち、今頃、雪の下で冷たくなってたんだ。シロタテガミのやつ、馬車の後ろを付いてきてるかな」
「ここは砂漠と違って人がいっぱいいるから……、人のいない場所に行けば、姿を見せてくれると思うんだけど」
「うん、きっとね」
「うん、きっと」
毛布を胸元に引き寄せた春香が、ウィルタの肩に頭をもたれさせた。
眼下左前方の家の戸が開いて人が出てきた。四角い箱を背負った人が、家の中に向かってペコペコとお辞儀をしている。
「あれ、薬売りのラジンさんじゃないかしら」
春香の指摘に、ウィルタが頷きながら説明。
「食後に皆がお茶を飲もうって誘ったんだけど、ラジンさんは、仕事があるからって断ったんだ。薬売りは薬を売るのが商売、茶を飲んでたんじゃ食いっぱぐれてしまうって」
「フーン、村の家をまわって薬を売ってるんだ」
二人は感心した面持ちで、家人と挨拶を交わす薬売りのラジンを見やった。
挨拶を終えたラジンが、家の戸を閉め、薬箱を乗せた背負子を担いで歩き出す。ところがラジンは隣の家には向かわず、近くの岩場で腰を下ろした。
春香とウィルタが見ている宿の二階から、ラジンの逆三角形の顔が何となく見て取れる。
と薄い月明かりのなか、顔の辺りに小さな赤い火が灯った。
紫煙が昇る。煙苔を吸っているのだ。
「ラジンさん、煙苔を吸うんだ」
馬車の中では全く煙苔を吸うところを見ていなかったので、ウィルタが意外そうな声を上げた。春香が憶測をこめて言う。
「きっと普段は吸わなくて、薬が売れた時だけ吸うことにしてるんじゃないかな。仕事の後の一服って、美味しいらしいわよ」
表情までは見えないが、口元から吐き出される煙の長さから、ラジンが一息ついている様子が窺い知れる。
春香がブルッと体を震わせたのを見て、ウィルタが後ろのベッドを指した。
「あんまり人の休憩しているところを覗いちゃ悪いや。体が冷えないうちにベッドに入らなきゃ。せっかく風邪が良くなりかけたところなのに、また悪くしてラジンさんのやっかいになっちゃ、仕方ないもん」
二人は「お休みなさい、ラジンさん」と、紫煙をくぐらすラジンに声をかけると、ベッドに潜りこんだ。
しばらく後、外の岩影では、寒さも気にならない様子で、薬売りのラジンが旨そうに煙苔を吹かしていた。ただそのんびりとした様子とは裏腹に、ラジンのギョロリとした目は、油断なく周囲を見回していた。数回それを繰り返し、辺りに人の気配がないことを確認すると、ラジンは薬箱の引き出しの奥から、眼鏡入れほどの大きさの板を取り出した。
板の端を摘んで細い棒のようなものを引き出す。さらに板の表面のカバーをスライド。現れた碁盤のように並ぶ数字と記号を、握り締めた親指で押していく。
一見すると、計算でもしているように見える動作をしばらく続けると、ラジンは薬を扱う時と同様の馴れた手つきで、板を薬箱に戻した。
そして今度こそ一仕事終えた顔で、ゆっくりと煙苔を吹かした。
次話「デジャフスグイ」




