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星草物語  作者: 東陣正則
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馬橇


     馬橇


 軽い軋み音を残して馬橇が停止、目出し帽を被った御者が、何事かと顔を上げた。

 足を止めた駄馬たちの向こうには、深い藍紫色に染まった夜の雪原が広がっている。数日来降り込めていた雪が止み、空を塞いでいた雲が途切れて、星空が覗き始めたところだ。

 雪原に目を凝らす御者に、幌の中から声がかかった。

「どうした、ボナのだんな、また雪で足止めか」

 丸眼鏡をかけた男が、御者台の後ろ、荷台の幌をめくって顔を出した。

 ボナの視線の先、星明りの零れるのっぺりとした雪面に、里程標のような灰色の影が見えている。ただ形がおかしい。それに影のなかに赤い点が二つ……。

「だんな、ありゃあ、オオカミですぜ」

「オオカミだと!」

 驚いた客に構うことなく、御者のボナは駄馬たちに話しかけた。

「なんであんな所でじっとしてるだか、オオカミが道の真ん中で睨みを効かせてたんじゃ、お前たちも動きようがねえだよな」

「岩に雪が積もってるだけじゃないのか」 

 眼鏡を鼻先に押し下げ、上目遣いに夜の雪原を見やる丸眼鏡の男に、「白狼でさ」とボナがあっさり答えた。そして「こいつを使うと馬たちが嫌がるんだが」と言って、座席の下から大人の腕ほどの長さの長胴銃を引き出した。

 湿った雪原の空気に、銃の音が吸い取られるように響き渡る。

 ところがボナの思惑に反して、白狼は逃げるどころか雪の上に腰を落してしまった。

 驚いたのはオオカミよりも馬橇を牽く四頭の駄馬たちで、鼻を鳴らし激しく首を振る。

 その駄馬たちをなだめつつ、ボナがもう一度銃を構える。

 二度目の銃声にも赤い目は固まったように動かない。まるで道の上で、通せんぼうでもしているようだ。銃を下ろすと、ボナが詰めていた息を吐いた。

「あの野郎、これが空砲だと知ってやがる。普通のオオカミなら、銃の音だけでも逃げだすもんだが」

「オオカミなのかえ」

 派手な柄のショールを被りつけた女が、丸眼鏡の脇から頭を突き出した。その後ろ、幌の中にいる他の客も、何事かと腰を浮かせている。

 丸眼鏡が、けばいショールの女を後ろに押し返すと、ボナに質した。

「一頭だけか、群れじゃねえのか」

「今のところ、見えるのはあの一頭だけだが……」

 ボナもそのことが気になるのか辺りを見まわす。

 その時、「何だあれは!」という声が、馬橇の後ろで上がった。

 幌をたくし上げ、荷台の後ろから下りた客がいたようだ。

「どこだ、何頭だ!」

 立ち上がったボナが幌越しに後を振り向く。すると乗客の一人、帆柱のように背の高い男が、身長に見合った長い腕を伸ばして、雪原の一点を指していた。

「違うオオカミじゃない。あれを見てくれ、青い光が……」

 ボナを初め、顔を覗かせた乗客たちが、一斉に男の示す方向を見やる。

 雪原のなかに薄ぼんやりと青白い光が輝いていた。物が燃える赤い光とは違う、青白い光だ。折しも上空が雲で遮られ、闇に戻った雪原で、青白い光が燈のようにまたたく。

「気味が悪いね、まるで骨が燃えてるみたいじゃないかい」

 身震いをするように言って、ショールの女が筆で描いた濃い眉にしわを寄せる。

 そのショールの女の後ろで、「違うぜ」と酒臭い声が響いた。日に焼けた赤銅色の肌、船乗り然とした、がっしりとした体格の男が、幌の隙間から外を覗いている。

 その船乗りらしき男は、御者台の丸眼鏡とボナを間を割って前に出ると、豪快に雪の上に飛び下りた。そして体を揺するようにして数歩歩くと、「海難除けの海ボタルの光だな」と、青白い光を見すえて言った。

 皆がもう一度その光に目を向ける。

 荷橇の乗客の視線を集めるなか、青白い光は最後のまたたきだろうフワッと光の輪を膨らませると、あとは周りのものを呼び込むように光を絞り込んで雪原の闇に消えた。

 吸い寄せられるように、馬橇の客たち、丸眼鏡の男に、ショールの婦人、さらには背の曲がった初老の男に、僧衣姿の男が、馬橇の踏み台を飛び降りる。最後、客に続こうとして、御者のボナは、自分が銃を握り締めていることに気づいた。

 慌ててオオカミ……と、前方に目を振り向ける。

 ところがそこに赤い目はなく、雲間から洩れた星の明かりが、雪面を仄白く照らしているだけだった。

 チャビンさんから渡された『守り袋』に入っていたのは、東方の海の民が海難避けの護符に忍ばせる、海ボタルの粉だった。乾燥させた海ボタルの粉末は、水に浸ると青白い光を放つ。青い光を海神の霊光と見なしての風習である。

 結果、春香とウィルタは雪の中から助け出された。

 実は二人は街道のすぐ側まで来ていた。二人がそれに気づかなかったのは、吹雪のせいもあるが、この街道が今はあまり人の通らない寒村の裏街道だったことにある。

 雪で足止めを食った乗り合いの馬橇が、行程の遅れを取り戻すために日没後も馬橇を走らせたこと、それに海難避けの護符と、シロタテガミの機転という、天の配剤ともいえる幸運の巡り合わせによって、二人は雪の中から救い出された。

 二人が救出されるのを待っていたかのように、雪雲が東の空に去り、上空に満天の星空が戻ってきた。


 雪の街道を馬橇が行く。

 橇の滑らかな揺れを体に感じながら、ウィルタは夢を見ていた。

 長い通路が伸びている。

 ユカギルの家々で見られるような漆喰の剥げ落ちた壁や、ざらついた床とは違う、金属とも陶器ともつかないツルツルの壁と床と天井。その鏡のように姿を映す通路が、一分の隙もない幾何学的な線となって、真っ直ぐ前方に続いている。

 通路の左側には計ったように四角い扉が並び、天井はそれ自体が仄かな光を発して、壁と床を照らしている。

 天井を見ている目が通路を移動。右手に淡いグレーの壁が現れた。部分透明なスリット状の窓を通して外の様子が垣間見える。タクタンペック村の円筒型の穴をさらに大きくしたような穴。ただし穴の外壁は岩ではなく人工の構造物だ。リウの枝のように複雑に絡み合った機械が、端々でとぐろを巻き、中央に巨大な黒い塊が聳え立っている。

 その黒々とした塊、ヌラヌラと濡れたように光る金属質の塊は、まるで牛の腹を裂いて中の臓物を積み上げたようだ。噴き出す蒸気のせいで、臓物が生きて呼吸をしているように見える。その今にも動き出しそうな臓物と比べて、通路は静寂そのもの。外の音が遮断されているのか、聞こえるのは自分の息の音だけ。

 不気味な黒い臓物から逃れて、通路を窓側から壁側に。

 窓の外を見ないで済むよう、壁にへばりついて歩く。

 歩く……、夢の中でウィルタは気づいた。歩いているのは自分、そして見えているのは、歩きながら自分が見ている光景だと。

 声が聞こえた。幼児のような泣き声、自分が泣いている。

 泣きながら誰かを探している。ところが通路はどこまで行っても同じで、壁に沿って並ぶ扉は、どれも壁と一体となって閉ざされている。

 ふいに体が軽くなったような感じがして、足が浮いた。

 誰かが自分の体を持ち上げたのだと分かるまで、しばらく時間がかかった。力強い腕が自分を抱いている。その腕から不思議な匂いが香る。

 何かが口に当てられ、気持ちが良くなって、そうして何も見えなくなった。


 次に気づいた時、目の前にガラスの目があった。

 目というのは大げさな表現かもしれない。幾層にも重なった円形のガラス。今ならそれが何であるか分かる。レンズだ。

 目が触れるほどの近さで、レンズを覗き込む。

 赤い光が一定の間隔で点滅を繰り返している。レンズに意志があって何か考え事でもしているようだ。自分を睨んでいるようにも見える。

 レンズを睨み返す。幼児の自分にとっては、睨めっこのつもりなのだろう。

 レンズの中の赤い光は、しばし自分とは関係なく一定のリズムで明滅を繰り返すと、そのまま点滅を止めて緑の光となって停止した。

 レンズが相手を続けてくれなかったことにがっかりしたのか、自分はレンズから目を離した。するとレンズから距離を取ったことで、黒いレンズに映る子供の顔が視界に入った。ふっくらとした子供の目が、不思議そうにしばたく。自分の動きと同じ。同じように口を動かし、同じように舌を出す。自分の顔だ。

 思わず幼児の自分が笑い声をたてる。と同時に、頭の上で声。

 女の人と男の人の声が軽やかに行き交う。

 レンズの奥で、また機械の音。ジーッ、カシャ、キチキチ、いろんな音が聞こえてくる。

 機械に意志が戻ってきた。

 機械に話しかけようと顔を近づける。すると自分の気持ちを裏切るように、体全体がレンズから遠ざかる。柔らかな腕が自分を抱き上げている。甘い、懐かしい匂い。

 目の前に現れた壁が割れるように開いて、その中に自分は甘い匂いに抱かれたまま入った。点滅する光の渦、光、光、光。

 椅子の上に、自分は腰かけさせられた。椅子の下が遙か屋根の上から見下ろすほどに遠い。しかしそれよりも自分の周りで点滅する光の洪水に圧倒される。

 極彩色の星の輝く部屋。自分は一人で、じっと降るような光の瞬きを見つめていた。

 いつまでも?

 

 次の記憶は、空気を震わすような振動があって、自分が椅子を転げ落ちたことだ。鼓膜を揺さぶる音と揺れる足元。何もかもが沸騰する直前のような緊張感に満ちている。

 そして懐かしい匂いを含んだ自分を呼ぶ声を最後に、記憶は途切れた。


 体が凍えていた。

 寒い道を、誰かに手を引かれて歩いている。

 雪深い道に差しかかると、大きな腕と手が自分を抱き上げ、背中に負ぶった。寒さのなか、骨ばった背の微かな温もりと、髪につけた整髪用の油の匂いが鼻孔をくすぐる。

 やがて自分は大きな背中にしがみ付いたまま眠ってしまった。

 どのくらい時間が経ったろう、背中越しに人の話し声が聞こえた。

 眠気を抑えながら、必死で目を開ける。肩に積もった雪越しに、小さなカンテラの灯と、扉の前に立つ女性が見えた。心配そうな女性の顔、シーラさんだ。

 シーラさんと自分を背負った人物が、話を交わしている。

 男の太い、しかし疲れた声が……お願いしますと、何度も繰り返す。

 額に手を当て思案げに首を振っていたシーラさんが、やがてゆっくりと頷く。

 気がつくと、自分はシーラさんの腕に抱かれていた。

 自分を連れてきた男の人が、雪の中を去って行く。さっきまで小さな手でしがみついていた黒い外套の背が、闇に溶けていく。シーラさんの腕の中で、自分は離れていく影に向かって叫んでいた。必死の思いで。

 父さん……、と。


 軋むような音がして、揺れが止まった。

 人の動く音と話し声。

 まだ夢を見ているのだろうか。ここはどこだろう、誰かがぼくを見ているのを感じる。額に何かが触れた。これは手だ、いったい誰の。

 ウィルタは重いまぶたを開けた。

 人の顔が、自分の顔のすぐ上にあった。

 どこかで見た顔、黒い艶やかな黒炭肌の顔だ。くびれたような丸い大きな鼻に、二重まぶたの黒い瞳、厚い唇、ユカギルの夏送りの祭りの時に……、あ、でも名前が……、

「オ……、オバルさんだっけ」

 ウィルタは自分を見つめる顔に向かって、記憶の淵から掬い上げた名を口にした。

「おっ、気がついたか」

 声の記憶も蘇ってくる。それは確かにマトゥーム盆地を後にした夜、星草の瞬くなかで聞いたオバルさんの声だ。春香以外で知っている人物の声を聞くのは、本当に久しぶりだ。

 ウィルタは懐かしさと安堵感で、体の緊張が抜けていくのを感じた。

 一呼吸置いて「ぼく、助かったんだね、ここはどこ」とウィルタは、心配げに自分の顔を覗き込んでいるオバルに向かって尋ねた。

 安心させるように穏やかな声が返ってきた。

「乗り合い馬車の中さ、正確には馬車ではなくて馬橇。君は雪原に倒れていたのを助けられたんだ。良かったよ。もう少し発見が遅れていたら、二人とも凍死していたところだ」

 ウィルタはハッとして目を見開いた。

 二人ともという言葉で、春香のことを思い出したのだ。

「春香ちゃんは?」

 真剣な顔で聞くウィルタに、オバルが白い歯を覗かせた。

「安心しな、連れの女の子なら、ほら君の横に寝ている」

 オバルが、目でウィルタの横を示した。

 顔を傾けると、ウィルタのすぐ横に春香の顔があった。

 二人はそれぞれ別の寝袋に入れられて、後部座席の後ろの隙間に寝かされていた。

 春香が無事だったことにウィルタは安堵の息をついたが、すぐに春香の口から苦しげな喘ぎ声が漏れているのを見て取った。

 慌てて体を起こそうとするウィルタを、オバルが強い口調で押し止めた。

「君も熱がある、彼女のことは俺に任せて、そのまま寝ていなさい」

 言葉で胸の真ん中を押されたように、ウィルタは起こしかけた体を倒した。きっと言われなくても、体を起こし切ることはできなかったろう。体を起こそうとして分かった。体が鉛を埋め込んだように重いのだ。

 横になって目を閉じたウィルタに、オバルが二人を見つけた時のことを話してくれた。

 二人が街道を行く乗り合いの馬橇に救出されたのは、昨夜の夜の九時。それから時間にして半日余りが経過している。つまり今は翌日の昼だ。つい今し方、馬橇は街道沿いの宿郷に到着、ほかの客は食事と休憩のために、外に出て行ったところだ。

 オバルは、体に似合わない優しい声で、「待ってな、何か温かい物でも調達してきてやるから」と言うと、幌の明かり取りの小窓から外を見やった。そして馬橇の周囲に人がいないのを確かめると、ウィルタに艶々と黒光りする顔を近づけた。

「ウィルタ君、知っているだろうが、ユルツ国は君たちに懸賞金を懸けている。ぼくも見つかれば捕まる立場だ。だから、ぼくと君は初めて会った仲ということにしよう。ぼくは面倒見のいい旅のおじさんという訳だ。それから、今のぼくの名は、ルボックってことになっている、よろしく」

 オバルはウィルタに向かって軽くウインクをした。

「それじゃ、待ってな」

 そう言い残すと、オバルは軽い身のこなしで幌の外に出ていった。

 熱があるからだろうボーッとした頭の中で、オバルのよく響く太い声が、山向こうのオオカミの遠吠えのように鳴っている。オバルの口にしたルボックという名前を、ウィルタは頭の中で繰り返していた。どこかで聞いたことのある名だと思ったのだ。

 どこで……‥、と反復しているうちに、ビンゴの鐘が鳴った。

「なんだ、ルボックだなんて、オバルを逆にした名前じゃないか。

 ウィルタは喉の奥で、ククッと痰の詰まったような音を鳴らした。

 オバル、つまりルボックが、雪を踏み締め歩くザクッザクッという音が、馬車から離れていく。ウィルタは重いまぶたを無理やりこじ開けると、顔を横に向けた。

 幌馬車の荷台には、前後に三列、長椅子が据えつけられている。その三列目、最後尾の椅子の後ろに、二人は寝かされていた。春香は、ほとんど椅子の下で寝ている状態で、寝袋から覗く顔はむくみ、上下する胸の荒い息遣いが手に取るように分かる。

 ただ苦しそうな様子とは裏腹に、春香を見ていると、ウィルタのなかに、自分たちが助かったんだということが実感として湧いてきた。雪焼けで赤黒くなった春香の顔を見ながら、ウィルタは思わず「助かった」と口に出した。

 そしてもう一度「助かった」と口にすると、後はもう体の芯から力が抜けたように、深い眠りの底に落ちていった。


 次にウィルタが目を覚ましたのは、翌日の昼前である。

 幌の隙間から吹き込む冷気にウィルタは目を開けた。揺れはない。外でガチャンガチャンと金属製の道具を扱う音がしている。

 幌の天井を見上げていると、耳元で聞き慣れた声。かすれてはいるが、春香の声だ。

「馬橇の橇を、車輪に付け替えているんだって。もう作業は終わったみたい。お客は作業の間、近くの民家で体の温まるものを飲んでるって」

 声の方に体を傾けると、寝袋の中に春香の顔が覗く。しばらくの間、二人はじっと互いの顔を見つめ合った。

 声のかすれ以上に、顔のやつれが深い。ウィルタが心配そうに聞いた。

「調子はどう、熱があるんだろう」

 春香は曖昧な表情で眼をしばたくと、話を続けた。

「オオカミが馬車を止めたんだって、ルボックさんが言ってた。うん分かってる、オバルじゃなくてルボックなんでしょ。夢うつつだけど、昨日ウィルタとオバルさんが話しているのを、聞いてたの」

「なんだ……」

 がっかりしたように言ったが、ウィルタは春香の声が聞けたことが嬉しくて、口元を緩めた。そして寝袋から腕を引き出すと、春香の額に手を伸ばした。指先が春香の汗ばんだ額に触れる。かなり熱い。

 ウィルタの手の下で春香が話し始めた。

 それはオバルさんが偽名を使っているのを聞いて思ったことだ。

 これからの旅のことを考えたら、自分たちも早くいい偽名を考えた方がいい。前に使った『タタン』や『シーラ』のように、人に疑問を抱かせるような名前とは別の名をだ。さらにその名前に合わせて、出身や家族や、なぜ子供だけで旅をしているのか、どこに向かっているのか、それになぜ雪の中で遭難したのか、そういったことを考え、示し合わせておかなければならない。

 春香に言われるまでもなく、ウィルタもそのことは感じていた。あんな砂漠でさえ、賞金目当ての連中がいたのだ。馬車に揺られて人の往来する街道を行くのなら、なおさら自分たちの素性や身分をはっきりさせておかないと、怪しまれてしまう。

「うん、ぼくも同感」

 ウィルタは素直に答えると、すぐに提案した。

「こんな名前はどうだろう。オバルさんのように名前の前と後ろをひっくり返して、ぼくはタルー、春香はカルハにするの。どちらもありそうでない名前だから、出身地をでっち上げるにはいいだろう、それにこれなら忘れても必ず思い出せるしさ」

 春香が笑いとも呻きともつかない声を、苦しそうに漏らした。

「熱でうなされてなかったら、怒るわよ」

「ごめんごめん、冗談さ、ちゃんと考えるよ」

 ウィルタは軽く謝ると、顔を上に向けて目を閉じた。

 春香ほどではないにしろ、ウィルタも熱が残っている。それに筋肉が溶けたようで力が入らない。体が疲れていると、目を開けていることでさえ気力が必要になる。

 しばらく眉間にしわを寄せて考えていたウィルタが、口を開いた。

「岩船屋敷の子供の名前を使わせてもらうので、いいんじゃないかな。ぼくがホーシュで春香がアチャ。砂漠の岩山しか知らない子供が、行方不明の父さんを捜しに旅に出たっていうの。誰もあんな砂漠の岩船屋敷のことなんか知らないだろう。それに初めて砂漠の外に旅に出た子供ってことにしておけば、この世界のことを知らない春香にだって、やりやすいしさ」

 思いついた案を自慢げに話すウィルタに、春香が首を微妙に折り曲げた。

「ウーン……、九十五点」

「あとの五点は?」

「行方不明の父さんを捜してというのが、ありきたりかな。父さんの説明をどうするの。まさか、ウィルタのお父さんの事を話す訳にはいかないでしょ」

「そりゃあ、そうだね……」

 口ごもったウィルタに、すでに考えてあったのだろう、春香が自分の案を持ち出した。

「ホーシュの夢をそのまま使っていいんじゃないかな。不治の病に冒された妹を助けるために薬探しの旅に出たんだって、すっごくリアリティーがあるわよ」

「ピンポーン、百点」

 ウィルタが寝袋の中で指を鳴らした。

「ありが……」

 声を出しかけて、春香が激しく咳こんだ。

「大丈夫、春香ちゃん」

 ゴホゴホという苦しそうな咳に、ウィルタが慌てて春香の顔を覗きこむ。寝袋ごしに背中を丸めて激しく咳をする春香が見えた。

 咳と咳の間を縫うように、かすれた声が返ってきた。

「春香じゃなくて、アチャでしょ、ホーシュ」

「ごめん、ごめん春、いやアチャ」

 ウィルタへの返事の代わりに、続けざまの咳がウィルタの耳を打つ。

 痙攣する春香の背中を摩ろうとウィルタが半身を起こす。そこに幌の後ろ、垂れ幕を引き上げて、オバル、いやルボックが顔を見せた。バター茶の温かい湯気と香りが、外の冷気とともに馬車の中に流れ込んでくる。

 オバルは馬橇の踏み台に片足を乗せると、「大丈夫か」と声をかけながら、荷台の上に体を持ち上げた。そして幌の中に体を差し入れ、春香の額に自身の大きな手を添わせた。

「まいったな、また熱が上がっている。散熱剤が効いてない……」

 顔を曇らせたオバルを見上げて、ウィルタが聞く。

「春香ちゃん、そんなに熱があるの?」

 オバルが声を出さずに、「肺炎」と口だけを動かして言った。

「春香ちゃんが?」

 咳き込みながらも、ウィルタの「春香ちゃん」という声が聞こえたのだろう、春香が抗議するように咳まじりの声を上げた。

「アチャ、でしょ、ホーシュ」

 慌ててウィルタが「ごめん、アチャ」と訂正。「アチャ?」と、訝しげにウィルタを見下ろすオバルに、コホンと咳を一つついたウィルタが、「ルボックさん、彼女がアチャで、ボクがホーシュ」と、春香と自分を指しながら、片目をつぶってみせた。

 なるほどと、オバルが大きな鼻の穴を膨らませた。

「君たちも偽名という訳か。それならホーシュ君、君もまだ熱があるんだ、喋らなくていいから静かに横になっていたまえ」

「はーい、オバル、いやルボックさん」

 寝袋の中で、ウィルタが威勢のいい返事を返した。しかし、ルボックもホーシュも、いかにも取って付けたようでしっくりこない。それがどうにもおかしいのか、春香は咳とも笑いともつかない荒い息を、ゼエゼエと寝袋の中でついていた。



次話「薬売り」

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