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星草物語  作者: 東陣正則
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地吹雪


     地吹雪


 雪が続いていた。

 グラミオド大陸中央にある内海ドゥルーを渡る西風は、天来山脈によって遮られて北東に周り込み、竜尾山脈の北の峠地帯を東に抜けていく。そのため竜尾山脈の西北斜面は、内陸部としては珍しく湿った雪の降る地域となる。この多雪地帯を南に進めば、山稜地帯は次第に乾燥しながら青苔平原へとその趣を変えていく。ただそこに至るまでには、もう少し距離があった。二人は今、青苔平原から北東に伸びる帯状の丘陵地を歩いていた。

 春香が氷の川に落ちて丸三日が過ぎた。

 水分を含んだ雪は重い。

 二人は靴の下にリウの枝で作ったカンジキを付けていた。頭骸骨の洞窟に転がり込んだ夜、火の番をしながら、ウィルタがリウの枝を編んで作ったものだ。先端が反り返った小さな橇のような形で、足を雪に沈み込ませずに歩くことができる。しかしそのカンジキも、積もった雪が膝の上を越えるようになると、逆に邪魔なだけで、いつしか背中の荷物に括りつけたままになった。

 雪は間断なく降り続いている。場所によっては腰まで雪に埋もれてしまう。雪を掻き分けながら歩かなくてはならず、頑張れど一日に五キロも歩けない。

 二人にとって不運だったのは、今が一年で最も雪の多い季節だということだ。

 雪のために視界も悪い。そんな状況のなか、唯一の救いは、シロタテガミが行く手を先導してくれることだ。シロタテガミは、何も見えない雪模様の中でも、夕刻になると、確実に雪を避けることのできる岩の隙間を見つけ出してくれる。シロタテガミは言う。野性を生きる者にとって、寝床は探すものではなく行き着く場所なのだと。体が疲れて休息を取りたくなると、自然とそれに相応しい場所に足が向き、そして行き着く。

 その話を聞いて、今さらながら野生の動物の能力に驚かされた。

 四日目に雪はいったん小降りになり、辺りの景色が見渡せた。

 天来山脈は相変わらず遙か先だが、周囲の山稜地帯が、ほとんど平坦な丘の繰り返しになっていた。残念なのは、山の上からなら見下ろすことのできる平原が、丘陵地帯のために、山脈に至る途中の景色が見えないことだ。それと雪の積もった丘陵地帯では、峠道のような明確な道が無くなってしまう。人の住まう村もどこかにあるのだろうが、それが分からない。シロタテガミの話では、空気に人の匂いが混じっているという。その言葉を信じ、気持ちを鼓舞しながら歩く。

 春香がシロタテガミに、どのくらいの距離なら、人間の匂いを感じ取ることができるのかと尋ねると、シロタテガミは、十キロくらいなら風に乗って流れてくる匂いで分かるという。それもその人間がどんな人間か判断できるレベルでだ。

 雪が小降りになった合間を縫って、シロタテガミは二人の側を離れ、食事に出かけていった。人間は食料を背負うことができるので、どこでも食事ができる。しかし雪降りのなか、人間の道案内をしているシロタテガミは、この二日間食事を取っていなかった。太陽の昇る地点と太陽が中天にかかる地点の間に向かって真っ直ぐに進めと言い残し、シロタテガミは雪原に消えていった。

「真っ直ぐに進もうと思って、真っ直ぐに進めるくらいなら、シロタテガミの先導なんか必要ないさ」とウィルタが愚痴ると、すかさず春香が「方角がずれても別に問題ないじゃない、十キロ圏内にいれば、どこにいたってシロタテガミが見つけ出してくれるんだから」と言い返す。「そりゃそうだな」と頷きながらも、ウィルタはどこか釈然としない様子で、「何だか、シロタテガミの手の上で遊ばされているみたいで、しゃくに触るんだよな」と、悔しそうに肩を揺らした。

 それでもシロタテガミの言った「匂いからして、人のよく通る道が、ここからオオカミの足で二日の地点にある」という指摘が、二人の足取りを軽いものしていた。人がよく通る道、それは街道に違いない。

 二人は板餅をかじりながら歩きだした。食料はあと四日分。

 オオカミの足で二日が実際にどのくらいの距離に当たるのか、それは分からない。でも人の足でもなんとかなりそうな距離には思える。

 天来山脈北部の峰々を右手に見ながら、二人は先を急ぐように足を動かした。

 その夜、シロタテガミは帰ってこなかった。幸い二人は、都合よく岩棚に隙間を見つけ、そこで眠った。うまく寝床を見つけられたことで、「自分たちにも野性のカンが備わってきたな」と、ウィルタがシロタテガミに自慢したそうな口ぶりで言うが、「単に運が良かっただけと言われるのが落ち」と、春香が戒めるように返した。

 ウィルタが笑いながら目を引き締めた。

 幸運すぎる快適な寝床に巡り合うということは、その逆も有り得るということだ。

 信頼できる道案内がいるといないでは、旅は全く違ったものになる。そのことが、これまでの経験で二人には嫌というほど分かっていた。

 翌日は間断なく雪が降り続いた。

 時間の経過さえも覚束なくなりそうな雪降りのなか、その日は寝床に相応しい場所を見つけられずに夜を迎えた。雪洞を作ろうとしたが雪が足りない。鍋と手で雪を掻き集めてようやく形になったものは、雪の壁のようなもので、風が直接当たるのを防ぐので精一杯。むろん乾いた苔も手に入らない。仕方なくグーの防寒用の布を寝袋に巻きつけて横になる。

 それにしても湿気を吸った寝袋が重くて冷たい。二人一緒に寝袋に潜り込んでいても、体が一向に温まらなかった。

 翌日も雪。寝不足で体がだるい。温かい物でも飲んで元気を取り戻したいが、一面の雪では、マッチはあっても燃やす物が手に入らない。

 気になるのは、シロタテガミが帰ってこないことだ。もしかしたらシロタテガミも、降りしきる雪で二人の匂いを見失ってしまったのだろうか。雪降りの条件で、どのくらい鼻が利くのか、聞いておくべきだったと思う。

 その夜は雪洞らしきものを作るのに成功、雪の天井を見ながら眠りにつく。

 そして朝、二人は明るくなってきた外の光に誘われるように歩きだした。

 まばらな雪だが、辺りは地上も空も白一色。まったく方角が分からない。唯一の救いは、雪のなかに凍った川の流れを見つけたことだ。川下に向かって進めば、いずれ平地、つまり青苔平原に出られる。浅い川のようで、完全に凍結して、氷を踏み抜く心配もなさそうだ。それに川の上は雪が積もっていても、下が石ころだらけの場所と違って歩きやすい。

 動かずにシロタテガミの帰りを待った方が、誤った方向に歩いてしまうよりもいい。そのことは分かっている。しかし悲しいかな、何もしないで待つというのは、思いのほか忍耐力が必要で、子供の域を出ない春香とウィルタは、先に進みたい気持ちを抑えることができなかった。それに歩けば冷えた体を内側から温めることができる。

 二人は川面の上の真っ平らな雪原を、雪を蹴散らしながら進んだ。

 だが状況はどんどん悪い方向に傾きだしていた。

 雪の降り方が激しくなってきたのだ。視界が塞がれ、辺り一面右も左も上も下も、どちらを向いても真っ白。ホワイトアウトである。

 そんななか、少しずつ春香の足取りが遅れるようになってきた。

 夕刻、雪の降り方がさらに酷くなった。川筋は風が吹き曝しに走り抜ける。

 ウィルタは、いったん川筋を離れ、吹き募る雪を避けられそうな場所を探すことにした。そしてそれを春香に伝えようとして、春香の姿が見えないことに気づいた。

 慌てて足跡を辿って後ろに走る。ところが白一色で距離感が掴めない。

 しばらく走って、白いベールの向こうに岩のような影を見つけた。春香だった。

 胸を撫で下ろして駆け寄ると、そこに膝を着いてしゃがみこんだ春香がいた。

「どうしたの、足でも挫いた?」

 声をかけながら、ウィルタは春香の様子がおかしいのに気づいた。妙に息が荒い。

 手袋を脱いで、春香の額に手の平を当てると、熱い。かなりの熱だ。

 凍て付く川の水に浸かって以来、春香は風邪気味な状態が続いていた。それに川岸の洞窟の後、暖を取れる場所で休んでいない。それを押して無理をして歩き続けてきたのだ。

 風邪を悪化させても当然だった。

 とにかく雪のかからない場所で休ませなければと、そう思って辺りを見回しても、周りは地面と空の区別もつかない白一色の世界だ。こんな状況では、春香を置いて休める場所を探しに行くことはできない。一度この場所を離れると、二度と同じ場所に戻って来れない。ウィルタは、仕方なくここで休むことにした。とにかく川岸に移動。雪を掻き集めて風避けの壁を作り、グーの防寒布を張って中に春香を寝かせる。

 ところが状況はさらに悪化、風が強くなってきた。吹き込んでくる雪で、全身あっという間に雪だらけ、真っ白になってしまう。防寒布がバサバサと煽られ、風で吹き飛ばされそうになる。川岸のために風が良く通るのだ。もう少し風が防げて、かつ、ちゃんとした雪洞を作れるところに移動しなければ……。

 そして移動するなら、それは本格的な吹雪になる前だ。

 ウィルタは意を決して春香を抱き起こすと、風を避けられる場所を探して歩きだした。

 強風が足元の湿った雪を粉雪のように吹き飛ばす。

 左手で春香を引っ張り、右手で春香の荷物を抱えているので、バランスが悪く、風で荷物ごと引っ繰り返りそうになる。ウィルタは春香の手を引きながら、何とか一歩一歩足を動かした。できるなら春香を背負って歩きたい。しかし実のところ、ウィルタにもそこまでの体力は残っていなかった。砂漠を後にして以来、食事を切り詰め、寒さを我慢しながら歩いてきたのだ。

 雪が上から降るのではなく、横から吹き抜けていくようになった。このままでは地吹雪になる。

 春香の手がぐっと重くなった。春香が膝を着いている。もう限界だ。

 これ以上歩くのは無理と判断、ウィルタはここで吹雪をやり過ごすことにした。雪の吹き溜りを探し、春香を背負って運ぶ。寝袋に春香を押し込み毛布を被せて、その上に鍋で雪をかける。風さえ遮れば雪の中は意外と暖かい。

 そうしておいて、ウィルタは吹き溜まりの窪地に雪を積み上げ始めた。足で踏みつけ、押し固めながら雪を積んでいく。形などはどうでもよかった。とにかく今は、風と雪を避けられる場所が必要だった。

 胸の高さまで雪を積み上げて雪の塚にすると、今度は古墳の玄室を作るように、風下から雪の塚を鍋で削るように掘り取っていく。

 何とか人が二人横になれる細長い穴、雪洞を掘り出すと、中に防寒布を敷き、寝袋に入った春香と荷物を引き入れる。そこまでやって、ようやくウィルタは息を整えた。もう顔も服も手も足も何もかもが雪だらけ、シロタテガミでなくとも、真っ白だ。

 雪洞の中は、寝袋二つ分ほどの広さしかないために、方向転換ができない。それに出入り口をやや上向きに開けたために、風向きによっては雪が吹き込んでくる。それでも仄かな明るさに包まれた雪洞は、外の吹雪とは別世界のような静けさだ。

 ウィルタは腰の革袋に入れてあったシーラさんの丸薬を取り出した。シーラさん手作りの熱冷ましの薬である。それを喘ぐ春香の口に含ませ、水筒の水で飲ませる。

 そして最後、雪洞の入り口をできるだけ雪で塞ぐと、体に毛布を巻きつけ、春香の隣で横になった。もうウィルタもへとへとだった。板餅を手にしたまま、意識を失うように眠ってしまった。


 吹き荒ぶ風の音でウィルタは目を覚ました。目を開けるが何も見えない。

 暗闇……、夜だ。

 風の音に混じって春香のうわごとが聞こえてくる。ウィルタには理解できない言葉、初めて聞く言葉だ。熱にうなされ、春香の心の中にある昔の言葉が、翻訳されずにそのまま口を突いて出ているらしい。マッチを灯すと、春香が荒い息をついていた。

 額に手を当てると、さっきよりも熱が上がっている。

 マッチの炎に春香が目を開けた。

 まぶたを開け閉めしながら、自分の見ているものが何であるか考えている。やがて隣で横になっているウィルタに気づいたのか、「ここはどこ」と口を開いた。

「雪洞を作ったんだ。狭いから身動きできないけど、吹雪は防げるから、しばらくここで風が治まるのを待とう」

 マッチが燃え尽きて闇が戻る。またマッチを擦って火をつける。

 雪洞の天井を見上げていた春香が、「食べものは残ってる?」と心配げに聞いた。

「大丈夫、まだ三日分はある、食べる?」

「うん、ありがとう、でもお腹が空いてないからいい。それよりも、シロタテガミは」

「戻ってこない。吹雪だから、シロタテガミもどこかに避難してるんじゃないかな」

 ウィルタが、もう一度春香の額に手を触れた。

「熱、かなりあるみたいだから、薬を飲んだ方がいいよ」

 マッチを擦ると、ウィルタは炎の明かりを頼りに春香の手に薬を乗せた。

「ウィルタは、毛布だけで寒くないの」

「うん、大丈夫、足は冷えるけどね」

「風邪うつるかもしれないけど、気にならないなら寝袋に入って。わたし、湯たんぽみたいだから、温ったかいよ」

 実際ウィルタは、かなり寒いと感じていた。食事をしっかり取っていないせいで、体を温めるエネルギーが足りないのだ。いま自分が風邪を引くと困るのは確かだ。

「ごめん、じゃあそうする」

 ウィルタは寝袋のなか、春香の隣に潜りこんだ。そして寝袋の上に自分の体に巻いていた毛布を被せる。ウィルタは居眠りをする前に食べるつもりだった板餅を口に含むと、外の音に耳を澄ませた。相変わらず外は吹雪いている。

 春香の熱のせいで寝袋の中は暖かい。でもその分、自分のすぐ横で、春香の苦しそうな息遣いが聞こえる。その風とも春香の荒い息ともつかない音を聞きながら、ウィルタはまんじりともせずに考えていた。これからのことだ。

 春香の体調さえ戻れば、多少天候が悪くても方法はある。けれど今の春香の状態では、たとえ天候が回復して吹雪が治まったとしても、出発するのは難しい。

 想像は悪い方、悪い方へと傾いていく。

 もしも春香の体調がもっと悪くなったら、その時はどうすればいいのか。薬だけじゃ、どうにもならなくなったら……。その時は、誰か助けを呼んで来なければならない。でも近くにお医者さんがいるとは思えない。まだ街道にも辿り着いていないのだ。それに、ここを離れて助けを呼びに行ったとして、この場所に戻って来られる保証はどこにもない。雪原なんてどこも似たようなものだ。

 どうすれば……、チャンスがあるとしたら、それはシロタテガミが帰って来た時だ。シロタテガミに春香を頼んで、助けを探しにいく。いやそれでも結局は同じだ。人を見つけてここに戻ってくるのが、ほとんど不可能なことに変わりはない。

 ではシロタテガミに誰か人を連れて来てもらうよう頼むか。シロタテガミなら、人間を見つけるくらいのことは簡単にやれるだろう。しかし、オオカミの言葉の分からない普通の人が、オオカミのあとを付いてくるはずがない。唯一の方法は、シロタテガミとボクが、一緒に助けを探しに行くことだ。春香をここに一人で残さないといけないが、それが一番可能性のある方法だ。

 でもそれもこれも、シロタテガミが姿を現してくれたらの話だ。もしシロタテガミが戻ってこなかったら……、そうして、春香の容体が良くならなかったら……。

 そうなったら、自分はどうすればいいのだろう。それにと思う。

 自分たちは今どこにいるのだろう。街道の近くまで来ているのだろうか。計算では、もう二日も歩けば、街道に行き当たるはずだ。それはシロタテガミの鼻の勘とも一致している。でもそれが間違っていたら。もしかして、自分たちがとんでもない方向に歩いていたとしたら……。

 シロタテガミと別れてから、丸二日も雪の中を歩いている。ホワイトアウトのなか、最悪逆の方向に歩いてしまった可能性だってある。食料はあと三日分、薬だって残り少ない、それにこの吹雪だ。ぼくが街道まで歩いて行くのだって、果たしてできるかどうか。

 どうすれば……、

 その言葉だけが、頭の中でブランコを漕ぐように行ったり来たりしている。どんなに遠くに跳ね上げても、すぐに戻ってくる。そうやって、堂々巡りをするように考え続けているうちに、ウィルタは疲れて眠ってしまった。


 次にウィルタが目を覚ましたのは、揺れるような地吹雪の音でだった。

 雪洞の中は薄暮のような明るさ、昼間だ。

 ウィルタは首筋に寒気を感じた。もしかしたら、自分も風邪にやられたのだろうか。昨日、毛布だけで居眠りをしたのが、いけなかったのかもしれない。

 枕元に置いてある腰袋の中の薬を見る。薬はあと一粒しか残っていない。隣で寝ている春香の苦しそうな表情を見ると、自分が飲むのは憚られた。それよりも、外が明るい内に吹雪が治まってくれないものかと思う。

 雪さえ止めば、少々の風邪なら外に出て、助けを探しに行ける。それに雪さえ止めば、周囲を見渡すことができる。天来山脈が見えれば、自分たちが今どこにいるのか、おおよそ見当はつく。街道まで距離があるなら、それはそれでいい。ウィルタは春香を背負ってでも出発する気になっていた。それが吹雪ではどうしようもない。吹雪のなかを歩いても、うろうろした挙げ句に元の場所に戻ってしまうということは、ままあること。そういう例を、曠野にいる頃によく聞かされた。だから今はとにかく体力を温存して、じっとしているしかない。しかし食料は、もう三日分を切っている。

 ザックの中を探っていたウィルタの動きで、春香が目を開けた。

「吹雪なの?」

「温ったかいものでも入れられればいいんだけど、苔を探しに行くこともできないや」

「わたし、水でいいわ」

 ウィルタが、丸薬を差しだした。

「この薬、ぼくも子供の頃よく飲まされてね、すっごく効くから」

「そう、ありがとう。ごめんね、もう少しで街道だというのに」

「大丈夫だよ。明日、雪が上がれば、ボクがおぶって街道まで連れて行ってあげるから」

 春香は喋る元気もないのか、薬を飲むと直ぐに目を閉じた。


 翌日、外は相変わらずの激しい吹雪だった。外から吹き込んできた雪が、狭い雪洞の入口でクルクルと舞い、雪の欠けらが寝袋の口から顔を覗かせた春香の頬に落ちる。薄目を開けた春香は、見えるはずのない自分の頬にかかった雪に視線を向けた。その見えない頬の向こう、寝袋の隣にウィルタの姿がない。

 熱でふやけたような頭でウィルタのことを考える。その頭の中にまで雪が舞う。

 雪洞の入口に雪が吹き込んできた。ウィルタだった。後ずさりをしながら、ウィルタが狭い雪洞の中に入ってきた。

 春香が目を覚ましているのを見て、ウィルタが疲れた表情で話す。

 雪が小降りになった隙を見て。外の様子を偵察に行った。ところが雪洞の位置を見失って探しまわる羽目に。雪洞を出る時、用心のために手拭いを巻いたリウの枝を目印に立てておいたのだが、降り出した雪でそれが役に立たなかったのだ。

 それでも、歩き回るうちに岩の窪みに行き当たり、そこで乾いた苔を見つけた。

 ウィルタが大事そうに肩かけ袋から苔を取り出した。

 乾いているといってもかなり湿っている。この数日間の雪中行で、服もザックも、苔を入れた袋自体も、何もかもがじっとりと湿っている。

 ウィルタは雪洞の隅を掘り、煙出しの穴を開けると、苦労して湿った苔に火をつけた。

 小さな焚火だが、何とか鍋の中の雪を溶かし、砕いた板餅を入れて煮立てる。味素も入っていない只の屑餅を溶かしただけの重湯である。

 ウィルタが匙で掬った重湯を春香の口に寄せた。

 春香は匙よりもウィルタの目を見ていた。

「ウィルタは食べたの」

「うん、さっきね。春香ちゃんは、もう一日以上何も食べてないだろう」

 それで春香は時間の経過を知った。もうそんなになるのだ。数時間寝ていただけのような気がするが……。虚空に目を向け、この数日間に起きたことを思い出そうとする。それが熱でボーッとなった頭では、記憶の重い引き出しを開ける気力が出てこない。気力だけでなく、食欲も全くなかった。

「ごめんなさい、食欲がないの」と、春香が力なく目を伏せた。

「だめだよ食べなきゃ、風邪の時は体力が勝負なんだから」

 ウィルタが、いつにない強引さで匙を春香の口に押しつける。

 ウィルタの言っていることは十分承知していた。子供の頃、母親に何度も言われたから。でも、本当に食べるという気力が、どこからも湧いて来なかった。春香は辛うじて差し出された匙の一杯を口に含んだが、あとは首を振って断った。

 ウィルタは悲しそうに眉を下げると、お腹が空いたら食べるようにと言って、残りを春香の頭の横に置いた。

「なんだか、お母さんみたい」と言って、春香が弱々しい笑みを浮かべた。

 

 そうして、また夜がやって来た。

 夜半に春香は目を覚ました。自分の手も見えない暗闇で、風の音だけが雪洞を取り巻く世界を回っている。額に乗せた濡れ手拭いが、顔の横に転がり、凍りついて板になっている。鍋の中の粥もカチカチだ。筋肉が溶けたように体全体がだるい。

 地吹雪で地面が揺れている。その大地の唸りに、ウィルタの荒い息遺いが混じる。

 春香はポケットからマッチを取り出すと、火をつけた。

 炎に照らされて、ウィルタの苦しそうな横顔が見えた。口を半開きにして喘いでいる。春香は慌ててウィルタの額に手を当てた。熱い。自分の手の平よりもずっと熱い。風邪にやられたのだ。きっと無理をして外を歩き回ったせいだろう。

 春香はザックの中を探った。ウィルタの腰袋の中も……。

 春香の動きで目が覚めたのか、「春香ちゃん気がついた、どう具合は」

 ウィルタが掠れた声で聞いてきた。

「どうじゃないでしょ、ウィルタ、早く薬を飲まなきゃ、薬はどこ」

 怒ったような春香の声に、ウィルタは黙った。

 そして「ごめん」と言うと、

「もう薬はないんだ、全部使っちゃったから。ぼくなら大丈夫、薬なんか飲まなくても、風邪は寝てれば治るから」

 マッチの炎が大きく揺れた。春香の鼻息だ。

「バカ」という、かすれて喉に引っかかった声が、狭い雪洞に反響する。

「うん、でもバカは風邪に強いんだ」

 春香はそれを黙って受け流すと、ごそごそと手を動かした。薬が本当にないか、革袋の中を探しているのだ。しかし丸薬を包んでいた油紙の切れ端しか残っていない。

「まったく……」

 苛立ちを含んだ声を春香が吐いた。

 ウィルタに対してではない。革袋をザックに戻す手に力が入らないのだ。気持ちはあっても体が言うことを効かない。体を起こしたいのだが、体中の関節が軋んで、姿勢を変えるのもままならない。自分が風邪を引いていることに、無性に腹が立っていた。

「何をしてるの」

 ウィルタの問いに春香は答えず、固く凍りついた手拭いを、ウィルタの額に手探りで置いた。ウィルタが「あっ」と小さく声を出した。

 ただすぐに手拭いと分かったのだろう「ありがとう」と、熱っぽい声で返事をした。

 春香は何も言わなくていいからとウィルタに告げようとしたが、それが声にならなかった。喉元に激しい咳が込み上げてきたのだ。そして手拭いをウィルタの額に置くことで力を出し尽くしたのか、咳をしながら寝袋の中で背を丸めてしまった。

 泣きたい気分だった。

 ひとしきり咳が出尽くし呼吸が落ち着くと、春香は頭をずらし、自分の額をウィルタの頬にぶつけるように当てた。頬も熱い。

「どうして薬を飲まなかったのよ。ウィルタが倒れたら、どうにもならないじゃない。わたし一人で、どうすればいいのよ」

「春香ちゃんの額の方が、ぼくより熱いよ」

 春香は小さく「バカ」と繰り返した。

 春香も、そしてウィルタも、話を続けたい気持ちはあったが、話す言葉を探す気力が失せていた。二人は熱で朦朧としたまま、崩れるように眠りの中に落ちていった。


 そうしてまた、日付の止まったような吹雪の時間が過ぎていく。

 どのくらい時間が過ぎたろう。嘘のように地吹雪の鳴動が治まり、静寂が辺りを包んでいた。ウィルタは息ぐるしさと頭の痛みに意識を取り戻した。

 マッチに火をつける。

 目の前に春香の顔があった。春香も気がついたようだ。

 春香が、かすれた声で「どう」と聞く。

「だめ、完全に風邪にやられちゃったみたい。足の指先が、氷のように冷たいんだ」

「わたしも最初はそうだったの。でもじきに、指先でお湯が沸かせるくらい熱くなるわ」

「そのあとは?」

 春香が不確かな記憶をまさぐるように、何度か咳をこぼした。

「だめ、何も思い出せない。ぼーっとして、体全体が、ぬるま湯に浸かってるみたい。冷凍睡眠から目を覚ました時みたいだわ」

 二人とも話す度に大きく肩で息をつく。ウィルタは深呼吸をするようにゆっくり息を吸うと、吸い込んだ息を吐く勢いを借りて、春香に返事をした。

「そうか、春香が目を覚ました時って、こういうのだったんだ」

 二人とも笑おうと思ったが、顔の筋肉が動かない。疲れている時は、笑顔を作るのにもエネルギーがいる。やれやれと思いながら、二人が目で頷きあった時、ズッというにぶい音と共に、胸が詰まるような重苦しさに体全体が包まれた。

 降り続いていた雪の重みで、天井が崩れたのだ。

 数分後、二人は寝袋に入ったまま、あたりの雪を押しやるようにして、雪から頭を出した。そして大きく息を吸いこんだ。

 とたん冷気が肺に入り、ほとんど同時に二人は咽せたように咳を連発した。

 雪が舞っている。頬に触れる冷たい粒の感触でそれが分かる。風は感じられない。

 ウィルタが言った。

「雪をなんとかしなくちゃ、また吹雪になったら大変だ」

 雪の重みを押し返すように体を動かすウィルタに、春香が提案した。

「ねえウィルタ、しばらくこのままでいよう。一度寝袋から出ちゃうと、もう自分で自分の体を温める自信がないの」

 闇のなかでウィルタが頷いた。本当にそうだった。

 埋もれた体を動かそうとして、力が出ない自分にウィルタ自身が驚いていた。体力は、すでに限界を超している。胸の上に乗っている雪の塊を退かすだけで、気力を振り絞らなければならない状態なのだ。

 ウィルタは全身で息をすると「そうだね、そうしてようか」と、素直に答えた。

しばらくの間、二人は寝袋から顔を出したまま、闇の中から舞い落ちてくる冷たいものを顔で受け止めていた。寝袋の中で春香の腕がモゾッと動く。

 虫の跳ねるような小さな音が鳴って、火が灯った。その瞬間、目の前に白い花びらが姿を見せた。雪だ。次から次へと舞い落ちてくる。

 しかし雪がマッチの炎に触れるや、ジュッと短い悲鳴が上がって、世界は闇に戻った。

 また春香がマッチに火を灯す。世界が輝く。

 ウィルタが、ため息をもらした。

「火って凄いな、こんなに小さくても、すっごく暖かく感じるもん」

「ほんと、そうね」

 寝袋の口をはだけて灯す小さな炎が、二人の顔を照らしている。暗闇のなか、世界はそこだけ。そこだけが今、存在している世界だ。

 春香が黒い瞳に小さな炎を映しながら、話し始めた。

 マッチを売る貧しい少女の話、ウィルタにとっては初めて聞く春香の時代の昔話だ。

 語り終えるのに、春香はマッチを七本使った。

「少しもったいないことをしたかな」

 春香が後ろめたさを誤魔化すように、明るい声で言うと、

「マッチだけは、まだたくさんあるから大丈夫」と、ウィルタが空元気に受けた。

「マッチの炎の中に夢を見るのか、なんだか分かるな、その気持ち。人間って、ずーっと、この地上に生まれた時から、炎の中に夢を描いてきたんだ。でもその女の子は三つしか希望の夢を見なかったんだろう。欲がないね。ボクなら、もっといっぱい色んなものを見たと思うけど」

「違うわ、最後、マッチが三本しか残ってなかったの」

「そうだっけ……」

「あっ、これでわたしの持ってるマッチ、最後だわ」

「いいよ、つけちゃえば、まだ八箱はあるはずだから」

 春香が最後のマッチを擦った。炎が沸き立つ瞬間の明るい輝きが、人の心を勇気づける。

 ウィルタが虚空に目を馳せた。

「ぼくたちには、何が見えるだろう」

「ウィルタはぜったい食べ物よ」

「なんだよ、それ」

「でも、マッチの燃える時間って案外短いものね。何かを見ようとすると、あっという間に燃え尽きちゃうもの」

 春香の指先で小さな炎が萎むように燃え尽きる。それを見届けると、ウィルタは枕代わりに頭の下に置いてある布袋から、マッチの入った油紙を取り出した。

 そのウィルタの動きが止まった。

 疲れたのかと思って春香は、ウィルタがマッチを灯すのを待っていた。

 するとマッチを擦る音の代わりに、ウィルタの嘆くようなため息がこぼれた。

 油紙が破れてマッチが濡れていたのだ。

「神様もつれないな、夢一つ見させてくれないなんて」

 言葉を繋ごうとするが、春香はその言葉が見つからずに黙った。

 闇のなか雪は淡々と二人の上に舞い落ちてくる。

 体が冷えてきた。ウィルタが沈黙を破った。

「雪、冷たくない?」

「全然、暖ったかいくらい。これって天国が近づいて来たってことなのかな」

「天国かあ……」

 そう呟きながら、ウィルタが腰の革袋を押さえた。中に硬い石の感触がある。

「何かの時には、この石が役に立ってくれるだろうって、ウロジイは言ったけど、もう間に合いそうもないな……」

 春香も自身の胸の辺りに手を這わせた。そこに岩船屋敷を出立する際にチャビンさんから渡された、お守りが入っている。

「こっちのお守りもだわ。チャビンさん、魔法の粉が入ったお守りって言ってたけど」

「どんな粉だろう、見るとご利益なくなるのかな」

「ちょっと待って、出してみる」

 春香が胸からそのお守りを引き出した。馬将譜の駒の形をした袋だ。包みを破ると、指先の感触で、中に粉のような物が入っているのが分かる。

「手を貸して」

 春香はウィルタを促すと、差し出された手の平に、中の粉を曝け出した。サラサラとした粉がウィルタの手の平に小さな山を作る。

「ただの粉なんだ」

「お守りなんて、そういうものなんだろうね」

 ウィルタが手首を振って、その粉をパッと自分たちの頭上に振りまく。

 夜目に白粉を叩いたように、粉末が散る。

 春香は寝袋の縁を額の上に引き上げた。

 そこだけが、今の春香にとって安住の地であるかのように。

 しばらく沈黙があり、春香がポソリと言った。

「わたし眠くなってきた。眠る前にウィルタに言っておかなくちゃ」

「なに?」

「わたし……、この世界に来て、ウィルタ……に、会え……て……」

「春香ちゃんだめだよ、眠っちゃ……、だめ……」

 春香の体に腕を回そうとするが、すでにウィルタの腕にも力は残っていなかった。

「眠っちゃ……だ……、め……」

 声から力が抜け、春香の体に手を回したまま、ウィルタは首を垂れてしまった。

 意識を失って眠る二人の上に、雪が一粒また一粒と舞い落ちていた。



次話「馬橇」

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