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星草物語  作者: 東陣正則
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湖水堂


      湖水堂


 遺物館に盗賊の一味が侵入したころ、巡検隊の本部医務室では、トゥンバ氏が傷の手当てを受けていた。所持していた鮮黄色の苔が、痛み止めの作用を持つ新種の薬苔であることが判明したのだ。元老院のあるオアシス・ヒシスに鑑定方法を問い合わせ、先ほど試験の結果が出たところだった。ゲルバ護国ではまだほとんど知られていない新種の薬苔で、干した時の偽葉の縮れ具合、匂いまでもが、砂漠で流布している麻黄苔とそっくりという代物だった。

 医務官が氏の左腕を取り、傷口にヘラで軟膏を塗りつける。

「あんたも運がいい。あの雌猫にいたぶられて、この程度の傷で済んだんだからな」

 馴れ馴れしい口ぶりで話すその医務官は、極端な猫背のうえに、医者の不養生を絵に描いたような黒いしみを顔中に散らしている。その不健康そうな医務官が、味素のペーストでも塗るように軟膏を厚塗りする。

「おい、なんて塗り方だ。それじゃまるで女が顔に塗る日焼け止めだ」

 見兼ねて氏が嫌味を口にすると、医務官がザクッと軟膏をこそげ落した。

 ヘラが傷口に擦れ、虫歯を針で突きまわしたような痛みが腕から肩に抜ける。

 痛みの不意打ちに氏が奥歯を噛み締めていると、医務室の扉が開いて、薄ネズミ色の外衣を羽織った若い事務官が入ってきた。事務官は、つかつかと氏に歩み寄ると、氏の鼻先に書類とペンを突きつけた。サインをしろというのだ。怪我の補償を求めないことを誓約するサインで、断れば巡検隊に楯突く者として、砂漠での安全は保障されなくなる。

 氏は何も言わずにペンを手にした。しかし字が乱れる。

 拷問まがいの尋問を受けて手が痺れていることもあるが、正規の教育を受けていない氏は、元々ペンの扱いが苦手である。

「これに懲りたら、疑われるような商品には手を出さないことですね」

 空々しく言って、若い事務官は書類と引き換えに、茶封筒を氏の膝の上に投げた。

 中身は誤認逮捕の迷惑料。封筒を突き返したい衝動を抑え、氏は伺いをたてた。

「連れの子供たちの捜索はどうなった。さっき宿にいなかったと話していたろう」

「管轄外です」

 取りつく島もない素っ気なさで答えると、若い事務官は捜査品の押収箱を氏の前に残して、医務室を出て行った。箱には氏の外衣と肩下げ袋が入っていた。

 猫背の医務官が腫れたように厚ぼったい目を氏に向けた。

「ジンバ上がりと言われれば、むかっ腹も立とうが、睨み返しても損をするのはお前さんだ。見返したければ、商売で稼ぐこったな。それがあいつらには一番不愉快で堪える。まあ、言われんでも分かっとろうが」

 同情しているようで、その実、目に薄ら笑いを浮かべている。

「医者のあんたに、ジンバ上がりの気持ちが分かるっていうのか」

 腹中に抑えたものが思わず口を突いて出た。

 氏の皮肉に、猫背の医務官が口角の片側をニッと吊り上げた。その瞬間、酒が匂った。おそらく消毒液の臭いを隠れ蓑にして、仕事中に一杯やっているのだ。

 そのいずれ戒酒院にやっかいになりそうな医務官が、脇に置いた箱から、腕を固定するための当て木を取り出した。

「おいおい、当て木をするような怪我じゃないだろう」

 聞こえているのかいないのか、猫背の医務官は当て木を氏の腕に添わすと言った。

「なあに、巡検隊の尋問でいたぶられて骨にヒビが入ったと言やあ、通関所で包帯の中を調べられることはない。それに湿布薬の臭いで、犬たちの鼻も役立たずだ。ブツを運ぶのに、これほどの場所はないぜ」

 ヒヤリとしたものが、氏の背中を流れた。

 案の定、割り外した添え木の内側は、刳り貫かれて空洞だ。

「カルテには上腕骨にヒビと書いておいた。相応の演技を頼むぜ。バレると、こっちにとばっちりが来るんでな。それからブツの届け先はヒシスだ。分け前は相場の七・三。迷惑料の足しとしちゃあ、悪くないだろう」

 粘りつくような声で話すと、医務官は上目遣いに動きを止めた。糸のような目がこちらの反応を窺っている。その探るような視線に、体が強張り胸苦しさで息が詰まる。

 しかし氏は、締め付けられる心臓の痛みをやりすごすと、「傷は甘やかすと治りが遅い、塗り薬で十分だ」と、ピシャリと言い返した。そして添え木を医務官に押し返した。

 猫背の医務官は、厚ぼったい目でしばし氏を睨みつけていたが、廊下を近づいてくる足音に合わせて体を起こすと「尋問は終わりだ」と、悔しそうに添え木を箱に放り込んだ。

 足音が部屋の前で止まり、誰が見ても医療関係者としか思えない、白衣のこざっぱりとした中年の女性が入ってきた。


 氏が警邏隊の本部から外に出た時には、時計の針は夜の十時を回っていた。

 解放された氏に、事務所詰めの事務官が、「宿屋の女将に今夜の騒動を説明する必要がある」と、言い寄ってきた。夜勤の者らしく、体に蛍光を発する十字の襷を回しかけている。

 寄り添って歩く事務官が、好きにしてくれという氏に、「新しい薬苔はどこで入手したんだ」と、馴れ馴れしく聞いてきた。

「企業秘密だ!」と突っ張ねるが、「棄人窟で麻黄苔に見せかけて売るつもりだったのだろう、そんな所でさばくよりも、元老院に持ち込めば高値で売れる。なんなら自分が紹介の労を取っても」と、ねちっこく誘いの言葉を続ける。

 今、オアシスの事務官の間では、小遣い稼ぎの小商いや、役職を利用した斡旋業が流行している。この担当官もそういう輩の一人らしい。

 側を付いて離れようとしない事務官に、それならと氏が問いかけた。

「連れの子供たちのことを、何か聞いていないか」

「いや」と、係官が頭を掻いた。

「結局、見つからなかったようだ。てっきり捕まるのを避けて隠れたと思ってたんだが。それよりも、あの苔のことだが……」

 またしつこく言いかけた事務官が足を止めた。

 遺物展示館の前に人だかりができている。

 何事と二人が足を止めた時、目の前で扉が割られる派手な音が鳴り響いた。続いて「不審者が侵入したぞーっ!」という男たちの怒鳴り声が、遺物館前の広場に響き渡る。

「見送りはここまで」と言い捨てるや、事務官が遺物館に向かって走り出した。

 その後を氏も追う。侵入者と聞いて「もしや」と思ったのだ。

 遺物館の中では、踏み込んだ巡検隊の隊員が、眠りこけた警備の担当者を見つけたところだった。すぐさま隊員たちが館内に散る。

「賊が侵入したのか」

「分からん、だが痕跡はない」

 普段は点灯されない大型の白灯が館内に一斉に灯されるなか、母種の確認に走った隊員が「ケースの中に、異常はありません」と声高に叫ぶ。

 一方、奥の通路で「こんな物が」と声が上がった。

「なんだ」

「子供用の手袋です」

「昼間、誰かが忘れていったものだろう」

「閉館後に点検と清掃をするから、落とし物はないはずだぞ」

 雑巾のような手袋に隊員たちが顔を突き合わせた時、「なんてことだ」という悲痛な声が、広間の中央で上がった。本部長だ。

 振り向く隊員の視線の先、クリスタルケースの前で、巡検隊の本部長が足を踏ん張り、仁王立ちに立ち尽くしていた。額に浮き出た血管がピクピクと波打っている。

 本部長の目の前で、収納器の中の母種に、携帯用の小型の照明器具が当てられている。

 紫外線らしきライトを浴びた母種が、オレンジ色の蛍光を放っている。

「いったい、何が」と駆け寄ってきた隊員たちに、拳を固めた本部長が「母種が盗まれた」と、喉の奥から声を搾り出した。

「しかし、母種はここに」

「違う!」と、本部長が怒りを爆発させた。

「母種が紫外線でオレンジ色の蛍光を発するというのは、種が盗まれた時のことを考えてのニセの情報。本物は青海色に光るんだ」

 取り囲んでいた全員の顔色が変わった。そして怖い物でも見るように種を見やる。そこに紫外線を浴びて、ねっとりとしたオレンジ色の蛍光を放つ種があった。

 時間が止まったように立ち尽くす面々の前で、

「この母種は偽物だ、すぐに本部に報告、オアシスを封鎖しろ!」

 本部長の悲鳴のような声が、ホール中に響き渡った。


 遺物館が緊張に包まれた頃、錘湖対岸の湖水堂は、しんとした静けさのなかにあった。

 春香は体に巻きつけた綴ら織から頭だけを覗かせ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。湖水堂を取り囲む手すりに沿って、大型の白灯や樽型の投光機が並んでいる。

「祭礼の時には、ここもライトアップするんだ、湖に建物が映えて綺麗だろうな」

 ため息を零すと、春香はずらりと取り付けられた照明器具の数を、一つ二つと数えながら、冷えてきた体を温めるように腕を擦った。その春香の耳に、砂漠側にある大扉の方から、砂を踏む音が聞こえた。

 春香は立ち上がると、柱の立ち並ぶ天蓋のホールを抜けて表の回廊に出た。ツルツルに磨き上げられた床は、靴を脱げば足音はしない。春香は期待と不安の交錯する思いで大扉に向かった。そしてこんな時間に司経様が来ることはないだろう、でも司経様だったらいいのにと、そんなことを考えていた。

 回廊の細長い格子の窓から外を覗くと、経堂の表階段の下に毯馬が見えた。居並ぶ十頭近い毯馬の手前に、黒いターバンを巻いた男が、家畜留めの柵に手を掛けたまま佇んでいる。ゆっくりと頭を左右にめぐらす様は、辺りの様子を探っているように見える。

 男は誰もいないと判断したのだろう、毯馬の手綱を柵に繋ぐと、一息入れるようにキセルを取り出した。火打ち石の火花に、中肉中背の男の顔、腹まで届きそうな見事なナマズひげが、はっきりと見て取れた。どうひいき目に見ても司経様という顔ではない。

 ナマズひげの男は、二腹ほどキセルを吹かすと、大扉に続く階段に足をかけた。

 とっさに春香は入り口から死角になる柱の後ろに走り込んだ。気配でナマズひげが湖水堂の中を覗いているのが分かる。

 春香は用心深く背後の階段の上り口へと身を隠したが、ナマズひげは建物の中には入らず、そのまま戸口の踏石に腰を下ろすと、鼻歌を歌いだした。

 一曲が終わり次の曲……、とその時、柱が林立する天蓋のホールに、物をギリギリと擦り合わせるような音が響いた。音は林立する柱の間から聞こえてくる。

 春香は背後の階段を上がると、壁面に開いたスリットのような穴から下を見下ろした。

 立ち並ぶ柱と柱の間に、演台のような祭壇が見え隠れしている。

 びっしりと彫刻の施された四角い祭壇の一部が動いて、井戸の口ほどの穴が開き、中から人が出てきた。一人、二人……、三人目は、肩に細長い荷物を担いでいる。そして四人目の小柄な人物は額を押さえて……、

 春香は前かがりに力を入れた。ウィルタだと分かったのだ。

 ということは、とそう思って先に出てきた男が担いでいる細長い荷物に視線を戻す。

 人、それも子供だ。あれはホーシュに違いない。

 遠目なので、はっきりしないが、二人とも手を縛られ、口に布を噛まされている。

 祭壇の穴から這い出してきた男たちは、床にしゃがむと、荒い息を落ち着かせるように水筒の皮袋を回し始めた。その水を回し飲みしている男たちの所に、ナマズひげが歩み寄った。毯馬を引いていたので下僕かと思ったら、座り込んでいた男たちが一斉に立ち上がって挨拶する。どうやらナマズひげが、男たちの親玉らしい。

 モングーティが、ナマズひげの前で親指を立てた。

「お頭、上手く行きやしたぜ。お確かめください、これで俺たちも大金持ちでさ」

 喜色満面のモングーティの背後で、「これで若頭も、闘馬の借金を返すことができて、万々歳!」と、手下たちがはやしたてる。それを煩いとばかりに睨みつけると、モングーティは懐から出した袋を、頭目のナマズひげに渡した。

 ナマズひげは、袋からブツを掴み出すと、差し込む対岸の明かりにそれをかざした。

 顔を近づけ、嘗めるように火炎樹の母種を検分する頭目に、モングーティが身振りを交えて話しかけた。

「あいつら、ご丁寧にケースの中にダミーまで入れてやがった、おかげで……」

 子分の話を聞き流しながら、ナマズひげは、拳の背で種を叩くと、やおらポケットからマッチを取り出し、赤い炎を種に這わせた。表面から薄い煙が上がる。

 その瞬間、長いひげが感電でもしたかのようにビリッと波打った。

「ばかめ、偽物を掴まされたな」

 派手に舌打ちすると、ナマズひげはモングーティに種を突き返した。

 まさかという目で種を見つめるモングーティに、ナマズひげが、もう一度「偽物だ!」と吐き捨てた。

「本物の種なら火で炙っても、そんな塗料の焦げたような臭いはしねえ」

 頭目の激した口振りに、モングーティも慌てて懐からマッチを取り出す。

 炎を当てると確かにウォトが溶けるような嫌な匂いが鼻を刺す。本物の火炎樹の種は、金属質の殻で覆われているため、マッチの炎で焦げたりはしない。

「くそう、いったいどうして……」

 腸詰め唇をプルプルと震わせるモングーティをよそに、車座になって皮袋の水を回していた手下の一人が、間の抜けた声を上げた。

「あれえ、そういや、穴目のビッツの野郎がいないな」

 ほかの仲間もそれに気づいたのか、

「そういやそうだ、あいつ、どん尻を、足跡を消しながら付いてきたはずなんだが」

「足が短いから、ここまでくるのに時間が掛かってんじゃねえか。祭壇の下を覗いてみろ、手が届かなくて泣いてるぜ」

 モングーティの苦渋の表情が目に入らないのか、手下たちは笑いながら話し続ける。今回の計画が成功したものと信じているのだ。

 その安穏楽な手下たちに「煩せえ!」と、モングーティが罵声を飛ばす。その瞬間、モングーティは気づいた。あの時だと思ったのだ。

 用意した偽物の種を台座の収納器に戻し、種の向きや位置を修正していた時のこと。透明なケースの中に手や種が現れたり消えたりする様子が手品のように面白く、何度かビッツに同じ動作を繰り返させた。自分と蜘蛛腕の二人は、上の透明なケースに目を凝らしていたから、あの時ビッツが、もう一つ偽物の種を用意していたとしたら、本物の種とすり替えることは簡単にできたはずだ。

「あの野郎、見つけて切り刻んでやる」

「どうしたんで若頭……」

 お気楽な声で聞いてきた蜘蛛腕に、モングーティが怒り心頭、声を張り上げた。

「ビッツの野郎が、本物の種を持ってずらかったんだ」

 手下たちが一斉に立ち上がって、祭壇の四角い穴を覗き込む。

 そこに対岸の町で鳴り響くサイレンの音が、湖面を渡る風のように伝わってきた。

 頭のナマズひげが、垂れたひげを波打つようにブルリと震わせると、「ビッツの野郎を俺に紹介したのは、おまえだったな」と、半眼の静止した目でモングーティを睨みつけた。

 蟹が泡でも噴くように、モングーティが唇をプルプルと震わせた。

「お頭、ちょっと待ってくれ、取り戻してくる、まだ地下道にいるかもしれない」

「本物の種を持ってな」

 皮肉たっぷりに言うと、ナマズひげが、うがいでもするようながさついた声で宣告した。

「この世界はな、失敗は死で贖うというのがルールなんだ」

 冷酷な物言いに、けたたたましいサイレンの音が被さる。

 その瞬間、モングーティは弾かれたように出口に向かって身をひるがえした。

 その背中に何かが飛ぶ。手下たちがハッと身構えた時には、モングーティの首に細長い物が突き刺さっていた。呻き声を引いてモングーティが床に突っ伏す。

 その様子を目撃、春香は思わず悲鳴を上げそうになった。人が殺されるのを見るのは初めてだった。血の気が下がり、心臓がドコドコと別の生き物のように動く。

 窓に走り寄った子分が対岸の町を見て唸った。

「くそう、どんどん騒々しくなってきやがる」

「そりゃそうだ、ゲルバの命運をかけた種が盗まれたんだからな。こちらもこんな場所でもたもたして、濡れ衣を着せられちゃ敵わねえ。早いとこずらかろう。モングーティのやつは、祭壇の穴にでも放り込んでおけ」

「このガキも、やっちまいますか」

 ナマズひげが、飯の時間でも決めるように、あっさりと言った。

「首を掻っ切れ、あー、だが、そっちの黒髪の方は生かしておこう」

「逃げるのに足手まといになりませんか」

「あほう、手灯と同じ能力を持ってるんだろう。高く売れるし、この後、いくらでも使い道はある」

「お頭、水上に船が出てきた」

 窓から対岸を見ていた手下が、頭を急かす。

「さっさと始末しちまえ、者ども、引き揚げるぞ」

 手下の一人がモングーティの体を引きずり、祭壇の穴へ。

 続いてもう一人、いかにも冷酷そうなカマキリ顔の男が、グリッと首を捻りざま、ホーシュを肩に担ぎ上げた。手には磨かれたナイフ。それを目に留めた瞬間、ウィルタは、後先構わずカマキリ顔に突進していた。しかし手が縛られているため、バランスを崩してつんのめる。そこを蜘蛛腕の長い手に襟首を掴まれ、腹を蹴り上げられた。

 胃液を吐きながら、もんどり打って引っ繰り返る。

 その音で意識が戻ったホーシュが体をねじる。芋虫の断末魔のように体をくねらせるホーシュを足で踏みつけ、カマキリ顔がうそぶいた。

「一生ジンバで扱き使われるよりは、さっさと死んじまった方が幸せってもんよ」

 階段の窓に張りつき事の成り行きを見ていた春香の胸は、心臓が破裂しそうなほどに高鳴っていた。もうあと数秒で、ホーシュの命は断たれてしまう。

 何とかしなければ……、

 振り向き、必死の形相で辺りを見まわす春香に、階段上の小部屋に並ぶ醤油樽が目に止まった。遺物館で見た大型の匣電だ。二段重ね、三段重ねにぎっしりと並べられている。

 さらに醤油樽の横には配電盤。そこからラインがいくつも窓の外に伸びている。

 ライトアップの投光機に繋がる配線だ。絶対そうだ。

 春香は、しゃにむに階段を駆け上がると、小部屋に飛び込み、並んだスイッチを片っ端から押し倒した。ところが照明はつかない。

 下からウィルタの「止めろーっ!」という叫び声。口を縛った布を外したようだ。

 直ぐに殴りつける音。

 穴の縁では、カマキリ顔が、ナイフ片手にホーシュの首を上から押さえた。

「神様のお膝元で眠れるんだ、感謝しな」

 カマキリ顔が、儀式のように刃先に舌をツーッと這わす、

 とその時、真昼のように眩しい光が堂内になだれ込んできた。湖水堂の外壁や、軒下、手すりの縁など、各所に設置された白灯や投光機が、一斉に点灯したのだ。

 配電盤の下にあった大型のレバーに気づいた春香が、それを引き下ろしたのだ。

 ドスンという音が祭壇の穴底で鳴った。突然の照明に、カマキリ顔が手を滑らせ、ホーシュを井戸の中に落としたのだ。底までは二階建ての建物ほどもある。

「どうした。何だ、この明かりは!」

 慌てる賊を尻目に、春香はレバーを戻した。辺りが闇に戻る。

 そしてレバーを入れる。

 昼のような明るさになる。それを繰り返す。点灯と消灯……。

 直に対岸の町の人たちも、この異変に気づいた。

 この時、春香は湖水堂にだけ照明が灯ったと思っていた。ところが実際には、錘湖を取り巻くように設置された九百基余りの雷火灯に、一斉に明かりが灯ったのだ。春香が引き下げた大型のレバーは、旋灯祭の夜間照明に使われる主幹のレバーだった。


 旋灯祭の旋灯。

 この呼び名は、実は灯を手にして踊る旋回舞踏から付けられた名ではない。

 錘湖の周囲を取り巻くように設置された投光機は、別名をリズム灯と呼ばれる。百分の一秒単位の時間で点灯と消灯を繰り返す、特殊な雷火灯である。都合九百余りある投光機は、それぞれがオアシスの住人各人の所有になっており、祭りの直前に、所有者が投光機の点滅間隔、つまりリズムを自由に設定する。この投光機は四・三九秒おきに、別の投光機は二・一八秒おきにといった具合にだ。

 そして旋灯祭の終盤、行事のトリを飾るように、全ての投光機が一斉に点灯される。

 最初は、それぞれの投光機が設定されたリズムで点滅を繰り返す。やがてそれが時間の経過とともに変化、並びあった数灯が、さみだれ式に点滅したり、ばらけた位置にある百灯ほどが一斉に点滅したりと。点灯のリズムが合わさったり離れたり……、それを繰り返しながら、九百を超える投光機の点滅間隔が、徐々に同調を始める。

 一個一個の投光機に取り付けられた同調回路と呼ばれる装置の効果である。

 最終的に点滅間隔がどの程度の秒数に収束するかは、年ごとによって異なる。概ね二から三秒の間に落ち着くことが多い。一斉点灯から半刻ほどで、錘湖を取り巻く投光機は、生命が呼吸でもするかのように、同じリズムで点滅を繰り返すようになる。

 そして祭りはクライマックスへ。

 錘湖を取り巻く雷火灯は、一分ほど呼吸を整えるように同調したリズムで点滅を繰り返すと、次の段階で、右旋回に灯をバトンタッチするように動き出す。

 光の波のように。

 錘湖の外周を回るライトウェーブ、そうこれが旋灯祭の旋灯の由来である。

 今では、光の点滅を楽しむ祭りとなった旋灯祭も、もちろん宗教儀式としての意味を持っている。

 今は絶滅して見ることもない古代の発光性の甲虫には、集団で光の点滅行為を行うものがいた。何万という発光性の甲虫が木にぶら下がり点滅を始める。当初は全くバラバラに点滅していたものが、やがて点滅を同調し、何万という光が同じリズムを刻みだす。

 この甲虫の求愛行動における発光の同調現象は、目に見える発光の美しさゆえに、古代でもしばしば話題に取り上げられた。しかし考えてみれば、すべての生き物、多細胞の生物は、それと同じことを日々の生命活動のなかで行っている。

 哺乳類の体は何兆個もの細胞で構成されている。一つ一つが生命ともいえる無数の細胞は、全体として一個の固体を機能させるために、細胞同士が常に同調し合うように機能する。神経のように明確な情報伝達のシステムが在ろうが無かろうが、細胞は細胞同士、化学物質の反応などの時間よりも遙かに速く、ほとんど瞬時に自らを全体に同調させる。

 何兆個という無数の細胞が、あたかも共通の意志の元、互いに共鳴し合い、同調させながら生命現象を演出していく不思議さ。

 その生命の深淵を賛歌する、それが旋灯祭である。

 そして、この生命の同調性を電子回路にしたものが、旋灯祭で用いられる投光機、リズム灯に組み込まれた同調回路である。満都時代には、この同調回路を用いて何億個という投光機を一斉に同調させていたという。


 突然の雷火灯の点灯に、ギボの町の住人が口々に叫び声を上げた。

「どうした、雷火灯に明かりが灯ったぞ」

「あっ、点いた、また消えた」

「誰かが、湖水堂の電源をいじってる」

 人々の前で、照明の点滅が続く。とそれがプツンと糸が切れたように消え、錘湖の周辺に闇が戻った。待っていても再度点灯する気配はない。

 だがその頃には、陸路、巡検隊の騎走隊が湖水堂に向かって毯馬を走らせていた。

 真っ暗になった経堂の中で、階段上の機械室にいた春香が、ナマズひげの前に引き摺り出された。

「ふん、お嬢さんだったか、まずいことをしてくれたな」

「お頭、騎走隊が出たようです」

「分かってる、半刻もしないうちに、ここに来るだろう。すぐに逃げる。ガキは暴れるとやっかいだ、二人とも眠らせろ」

 ナマズひげの後ろにいた手下が、懐から出した布で春香の口を塞いだ。

「お頭、小僧が一人、穴に落ちたままなんですが」

「時間がない、捨てていけ、すぐに出発だ」

 そう言い捨てると、ナマズひげの一味は、湖水堂の扉を抜けて表の階段を駆け下りた。その賊たちの足音を、ウィルタと春香は薄れゆく意識の中で聞いていた。

 二人は薬を嗅がされた上に、頭から袋を被せられ、毯馬の鞍に縛りつけたカゴに押し込まれた。かすかにだが、春香の耳に、ウィルタが自分の名を呼ぶ声が聞こえたように思う。答えようとするが、口がしびれて声が出ない。

 やがて毯馬が砂を蹴る音と共に、二人は意識を失くしてしまった。

 

 半刻後、つぎはぎの、ほつれの目立つ手袋を握りしめたトゥンバ氏が、湖水堂に到着した。ちょうど巡検隊の手で、ホーシュが祭壇の穴底から引き上げられたところだった。

 巡検隊は、賊がまだ周辺にいる可能性があると判断、湖水堂に照明を灯した。湖面に煌々とした明かりが映る。その眩しい照明の光を浴びながら、氏は泣きじゃくるホーシュの背を撫でていた。そして自分が子供時代、生き埋めになって助け出された時のことを思い出していた。



第五十三話「盗賊」

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