青苔平原
青苔平原
ドゥルー海は、グラミオド大陸のほぼ中央に位置する内海である。その内海ドゥルーの西岸地帯を南北に連なる二本の山脈、西の天来山脈と、東の竜尾山脈に挟まれるようにして、青苔平原と呼ばれる苔の沃野が広がっている。四方を山稜に囲まれ、季節を変えて吹く風が適度の湿り気をもたらすために、極端に乾燥することがない。雪に埋もれる冬季の数カ月を除けば、麦苔がほぼ一年中育つことから、毛長牛の移牧の盛んな土地として知られている。この青苔平原の牧畜業に支えられているのが、ドゥルー海西岸最大の国マディオカカルトゥング国、通称マカ国である。
ウィルタたちを乗せた乗り合い馬車は、青苔平原の東部、竜尾山脈の裾野を走る街道を一路南に下っていた。ここは裏街道ながら穹鉄道という街道名を持っている。かつて古代にニッケル鉱の露天掘りの鉱山があったために付けられた名で、穹鉄はニッケルの古名である。
乗り合い馬車の翔蹄号は、マカ国最北の町、古鉄の集積地として有名な囲郷ワフレバトを出発点とし、青苔平原の東部、竜尾山脈の裾野を真っ直ぐに南下、平原南部でマカ国中央を縦断する鋼栄道に合流したのち、天来・竜尾両山脈の合流点から平原を抜け、最後ドゥルー海沿いの海岸道を経て、マカ国最南端の港町バレイに至る行程を、約二週間で結んでいる。ウィルタたちが救助されたのは、乗り合い馬車がワフレバトの宿郷を出て五日目、青苔平原に入る直前の原野だった。
すでに馬車はほとんど雪のない青苔平原の真っ只中をひた走っていた。
四頭だての幌馬車翔蹄号は、古代の自動車に例えてワゴン車ほどの大きさで、長方形の荷台に、四人掛けの背もたれ付きの椅子が、三列設置されている。ただ四人掛けとはいえ、防寒着を着込んだ大人三人が腰かけると、身動きのできない狭さとなる。なお客の荷物や途中の宿郷などに運ぶ荷は、風避けも兼ねて荷台前部のスペースに積まれる。御者台は荷台よりも一段高く、二人掛けだが、よほどの好天でもなければ御者の横に座る客はいない。
幌馬車の一番の特徴であるカマボコ型の幌は、リウの曲げ木の支柱に布を張ったもので、つぎはぎの幌布には、所々布の代わりに透明なビニールのようなものが縫い込まれ、そのくすんだ透明の窓から外の風景を望むことができる。
つい先ほど途中の宿郷に届ける荷を下ろした関係で、乗客の座席は、最前列に左から丸眼鏡の商人と酔っ払いの水夫、二列目にせむしの労夫、ギョロ目の薬売り、ショールの婦人、三列目に兜目の坊商、長身のオバル、熱の下がったウィルタ、そして最後部の座席の後ろに寝袋に入った春香という配置に変わっている。
翔蹄号を牽いているのは、四頭の老いた駄馬である。
日に何便もの馬車が走る表街道では、宿郷毎に替馬が用意してあり、客馬車は疲れた馬を交換しながら、休む間もなく街道を継走する。比べて乗客の少ない裏街道では、始発から終点まで同じ馬が馬車を牽き続ける。そのため自ずと馬車の運行は遅足となり、馬のための休憩もしっかり取られる。
翔蹄号は、地面の小石を踏みしだきながら、人の早足ていどの速さで進んでいた。
救助されてから四日、熱の引いたウィルタは、毛布を体に巻きつけ、揺れに身を任せるように椅子に腰かけていた。体のことを考えれば横になっている方が良いのだが、寝っ転がって幌の天井や椅子の裏を見上げることには、飽き飽きしていた。それに座席の後ろの狭い空間を少しでも広くして、熱の続く春香を楽にしたかった。
ウィルタが椅子に腰かけるのを待っていたように、ショールの婦人が後ろを振り向き、声を掛けてくるようになった。いかにも詮索好きな顔の婦人である。
「まだ風邪が抜けてないんだから」と、薬売りがやんわり窘めるが、「分かってるわよ」と答えるだけで、婦人はその場は前に向き直っても、しばらくするとまたウィルタに話しかける。病み上がりのウィルタとしては、無理して答える必要などないと思うのだが、話しかけられて何も答えないのは失礼になるような気がして、ぽつりぽつりと婦人の質問に答える。そんなこともあって、ショールの婦人は、薬売りに釘を刺されながらも、振り向いてはウィルタに質問を投げかけるということを繰り返していた。
そのショールの婦人とウィルタの会話を、オバルも、うつらうつらと首を揺らせながら聞いていた。
オバル自身、まだ遭難のいきさつを含めて、ウィルタのこの三カ月間の足取りについて何も聞いていなかった。ウィルタの体調を考え、声をかけ過ぎないようにしていたのだ。だがそれ以上に、狭い馬車の見ず知らずの客の目と耳があるなかでは、大した話はできないと、最初から諦めていたことがある。
オバルもウィルタも共に名前を変えての旅である。妙な辻褄合わせをやりながらの会話は疲れるだけで、意味のないことだった。突っ込んだ話は、いずれ他の客がいなくなってからと、そう思って口を挟まず、二人の会話に耳をそばだてていた。
ところが聞いていると、これが思いのほか面白い。ウィルタは、旅に出ることになった経緯から、雪の中で遭難するに至った顛末を、順を追って話している。
それによると、ウィルタと春香、否、ホーシュとアチャの兄妹は、晶砂砂漠南部の岩船を改造した家の子供で、難病の妹を救う手立てを探して旅に出た。いま最も栄えている都、塁京に行けば、何かいい薬が見つかるのではと考えてだ。
それが途中で身分証を失い、さらには盗賊に捕まってお金を盗られ、あげくはジンバに売られそうになる。それを命からがら逃げ出し、毯馬と共に山越えを目指したのだが、途中で毯馬が足を折ってしまい、あとは自分たちだけで峠を越えることに。そして青苔平原まであと一歩というところで、オオカミに襲われ、逃げる途中で氷を踏み抜いて川に落ち、最後は道に迷って吹雪に閉じこめられてしまった。
それが、ウィルタ話すところの、旅の大まかな粗筋だった。
「オオカミが馬車を止めたおかげで、あなたたちは助かったのよ。白いオオカミに見覚えはある」と、婦人が座席から身を乗り出して尋ねる。
「知らない」と、ウィルタは首を振って答えた。
最初はショールの婦人が話しかけるのを咎めていた薬売りまでもが、ウィルタの旅行談を聞いているうちに、あまり文句も言わず、逆に聞き耳をたてるようになった。単調な平原の馬車旅行では、乗客の誰もが目新しい話に飢えている。
一通りウィルタが旅の話を終えると、大人たちが口々に感想を口にし始めた。
「竜鱗堆といやあ、ラムザナイトの産地だな」と、薬売りが話の口火を切ると、丸眼鏡の商人が、「ここ数年、ほかの産地が廃れて、ラムザナイトの相場は、金の四倍に跳ね上がっているぜ」と、仕込んだばかりの情報を披露する。
「えーっ、なんだね、そのラムザ何とかって」
金の四倍と聞いたとたん目を輝かせたショールの婦人に、「田舎のばばあにゃ縁のない、安息灯だよ」と、酔っ払いが馬鹿にしたようにがなった。
竜鱗堆一帯の湿地に密生する針金苔からは、この時代の高級照明のシンボルともいえる安息灯のフィラメント用の金属、ラムザナイトが採れる。苔から金属というのが意外だが、生き物の体内に特定の物質が蓄積されるということはままあることで、針金苔はラムザナイトを高濃度に蓄積していることで知られていた。
ラムザナイトを用いた電球は、いわゆる古代の白熱電球と比べても、格段に寿命が短い。この電球の寿命が短いことに加えて、希少金属ゆえの高額さにも関わらず、ラムザナイト球、安息灯が好まれるのには理由がある。このラムザナイト製のフィラメントが発する淡い黄色の光を目にすると、なぜか人は心が落ち着くのだ。
安息灯と呼ばれる所以である。
一説には、安息灯の光には微妙な波長の揺れがある。音の世界で心身をリラックスさせるα波が話題になるが、安息灯の明かりは、光におけるα波なのではと考えられた。
特筆すべきは、このラムザナイトは、元々地球上にあったものではなく、唱鉄隕石などと同じく、二千年前の災厄の際に宇宙から地球に降り注いだものだということだ。微細隕石として地球上に広く薄く降り注いだものというのが、今では定説になっている。
針金苔は土中のラムザナイトを選択的に吸収蓄積、燃やすとチンチンと火花が散るのは、苔の中にラムザナイトの小さな結晶が入っているからである。
あの竜鱗堆の岩と湿地しかない土地で、石鱗病という酷い風土病におびえながらも、人が逃げ出さずに住み続けているのは、ひとえにラムザナイトのため。加えて岩山の住人がよそ者に神経質になるのは、針金苔の盗掘者と、集めたラムザナイト入りの灰を奪いにくる賊に、神経を尖らせているからだった。
「病気を拾う心配がなければ、俺も買い付けに出向きたいところさ。しかし銭が儲かっても、体が鱗だらけ、石になっちまったんじゃ仕方ねえ」
丸眼鏡の口惜しそうに口ぶりに、薬売りやオバルが同感とばかり頷いていると、一人黙って念珠を珠送りしていた兜眼の坊商が、「あっしは、石鱗病の患者の弔いに呼ばれたことがありやす」と、顔面ウロコだらけになって自殺した仲買人の話を繰り出した。
この目の落ち窪んだ坊商は、顔色も青黒く、細い鼻にすぼんだ口先、狭いあごと、いかにも貧相な顔立ちをしている。そのうえ語尾を落とすようにボソボソと喋るので、聞いている側まで気分が滅入ってくる。
陰気な話は勘弁してくれと、せむしの労夫が「俺は、股間が石鱗病になって喜んでいるヤツを見たことがあるぜ」と冗談を飛ばすと、待ってましたとばかりに、「あたいの亭主に、その菌を植え付けられないかね」と、ショールの婦人が合いの手を入れた。
そこから一転、話題は各地の珍しい強壮剤に移った。
ところが皆が面白おかしく話すなか、坊商の男だけはボソボソと一人語りを続ける。
子供たちが見たという頭骸骨の話である。
埋葬の際、死者の骨に色を塗る風習は、彩骨葬と呼ばれ、主に大陸西部の山間部で行われている。死後、悦楽の黄色い花園に無事に行き着けますようにと、骨を黄色く塗り込め、経文を書き加えて安置するのだ。ウィルタたちが岩穴の中で見た頭蓋骨にも、元々は下地に鮮やかな石黄色が塗られていたはずだという。
「人が黄色い色に弱いのは、三途の川を渡った先のお花畑に憧れるせいですかねえ」
陰にこもった話しぶりに、ショールの婦人が、いい加減にしてよと兜目を睨みつけた。
そして気分を変えるように丸眼鏡の背中をせっつく。
「ねえ、だんなあ。子供たちの銃を買い上げておやりよ。この子は、旅の資金を賊に盗られちまったんだよ」
病の妹を助けるための旅と聞いて思い入れをしたらしく、ショールの婦人は何度も同じことを口にする。
丸眼鏡の商人が迷惑顔で黙っていると、見かねて薬売りが代弁した。
「下手に禁制の品に手を出して商人手形を取り消されちゃ、商売上がったりだからな」
薬売りの意見も馬耳東風、ショールの婦人がしつこく「だってね……」と言いかけたところで、急に馬車の揺れが酷くなった。
ひと月ほど前に珍しくまとまった雨が降って、道が荒れているのだ。
街道を水が流れ、くねった溝が何本も道をえぐっている。
車輪が溝を出入りする度に馬車が大きく揺れる。その舌を噛みそうな揺れに、陰気な坊商も、姦しいショールの婦人も仕方なく口をつぐんだ。
揺れが収まるまで、しばし馬車の中での会話はお預けとなった。
かつて二十年ほど前までは、この穹鉄道も、青苔平原東部の幹線道として、多くの馬車や人が行き来していた。それが今では見る影もなく寂れ、週に数便の馬車が通るだけの寒道に成り下がっている。
揺れの続く馬車の中で、ウィルタは目を瞑り、椅子に埋もれるようにして眠っていた。
オバルは、ずれ落ちた毛布をウィルタの体に掛け直すと、改めてウィルタを見た。
先ほどウィルタがショールの婦人に語った話の全てが、本当のことではないだろう。素性を伏せた上での話だからだ。それでも、ある程度は実際に経験し見聞きしないと話せない内容である。そのことからしても、ウィルタの辿った旅が波乱万丈だったことが窺える。それに当然話には出てこないが、出発点の砂漠の岩船屋敷に至るまでの行程も大変な道のりなのだ。マトゥーム盆地から晶砂砂漠の中心地までは、直線にしても優に一千キロ以上の距離がある。古代の道路網と交通機関の整備された時代と違って、道なき道。いったい砂漠の只中の家に、この二人はどうやって辿り着いたのだろう。
いずれ、ほかの客がいない場所で、しっかり話を聞いてみたいものだ。
それにしても奇遇だった。よくぞあの雪の中で、ウィルタたちを見つけることができた。
そもそもオバルは、二人の子供たちが、セヌフォ高原北方の曠野のどこかに身を隠しているものだとばかり思っていた。シクンの一行と行動を共にしていると考えていたのだ。
オバルはウィルタに忠告した。古代の少女がこのままではユルツ国に連行され、研究材料にされてしまうと。そのことからして、ウィルタは古代人の少女を連れて、ユルツ国の探索の手の届かない曠野の奥に身を隠した。普通ならそう考えてしかるべきだろう。
だから立ち寄った宿郷で、懸賞金の二人連れの子供が目撃されたという噂話を耳にしても、話半分にしか聞いていなかった。
知らない土地を移動することほど目立つことはない。住み慣れた山脈西の曠野から、人目につく他の世界に出て行く理由が考えられなかった。
ところが曠野にいるとばかり思っていた二人の子供が、突然マトゥーム盆地から遠く離れた青苔平原の片隅で雪に埋もれていたのだ。
最初は信じられなかった。だが間違いではない。目の前にハン博士の息子がいるのだ。
これまでの経緯から、またどこかで会うことになるかもしれないという予感はあった。
しかしそれにしても、雪原の真っ只中でとは……。
それにもう一つ。巡り合わせだと思うのは、ウィルタがこれから塁京に行くと話していたことだ。このことに関しては、オバルも助けた直後にウィルタの口からそう聞いたし、熱のある額を手で押さえながらも、ウィルタが「塁京に行きたい」と、はっきり御者に行き先を告げていたから、間違いない。
この子たちが自分と同じ目的地に行こうとしている。
オバルが旅の目的地をチェムジュ半島から塁京に変更しなかったら、この少年と雪原で出会うことはなかった。まさに偶然のなせる業だ。
しかし……、と思う。ウィルタはどういう目的で塁京に行こうとしているのか。妹を治す薬を探してというのは作り話、何か別の目的があるはずだ。それとも塁京は旅の通過点ということなのだろうか。そのことも、いずれ確かめなければならない。
ウィルタは完全に寝入ってしまった。横顔に仄かにハン博士の面影が宿る。
自分が塁京に行くのは、ハン博士がチェムジュ半島ではなく、塁京にいるということが分かったからだ。
オバルは、今回自分が塁京を目指すことになった経緯を思い起こした。
話は二カ月半ほど前、オバルが警邏隊に身柄を拘束された時に戻る。
囲郷ユカギルのあるマトゥーム盆地でウィルタに助け出された後、オバルは軽便鉄道の軌道沿いに一旦ユルツ国方向に引き返した。そして途中で陶印街道から南にそれて、ドゥルー海沿いの港町に足を運んだ。チェムジュ半島へ向かうのに、海路、船でドゥルー海の東岸を目指すことにしたのだ。
それが港町のワイカカで船に乗船する直前、ユルツ国の警邏隊に拘束されてしまう。捕えられて分かった。靴の裏に発信機が取り付けられていたのだ。ユカギルを逃げだした後、直ちに拘束されなかったのは、自分がハン博士に会うか、もしくは連絡を取るのではないかと、当局が自分を泳がせていたからである。
自分は直ちに情報局の施設に連行され、自白剤を打たれた。
そこで記憶は一旦途切れる。意識が戻った時には、ひどい頭痛と虚脱感でぐったりしていた。何を喋ったか喋らされたか記憶にない。ただぼんやりとした頭の中で、情報局の部員同士が、担当官を直ぐにチェムジュ半島に向かわせろと話していたのを覚えている。必要なことは聞き出されてしまったようだ。
意識が戻ってから一カ月ほどは、頭に霞がかかったような状態だった。その間医者が毎日バカ丁寧に体を診察、薬を処方してくれるので、不思議に思って尋ねた。すると再開したファロス計画に自分を協力させるために、早く体調を回復させろと、上層部から命令が出ているとのことだった。どうやら処方された自白剤は、効果を弱めたものらしい。
さらに半月、頭の中の霞はかなり取れてきた。
しかし自分は自白剤の後遺症で目もうつろ、足もおぼつかない風を装っていた。もちろん収監施設から逃げ出すためである。
その脱出の方法をあれこれ考えている時、こちらがまだぼんやりしていると油断していたのだろう、自分のすぐ脇で、施設の局長と部員たちが立ち話を始めた。チェムジュ半島に向かった情報局の要員は、結局ハン博士を捜し当てることができなかった。一週間ほど現地に残って調査を続けるが、それでも手がかりが見つからなかった場合には、再度オバルに自白剤を処方して、聞き出せていない情報がないか確かめると言っている。
その場に居合わせた医師が、局長らしき人物に、場合によっては廃人になる可能性もあると、予想される副作用を幾つか並べたてていたが、局長は止むをえないことだと医師の助言を切り捨てた。
冗談ではない。自白剤の副作用で廃人になどなりたくなかった。
急いで逃げ出さなければ……。
担当の医師は真っ当な人物だったので、気は進まなかったが、診察時に気分が悪くなったと言ってトイレに同行してもらい、そこで医師を殴って気絶させ、白衣を奪って逃走。収容施設の監視員たちは、こちらが後遺症でぼんやりしていると思っていたのか、うまく見つからずに脱け出すことができた。
さらに警備員の服を奪い町なかへ。医師にしても警備員にしても、自分よりも身長が低い。そのため、どうにも服が寸足らずで、一見して借り物の服だと分かってしまう。逃げるためにはどうしても衣類と金が必要だった。
仕方なく古着屋に押し込み、服と金を調達。縛り上げた主人には、一年以内に元本に利子をつけて返すと、約束の手紙を書いて残した。その名目上借りた金で、電信館から事故検証委員会に連絡を入れる。ところが何度連絡を入れても繋がらない。
実家はすでに他人の手に渡っている。都の中では、自分は石をぶつけられる有名人で、先ほどの古着屋の主人も自分の名を知っていた。氷床ハンターから強盗に鞍替えしたかと、冷たい眼で見られた。
都で頼って行ける所といえば、検証委員会くらいしかない。しかし電信用の通話番号は知っていても、事務所の場所は聞いていなかった。それに番号が繋がらないということからすると、当局の手が検証委員会に伸びた可能性も考えられる。いやそれは大いに有りうることだ。とにかく都を離れ、途中何度か検証委員会に連絡を入れながら、旅に出る前に港町で住んでいた肩夫宿に向かうことにした。借りてある部屋に荷物と若干の金品が残っているはずだ。
二日後、港町へ。
丸一日、自分の部屋を見張っている者がいないか確かめたうえで、肩夫長屋の自室に入る。寝台と作りつけの物入れがあるだけの四畳ほどの素っ気ない部屋だが、物の配置が微妙に変わっている。情報局の連中が家捜しでもしたのだろう。そう思って、床の羽目板を剥がすと、案の定、隠していた博士からの手紙が無くなっていた。管制室の状況を記録した情報チップを押し込んだ時とう書もだ。
チップが持ち去られた以上、惨事の原因については、情報局や政府の知るところとなったはず。だがそれにしては復興計画の本部から、『惨事の原因は子供の誤操作が……』といった話は公表されていない。公にするにはあまりに忍びないと、そう判断したのだろうか。そんなことを考えながら、残した衣類をタンスから取り出していると、突然背後から「惨事の原因は、ハンの息子だったそうだな」と、男の声がかかった。
振り向くと、入り口横の壁に男が寄りかかっていた。眉と鼻が繋がったような顔、検証委員会の丁字顔の男だ。思わず「政府が公表したのか」と聞くと、その丁字顔の男がバカにしたように言った。
「お前が喋らされた話は機密扱いだ。ファロス計画の実行本部は、悪戯の件を反対運動が拡大した時の鎮静材料に使うつもりだ。十年前の惨事の原因は、施設自体に不備があったのではなく、子供が設備の一部を破損させたからだとな。それは操作ミスが原因という、政府の事故原因究明委員会の出した結論と同じことだ。まあ博士の息子の件に関しては、余程のことがない限り公表はしないだろう」
丁字顔の男の自信を持った口ぶりに、オバルが「なぜ」と聞く。
「考えてもみろ、あの施設を新たに再興させるために必要なのは、ハン博士の協力だ。その協力させるための鍵が、ハン博士の息子なのだ。推進派はハン博士に言うだろう。協力しなければ、あなたの息子さんの不祥事を公表しますよとね」
丁字顔の男の言う通りである。たとえハン博士を見つけ出し、連行したとしても、ファロス計画自体を疑問視しているハン博士が、新たな計画に協力するはずもない。一番難しいのは、博士をどうやって計画に協力させるかなのだ。
確かめるように「情報局員はチェムジュ半島で博士を見つけられなかったようだな」と聞くと、丁字顔の男は苦虫をつぶしたような顔で、「まったく、最初から我々に全てを話していれば、違う手を打つこともできたのに」と吐き捨て、懐から二通の封筒を取り出した。ハン博士からの手紙である。
オバルが驚いた顔で丁字顔の男を見た。
「なぜ、それをあなたが、この部屋の捜索はあなたがやったのか」
「お前に対する身柄拘束の命令が出されたのは、ハン博士を捜しにお前が旅に出た一週間後、ユカギルでもたもたしていた時だ。探索令が出ることを事前に聞いて、情報局の連中が踏み込む前に、検証会の方で家捜しをさせてもらった。素人が隠すていどの物は、玄人はすぐに嗅ぎ出す。こちらの会に関するメモが部屋に残っていると、今後の会の活動に支障の出る恐れがあるからな。了解は貰わなかったが事情はそんなところだ」
丁字顔の男が「返却だ」と、素っ気なく手紙をオバルに差し戻した。
「あんた、情報局の人なのか」
探るようなオバルの視線を半眼で受け止めると、男はポケットから煙苔を取り出した。
「話しただろう、俺たちの仲間は政府のあちこちにいると。それに情報局のなかにも色々な立場の者がいる」
話しながら、丁字顔の男は煙苔に火をつけた。
「忠告しておく、週に二度、曜日を変えて情報局の人間がここを監視にくる。次の監視は、今日の午後一時。今度捕まったら本当に薬で廃人にされる。早くこの町を離れることだ」
そう告げると、丁字顔の男は、煙苔の煙をフーッとオバルに吹きかけた。
甘味を帯びた芳しい香りが顔の周りを包む。香苔である。甘い匂いに思わずオバルはそれを吸い込んだ。
ほんの数秒だったろうか、オバルはハッと体を震わせた。
気がついた時には、丁字顔の男は目の前から姿を消していた。離魂剤と呼ばれるガスを情報局の人間が使うという話を聞いたことがある。吸わせるガスの量で、相手の意識を奪うガスで、ごく短時間強い効果を示すという。香苔の煙にその成分が含まれていたのだろうか。入口の扉は内側から鍵を掛けたままになっている。二階の窓から下の通りを見下ろすが、通りにもそれらしき人物の姿はない。
気が抜けたように、オバルは椅子に腰を落とした。時計を見ると、朝の九時を回ったところだ。男の言葉が本当なら、情報局の部員の巡回がある午後までに、この町を去るのが正解だろう。部屋代は半年分を前払いしてあるし、処分すべき荷などない。自分はこの町で肉体労働の肩夫をやっていたのだ。大家にあいさつして、ここを引き払うと言えば、それで事は済む。
そう考え、持ち出す衣類をザックに詰めているところに、扉の外でジャラッと金属の束の擦れ合う音がした。鍵の音だ。初老の大家の女が扉を開けて顔を見せた。
「あれま、あんた、帰っていたのかえ」
大家が鍵の束を揺らせながら部屋に入ってきた。後ろには掃除女の少女が付き従っている。何だろうと思って見ていると、大家がその少女の頭を拳の背で小突いた。
「こっそり返しておこうと思ったんだけどね、いるんなら仕方がない」
大家が下働きの少女の腕を掴んで、オバルの前に引き出した。そして、さっさとおしとばかりに少女の尻を叩いた。少女は一歩前に出ると、おずおずと体の後ろに隠していたものをオバルに差し出した。例の情報チップを背の隙間に押し込んだ、時とう書だ。
少女が頭を下げたままで言い訳をする。
「ごめんなさい、しばらく留守になさるとかで、お借りしていました。この時とう書は綺麗な挿絵が入っているから、前から見たくて。決して自分のものにしようとか、そんなんじゃなくて……、私の給金じゃ、とても絵入りの時とう書なんて買えないものだから……」
余計なことまで言わなくていいと、大家は下働きの少女を後ろに下がらせた。
「いえね、かねがね宿の住人の荷物に手を触れちゃだめだって、言い聞かせていたんだけど。まあ、盗んだ訳ではないし。それにあんたも、お祈りには熱心な口じゃなかったようだからさ、ここのところは許しておくれでないかい」
くどくどと言い訳がましい話を続ける大家の前で、オバルは突然声を上げて笑いだした。笑いながら、もういいから出て行ってくれと、二人を部屋の外に押し出した。部屋を出る際、大家は今日届いたばかりの手紙だと言って、二通の手紙をオバルに手渡した。それを見てオバルがまた笑い声を上げる。気味の悪いものでも見るような目で振り返りながら、大家と下働きの少女は、下の階へと下りていった。
情報チップは時とう書の背に差し込まれたままだった。
届いたばかりだという手紙は、妹からと、そしてムルティ・バウ、犬の糞からだ。
すぐに文面に目を通す。妹からの手紙は、実際には従兄弟からのものだった。三十七万ブロシュの借金の利子分の送金が止まっているが、それを早く送ってほしいということ。半年以内に当面の利息の三万五千ブロシュを返さないと、オバルの妹は借金の形に身売りをしなければならなくなる。早く送金を……、と書かれていた。
一方、ハン博士からの手紙には、自分は今塁京のティムシュタット国にいる。近々この数年調べていたことの決着がつきそうなので、そうすればユルツ国に戻る決意である。自分はオバルのカメラ鞄に情報チップを隠した。もしそれが残っているようなら、保管しておいてほしい……、といったことが書かれていた。
ハン博士は塁京にいる。
そうそれが、いまオバルが穹鉄道を塁京に向かっている理由だった。
もっとも正確には、自分が塁京に向かっている一番の理由は、妹の借金を返すためである。肩夫のような肉体労働をしていたのでは、半年で三万五千ブロシュなどという大金の工面はできない。ユルツ国に戻ることができない以上、まとまった金を稼ぐとなれば塁京に行くしかなかった。
頭の中には、借金の工面先として検証委員会の名も浮かんだ。だが隠していた手紙を持って突然部屋の中に現れた丁字顔の男には、最初のイメージと違って、何か胡散臭いものが感じられた。ハン博士が塁京にいるという情報は、今しばらくは手元に伏せておいた方がいいだろう。それに、もし塁京でハン博士の所在を掴めれば……。
妹の借金の工面ができなかった場合、その時は、博士に関する情報を検証委員会か、状況によっては国の復興委員会に売る。そうすれば最低限、利子分の金を作ることはできる。良心は痛むが、妹を救うためには、博士の情報を売ることも止むなしだ。
以前なら、こんなことは考えなかったかもしれない。だが今は違う。この酷い頭痛、自白剤の副作用による頭痛が頭を襲うたびに、自分がこのような責め苦を受ける最大の原因は、博士にあると痛感するのだ。
ハン博士がチェムジュ半島から手紙など寄越さなければ、自分が検証委員会の要請で博士を捜しにいくことも、情報局に捕まり自白剤を飲まされることも、結果として酷い頭痛に悩まされることもなかった。全く責任を取ってくれと、そう言いたい気分だ。
オバルは頭痛のする頭を手で押さえながら、半刻ほどで肩夫長屋を出た。
そして妹宛に「半年以内に何とか金を工面するから、気を落とさずに待て」と書いた手紙を投函すると、午後一番の東海岸に向かう船に乗り込んだ。
それから三週間後、オバルは雪の平原でハン博士の息子に邂逅したのだった。
馬車の揺れは収まり、のんびりとした駄馬の足音と、車輪が砂利を踏みしめる音が戻ってきた。
さっそく、ショールの婦人が後ろを振り向くが、さすがに寝息をたてるウィルタに話しかけるのは憚られるらしく、残念そうに前に向き直った。それを見て、オバルも安心して、半透明の窓の向こうに広がる赤茶けた大地に視線を戻した。
街道の周囲には、一面起伏の少ないなだらかな丘陵地帯が広がっている。ここと較べれば、セヌフォ高原など山岳地帯といっても良い。
一年を通じて同じような気候の続く土地、六晴一雨と呼ばれる適度の雨と雪が、豊かな麦苔を育む。この平原の麦苔が青味がかった色をしていることから、この平原は別名を青苔平原と呼ばれる。ところが、いま目の前に広がっているのは、赤茶けた剥き出しの岩の大地で、青緑色の苔は沢や窪地の一部に残るだけだ。
その赤茶けた岩だらけの平原の端々に、打ち捨てられた家が風に躯を晒している。それに牧畜の地という形容が嘘に思えるほど、家畜の姿がない。たまに見かける毛長牛はガリガリに痩せ、浮き出たあばら骨で音楽が奏でられそうだ。
薄目を開けて見るともなく眺めるオバルに、どんよりとした曇り空の下、街道の別れ道を、毛長牛の一群が牛飼いに追われて通り過ぎていくのが目に入った。安住の地を求めてさ迷う羊の群れのようにも思える。
その日、午後も遅くなって、空を覆った厚い雲が途切れ、オレンジ色の日差しが赤茶けた大地と雲の間をつなぐように斜めに射しこんできた。この日初めて目にする日の光だ。
グラミオド大陸のなかでも指折りの放牧地と言われた青苔平原が荒れ果てたのは、ひとえに塁京の繁栄にともない増加した乳製品の需要に応え、放牧する家畜を増やしたことにある。往年の三倍の数の家畜が放たれたために、ほんの十年ほどで平原の苔は剥ぎとられ、岩盤剥き出しの荒れた大地に変わってしまった。
人の営みが大地を疲弊させるという意味では、晶砂砂漠ほどではないにしても、この青苔平原も同じである。救いは、荒れた平原は、放置しておけば、いずれ元の苔の原野に戻るということだ。もちろんそれを待つことができればの話だが……。
オバルはいつしか居眠りを始めていた。
夢の中で、自白剤を射たれた時のことが、鮮明な画像となって立ち上がってくる。
自白剤はそれを処方されると、人の感覚を快楽の頂点に引き上げる。そのことによって、理性を失わせ、抑制のたがを外させるのだ。ある種の麻薬のようなものである。だが一方で、それは猛烈な副作用を伴う。激烈な頭痛と極度の倦怠感、それに嘔吐感を。その経験が悪夢となって夢の中に現れる。そしてその悪夢は、いつもあの惨事の瞬間に自分を引き戻す。暴走を始めた炉と、その対応に走り回るスタッフ……。
核力炉の炉心温度が限界点を超えて上昇を続け、管制室のスクリーンパネルの映像の中で、炉心が青白い光を放ち、辺りが白い光に包まれる。
光のなかで、逃げ遅れた人が燃え上がり……、空間に叫びの口を残して消える。
「あっ」と声を出して、オバルは目を開けた。
じっとりと汗をかいていた。
叫び声を人に聞かれなかったかと幌の中を窺うが、馬車の中は居眠りを始める前と変わりない。ガラガラという車輪の石を踏みしだく音が続くなか、隣ではウィルタが静かに寝息を立てている。ウィルタだけではない、馬車の乗客全員が、揺れに身を任せ、眠りのトンネルにでも入ったように居眠りを続けていた。
のんびりと走る馬車が、スピードを緩めた。
次話「あばら屋」




