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星草物語  作者: 東陣正則
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石魂の沼


     石魂の沼


 午後も大きく回った時刻、開けた土地に出た。

 小さな平原ほどの広さの土地に、凍りついた沼が幾つも点在。ほとんどの沼は凍結しているが、なかには岸辺だけが凍り、白い輪の内側に黒い水面を見せている沼もある。そんな沼が三つ合わさり、中央にクローバー型の暗い水面を覗かせていた。

 沼の畔に、石積みの家が何軒か長屋のように並んでいた。

 煙突から白い煙が上がっている。人が住んでいる。

 と家の前にいた人影が、こちらに気づいて家の中に逃げ込んだ。

 ウィルタたちは急いだ。何といっても家、それも岩山の上ではなく地面の上に建つ家だ。中の人と話ができる、交渉ができるはずだ。

 ウィルタは家に着くと、躊躇なくドアを叩いた。ドンドンと拳を扉に打ちつけ「自分たちは道に迷って、食べるものがなくて困っている、救けて下さい!」と、大きな声で叫んだ。二度、三度。しかし家の中からは何の返事も返ってこない。

 仕方なく石積みの家の周りを回ってみる。

 扉以外は、壁の上の方に、明かり取りと煙出しの小さな窓があるだけで、中は見えない。人はいるはずなのに、オオカミに襲われた坊主ウサギのように息を潜めているのか、全く気配を感じない。ウィルタが扉を叩きながら、何度呼びかけても同じだった。

 十分ほど扉を叩き続けて、結局二人は扉の前に座り込むことに決めた。ここで食料を分けてもらえなければ、自分たちは飢え死にするしかないのだ。

 グーも近くに来て、二人の真似をするように座りこむ。

 そうして二時間、不貞腐れたように扉の前に座りこんだ二人の目に、凍りついた沼と沼の間を通って、こちらに向かってくる人の姿が見えた。老いさらばえた毛長牛を二頭引き連れている。よそ者の自分たちがいるのは見えているはずなのに、避けようともせず、ゆっくりと毛長牛の尻を叩きながら、こちらに向かって来る。杖と曲がった背中からして、遠目にも、かなりのお年寄りなのが分かる。

 一旦腰を浮かせかけたウィルタは、老爺が来るのを待つことにした。わざわざ来なくてもいいと言うように、老爺が手の平をこちらに向けたのが分かったのだ。

 数珠を珠送りしているらしく、カチリ、カチリという無機質な音が聞こえる。

 数分後、乞食のような格好をした老爺が、貧相な肋の浮き出た毛長牛を連れて、二人の前に足を止めた。牛たちの角が奇妙な曲がり方をしている。

 老爺同様、老いた毛長牛だ。

 老爺は破れた毛布で全身をすっぽりと覆っていた。毛布の間にわずかに覗く顔と手には、薄布を巻きつけてある。体で本当に露出しているところと言えば、窪んだ目と、しわの寄った爪くらい。頭巾から食み出た髪とひげは、油で塗り固められてテカテカと光り、洞窟のように落ち窪んだ目は、まるで骸骨に目玉を押し込んだようだ。

 ただ老人特有の小さな眼は、濁りのない澄んだ光を宿している。

 老爺が小屋の前にいる二人の子供を見て、不思議そうに首を傾げた。そして足を擦るようにして二人に顔を寄せると、しぶいた声で「誰も出てきやあせんよ、みな命は惜しいからな」と、話しかけてきた。

 老爺の目に敵意は感じられなかった。

「食い物が欲しいなら付いて来なさい。わしの小屋に少しは残っとる」

 老爺が握りしめた数珠を鳴らしながら、足を擦るようにして歩きだした。

 顔を見合わせた春香とウィルタは、どちらからもなく頷いた。今は、この老爺に付いていくしかない、そう思えた。

 老爺のゆっくりとした歩調に合わせて歩く。指の長さ以上に伸びた霜が、ジャリッ、ジャリッと足の裏をくすぐるような音をたてて崩れる。

 クローバー型の沼の縁を進むと、完全に凍りついた沼の上に出た。浅い沼なのか、氷の端々にヨシの茎が突き出ている。靴の裏に堅い氷の感触が伝わってくる。腰骨の突き出た二頭の毛長牛は、氷の上を歩くことに馴れているのか、足を滑らせそうになりながらも、ヒョコヒョコとリズム良く足を動かし進んで行く。その後ろを、グーが腰砕けになりながら続く。

 氷の沼を渉り切った対岸に、小屋ともいえない石積みのあばら屋があった。

 家の前で老爺が引き綱を離すと、二頭の老いた毛長牛は、互いに寄り添いながら、壁と屋根だけのあばら屋に風を避けるように体を押し入れた。そのあばら屋の横、牛小屋に柱を寄りかけて作った隙間の前で、老爺が手招きをした。

 応じて、その隙間に入る。家畜の骨を繋いで作った梁と、皮を縫い合わせた天幕で囲われた二畳ほどの空間、そこが老爺の住まいだった。ツーンとタールのような匂いが鼻をつく。狭い部屋の中には、石を並べた竃と、ヨシのゴザを敷いた寝床、あとは鍋と椀、リウの編みカゴが一つあるだけだ。

 腰を下ろした老爺が、冷えた竃で火をおこし始めた。石を打つ音と火花が、暗くて狭い部屋をよけい寂しく感じさせる。

 竃の火が落ち着いてくると、老爺は火の中に茶色い苔を一掴みくべた。白い煙が立ち昇り、刺激臭が辺りに立ちこめる。小屋に入った時に鼻を刺したタールのような臭いだ。

 老爺が竃の上に鍋を置きながら言った。

「ダニ避けの煙じゃよ。ここはダニの多い土地でな。おまえさんがたも随分食われたようだな」

 春香の顔に残る赤い斑点を見て、老爺がひび割れた唇の間から鈍い息を吐いた。

 牛小屋との仕切りの石積み以外は隙間だらけの空間で、風が容赦なく抜けていく。

 勧められるままに湯を飲み、干し肉を噛みしめるようにして食べる。

 老爺が説明してくれた。

 ウィルタの推測どおり、この竜鱗堆の地では、人の住まいは岩山の上にある。人は必要のある時にしか下界に下りてこない。そして出入りの時以外は、台地の上に繋がる岩穴の通路は堅く閉ざされる。なぜか、ここには二つのダニがいるからだ。

 一つは人の血を吸う小さな吸血性のダニ、もう一つが砂漠からやってくる山賊というダニだ。虫のダニは風土病を媒介し、山賊というダニは金銭や人の命を奪う。だから人はダニを避けて台地の上に住む。

「でも、ぼくたちはダニでも盗賊でもないよ、どうして嫌われるの」

 問い質すウィルタに、老爺は火に苔をくべながら語った。

 ここの人間は、毯馬と一緒にいる人間を警戒する。毯馬は砂漠からやってくる盗賊の代名詞だからだ。数年前のこと、毯馬に乗った子供が道に迷ったと言って、岩山の下に現れた。子供たちは裸足で凍えていた。不憫に思った岩番が岩戸を開けたとたん、子供の後ろから賊が現れ、岩山の住人が皆殺しにされた。子供を使った策略だった。

「そんなことがあったから、おまえさん方は警戒されたんじゃろう」

 二人はやれやれとばかりに顔を見合わせた。

 しかし、岩山の住人たちが自分たちを盗賊と間違えて怯えていたのに、なぜ目の前の老爺は恐がらないのか。それに、老爺や、さっきの小屋の人たちは、なぜ岩山の上ではなく、このダニの巣窟のような沼のほとりに住んでいるのか。そのことをウィルタが尋ねると、老爺は嘆息しつつ、厚く羽織った頭巾を引き下げた。

 露わになった老爺の顔を見て、ウィルタと春香は息を呑んだ。額から鼻にかけて、皮膚が一面固い鱗に覆われていたのだ。老爺が手首に巻いた布を解く。するとそこにも堅い鱗が。老爺はそれ以上布を解かなかったが、石の鱗は腕の上へも続いているようだった。

 老爺が話を続ける。

 この地は竜鱗堆と呼ばれるが、その名は地形からではなく、実はこの風土病からきている。ダニが媒介する石鱗病という風土病は、罹ったからといってすぐに死に至りはしない。それでも病が進むと、体中が石のように堅い鱗に覆われ、人は皮膚での呼吸ができなくなって死んでしまう。もし鱗が目に回れば視力を失い、舌に回れば味を失う。老爺の場合は、なんとか最後まで目を鱗に覆われずに済んだという。

 顔に布を巻き直すと、老爺は全身を覆うように頭から毛布を被った。

「痛みはないし、自分で自分の顔は見えんでな、どうということはないんじゃが。同じ病気の者同士顔を合わせると、やはり気持ちが悪い。だからこの病気に罹った者は、みな体に布を巻きつける」

「じゃあ、岩の上じゃなくて、ここに住んでいるということは……」

「この病気に罹ることを、ここでは神の息に触れるという。皮膚が石の鱗、つまり竜の鱗に変わり始めると、神が宿ったと考え、その人物は台地の上から石魂の沼と呼ばれる沼のほとりに居を移す。最低限の食料や生活用品は村から届けられるから、食うには困らん。ここの住人は、神への喜捨の食料で命を繋ぎながら、やがて全身が鱗に覆われて亡くなるまで、神の世界に旅立つまでを、沼の縁で過ごすんじゃ」

「そんな、それ隔離されたってことでしょ」

「まあ、そういう風にも解釈できるかな」

「沼のあちら側の人も同じ病気なんでしょ、どうしてお爺さんは一緒に住まないの」

 老爺が重い息をついた。

「この病気は万に一つくらいだが、治ることがある。人の体というものは不思議なもんで、鱗の跡も残らないくらい綺麗に治ることがあるんじゃ。そういう人物は、逆に人神様として崇められ、人の住む世界に喜んで迎えられる。沼のあちら側に住んでいる連中は、まだ万に一つの可能性を残した連中じゃよ」

「じゃあ、おじいさんは……」と、春香が小さな声で聞いた。

「沼の西側、こちら側は、生の彼岸を渡った場所。もう引き返すことのない者がくる場所じゃ。わしは生まれ育った岩山を一目見たかったんでな、二日の行程を往復してきたところだ。無理な行程で疲れたが、もうこれで思い残すことはない。そうでなければ、おまえさん方に声を掛けたりはせんかったじゃろう」

 老爺は狭い小屋の中に目を馳せた。

「小屋の中の物で必要なものがあったら、持って行きなさい。どうせ、わしが死んだら燃やされてしまうものだ。そこの丸カゴの中に板餅も何個か入っているはずじゃ」

「だってお爺さん、まだ食べるでしょう」

 老爺は自身の骨ぶした指に目を落とすと、口元を緩めた。

「娘さんや、食べるというのは、生きることに希望を持つ者のすることじゃ」

 老爺が薄い笑い声を吐いた時、表で苔をむしっていたグーが、大きなゲップをした。

 その音に老爺が顔を上げる。

「そうそう、外の毯馬じゃが、もしおまえさん方がここよりも南に行くつもりなら、あの毯馬は砂漠に返してやった方がいい。これより南は岩場が増えて、毯馬の足では無理だ。誰か砂漠に戻る者でもあれば、託せば良い」

 そこまで言って、老爺は目を閉じ「ウム」と顎を引いた。

「お迎えの竜が来たようじゃ、悪いが必要な物を持って小屋から出て行ってくれるかな。最後は一人で行きたい……」

 老爺は手にした数珠を握り直すと、ぶつぶつと口の中で経を唱え始めた。

 二人は老爺に向かって静かに会釈をすると、餅の入った袋と鍋を貰って小屋を出た。そして扉代わりの皮布をそっと下ろした。

 小屋の外では、グーが毛長牛のまぐさ用に積んである苔を頬張っていた。そのグーを引っ張るようにして小屋から離れる。

 二人は岩に腰を下ろした。何も話さず、じっと老爺のいる小屋を見つめた。

 隙間だらけの小屋から、老爺の唱える読経と数珠を鳴らす音が聞こえてくる。

 しばらくその低い読経の声に耳を澄ませたのち、二人は老爺のあばら小屋に一礼すると、南に向かって歩き出した。

 歩きながら、春香が思い出したように言う。

「さっき、お爺さんが、毯馬じゃここから先に進むのは無理だと言ってたわ」

「うん、ぼくもそれを考えてた。でも引き返す訳にもいかないし。それに荷物を運ぶのは、グーに頼るしかない」

「そうね……」

 名案が浮かばないまま、グーの手綱を引いて進む。そしておよそ百メートルも歩いただろうか、後ろから二人を追いかけてくる者がいた。毛布のような頭巾を被っている。

 ウィルタは身構えたが、その小柄な人物が体形からして女性で、かつ手を振っているので、立ち止まって待つことにした。

 追いついてきた女性は、体中、顔や手、指先まで、一分の隙もなく布を巻いていた。

 その女性が荒い息をつきながら話しかけてきた。

「ごめんなさい、さっきは、てっきり賊が企んだ罠だと思ったの」

 声からして中年の女性のようだ。彼女は二人に向かって深々とお辞儀をすると、ぜひ皆で謝りたいので、寄って苔茶でも飲んでいって欲しいと、話を切り出してきた。

 マッチがたくさんあるなら、それを食料と交換してもいい。何か入り用なものがあるなら相談に乗るからと、そう言われて、二人は引き返すことにした。

 石積みの長屋の前に、二十人近い人が姿を見せ、二人が戻ってくるのを待っていた。みな体だけでなく顔も布で覆っている。身長や体形からすると、老若男女取りまぜた人がいる。とにかく露出した肌という肌に薄布を巻き、頭からすっぽりと頭巾を被って目だけを出している様は、衣服をまとったミイラのようで、一種異様な雰囲気が漂っていた。それに、誰もが髪やひげをべったりと油で固めている。

 これは家の中に入ってから聞かされたことだが、石鱗病を媒介するダニは、毛の間に卵を生む。それを防ぐために、この地域の人は髪やひげを油で塗り固める習慣があるのだと。もしかしたらナマズひげのブーンは、この地域の出身だったのかもしれない。

 二人は、ウィルタが扉を叩いた家に通された。老爺のあばら屋と同じように、ダニ避けのタールの匂いが、小屋の中に満ちている。天井の明かり取りの窓から差し込む薄い光を受けて、皆の目だけがギョロリと輝く。

 ウィルタはカゴから取り出したマッチを、詰め箱ごとゴザの上に置いた。五十箱ある。

 話はすんなりまとまった。板餅四パックに干し肉を一キロ、端の欠けた椀を二つに、煤けたカンテラと燃料用の小瓶、使い古しのザック、それに背負うのにちょうどいい小ぶりの筒カゴ。以上と交換してくれることになった。食料以外は、どれもいらないものだからというが、すごい好条件だ。

 本当にそれでいいのかと聞くと、先ほどのお詫びも込めているという。

 嬉しそうにザックに荷を詰める二人を、皆がにこにこと見ている。思ったよりも好い人たちなのかもしれない。

 さらには、二人を悩ましていたグーの問題が解決することになった。

 毯馬のグーを彼らが引き取り、砂漠方面に出かける人が通った時に、連れて行ってくれるよう頼んでくれるというのだ。行ける所までグーを連れて行きたいという気持ちも残っていたが、外に連れ出され、グーの足の裏を見せられては頷くしかなかった。グーの足の裏は傷だらけになっていた。

 グーの背中に縛りつけてある荷カゴから、必要な物をザックに移し替える。そして出立の準備を整えてグーに別れを言おうとすると、グーの姿が消えていた。家の裏からグーの鳴き声がする。覗くと、なんとグーは、集めてあった燃料用の苔を旨そうに食べていた。

 半ば呆れ顔で二人はグーの尻を叩いた。

 グーは口を動かすのに熱心で振り向きもしない。

 薄情なやつだなと思いつつ、手を振って元気でやれと言って別れる。

 石積みの長屋を後にした。

 外套をまとったミイラ姿の人たちが、手を振って見送ってくれる。顔が頭巾の陰になって、口だけしか見えない。送ってくれるなら、頭巾くらい取ってくれてもいいのにと思うが、病気の肌を見せないよう気を遣ってくれているのかもしれない。

 久しぶりに荷物を背負って歩く。寝袋や毛布などの大物を除けば、あとは鍋と食料、革の水筒、カンテラに燃料の油、マッチが十箱……、荷物といえばこんなものだ。ウィルタがザック、春香が帯を通して筒カゴを背負う。

 しばらく歩き、ザックの肩紐の調整をしようとして、ウィルタが声を上げた。

「どうしたの?」

 鞍のもう一つの荷カゴに、遠眼鏡を入れたままにしていたのを思い出したのだ。遠眼鏡は珍しいものだから、ウィルタは、それをどこかで食料と交換しようと考えていた。

「返してもらってくる、ここで待ってて」

 ウィルタは荷物を置くと、元来た方向に走りだした。

 五分ほど走って、ウィルタは石積みの長屋に着いた。表に人影はない。

 扉を叩こうとしてウィルタは口を閉ざした。家の裏から男たちの笑い声が聞こえてきたのだ。女たちの甲高い鼻歌まじりの声も……。さきほど目にした、押し黙った人たちからは想像もつかない陽気な話しぶりに、思わず耳を澄ませる。

 そして切れ切れに聞こえてくる話し声に、ウィルタは身を固くした。

 なんとグーを食べる話をしている。

 声の中心にいるのは、マッチの交換をまとめた男だ。鱗に覆われた三段鼻が、包帯の間から突き出ていたので覚えている。

 その三段鼻の男が、皆の笑い声に続いて、自慢するように一際大きな声を上げた。

「あの坊主もバカだな、こんなご馳走をみすみす手放すはずがないだろうに。天から授かった肉だ。それに老爺の二頭の牛もいる。これだけでも大変なもんだ。干し肉が三カ月分は作れる」

 ウィルタは足を忍ばせ、家の側面にまわった。

 長屋の裏では、男たちが刃物を磨ぎ、女たちが湯を沸かす準備をしていた。

「ちょっと、この大釜を沸かすのよ、もっと苔を持って来てよ」

「焦るなって、今取って来てやるから」

 バケツを手に、外套の袖をまくり上げた三段鼻の男が苔置場に向かう。剥き出しになった腕と手首に、びっしりと固い鱗が覗いている。と数歩歩いたところで、男がガチャンとバケツを落とした。刃物を研いでいた男が「どうした」と振り向く。

 ほとんど同時に、長屋の裏手にいた連中が一斉に声を上げた。

 家の脇から出てきたウィルタが、三段鼻の男に銃を突き付けていたのだ。

 両手を上げた三段鼻の男が、後ずさりをしながらウィルタに呼びかける。

「坊主、危ないじゃないか、そんな物を持っちゃ」

 男の猫撫で声を無視、ウィルタは「騙したな」と声を張り上げると、男を睨みつけた。

「悪かった、でも、おじさんたちは病気で体力を付けなければならないんだ。分かってくれよ、久々に口にできる新鮮な肉なんだ」

 ウィルタが「騙したな」と、もう一度。

 すえた目で三段鼻の男を睨みつけるウィルタに、鍋を洗っていた女が喚いた。

「よく言うわよ、あんただって、いずれ毯馬を殺すつもりだったんでしょ。もしそのつもりがなくても、毯馬を岩だらけの山に連れていけば、殺すのと同じこと。それを知らないとは言わせないわ。それに預かった毯馬をどうしようが、そんなこと、こちらの勝手、よそ者はさっさと立ち去ればいいのよ」

 女の言い分には答えず、ウィルタは裏庭にいる連中に銃を向けながら、グーの手綱に手を伸ばした。その瞬間、一番端にいた男が、手にした鉈を振り投げた。

 飛んでくる鉈をバンと派手な音が跳ね返す。銃を撃った反動で尻餅を着くウィルタのすぐ後ろで、鉈が石壁に当たって鈍い音をたてた。

 銃声の余韻が辺りを揺るがすなか、鉈を投げた男が顔を歪めてうずくまる。

 弾が当たった瞬間、男の右頬の石鱗が飛び散ったように思う。

 事実、顔を押さえた男の指の間から血が滴り始めた。

「野郎!」

 血相を変えて叫ぶ男たちを威嚇するように、もう一発、ウィルタは引き金を引いた。銃声と共に、男たちの前に転がる大鍋が、派手な音をたてて弾け飛ぶ。

 ウィルタはグーの手綱を引くと、男たちに銃を向けたまま怒鳴った。

「死にたくなかったら動くな。追いかけてくるのは勝手だけど、ぼくは銃の素人だから、威嚇で撃っても当たるかもしれない」

 捨てゼリフを吐くと、ウィルタは後ずさりをしながら裏庭を離れた。

 憎々しげにウィルタを睨みつける男たちの顔が家の陰に隠れると、ウィルタはグーの背によじ登り、銃尻でグーの腰を思い切り叩いた。

 家の裏で罵声が上がる。それを振り切るように、これでもかとグーの腰を叩く。ウィルタの緊迫した叩き方に、いつもはなかなか言うことを聞かないグーが、素直に歩きだした。

 ウィルタは銃を手に、横半身の態勢で身構えていたが、家の裏から人が出てくる様子はなかった。涙が出てきた。怒りもあったし、悲しくもあった。グーには悪いと思いつつ、また銃尻で腰骨の後ろを叩く。とにかく早くあの長屋の見えない所に行きたいと願った。

 両手を合わせたまま、不安げにこちらを見ている春香が見えてきた。

 春香はウィルタが銃を持っているのを知らなかった。銃声が聞こえたので、ウィルタの身に何か悪いことが起きたのではと、心配していたのだ。

 春香の一歩手前で、ウィルタは転げるようにグーから降りた。青ざめた顔のウィルタの胸元から、銃がゴトリと音をたてて地面に落ちる。手綱を握り締めたウィルタの手がブルブルと震えているのを見て、春香はそっと銃を拾い上げた。

 金属のずしりとした重さと、火薬の匂いが鼻の奥をなぞる。

「ウィルタが撃ったの」

「威嚇のつもりだったんだ、当てるつもりはなかった。皆がグーを食べる準備をしていたから……」

 気持ちを落ち着かせるように途切れがちに話すと、ウィルタは自分の手の平を見た。銃を撃つのは初めてだった。無我夢中だったから、その時は何も思わなかったが、今になって、手の平から骨を通して肩に抜ける衝撃が蘇ってきた。そして自分の撃った弾を受けてうずくまる男の姿も……。

 春香は驚いた様子だったが、何も聞かなかった。ウィルタにケガがなかったのを見て安心したのだ。

 荒い息が落ち着くと、ウィルタは堅い表情のまま、グーの鞍に荷物を縛りつけた。そうしながらも、時々後ろを見ては、誰も追いかけて来る者がいないか確認する。凍りついた沼が点在する湿原は、静まり返ったままで、その静けさのなか、微風に乗って死を前にした老爺の読経と数珠の音が流れてくる。

 それは生きることの無常さを懺悔する祈りでもあるかのようだ。

 ウィルタは無言のまま、グーの手綱を引くと、石の魂が沈むという白い沼地を背に歩きだした。歩きながらウィルタは泣いていた。


 この地に、古くから語り継がれた話がある。

 ある時、村の娘が石鱗病を罹ってしまう。娘には将来を約束した青年がいたが、青年は娘の肌に石の鱗が現れるや、別の女に走った。娘は龍に願った。自分の魂と交換してもいいから、この肌を元に戻してくれと……。

 奇跡のように願いは叶い、病は消えて、肌は元の艶やかさを取り戻した。

 それを見て、娘を捨てた青年は、不義の許しを請うように娘に詫びに来た。ところが自分の元に戻ってきた青年の胸を、娘はナイフで一突きにした。両親に反対され、一時は二人で湖に身を投げようとまで誓い合った青年の裏切りを、許せなかったのだ。

 娘は裁かれ、青年の遺族が娘の胸をナイフで刺すことに。目には目をである。

 そして刑の執行。遺族の代表が、少女の胸にナイフを突き刺す。

 が、刃先がポキリと折れた。なんと娘の心臓が石に変わっていたのだ。

 龍が娘を救ったとして、娘は罪を解かれる。

 しかし直後、娘は沼に身を投じてしまう。

 ……‥そういう昔話である。

 娘の身を投げた沼が、鱗堆丘の瓜火原にある石魂の沼で、今でも、この沼のどこかに石と化した娘の魂が沈んでいるという。

 救いのない話。だがこれと似た話が、沼を川に代え、断崖に、谷に、山に、海に代え、大陸の各所に残されている。そのどれもが救いのない結末で語られる。

 それを人は、こう解釈する。

 伝説神話の類いは、それが語られた時代に生きた人や、社会の深層を投影したものである。石魂伝説と呼ばれる一群の伝説は、二千年前の災厄の直後に生まれた。

 災厄前の時代、世界には様々な宗教が乱立していた。数千年の伝統を持つ大宗教もあれば、雨後の筍のように生み出される新興の宗教も数限りなくあった。そして宗教を信じる人たちは、教義は違えど神に祈った。祈りによって救われると信じて……。

 そして驚天動地の災厄が人類を襲う。

 百億を超える人々の内、災厄の試練を潜り抜けたのは、ほんの数千人である。

 生き延びた人たちは、自分たちが何者かの意志、神の意志で選ばれて新しい世界に残されたと考えただろうか。もちろんそう考えた者もいた。しかし多くは違った。神に裏切られたと感じたのだ。

 神に選ばれた者よりも、選ばれなかった者が余りに多かったせいである。

 意図など微塵も感じられない残され方だった。靴の底で踏みにじられながら、たまたま靴の裏の溝に挟まれ見知らぬ世界に運ばれた、そのような残され方、選ばれ方だった。

 信奉する宗教など関係なかった。文化も風習も歴史も国も職業も言葉も、年齢も性別も人格も、病の有無も、日々の行いも、愛する人がいるいないも関係なかった。生き残った人の誰もが、肉親縁者や、文化を共有する仲間や、果ては、いがみ合う相手までをも剥ぎ取られた。何もかもが、いともあっさりと、この世から葬り去られてしまったのだ。

 人類が数千年の歳月をかけて積み上げてきた物の全てが、微塵もなく打ち砕かれた。

 二千年前の災厄にあったのは、神の意志など感じられない無慈悲な破壊に過ぎなかった。

 もしそこに神がいたとしたら、神はルーレットの上に人の命を乗せて、博打でもなさったのだろう。人々が直面したのは、生き延びた数千人という数よりも、圧倒的な百億の死だった。

 神は百億を超える民を見殺しになさった。そのことが、その想いが、生き残った人々の胸の内に、暗く重い記憶として刻み込まれた。そして災厄の後に生み出された民話説話の中に、トラウマとなって忍び込んだ。石魂伝説も、そういう話の一つである。

 もっとも、神に絶望した記憶が薄れるにつれ、人はまた新たな神を創造し信仰を繰り返すようになった。人が生きることに惑い、死の不安に怯える限り、魂の救済者としての宗教は不可欠のものなのだろう。


 夕闇が迫っていた。

 もう石魂の沼のある湿原も遙か後方、竜鱗堆の台地も平原のなかにポツリポツリと点在するだけで、竜鱗堆に代わって、本来の緩やかな起伏をもった丘が続くようになった。

 そうしてありふれた丘陵地の先に、真っ白に冠雪した山並みが見えてきた。竜尾山脈である。あの山脈を越えれば、毛長牛の放牧地として知られる青苔平原に出られる。

 生きていくことの厳しさゆえに、人の心が荒み、魂が石と化すこともある。だから病に怯えながら生きる人たちを、悪く思いたくはない。それでもやはり、人の心の陰の部分を見せられたようで、言いようのない重苦しさが胸の内を支配していた。

 自分があの人たちの立場だったらどうしただろう。

 やはり人を騙してグーを食べようとしただろうか。本当のことは、その人の立場に立って見ないと分からない。でもおそらくは、自分たちもそうしただろう。その確信めいたものが、心の中をよけいに息苦しいものにしていた。

 その二人の重苦しい気持ちを代弁するように、頭上に厚い雲が拡がり始めた。

 重い足取りで歩く二人と比べ、グーは相変わらず道端に苔を見つけては、引き綱ごとウィルタを引っ張って、苔に舌を伸ばす。砂漠の苔と違って湿気のあるこの辺りの苔は、柔らかくて美味しいらしい。「グー、グー」と鳴いては、嬉しそうに苔を頬ばる。

 グーがシロタテガミのように喋れれば、なんて言うだろう。「どうでもいいことに思い悩まず、美味しい苔を探して食べようよ」とでも、言うだろうか。

「人は考え過ぎなんだよ」と。

 でも、人はそんな単純には生きられない。そんなことを堂々巡りをするように考えながら歩いていると、ふいに後ろで、聞き覚えのある唸り声がした。

 シロタテガミだった。春香が助け船に出会ったように、シロタテガミの首に抱きついた。

 ウィルタもホッとして足を止める。

 シロタテガミは、春香に抱きつかれたまま鼻面をウィルタの方に向けると、「おまえ、銃を使ったな。プンプン臭うぞ」と唸った。

 非難するように鼻先をひくつかせるシロタテガミの首を揺りながら、春香が話しかける。

「そんなことより、シロタテガミはどこに行ってたの。こっちは大変だったんだから」

 シロタテガミが舌で口元を嘗めながら言い返す。

「こっちもそうだ、好奇心丸出しで岩山の上の村を覗きに行ったら、あの断崖だろう、降りられなくなってな」

「シロタテガミでも降りれない場所があるの」

 春香が大人に甘えるような口調で聞く。それをシロタテガミも万更ではない風に、楽しそうに受け止める。子供たちの顔を見て喜んでいるというのが、首を振る動作に現れている。シロタテガミが、蠅を追うように耳をクリクリと動かしながら唸った。

「翼でもなければ、オオカミでもあの断崖は無理だ。でも岩山の上からおまえさんたちが歩いているのが見えたな」

「ねっ、岩山の上には、どんな村があったの」

 春香の質問に、シロタテガミがニッと口元を吊り上げた。

「これがな、あの穴底のような村とよく似ているんだ。岩の上に穴が掘ってある。もちろん穴は小さくて浅いが、そこに洞窟のような家が並んでいる。それに、苔を燃やした灰を入れた壺がずらりと並んでいた。あとは岩山の上にはダニがいないことだ」

「へえ、そうなんだ」

 春香の通訳を聞いて、ウィルタが大きくかぶりを振った。

 ひとしきり離れていた間のことを互いに報告し合うと、出発。

 久しぶりにシロタテガミを交えての旅となった。シロタテガミがいると、不思議と大人が一人同行してくれているようで、安心感が湧いてくる。ウィルタと春香は、先程までの息苦しさから解放されたように、のんびりと歩きだした。

 道が上りになるにつれて、後方の竜鱗堆の丘は、辺りの丘陵地の起伏に没して見えなくなった。そして大地は、そのうねりを増し、はっきりと山の裾野へと変わっていった。



次話「峠」

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