あばら屋
あばら屋
御者台のボナが「ほーっれ、今日はここまでにするだ」と、間延びのした声を上げた。
客に向けてではなく、馬車を牽く駄馬たちに呼びかけている。
丸眼鏡の商人が荷台前の天幕を開き、オバルが後ろの天幕をたぐり上げる。翔蹄号は崩れかかった一軒の民家の前に横づけされていた。
「今日はここで泊るだ。宿郷じゃねえが、寝床もちゃんとあるし、納屋の向こうには水場の小川もある」
車輪の下に車止めを差し込むボナに、御者台に出てきた酔っ払いが喚いた。
苛々した表情は酒の禁断症状である。手持ちの酒が切れたのだ。
「まだ日は高いじゃねえか、次の宿郷なら、急げばもう三刻もあれば着けるだろう」
宿とはとても言えない壁の崩れかかったあばら家である。幌の隙間から外を見やったショールの婦人も、「なんだいこのボロ家は」と、悲鳴のような声を上げた。
そんな客の苛立ちも気にするでなく、ボナが駄馬の装具を外していく。
太い腕を振り回して言い寄る酔っ払いを、ボナが冷静な声で突き放す。
「この先の宿郷は半年前に廃業しちまった。本当の野宿で良ければ、馬車を進めるが、それでもいいかね」
拳を御者台に打ちつけると、酔っ払いは渋々幌の中に荷物を取りに戻った。
その酔っ払いに替わって、郷に入っては郷に従えと、丸眼鏡と薬売りが荷物を抱えて荷台から出てきた。薬箱を背負い、革のザックを肩に引っかけた薬売りが、「寝ている時に、屋根が落ちないでくれればいいが」と冗談を飛ばす。同じ思いなのか、丸眼鏡も傾きかけた家の屋根を諦め半分の目で眺めた。
ところが戸口を潜ると、意外や以外、崩れかけた表と違って、家の中はこざっぱりと片づけられている。二十畳程のがらんとした部屋に、左側に簡素な二段ベッドが八つ。右側に、丈の低い椅子が円卓を囲むように置かれ、奥の台所には乾いた苔まで積んである。
丸眼鏡は、すぐに一番寝心地の良さそうな寝台を選んで荷物を置くと、棚の上の毛布の束から、状態の良いものを引き抜いた。
こういう場になると、目端の利く利かないが目に見えてわかる。オバルが寝袋ごと春香を抱えて、ウィルタと共に小屋の入口を潜った時には、文句を並べていた酔っ払いとショールの婦人までが、自分の寝台を確保して旅装を解いていた。
暖房の効かない部屋では、窓際の寝台などは外が見えても寒いだけで、隙間風の当たらない奥の寝台が一等席になる。薬売りが、オバルの抱えた春香に目に止め、壁際の寝台に置いた荷を隣に移した。ここに寝かせろというのだ。
オバルが礼を言おうとすると、薬売りがにこやかに首を振った。
「野宿することを考えれば天国みたいなものだ。それに納屋にストーブが転がっていたな。あれを運び込んで苔を燃やそう。エントツはないが、この天井なら煙は上に抜けるさ」
確かに天井から光が射している。
客が各自の寝台を確保した頃、ボナが入口から顔を覗かせた。
「分かってると思うがや、あるものは何でも使っていい。だが使った分は手持ちのものを補給するか、相応の物を台所の瓶に残すだ。じゃ、俺は馬っこの世話があるで、あとは好きにやってくれ」
ボナが出て行く後ろで、酔っ払いが「まったくこんなところで宿か、ついてねえ」と、テーブルの足をガツンと革靴で蹴り上げた。
台所に置き酒がなかったことが、気に食わないらしい。
汚い言葉を吐き散らす酔っ払いに構わず、薬売りが「さあて、寝るところは確保した、あとは飯だが」と、ベッドの上に荷物を拡げているショールの婦人に視線を送る。
自分の役どころを心得たように、婦人が荷物から寿蓮柄の巻布を取り出した。
「おまんまならあたしが、まとめてやってあげるよ。あたしゃ元々、口よりも体を動かす方が好きなんだ」
正確には口も体も動かすのが好きということだろうが、派手な布を腰に回しかけた婦人は、竈の横、棚の上の鍋を取ると、「もちろん、材料と手間賃はもらうからね」と、部屋のなかの全員に聞こえるように、いつもの甲高い声を張り上げた。
「ああ、お願いできればありがたい」
薬売りが返事をするのに合わせて、丸眼鏡の商人、せむしの労夫、兜目の坊商、そしてオバルが手を挙げる。追いかけるようにウィルタも手を挙げ、「おばさん、ぼくとアチャの分も」と、婦人に合図を送った。
「分かってるよ、そっちの女の子には、消化のいいものを作ってあげるから」
皆に頼まれたことが満更でもない様子でショールの婦人は手揉みをすると、一転冷やかな表情に戻って酔っ払いの水夫を睨んだ。
「あんたはどうなんだい」
婦人の声が耳に入らないのか、酔っ払いは台所の棚を未練がましく掻き回している。
薬売りが、婦人に板餅の包みを渡して耳打ちした。
「腹がすきゃあ、嫌でも食うだろう。作ってやれよ。食事の時に一人のけ者がいて、あんたの旨い料理をまずくしてもつまらんからな」
旨い料理という一言が気に入ったのか、婦人は鍋の底を指先で弾くと、
「あんた好い男だね、そういう男の頼みとあれば、少し余分に作るくらいどうってことないさ」
弾んだ声で言って、ショールの婦人は鼻歌を歌いながら外の水場に立っていった。
春香は揺れがなくなって体が落ちついたのか、直ぐに寝入ってしまった。
薬売りが春香に飲ませる薬の調合を始めたところに、一旦馬車に戻っていた丸眼鏡が、荷台に乗せていた箱を抱えて戻ってきた。重そうに一箱を抱え持っている。その後ろに、せむしの労夫が、同じ箱を四つ、軽々と肩に担いで続く。若い頃に担ぎ屋をやっていたという年配の労夫は、小柄な体格ながら、軽い身のこなしで寝台の脇に箱を下ろした。
さらにその後ろからは、兜目の坊商が、厚手の板箱を大事そうに両腕で抱えて……。
手数だが、手荷物以外の荷も宿泊の都度馬車から下ろす。
荷の保管の責任は客にある。御者は馬車の中で寝泊まりするが、御者が責任を持つのは搬送を頼まれた荷だけで、手荷物は客自身が管理しなければならない。もし荷を馬車に残し、夜のうちに持ち去られたとしても、それは持ち主の責任になる。
運びこまれた箱の山を見て、寝台に寝転がった酔っ払いが、ふてくされたように喚いた。
「ケッ、そんな小汚ねえ箱なんざ、馬車に積んでおけ。こんなところで、わざわざ盗んでいくやつが、いるわけねえだろう」
「中に酒が入っていたとしてもか」
丸眼鏡のいなしに、酔っ払いがバネ仕掛けのように体を起こす。
呆れたように丸眼鏡が首を振った。
「まったく、ものの例えだ、箱の中身が殻種なのは分かってるだろう」
「ち、そうだった」
舌打ちしてドスンと寝台に背を倒す酔っ払いを、丸眼鏡はうんざりした目で見やると、箱の一つ取り上げ、梱包用に回した紐を引いた。
「なんだ、また殻種を確かめるのか」
兜目の坊商が呆れたように冷やかす。
丸眼鏡の商人は、何かといえば、箱から火炎樹の殻種を取り出し、異常がないかを確かめる。運んでいるのは五箱。一箱六個で都合三十個。その一つでも傷つけば、商売が上がったりになるとでも言いそうな、気の配りようである。そして取り出した種に問題がないと、自慢げに殻種についてのウンチクをぶち始めるのだ。聞き役は兜目の坊商のことが多いが、今日は労夫も加わり、いつもの一席が始まる。
「こいつはアルン・ミラで買いつけた正真正銘、お墨付きの火炎樹の殻種でな、運ぶ足代と、入札の費用を差し引いても、二割五分の儲けが……」
丸眼鏡の講釈めいた解説が、薬の調合を終え、匙や計量セット、薬の入った小瓶などを薬箱に戻す薬売りの耳にも届く。薬売りが最後、引き出しをカチンと音をたてて閉めると、薬売りの手際を眺めていたウィルタが、「その薬箱、いくつ引き出しが付いているんですか」と、呪文が解けたように尋ねた。
薬売りが、わざとらしく考え込むポーズを作った。
「うーん、数えたことはないが、七十くらいかな」
そう言って、おもむろに正面一番上の引き出しを半分ほど開け、その状態で左下の小引き出しを引く。すると右側面の組木の棒が一本、斜めに倒れた。
薬売りが、「手を!」と促す。
反射的にウィルタが倒れた組木の下に手を差しのべると、組木の先端の穴から、カタカタと音がして、小さな丸薬が一つ転がり出た。
薬売りが、口に入れろと仕草をする。ミルク飴と呼ばれる飴だった。もう何年も前のこと。ウィルタがパーヴァさんの宿で初めて口にして、それが食べたいがためにズヴェル採りを始めた、そのきっかけとなった飴だ。
懐かしさで目を潤ませるウィルタを横目に、薬売りが薬箱の背面の穴に鍵を突っ込む。
「戸締まり完了。どれ体を動かすために、水汲みでもやるかな」
一人芝居のようにごちると、クスリ売りは肩の筋肉を解しながら外に出ていった。
その後ろ姿を見ていたオバルが、飴で頬を膨らませているウィルタに声をかけた。
「ええと、ホーシュくんといったかな、もし良ければ、おじさんと燃料用の苔を集めに行かないか。まだ風邪が完全に抜けていないかもしれないが、じっとしているよりは、体を動かした方が早く調子は良くなるもんだ」
突然偽名を呼ばれて飴を呑み込みそうになったウィルタが、口をモゴモゴさせながら返事をした。
「そうだね、それに、お腹を減らしたほうが、美味しいおばさんのごはんが、もっと美味しくなるだろうからさ」
ショールの婦人が、水を入れた鍋を手に、にっこりと笑顔を作った。
オバルの後についてウィルタも外へ。
馬車の中からは岩の露出した荒廃した土地に見えていたが、実際に自分の足で歩くと岩陰などに瑞々しい青い苔が目につく。さすが青苔原野と言われた土地だけのことはある。オーギュギア山脈東側の乾燥した曠野や晶砂砂漠からすれば、まだまだ天国のような場所だ。家の裏手に回ると、凍結した沼の縁に、立ち枯れたヨシが風に震えていた。
座りっぱなしで運動不足の足を動かす意味もあって、枯れた苔をひっぺがしながら、十分ほど辺りを散策。すぐに背負い子一杯の苔が集まった。
「必要以上に採ることはない、こんなものだろう」
集めた苔を家の裏の軒下に積む。
汚れた手をパンパンと払い裏窓から家の中に目をやり、オバルが眉をそびやかした。
ショールの婦人と酔っ払いが、剣呑な顔で何やら言いあっている。食事にありつけるには、まだ時間がかかりそうだ。
「どれ、もう一回り足の運動でもしてくるか」
ウィルタに目配せをすると、オバルは先に立って歩きだした。
家の右手、崩れ落ちた厩舎の向こうから、水音と駄馬たちのいななきが聞こえる。
覗くと、御者のボナが膝下まで水に浸かりながら、駄馬の体を洗っていた。岸に氷の張った小川である。見ているこちらが寒くなりそうな光景だが、ボナは馬の体を洗うのが楽しくて仕方がないらしく、嬉々とブラシを持つ手を動かしている。
「あの男は、本当に馬が好きなんだ。街道を行く時も決して馬を急がせないし、馬車を走らせる道の位置取りだって実に丁寧にやっている。乗り合い馬車の御者は、決められた日時に目的地に着くのが仕事だから、とてもああいう気配りはできないもんだ」
ボナの仕事ぶりに、オバルが微笑ましげに白い歯を見せた。
そういえば、救助されて以来、ウィルタがトイレ休憩以外で馬車を下りるのは、これが初めて。翔蹄号の駄馬たちをじっくり眺めるのも初めてだった。街道を走る道すがら、御者台越しに駄馬たちの後ろ姿は見ている。だから翔蹄号の駄馬たちが、かなりの老馬であることは分かっていた。それが今こうやってまじまじと眺めると、四頭とも、いずれ劣らぬ老馬で、思わず笑ってしまいそうになる。
尻の毛が剥げた栗毛に、駄馬としては寸胴の茶黒、右肩の下がった灰まだらは片目が白いし、鹿毛は前足と耳だけが黒い。この四頭が揃いも揃って首筋や腿の肉が落ち、肋骨の線がくっきりと浮き出た貧相な体をしている。四頭が並んで馬車を牽いている姿を横から眺めれば、かなりの見ものに違いない。
「この駄馬たちを見れば、客は端から予定どおりに目的地に着くと思わないだろう」
オバルが声を出して笑った。そして真面目な口調に戻ると、
「あの御者と駄馬たちだから、君たちが助かったともいえる。ボナが駄馬たちに無理をさせなかったおかげで、馬車があの時刻に、あの場所を通ることになったんだからな」
ウィルタがなるほどと、かぶりを振る。そして自分よりも遙かに背の高いオバルを下から見上げ、改まったように口を開いた。
「ねえ、オバルさん、まだ言ってなかったけど、助けてくれてありがとう」
突然礼を言われて驚いたのか、オバルは自分の腰ほどの背丈の少年を見下ろし、はにかんだ。
「礼ならいいさ、俺だって、ユカギルでは助けてもらったんだ」
お互い様とばかり、にっこりと微笑む。
オバルはウィルタの頭に手を置くと、「家の裏は体が冷える、表に椅子に使えそうな石が転がっていたな」と、ウィルタを表に誘った。
二人は馬車を停めてある家の前庭に出た。右手に風を避けるための石塀がある。それが部分崩れて、いい按配にベンチのようになっていた。ちょうど風もなく、西に傾いた太陽が、真横からライトを向けたように石のベンチを照らしている。二人は夕日を正面から受けるように並んで腰かけた。西日がなんとも暖かい。
夕日はどこで見ても美しい。朝日と違い、見ていると、一日が無事過ぎたことへの穏やかな幸福感が込み上げてくる。青苔平原の先、天来山脈に向かって少しずつ傾いていく夕日を眺めながら、オバルが感慨深げに言った。
「ユカギルで君に町長の家から助け出してもらって三カ月、人の縁というのは不思議なものだ。まさか、あんな雪原の中で、君たちを見つけることになろうとは」
「ほんと、そうだね」
ウィルタの声が、十歳を過ぎたばかりの子供としては、大人びた響きを帯びている。
オバルはチラッとウィルタの横顔を盗み見た。
日焼けと雪焼けを繰り返し、赤黒くなった顔の中に、青年一歩手前の円らな瞳が夕日を受けて光っている。長旅のせいか、服はくたびれて綻びが目立つ。髪もバサバサに絡まりあって、とても高名な学者の息子には見えない。誰がどうみても、その顔は曠野育ちの少年そのものだ。しかし真っ直ぐに夕日を見つめる眼ざしには、確かにハン博士の面影が宿っている。
オバルは、ウィルタに自身の艶光りのする黒い顔を向けると、「これまでの旅のことを聞かせてもらってもいいかな」と、大人らしい低い声で話しかけた。
一呼吸置くと、ウィルタは軽く顎を引き「うん」と頷いた。
目の前に夕日がある。昼ひなかに頭上で輝いていた太陽が、夕刻、地平線に近づくにつれて次第に大きく膨らんだように見えてくる。目の錯覚に過ぎないと分かっていても、日没時の空の色の変化とともに、それは何度眺めても飽きることのない自然の営みだ。
マトゥーム盆地の板碑谷を出て、確か今日で八十五日。その間に見た夕日の数々が脳裏を去来する。
旅の初め、曠野の錆ついた重機の間に潜り込んで見た真っ赤な夕日。タクタンペック村の遊底池で泥掻きをしながら見た、山脈の峰の間に沈む夕日。ガラスの砂漠をさ迷い喉の渇きに耐えて見た、晶砂に融ける虹色の夕日。岩船屋敷の風車の羽根の向こうに沈んでいく夕日。そして毯馬の背のカゴに押し込められて見た、ありふれた砂漠の夕日。様々な場面で様々な夕日を見てきた。夕日はいつどこにいても夕日だった。
自分がどこにいようが、何をやっていようが、何を考えていようが、そんなことに関係なく、夕日はいつも同じように自分を照らし、大地に沈んでいく。それは自分の意志など届くことのない冷徹な存在であるといえるし、逆に、いついかなる時でも分け隔てなく自分を照らしてくれる、暖かな存在であるともいえるだろう。
今日この新しい場所で、いつもと変わらない夕日を眺めながら、ウィルタの胸には、この間、春香と共に旅をしてきたのだという実感が、ふつふつと湧いてきた。
色々なことがあったと思う。
「何をどこから話せばいいのか分からないけど」と前置きすると、ウィルタは春香と一緒に板碑谷を出発してから、雪の平原で遭難するまでのことを話し始めた。
オオカミたちに追いかけられてクレバスの底に落ちたこと。氷の底でウロコ服を着た老人に出会ったこと。地下水道を通って山脈の反対側に抜け出たこと。砂漠で遭難して岩船屋敷のホブルさんに助けられたこと。火炎樹の種の盗難騒ぎのこと。春香が盗賊にジンバとして売られそうになったこと。それにグーのことも少しだけ。
話すことはいくらでもあった。
話しながらウィルタは、この約三カ月という時間が、これまで自分が生きてきた十三年という間に経験した全てのことを合わせても、到底太刀打ちのできない、濃密で刺激的で緊張感に満ちた日々の連続だったことに、不思議な感慨を覚えていた。曠野のミトでの生活は、たまにユカギルの町に足を運ぶことはあっても、基本的には同じことの繰り返しだ。その単調な毎日と、旅に出てからの余りの違い……。
全てはあの夜、シーラさんに、父に会いに行くようにと、旅に出ることを勧められたところから始まったのだ。もしシーラさんに勧められていなかったら、いやそれよりも、もし自分がその勧めに従わず、無理にでもミトの生活にしがみついていたら、その後の三カ月は、あり得なかった。あの時は、その場の雰囲気に流されるようにして、シーラさんの勧めに頷いてしまった。父さんのことはあったけれど、自分は本当のところ、皆と一緒に新しいミト地に行きたかったのだ。それをどういう訳か旅に出てしまった。ほんの軽い気持ちでだ。その一歩足を踏み出す判断が、自分の未来をこんなにも変えてしまった。
子供の自分が人生などという言葉を使うのは、まだ早過ぎると思う。でもその時その時のほんの小さな判断で、人生はどのようにでも変わってしまう。それは凄いことだと言えるし、とても怖いことだとも言える。
今にして思えば、よくぞ大きな怪我もせずに旅を続けて来られたものだと思う。一歩間違えれば死んでいたかもしれない場面が、いくらでもあったのに。
もし、曠野の洞窟でオオカミに襲われた時に火吹きの芸のことを思い出さなければ。もし、春香が氷に埋もれた救命いかだに気がつかなかったとしたら。もし、砂漠でホブルさんに見つけてもらえなかったら。もし、シロタテガミがオバルさんの乗っている馬車を止めてくれなかったら。そんなことを考えていくと、いま自分が生きて、これまでの旅のことをオバルさんに話している、そのことが奇跡のように思えてくる。
旅の話は、内容が前後しながらも、途切れなく続いた。砂漠に出てからのことは、馬車の中で話したのと大筋では同じだ。
話に相槌を打ちながら、オバルは驚きを持ってウィルタの話を聞いていた。
荒唐無稽ともいえる話である。
クレバスに落ちて何十年も生き永らえた人の話に、山脈の下を流れる地下水道と巨大な地底の湖。それに何より一番の驚きは、二人が人の言葉を解するオオカミと一緒に旅を続けてきたということだ。もしこれを人から伝え聞いたとしたら、とても信じることはできなかったろう。だが実際に馬車を止め、雪に埋もれた二人の子供たちを見つけさせるお膳立てをしたのは、白いオオカミなのだ。
淡々と話を続ける少年の横顔を盗み見ながら、オバルは軽い嫉妬を覚えていた。
子供の頃、オバルはいつも祖父から『大人というものは、人に語って聞かせる自分の人生を持っている者だ』と、聞かされていた。
祖父としては、ネジ屋の職人の子でありながら本好きの孫が、本の中の主人公に憧れて、形だけでも大人になりたがっているのを見て、諭すつもりで言ったのだろう。それでもオバルの心の中には、祖父の言葉がずっと残っていた。『語るに足る人生と、語る言葉を持つ人生』、それはいつも通奏低音のようにオバルの心の奥底を流れていた。
どんな夢想家の子供でも、歳を経ていくなかで、人生とは物語のように都合良く運ぶものではないということが、痛いほど分かってくる。それに物語の主人公になれる夢想は、少年にとって必要なものでも、実社会では無用の長物に近いものだ。大人に必要とされるのは、物語を支える無数の人々にもそれぞれの人生があるということの自覚と、その全ての人生が等しく社会のなかにおいて価値を持つということへの目配りである。祖父の語った人に聞かせる自分の人生という言葉は、いかような人生でも、それは人に語りうる人生であり、いかような人生を生きていようが、自分の人生を胸を張って人に語ることのできる者こそが、大人という称号に値するということであり、祖父はそういうことを言いたかったのだろうと、今にして思う。
それでもだ。
世界には希に、物語のような人生を送る者がいる。
架空ではない現実の社会のなかで、主人公になるタイプの者がだ。望む望まざるに関わらず、竜巻を背後霊のように背負ってその者は立っている。そして、その者の進む方向に、周りの出来事が次々と吸い込まれ、巻き込まれていく。
奔放な流れとなって時代を突き動かしていく竜巻のような神の風扇をウィルタが手にしているかどうか、それは今の段階では分からない。しかし少なくとも自分よりは、その渦の奔流の内側いるのは確かだろう。ハン博士の息子として生まれたということ自体が、そういうことなのだ。オバルがとうの昔に諦めてしまった物語の主人公、その渦中に目の前の少年はいる。そのことが、青年を過ぎ壮年という域に入ったオバルに、かすかな郷愁と羨望の眼差しを浮かび上がらせた。
遠くを見るような目つきのオバルに、ウィルタが呟くように言った。
「父さん、本当にチェムジュ半島というところにいるのかな」
気取られたように、オバルはウィルタを見た。
そして確かめるように、「今、チェムジュ……と言ったのか」と、聞き直した。
「うん、そこに、ぼくの父さんがいるから、会いに行きなさいって、シーラさんに言われたんだ。ねえ、オバルさんは、ぼくの父さんのことを知ってるんでしょ。父さんって、どんな人なの。ぼくをシクンのミトに預けたのは、ぼくが父さんの子供だと分かると、苛められるからなの。本当にそんなことを気にしてたのかな」
ずっとそのことが、心の中にわだかまりとして巣食っていたのだろう、ウィルタは今までの旅の話をしていた時とは違う、真剣な面持ちでオバルに聞いた。
しかし唐突に尋ねられて、オバルは返事に詰まった。まさかウィルタの口からチェムジュ半島という言葉が出てくるとは、思ってもいなかったのだ。なぜウィルタが、ハン博士がチェムジュ半島にいると……、ハン博士は、手紙のなかで、自分がチェムジュ半島にいるということは、誰にも知らせていないと書いていた。
考えられるのは、オバルがそのことを打ち明けたレイ先生が、ウィルタの養母に話し、それがウィルタに伝わったということだ。しかし話すに事欠いて、会いに行きなさいとは。ハン博士にとってウィルタに会うということが、どういう意味を持つか、レイ先生は分かっているはずだろうに。それとも、レイ先生はウィルタの養母に、ウィルタの父がチェムジュ半島にいるということだけを話したということだろうか。惨事とウィルタの関係を伏せたまま……。
オバルには全く想像の及ばないことだった。母親のレイが、息子のハンに試練を与えるために孫と対面させようとする……、あるいは養母のシーラが、ウィルタを成長させるために父親に会わせようとする、その考えがだ。オバルは、ウィルタの旅の目的を、古代人の少女を安全な場所に連れていくことだと思い込んでいた。ところが、ウィルタは父親に会いに行こうとしている。そして父親の手助けができるだろうかと心配しているのだ。
ウィルタにとって、塁京は父親がいるというチェムジュ半島へ行くための通過点ということだった。
ハン博士のことを息子の少年に話すとして、何をどう話せばいいのか。
夕日をぼんやりと眺めるふりをしながら、オバルは「これは、おそらくおじさんだけが知っていることなんだけど」と前置きをすると、「君のお父さん、ハン博士は、今はチェムジュ半島ではなく塁京にいるそうだ。君のお父さんから届いた手紙に、そう書かれていた。そしてその手紙はここにある」
オバルが手紙を入れてある外套の右胸を押さえた。
「父さんが、塁京に?」
ウィルタが驚いたように、オバルを見た。
ウィルタの斜め上にあるオバルの顔が、自信を持って頷く。
とその時、家の中から「食事だよーっ」と、ショールの婦人の声が聞こえた。
「おばさんと酔っ払いが、意外と早く仲直りしちゃったかな」
ウィルタが恨めしそうに小屋を横目で睨んだ。
そのウィルタを引き寄せ、オバルが言った。
「君の父さんは、いま塁京のティムシュタット国というところにいるらしい。実はおじさんも、君のお父さんに会って話がしたいと思っている。仕事探しと君の父さんに会うのが、おじさんの塁京へ行く目的だ。だからこの後は一緒に旅ができる。もちろん君さえ良ければだが」
オバルが、胸のポケットから博士の手紙を取り出した。緊張した面持ちで封筒を手にしたウィルタに、オバルが裏面に書かれた古代の文字を説明した。
「父さんの字……」
犬の糞という幼名に、ウィルタはにこりともせず、ペンで書かれた字を見つめる。
「塁京までは、まだたっぷり十日はかかる。お父さんのことについては、落ち着いてゆっくりと話のできる場所に着いたら、話してあげよう。それでいいかな」
ウィルタの固い表情のなかに、安堵の笑みが浮かんだ。
ウィルタ自身、シーラさんから父親の居場所を聞かされてはいたものの、本当は半信半疑で、この三カ月間不安を抱えて旅を続けてきたのだ。だから父さんのいる場所が最初に教えられた場所と違うということは、それほど問題ではなかった。
それよりも、シーラさん以外の人から、父さんが生きているということを聞いて、それが夢ではなく本当のことだと実感できた。何より嬉しいのは、父さんはチェムジュ半島よりも近い、塁京という場所にいて、そこへはオバルさんが一緒について行ってくれるというのだ。子供だけで旅をすることが如何に大変かということを、ウィルタはこの間の旅で身に沁みて感じていた。一緒に父さんを探してくれる人がいて、それが父さんのことを良く知った大人の人であれば、これほど心強いことはない。
ウィルタは嬉しそうにオバルを見上げると、大きく首を縦に振った。
そこに、もう一度、ショールの婦人の食事を知らせる甲高い声が届く。
「揺れる馬車に乗っていると、腹が空くな」
腹をさすりながら言うと、オバルは石で冷えてしまった腰を持ち上げた。
そしてついでにとばかりに、ひょいとウィルタの体を引き上げ、自分の肩に跨らせた。肩車である。一瞬戸惑ったウィルタだったが、オバルの螺髪頭に手を置くと、
「すごーい、御者台の上にあがったみたいだ」と、顔一杯に笑みをほころばせた。
「はは、おれは馬車じゃないぞ、さあ飯を食いに行こう」
一本の塔のようになった二人の背中を、その日最後の陽光が明るく照らし出した。
翌朝は、まだ暗い内からの出発となった。
一晩ちゃんとしたベッドで寝たのが良かったのか、ショールの婦人の作ってくれた特製の陸湯が効いたのか、もちろん薬売りが処方してくれた薬の力もあるだろう、朝には春香の熱も平熱に戻っていた。
横になってばかりで背中が痛いという春香に席を譲り、ウィルタが荷台後ろの隙間に移った。横半身に足を投げ出し、荷物を背もたれにして寝転がる。ウィルタ自身、慣れない馬車の椅子と揺れで、お尻が痛くなりかけていたので、ちょうど尻休めの姿勢になった。
一方の春香は、オバルとせむしの労夫に挟まれ、体を丸めるようにして眠っている。
とにかく病人が回復してきたことで、幌の中に漂っていた重苦しい空気が抜けた。
合わせたように上空から雲が消え、青空が戻ってきた。
青苔平原らしい小春日和の陽気のなかを、老馬に引かれた幌馬車が進む姿は、なんとものどか。しかし世のなか何か一つ重しが取れると、別の重しが見えてくるものである。
病人のいる間は、揺れの少ない方が好都合なこともあって、馬車のゆっくりとした歩みに誰も文句を付けなかった。ところが、その足枷が取れてみると、翔蹄号の進み具合が、どうにもノロノロしていて気にかかる。
特に酒が切れて苛々している酔っ払いはそうだ。早く馬車が酒のある宿郷に着かないかと、それしか頭にない酔っ払いにしてみれば、御者のボナが故意にゆっくりと馬車を走らせているように見えて、翔蹄号という名前までが腹立たしくなってくる。
おまけに苛つく酔っ払いの気持ちを逆撫でするように、ボナが度々馬車を止める。
最初は他の乗客も気に留めていなかったが、余りに頻繁に馬車が止まるので、何事かと見ていると、停止する度にボナが馬車を降りる。道に転がっている石をどけたり、轍の跡にスコップで土を入れたりと、雑用にかまける。道に落ちている物を拾い集めることも度々で、釘一本でも見つけると、馬車を止めて拾うのだ。馬車の後部に取りつけた箱の中には、裏街道を行き来する間に拾い集めたゴミ同然のものが、ごっそり突っ込んであった。
「ちょっと用を足すだ」と、またボナが馬車を止めた。
「またかよ」と、酔っ払いが腹に据えかねたようにがなる。
「くたばりぞこないの老馬で足が遅いのに、何だかんだと言っては馬車を止めやがる。こんなことじゃ、終点のバレイの港に着く頃には、月が替わっちまわあ」
酔っ払い同様、苛々が募っているのか、ショールの婦人も棘のある声を上げた。
「全くだよ、旅の間に使う食費だって、ばかにならないんだからね」
あえて文句を付けたりはしないが、他の乗客もかなり苛立っているようで、丸眼鏡の商人は忙しなく噛み煙苔を噛み、兜目の坊商は数珠を鳴らし、せむしの労夫は古代の数字合わせのおもちゃを手の中で回しては崩す。表情に出していないものの、オバルは禁煙ギセルを口にくわえて外を見やり、薬売りはひたすら居眠りと決め込んでいるようだ。
その皆が耐えるように御者の戻りを待っているところに、後ろから別の馬車が、ガラガラと派手な音をたてて翔蹄号を追い越していく。走る音からして空荷の馬車だ。
丸眼鏡が口に溜まった唾を幌の外に飛ばすと、意外そうに口笛を鳴らした。
「随分と径の大きな車輪だったな、それにタイヤの外周にビスが打ってあった」
「珍しいのはクッションだろう、独立懸架のネジバネだったぜ」
おもちゃを回す手を止め、労夫が丸眼鏡の話を受けた。
この二人の会話に、さっそくショールの婦人が割りこんできた。
「さすが男だね、あたしゃ馬車と見れば、まず幌の縫い目の方に目が行っちまうけどさ」
「ケッ、興味があるのは縫い目じゃなくて、御者の面だろうが」
「それは別格!」と、ショールの婦人が酔っ払いの突っ込みに言い返した時、また後方から砂利を踏みしだく音が近づいてきた。
田舎道で続けざまに馬車が通ることなどめったにない。
今度は……と思って、明かり取りのシート越しに目を凝らす乗客たちの前を、幌の破れた幽霊のような馬車が、ノタノタと通り過ぎていった。
翔蹄号は路面からのショックを吸収するために板バネを使っている。それが今目の前を通った馬車は、単に車輪と車輪が車軸で繋がっただけの荷車だ。ほとんど馬車の行き来しない裏街道で、立て続けに二台の馬車に追い越された。
翔蹄号の中が静まり返った。
業を煮やした酔っ払いが、御者台に這い出ると、脇に置いてある鞭を掴んだ。
口には出さないが、丸眼鏡の商人も、いい加減このカタツムリのような馬車の歩みにうんざりしていたらしく、酔っ払いを後押しするように声をかけた。
「おい、どうせ駄馬に鞭をくれてやるなら、車輪止めのレバーを外しな」
焚きつける丸眼鏡に、酔っ払いが分かってるとばかりに破れ声を吐く。
「海の男だって、馬車の一つくらいは扱える。見てな、景気よく老いぼれ馬たちを走らせてやるから」
そうがなると、酔っ払いは車輪止めのレバーをガチャリと駄馬側に倒した。
その瞬間、バシッと物を叩くような音がして、酔っ払いが手にした鞭を落とした。
「いっ、ててて……」
顔をしかめた酔っ払いが、手を押さえる。
「どうした」という幌越しの声に、「どうしたもクソも、この駄馬野郎が」と酔っ払いが喚こうとした時、またバシッと音がして、今度は「ギャッ」と悲鳴が上がった。
丸眼鏡と薬売りが幌をまくって御者席を見ると、酔っ払いが顔を手で覆っていた。酒焼けした頬に赤い筋が数本走っている。駄馬が長い尾で酔っ払いの顔面を引っぱたいたのだ。
頬を指先でなぞると、酔っ払いが目をぎらつかせて鞭を掴み直した。
とその手を、また駄馬の長い尾がバシッと打ちすえる。
顔を真赤にした酔っ払いが、鞭を投げ捨て、御者台の下に突っこんである長胴銃を引き抜いた。気づいた薬売りが、酔っ払いの背中を掴むや、幌の内に引きずり込む。
「いい加減にしろ、余りしつこくやっていると、そのうち目玉をはたかれるぞ」
「離せ、死にぞこないのクソ駄馬に馬鹿にされて、黙ってられるか」
酔っ払いを煽った丸眼鏡も、今度は諫めるように声をかけた。
「よせよせ相手が悪い。馬が暇つぶしに遊んでくれてる間はいい。本気になったら、ああいう老馬はオオカミよりも恐いんだ」
「そうよ、化けて出るのは、オオカミよりも決まって馬だからね」
退屈な時間が紛れて嬉しいのか、ショールの婦人が囃すように手を叩く。
よってたかって同乗の客に押さえ付けられた酔っ払いが、意味不明の言葉を叫ぶ。
その騒ぎのなか、ウィルタは後部座席の後ろに寝転がったまま、幌の下の隙間からボナの様子を見ていた。
ボナは御者台を下りて馬車の後ろに回ると、道に迫り出すように転がる大きな岩と岩の間に入った。ボナの姿が影となって岩肌に映る。今度ばかりは本当に用を足しに行ったのだろうと目を逸らせようとして、ウィルタはボナの影の先に、もう一つ別の影が映っていることに気づいた。馬の影だ。
二つの影の動きに注目する。
ボナの影が近づくと馬の影が後ずさる。構わずボナは馬との間合いを詰め、ゆっくりと自分の顔を馬の鼻面に近づける。手は使わない。すると馬が後ずさりを止め、鼻面をブルンと震わせた。馬の鼻面とボナの鼻が触れあう。
まるで互いを匂いで確認し合うように、鼻をくっつけたり離したり。五分くらいそうしていただろうか。ボナがそっと手を差し出し、馬の首筋、次いで耳の後ろを掻く。
ウィルタの目にも、馬の影から緊張が取れたのが分かった。
後は、あっけなかった。ボナが歩き出すと、馬が後を追うように歩を進め、岩の間から出てきたのだ。悪戯をやって叱られた子供が、母親の後ろをおずおずと付いて出て来たような格好だ。ただし小馬ではない。岩の間から姿を見せたのは、これまたいずれ劣らぬヨボヨボの老馬だった。鹿毛のまだら馬で、たてがみは乱れ、歩く時に左の前足が宙を掻く。蹄の上の関節を痛めているらしい。
ボナは物入れから取り出した縄を老馬の首に回しかけると、縄の端を馬車の後ろの金具に繋いだ。そしてもう一度、老馬に顔を近づけ何事かささやくと、ようやく御者台に戻ってきた。
御者台に上がってきたボナに、酔っ払いが噛み付く。
「やい、この顔を見ろ。てめえの駄馬に尻尾で引っぱたかれたんだ、どうしてくれる」
転がっている鞭を見て、ボナは何が起きたか理解したようで、
「うちの馬たちは永年この馬車を牽いてるでな、御者でもない男が馬車のブレーキを外したんで、馬車が盗まれるとでも考えたんだろうよ」
「何だと、おれを盗人呼ばわりしようっていうのか」
「違うだか」
「やろう!」
酔っ払いがボナの首を掴みかけたのを見て、丸眼鏡と薬売りが二人がかりで酔っ払いをボナから引き離した。
「もう止せ、この勝負はお前の負けだ、煽った俺にも責任はある」
丸眼鏡の商人は、げんなりとした顔でザックから小瓶を取り出すと、「ほら、これをやるから機嫌を直せ」と、悪態をついている酔っ払いの鼻先に、蓋を開けた小瓶を突き出した。プーンと強いアルコールの匂いが、酔っ払いの鼻孔の奥に突き刺さる。
「おめえ、これ、蒸留酒じゃねえか、それも高級品だ」
「ああ、年代物の奉南酒だ」
押し抱くように小瓶を受け取った酔っ払いは、座席に腰を落ち着けると、艶光のする黒い小瓶を撫で始めた。上等の酒なので、口を付けるのをためらっている。
「やってもいいかね」と、ボナが幌の中に声をかけた。
「ゆっくりやってくれ、急いで走られると、揺れて酒が味わえなくなる」
急に機嫌の良くなった酔っ払いが、愛想良く返事を返す。
その言葉にたがわず、翔蹄号は益々ゆっくりと進むことに。後ろに繋いだ老馬、足を痛めた老馬の歩調に合わせているのだ。
「あんたが変なことを言うから、ほんとに馬車がノロノロになっちまったじゃないの」
ショールの婦人が酔っ払いを肘で突いて悪態をつくが、婦人の言うことなど右から左、ようやく決心がついたのか、酔っ払いがチビチビと黒い瓶の酒を嘗め始めた。
ウィルタが呆れたようにオバルに視線を送った。
オバルが笑いを堪えて言った。
「別に焦らなくても大丈夫。ボナはいい腕をしている。ウィルタを見つけた雪の日を除けば、この五日間、馬車はいつも日没一刻前には宿に着いている。途中で寄り道をするのも全て計算の上なんだ。まあ翔蹄号とは言い過ぎだろうけど、実に堅実な進み具合だよ」
オバルの予想どおり、日没の一刻前、計ったように翔蹄号は、その日の宿となる宿郷に到着した。
次話「音盤ニュース」




