遠雷
遠雷
町の東側は急な斜面の縁に、高石垣が城壁のように聳え立っている。
そこに開いた門が、タールで黒く塗り込められた天廻門。町の通用門といってよいこの天廻門は、枠桁が大人の背丈ほどと低い。
その小さな門の手前で歩を緩めたウィルタが、クスリと含み笑いをもらした。例の長身の黒炭肌の男が門の桁に頭をぶつける様子を思い浮かべたのだ。
その笑いが、足元のグニャリとした感触で引きつる。靴先が手の平の倍はありそうな毛長牛の糞にめりこんでいた。柔らかい湯気の立ちそうな糞だ。
ユカギルの住人にとって石炭は貴重な商品で、多くの家は燃料に家畜の糞を使っている。そのため町なかではめったに糞を目にしない。だから油断していた。
鼻息も荒く靴底についた糞を石でこそげ落とすと、ウィルタは気分を一新するように天廻門を潜り抜け、百段を超える外の長い階段を駆け下りた。
町から板碑谷のミトに戻るには、炭鉱のある町の北側斜面を上って尾根筋の牧人道を行くルートと、盆地の底の湿地帯を抜けて板碑谷の扇状地を下から上る、二つのルートがある。ウィルタは町の東側、小川が迷路のように流れる湿地帯に入った。
この湿地には、鋭く尖った葉をもつ草が、背を寄せ合うように生えている。星草と呼ばれるその草は、夏の終わりに小さな穂を出し、ほこりのような種を実らせる。種は食べられるが、葉と穂先が毒の刺をはらんでいるため、毛長牛は絶対にこの草を口にしない。いやそれ以前に刺を嫌って近寄ろうともしない。つまりそれは、星草の周辺では家畜の糞を踏む怖れがないということだ。
曲がりくねった小川の縁を、ウィルタは飛び石を拾うように走る。
所々で土手が切れて、道が星草の湿地に呑み込まれている。しばらく行くと、湿地が岩の転がるガレ場に転じ、川の流れもあるかないかの細い流れに変わる。この水涸れの小川を辿って、ウィルタは盆地の東に並ぶ扇状地の一つに入った。
扇状地の丘が間隔を狭めて谷となる頃には、涸れた小川にも水量が戻って、やがて足元を清流が流れ出す。小川を挟んで広がる斜面に、扁平な岩が転がっている。板碑谷の名の由来となった、平たい石碑のような石だ。
谷を中ほどまで進むと、館岩と呼ばれる一際大きな板碑石が斜面の左側に現れる。その岩の後ろに、地面に土を盛ったような土饅頭の並びが見えてきた。
ミトに戻ったウィルタに、待ち構えていたようにナムが耳打ち。丞師を迎えに行ったインゴットとシーラさんの帰りが、半日ほど遅れて、明日の昼前になるという。
朗報だった。
ウィルタは、カウントゼロの時間に合わせて小屋を抜け出す口実を、考えあぐねていた。それがシーラさんがいないなら問題ない。これで誰に気がねすることなく、明日の朝まで洞穴にいることができる。
女たちの姦しい話し声が聞こえてきた。曠野に出ていた女たちが、対岸の斜面を下りてくる。背中にはリウの束。口元を赤紫色に染めているのは、苔の間に生える紅珊瑚の実を食べたからだ。紅珊瑚の熟し始める夏の終わりは、突発的な嵐に見舞われることがある。午後を回ったばかりのこの時刻に女たちが戻ってきたということは、天気の急変を予想してのことだろう。
そういえば、高原の南から風に遠雷の音が乗ってくる。
雨が降りそうな時は、干してある苔やリウの粗朶を、小屋に取り込まなければならない。
空模様を気にしつつ、ウィルタはシーラから言い渡されていた縄作りに取りかかった。
そして夕刻。間断なく遠雷は空を賑わせている。
その遠雷に混じって、町の方向から激しく鐘を叩く音が聞こえてきた。しかし、ウィルタはそれを、いつもの炭鉱の出水事故と考えて気に留めなかった。すでにこの時、ウィルタの頭の中は、棺のこと、少女の蘇生のことで一杯になっていた。
夕餉の器をモルバに返すと、ウィルタは七の刻きっかりに小屋を抜け出した。空を覆う雲のために、どっぷりとした闇が視界を閉ざしている。
気もそぞろにウィルタは谷向こうの斜面に足を速めた。
洞穴に入ると行軍の銅鑼のような遠雷の音がプツリと消える。その嘘のような静けさのなか、掲げたカンテラの灯に、洞穴の奥、ホールの中央に置かれた棺が浮かび上がった。
すでに棺の表面に霜はなく、素手で触れても冷たくない。
透明な蓋の下では、少女の胸がゆっくりと上下している。ウィルタは軽く安堵の息をつくと、棺の側面に目を移した。カウントダウンの数字は、すでに残り半刻。じきタタンも来るだろう。数字がゼロの並びに変わるその時……。
時刻は、日没よりも少し前にさかのぼる。
この日の午後、町は、特捜官が捜査している密造酒の話題でもちきりだった。ユルツ国の特捜官が、わざわざ国境のユカギルの町に足を運んだのは、密造酒の調査が目的だった。酒類を扱う人物への聞き取りと酒保の検分を済ませると、特捜官は午後も遅く隣の町へと移動していった。
囲郷ユカギルの所属するユルツ連邦では、酒の製造と販売は連邦府の許可を必要とする。ところが高額な税を嫌って、法の網を掻いくぐろうとする輩が後を絶たない。違法な密造酒のほとんどは廉価の三等酒だが、中には人を虜にして離さない、麻薬同然の人呑酒と呼ばれる希少な酒もある。隣町から流れてきた噂によると、どうも今回の捜査は、この人呑酒がターゲットだったらしい。
そんなこともあって、町の酒飲みたちは、もしこの町に人呑酒が持ち込まれているなら、ぜひ一口味わってみたいと、口々に喉を鳴らしていた。また酒飲みとは逆の立場で、飲酒根絶を訴える町の経堂は、もしそのような違法な酒を扱う者がいたら、経堂としては断固その人物を弾劾すると息巻いていた。
ただ今回の密造酒の捜査には裏がある。
特捜官が調べていたのは、実は酒ではなく、酒の容器に似た『あるもの』だった。
一週間ほど前のこと、ユルツ連邦の邦主国ユルツで盗難事件が発生。都の技術復興院で、国の機密に相当する古代の遺物が秘密裏に持ち出された。その遺物とは、古代の特殊な電池で、何が特別かといえば、蓄電の容量と出力が桁外れに大きい。二京単位の容量を持つ電池で、この時代の感覚でいえば、ほとんど無尽蔵に電力を溜めることのできる化け物である。泡壺と名付けられたその電池は、二千年前の災厄直前に開発されたものらしく、もしそれが普及していれば、人類の歴史を塗り替えたかもしれない電力の貯蔵装置だった。原理は不明だが、化学反応を利用する従来型の電池と異なるのは明らかで、現存する泡壺は三つ、うち二つをユルツ国は所蔵している。
その二つともが盗まれた。
泡壺は、壺型をしているということしか公表されていない。実はこの泡壺が、壺は壺でも、牛角型の注ぎ口を持つ酒壺とそっくりの形をしているのだ。
つまり特捜官が追っていたのは、密造酒ではなく、酒壺そっくりの泡壺の方だった。
特捜隊の本部は、犯人が泡壺を他国の研究機関に売り払うと予想、連邦外に泡壺を持ち出そうとする犯人を捕らえるために、街道筋や港などに要員を派遣した。
そして二日前、セヌフォ高原南部の町で、手配中の男が博労姿の遺体で発見された。
男の残したメモから、今回の盗難事件が個人の犯罪ではなく、大掛かりな組織の関与したものであること。二個あった泡壺は、それぞれ別の搬送ルートに乗せられ、そのうちの一個が、東に向かう商人に預けられたことが判明した。
泡壺を託された商人は、泡壺を最高級の人呑酒の入った酒壺と思い込んでいる。事は急を要する。商人に託された一個は、実験用に数パーセントではあるが、充電された状態にある。充電容量が京単位の電池。もし壺の中の電力が何かの手違いで開放されると、不測の事態が引き起こされる怖れがあった。
すぐに東部邦境沿いの街道筋に要員が張り付く。その一人が、ユカギルを訪問した特捜官だった。金釘帽の特捜官は、町の役所でマークすべき人物をリストアップ、いの一番にガフィに目星を付けた。そして仕入れから帰ってきたばかりのガフィを納品先の百尺屋の前で足止め、荷台の酒壺を検分した。しかしそこに目的の泡壺はなかった。
念のために特捜官は、ガフィの出入りしている酔騏楼の酒保も調べ、他の酒類販売者にも聞き込みを行ったのだが……。
実はガフィは、特捜官に馬車を止められる直前に、例の預かった酒壺をヨシの葉の束を突っ込んだ甕の中に沈めていた。特捜官の目から隠そうとしたのではない、百尺屋の前にたむろしている飲み仲間の目から隠したのだ。最高級の人呑酒となれば、みな絶対に利き酒をさせろと詰め寄ってくる。酒好きのガフィとしては、できれば預かった酒は、酒を自分に託した人物と二人だけで飲みたかった。もちろん、あわよくば一人でだ。
結果として、泡壺は特捜官の目をすり抜けることになった。
そして誰もが酒壺型の電池のことなど露知らず、違法な酒の話をネタに仕事上がりの苔茶を啜っているとき、町全体を揺るがす落盤事故が発生した。ウィルタが夕刻耳にした打ち鳴らす鐘の音がそれである。
人命の失われるような悲惨な事故は、この数年起きていない。それが一度に坑夫が九名も生き埋めになった。地上部に近い坑道の五名は直ぐに助け出されたが、炭坑の深部にいた四名が取り残された。
夕刻以降、ユカギルの町は、その救出作業で騒然とした状態に陥っていた。
慌しく人が走り回るなか、軽便鉄道の貨車に町の助役が駆け寄り、最前列の車両から降りてきた大柄な女性に、腰を折って挨拶する。カバンを持ったその女性は、週に一度、往診でユカギルを訪れる、医薬師のレイである。たまたま東の邦境沿いの町に出向き、在住のベリアフに戻るところを、落盤事故があったユカギルで呼び止められたのだ。
町に向かう馬車の中で、助役の男が、レイに事故のあらましを説明。
事故は、分坑から枝分かれした先導坑で発生。深度二千三百メートルの採炭現場手前の断層部分で落盤が発生。閉じ込められた作業員は四人。現時点で、電気通信系統は断絶。通気坑、試掘坑ともに陥没。唯一、先導坑に繋がる排気坑には、分坑途中で噴き出した水が大量に流れ込んでいる。ガスの露出はないが、出水量が多くて救出作業は難航、先導坑全体が水没するまで、あと数時間ということだった。
馬車は、町の広場西側の、のっぺりとした箱のような建物の前で停止した。熱井戸と呼ばれるこの建物は、一千年以上前に建てられた地熱の利用施設で、建物の上に円筒型の排熱塔が突き出ている。ただ頑丈そうな鉄骨擬石製の建物も、見る側によっては壁が崩れ、中の骨組みが剥き出しになっている。
助役は、熱井戸の入口で炭鉱の事務員にレイを引き渡した。
事務の男は、地上勤務の者らしく小ざっぱりとしたなりだが、ヘルメットだけは、廃品にしても良さそうな穴あきの年代物、それも特大サイズのものを着用している。その鍋を斜に被ったような穴あきヘルメット姿の事務員が、レイに部外者用の黄色いベストを手渡すと、階段先の蛇腹の扉に案内した。
地下九百メートルにある詰め所に直行する降下専用の昇降機である。ただし使えるのは半日に一度。この昇降機は、風車を使って半日かけて引き上げ、降りる時は自重を利用して降下する。一度降りると、しばらく使えないので、もっぱら非常時の緊急用として利用されている。案内の男が、操作盤のレバーに手をかけ、レイに聞く。
「先生はこれに乗るの、初めてですよね。こいつはちょうど整備したてで、石が落ちるように降りるんでさ。急速降下が苦手でしたら、減速モードでいきますが」
鉄の箱の中に、割れるような笑い声が反響する。
「私の子供の頃の夢はね、流れ星に乗って空から落ちてくることだったの。もちろんトップスピードで大丈夫よ」
返答を聞くや、事務の男がレバーを引き下げた。二人を乗せた小さな箱は、沈み込むような感覚と共に、一気に暗黒の世界へと落ちていった。
炭坑は、中央坑として斜坑がつづら折りに地中に伸び、そこから分岐を繰り返して、地下に蜘蛛の巣のような坑道を広げている。
現在、掘削の現場が大深度に達しているため、地下九百メートルの地中の空洞、熱水の貯留層として使われていた地下の間隙を利用して、詰め所と呼ばれる管理休養と資材の集積所を兼ねた中継基地が設けられている。
昇降機が詰め所に向けて降下を続ける。ワイヤの擦れる耳を裂くような音が、頭の奥を締めつける。その癇に障る音に耐えるように、レイはこめかみを押さえた。
井戸の継目を通過するたびに感じる反動と、しだいに濃くなっていく大気が、穴の奥底に落ちていく自分を感じさせる。直接目に見えなくとも、物の存在を感じることはできる。ぶ厚い岩盤を昇降機の外に感じる感覚が、暗闇の中の閉塞感を増幅させる。さらにその閉塞感が、ただの平地の穴蔵と異なるのは、大気の濃さだ。山に登れば空気が薄くなるのと同様、地下に潜れば空気は濃くなる。レイは、ねっとりと体にまとわりつくようになった大気に、坑道の深さを感じていた。
昇降機が減速する。
「まだまだ、これで四分の一、ワイヤが何段階かに接続されているんです」
男の言葉が終わるのを待たず、ガクンと大きく昇降機が揺れ、接続機の切り変わる音がしたかと思うと、昇降機はまた降下を始めた。それを繰り返す。
最後、昇降機が悲鳴のような音をたてて停止した。
「深度九百、詰め所です」
長く感じたが、時計を見ると、ほんの七分ほどのことだ。
昇降機の扉を押し開けると、湿気をはらんだ重い空気と、粉塵と、機械油の臭い、そして暗がりの中を人が慌ただしく動きまわる騒然とした気配が、箱の中に流れ込んできた。
「地獄の入り口ね」
そう呟くと、レイは重い空気に体を慣らすように息を吸い込んだ。
昇降機を出てすぐの右手に、見上げるような櫓が聳えている。熱水の貯留槽に使った地中の間隙が縦に長いことを利用して、ボーリング用の櫓が設置されているのだ。脇に、炭坑に届いたばかりの泥水ポンプが、台車に乗せた状態で置かれている。
闇に聳える櫓を一瞥すると、レイは足元を走る炭車の軌道に沿って歩きだした。
軌道が交錯する先に、まとまった明かりが見える。詰め所だ。天井の岩盤を支えるための柱が無数に並び、合間々々には資材が所狭しと積み上げられている。
レイは足元の配管や天井から垂れ下った配線を避けながら、詰め所の隅に張られた水滴除けの天幕の下に潜りこんだ。
駆け寄ってきた中背の男が、レイの鞄を奪うように受け取る。衛生士のディプネン、レイを除けばユカギルの町、唯一の医療関係者である。
重苦しい空気が天幕の下を支配していた。かなり悲惨な状況でも医師は笑顔で迎えられる。医師を呼ぶことが、被災者の生存への希望だからだ。医師は坑内で働く男たちにとって護符のようなもの。ところがレイを迎える男たちに笑顔はなく、男たちは硬い表情で壁に設置された配坑盤を見上げていた。水没を示す黄色いランプが次々と点灯する。
「排水はやってないの?」
レイが、配坑盤を見上げる作業主任のネルチェルピに話しかけた。
ネルチェルピは首を振ると、まいったとばかりに額に手を当てた。
「水の量が半端じゃないんだ。とても排水できる量じゃない。このままいくと、詰め所にまで水が噴き出しかねない。もしそうなったら分坑自体を塞ぐ必要が出てくる」
レイが呆れたように主任の顔を覗き込んだ。
「まさか、坑道には人が残ってるんでしょ、それじゃ生き埋めじゃない」
ネルチェルピはレイから視線を逸らすと、苦渋の表情でテントの天井を見上げた。
とたんレイが、その大柄な体でネルチェルピの前に立ちはだかった。
「主任、あなた、なぜ私を呼んだの。私は死体を見るためにここに来たんじゃない。人を生き埋めにするんだったら、坊主を呼びなさい、帰るわ、私」
机の上に置いた鞄をひったくると、レイは昇降機に向かって歩きだした。
慌ててネルチェルピがレイの腕を掴んだ。
「待ってくれ、先生に帰られちゃ困る。もし、生き埋めになった連中が助かったら……」
「じゃあ、さっさと助かる方法を考えなさい。もう待ったなしなんでしょ」
そう振り向きざまに放ったレイの声が、どよめきにかき消される。
配坑盤の点滅するランプを見ていた男たちが、口々に叫び声をあげている。
「発破の信号だ、先導坑の奥で爆発が起きているぞ」
「爆発、まさか」
「あの位置は、もう水没している場所だ!」
そう男たちが叫んだ直後、最初の衝撃が地の奥深くから伝わってきた。地鳴りのような不気味な振動が詰め所を駆け抜け、天井を支える柱をギシギシと軋ませる。ぶら下がった配線が揺れ、柱の合間に岩の破片が雨だれのように落ちてくる。
一瞬の静寂の後、ドーンという耳を軋ませるような音が詰め所をなぶった。直後、詰め所の端に口を開ける分坑の排気坑から、怒涛の勢いで水が噴き出してきた。洪水のような水が、描きなぐった絵筆のように詰め所を洗う。ただその勢いもほんの数秒、あっという間に水は周囲の穴に吸い込まれていった。
問題は水よりも照明だった。配線がバチバチと派手な音をたて、一斉に照明が消える。
明かりがないと人は身動きが取れない。
慌てて男たちが資材の山を掻き分け、非常時用の坑内灯を点灯させていく。
一つ二つと明かりが回復していくなか、分坑口近くにいた坑夫が声をあげた。
見ると、乱雑に撒き散らかされた資材の中に、ゴミに絡め取られたように、ポツンと平たい楕円形の固まりが乗っている。炭車に乗せる機材搬送用のケースだ。そのタンク型の防水ケースの内側で、金属を叩くような音が鳴っている。
突然、主任のネルチェルピが吠えた。
「凄いぞ、なんてことだ!」
暗がりの中でも興奮した顔が分かる。ネルチェルピが腕を振り回しながら叫んだ。
「おい、誰か防水ケースの口をこじ開けろ。残りの者は、すぐに分坑の入り口を塞げ、出水を止めるんだ。早く作業にかかれ」
その一声で、周りで見ていた男たちも事態が飲み込めたらしく、数人が雄たけびを上げて防水ケースに突進。蓋をこじ開けるべく、ケースに取り付く。
歓声を上げる男たちを、レイは事の成り行きがつかめず、ぼんやりと眺めていた。
そんなレイに気づいたのか、近くにいた坑夫の一人が、うわずった声で「先生、こういうことでさ」と、話しかけてきた。
「ここの炭鉱は出水が日常茶飯、掘削用の機材は、あのタンク型のケースに収納するんでさ。そのケースを、坑道に閉じ込められた連中が排気坑に置く。もちろん中の物を取り出し、代わりに自分たちがケースに入ってだ。それでもって、分坑も、排気抗も、先導坑も、何もかも水に浸るのを待って、坑道の一番奥で、発破を爆発させる。分坑内は落盤で埋まっているから、爆発の勢いで押し出される水の出口は、排気坑だけだ。あいつら爆発の勢いを利用して、五百メートルも落差のある排気坑を一気に駆け昇ったんで」
炭塵で真っ黒になった顔をくしゃくしゃにしながら、「信じられねぇ」と、何度も同じ文句を口にすると、その坑夫は歓声の輪の中に割り込んでいった。
「つまり、地の底で水鉄砲をやったってことね」
男の説明に頷いたレイがと、感心したようにかぶりを振った。
男たちが、競うように防水ケースの隙間に棒を突き立てる。
坑道を駆け上がった衝撃で、ケースの鋼板はボコボコに撓み窪んでいる。鉄の棒を歪んだ蓋の隙間に突っ込み、力任せにテコの要領でこじ開ける。
金属の板が撓むように持ち上がると、中からザッと水が流れ出た。爆発の際の圧力で、タンクの中に水が入り込んだらしい。その水とともに、ケースの中から、ずぶ濡れの男が咽返りながら顔を突き出した。奥にも人の姿がある。体を折り曲げ、互いに隙間を埋めるように潜り込んでいる。
一人目の坑夫が引き出された。詰め所に歓喜の声が上がる。
弾ける歓声を耳に、レイは「さあて、お守り役に出番はあるのかしら」と小声で呟くと、岩の割れ目から噴き出す水で手を洗い、パンパンと頬をはたいた。
二人目、そして三人目は帆柱のように長躯の男だ。同僚の男を抱きかかえて防水ケースから立ち上る。その瞬間、男たちの歓声が尻すぼみに止んだ。抱えられた男のヘルメットがひしゃげ、四肢がだらりと垂れ下がっている。
長身の男が、ささげ持つようにして同僚を脇の板の上に横たえた。
「落盤を頭に受けた。ケースに入った辺りまでは、頭が痛いと喚いていたんだが」
身を寄せたレイが、男のまぶたを引き上げ、棒灯の明かりを目に当てる。右目の瞳孔が開いている。
「先に気道を確保、通気管を挿入し、頸部を固定……」
血圧計を手にしたディプネンに、素早くレイが指示を出す。
落盤の発生したのが二時間半ほど前。先ほどまで喋っていた者が昏睡状態に陥っているということは、脳内で出血、血腫が拡大して脳の本体を圧迫している可能性が高い。
振り返ったレイが、後ろにいるネルチェルピを顎でしゃくって呼び寄せた。
「主任、電熱布を、体温保持だ。患者は一刻を争う。直ちに地上に搬送する」
「先生、主坑の巻き上げ機が故障で動かない。いま馬を用意している。二十分ほどかかるが、それが一番早い」
待つ間もなく炭坑馬が四頭、詰め所に到着。馬たちが炭車の荷台に繋がれ、昏睡状態の坑夫とレイ、衛生士の三人を乗せて動き出した。非常灯以外は闇。数人の坑夫が軌道の前後を坑内灯で照らしながら付き従う。
衛生士のディプネンが、救命用の呼吸器を一定の調子で動かしながら、「助かるでしょうか」とレイに尋ねた。声がいかにも不安げだ。
「出血が脳の深部に及んでいなければいいが……」
耳の穴からにじみ出る血に目を留め、レイが嘆息した。
都でも頭蓋内損傷の患者の救命は難しい。肺病の定期検診用に、携帯用のエックス線撮影の機材をユカギルに運び込んでおいたのは不幸中の幸いだ。が、それでも男の状態からして、救命の確率は馬を後ろ向きに走らせるほどもないだろう。
悲観的になる気持ちを振り払うように、脈を取ろうと坑夫の首筋に指を当てたレイに、坑夫の識別札が目に留まった。親指ほどの金属片に、名前とともに、8760という坑員番号が刻印されている。
それを見て、レイは軽い笑みを口元に浮かべた。昔、自分が都で医薬師の資格を取得した時の許可番号と同じ数字だということに気づいたのだ。8760、覚えやすい番号であると同時に、それが一年三百六十五日の総時間数と同じなのが気に入っていた。自分の医薬師番号と同じ坑員番号を持つ男。その不思議な一致に、レイは、もしかしたらこの男が助かるかもしれないという微かな希望を感じた。
淡い期待にすがりつつ脈を取るレイの脳裏に、先程この男を抱きかかえていた長身の男の姿が蘇ってきた。炭坑の坑道のように漆黒の肌の男……。
何かに思いを馳せるようにレイは坑道の闇を見透かした。
すでに時刻は夜の九時を回っている。ウィルタは洞窟の中で困惑していた。
タタンが来ないのだ。
実は炭坑で事故が起きた際、救出作業の補助要員として、町の十歳以上の男子は、全て炭鉱事務所に詰めることが義務づけられている。十五歳のタタンは当然その中に入っている。タタンとしては、ウィルタが苛々しながら待っているだろうことは十分承知していた。しかし人命のかかった緊急時、こればかりはどうしようもない。
そして、カウントダウンの数字がゼロに。
息を詰めてその瞬間を見守っていたウィルタだが、予想に反して、棺の少女に変化は見られない。目を閉じて静かに横たわったままだ。もしかしたら棺の蓋が開くかもしれないと、蓋の縁に力を込めるが、下の台に吸い付いたように蓋はピクリとも動かない。
タタンは古代の科学技術に関心がある一方、占いのマニアでもある。そのタタンが、牛骨賽の目数でも、煙水紋占いでも同じ結果が出たと、少女の蘇生に太鼓判を押した。カウントダウンの終了時から一時間以内に、棺の中の人間が目を覚ますというのだ。
どこまで信じていいか分からないが、とにかく今しばらくは様子を見ることに。
と半刻を過ぎた頃から、少女がみけんにしわを寄せるようになった。同時に操作盤のキーの一つが赤く点滅、そのスピードが増してくる。
苦悶の表情が顔に浮かび、肌には汗も……。悪い夢でも見ているのか。
何かが上手くいっていない、そうとしか思えない。
どうすればいいのだろう。点滅するキーを押せということだろうか。
しかしキーを押して表情が酷くなったら、その時はどうすれはいいのか。
キーの点滅を睨み付けているうちに、こちらの胸の鼓動までが速くなってくる。握り締めた手が汗でぬるむ。相談したいのにタタンはやってこない。
大人たちの話が脳裏を掠める。冷凍睡眠の人間が蘇生する確率は低い。都の特別な機関で、専門家が付きっ切りで対応しても、解凍によって組織は崩れ、体全体がスポンジのようになってしまう。まれにその関門を突破、無事に蘇生したとしても、脳に障害が起きて記憶が失われているのが普通だ。だから……。
氷に埋もれた棺を見つけた時、ウィルタはそれを見なかったことにしようと思った。解凍されてドロドロに融けてしまうよりも、このまま眠り続ける方が、棺の中の彼女にとって幸せなのではと感じたのだ。でもそれを押してクレバスから引き上げたのは、中の少女を見てしまったからだ。自分と同じ黒々とした髪を見ているうちに、もし少女が、いつの日か誰かに見出され、解凍のスイッチが入れられるなら、それを自分がやってみたいと、衝動的にそう思った。
それに……と思う。孤児としてシクンの仮住村に置き去りにされたウィルタに、本当の意味での肉親はいない。むろん置き去りにされた時に二歳半だったウィルタを育ててくれたシーラさんは、育ての親であり母親と呼んでもおかしくない人だ。
でもシーラさんは、決して自分を母さんとは呼ばせなかった。
それはいつの日かウィルタがシクンのミトを出て、自分の生まれた世界に戻って行くのだと考えているような接し方だった。それがミトの大人たちの合意なのか、ほかの子供たちは禁じられているのに、ウィルタだけは町への出入りを許された。
ただ町に行ったからといって、自分の家族や仲間がそこにいる訳ではない。町に行けば行ったで、町の人たちは、ウィルタを穴蔵のような家に住んでいる、野蛮な曠野の子供としか見てくれない。町の人間でウィルタと普通に接してくれるのは、ズヴェルを買ってくれる百尺屋の主人と、タタンくらいだ。
いつも孤独だった。だから氷浸けになった少女を見つけた時、最初に思ったのは、この子が目覚めた時の孤独だ。肉親がいないだけではない。棺の中の少女にとって、ここは知っている人が誰もいない世界なのだ。
もし目覚めるなら、ぼくの手で。
ぼくならきっと、この子の孤独を分かってあげられるんじゃないか。
そう思った。だから、掘り出した。
少女が知っている世界は、たぶん今から何千年も前の世界だろう。言葉も変わっているかもしれない。食べる物も、着る物も、家の形だって何もかもだ。歌にしたって、自分の知っている歌を誰も知らないということが、有り得るのだ。
それって、どういうことだろう。
そうなることが分かっていても、この子を眠らせて未来に送るだけの理由が、あったということだろうか。だとしたら、この子を目覚めさせるということは、とても責任重大なことになる。目覚めさせてしまったことを、この子は許してくれるだろうか。でもそれも、この子がちゃんと目覚めてくれた場合のことで、炭鉱の男たちが言うように、ドロドロに融けてしまったら、どうしようもない。
ウィルタの頭のなかに、融けて崩れた少女の顔が浮かんでは消える。
キーの点滅は、もう息を切らせて走った後の心臓のような激しさだ。
込み上げてくる不安を煽るように、雷鳴が天井の穴から洞穴に入り込んでくる。
本当にどうすれば……。
このウィルタが不安に慄き、レイが負傷者と共に坑道を地上へ急いでいる頃、炭鉱を見下ろす風車小屋の中では、ガフィが一人酒を口に運んでいた。宿の常連たちが非番も含めて全員救助作業に駆り出され、酒の相手をしてくれる者がいなくなった。店で飲んでいた日には、パーヴァにどやされるだけなので、仕方なく尾根筋の風車小屋に上がってきたのだ。一人で飲む時は、いつもここと決めていた。
南方から聞こえていた遠雷が、近づいてきた感がある。
ただそんなことは関係なく、ガフィの濁った目は、預かった人呑酒に向けられていた。
角型の二本の注ぎ口を持つ酒壺である。風車小屋に置いてある酒は、すでに四本とも飲み乾し、残りは人呑酒だけ。一緒に利き酒をしようと誘ってくれた男の顔が脳裏に浮かんでは消える。しかしそれも酔いが回るにつれて、どんどん頭の片隅に追いやられ、気がついた時には、ガフィは牛角型の酒壺を抱え込んでいた。
ところが、いざ開けようとしても蓋が開かない。力任せに捻っても開かない。
普段のガフィなら、ここで諦めていたはず。元来が酒びたりで根気がない。腕が一本になってしまってからは特にそうだ。ところが辺りを揺さぶる雷鳴に気が昂ぶっていたこともあり、諦めずに壺の蓋をしつこく捻り続ける。その何かに憑かれたようなガフィの目を、雷光が激しく照らす。すでに遠雷が遠雷でなくなっていた。
そして叩きつけるような雷鳴に押され、今度こそはとガフィーが渾身の力を蓋に込めた時、天が地を打ち据えるような激しい音が風車小屋を直撃した。
腰を抜かさんばかりに小屋を飛び出したガフィの上に、黒焦げになった風車の羽が覆い被さる。避けようとして、とっさにガフィーは抱えていた酒壺を手から離した。
闇のなか、酒壺が斜面を転がり落ちていく。
「あーっ、俺の酒が……」
ガフィが酒臭い呻き声を上げた直後、猛烈な音と光が辺りを席巻した。
洞穴の天井に開いた小さな穴、そこから雷光のまばゆい光が忍び入り、洞穴中央に置いた棺の蓋を照らしては消える。ひっきりなしに明滅する雷光にも似て、棺の操作盤のキーが激しく点滅を繰り返している。
悲鳴のような赤い点滅を顔に受けながら、ウィルタは固く目を閉じていた。
数を数えていた。27、26、25……、
決断したのだ。百を数える間にタタンが来なければ、この点滅する赤いキーを押してみようと。自分はこの棺を掘り出した。何かが起きた時に責任を取るのは、自分だ。
8、7、6……、すでに指先はキーに触れている。2、1……、最後、自身の気持ちを鼓舞するように「ゼロ!」と大きな声を出すと、ウィルタは指先に力をこめた。
その瞬間、眼球を貫くような雷光と、体を打ち据える激しい音が洞穴の中に飛び込んできた。近い。外にいたら雷に撃たれていたかもしれない近さだ。
体が浮き上がるほどの音に、思わずウィルタは脇に置いたカンテラを倒した。
洞穴の中が暗闇に戻り、その闇を天井の穴から射し込む雷光の明滅が断続的に浮かび上がらせる。手探りでカンテラに火をつけ、棺を見やる。
棺の中が白い煙でもやっていた。何が……と身構えるウィルタの面前で、淡い乳霧のような煙が、棺の内側に並んだ穴に吸い込まれていく。
操作盤に目を戻すと、キーの点滅は消えていた。
目を皿のようにして見つめるウィルタの前で、もやは薄れ、少女の顔が見えてきた。
苦悶の表情は消えている。と少女のまぶたがピクリと動いた。
貝のような少女のまぶたが、ゆっくりと引き上げられていく。
ところが、鉛の重しでも上に乗せているのか、まぶたは半分ほど持ち上がったところで、それが限界とばかりに、また閉じてしまった。
ただ少女が目を開いたのは確か。それにウィルタはしっかりと見た。
少女の瞳は黒。黒い瞳だった。緊張が解けたように棺の横に座り込む。
気がつくと喉がカラカラに渇いていた。肩掛け袋から水筒を取り出し、軽く呷る。
さらにもう一口と、水筒の口を傾けた時、ホールの入り口に灯りが現れた。
「タタン、遅いじゃないか……」
そう言い掛けてウィルタが手足を強ばらせた。灯りが幾つも揺れ動いている。
「ウィルタ、そこで何をしている!」
インゴットさん。そしてミトの男たちの顔が明かりに並ぶ。
弾かれたように立ち上がって、ウィルタが棺を隠すように両腕を広げる。とその時、先ほどの落雷とは比べようもない凄まじい轟音が洞穴を包んだ。
耳をつんざくどころではない、千尋の音としか言いようのない激烈な音……。
頭に岩を打ち付けたような激しい音と、目を閉じていても体を貫くと思えるほどの烈光が、マトゥーム盆地全体を襲ったのだ。古代の高容量の電池に蓄えられていた電気のエネルギーが、壺が割れて解放。それは万の雷光にも匹敵するエネルギーだった。
開放は半刻に渡って続いた。
ユカギルの住人のほとんどは、家の奥に身を潜め、この変事が治まるのを息を殺して待った。ただごく少数ではあるが、向こう見ずにも、軒下や窓から外の様子を仰ぎ見ていた者もいる。その者たちにこの変事は、雷光に姿を借りた竜が、盆地の上空を暴れまわっていたように見えたという。そして雷光の放出が治まった時、町のかしこで火の手が上がっていた。被雷による出火である。
その夜は遅くまで消火作業が続けられた。
序・氷河・マトウーム盆地・板碑谷・ズヴェル採り・遠雷・第七話「手言葉」・・・・