クリスタルケース
クリスタル・ケース
その頃、トゥンバ氏は巡検隊本部の一室にいた。
夕刻、坊商のダルトゥンバ氏が麻苔を扱っているという通報が、巡検隊にもたらされた。直ちに隊員が出動し、氏の身柄を拘束。氏は所持していた鮮黄色の乾燥苔を、麻苔ではなく、形状の良く似た薬苔であると弁明したが、地下の貧民窟に足を運んでいた氏を別の隊員が目撃しており、当局は氏を連行して取り調べることにした。状況を悪くしたのは、同行の子供が、市場の薬種問屋で同等の苔の売却先を探していたことである。子供を使って販路に探りを入れていたとも考えられ、その子供の身柄も確保して事情を質すことに。
砂漠のオアシスで麻苔の使用が急増したのは、この六、七年ほどのことである。
理由は、一にも二にも、この地が豊かになったからである。塁京の繁栄の影響を受けて、発掘品の物産市は満都滅亡以来の賑わいを呈している。その経済の活況が、贅沢病ともいえる麻苔の広がりを生んだ。
砂漠の民は、古来から宗教上の戒律で、「麻苔」や、あるいは人工的に合成された「麻薬」を禁忌にしてきた。これは厳しい戒律で、宗教警察がそれを見張り、禁を犯したものは重罰に処せられる。満都以後のゲルバの民の暮らしは、常々ゲルバ族自身が自らの文化を評して、「我らは満都滅亡の長い喪の期間にある」と言うように、帝国の栄華を追悼する祈りを基本にしている。それ故、服装は無彩色で統一され、日に六度の祈りの時間には、亡き帝国への追悼の経が読まれる。喪に服する清貧の暮らし、それがゲルバ護国の国是である。
ところが発掘した品々が高値で売れ、金銭がどっと流れ込むようになると、戒律が厳しい分、反動のように陰で享楽に走る者が出てくる。
基本的には物の無い社会である。交易を管理することに長けた民ゆえに、無制限な物の流入もない。金は入って来るのに、それを使う方法がないのだ。もちろん賭博は麻苔以上の禁忌である。そういった状況のなか、少量高額で取引される麻苔は、通関の目を掻い潜ることのできる数少ない商品として、着々と護国内に忍び入り、あらゆる階層で常習者を生み出すことになった。
麻苔は、酒よりも圧倒的に人を快楽の高みに引き上げる。やがて麻苔に溺れた者の中には、先祖の喪に服する時代は終わったと豪語する者まで現れた。もちろんそういう輩は、すぐに櫓に吊るされたが、それでも麻苔の流入は続く。この数年、より幻覚作用の強い合成麻薬までもが取引されるようになってきた。
この麻苔の蔓延を支えたのが、オアシスの地下街である。地下の娼婦街や貧民窟が麻苔売買の温床となった。対策としてギボの地域評議会は、地下街の埋め戻しを決定、住人に退去を命じた。
しかし、これは規制を進める地上の人間の言い分、方便だろう。
貧民窟を含め、地下で暮らす人々の多くは病を抱えている。病に罹かり床に臥せる。痛みを抱えた者にとって、痛みを止める最良の手段は麻苔である。古来より麻苔は、麻酔薬や痛み止めの薬として使われてきた。金に余った者たちは、享楽を求めて麻苔に溺れ、貧民窟で病に倒れた者は、痛みを忘れるために麻苔が手放せなくなる。その二つに区別をつけることは難しい。氏が所持していた麻苔も、外見上は、最上等の麻苔として知られる麻黄苔にそっくりだが、実際には全く別の鎮痛効果を持つ薬苔だった。
氏自身は、嫌疑はいずれ晴れると踏んでいた。所持していた麻苔は新種の薬苔で、晶砂砂漠ではまだほとんど知られていないが、元老院のあるオアシス・ヒシスの専門家が鑑定すれば、素性は判明するはずだからだ。
その自分のことはさておき、気がかりなのは、取り調べ官が話していた、子供たちが宿にいないということだ。当地の事情に疎い子供たちが、何か良からぬ事件に巻き込まれたのではないか。悪い予感が頭の中を掠める。
だが……と、氏は頭を傾げた。あの古代人の娘が、子供だましの誘いに乗るはずもない。問題があるとすれば、男の子たちの方だろう。
男の子たち、特にホーシュが、自分のことを訝しんでいるのは分かっていた。自分が昔の経歴、ジンバ商をしていたことを伏せている、そのことを不審に思っているのだ。問われれば説明するつもりでいたが、こちらから話すこともないだろうと、そのままにしておいた。それが結果として二人を何か悪い方向に導いたのではないか。そして男の子たちに振り回される形で、春香もトラブルに巻き込まれた……。
取り調べの際、係官に警棒で腿を打たれた。その痛みに顔をしかめつつ、氏が子供たちのことを案じていると、別の係官が部屋に入ってきた。
警邏隊の本部に連行され、ジンバ専用の尋問室に入れられた時から、氏は今回の取調べが厳しいものになることを予想していた。嫌疑は麻苔の売買である。
いま砂漠のオアシスでは、麻苔に走った輩が引き起こす不祥事と風紀の乱れが、看過することのできない問題となっている。宗教に規範を求めるオアシスの評議員は、この問題を憂慮している。そのこともあって、昨今麻苔がらみの事件では、所持や売買の疑いを掛けられただけでも、拷問のような尋問が行われる。
自身、今までに何度か、逃税の疑いで取調べを受けた経験がある。しかし今回は、その時とは比較にならないほど厳しい。書類の引き継ぎの様子から、いま部屋に入ってきた人物が、正規の取調べ官だと分かる。ということは、いままでの尋問は予備尋問、小手調べだ……、とそう思った時、膝下に酷い痛みが走った。
交代した取調べ官が、尖った革靴で遠慮会釈なく蹴り上げてきた。
眉をしかめつつその人物を盗み見る。女性の係官だ。
覚悟しなければならないと氏は気を引きしめた。男の取調べ官なら、裏情報を流しての駆け引きや、状況さえ許せば、男同士の腹を割った話に取り調べの流れを持っていくことも可能だ。それが異性では難しい。女の方が取調べの場では純粋で、感情が先鋭化しやすい。それに自分が力の弱い女だという思い込みがあるので、加減をしない。
取り調べの女性係官が、氏の個人ファイルの情報を目で斜めに浚うと、癇走った声を叩きつけてきた。
「フン、ジンバ上がりの坊商か、売られる側の痛みを知っていて、よくも人を売るなんてことができるわね」
嘲るように言って、また靴先で蹴り上げる。
「苔茶の株組合に問い合わせたわ。ほとんど利益が上がらず、組合への維持金の支払いも滞っているじゃない。どうなの、苔茶じゃ儲からないから、手っ取り早く麻苔で儲けるつもりだったんでしょ」
何か言いかけた氏の口を封じるように、靴底のヒールが筋肉に食い込む。
「子供を使ってヤクを売り込んで、いざという時は、自分は関係ないと言い逃れるつもりだった、そうでしょ。白状なさい、このジンバ上がり!」
逃税容疑での取り調べの際にも、何度かこの『ジンバ上がり』という罵声を浴びた。
耳にした当初は、額面通りこの言葉をジンバへの侮蔑の言葉と思っていたが、今では少し違う形で受け取っている。一昔前まで、官吏のお歴々は、オアシスでの一番の高給取りだった。それが今や商人たちに追い抜かれ、足元にも及ばない。その妬みが商人を尋問する際の言葉遣いに表れる。まして商人が元ジンバなら結果は推して知るべし。
「ジンバ上がり」と頭ごなしに怒鳴りつけて、鬱屈した想いを晴らしているのだ。
同様のことを、自分は苔茶交易の株組合に参加して、嫌というほど経験した。
七年前、自分はジンバ商から足を洗い、茶業組合の株券を買って、苔茶の交易業に参入した。しかしそこからの道は、ジンバを扱っていた時以上の苦渋を味わうことしきりだ。株組合のないジンバ商には、同業者同士の対立や足の引っ張り合いなどなく、純粋に各自の才覚で商いが行えた。だから、自身がジンバの出身であるということが、商品の取引にマイナスに働くなど、予想だにしていなかった。
それが茶業組合では、ジンバ上がりというだけで、不当な扱いや要求を突きつけられた。自分だけが、短い期間で株の更新を求められた。元のジンバの身分を指摘され、値引きを強要されることも度々だ。ジンバ出身の自分に対する締めつけは特にきつかったが、新規に参入してきた者は、みな多かれ少なかれ、目を背けたくなるような嫌がらせを受けている。そして理解した。茶業組合とは、序列の中で新参者を排除し、既得権益を守ろうとする陰湿な仲間社会ということだ。
交易で大陸各所を行き来するようになって知ったのは、ジンバ制が限られた地域の風習だということ、そしてその中心にいるのがゲルバ護国だ。満都を追悼する祈りの国といえば聞こえはいいが、ゲルバ護国とは、要は滅亡した満都の栄光にすがりつく、亡霊のような国だ。時代の檻は開いているのに、そこから一歩も外に出ようとしない。一番の見本が、満都時代から続く身分制で、すがるものが先祖の残した遺物しかない、その不安の憂さを晴らすように下位の者を虐げる。
最下層のジンバに生まれた自分には良く分かる。身分制度も交易上の株制度も根は同じ。先に権利を得た者が、その権益を守るために作った制度だ。そして長くそれを続けてきたあげく、今では因習のように制度が人や国を縛っている。
いったん軌道に乗りかけた苔茶の交易業も、組合の嫌がらせのために先細りになりつつある。このままでは廃業の可能性もある。なんとかしなければと思って、生き残るための打開策として、新種の薬苔の栽培を岩船屋敷のホブルに託した。
そして思いついた。
もし株の組織されていない新しい商品を作り出すことができれば。
新しい商品なら、砂漠の国にまとわりついた古い因習の壁を打ち破って、自由な商いができるのではないか。そこに身分制に関わらず、誰もが参入できるようになれば……。
もしそれが実現すれば、この地も何かが変わるかもしれない。
腹部に痛みが走った。係官の靴先が今度は腹部をえぐる。
「何よ、何か言ったらどうなの。女だと思って馬鹿にしてるでしょ」
係官が打ちつけた靴をねじる。
自分はジンバ上がりの文字もろくに書けない坊商だ。果たしてその自分に、新しい商品を生み出すことができるだろうか。
目算はなかったが、古代茶の種を手に入れた。借金をしてまで。
失敗すれば、借財のカタに、「デッジー」いや「ジンバ」に逆戻りするかもしれない。
そうなれば僧衣のジンバの誕生……。
「それも悪くないか」と呟くトゥンバの顔を、靴が踏みつける。
靴底を頬骨で受け止めつつ、氏はニッと笑った。
ジンバだった自分には、一つだけ自慢できることがある。親方の父にいつも殴られていたお陰で、滅法打たれ強いのだ。
しかし、さらに顔を靴底が……。さすがに痛い。
とその時。ドアの向こうから「その男はシロだ」と、手が差し出された。
「フン、もう少し痛めれば、悪行の一つや二つは白状したはずなのに」
女性係官の悔しげな、吐き捨てるような声がそれに続いた。
時刻は夜の八時を回っていた。
トゥンバ氏に対する拷問にも似た取り調べが行われ、町で同行の子供たちの捜索が続けられている頃、例の巡検隊本部の裏、換気塔脇の家に男が身を滑り込ませた。ずんぐりとした体形に押しの強そうな厚顔、捻りひげは付けていないがモングーティである。階段を、上ではなく、下に下りていく。
モングーティは、行き止まりの部屋の戸棚に体を押し込むと、後ろの壁の穴を抜けた。見上げると四角い星空、換気塔の中に出た。
待っていたように、目の前の石壁の割れ目に明かりが灯った。
防砂外套を着込んだ男が、手提げの白灯を掲げる。防砂眼鏡がすっぽりと填まるほどの落ち窪んだ目、穴目の男だ。モングーティは渡された白灯を手に、壁の割れ目から、その先に続く地下の街路に足を踏み入れた。
元は商店街だったらしいその通りは、深々と砂に埋まり、看板が左右から障害物のように突き出ている。看板を避けながら進むモングーティの後ろを、穴目の男が砂に残る足跡を箒で払いながら続く。しばらく行くと奥に小さな明かりが見えてきた。
細長い通路のような空間で、等間隔に扉が並んでいる。その扉の一つを開けると、中に手足を縛られ口に布を咬まされたウィルタがいた。椅子に座らされている。足元に転がっているのはホーシュで、こちらは気を失っているようだ。
天井に開いた穴から、防砂外套に防砂頭巾、防砂眼鏡という砂掘り装束の男が、梯子を伝って下りてきた。手足が長い。ウィルタとホーシュに滝茶をふるまった蜘蛛腕の男だ。
モングーティが「首尾は?」と、蜘蛛腕に挨拶代わりの声をかける。
「ばっちり、もう何時でも敷き石を動かせる状態でさ。若頭の言うように、そのガキが能力を持ち合わせているなら、あとは……」
「そこから先は言わなくてもいい、警備員は?」
「外に四名、内に四名。建物の中の一名はこちらの手先。九時の祈りの後、警備員は必ず茶を飲みますから、茶に薬を入れて眠らせる、抜かりはありません」
蜘蛛腕とモングーティが話しているところに、頭上の穴から別の手下が顔を覗かせ、「警備員が茶を飲んだそうです」と、抑えた声で報告。
「行くぞ」という、モングーティの掛け声とともに、男たちは子供を担ぎ上げ、梯子を伝って天井の穴に体を押し入れた。砂を掻き出した狭い空間にジャッキが据えられ、天盤の石が持ち上げられている。隙間を潜り這い上がると、そこは遺物展示館地下の収蔵庫だった。直ちに上の階へ。
急ぎ足で回廊を抜けると、研かれた床に高い天井が現れた。
展示館の大広間、中央展示室である。
一味は七名、内四名が素早く四方に散る。外からの侵入者を見張るのだ。
大広間の中央に、昼間、春香が目にした、クリスタルの展示ケースがあった。ケースの横で警備員が二人、崩れるように眠りこけている。モングーティの二人の部下、蜘蛛腕と穴目が、ケースの前に担いできた子供たちを下ろした。
モングーティがウィルタに命じた。
「説明は覚えているな、やれ」
一時間ほど前、ウィルタは眠り薬から醒めると、自分の体が縛られていることに気づいた。そして、自分たちが騙されていたことにも……。
モングーティと部下らしき男たちは窃盗団で、遺物展示館に展示してある火炎樹の種を盗み出す計画をたてていた。狙いは耐塩性火炎樹の母種。
母種は、それ一つあれば、理論上は無限に種を増やすことができる。クリスタルケースの中に展示してある新種の火炎樹、その母種を盗み出せば、それは莫大な富を生み出す打ち出の小槌となる。ただ盗み出すに当たって大きな関門があった。それが、種が収納されている特製の展示ケースだ。
容器の前にウィルタが引き出された。
十二面ある筒型のクリスタルケースは、台座が黒で上が透明。その上段の透明なクリスタルケースの中央に、火炎樹の母種が封印されたように収められている。と一見そう見えるのだが、実際には種は下部の黒い台座の中にある。黒い台座は、十二の面それぞれが別個の収納器になっており、種はその収納器のどれかに入っている。
この展示ケースは、遠い昔、貴金属の陳列に使われたもので、下の黒い耐熱耐圧の収納器に入れたものが、上の透明なケースの中に映し出される仕組みになっている。教わらなければ、展示品は透明なケースの中に置かれているとしか見えない。
もちろん手順を踏まずに収納器を開けた場合は、警報が鳴る。何も入っていないケースを開けた場合もだ。問題は種が台座の十二の面のどこに収納されているかということで、それさえ分かれば、収納ケースを開けるための鍵と暗証番号は、すでに盗み出してある。つまり台座の黒いクリスタルの十二のどの収容器に種が納められているか、その確認をウィルタにやらせようというのだ。
昨日の砂嵐の際、巡検隊員のモングーティは、春香の直ぐ後ろを歩いていた。そして手灯の少女に代わってウィルタが一行を誘導する、その一部始終を目撃した。
モングーティが若頭を務める盗賊の一味は、新しい火炎樹の母種が、殻種の掌芽と共に、オアシス・ギボで公開されることになった時から、隙あらば母種を掠め取ろうと機会を窺っていた。しかし盗み出すにあたっての問題は、警備よりも収納ケースのからくりにあった。まさか二百キロを超える収納ケースごと担ぎ出すこともできない。盗み出した後は、一瀉千里に砂漠の外に逃げ出さない限り、毯馬の騎走隊に捕えられてしまう。もしつかまれば、当然、拷問の上、見せしめの櫓に吊るされる。
展示館に忍び込むための穴掘りが先行して行われたが、収納器の問題を突破する妙案が見つからなかった。当初は手灯の子供を連れ出し、ケースの上に手を翳させることを考えた。しかし晶砂砂漠に数人しかいない手灯の貴奴、それも評議会直属の機関で厳重な監視の元に暮らす貴奴を誘拐することは、ケースを開けること以上に難しい。
そう思って諦めかけていた時、ウィルタを見つけた。手灯とは別の眼灯ともいうべき能力を持った少年である。貴奴を連れ出すのは困難だが、ウィルタという少年なら造作もない。それに今回の強奪計画だけでなく、この少年の能力を使えば、いくらでも儲け仕事ができる。手灯と同様の能力を発揮する少年、これはもしかしたら、新種の火炎樹などよりも、もっと凄い宝の山を生み出す打ち出の小槌になるやもしれなかった。
三日後の旋灯祭の準備でオアシスが混雑するのを避けるように、ケースの中の母種は、明日、次の展示会場であるオアシス・ヒシスに向けて運び出されてしまう。もちろん厳重な警備の元にだ。そうなれば、もう母種を奪う機会は失われてしまう。元老院のあるヒシスで、巡検隊一個大隊で守られた母種を奪おうとすれば、それは戦争を仕掛けるようなもの、チャンスは今夜しかなかった。
モングーティがウィルタを促した。後ろでは、ホーシュの首元にナイフが光る。
ウィルタとしては不承ながらも従うしかなかった。もし断れば、ホーシュだけでなく、自分の命も危ない。男たちの目が、そう語っていた。
ウィルタはクリスタルのケースに目を向けた。
クリスタルケースは話で聞いていたよりも大きく感じる。幅はウィルタが両腕を広げたほど。高さは大人の背丈よりもやや高い。台座の黒いクリスタルケースの上に、同じ形の透明なクリスタルケースが乗せてあるように見えるが、実際には上下のケースは一体で繋がっている。透明なケースの中央に、ラグビーボール大の銀白色の母種が見えていた。映像という話だが、どう見ても、そこに本物が置いてあるとしか思えない。
「眺めるのはいい、早くやれ」
モングーティの命令を待っていたように、ホーシュの首にナイフが押し当てられた。
「ちょっと……、一回り、していい」
縛られた手をウィルタが窮屈そうに動かした。
「いいだろう」
ウィルタが腕を掴まれたまま、クリスタルケースの周りをゆっくりと歩く。正十二面体で、どの角度から見ても形は同じ。回るにつれて種の見える向きも滑らかに変わってくる。やはりどう見ても、ケースの中の種が映像だとは信じられない。
「やれ!」
一瞬の沈黙のあと、「上手くやれるかどうか分からないけど」と言って、ウィルタは目を閉じた。急いで透視をしようとする時は、まぶたを閉じた方が早い。
「男は泣き言を言うもんじゃねえ、やると決めたら、やるんだ」
「分かったよ、でも逃げたりしないから、掴んでる腕を離してよ。目に意識が集中できないだろう」
「分かった、だがもし逃げたら、茶髪の坊主の喉を掻っ切るからな」
ウィルタは何も言わず、種の正面と思える位置に立つと、自分の胸ほどの高さの黒い台座に視線を止めた。意識を目に集中していく。
透視をしようとすると、いったん目が霞み、景色が消えるような感覚が起きる。それを我慢して意識を目の奥に集めていくと、やがて目の中に、ぼんやりとした明かりのようなものが浮かび上がってくる。意識の中のスポットライトのようなものだ。そうなれば、あとはその意識のスポットライトを、見ようとする場所に移動するだけだ。
いま意識のスポットライトに照らされているのは、黒いクリスタルの表面になる。スポットライトを、少しずつその奥、黒いクリスタルの表面の向こう側に押し込んでいく。
と、スッと抜けるような感覚があって、クリスタルの厚い板の後ろに意識が移った。
何もない空間、これが正面の収納器の中だろう。思ったよりも狭く感じる。
意識をもう少し奥まで押し込む。すると幾何学的な模様が見えてきた。台座に組み込まれた機械らしい。とぐろを巻いた配線のようなものも見える。
透視はその範囲を調整するのが難しい。広げすぎると対象の輪郭がぼやけ、重なり合ってしまう。見える範囲を収納器の中央辺りに保ちながら、ウィルタはゆっくりと展示ケースの周りを歩きだした。一歩、二歩。隣の収納器も空だ。さらに、その隣。
ゆっくりと歩を進めながら、一つ一つ収納器の中を覗いていく。三つ目の収納器に種を見つけた。上の透明なケースの中に見えているのと同じものだ。
ウィルタが足を止めたので、モングーティが「あったか」と聞く。
答えず、ウィルタはそのまま歩を進めた。そして十二面体の周りを一周。
「どうだ」と、気負い込むモングーティに、ウィルタは「もう一度」と言って、今度はさらにゆっくりと、そして何度か立ち止まりながらケースの周りをまわった。
そして元の位置に戻ると、肩で大きく息をついた。頭痛が始まっていた。
目を開けると、モングーティがウィルタの顔を覗きこんでいた。
「あったか」
睨みつけるモングーティに、ウィルタは「あった」と答えた。
「どれだ」
「でもね……」
「でも、なんだ」
「四つもあるんだ」
ギョッとしたモングーティに、ウィルタが額を押さえながら説明する。十二の容器の四つの面に、それぞれ一個ずつ種が入っている。その種がどれも上の透明な容器の中に見えている種とそっくりで、区別がつかないと……。
横で聞いてきた蜘蛛腕が口をだした。
「若頭、もしかしたら、盗難防止にダミーを入れてるんじゃないですか。どれも同じに見えるということは、型を取って偽物を作ってあるということでしょう」
「どうするの?」
ウィルタの問いかけに、モングーティがぶ厚い唇を震わせた。
「種を透視してみろ、偽物なら、おそらく中は均質だ。本物の種なら中が何層かに分かれている」
すぐにウィルタは台座の各面に目を凝らした。
モングーティの指摘どおりだった。いま目の前にある種は、中が砂粒のようにザラザラした質感に感じられる。樹脂を固めて整形し、色を塗って仕上げたものだろう。
順に見ていく。そして見つけた。一つだけ中が層状態になっている種があった。透視を始めた面のちょうど反対側の収納器に入っている種だ。
ウィルタが足を止め、その面に手を当てた。
「これか!」と、モングーティが屈んで台座の基部を覗きこむ。
収納器の下、五と刻印された数字の横に丸い穴がある。五は第五面ということだろう。モングーティはポケットから棒状の鍵を取り出すと、鍵の根元を回して、縦に並んだ六つの数字を変更した。六桁の暗号コードである。数字が合うと、それを口に出して確認、躊躇なく細い穴に差し込んだ。
脇から覗き込んでいた蜘蛛腕と穴目の二人が、唾を呑む。普通の鍵なら金属が噛み合う感触が指先に伝わってくるものだが、この鍵は何も感じない。その代わり、鍵穴の横にある雨粒のような突起に、緑色のランプが点灯した。ロックが解除された。
モングーティは、緊張した面持ちで体を一歩後ろに移動させると、右側にいた穴目に「開けてみろ」と命じた。
穴目が収納ケースの下に手を入れ、手前に引く。滑るように収納器が引き出されてきた。
巣穴に潜む小獣のような穴目の目に、ケースの中の銀白色の母種が見えた。
ラグビーボール大の種が一つ。
「取り出しますか」
モングーティの「やれ」という言葉と同時に、穴目は両側から手を差し込み、挟むようにして母種を持ち上げた。
「若頭、消えましたぜ」
左側にいた蜘蛛腕の指摘に、モングーティが顔を上げると、透明のクリスタルケースに映し出されていた種の映像が消えていた。
「代わりの種を入れます」
種が持ち出されたことを隠すために、こちらも偽物を用意していた。
穴目が偽の種を収納器に入れると、クリスタルケースの何もない中空から、種を掴んだ手が現れた。収納器の中に種を置き、手を引き上げる。するとケースの中の手も幽霊のように消える。種の位置と傾きを調整すべく手を入れる度に、ケースの上から手が現れては消える。まるで手品でもやっているようだ。
「こんなもんですかね」と、穴目が了解を求める。
モングーティが「上出来だ」と、親指を立てた。
穴目は母種をモングーティに手渡すと、最後は慎重に収納器をケースに押し込んだ。
渡された銀白色の種のずしりとした重量感に、モングーティが唇を緩めた。
「巷じゃ黄金の火炎樹が話題になっているが、あんな夢物語なんざどうでもいい。これこそが現実の黄金を生む魔法の種なんだ」
言ってモングーティが母種の重みを確かめるように手を上下させたその時、展示館の正面、大扉が叩かれた。
「おーい、中の警備の連中に、配電に詳しいやつはいないか、点灯の具合がおかしいんだ。おーい、聞こえるか」
手下がモングーティに、身振りでどうすればと聞く。
引き上げろとばかりに、モングーティが大きく腕を振った。
「見張りに撤収を伝えろ。鍵は内側から閉めてある。外のやつらが入って来るまでには、まだ時間がある。とにかく撤収だ!」
そう言い放つと、モングーティは母種の入った布袋を小脇に抱え、脱出口のある階下の収蔵庫へと走った。その後ろを、ホーシュを肩に担ぎ、ウィルタを脇に抱えこんだ蜘蛛腕が続く。異変に気づいたのか、正面玄関の扉を叩く音が大きくなる。
モングーティの一味は、収蔵庫の床に開いた穴に飛び込むや、ジャッキで持ち上げておいた敷石を引き下げた。
穴の塞がる直前、扉を蹴破る音が遺物展示館全体に響き渡った。
一味は地下の街路に戻った。どんじりを務める穴目が、大きな刷毛で砂を掃きならしながら続く。地下街のとある商店の中へ。床板を引き上げ、下り階段を下りると、そこに人がひとり通れるような細い通路が口を開けていた。天井がアーチ型ではなく三角に狭まった三角トンネルで、真っ直ぐ前方に伸びている。
その地下のトンネルを、盗賊の一味は走った。
第五十二話「湖水堂」




