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星草物語  作者: 東陣正則
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     峠


 いつしか道は谷間に入り、足元も砂利道から岩の多い山道に変わっている。

 見晴らしのいい低地を歩いていた時に見えていた竜尾山脈の白い山並みも、手前の小山で遮られて見えない。道は確実に谷を上り続ける。空はますます鈍よりと重く垂れこめ、今にも雪が降り出しそうな空模様だ。

 竜尾山脈は古い山地のために勾配が緩やかで、峠も高さにして千メートル弱という低さ。砂漠と違って道もはっきりと続いている。それに何より、側にはシロタテガミというナビゲーターがいて、分かれ道に来ても的確に人の匂いの残る道を教えてくれる。それが何より心強い。唯一の問題は、ガラガラの岩場が増えてきたこと。つまりグーがどこまで一緒に行けるかということだ。

 できれば一緒に山地を越えて、青苔平原まで旅を続けたい。しかし二人の思いとは裏腹に、徐々に足元が、人の足でも気をつけていないと転んでしまいそうな岩場に変わってきた。グーが足を踏ん張って、本当に先に進むのを嫌がる場面が増えてきた。

 気温が一気に冷えてきた。

 南北に連なるオーギュギア山脈は、南部で標高を低めて竜尾山脈となる。この竜の腰と尾の繋ぎ目の低い山地帯を、ドゥルー海を渡る湿った風が通り抜けていく。西からの風の動きが雲の帯となって見えていた。

 そして恐れていたことが起きる。

 小さな谷川を渉ろうとした時、グーがガクッと膝を折った。大人の毯馬のグーは、体重が三百キロを優に超える。その重みで氷を踏み抜き、氷の下の岩と岩の間に足を突っ込んだのだ。物が折れるような嫌な音がして、グーが横倒しに倒れた。足が折れたのだ。

 悲しそうな声で鳴くだけで、グーは立ち上がることができなくなった。

 子供の力では、とても起こすことはできない。ましてや折れてしまった足をどうにかできるものでもない。そのくらいのことは、二人にも分かっている。

 それでもなんとかできないかと、グーの側に寄り添う春香とウィルタの前に、シロタテガミが現れた。餌を食べたばかりなのか、生臭い息を吐いている。

「何を眺めている、足を折った四つ足にあるのは死だけだ。見ていても仕方ないだろう、それとも殺して肉を食らうか」

 シロタテガミの醒めた口ぶりに、グーの首筋を撫でていた春香が顔を赤らめた。

「そんなことできるはずないでしょう、ここまでわたしたちと一緒に旅をしてきたのよ」

 悲壮な顔の春香に、シロタテガミが冷ややかな視線を投げかけた。

「毯馬の足は砂の上を歩くようにできている。こんな岩だらけの土地に連れて来れば、早晩こうなることは分かっていたはずだろう」

 返事に詰まった春香に、シロタテガミが追い打ちをかける。

「家畜に荷物を運ばせ、運べなくなれば肉として利用する、それでいいではないか。家畜に憐れみなど無用、案外これで家畜業からおさらばできると、考えておるかもしれんさ」

 嫌みたっぷりな言い草に、ほっぺたを膨らませた春香が、「もう、シロタテガミは、あっちへ行って」と、シロタテガミの首を向こうに押しやった。

 シロタテガミはやれやれといった風に首を左右に振ると、体を反転させた。そうして半身のまま、目だけでちらっと人間の少女を見やった。

「行くのはいいが一つ忠告しておく。数日中に天候は崩れる、つまり雪になるということだ。その前に峠を越えるのが賢明だろう。もちろん毯馬とここに残りたいというのなら、それはおまえの自由だ。だがわしは先にいくよ。オオカミだって、自分の背丈以上に積もった雪道を行くのは難儀なのでな」

 そう言い残すと、シロタテガミは垂れた尾を左右に振りながら、小雪の舞い始めた谷筋の岩場を、ヒョイヒョイと跳ねるように上がっていった。

「シロタテガミのやつったら、薄情なんだから」

 頬を膨らましたままシロタテガミの後ろ姿を睨みつける春香の傍らで、ウィルタはじっと横たわったままのグーを見つめていた。グーの長い睫に、雪の結晶が白いレース飾りのように引っかかっている。

 随時、春香に翻訳してもらいながら、ウィルタもシロタテガミの話すことを聞いている。間に春香の翻訳が入る分、シロタテガミに対して春香ほどの不快感は感じない。それに町育ちの春香に対して、ウィルタは曠野で家畜と共に寝起きをする暮らしをしてきた。役に立たなくなった家畜は、屠ふるのが当り前で、シロタテガミの言うのは、もっともなことだ。家畜なのだから、歩けなくなれば次の利用法を考えればいい。それだけのこと。殺して肉の塊にすれば、持ちきれないほどの食料になる。牛飼いの人たちなら躊躇なくそうするだろう。

 怪我をしたままここに置き去りにされ、飢えて死ぬくらいなら、いっそあの石鱗病の人たちに殺されて、彼らの胃袋を充たすことに役立ててもらえば良かったのかもしれない。石鱗病の人たちの冷たい視線が目に浮かぶ。

 グーが、睫についた雪を瞬きして払うと「グー……」と、長く鳴いた。それはグーがウィルタに抗議をしているようでもある。

 ウィルタが小さく首を振った。

「おまえはほんと、いつでもグーだよな。嬉しくても悲しくても、お腹が空いても、きっと足が痛くても、いつでもグーなんだよな」

 突然ウィルタは立ち上がると、駆けだした。

 何事かとウィルタを視線で追いかける春香の前方で、ウィルタは岩に張り付いている苔を剥がし始めた。すぐに春香にもウィルタが何をしようとしているのか分かった。春香もウィルタの側に駆け寄ると、並んで苔を剥がし始めた。

 二人とも無言で手を動かし苔を剥がす。

 ひとしきり苔を剥がすと、それを集めグーの側に運ぶ。グーが顔の横に積み上げられた苔に舌を伸ばして食べ始めた。グーグー鳴きながら嬉しそうに食べる。

 午後を大きく回るまで二人はひたすら苔を集め、グーの頭の周りに積み上げた。

 それでグーが何日生きられるか分からない。こんなことに何の意味があるのかもよく分からない。それでも、何もせずにグーをそこに置き去りにすることはできなかった。雪がうっすらと積もり始めていた。

 ウィルタは最後、フェルトの敷布をグーの背にかけた。

 グーは、時々グーと鳴くだけで、ひたすら口を動かし苔を食べている。それは幸せそうな顔だ。生き物が一番幸せなのは、物を食べている時だというが、本当だと思う。

 二人は荷物を持つと、しばらくの間、幸せそうなグーを見ていた。

 そうして「グー」と、一声だけ呼びかけた。

 グーは顔を上げもせず、ただもうモグモグと口を動かしている。

 ウィルタが春香の背に手を当てた。それが「もういいだろう」という合図だった。

 春香はウィルタと目を合わせると、小さく頷いた。

 そうして二人はグーに背を向け、谷間の坂を上っていった。

 振り返ることはしなかった。自己満足と言われるかもしれない。人間の身勝手と、たぶんシロタテガミは言うだろう。でも今の自分たちにできることは、あれくらいだった。

 自分たちの目に残ったのは、幸せそうに口を動かしているグーの姿だ。

 さよならなど、とても言えなかった。

 二人は無言で歩いた。

 歩くと冷えていた体が温まり息が弾んでくる。早く峠を越してしまいたかった。そうすれば、前にあったことを忘れて、次の事が見えてくるような気がする。

 三時間ほど息を切らせて速足で歩くと、峠に出た。峠だと分かったのは、そこにシロタテガミがいて、そう言ったからだ。

 相変わらずの憎たらしい言い草で、開口一番、

「まったくもって、もったいないことを、肉を焼く臭いが流れてこなかったから、たぶんこんなことだろうと想像していたさ」

 そう言ってシロタテガミは、峠の下、春香たちが歩いてきた方向に視線を流した。

 慌てて「だめよ、戻って食べちゃ」と、春香が怒ったようにシロタテガミの背を叩く。

 どかりと腰を下ろしたシロタテガミが、後足で耳際を掻いた。何を馬鹿馬鹿しいことをと言わんばかりだ。しばし両耳の後ろを掻くと、シロタテガミは「今日はもう食事は済ませた、人と違ってオオカミは無益な殺生はしない」と、いつもの皮肉を口にした。

 そして真面目な口調に戻って、

「早く峠を下りたほうがいい。ここは風が通るから冷える。それに、ここから先は道が四方に別れる。雪が積もって往来の臭いを消さないうちに人の臭いを辿るから、迷いたくなければ、しっかり付いてくることだ」

 付いて来なければどうなっても知らないとばかりの、強引な忠告だった。

 春香はウィルタの耳元でシロタテガミの助言を翻訳すると、体についた雪を払いながら重い腰を上げた。そしてシロタテガミに答えた。

「分かってるわよ、どうせわたしたち人間には、臭いなんて分かりっこないんだから」

 雪雲で空が閉ざされて薄暗くなってきた。それでも日没までには、まだ二時間ある。

 荷物を担ぎ上げると、ウィルタがシロタテガミに向かって呼びかける。

「ぼくたちは、お前みたいに毛皮の外套だけで走り回れるほど身軽じゃない。足も二本しかないんだから、もう少しゆっくり歩いてくれよな」

 しかし春香がウィルタの言葉を翻訳しようとした時には、すでにシロタテガミは峠の先の坂道を、後ろ姿が雪でぼやけるほどに下っていた。二人は首を竦めると、シロタテガミを追いかけるように大小の石の転がる斜面を下りていった。

 本格的な雪降りになっていた。


 その夜は、峠を下ったところの岩穴に泊まった。この峠道は、たまに人が行き来しているらしく、焚火の跡が幾つか残されていた。

 盗賊の荷物の中にあった地図は、峠を越えたところで終わっている。

 旅に出た当時に持っていた地図の記憶では、この竜尾山脈を越え、低い山稜地帯を真っ直ぐ南に下った先に、青苔平原が広がっている。平原に出れば街道も走っている。もう一息。自分たちの歩くスピードなら、あと五日くらいで、その青苔平原に到達できるのでは、そうウィルタは考えていた。

 峠を越え、日付も変わる。

 グーのことを思い出すと胸が痛むが、目標の青苔平原まであと一息ということが、思いのほか心を軽くしてくれた。

 単調な山間の上り下りの道が続く。

 ウィルタは、これまでの旅のことを思い返していた。

 旅をしていると、自分が父親に会いにいくために旅をしているのだということを忘れてしまう。旅を続けるために旅をしている、旅そのものが目的のように思えてしまう。

 もう旅に出て、七十日。

 旅に出てからというもの、寒さに震えながら朝を待つ時、脳裏を過ぎるのは、これから会いに行こうとする父さんのことではなく、シーラさんの小屋の思い出だ。ユカギルの町の暮らしと比べると、何もない生活だったけれど、楽しい毎日だった。朝、暖かな寝床の中でうとうとしている時に、かすかに漂ってきたミルク粥の匂いが、無性に懐かしい。

 手配中の父さんの息子だということで、皆が懸賞金目当てに自分を探している。別にぼくが悪いことをした訳じゃない。一歩間違えれば、死んでいたかもしれない場面だって、いくつもあった。いっそ捕まってしまえばそれで楽になれる。こんな面倒な旅なんか続けなくても済む、何度もそう思った。でも気がつくと旅を続けている。

 もうこのくらい旅をすれば、十分かなという気もする。これまでの旅だけでも、タタンに話して聞かせれば狂気して喜ぶだろうし、今なら曠野の生活と町の生活のどちらを選ぶと問われれば、十分曠野でやっていけますと、シーラさんに胸を張って答えられる。問題は父さんのことだけだ。

 シーラさんは、父さんがぼくを必要としていると言った。だから会いに行って、助けになってあげてと。だけど、いったい父さんに会って、ぼくに何ができるというんだろう。この二カ月余りで分かったのは、ぼくには何もできないということだ。春香に比べれば多少はこの世界のことを知っているつもりだったし、曠野の育ちだから、サバイバルは得意なつもりだった。だけど、とてもとても……。

 春香の方がよほど色んなことを知っている。彼女は、そのことがぼくを傷つけるということを知っているから、あまりこれ見よがしに自分の知識を披露したりしない。だけど、昔の世界を知っているというだけで、たぶん今の時代では、選び抜かれたくらいの凄い人間なんだ。岩船の通路を驚きもせずに入ってきた時……、砂掘り部落に置いてあった飛行機の残骸を見ていた時……、それにトゥンバさんの受信機に慣れた仕草で手を伸ばした時も……。いつもいつもそうだった、すべて、お見通しのような目をしていた。

 生きていくための技術だって、トゥンバさんや今までに会った大人たちに比べれば、ぼくなんか子供騙しのようなもの。

 同じ子供でも、ぼくにあるのは父さんに会いに行くという、ぼんやりとした目的だけ。ホーシュなどは、妹の病気をなんとかしてやりたいという、切実な目標を持っていた。トゥカチだって、ジンバという境遇なのに、あんなにしっかりと働いている。

 まったく中途半端な自分が嫌になってしまう。

「何を考えているの」

 耳元で春香の声がした。まだ起きていたようだ。

 寝袋に隣り合って潜り込んでいると、なんとなく相手が起きているのか寝ているのかが分かる。ウィルタは春香に背を向けたまま、ボソッと答えた。

「これまでの旅のこと、そしてこれからのことだよ」

「そうなの、わたしはシーラさんの作ってくれた、熱いミルク粥のことを思い出していたの。あれ、美味しかったな」

 ウィルタの脳裏に、シーラが春香に言って聞かせた、「旅には道連れが必要なの」という言葉が蘇ってきた。道連れがいればいいなんて、そんなのは当たり前、何を言ってるんだろうとあの時は思った。荷物を手分けして持つ時も、食事を作ったり食べたりする時も、もちろん、いざという時にだって、そりゃあ連れがいれば便利だし、楽しいのは決まっている。

 でも一番道連れがいて良かったと思えるのは、考え込んだ時、その話を聞いてくれる相手がいるということだ。自分だけで考えていると、堂々巡りをして、毛布を頭から被って寝てしまった時のように息苦しくなる。でもそんな時でも、隣で一言何か言ってもらえるだけで、新鮮な空気がさっと肺の中に流れ込んできたような気分になれる。

 目を塞いだまま、ウィルタは考えていたことを忘れて、春香に話しかけた。

「春香ちゃんはさ、昔、食べてた物の事を思い出さないの、ミルク粥なんかと違う、もっと美味しいものがあったんだろう。ホーシュから聞いたけど、古代には、食べ物を瞬間的に凍らせて料理する方法が、あったていうじゃないか。何で凍らせるのが料理になるのか、分かんないけどさ」

 このところ、ほとんど昔の事を話題にしなかったウィルタが、春香に尋ねた。

 春香は「瞬間冷凍かあ……」と、考える素振りを見せた。

 あの飛行機事故の一週間前のこと。母さんが家庭用の瞬間冷凍マシーンなるものを購入した。使い方を試しながら、「今度の春香の誕生日には、これでデザートを作ろう」と、母さんがはしゃいでいたのを思い出す。祖母の時代の新しい調理器具が電子レンジなら、分子調理がはやりの母の時代は、極低温調理器具と超音波調理器具が流行の先端アイテムだった。あの瞬間冷凍機を使ったスイーツの味など、火を使って料理することしか経験のない人たちからすれば、想像もつかない世界だろう。いや調理方法の違いよりも、まずは食材からにして……。

 春香は考えていた。あの時代、自分の生まれ育った国では、日々の食卓が豪華な饗宴のディナーのような料理で溢れ返っていた。本当に贅沢三昧の料理だった。

 でも、そんな料理をウィルタに説明して、どうなるというのか。

 あれは小学四年生の時だ。自分は両親に連れられて、外国にある古代の遺跡を観に行った。町なかのレストランで昼食、真っ白なテーブルクロスの上に、豪華なランチが並んだ。小柄な小学四年生の自分にとっては、とても食べ切れないほどの料理だった。その料理を味見程度に食べただけで、移動のバスへ。

 そのバスの中から、テントを張ったような家の前で空缶を持って並ぶ人たちの行列が見えた。食事の配給を受けているのだと、ガイドの人の説明があった。道が塞がれていた関係で、しばらくの間その場所にバスが停車。わたしは配給の様子を眺めることに。空缶やプラスチックの洗面器のような器を手にした人たちが、ジリジリと照りつける日差しの下、無言でスープの配給を待っている。鍋の中身は、ごった煮のスープのような物だ。

 彼ら、彼女らは、あれが今日唯一の食事だろうと、ガイドの人が、前の方でビールを飲んでいる大柄な白人の男性に説明をしている。

 学校の道徳の教科書に、世界で十億の人が飢えていると書いてあった。実感の湧かない数字だ。先生は真面目な顔で世界の貧困問題の説明をしていたけれど、わたしには、十億という数字は、問題を強調したいために打ち出した、大袈裟な数に思えた。

 外国をプラプラ旅ばかりしている叔父に、そのことを話すと、叔父は笑って、

「たとえば住民票のないスラムに住んでる連中の数なんか、数えようがないだろ。それでもその国の統計には、ちゃんとそのスラムの住民が、下一桁の数字で載せてある。数字なんてものは、数字を必要としている連中が作るのさ。世界には国民の数さえはっきりしない国がいくらでもある。そういう俺だって、その飢えた十億の一人、いつも金欠に喘いでいるからな」

 したり顔でそう言って、メタボの叔父は、わたしのおやつに手を伸ばしてきた。

 十億という数字が、どこまで信憑性があるものなのか、わたしには分からない。確かめる手段もない。でも、熱砂の砂塵の舞うなかで目の前に行列を作っていた人たちは、叔父と違って、間違いなく十億の内側にいる人たちだ。

 そして、もし、あの空缶でスープを受け取っている人たちに、「あなたは、お国で、どんな料理を食べているの」と聞かれたら、どう答えればいいのだろう。

 自分の前に並べられた豪華なランチと、空缶に流し込まれるごった煮のようなスープ、それが自分のいた時代と今の時代という風に重なる。

 それが、世の中というものさと大人は言うだろう。でも……、


「春香ちゃんは、ほとんど昔の話をしないね」

 ウィルタが、ぼそりと言った。

 一緒に旅をしながらも、お互い気を遣っていたと思う。

 年頃は同じでも、育った環境も着る物も食べる物も、何もかもが違うのだ。それに、お互いに不幸とは言えないけど、何かを背負わされて生きているということが分かっていた。その何かというのが明確ではなかったけれど……。

 相手の背中の向こう側にある物に、何となく気持ちが向く歳に、自分もウィルタもなっていた。不用意な言葉が、その何かを背負った相手を傷つけてしまうのではと、そう考えて、敢えてお互いの心の内に立ち入らないようにしていた。そう思う。

 でも、二カ月余り一緒に旅をしてきて、何が相手を傷つけ、何が相手を喜ばせるのか、それが朧にではあるが見えてきた。

 相手に背を向けたまま、春香は「昔の話をしないね」というウィルタに答えた。

「なんだか記憶に霞がかかったような感じなの。時々その霞がさっと晴れて、すっごく鮮やかに色んな事が、つい昨日の事のように蘇ることもあるんだけど、でもそれは突然のことで、普段は必死になって思い出そうとしなければ思い出せないの。昔の事を意識して話さないでいる訳じゃないのよ」

「安心した、ぼくに気を遣って話さないでいるのかと思った」

「まさか、わたし、知ってることがあったら、何でも話す方だもん。記憶ってほんと不思議。前世の記憶が蘇るって話があるけど、なんだかそんな感じなのよね。この時代に生まれた人間なのに、何かの拍子に十三歳までの記憶が失われて、そこに古代の少女の記憶がスポッと入り込んだって感じなの。だから最近は、もし失われた今の時代の記憶が戻ってきたら、どうしようかと思って不安になるの」

 ウィルタがクスリと笑った。

「二千年前から、そういう風に想像力が豊かだったの」

「まあね、でも、わたしが自分の目で見ていた建物や、使っていた物でも残っていれば、自分が古代の生まれだって実感できるんだろうけど、何も無いんだもん。だから、よく分かんないの。

 シーラさんは『あなたがこの世界に目覚めたのは、きっとこの時代があなたを必要としているから』って言ってくれたけど、とてもわたしには、自分が何かの役に立てるなんて思えない。そりゃあ、多少の知識はあるわよ。でも、あのブフエの遺跡の色ガラスの壁画を見て思ったの。この時代に必要なのは、わたしの時代の知識より、わたしが事故で意識を失ってから、その後、世界が何らかの危機に瀕して、違う世界になってしまうまでの間の知識や経験だと思うわ。

 だってわたしが植物人間になって、冷凍睡眠で眠らされるまでの間にも、ずいぶんいろんな新しい技術が開発されたようなんだもの」

 寝袋の中で、ウィルタが胸に吊るしてある紡光メダルに手を這わせた。

 それに気づいたのか、春香が続けた。

「そのメダルだって、わたしが学校で習った知識からすれば、想像もつかない物よ。わたし、なんだか置いてきぼりを食ったみたいな感じ。植物人間にならなければ、そういう道具が使われていた現場を目の当たりにしたんだろうから」

 春香の話を聞いて、ウィルタがほっとしたように、メダルから手を離した。

「少し安心した。ぼくから見れば、春香ちゃんは二千歳も年上の、世の中のことを何もかも知り尽くした魔女みたいに見えてたからさ。あの飛行機の残骸を見て、ぼくとホーシュがはしゃいでいる時だって、春香ちゃん、あんな物を珍しがってって顔で、冷たい目でぼくを見てたじゃないか。いつもぼくがやっていることを見透かしてるみたいでさ」

「なによそれ、あれは、まあ、そういうのも無きにしもあらずだけど、あれは飛行機を見ると、亡くなった母さんと事故の事を思い出すから、それが嫌であの場を離れたの。わたしはわたしなりに驚いていたのよ。だってあの飛行機の胴体に使われていた金属は、絶対にわたしの時代には無かったものよ。一見、昔の飛行機っぽい作りだったけど、外見をそういうふうに作ってあるだけで、実際はもの凄い最新の飛行機に違いないわ」

「それならそうと、もっと説明してくれればいいのに」

 ウィルタが責めるように言うと、春香はコホンと軽く咳払いをした。

「だめなの、わたし科学は苦手だから。それに、古代に生きてたってだけで、知ったかぶりで話すのなんて嫌だもん。そういうのって、すっごく嫌らしいじゃない」

 春香が意地を張るように強調する。

「わたしは自分が知らないことを聞く方が好きなの。それに、わたしはこの世界で生きていかなくちゃならないのよ。自分のいた時代のことを話すより、この時代のことを知ることの方が先だわ」

「でも、なんだかそれって、ちょっとずるいような気もするけど……」

 先細りに呟くウィルタの横で、春香は自分がまだこの世界のことを何も知らないのだということに、自分で頷いていた。そしてもっといろんな物を見て、聞いて、確かめなければという気になっていた。それをやることが、未来に生まれてしまった自分の当面の課題なのだ。なにができるか、なにをやるかなんて、その後で考えればいい。なんたって自分はまだ十三歳なんだから。

 春香の話に相槌を打ちながら、それでもウィルタは、春香のことを羨ましいと思った。色々なことを知っている。それは当然だ。でもそれなら、ホーシュやトゥンバさんだって、自分の知らないことを一杯知っている。でも二人に対して、羨ましいという感情は起きない。それが不思議だった。でも最近になって、その訳が少し分かるような気がしてきた。きっとそれは、春香がまだこの時代の当事者ではないということだろう。そのことが羨ましいのだ。なんの足枷もない立場。何をやってもいい身分。

 確かに春香には、親も友人も、知っている人も、物も、何もないかもしれない。でもそれは全く誰の目も気にせず、何をやってもいいということだ。ぼくから離れてしまえば、追い掛けまわされることもないだろうし、過去の貴重な知識をもってすれば、この時代の人が絶対にできないことを一杯やることができるだろう。

 不公平だなと思う。よく金持ちの家に生まれた人を羨ましいと思うのと一緒で、春香は古代に生まれたというだけで、お金と時間をどれだけ積んでも手に入らない知識や経験を、生まれながらに与えられているのだ。比べて、こちらといえば、無責任な父親の元に生まれたというだけで、苦労して旅をしなければならない。それも人に追い掛けられながらの旅をだ……。

 ウィルタがそのことを口にすると、即座に「バカ」という言葉が返ってきた。

「肉親が誰か一人でも生きているというだけで、それよりほかに、何を望むの。わたしだって、家族の誰かが、どこかにいるっていうのなら、這ってでも会いにいくわ」

 息を繋ぐような間があって、ウィルタが「御免そうだった」と声を落とした。

「謝る必要なんかないわよ」

 怒った口振りだったが、それはウィルタに対してというよりも、肉親が誰もいないという立場に自分が置かれたことへの悲憤だった。

 ウィルタが告白するように言った。

「でもぼく、分からないんだ、自分を捨てた親だよ。会いに行って、何しに来たんだって疎まれることだって、考えられるし……」

「それはお父さんが見つかって、会えることが分かってから考えればいいことじゃない。今から考えても仕方のないことよ」

 春香は、ウィルタが気弱になると、誰かに甘えたくなって愚痴をこぼすというのが、分かっていた。そういうところは自分にもあるからだ。だから父親がいる故のウィルタの悩みが贅沢な悩みだと分かっていても、それをはっきり口にすることは、ためらわれた。

 誰だって、愚痴を言いたくなる時はある。

 グーの背中に掛けていた防寒布、その天幕代わりの布の隙間から、シロタテガミが耳をクルクルと動かすのが見えた。野生の動物というのは、眠っているのか起きているのか良く分からない。春香は心のなかで聞いてみた。

「オオカミのあなたは、愚痴を言いたくなった時、どうするの」

 すると「愚痴とは何だ」という答えが返ってきた。

 どうやら起きていたようだ。春香はシロタテガミの方に顔を向けると、疑問を投げかけてみた。

「自分のやりたいと思ったことが上手くいかくて、自分が嫌になることってない。たとえば、オオカミなら、周りのオオカミが上手く餌が獲れているのに、自分だけがいつまでたっても餌が獲れなくて……、そんな時に、ほかのオオカミに自分の不運を嘆いてみせる、そういうことってないの?」

「それはないな」と、シロタテガミはあっさり言い切った。

「餌が獲れないのは、自分にその能力がないか、もしくは、餌に出くわす確率の問題だ。嘆くことではない。その確率のなかで一個の生物は、その生き物にしかできない運命を生きる。もし餌が獲れずに餓死するなら、それも自分の人生。誰か自分より強い者に食われるのなら、それもまた人生だ。天の摂理の元で生きている者が、それを問うても意味はない。人間とは変なことを考える生き物だな」

 シロタテガミの学者のように断定する言い方に、春香はちょっとがっかりした。シロタテガミの言っていること、それは正論だけど、今は自分の考えに共感して欲しくて聞いているのだ。そこを汲み取って欲しいのに、正論をスパッと言われてしまうと、反論もできなくなる。意地が悪いのか、人の気持ちに鈍感なのか、それとも思ったことは何でも馬鹿正直に言ってしまうのが性格なのか、春香は憮然として言い返した。

「分かったわよ、もう、あなたに聞いたのが間違いだった」

 体をくるりとウィルタに方に向けてしまった春香に、シロタテガミが達観したような口振りで続ける。

「オオカミはオオカミとして生きるだけだ。死んで虫の餌になり、土に帰り、苔となり、また誰かに食われて生き物の体となり、そうやって巡っていく。別に、いま私が、どの段階にいるかは問題ではない、それは……」

 春香の頭の中を、シロタテガミの僧侶の講話のような話が素通りしていく。春香はもう考えることがどうでもよくなって、意識して耳を塞ぎ、眼を閉じた。

 考える回路を閉じた向こうの闇のなかで、自分の心が、意識とは関係なく思考を続けている。自分の中で、果てしなく人生や世界に対する問いかけが続く。

 物質の循環の中の人という、そんな考えで、今ある姿を純粋に楽しむことができるだろうか。生きて死んで生きて死んで生きて死んで……、果てしなくそれを繰り返して……、生き物たちは、何の悩みもなく、ただその時、その命ある瞬間を生きているのだろうか。いずれ自分が別の命に変わる時まで。

 と、お腹がかすかに「グッ」と鳴った。

 どんなに悩んでいても、お腹は正直だ。悩みとは別に生きて、自分を主張している。生き物の生というのは、こういうものだろうか。

 でもわたしは、人は、違う。お腹のようには生きられない。

 そう思う自分とは別に、また、お腹が「グーッ」と、今度は少し長く鳴った。

 その音がグーを思い出させる。

 今頃、グーはどうしているだろう。真っ暗な中、頭から雪を被って、それでも苔を食べ続けているだろうか。苔を食べ尽くして、やがて飢えて死んでいく。その時、周りには誰もいないだろう。家族も、仲間も、誰もだ。たった一人で、グーはあそこで雪に埋もれていくしかない。

 孤独が身にしみた。死ぬときは誰だって一人だ。でもだったら生きている時だけでも、孤独でありたくない。

 また、お腹が「グーッ」と鳴る。

 横でウィルタがクスクスと笑って、「板餅の欠けら、食べなよ」と言った。そして付け加えるように「グーのやつ、真っ暗な中で寂しくないかな」と、独り言をこぼした。

 春香が寝袋の中で手を伸ばし、ウィルタの手を握った。温かい手の平のぬくもりが、自分の手の平に伝わってくる。

 春香が、しんみりとした声を吐く。

「今頃たっぷり食べて、それでもまだ食べ足りなくて、夢の中でも食べてるわよ」

 春香の手を握り返しながら「そうだろうな、せめて夢の中だけでも」と、ウィルタが応じる。シロタテガミが、ブシュンと大きなくしゃみを天幕の外でついた。




次話「雪原」

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