薬売り
薬売り
翌日の午後。
二人が救助されてから、丸二日半が経った。
二人を乗せて裏街道を走っているのは、荷台にカマボコ型の幌を張った四頭立ての馬車である。雪に埋もれたマカ国北部の丘陵地帯では、車輪の代わりに橇を着ける。それが昨日の午後、橇を車輪に付け替えたとたん、街道の雪が目に見えて減ってきた。道はもうほとんど剥き出しの砂利道である。見渡すと、なだらかな丘陵地帯の端々に、雪のない苔と岩の原野が広がっている。あと半日も走れば、青苔平原と呼ばれる苔の沃野に入る予定だ。
その青苔平原につながる裏街道を、幌馬車は砂利を踏みしだきながら走っていた。
裏街道を走る乗り合い馬車は、ほとんどが客とともに荷も運ぶ貨客便の馬車である。いまウィルタたちが乗っている馬車では、元々四列ある椅子の一番前の列が外され、そこに荷物が積み込まれていた。
乗客は現在、子供たちも入れて八名。前列は一人だけで、丸眼鏡の商人が荷に挟まれるようにして座っている。二列目は三人、左から窪んだ兜目の坊商に、酔っ払いの水夫、それにショールの中年婦人。後ろ三列目が、左にせむしの労夫、右に長身のオバルとなる。長身のオバルは、座高でも頭一つ飛び抜けている。春香とウィルタは、相変わらず後ろの幌と椅子の間の狭い空間に、寝袋に入ったまま寝かされていた。
熱が峠を越えたのか穏やかに寝息をたて始めたウィルタと比べ、春香は一向に熱が下がらず、時おり荒い咳をつく。
咳き込む春香を、オバルが首を折るようにして覗き込んだ。
幸いにも道の状態が良く、馬車の揺れは酷くない。道が荒れると、馬車は舌を噛むほどに激しい揺れを繰り返す。それは健康な者にとっても、相当に体力を消耗することで、熱だけでなく咳で苦しむ春香にとって、馬車の揺れで余分な体力を使わずに済むことは大きな救いだった。
オバルが春香の額に乗せた手拭いを交換していると、隣に座っているせむしの労夫が、感心したようにオバルに声をかけてきた。
「あんた、でかい図体のくせにまめだな、まるで自分の娘の世話でもしてるみたいだぜ」
「発見しちまった責任てものがあるからな」
オバルが疲れた声で返事をした。
昨日から子供たちの看病で睡眠を細切れにしか取っていない。
オバルが幌の中の空気を吸い尽くすような大あくびを付いたところに、前の座席の婦人が振り向き、頭の上から出るような声を響かせた。
「どこかで医者に見せた方がいいんじゃないかえ。馬車に揺られてたんじゃ、悪くなりさえすれ、良くなんかならないよ」
派手な薔薇牡丹柄のショールを巻きつけた、中年の婦人である。
込み上げてくるあくびを押さえ、「それは、そうだが」とオバルが口を濁していると、婦人の横、酒瓶を掴んで離さない赤ら顔の水夫が、「こんな田舎道のどこに医者がいるってんだ」と、酒臭い声でがなりたてた。
「裏街道の医者なんざ、血を抜くことしかやりゃあしねえ。あんなのは医者じゃねえ、盗血屋、そうだろう」
分厚い胸板に共鳴させた鼓膜に響く破れ声である。
ショールの婦人が煩いとばかりに耳の穴を掻くと、「瀉血をするのは町の医者も同じだよ。裏街道だって、医薬師とまではいかなくとも、丹薬師くらいはいるわさ」と、やり返す。
朝から婦人の甲高い声と、酔っ払いの破れ声が幌の中を飛び交っていた。どちらも絡むような話し方なので、他の乗客は相手にしなかったのだが、珍しく丸眼鏡の商人が「医者がいないなら呼べばいい」と、話に加わってきた。
口の中の噛み煙苔を幌の外に吐き出すと、丸眼鏡の商人が凝りでも解すように手の平で首筋を撫でつけながら言った。
「裏街道にいたって医者は呼べる。要は医者がいるいないじゃなくて、そのガキが医者に払う金を持っているかどうかだろう、違うかい、女将さんよ」
この丸眼鏡の商人は、鰓の張った大きな顎ひげを生やしている。後ろからだと、その顎ひげが首の左右にはみ出して見える。顎ひげと反り上がった眉、それに小さな丸眼鏡を鼻の上に乗せた風貌は、商人というよりも徴税史。ただ厳つい風貌と違って、滑らかな口調と、どこか本音をはぐらかす喋り方は、いかにも商人っぽい。
買い付けた荷を南の塁京に運ぶ途中とかで、ラグビーボール大の火炎樹の種の入った箱を座席の前に積み上げ、見張りでもするように、どっぷりと椅子に腰掛けている。ポケットのたくさんついた商人チョッキを外套の下に着込んでいるのだが、そのポケットからはみ出た懐中時計の金色の鎖が、商人としての羽ぶりの良さを匂わせていた。
懐具合を値踏みしてだろう、ショールの婦人が甲高い声を投げつけた。
「なんだねあんた、商売人のくせに、えらい冷たい言い草じゃないかえ。なら男の子が持ってた拳銃を買い取ってあげなよ。良さそうな銃じゃないの。あんたがあれを買い取りさえすれば、金はできるじゃないの」
背を向けたまま、丸眼鏡がフフンと鼻を鳴らした。
「銃の売買は、この地じゃ御法度なんだ。俺のもっとうは法令順守なんでな」
「よく言うよ、こんな裏街道を行き来している商売人なんざ、御禁制の品を運ぶくらいしか能がないくせに」
丸眼鏡が、またフフンと鼻を鳴らした。
「俺は、種苗組合に株を持つ登録した商人。見たいなら、箱の中の殻種を見せるぜ」
「どうせ、盗品の種だろ」
「残念だが、アルン・ミラの刻印が入ってんだ。後学のために売買証書を見るかい。もっとも、字が読めなきゃ、本物かどうかは分からんだろうが」
地方の人間は、官吏でもなければ、この時代ほとんどが文盲である。そのことを踏まえての丸眼鏡のからかいだ。
絡むつもりが暇つぶしにからかわれたとあって、ショールの婦人が細い眉をクッと吊り上げた。そして金切り声を丸眼鏡にぶつけようと胸一杯に息を吸い込む。そのタイミングを計ったように、酔っ払いが「どの道こんなボロ馬車に揺られてる間は、医者に見せたって無駄、無駄だよ無駄!」と、破れ声を二人の間に割り込ませた。
気勢を削がれた婦人が、アウ〜ッと尻すぼみの声をもらし、ほかの客が笑いを噛み殺したその時、「バシッ」という身を縮めたくなるような音が幌の外で鳴った。
さらにもう一度。幌の側板を鞭で打ちすえた音だ。何事と身構える客たちに、ボナの嗄れた声が荷台の前、幌の垂れ幕越しに投げつけられた。
「ボロ馬車で悪かったな、これでも、この馬車には翔蹄号という名前があるだ」
すかさず酔っ払いが、がなり返す。
「けっ、翔蹄号だと笑わせるな。つぎはぎだらけの幌に、牽いてる駄馬は、どれも、とうの昔に引退した老いぼればかり。こんな田舎道でなければ、誰が乗るか」
酔っ払いが、さらに畳みかけようとした時、馬車が前輪を軋ませ停止。垂れ幕を跳ね上げ、御者のボナが馬車の中に首を突っ込んできた。
逆光と目出し帽に隠れて表情は定かではないが、だらしなく椅子に寄りかかった酔っ払いを、口を真一文字に引いて見すえている。
「嫌なら降りろ、荷台が軽くなれば馬たちが喜ぶ」
いつもの朴訥とした声とは違う直線的な声に、幌の中に沈黙が走った。
ところが酔っ払いは酒瓶を頭上にかざすと、相変わらずの破れ声でがなる。
「なんだと〜っ、運賃は前金で渡してあるだろうが」
「金は返す、馬の悪口を言うやつは許せねえ、下りてくれ」
先程よりも声は小さい、しかし硬い投げ捨てるような声だ。
もう一度、「降りろ!」と言うなり、ボナが目出し帽をもぎ取った。
露わになったボナの顔は、田舎臭い話し方に似合わず、端正な顔立ちで、柔らかな金髪を一まとめに縛りつけて、頭の後ろに短く流している。歳は四十前後、貴公子のようにくっきりとした眉と青緑色の目が、眼光鋭く酔っ払いを睨みつける。
そのボナが懐から革袋を引き出した。本気で金を突き返すつもりらしい。
普段おとなしい者ほど、一度タガが外れると歯止めが効かなくなるという。
せむしの労夫が、後ろから、酔っ払いの背中をついた。
さすがに酔っ払いもマズイと思ったのだろう、「分かった分かった、この馬車の馬は俊馬で、乗り心地も最高」と、これ見よがしのお世辞を口にする。ところが馬を悪く言われたことが腹に据えかねるのか、ボナは酔っ払いを見据えたまま動かない。
逃げ場を失ったような重苦しい空気が、逃げ場を求めて幌の中を駆け巡る。
幌の中の緊張を感じ取ったのだろうか、駄馬たちが大きくいななく。首の付け根にぶら下げた鉄の鈴を、首を揺すってガランガランと鳴らす。
間の抜けた音で気が緩んだらしく、ボナが吊り上げた眉を下げた。そして酔っ払いの手にした酒瓶を指さした。謝る気があるなら、その酒を飲ませろ、酒で手打ちをしてやるというのだ。裏街道の乗り合い馬車は、三日に一便。家のない街道の途中で下ろされたら、それこそ時と場合によっては、今回の子供たちのようになりかねない。
渋々酔っ払いは、酒の入った小瓶を差し出した。
前列の丸眼鏡がそれを中継、ボナは当然とばかりにそれを受け取ると、栓を抜いて無造作に一口呷った。さらにもう一口。
ボナの口から酒が溢れ、ブーツの上に雫となって滴り落ちる。
「あーっ、俺の酒が……‥」
酔っ払いの悲鳴を嘲笑うように、ボナがプハーッと長い息を吐いた。そして一息に飲み乾して空になった酒瓶を酔っ払いに投げて返すと、乗客全員に聞こえるように言った。
「座席を一個詰めろや、新しい客だ」
ボナが体を横にずらすと、脇を抜けるように、荷を背負った男が幌の内側に身を滑り込ませてきた。逆三角形の顔と、ギョロリとした灰色の眼が目立つ中背の男だ。
新しい客を通すために腰を浮かせた最前列の丸眼鏡が、後ろを振り向きニヤッと笑った。
呼応するようにショールの婦人も笑いを堪えた視線を酔っ払いの水夫に向ける。
酔っ払いが、荷物を下ろすギョロ目の男を、あっけに取られたように見ていた。御者のボナは、何も酔っ払いに文句を言うために馬車を止めたのではない。新しい客が道端で手を上げたから止まっただけのことだった。
空き瓶を握りしめ、酔っ払いが喚いた。
「汚ねえぞ御者、客がいて馬車を止めたんだったら、最初からそう言え」
返事の代わりに、駄馬たちを促すボナののんびりとした掛け声が返ってきた。
馬車の長椅子は、椅子の背もたれが一部蝶番で動くようにできている。
ギョロ目の男は、背もたれを倒した座板を跨ぎながら、労夫とオバルの間に腰を落とした。コートの肩に、背負い子の肩紐の跡が縦に二筋、くっきり残されている
憎々しげな酔っ払いの視線を外すように、ギョロ目が隣のオバルに話しかけた。
「馬車を止めて拙かったか」
肩を竦めつつオバルは、隣に座った新しい客を見返した。目玉がでかい。ただ今に限っては、その特別サイズの目玉のことよりも、ギョロ目の男が御者台の後ろに積み上げた、四角い箱に注目していた。背負い子と一体になった二抱えほどの箱で、めくれた雨避けのカバーの下に、小さな引き出しが並んでいる。
「あれは薬箱だろう、おまえさんは薬の行商人かい」
「ああそうだ、百丹千丸調剤ござれの万剤商だ」
オバルの問いかけに、ギョロ目が慣れた調子で愛想笑いを浮かべる。
ギョロ目の薬売りは、座席の下にはみ出した寝袋に靴の踵が触れると、椅子の背もたれ越しに荷台の後ろに目を向けた。小ぶりの寝袋が二本。
「病人さん、かな」
薬売りが素早く寝袋の中の顔を見て取った。
「二人とも子供か、娘の方が悪そうだな」
「熱が下がらない、肺炎らしいんだが、薬はあるか」
身を乗り出し、薬売りが春香の額に手を伸ばすのを見て、気を利かせるように、オバルが後ろの垂れ幕をたくし上げた。
差し込む光で照らされた娘の顔を見て、薬売りが薬箱に視線を流した。
「回すかい」と丸眼鏡が首をしゃくる。やってくれとばかりに、薬売りが顎を引いた。
回された薬箱から、薬売りは聴診器と棒灯を取り出すと、「お嬢さん、ちょいと胸をはだけさせてもらうよ」と声をかけ、春香の衣服を下着ごと軽く引き上げた。
「ゆっくり息を吸って、吐いて……」
言われたままに春香が胸を上下させる。
聴診器の当てる位置をずらしながら、左右の胸、気管、腹部の音を確かめる。終えると薬売りは、今度は春香に口を開けさせ、喉の奥に棒灯の光を当てた。
幌の中の客全員が、薬売りの所作に注目していた。ショールの婦人などは、亀のように首を伸ばして、薬売りの手元を覗き込んでいる。
時代と場所を選ばず、病への対処は人々にとっての共通の関心事で、それは些細な病が死に直結してしまう地方で特に強い。
この時代、一歩町なかを離れると、栄養剤を中心とした丸薬を売る丹薬商か、患者に合わせてその場で薬を調合してくれる万剤商などが、ほとんど唯一の医療関係者となる。
丹薬商や万剤商など旅の薬売りは、病の情報と治療方法を伝える医療の出先機関の役割も果たし、そのこともあって旅の薬売りは、施療師に準じる医療関係者として、訪問する先々で暖かく迎え入れられる。その薬売りたちの代名詞が、薬売りたちが担いで歩く引き出しのたくさんついた薬箱だ。
いま薬売りの慣れた手つきを前にして、馬車の中に仄かな安堵感が広がった。それを敏感に察知したのか、薬売りは顔を上げると、謙遜するように口を開いた。
「この稼業をやっていると、病人を診る機会も多い。それに耳聞学で、なんとなく医者の真似事もするようになる。ただ素人の見立てだから、あまり信用しないでほしい」
そう前置きすると、「肺の陰虚熱、急性の肺炎と軽い気管支炎だな。肺泡に悪い泡鬼が入り込んでなければいいが」と言って、聴診器を耳から外した。
「泡鬼?」と、問い直すせむしの労夫に、薬売りが小声で説明する。泡鬼、つまり肺炎が悪性の細菌の感染によるものでなければと言っているのだ。
座席に座り直した薬売りは、しばし目を閉じて呼吸を整えると、薬箱のカバーを払った。使い込まれた箱の側面に、小さな引き出しが所狭しと並んでいる。先に聴診器を取り出した幅広の引き出しには、筒形の薬舷や計量の道具なども収納されている。
右上の小引き出しから小さな瓶を三本、ラベルを確認しながら取り出すと、中の薬品を耳掻きのような匙ですくって、小さなカプセルに落としこむ。幌の乗客全員が見つめるなか、薬売りは適宜説明を加えながら手を動かす。そして出来あがった赤ん坊の指先ほどのカプセルを指で摘んで、その出来具合を確かめた。
「本来はちゃんと計ってやるもんだが、今は急ぎだから、目分量で我慢してもらおう。ちゃんと計ってやっていた日には、馬車がいつまでたっても発車できないからな」
話が聞こえたのか、御者台から「いいぜ、気にせずにやってくれ、こっちは一服つけてる」と、ボナの間延びした声。「悪いな、大将」と返すと、薬売りは出来上がったカプセルを更に一まわり大きなカプセルに押し込んだ。
「大きい方のカプセルは、人間の胃腑を素通りして腸腑に入ってから溶ける。強い薬で胃を痛めないようにするための処置だ。それと散熱剤……」
今度は出来合いの薬包紙に包んだ薬を、最上段の引き出しから取り出す。
「こちらは粉末だ、誰か飲ませてやってくれるかな」
「わたし自分で飲めるわ」
椅子の下で、春香が寝袋から腕を引き抜いていた。
「はい、水だよ」と、ショールの婦人が真鍮製のコップに、水筒の水を注ぐ。オバル経由でそのコップを受け取ると、春香は薬を口に含んで飲み下した。
その様子をウィルタが羨ましそうに見ていると、いかにも薬の調剤に向いていそうな薬売りのしなやかな指が、ウィルタの額に当てられた。熱をみている。
と指がそのまま、まぶたに移動、目の腫れが気になったらしい。
慌ててウィルタが、「熱あるでしょ、ぼくにも薬くれる」と、薬売りの手を避けるように体を起こした。薬売りが大きな目を糸のように細めた。
「そっちは薬を飲まなくても大丈夫そうだな。薬なんてものは、飲まないに越したことはない。普段から薬に頼っていると、いざという時に薬が効かなくなる。おまえさんには、これをやろう」
薬売りは側面の引き出しから豆粒大の丸薬を取り出すと、ウィルタの手の平にそれを乗せた。黄色いマーブル模様の丸薬である。
「口に含んでゆっくり嘗めること、噛んじゃだめだぞ」
ウィルタが渡された丸薬を口に含み、舌の上でそろりと転がす。すると甘酸っぱい味がフワリと口の中に広がった。
「これ薬じゃなくて飴だね」
ウィルタが嬉しそうに、頬の上から丸薬を手で押さえた。
「その飴を楽しむコツは、とにかくゆっくり嘗めること、いいな」
薬売りが念を押すように注文をつけた。元来が飴というものは、長く楽しむために、口の中で含むようにして嘗めるものだ。ウィルタはなぜ薬売りがそんなことをわざわざ言うのだろうと思ったが、ゆっくりと豆粒大の飴を舌の上で転ばせていると、しばらくして飴の味がガラリと変わった。
「おじさん、飴がスープの味になった」
ウィルタの驚きに、乗客全員の視線がウィルタの口元に集まる。
次々と変わっていく飴の味が、ウィルタの口から実況放送のように報告される。焼いた肉の味から、餅の味、甘い砂糖菓子の味、そして最後は苔茶の味だ。
「この飴って……」
目を点にしているウィルタに、薬売りが種を明かした。
つまり、様々な食材の味が、飴の外側から内側に向かって、薄い膜として塗り込めてあるのだ。いまウィルタが口にしている飴が、フルコース味の飴。この飴は、良薬で知られるユルツ国で開発されたばかりの病人向けの栄養剤だった。
御多分にもれず、丸薬や丹薬の世界も競争が激しい。売り上げを伸ばすために一工夫してみた結果、食事の味を模した飴が生まれたというのだ。
ショールの婦人が、感服したように高い声をさらに高めた。
「へえーっ、ユルツの丹薬かい。あたしら貧乏人にゃ、縁のない薬だよ」
丸眼鏡の商人も「旅の薬売りがユルツの丹薬を商ってるなんざ、初めて見たぜ」と、感心しきりに何度も頷く。
「これは特別。私だって扱っているのは、ほとんどがアルン・ミラの廉価薬ですよ」
照れたように薬売りが、引き出しの中から、もう一粒同じ丹薬を取り出す。そして、その黄色い丹薬をウィルタに渡しながら、
「今の君には、体力を回復させることの方が重要だろう。もう一粒あれば、それで普通の食事一食分の栄養を取ったことになる」
乗客全員が、ウィルタの手にした丹薬に熱いまなざしを注ぎ、その視線をそのまま薬売りに振り向ける。よだれの出てきそうな視線に、薬売りが困ったように頭を掻いた。
「そんな目で見つめられてもねえ、実は、この丹薬は開発途上のようで、今回仕入れたのは、ごく少量、試作品だけなんですよ。あと残っているのは、おかゆ味とか、焼肉風の味つけの物とか、単品料理の丸薬だけなんですがね」
「それでもいい、ぜひ味見がしたい」
丸眼鏡とショールの婦人が競うように名乗りを上げる。
そこに二人を押し退け「酒味のものはないか」と、酔っ払いが破れ声を張り上げた。
幌の中に、どっと笑いが起きる。
薬売りの配った栄養剤のおかげで、馬車の遅れでギスギスしていた幌の中の雰囲気が、子供の遠足のような賑やかさに変わった。
煙苔を一服していたボナが、御者台に上がって幌を覗くと、ちょうど皆が「ごちそうさま」と、感謝の声を薬売りに贈ったところだった。
次話「青苔平原」




