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星草物語  作者: 東陣正則
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雪原


     雪原


 辺りは全くの雪景色に変わった。膝下まで埋まるほどの雪である。

 ここまでの旅の間に経験した雪は、おしなべて乾いた雪で、上から降り積もるというよりも、風で横から運ばれてくるという積もり方をした。それがここでは、重い湿った雪の塊がボテボテと落ちてくる。水分の多い雪が靴の裏にへばりつき、靴が重くなって歩き難い。それでも二人は、何とかシロタテガミの後ろについて歩いた。

 丸二日、谷間の道を歩き続ける。雪か雲か分からない灰色の空が頭上を覆い、絶え間なく雪が舞い続ける。それでも進むにつれて、谷の傾斜が緩んできた。

 三日目の午後、雪が止んで前方に視界が開けた。

 谷間の向こうに起伏の少ない丘がのぞき、その遙か先に雪を頂く山脈が覗く。内海ドゥルーの東海岸を南北に伸びる、天来山脈である。その天来山脈と数日前に峠を抜けた竜尾山脈に挟まれるようにして、青苔平原は広がっている。

 雲間から差し込んだ日差しが雪面に反射、太陽が落ちてきたように一面が白銀色に照り映える。このまま前方の天来山脈を目指して進めば、いずれ谷間は完全に開いて丘陵地帯に変わり、その先で平原と合流。とにかく平原地帯まで行けば街道が通っている。食料もあと七日分はある。このペースで歩けば、何とか街道まで行き着ける。それに途中で人の住む村に出ることもあるだろう。

 ほっとして、二人の肩に入っていた力が抜けた。

 その気分が伝わったのか、それとも雲が薄れて辺りが見通せるようになったからか、シロタテガミは「この様子なら、おまえたちだけでも迷うことはない。谷間を道なりに進め。俺は食事を兼ねて辺りをぶらぶらしてくる」と言い置くと、隣の谷筋に入っていった。

 荷物を背負ってよたよたと歩く子供の歩調が、どうにもまどろっこしかったのだろう、二人から離れたとたん、シロタテガミは飛び跳ねるように走りだした。

 シロタテガミの目が輝いていたことからすれば、流れてくる匂いに、何か面白そうな物を嗅ぎつけたのかもしれない。

 好奇心の旺盛なシロタテガミは、興味を抱くと目が輝く。ただ残念ながら人間の二人には、どこをどう見渡しても雪と岩しか見えない。

「何を嗅ぎ付けたのか、それくらい教えてくれたっていいのに」

 雪と岩だけの単調な谷間の道にうんざりしていた二人は、シロタテガミの気ままな振る舞いに憤慨したが、こればかりはどうしようもなかった。シロタテガミなしに、谷を外れて元の場所に戻ってこれる自信はなかった。

 谷というのは無数の谷が集まってできている。日が差して天候が回復している間はいいが、雪でも降り出して視界が悪くなれば、どの谷が中心の谷か見分けが付かなくなる。二人は白一色の道を、雪を掻き分けるようにして歩き続けた。

 三時間ほど歩くと、穏やかな起伏の雪原に出た。

 一面のだだっ広い雪原である。どこが道なのか分からない。前方に人の横顔のような岩がポツンと見えていたので、それを目印に雪原を横切って進む。

 人の横顔型の岩は、近づくにつれて形が変わり、斜め横からでは熊、そして真横を通り過ぎる頃には、熊の鼻先と耳が伸びてオオカミのような形になった。思わず石の周りをぐるりと回って、岩の形がどう変わるか確かめてみたくなるが、それは気持ちだけに留めて先を急ぐ。

 目印にしたその岩を過ぎると、雪原はやや上りとなり、また目標物もないだらだらとした丘陵に戻った。すでに自分たちが出てきた谷は後方に下がり、斜面に並ぶ谷の一つに紛れている。どうやら山間の谷筋からは完全に抜け出たようだ。

 次は何を目標に進もうと辺りを見回していたウィルタが、雪原の一段低くなった広場のようなところに、黒い塊が動いているのを見つけた。

 野生の毛長牛の群れで、足で雪を掻き分けては、鼻先で雪を押し上げ口を動かしている。雪の下の苔を食べているのだ。はぐれ牛が山に迷い込むことはあっても、毛長牛の群れが餌を求めて山に入ることはない。自分たちが平原の中に入ってきたことが実感として感じられた。その毛長牛の群れの向こう側にある段丘を目標にして歩く。

 毛長牛の群れに近づく。思ったよりも大きな群れで、三十頭はいる。

 角が二周り半巻いた肩の盛り上がった大きな一頭が、頭をもたげてじっとこちらの様子を窺っている。群れのリーダーだ。

 その毛長牛に気を取られているうちに、春香が雪に埋もれた石に足を滑らせ、頭から雪に突っ込んだ。直後、毛長牛のリーダーが鋭い叫び声を上げ、それを合図に、群れはまるで小魚のように一斉に体を反転、人間の子供たちから逃れるように走り出した。

 春香が憤慨したように口の中に入った雪を吐きだす。

「失礼しちゃうわ、わたしたちが襲うとでも思ったのかしら」

 あっという間に雪原のなかの点になってしまった毛長牛の群れを、ウィルタも呆れたように眺めた。

「ほんとだ、まるでオオカミでも来たような慌て方だったな」

「分かった、もしかして、シロタテガミが……」

 そう言いかけて後方の雪原に目を向けた春香が、慌ててウィルタの袖を引っ張った。

 振り返ったウィルタが、体を強ばらせた。

 右手の緩やかな丘の上を、四つ足の動物が数頭、足並みを合わせるように走っていた。二人の脳裏に、氷床の上で黒頭巾の群れに襲われた時の光景が蘇ってきた。

 あれはオオカミだ。七頭ほどが、ゆっくりと移動している。

 毛長牛の群れは、丘の先に姿を消そうとしている。オオカミたちが、そのまま毛長牛を追いかけ丘の向こうに行ってくれればと、そう思って二人は身を隠すように雪の上に腹ばいになった。ところが、その動きが目に止まったのか、群れの中程を走っていた一頭が、グイッと二人の方に首を向けた。

「しまった」と思った時には、七頭のオオカミは歩く向きを変えていた。

「逃げよう」

 ウィルタに言われるまでもなく、春香は走りだしていた。

 オオカミとの間は、四百メートルほど。

 走りながら後ろを振り向く。警戒しているのだろうオオカミたちは、一定の距離を保って付いてくる。追跡しながら、こちらの様子を観察しているようだ。

 オオカミたちが勢い込んで走り出す前に、身を隠すかオオカミの襲撃を受け止められる場所を見つけなければと、そう思って辺りを見回しても、周りにあるのは、のっぺらぼうの雪原ばかり。焦って走るうちに、また春香が雪の下の石に足を取られ、体ごと雪の中に突っ伏した。

 それが誘い水となったのか、オオカミたちが一団となって走りだす。

 一気に間合いが詰まる。

 ウィルタは外套のポケットから拳銃を掴み出すと、迫るオオカミたちに向けて、引き金を引いた。皮膚を縮めるような音が、障害物のない雪原を突き抜ける。

 突然の銃声に、狼たちは火花が散るように身を翻した。後方に逃げ出したやつもいれば、雪の中に身を伏せたのもいる。

「今のうちに」と、ウィルタは春香を引き起こすと、腕を掴んで走りだした。

 走りながら後ろを確認、オオカミたちは警戒したのか、雪の中にじっとして動かない。

 しかしそれもほんの数分のこと、しばらくすると、またオオカミたちはこちらに向かって移動を始めた。二人が走るのと同じ足取りでついてくる。

 吹き溜まりだろうか雪が深くなった。膝下まで埋まる雪に、気持ちは走っていても実際には歩いているようなものだ。とにかくなんでもいいから、身を寄せる場所を見つけたかった。こちらは銃を持っている。後ろ楯さえあれば、オオカミたちの攻撃を受け止められる。しかしこんな明けっぴろげの雪原で、四方八方から踊り掛かられたら……、

 そのことを考えると胸が苦しくなる。

 それにしても湿った雪は重い。速く歩こうとすると、その重さがよけい重く感じられる。

 息を切らせながら春香が聞いた。

「何発残ってるの」

「二発」と、ウィルタ。

 回転するシリンダーに六発弾を装填できる連発銃。そこに五発装弾されていた。沼の畔で二発撃って、いま一発。残りは二発だ。間違いようがない。

 二発、少ないとも言えるが、まだ二発残っているとも言える。それに考えて弾数が増えるものでもない。要はその弾をいかに有効に使うかだ。

 春香が提案した。

「待ち伏せして、一頭仕留めれば、退散するかしら」

 ウィルタが即座に首を振った。

「だめだ、失敗すれば、それこそ、その場で餌食にされちゃう。銃を使うのは初めてなんだ。動く的を狙って命中させるなんて、とてもできない。とにかく銃を使うのは、ぎりぎりの状態になってからだ」

 今はまだオオカミたちは一定の距離を保っている。こちらとしては、早く身を守ることのできそうな場所に辿りつくこと、それが先決だ。

「そうね……」と了解しつつ、春香は後ろに視線を走らせた。

 オオカミたちにとっても、この積もったばかりの湿気を含んだ雪は走り難いのだろう、二人の掻き分けた雪の跡を、縦一列になってついてくる。

 ウィルタが、忌々しげに舌打ちをした。

「まったく、あいつらのために、雪を掻き分けてやってるようなもんだ」

「ほんと、金魚の糞みたいなやつらね」

 時々春香はウィルタの知らない言葉や言いまわしを使う。

「なんだい、その金魚の糞って」

「離れそうで離れないものを言う、昔の諺よ」

 ところが、そんな冗談を言っている場合ではなくなってきた。オオカミたちが、また距離を詰めてきたのだ。二人が足を早めると、オオカミたちはもっと足を速める。あっという間に、オオカミたちとの間が半分に縮まってしまった。

 ウィルタが後ろを向いて、銃を構える仕草をする。脅してオオカミたちの足並みを遅らせようというのだ。もちろんそれでオオカミたちが追跡を諦めるとは思っていない。

 ところがウィルタが銃を向けたとたん、オオカミたちは足並みをピタリと止めると、散開するように逃げだしてしまった。

 あっけない、思ってもいない展開だった。オオカミたちは、どんどん後方に走り去っていく。よく分からないが、何はともあれ追跡を諦めてくれたようだ。

 気が抜けたようにウィルタは、構えた銃を下ろした。

 その時、春香が叫んだ。

「ウィルタ、左!」

 首を左に振るウィルタの視界の縁を、オオカミの跳躍する姿が横切る。

 狙いを定める間もなく、引き金を。

「ギャン」という悲鳴が、春香の目の前で上がった。鮮血が白い雪の上に飛び散る。弾が当たった。灰色のオオカミが、雪の上で足を突っ張ったように痙攣させ、尻尾をのた打たせる。別の一頭が雪を蹴散らしながら走り去っていく。

 オオカミたちは、二人の注意を後方からついてくる一隊に向けさせ、その実こっそりと側面に回って待ち伏せしていたのだ。一列に並んでいたのは、群れの頭数が減っているのを誤魔化す狙いがあったのかもしれない。

 春香が「あそこ!」と、腕を大きく伸ばした。

 百メートルほど離れた岩の上で、オオカミたちが並んでじっとこちらを見ていた。側面に回っていた一頭も合流したようだ。中央のがっしりとした体格のオオカミがボスだろう。試しに銃を向けてみるが、オオカミたちは反応しない。

 以前、タタンが模型の銃を見せて教えてくれた。銃の弾の届く距離、つまり到達距離に比べて、相手にダメージを与えて倒すことのできる距離、射程距離は格段に短いということだ。それはミトの仲間たちが使っている強弓でも同じだ。

 果たしてオオカミたちは銃の射程距離に入っているのだろうか。でもたとえ入っていても、自分の腕で当てることはできない。

 ウィルタが銃を構えたままじっとしていると、ボスらしき灰色のオオカミが、首を天に向けて一声吠えた。撃てるものなら撃ってみろとでも言っているようだ。

 もう弾は一発しか残っていない。これを撃ってしまったら、後はオオカミたちを迎え撃つ術はない。それに次はどんな手でオオカミたちが襲って来るか……。

 しばらく、ウィルタとオオカミのボスとの睨み合いが続いた。

 じりじりするような時が流れる。

 と、ウィルタがオオカミのボスを睨んだまま、ゆっくり両手を突き出した。銃口とオオカミが一直線になるように銃を構える。

「どうするの」

 ウィルタの真剣な横顔を見て、春香が聞く。

「撃つ」

「撃つって、あの距離じゃ弾が当たらないんじゃない」

「それでも撃つ」

 願うような目で自分を見つめる春香に、ウィルタがはっきりと言った。

「背中を見せて歩き出せば、あいつらはまた追跡を始める。最後の一発を使って一頭仕留めても、残った他の連中が追ってくる。それは追いかけることを命令されているからだ。追跡を止めさせることのできるのは、あの真ん中のボスだけだ。ボスに、これ以上追いかけてくると、次はおまえを撃つ。そう伝えるために撃つ」

「弾が無くなるわ」

「弾はいくらでもある、ぼくの心の中に。オオカミは、こちらが幾ら弾を持っているか知らない。こちらが不安がっているから、弾が無くなって逃げていると思って、追いかけてくるんだ。来たいならいくらでも来い。その代わり、こちらは幾らでも撃つ用意がある。そう思わせるために、届かない弾を撃つ。最後の一発を」

 ウィルタは十分に狙いをつけて、最後の一発を発射した。

 銃声とともに、群れの数頭は腰砕けに体を動かしたが、真ん中のボスだけは微動だにもせず、推し測るような目をウィルタに向けていた。

 発射し終わると、ウィルタは銃を胸のポケットに入れた。そして春香の手を取ると、オオカミたちに背を向けた。

「ゆっくり歩こう、走っちゃだめだ」

「分かったわ」

 二人は雪を踏みしめながら、その場に背を向けた。後ろを振り返りたい誘惑を抑え、一歩一歩、足元を確かめるように歩く。今にも背後にオオカミが迫っているのではないか、そう思うと胸が締めつけられる。しかし春香が振り向きかけると、ウィルタが春香の手を握って、それを押し留めた。

「大丈夫、もう、オオカミは追ってこない。犬の仲間は自分より優位に立っている者に従うんだ、大丈夫」

 ウィルタが何度も「大丈夫」と繰り返した。

 そうやってどれだけ歩いただろう。気がつくと、目の前に起伏のない真っ平らな雪原が広がっていた。雪が舞い始めたので、もう天来山脈は見えない。

 数キロ先に断層らしきものが雪原を割るように走っている。

 二人はそれを目指して歩いた。

 オオカミと睨みあった時から一時間は過ぎたように思う。あれから後方にオオカミの気配はない。それでも側面から襲ってきたように、突然飛び掛かってくる可能性もある。今はただひたすら歩調を崩さずに歩き続けるしかない。

 止まることもできず、ましてや転ぶとオオカミの注意を引きそうで、とにかく足の運びに全神経を注いで歩く。そして……、いつ解放されるともしれない緊張に耐えられなくなった頃、春香が「あれっ」と、歩きながら足元を見た。

「どうしたの」

「なんだか、やけに歩きやすいと思ったら」

「思ったら?」

「ねえ、ウィルタは、足の下に石の感触を感じる」

 春香が足元の雪を、力を込めて踏み込んだ。

「いいや、なんだか平らな地面を歩いているような感じだけど」

「やっぱりそう」

 二人は立ち止まって互いの顔を見合わせると、靴で足元の雪を掻き分けた。雪の下にある物がなんであるかは直ぐに分かった。氷だ。

 二人は雪の積もった氷の上を歩いていた。

 周りが起伏のない平らな雪原であるということが、それで納得できる。凍結した湖か川の上を歩いていたのだ。分かったことが、もう一つ。雪原の向こうに見える断層のようなもの、それが河岸の抉られた岸だということだ。雪が積もっているので、川と岸の境界がはっきりしないが、かなりの幅の川だ。どこにも黒い水面が見えないということは、完全に凍結しているということだろう。

 靴底の感触で、いま自分たちの乗っている氷が、しっかりとした厚みのある氷だと分かる。しかし、このまま進んで氷の薄い場所に行き着いたとしたら、そして雪ごと氷を踏み抜き、氷水の中に落ちたとしたら、それはオオカミに出くわすことと同じくらいに、心臓が止まりそうなことだ。川筋を離れるのが、賢明な道に違いない。

 そう判断して、二人が後ろの川岸に戻ろうと後ろを振り向いた時、後方百メートルほどのところを、二頭のオオカミがこちらに向かってくるのが見えた。様子を探るように首を左右に振っている。さっきの灰色のオオカミよりも黒っぽい。別のオオカミだ。

 ウィルタは急いで懐から銃を取り出し、狙いをつける仕草をした。だがそんなことはお構いなく、二頭のオオカミは二人に向かってくる。ウィルタが悲壮な声を上げた。

「だめだ、こいつらには脅しが効かない」

「嘘、じゃ、どうすれば」

「後ろに下がることができなければ、前に進むしかない」

 捨て鉢に言うと、ウィルタは春香の背を押し、川の真ん中に向かって走りだした。

 すると、後方のオオカミたちも足並みを速めた。

「走るんだ、春香ちゃん」

 雪を蹴散らし走り始めた二人の後方で、二頭のオオカミが、積もった雪の上を跳ねるように走りだした。ウィルタは何とか止まってくれと願いながら、振り向きざまオオカミたちに銃を向けてみるが、威嚇の効果は全くなかった。

「くそっ」と奥歯をかみ締めると、ウィルタは腰の革袋からナイフを取り出した。最後はこれで立ち向うしかない。カンテラの油があれば、前にやった火吹きの方法が使えるかもしれないが、悲しいかなマッチはあっても油がない。切れている。

 雪の粒が顔に一つ、二つと貼りつく。降りだした雪が周囲をまだらに白く染め始めた。

 どうせなら、もっと盛大に降って吹雪にでもなれば、こちらの姿が隠れて、オオカミから逃げおおせるのにと思うが、そこまでの降り方ではない。

 雪はどんどん濃くなってくる。ウィルタは雪つぶてを掻き分けるようにして、ひたすら対岸の断層のような崖に向かって走った。雪が目に飛び込み、うっとうしい。

 濡れた目をしばたきながらウィルタが後ろを確認、とオオカミたちが足を止めている。

 あれっと思うと同時に、体が傾いた。

 足元を見ると氷が撓んでいる。慌てて足を動かすと、足を置いたところが直ぐに撓み、背筋のゾクッとするような嫌な音をたてた。心臓が小指の先まで縮み込む。

 オオカミどころではない。いや、きっとオオカミたちも、これ以上進むと危険と判断して、追いかけるのを止めたのだ。だとしたら……、

 氷の割れる音がした。

 その瞬間、ウィルタは足を引き抜いた。考えている暇はなかった、とにかく今は足を動かし続けなければならない。一か所に長く体重をかけてはだめだ。

 もう後ろのオオカミも、目に入る雪つぶても関係なかった。短距離走者が走るように、ひたすら足を動かさなければ……、

 どれだけ走ったろう。靴先が雪ではない堅くて丸いものにぶつかり、ウィルタは前のめりに突っ伏した。受け身をするように前方に突き出した手に、手袋を通して雪の下のゴツゴツとしたものが触れた。石だ、助かった。

 四つんばいで荒い息を吐く胸の中で、縮んだ心臓が元の大きさに戻っていく。

 息が切れて苦しかったが、体を起こし、改めて後ろを振り返る。後方の雪上を、小さな黒い点が二つ、ゆっくりと立ち去っていくのが見えた。オオカミたちは諦めたようだ。

 ウィルタは、やれやれと胸を撫で下ろした。

 そして「春香ちゃん」と言いかけ、今度こそ心臓が消えて無くなるほどに縮んだ。無我夢中で駆け抜けてきたばかりの川の途中、黒い水面に春香を見つけたのだ。水面から顔だけ覗かせ、必死で手を伸ばして雪と氷にしがみついている。春香の叫び声が耳を打つ。

「助けて、ウィルタ、助けて!」

 ウィルタは背負っていた荷物を振り捨てると、春香に向かって走った。

 もし自分が手を差し出す前に春香の姿が氷の下に消えたら、それは絶対にあってはならないことだ。そんなことだけは、絶対にさせない。その思いだけでウィルタは走った。足元の氷が撓んで割れることなど、気にならなかった。とにかく今は、あの氷の割れ目から伸びている二本の手を掴むこと、それしか頭の中になかった。

 ウィルタが最後滑り込むようにして春香の手を掴もうとした時、掴んだと思った春香の手が、ウィルタの手からスルリと抜けて、春香の顔がウィルタの視界から消えた。

「春香ーっ!」

 心臓が止まるような思いで叫んで、手を伸ばす。その伸び切ったウィルタの指のすぐ先で、あれっといった顔で、春香が手を水面から出して立っていた。

 春顔が唇を震わせながら苦笑いするように言った。

「足……、立つわ」

 子供の背丈ほどの深さだった。


 とにかく急いで春香を引き上げ、支えるようにして岸に連れていく。

 連れていく間にも、春香はガタガタと震えていた。尋常な震えではなかった。極寒の凍った水にはまれば、人はほんの数分で命を落とす。着込んではいるが、それでも袖や胸元から浸入した水が、下着まで濡らしていた。ガチガチと音をたてて震えながら、春香が「やったね、オオカミたち、去っちゃった」と気丈に話す。

 間髪を入れず、ウィルタが叱りつけた。

「早く濡れた体を温めないと、いくら氷の中で眠っていた古代人でも、今度は本当に冷たくなって二度と目覚めなくなる」

「ほんと、そうね、わたし……」

 何か話そうとするが、顎がガクガクと震えて言葉にならない。

 そして春香が、川の氷が割れそうなほど大きなくしゃみを、立て続けに二つ付いたところに、のっそりとシロタテガミが現れた。春香のくしゃみを聞きつけたといった登場の仕方だった。シロタテガミが無愛想に言った。

「銃など使うから天罰が下ったのだ。それにしても運のいい娘だな」

「何が、運がいいだよ」

 ウィルタが春香に代わって文句を叩きつけた。ウィルタにすれば、シロタテガミが付いていてくれれば、こんな苦労をしなくても済んだという思いがある。だからシロタテガミを睨む目つきが鋭くなる。ところが、そんなウィルタの子供じみた感情など気にするでもなく、シロタテガミが飄々と言い立てる。

「おまえたちの渡った場所は、川の中でも最も氷の厚い場所だ。他の場所を渡っていれば、確実に流れに沈んでいただろう」

「沈んだろうだって、春香ちゃんは氷水にはまって、本当に死ぬところだったんだぞ」

「春香が氷を踏み抜いた場所は、たまたま浅瀬だった。よほど運がいいというしかない。川の真ん中で踏み抜いていたら、今頃はきっと……」

 シロタテガミの話など聞いてられないとばかりに、ウィルタが声を張り上げた。

「もう、そんなことはどうでもいい。こっちは春香ちゃんを温めないといけないんだ。もし春香ちゃんが凍え死んだら、おまえのことを一生恨んでやるからな」

 いきり立って話すウィルタに、シロタテガミがブルッと鼻を鳴らした。

「恨むのはいいが、それはこの先の岩の窪み入ってからにした方がいい。そこにはおまえたちの好きな火を焚くための苔もある。それを伝えようと思って、急いでやってきたのだ」

 ウィルタは今度こそ頭に来たとばかりに、シロタテガミの話を翻訳してくれる春香を押しのけ、腹の底から絞るように怒鳴り上げた。

「余分なことを話さないで、先にそれを言ってくれ」

 怒りをぶちまけると、ウィルタは震える春香を肩から持ち上げ、シロタテガミの言う岩の窪みへと急いだ。


 断層が高さ三十メートルほどの崖となって河岸に連なっている。その崖の下に、夏場の増水時にでも流されて来たものだろう、苔やヨシやリウの枝が帯状に積み重なっていた。うまい具合に崖の張り出し部分の下にあるものは、雪も被らずに乾いている。

 見上げると、崖の途中に岩の窪みがあった。奥行きもありそうで、窪みというよりも洞窟に近い。格好の避難場所だ。

 ウィルタは春香をそこに連れて上がると、直ぐさま河岸のゴミを運び、火を起こした。とにかく胴震えを起こしている春香の体を温めなければならない。次々とゴミを運び、火を大きくする。乾いたリウの枝が炎を噴いて燃え上がり、洞窟の中が明々と照らしだされる。とその炎に照らし出された物を見て、ウィルタがギョッとして目を見開いた。

 洞窟に入った際、奥の方にゴロゴロと石が転がっているなとは思っていた。それが人の頭蓋骨であることに気づいたのだ。照らし出された頭蓋骨は、ざっと見ても千は下らない。丁寧に積み上げてある。それに埃を被り擦れてはいるが、頭蓋骨に何か描かれている。経文のようなものもあれば、抽象的な絵のようなものも……、

 ここは墓所なのだろうか。

 ウィルタは頭蓋骨のほうを見ないで済むよう、焚き火に体を寄せた。


 火が落ち着いてくると、ウィルタは外の様子を偵察してくると言って外に出た。

 体を温めようと、濡れた衣服を脱いで、下着姿になった春香に気を遣ったこともあるが、夕暮れが近い、日のあるうちに、周囲の様子を把握しておこうと思ったのだ。

 河岸の崖を上がって辺りを見渡すと、崖の上前方には、今までと同じような雪原が続いている。翻って川筋を振り返り、ウィルタは目を見開いた。シロタテガミが言ったように、自分たちが幸運だったことを思い知ったのだ。自分たちが渡った場所を除けば、上流でも下流でも、川は中央部分で黒い水面を覗かせている。ほかの場所では、氷が割れるどころか、渡ろうとさえ思わなかっただろう。

 ウィルタが乾いたリウの束を抱えて洞窟に戻ると、すでに春香はセーター姿に戻っていた。そのセーターから蒸気のように湯気が昇っている。洞窟の奥に目を向けると、頭蓋骨の眼窩が作る暗い陰が、炎の揺らぎで微妙に動いて、まるで骨が生きているように思える。ウィルタは背筋を震わせると、居並ぶ骨から視線を逸らせた。

 風が出てきたようで、洞窟の外では雪が斜めに走り始めた。幸い風向きのせいで雪は吹き込んでこない。

 ウィルタは、日没ギリギリまでリウの枯れ枝を洞窟に運び続けた。多めに燃料を集めたのは、オオカミが出てきた時のことを考えてだ。それに今回の山越えは、焚火もできない野宿の連続だった。暖かい飲物も十分な睡眠も取れなかった。今夜はたくさん火を焚いて、ぐっすりと眠り、少しでも溜まった疲れを回復させたかった。

 日没。何とか春香の服も乾いたようだ。

 久しぶりにお湯を沸かし、砕いた板餅入りの白湯のスープを疲れた体に流し込む。

 交代で焚火の番をしながら眠る。

 オオカミの出現を気にする二人に、「川のこちら側はオオカミの縄張りに入っていない」と、シロタテガミが太鼓判を押してくれた。しかし念には念をだ。

 それに暖房の火を絶やしたくなかった。

 結局、交代と言いつつ、ウィルタが火の番をしながら起きていた。そのウィルタも、明け方には完全に寝入ってしまう。疲れが溜まっているのだ。

 昏々と眠る二人の子供を、無数の頭蓋骨がじっと見守っていた。

 薄気味の悪いことを除けば、この洞窟はいい寝床を二人に提供してくれた。

 許すなら、燃料のいっぱい転がっている河岸の地で、もう一泊したいくらいだ。しかしオオカミがうろついてる土地での長居は避けたいし、とにかく早く人の住む場所に辿り着きたいという気持ちの方が勝っていた。

 夜明けとともに二人は出発した。

 ウィルタは念のために銃を手にしたまま歩いた。むろん弾は入っていない。

 久しぶりに暖かな火に当たって眠ったせいか、疲れが融け出たようで足取りが重い。

 それでも一つ難局を乗り越えれば、一つ自分が成長したようにも感じられ、体の奥から少しだけ元気が湧いてくる。きっと次の難局も何とか乗り越えることができるだろう。

 今はそう思える。ただ次にくる難局が何か分からない、それが問題だ。

 そうして川岸の洞窟を出発した二人の上に、今回旅に出て一番の重い雪のベールが立ち籠めようとしていた。



次話「地吹雪」

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