骸骨ビル
骸骨ビル
毯馬に乗って一路砂礫の砂漠を南下する。
二人とも瘤のある毯馬に跨るのは初めて。見様見まねで春香が前、ウィルタが後ろに乗って、鞍にしがみつく。賊たちが追いかけて来るのではないかと、ウィルタはひっきりなしに後ろを向いては、地平線に目を凝らす。
冷月山を右に見ながら、ひたすら西南の方向に。
昼前、姿を消していたシロタテガミが現れた。春香が賊のことを尋ねると、二時間で行き着ける範囲に動く者の気配はないと、太鼓判を押してくれた。それでも二人は毯馬を走らせた。人が殺される場面に居合わせた恐怖が、二人の背中を押して、この砂漠から離れたいという気持ちにさせていた。
砂礫地から礫漠、露岩の荒蕪地と、めまぐるしく風景が入れ替る。
砂漠と曠野の境界に来ていた。大気が湿り気を帯びてきたのか、肺に吸い込む空気が幾分丸く感じられる。
午後をまわって、ようやく二人は毯馬の足を止めた。賊が追いかけて来ないからというよりも、乗っていた毯馬が、どう手綱を引いても動かなくなってしまったのだ。昨日の夜からすると、もう延々二十時間近くも走らせている。休ませてやらなければならなかった。それに揺れる毯馬の上で鞍にしがみついていたせいで、こちらも足や腰の筋肉がパンパンに張り、鞍擦れも我慢の限界。人にも休息が必要だった。
二人は苔の群落のある場所を見つけると、そこで休憩を取ることにした。
倒れ込むように、鞍から砂礫の上に下り立つ。
毯馬の鞍に縛りつけてあったカゴの中に、大人用の寝袋を見つけると、見張りをシロタテガミに任せて、二人一緒に潜りこむ。ところが疲れているはずなのに、ほとんど眠れない。心の緊張が抜けないのだ。一時間ほどウツラウツラしただけで、寝袋から起きあがると、二人は寝不足で充血した目を、前方で苔を食べている毯馬に向けた。
酷使されてきたのか、タテガミは切れ切れで、背中に荷擦れの痕が何か所も残っている。それに肩には大きな肉瘤。いったい何が原因でできたものだろう。
ただそんなことは関係なく、目の前の毯馬は黙々と苔を頬ばり続ける。
「グーって言ってたかな」
「何が?」
「毯馬の名前よ。盗賊の一人が、そう呼ぶのを聞いたの」
「グーか、変な名前だな」
「呼んでみようか」
「答えてくれるかな」
声を合わせて「グー」と呼ぶ。
すると、幸せそうに口を動かしていた薄茶色の毯馬が、ピタリと動きを止め、濡れたような目を二人に向けた。そして声の主を確かめると、また苔を食み始めた。呼んだから振り向いたのか、それとも音のした方向を見ただけなのか。
「グー!」と、今度は春香が一人で呼んでみる。さっきと同じように、毯馬は声の主を見る。が春香を確認すると、またすぐに苔の上に口を戻す。
「グー!」と、今度はウィルタ。
まったく同じような光景が繰り返される。ウィルタが嬉しそうに指を鳴らした。
「やっぱり名前は、グーでいいみたいだね」
「うん、本当」
春香も嬉しそうに答えると、もう一度、二人は声を合わせて「グー」と呼んだ。
薄茶色の毯馬が、どうしてそう何度も呼ぶんだとばかりに、面倒そうに首をもたげ、長い睫の下の濡れた目を二人に向けた。二人は新しい友達ができたような気がして、さっきまでの殺伐としていた気持ちが少しだけ和らいだように思った。
四時間ほど休憩してから、二人はグーと共に出発した。
最初はグーの食事が一段落するのを待つつもりだったが、延々と休みなく苔を食べ続けるグーに痺れを切らせて、出発することにしたのだ。辺りを見回せば、毯馬の餌になりそうな苔はいくらもあるし、それに砂漠の先に目印となる岩山のようなものも見えている。岩山まではまだかなり距離があるが、二人は毯馬に乗らずに歩くことにした。
この間、カゴに押し込められるか、鞍にしがみつくかのどちらかだったので、体を動かして普通に歩きたくなったのだ。それに毯馬に乗り慣れていない二人にとっては、不安定な姿勢で鞍に股がるよりも、歩いた方が楽ということもある。日が沈まないうちに岩山に到着しようと、二人は足早に歩を進めた。
ウィルタがグーの手綱を持ち、その横を春香が並んで歩く。後ろにはシロタテガミ。
幸いなことに、この毯馬はシロタテガミを恐がらなかった。きっとオオカミというものを知らないのだ。荷物は全て毯馬のカゴの中だし、足元も砂礫混じりの砂で歩きやすい。二人は大きなペットを連れて散歩にでも出かけるような気分で、丘陵地と丘陵地の間に見える尖った岩山を目指した。
もう賊のことを心配する必要はなさそうだ。
それよりも気がかりなのは、これからのこと。砂漠に足を踏み込む前からの荷で残っているものといえば、着ている物を除けば、ウィルタの場合は、腰に付けた小さな革のバッグくらいで、中身は小振りのナイフと、シーラさんの調合してくれた丸薬、それにウロジイから渡された灰色の石だ。痛いのは、地図を描き写しておいた紙きれを、財宝の話をしたために抜き取られてしまったことだ。宝の地図と勘違いされたらしい。
春香の荷物は、肩から下げている布袋。中身は、ウィルタと同じナイフと裁縫道具に手拭い、板餅が五個、それにチャビンさんから貰ったお守り、これで全てだ。
ハベルードの検問所で発行してもらった仮の身分証は、真っ先に賊たちに取り上げられてしまったし、二人で作った天幕テントは、ホブルさんに助けられる前に重荷になるからと手放している。寝袋や最低限の物を入れたザックは、オアシス・ギボの宿に置いたままだ。もっとも、失った物もあれば手に入れた物もある。
グーの背に振り分けに括りつけられていたカゴの中に、使えそうなものが色々と入っていた。賊を乗せていなかったグーは、荷運び用の毯馬だったらしい。
右のカゴには、毛布が一枚と大人用の寝袋が一本、それと工具が一式と、皮の水袋に小さな遠眼鏡。左のカゴには、毯馬の餌の干した苔に、マッチが六十箱と板餅が二包み。そして何とカゴの底に、布で包まれた短銃が一挺入っていた。そしてもう一つ、工具入れの中に、春香がボロボロになった地図を見つけた。この周辺の地図、これは朗報だ。
あとは、夜間毯馬の背に掛けてやる布。これをテントの代わりに張って、鞍下のフェルトを地面に敷けば、毛布と寝袋で夜の寒さを凌ぐことができる。
問題は食料だ。板餅が二包みで二十個、春香の手持ちの五個と合わせても二十五個。これでは五日間旅をするのが限度で、どこかで食料を手に入れなければならない。
地図を広げる。
といつの間にか、シロタテガミが側に来て、脇から地図を覗きこんでいた。吐く息が生臭いところを見ると、どこかで食事をしてきたらしい。こちらはそう簡単に食料を現地調達という訳にはいかない。
シロタテガミに続いて、グーも地図の上にヌッと首を伸ばして来た。ところが地図が食えないものだと分かると、後ろに下がって、足を折り曲げ座りこんでしまった。この辺りがオオカミと毯馬の脳味噌の違いかもしれない。
しかし、じっと地図を覗きこんでいるシロタテガミを見ていると、薄気味が悪い。
大体において、生き物は長生きをすると、妖怪じみてくるという。シロタテガミもかなりそれに近い。その証拠に、毯馬のグーがオオカミを恐がらないということが分かると、「俺も人間のように、毯馬の背に乗って旅をしてみたい」と言いだした。まったく何にでも興味を持つオオカミだ。
とにかく問題は、これからの進路と、食料をどう調達するかだ。
地図を見る。ナマズ髭のブーンは、蓬楽の宿郷でウィルタを引き渡すと話していた。その蓬楽の宿郷まで毯馬で西に三日かかるとも。そのこととディエール川や冷月山から、おおよその位置を推測する。おそらく自分たちは、晶砂砂漠の南端に帯状に広がる、砂漠と露岩地帯の中間にいるものと思われた。
街道に出るには西に進むのが一番確実で、かつ早い。ただそこは盗賊の巣と呼ばれる地域でもある。それに街道筋の宿郷には、自分たちの手配書が回っている。街道に出るコースは断念したほうが良いだろう。
元々フーチン号で川を下っていた時の目論みは、ディエール川をひたすら下って、大陸中東部のドバス低地を目指すことだった。四日前にカゴに押し込められたまま渡ったディエール川は、すでに凍結。川沿いを進めば針路を誤る怖れはないが、しかしそのためには、いったんディエール川のある北東方向、砂漠地帯に戻らなければならない。だが砂漠地帯では食料の調達が困難だ。西も東もだめなら、残るは南しかない。
いま自分たちがいるであろう場所を、そのまま南に下っていけば、鱗を並べたように小さな丘が並ぶ竜鱗堆という丘陵地帯に入る。その先には、竜尾山脈というオーギュギア山脈南部の山稜が、何本かの峰筋を並走させながら横たわっている。
竜尾山脈を越えれば、その向こう側は、青苔平原と呼ばれる平原地帯だ。
青苔平原にあるマカ国は、ドゥルー海東岸の要の国で、そこは、あのドゥルー海北東岸の石楽の宿郷から、オーギュギア山脈西麓を南北に貫く擬石街道を、徒歩でひと月かけて行き着ける場所になる。すごく大きな寄り道をして、最初考えていた山脈の西側を下るコースに戻ってきたと考えれば良かった。
手にした地図に町の表示はないが、今までの経験から、苔の生えている土地なら人も住んでいるはずだし、越えなければならない竜尾山脈は古い山脈で、低い山の連なりだから、山越えはそれほど大変ではないはず。騎乗用の毯馬は連れているのだし、守護神のようなシロタテガミもいる。
二人は一路南に向かうことにした。
そう考え歩きだして、二日が過ぎた。
もう周囲の景色に砂漠の面影はない。
緩やかな丘が波のように続く土地である。一つ一つの丘は、どれも斜面の一方がなだらかで逆の側が切り立った崖になっている。この特徴的な丘の並びが、鳥の視点で見れば鱗のように見えることから、竜鱗堆という名がついた。丘と丘の間には、所々苔に混じって、白く立ち枯れたヨシも生えている。地面が湿っている。砂利を持ち上げる霜柱が、進むにつれてどんどん育つように大きくなってくる。
柱のような岩山が、いくつも固まって立ち並んでいる場所に出た。近づくにつれて、その細長い箱のような岩の側面に、格子状に方形の穴が空いているのが見えてきた。
突然、春香が走りだした。
ウィルタがグーの手綱を離して、後を追いかける。
ウィルタが追いつくと、春香は箱型の塔の真下で、身じろぎもせずに上を見上げていた。
それは紛う事なき春香の記憶の中にあるビルだった。
骨組みだけの崩れかけたビルは、優に四十階はある。窓枠もなく、建物の中も風雪に洗われて何も残っていない。おそらく昔はビル街だったろうその一画には、崩れて岩の塊と化したビルが、右に左に傾きながら立ち並んでいる。
二人は恐る恐る骨組みだけのビルの中に足を踏み入れた。建物の中央が、四階くらいまで吹き抜けの大きな空間になっている。そのホールのような空間に立って上を見上げながら、ウィルタが感嘆の声をもらした。
「すげえ、こんなに建物を高くして、よく崩れないな」
喋る声が建物の壁に当たって跳ね返ってくる。
「あれは階段だろ、上に上がれるんだ、上ってみようか」
右手に一階から三階までを一足飛びに繋ぐ、幅の広い階段があった。二人がその階段を見上げていると、突然階段の途中にシロタテガミが躍り出た。
「あっ、ずるいぞシロタテガミ、先に上るなんて」
シロタテガミを追いかけるように、ウィルタが階段を二段飛ばしで駆け上がる。
その後ろを、春香が足元を確かめながら一段ずつ上っていく。
足元はがっちりしている。崩れ落ちる心配はなさそうだ。途中三十階くらいで、ウィルタが階段に腰かけ荒い息をついていた。それをゆっくりとした歩調で春香が追い抜いていく。兎と亀の話を思い出して、春香はクスリと笑った。
四十二階で最上階。少し傾いてはいるが、気にするほどの傾きではない。
四角い広場のような屋上を歩く。
後方には、この数日来歩いてきた竜鱗堆の丘の向こうに、砂礫の荒蕪地と白っぽい晶砂の砂漠が地平線となって横たわっていた。進行方向の南と西には、千里の波のように竜鱗堆の低い丘が拡がり、西側遥か遠方には、オーギュギア山脈南部の竜尾山脈の峰々が折り重なって雲の下に沈んでいる。
風が肌を切り裂くように冷たい。上空に尾を引くような雲がいく筋も流れている。
その夜、二人は骸骨ビルの中に泊まった。
夜半、春香は何となく寝つかれずに目を覚ました。しばらく横にいるウィルタの寝息を聞いていたが、寝袋を抜け出すと一人ビルの屋上に上がった。
いつもと風向きが違う。この間ずっと西のオーギュギア山脈の方向から吹いていた風が、逆の東からの風に変わっている。
ビルの屋上のさらにその上、かつて電波塔が立っていたらしいテラスに上る。とたん三百六十度が下界に変わった。テラスの端に腰かけた春香の頭巾を、風がバタバタと煽りたてる。煩いので頭巾を下ろすと、今度は三つ編みを解いた春香の髪が、激しく後ろになびく。寝袋の中で蓄えた温もりが、どんどん風に剥ぎ取られていく。でもなぜかそれが気持ち良かった。春香は自分の不思議な人生を思った。
二千年後の世界で目覚め、旅を始めて二カ月半が過ぎた。朝、目を覚ます時に、いつも想像するのは、柔らかい蒲団の中にいる自分だ。
頭を包み込むような柔らかい枕に顔を埋めながら、繰り返し自分の名を呼ぶ母の声で、目覚めの階段をのぼる。怒ったような母の声に必死に体を起こす。目を開けると、机の上にはパソコンと、昨夜やりかけにしていた宿題。窓の外からは、近所の人がゴミを出すのだろう門を開ける音。挨拶の声、ガレージに籠もった車のエンジンをふかす音、そして階下の台所から聞こえてくるレンジの甲高いチンという音。
どこにでもあるありふれた朝の音の風景。それが聞こえそうな気がする。
いつだって、どこにいたって、目覚める度に今自分の見ている世界が、本当の世界なのだろうかと思ってしまう。覚めてしまう夢じゃないのと、何度思ったことだろう。
輪廻転生という言葉を占いの本で知った。前世の記憶を持ったまま生まれ変わった人の話を読んだこともある。もしかしたら、わたしもそうなのだろうかと思う。過去の記憶が残っていたとしても、それが本当の事かどうかを証明することができない限り、それは絵空事にすぎない。過去の思い出の何もかもが、自分の頭の中の妄想であるかもしれないのだ。もし、そうだとしたら……。
冷気に吹かれながら、春香は想いを巡らせた。
最初に思い出した前の時代の記憶は、飛行機事故の時の母さんの死だった。事故の後の事で唯一思い出せたのは、後ろ姿の父さんが医者らしき白衣の人と喋っている姿……。
どうしてわたしが冷凍睡眠などというもので、未来に送られたのだろう。
想像するしかないことだ。最後に見た父の姿は、私の知っている父よりも老いていた。
たぶん飛行機事故から父の後ろ姿の時までには、それなりの時間の経過があったに違いない。きっと事故の後、わたしは意識を失ったまま二十年という時を過ごし、回復する見込みのない娘を抱えた父は、眠り続けるわたしを次の世代に託したのだ。
本当にそういうことなのだろうか。
春香は顔を上げると、闇を見すえ、記憶の中の父に向かって話しかけた。
「それならそうで、そこまでの経緯を書いた手紙か、ディスクレターの一つでも残しておいてくれたっていいじゃない。二千年も先の時代に一人で放り出されて、知ってる人も、家族も、友達も、誰もいない世界で、どうやって生きていけっていうの。ねえ、答えてよ父さん。父さんは有能な学者だったんでしょ。目覚めた私が、変わってしまった世の中でも困らないように、頭の中に翻訳機まで埋め込む配慮ができて、どうして手紙の一枚を残すことができなかったの。母さんがあの時亡くなったのだって、わたしがそう思っているだけで、本当にそうだったか分からないでしょ……」
「どうした?」
ハッとして春香は膝の間に埋めていた顔を上げた。
すぐ横でシロタテガミが自分を見ていた。
「なかなか下りてこないので様子を見にきた。考え事の邪魔をしたようだな、悪かった」
春香は優しく頭を振った。
「ううん、そんなことないわ。ありがとう心配してくれて。ちょっと風に吹かれてみたかっただけなの、もう下に降りるわ」
立ちあがった春香の耳元を、東からの風が掠めるように通り過ぎる。
その時ふっと、春香は風のなかに、何か懐かしい声のようなものを聞いた気がした。
足を止め、風の吹きつける夜の地平線に目を向ける。ところが風はただ夜の闇を通り過ぎていくだけで、春香の耳に何も届けてくれない。
一寸その場に立ち尽くした春香は、胴震えのする体を両腕で抱えると、階段の降り口で自分を見ているシロタテガミに軽く手を振った。そうして、慌てて外套の頭巾を引き上げると、奈落の底に落ちるような階段を、シロタテガミについて下りていった。
賊から逃れて五日目。
竜鱗堆の丘もまばらになり、それに代わって、岩山のような台地が苔の砂礫地に点在するようになってきた。所々にヨシの湿地もある。見ると立ち枯れたヨシが根元から食いちぎられていたり、苔が剥がされていたりする。地面の上には家畜の物と思われる足跡や糞も転がっている。自分たちがやっと生き物の住む世界に戻って来たことを実感する。
そして本当に久しぶりに、人の足跡を見つけた。何頭もの毛長牛の足跡に混じって、靴の足跡が残っていた。何より決定的なことは、苔を燃やした跡を見つけたことだ。明らかに今歩いているところは、人が暮らしている土地だ。
しかし人が暮らしている世界に戻って来たということは、ほっとする反面、緊張もする。同じ人でも賊のような人もいるからだ。
周囲に気を配りながら、丘と丘の間の苔まじりの砂礫地を進む。
進めば進むほど竜鱗堆の鱗状の丘が高くなり、やがて丘の側面は垂直に反り上がって、崖のようになってしまった。また丘と丘の間の砂礫地に、氷の張った場所が見られるようになった。夏場は沼か湿地になりそうな土地だ。
その日、沼の縁の岩場で懐かしい苔を見つけた。西の曠野で重機に張りついていた針金苔だ。相変わらずの鉄のブラシのような硬さで、さすがのグーも、この苔には舌を伸ばさない。剥がして燃やすと、チンチンと火の粉を散らすように火花が飛ぶ。一風変わった苔だが、この地ではありふれた苔なのか時々目にする。
しかし、いくら進めど人の住んでいる家が見当たらない。
食料が乏しくなってきた。
人がいれば、あるいは人家を見つけたら、カゴの中にあったマッチと交換に食料を分けてもらおう、そう考えていたのに、当てが外れた感じだ。
何となく人の気配はするのだが、姿が見当らない。シロタテガミの自慢の鼻で探ってもらえば、一発でどこに人がいるか分かるのだろうが、こういう時に限って、どこに行ったのかシロタテガミの姿もない。イヌのご先祖様なら、もっと忠実に主人に付いてきてもいいのにと思うが、行動は猫のように気ままだ。
もしかしたらシロタテガミはオオカミの仮面を被った猫ではないかと、ウィルタが茶化して言う。いつもなら、こういう噂話をしていれば、地獄耳よろしく直ぐにノソッと姿を見せるのに、雲隠れでもしたように、いつまでたっても姿を消したままだ。仕方なくこちらは、グーと一緒にとぼとぼと進むしかなかった。
問題は食料以外にもあった。
グーの体調が思わしくないのだ。時々溶けたような便をする。それに歩くのが辛そうだ。砂の上を歩くのに適した座布団のような足は、砂利や石の多くなってきたこの辺りでは、足の裏が痛くて歩き難いらしい。この数日、二人は交代でグーの背中に乗っていたが、グーの負担を軽くしてやるために、鞍を下りて歩くことにした。
歩きたくないのだろう、グーがグエグエと悲しそうな声を上げる。
さらにもう一つ問題が……。
夜寝る時は、防寒用の布で三角の天幕を張り、中に鞍下のフェルトを敷いて、寝袋と毛布を持ち込んで寝ていた。大人用の寝袋に二人一緒に潜り込んでいるので、寒さはなんとか凌げる。問題はダニだ。厄介なことに寝袋の中へ侵入してきて体に吸いつく。余りにもダニに喰われるので、毎日苔を燃やして寝袋や毛布を燻さなければならない。それでもダニの攻撃は止まらない。特にその夜は酷かった。
寝袋の中で二人とも体を掻く。痒さと互いの動きが気になって、とても眠るどころではなかった。グーもダニに集られているのか、しきりにバタバタと体を動かしている。
ついに我慢しきれなくなって、二人は凍てつく寝袋の外に飛び出した。そして明かり代わりのマッチを灯してギョッとする。寝袋やフェルトの上を胡麻をまぶしたようにダニが蠢いていたのだ。春香が寝袋から飛びのいた。その直後、グーが岩に結びつけた紐を引きちぎって闇のなかに走り出した。止める暇もなかったが、それよりも自分の体を這いまわるダニを落とすのが先だった。
夕方集めておいた苔で火を起こし、煙を浴びる。白い煙に体を近づけると、服の表面を這っていたダニが、面白いようにポトポトと剥がれ落ちる。血を吸ってボールのようにパンパンに脹らんでいるやつもいる。とにかくありったけの苔を燃やして、脱いだ服を火と煙に曝してダニを追い払う。服、寝袋、フェルト、毛布、しぶとく這いまわるダニを落とすのに、夜半までかかってしまった。
寒さに震えながらも人心地ついたところで、「苔の間から、ダニが出てきてるわ」と、春香が足元をマッチで照らしながら言った。
どうやらダニは苔の中に潜んでいるらしい。昼間、苔の中にダニがいないことは確認したつもりだった。ところが地表が凍結するこの時期、ダニは苔の下の地面の中に避難している。それが暖かい人の体温に誘われて、土から這い出してきたのだ。岩の上よりも、ふかふかの乾いた苔の上のほうが暖かいし、背中が痛くない。そう思って苔の上にフェルトを敷いて寝たのが間違いだった。おかげで二人は、体中を赤い発疹に覆われてしまった。
ダニを追い払い、フェルトと毛布を岩の上に敷き直して、もう一度寝袋に潜りこんだ時には、もう夜の二時を回っていた。
グーを捜しに行きたかったが、お腹が減って気力が出ない。明日の朝、明るくなってから捜しに行くことにして、もう一度眠りにつく。しかしまとわりついたダニを完全に退治できた訳ではないので、朝までに何度も痒みで目を覚ますことに。痒みをこらえ、ウトウトと浅い眠りを繰り返しながら、こんなにダニが沢山いる場所に果たして人が住んでいるだろうかと、ウィルタは不安になってきた。
そして朝、寝不足で頭がボーッとしている。
起きると直ぐに、ウィルタは再度苔を集めて火をおこした。そして全身に煙を浴びる。
そこにグーがニュッと顔を突き出してきた。グーも煙を浴びようとしている。
グーの顔を見て、春香が手にしたカップと取り落とした。
グーの目や、鼻、口元、耳の穴など、柔らかな皮膚が露出しているところに、びっしりとダニが張りついていたのだ。
鳥肌が立つ。グーには悪いが、春香はとても正視できず顔を背けた。
急いでウィルタが煙を吹き上げる苔をグーの鼻面に近づける。すると鼻の穴からもモゾモゾとダニが這いだしてきた。それで鼻に空気が通るようになったのか、グーがスーッと息を吸い込み、ブシュンと大きなくしゃみをついた。
ウィルタがしきりにグーに謝っていた。何も知らずに自分が苔の中の岩にグーを繋いだせいで、グーをダニまみれにしてしまった。鼻輪を引きちぎったために、鼻から血が出ている。しかしグーはダニがいなくなって気持ち良くなったのか、グーグーと言いながら、傍らに生えている苔を食べ始めた。
いつに変わらぬ旺盛な食欲に、春香が感心したようにため息をついた。
「動物ってタフよねえ、こんなにダニに集られても、平気なんだもん」
実感なのだろう、燃えさしの苔でグーの体についたダニを燻し落としつつ、ウィルタも大きく頷いた。
ダニ退治が終わり、残り少なくなってきた餅を焚火の残り火にかざして朝食。
ウィルタが背中を丸め、心底疲れた様子でぼやいた。
「体の血が半分くらい吸い取られた気分だよ。とにかく、こんなダニだらけの土地から早く抜け出そう」
「まったくだわ」
相槌を打つ春香の横で、グーもそうだと言わんばかりに「グー」と鳴いた。
ダニは嫌いだが、先に進むしかない。
家畜の踏み跡のような道を、春香が前、後ろをウィルタがグーの手綱を引いて続く。
グーは、足の裏が痛いのか、それとも休憩して苔が食べたいのか、グーグーと鳴きながら、すぐに歩くのを止めようとする。苔を食べたいから休みたいのか、歩きたくないから苔を食べようとするのか、おそらく、その両方なのだろうけども、とにかくグーという毯馬はよく食べる。苔を見つければ必ず足を止めて食べようとするし、歩いている時は歩いている時で、胃に溜めこんだ苔を反芻しながら、口をモシャモシャと左右に粉を挽くように動かしている。
自分で荷物を運ぶことができればグーを解放してやれるのだが、ザックなしで今ある荷を担いで歩くことは到底むり。とにかくグーを宥めすかしながら、また半日歩く。
不思議と人に会わない。家畜の姿も見ない。それでも人と家畜の通った踏み跡の道は続いている。落ちている家畜の糞のなかには、ごく最近、物によっては、ほんのついさっき落ちたと思われるものもあるのに。首を傾げたくなることだった。
グーが足を止めたのに合わせて、こちらも小休止。ウィルタは辺りの小高い台形の丘を見上げた。すでに昨日から、竜鱗堆は切り立った断崖に囲まれた台地と化している。高いものでは五階建てのビルほどの高さがある。地図には、数日前に通り抜けた低い丘の地域が小鱗丘、崖に囲まれた台地状の丘が大鱗丘と記されている。
大鱗丘の台地は、二十分ほどで外周を一回りできそうな岩山である。
上が平らな形をしているので、そこに人が住んでいそうな気もするのだが、どれも急な断崖に囲まれて、上に上がれそうな場所が見当たらない。
人の気配がしているのに、姿を見ないということは変だ。人がいるとしたら、やはりこの大鱗丘の崖の上しか考えられない。そう思い直して、もう一度辺りで一番大きな大鱗丘の外周を、ゆっくりと注意しながら歩く。しかし、どこにも上に登れるような岩の割れ目はなかった。崖の上に人は住めない、そう判断して、またトボトボと歩きだす。
ところが、その見立ては間違っていた。
とある大鱗丘の崖下さしかかった時のこと、前方から毛長牛を連れた牧人風の親子が歩いてくる。先にウィルタが姿を認め、手を振って挨拶の言葉を述べた。それで気付いたらしい向こうの親子は、とたん元来た方向に毛長牛を追って駆け出した。
やっと出会った人だし、それに何としても食料を分けてもらいたい。食べる物が無理なら、村のある場所だけでも。村に行けば、食料の余分もあるだろうし、それに旅を続けるために必要な鍋やザックも手にいれることができる。
ウィルタは手綱を春香に渡すと、親子を追って走り出した。
後ろを、春香がグーを連れて追いかける。
しばらく行くと、崖下の岩にウィルタがポツンと腰かけていた。
「どうしたの、見失っちゃった?」
ウィルタが首を振った。
気落ちしたように、ウィルタが背後の崖に目をやった。
「ここの住人は、よほど恥ずかしがり屋なのかな……」
肩を落としたウィルタが、後ろの岩壁をチョンチョンと指差した。なんだろうと岩壁に近づいた春香が、手の平を顔に当てて驚いた。少し色合いの違う岩があると思って良く見れば、それは人工の岩だった。手で触れると、明らかに石の冷たさがない。
春香は、それが人工の板と同じ、ウォトでできたものであることに気づいた。自然の岩の窪みに溶けたウォトを流し込めば、岩とそっくりなものが作れる。これはそれに色を塗ったものだ。手で押してみるが、びくともしない。反対側で固定してあるような感触だ。
「親子を追いかけてここにきたら、ちょうどその石が跳ね戸のように閉まるところだったんだ。きっと出入りをする時だけ開けるんじゃないかな」
春香は人工の岩の周りを探ってみた。どこかに岩を動かすスイッチか、それとも中の人に合図を送る仕掛けがあるのではと思ったのだ。
岩の隙間を覗き込んでいる春香を見て、ウィルタが足元の小石を蹴り上げた。
「無駄だと思うよ、さっき岩の扉が閉まる直前に、余所者は帰れって、怒鳴り声が聞こえたから」
ウィルタの投げやりな調子に、春香が声を荒げた。
「ちょっと、ウィルタはそんなことで諦めるの。食料はあと二日分しか残ってないのよ。ここで調達できなかったら、飢え死にするしかないんだから」
両腕を腰に当てダニを潰す時のような目で春香が睨みつける。
その春香を、突然ウィルタが背後の岩の窪みに押しつけた。
身を竦めたくなる音が、二人の背後で鳴った。人の胴体ほどもある石が砕け散っていた。途中で岩壁の岩も巻き込んだらしく、続けざまにバラバラと小石が降ってくる。
またその小石とは別に、石のつぶてが、少し離れたところにいるグーに向かって飛ぶ。
ウィルタがグーに向かって逃げろと手を振る。ところがグーは、石が当たったのに、ボーッと突っ立って動こうとしない。
ウィルタは春香の手を掴むと、岩壁から外に向かって走り出した。春香の肩の上を石が掠める。威嚇で投げているのではない、本気で狙って投げている。
ウィルタはグーの手綱を取ると、とにかく岩壁とは逆の方向に引っ張った。
大鱗丘の崖が人の背丈ほどに見えるところまで走って、ようやく二人は足を止めた。
息を切らせた二人の後ろで、グーが「グエッ」と鳴いた。
目の上が裂けて骨が覗き、赤い血が目の縁を涙のように流れ落ちている。ただグーはそんなことなど気にもかけず、立ち止まったところでまた苔を食べ始めた。
滴り落ちる血を拭おうと春香が手拭いを出すと、ほんの数歩しか離れていない所で、石が派手な音をたてて弾けた。
いったいどこからと思って四方に目をやり気づく。先ほどの大鱗丘とはまた別の鱗丘が右手にあった。石はそこから投げつけられたものだ。
春香が憮然とした目で、右手の大鱗丘を睨んだ。
「わたしたち本当に嫌われてるみたい、ここも早く離れた方がいいみたいね」
なるべく岩の台地に近づかないようにして、二人は歩きだした。
言いようのない腹立たしさが胸のなかを占めていた。でも、どうしようもない。
ウィルタは春香に見られないように荷物袋から銃を取り出すと、外套の内ポケットに忍ばせた。そして大鱗丘と大鱗丘の間に広がる低地を、双眼鏡で今一度じっくりと観察した。
人や家畜が、そそくさと崖の窪みに姿を消すのが見えた。まるで町にやって来たならず者を避けて家に逃げ込み、扉を鎖そうとしているようだ。岩山の上でじっとこちらの様子を窺っている人たちもいた。顔の表情までは分からないが、こちらを指して何か言い合っている。その連中の後ろから、櫓のような物が運ばれてきた。
「何だろう」というウィルタの問いに、春香が遠眼鏡を借りて覗く。
春香が表情を引きつらせた。
「行きましょ、あの人たち、どうしても私たちをここから追い出したいみたい」
「春香には分かるの、あの櫓が何か」
「投石機よ、石を投げる機械」
春香はもう岩山を見るのも汚らわしいとばかりに、スタスタと歩きだした。
一度気がつくと、色々なものが見えてきた。
大鱗丘の岩山の上から煙が立ち昇っていることがある。やはり人がいるのだ。ただし煙が認められるのは、周囲が全て崖で囲まれた、かなり大きな岩山に限られる。きっと外から絶対に登れないということ、それに家畜を飼う場所や水が手に入るかどうかで、人が住めるかどうかが決まるのだろう。
それにしても、問答無用で石を投げつけられたのはショックだった。人を無造作に殺す盗賊とだって話を交わすことはできた。話を聞きもしないで石を投げつける、それもこちらが子供だけなのに。ましてや、グーには何の責任もない。ダニも嫌だけど、あの岩山の連中はダニ以下だ。歩きながら二人は腹が立って腹が立って仕方がなかった。おまけに、お腹はペコペコだ。
さっきからしきりにお腹が鳴る。その音に合わせて、グーが「グー」と鳴く。
グーは相変わらず歩き難そうにしている。もう砂地なんてどこにもない。
それにしても食料を何とかしなくては、このままでは二人とも餓死してしまう。節約して食べてきたが、残っているのは板餅が四個、それっきりだ。今から西の街道に向かって歩いても、街道に着くまでに飢え死にしてしまう。
何も名案が浮かばないまま、二人は重い足取りで歩き続けた。
ウィルタは考えていた。
本当に食べるものが無くなったら、グーを食べることができるだろうか、そのことをだ。
毯馬の肉は、砂掘り職人の部落に投宿した時に口にした。毛長牛の肉よりも柔らかくて味も良かった。果たして一緒に旅をしているグーを食べることができるだろうか。食べるためには、まずグーを殺さなければならない。暴れないように一息に殺すには、首の付け根の動脈にナイフを入れて……。でも、自分の背丈よりも大きなグーだ。それにグーの円らな瞳を見ていると、とてもそんなことは出来そうにない。
でも人間だって生き物だ。本当にひもじくて、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたらやるだろう。その時はナイフではなく、このポケットの銃が役に立ってくれる。これなら引き金を引きさえすれば、事は簡単に終わる。
そう思って、服の上からポケットの中の銃を手で押さえた時、隣を歩いていた春香が「絶対に駄目よ」と、強い口調で言った。
突然そう言われて、ウィルタが「何を」と聞き返す。
「しらばっくれて、グーを食べることを考えてたでしょう」
「まさか、ぼくはそんなに薄情じゃないよ」
「うそ、グーを見て、よだれが出てたわ」
「違うよ、砂掘り職人の宿で食べた毯馬の肉の塩焼きを、思い出してただけだよ」
「ほら、やっぱり」
「なんだよ、頭の中で考えるくらい自由だろ。春香だって、あの時美味しそうに塩焼きを二枚も平らげたじゃないか」
「あれはあれ、でも育ち盛りの子供に空腹はきついな。砂漠を歩いている時みたいに、喉が乾いてれば空腹どころじゃないんだろうけど。水だけは、いっぱいあるもん」
春香は肩から吊るした革の水袋をポンと叩いた。砂漠での遭難以来、春香は水筒を肌身離さず身に付けるようになっていた。それだけ身にしみているのだ。
水筒から一口水を呷った春香が、感に堪えないといった口振りでこぼす。
「グーみたいに苔を食べることができれば、何の問題もないんだろうけど……」
この世界から植物が消えて人が飢えで苦しんだ時代、人々を救ったのは、苔を食べることのできる家畜だった。飢えた人たちは、どれだけ家畜を屠して肉を喰らいたかっただろう。しかし家畜もほんの僅かしか生き残っていない。その家畜を食べてしまえば、もう食べるものはない。人はひたすら家畜に子供ができて、乳を出すのを待ちわびた。その乳で人は生き延びたのだ。原資の肉に手をつけず、肉が生み出す乳という利子で暮らす。基本的には今の牧人の暮らしだ。しかし、この若いのか年寄りなのかも分からない雌の毯馬は、とても乳を出してくれそうにない。
二人の見つめる前で、グーはちょこちょこと足を止めては、石の間の苔を大きな唇でむしる。グーがモグモグと美味しそうに口を動かすのを見ているうちに、二人のお腹がまたグーと締め付けるように大きな音をたてた。
グーが顔を上げ、真似をして「グー」と鳴く。でっかい図体だけど、なんとも可愛いい。とてもグーを食べるなんてできっこない。
何かほかに良い手を考えなければならない。やはり、もう一度大鱗丘に戻って、岩山の人たちに話をつけるしかないのだろうか。
岩戸の前で断崖の上にいる人たちが出てくるのを、しつこく待ってみようかとも思う。でも上から石を落される怖れがある。やるなら、外に出ている人を見つけて、捕まえて話をつけることだ。それが悔しいかな、大鱗丘の外に出ている人を全く見かけない。ここの住人は、よほど用心深い人たちだ。
そう思って注意深く観察していると、どうやら見張りを置いて、よそ者が近づいて来ると、外に出ている人たちに知らせて、すぐに岩山の内側に逃げ込んでいるようだ。まったく処置なしだった。
次話「石魂の沼」




