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星草物語  作者: 東陣正則
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ジンバ市


     ジンバ市


 春香が展望テラスで湖岸の風景に見入っている頃、ウィルタとホーシュは氏を見失い、町なかを当てもなく歩き回っていた。そしていつの間にか、ジンバ市場に入り込んでいた。二人は直ぐにそこが、子供の来る場所ではないことに気づいた。

 壁沿いに並ぶ檻で仕切られた小部屋に、自分たちと同じくらいの歳格好の子供たちが押し込まれている。その子供たちをジンバ商が、人の売買をする者特有の目つきで値踏みしていた。キツネ目という目つきがあるが、ジンバ商の目つきは、まさにそれ。まるでキツネが人に化けて、舌舐めずりをしながら、人間の子供を品定めしているように見える。

 キツネ目たちが、二人にも気味の悪い目を向けてきた。

 逃げ出したくなる気持ちを我慢して、二人は帳簿を抱えた男性に、「ダルトゥンバという人を知りませんか」と声をかけた。

「身分証は?」と、鋭い声が返ってきた。

 二人を逃げ出したジンバと疑っている。

 ウィルタは「ここにあるよ」と外套のポケットを手で叩くと、「黒い毯馬を連れて、苔茶を扱っている人なんだけど」と続けた。

「坊商のダルトゥンバか」と、係官がカミソリのようにきつい目をクッと吊り上がらせる。

 頷いていると、後ろにいたジンバ商の二人組が話に首を突っこんできた。

「トゥンバのやつ、以前はよくこの市にも顔を出してた。しかしここじゃ、あいつは売りじゃなく買いが専門だったぜ」

「仲間うちじゃ、転売で儲けてるんだろうってのが、もっぱらの噂だったがな」

 二人組のジンバ商は、喋りながら繋いだ手をもぞもぞと動かす。指の動きで何かを伝え合っている。

 ウィルタとホーシュは、ブルッと体を震わせると、気を張った声を返した。

「ぼくたち、トゥンバさんに貸したものがあるから、返してもらおうと思ってさ」

 係官の背後、壁の向こう側で笑いが起きた。数人が声高に話し始める。

「そういやトゥンバのやつ、金が足りないって、いつも喚いてたな」

「ジンバ上がりが交易商の真似事なんざしたって、上手くいくはずないだろうに」

「どうせまたここに戻ってくるさ」

「そうそう、一度人買いに手を染めたやつが止められる訳ねえ。噂じゃ、西の町でジンバの仲買いをやってるって話だぜ」

「だろう、ジンバの鎖は、売られる側にも売る側にも填められてんだ」

 自嘲気味な笑いが炸裂したかと思うと、扉が開いて壁の向こう側にいた同業者たちが姿を見せた。六人分のキツネ目が、一斉に二人に向けられる。

 ウィルタとホーシュはそのキツネ目たちに一礼、逃げるようにその場を離れた。

「こんなところにガキだけで来ると、身分証を持っていても売り飛ばされるぞ」

 後ろから笑いを含んだ声が追いかけてきた。

 ジンバ市場の潜り戸を抜けても、まだキツネ目たちの笑い声が、二人の頭の中で耳鳴りのような不快な音をたてていた。

 商人は良く笑う。それは右の物を左に動かして金を巻き上げる、その濡手に粟をほくそ笑んでいるようにも見えるし、儲けていることを気づかれないよう、笑いで誤魔化しているようにもだ。どちらにしても、ジンバ商の高笑いは気持ちのいいものではない。もちろん陰気に笑われるよりは益しかもしれないけれど……。

 でもそれで言えば、トゥンバさんも時々変な空笑いをする。単純に可笑しくて笑っているだけじゃない風に見える。あの空笑いの後ろにも、何か誤魔化したい気持ちや算段が隠れているのだろうか。

 気がつくと、二人は元の公設市場に戻っていた。

 市場の入り口脇の石に腰を落とすと、二人はしばらく黙っていた。頭のなかでは、トゥンバさんがジンバの売買をしていたという話が、濡れた下着のように体に貼りついていた。

 ジンバ商をやっていた。そして、今もやっているらしい。

 気になるのは、トゥンバさんはジンバの売買の話を、岩船屋敷では一言も口にしてないということだ。何か後ろめたいところがあるから話さなかったに違いない。そんな人に、自分たちがついて行って大丈夫だろうか。

 そうは言っても、自分たちは子供で、身分証はまだ仮のものを通関所で発行してもらっただけだ。さっき役所らしい建物を見つけたので、中に入って尋ねたら、未成年者の身分証は、保護者かその委託代理人でなければ発行できないという。それに発行手数料がばかにならない額だった。どうすればいいのだろう。考えれば考えるほど頭を抱えたくなる。浮かんでくるのは、ジンバ市場で見た檻の中の子供たちの姿だ。

「金だよね」

 ウィルタが、ホーシュの気持ちを見透かしたように、それを口にした。

 ホーシュも顔を上げて頷く。

「やっぱり、お金がなければ、何もできない」

 さっき窓口で身分証の発行について尋ねた時、窓口のお姉さんが、「それでもお金さえあればなんとかなるの、それがこの世界のルール」と言って、片目を瞑ってみせた。

 ウィルタは腰の革袋から財布代わりの巾着を引き出した。中身はタクタンペック村で押収されて、小銭が数枚残っているだけだ。巾着が妙に脹らんでいるのは、ウロジイから貰った棒のような石が入っているからで、ウロジイは困った時には、これを然るべき人に見せなさいと言った。でも黒っぽい何てことはない石だ。

 ホーシュが自分の肩掛けバッグから、拳ほどの大きさの布の包みを取り出した。

「これをやってみようか」

「うん、そうだね、売れればいいけど」


 前々からホーシュは、家のことで、あることが気に掛かっていた。

 父親のホブルが育てている赤紫色の苔である。ホブルは、トゥンバ氏が家に立ち寄る度に、その苔を渡している。

 氏はチャビンの刺繍を買い上げ、代金の代わりに様々な生活物資を届けてくれる。ホーシュは、それを当たり前と思っていた。ところが電鍵放送を聴くようになって、物の値段には相場というものがあることを知った。すると、母親の刺繍であれだけの品物と交換できるということが、どうにも腑に落ちない。何かほかに、お金に代わる別の物を渡しているに違いない。そう思って考えても、思い当たる物は、あの赤紫色の苔くらいしかない。きっとあの苔は高価なものに違いない。

 そう考えたホーシュは、父親の目を盗んで鍵の掛かった部屋に忍び込み、少しずつその赤紫色の苔を採り置き溜め込んだ。家を出た時に、売って金に代えようと考えたのだ。

 ホーシュが包んでいた布を開けると、そこに押し固めた苔があった。鮮やかな黄色をしている。生の時は淡い赤紫色だが、干すと鮮やかな黄色に変わる。ウィルタはその黄色い苔を指先で摘み、鼻に近づけた。ツンとした匂いにシーラさんの薬苔小屋がよみがえる。

「これ薬苔じゃないかな。ぼくを育ててくれた人が薬苔を作っていたから、何となく分かるんだ。匂いが薬っぽいんだよね」

「薬か……、そうだと、いいけど」

 不安のなかにも、ホーシュが期待を込めてそう言う。

「薬種屋に行って、お店の人に見せて、反応を確かめてみようよ」

 ウィルタの誘いに、ホーシュが市場の案内板に目を向けた。看板の下半分、店舗の案内図に、薬種問屋という文字が並んでいる。二人は重い腰を上げると、音盤の楽曲の鳴り響く市場の中に足を踏み入れた。

 市場の奥右隅に、大小様々の薬種の入った箱を並べた薬種問屋が軒を連ねている。二度ほどその前を行きつ戻りつして様子を確かめた後、二人は一番端の店に入った。

 店の人に声をかけるのは、もちろんウィルタだ。店というものに入るのが初めてのホーシュは、キョロキョロしてどうにも落ち着きがない。

 ウィルタはホーシュを肘で突くと、「じっとして、そわそわしてると、盗んだものかと思われる」と注意した。

 奥にいた前掛け姿の男が、手拭いで手を拭きながら出てきた。薄土肌の手に赤く染まった爪がよく目立つ。苔の黴止め用の薬に、爪を赤く染めてしまう薬があることを、町に薬種を卸しに行っているシーラさんから聞いた。それはいいとして、前掛け姿の男は妙に額が前に出ている。髪を後ろで束ねているので、余計に額の出っ張りが目立つ。黒いセーターの上に胸当てつきの前掛けをした姿は、店の主人というよりも番頭といった風貌だ。

 ウィルタは帽子を取って一礼すると、直截に用件を切りだした。

「ねえ、おじさん。人から預かった薬苔があって、どのくらいの値段がつくか聞いてくれって頼まれたんだ、良かったら見てくれないかな」

 デコ頭の番頭が、面倒そうな目でウィルタを見た。それでも薬種の持ち込み自体は良くあることなのだろう、見せてみろと帳場越しに手を出してきた。

 板餅の包み紙に取り分けておいた苔を、番頭の手の平に乗せる。

 とたん番頭の顔つきが変わった。デコ頭の番頭は、慌てて店の外をうかがうと、ウィルタに顔を近づけ、「おまえ、これを誰から」と、小声でささやいた。

「誰って、それは言えないけど……、でも貴重な薬苔だって」

「そんなことは分かってる、そのお方は、これをどのくらい持ってるんだ」

 番頭の真剣な表情と慌てぶりに、ウィルタは「いくらで買ってもらえるの」と、単刀直入に切りこんだ。

 ウィルタはズヴェルを売りに百尺屋に出入りしていた。その際、荷かたぎの連中と百尺屋の親父さんが、商品の売買の値段を巡って激しくやり合うのを、何度も目にしている。やりとりが面白くて、いつもこっそり覗いていたが、そこから学んだことは、もったいぶった話し方は良い結果を生まないということだ。

 子供が薬苔を持ち込むということは例のないことらしく、いつもと勝手が違うようで、デコ頭の番頭は、ウーッと一声唸ると、「俺の判断じゃなんとも言えねえ、大旦那に了解を取らないとな……」と口を濁した。そして困ったように店の奥に顔を向けた。

その時である。ホーシュとウィルタの間を割るように太い腕が伸び、薬染みのある番頭の手首を、別のがっしりとした手が掴んだ。異様に毛深い毯馬の足のような手だ。

 いつそこに来たのか、炎樹紋の入った巡検隊の襷を体にまわし掛けた人物が、二人の後ろに立っていた。その男、ゲルバ族としては肩幅の広いずんぐりとした体形で、頭から首をターバンでずっぽりと覆っている。ターバンの奥に覗く顔は、極太の眉に厚ぼったい二重の目、膨らんだ頬に団子鼻、おまけに縮れた黒いひげが、腸詰めのように分厚い唇を取り囲んでいる。どうにも余白のない、見ているこちらが息苦しくなりそうな顔だ。

 その圧迫感のある厚顔の巡検隊員が、「何の商談だ、また危ない苔の取引でもやってるんじゃないだろうな」と、番頭に向かって凄んだ。そして掴んだ番頭の手首を、毛深い手で万力のように締め上げた。たまらず番頭が指を開く。

 厚顔の隊員が分厚い唇にニッと笑みを浮かべて、番頭の手の上に目を向けた。

「これは、何だ」

「そっ……、それは、今このガキどもが持ち込んだもので、うちじゃ、こんなものは扱ってないから、いらないって断ろうとしたところなんで、本当ですよ旦那」

 慌てているのか声が吃っている。

「言い訳するところを見ると、また危ない商売をやっているようだな」

 番頭はブルブルと首を振ると、汗の浮き出た額を手の甲で拭った。

「そんな、旦那、脅しっこなしでさ。前の時だって、うちは関係なかったんだ。旅の商人が勝手に麻苔を持ち込んだおかげで、疑われて、迷惑したんですから」

「店の旦那が、お偉いさんに袖の下を渡して、そういうことにしたんだろう。だがな、こういう店で番頭をやるなら、もっとどっしりと構えておくことだ。おどおどしてると、逆に疑われることになるぜ」

 絡みつくような口ぶりで話すと、厚顔の隊員は「証拠品だ、預かっておく」と、当然とばかりに番頭の手から包みを取りあげた。そして子供たちの方に向き直り、「身分証を見せろ」と、強い口調で迫った。二人は慌てて仮の身分証を取り出した。

 紙片に目を落とした隊員は「仮か……」と、引っ掛かるような声を漏らすと、「この苔のことで聞きたいことがある、巡検隊の本部まで来てもらおう」と、有無を言わさず二人を店の外に連れ出した。

 番頭がヤレヤレといった表情で「旦那、またよろしく」と、送り出しの声をかける。

 背中を押されるままに、ウィルタとホーシュは店の並びから市場の外へ出た。

 狭い通りを右から左、左から右へ。ボールが壁にぶつかるように次々と角を曲がる。そして人通りのない狭い裏道に入ったとたん、厚顔の隊員が足を止めた。そして押しの強い顔を二人に近づけると、懐から取り出した物を鼻の下に押し当てた。

 手を離すと、二人の目の前に、大きな捻れたひげを付けた顔があった。

 最初に声を上げたのはホーシュだった。

 目の前の顔、それは昨日から今朝にかけて何度も目にしていた顔、三人の巡検隊員、口ひげ隊の……、確か副長を名乗っていた男だ。

 ホーシュが怖る怖るそれを口にした。

「あの巡検隊の、副長さん……、だよね」

「モングーティ……さんって、言ったっけ」と、ウィルタが続けた。

 大きな捻れひげがあまりに特徴的だったので、それ以外の部分は記憶に残っていない。

 ところが今こうやって目の前に捻れひげをつけた状態で見せられれば、間違いなくあの副長さんの顔だ。

 捻れひげの副長モングーティは、厚い唇を右に吊り上げると、「これは秘密だぞ。俺は町にいる時は口ひげを外しているんだ、仕事で麻苔の販路を追いかけているからな」

 密談でもするように言って、モングーティは素早く捻じれひげをむしり取った。

 あっという間に元の厚顔に戻る。しかしどう見ても同じ人物には見えない。

 派手な捻れひげをつけていると、特徴的な眉や目、鼻、口唇、余白のない厚ぼったい顔の全てが、目立たなくなってしまう。変装をする時、眼鏡を一つ付けるだけで、ほかの部分の印象が消されてしまうのと同じことだ。

「へえ凄い、おじさん、麻苔を追いかけてるんだ」

 感心したようにモングーティの付けひげを見つめるホーシュに、当のモングーティが、ポケットから先ほどの苔の入った包みを取り出し、二人の鼻先に突きつけた。

「それより、おまえら、これが何だか分かっているのか」

 叱りつけるようにモングーティが詰問する。

 薬種問屋の番頭とモングーティのやり取りを見ていて、二人はもしやと思っていた。

「じゃあ、それって、もしかして……」

 上目遣いにその言葉を口にしかけたホーシュに、モングーティがそうだと頷く。

「この辺りで麻黄苔と呼ぶ麻苔だ。乾燥させると鮮やかな黄色に変わる、砂漠で流通している麻苔の中でも一番幻覚作用の強い麻苔だ。こいつを持っているだけでも……」

 モングーティが首に縄を掛けて吊るす真似をした。

「そんな、ぼくは薬苔かなんかだと」

「ハベルードの通関所で、櫓に吊るされたミイラを見ただろう、ああなるということだ」

「だって、これは、あの……」

 あんぐりと口を空けた二人の子供を、モングーティが「あのダルトゥンバという坊商が持っていたのか」と、決め付けるように問い質す。

 男の強い声に気押され、ホーシュが首を縦に振った。ホーシュは一瞬どう答えようか迷った。けれど、父親のホブルが栽培していたものだとは、とても言えなかった。

 ホーシュが頷くのを見て、モングーティは腕組をすると、いかにも難しげに眉間にしわを寄せた。

「人を見かけで判断してはだめだ。このご時世、僧官だって一皮剥けば、裏で何をやっているか分かったもんじゃない。あのジンバ商の尼商を見ただろう。ダルトゥンバという僧について行けば、いずれジンバで売り飛ばされる。分かってるか、ジンバ、奴隷だぞ」

 重しのきいた声で脅され、二人は俯いてしまった。

「俺が役所に掛け合って、人権局の者に引き合わせてやるから、一緒に来い」

「でも、連れの女の子がいるから……」

 ホーシュが困惑した顔で、宿で貰った投宿のカードを見せる。そのカードを見るまでもなく、モングーティは隊商で行軍していた時のことを思い出したのだろう、

「そういえば同い歳くらいの娘がいたな。分かった、あの娘も後で俺が人権局に連絡して、保護してもらえるように手配する。それで問題はない」

 強引に話を進めると、モングーティは再び捻じれひげを鼻の下に押しつけ、付き具合を確かめるように、二度ほどひげの先端を横に引っ張った。

 思わぬ展開に、ウィルタとホーシュは顔を見合わせた。不安はある。ただ今は、このモングーティの言う通りにするしかないように思えた。というよりも、自分たちだけでは、どうしていいのか皆目分からなかった。

 二人はモングーティに向かって、おずおずと「お願いします」と頭を下げた。

 畏まる二人に活を入れるべく分厚い手の平で背をバシンと叩くと、モングーティは腸詰めのような唇をプルプルと震わせ、二人を先導するように歩きだした。

 モングーティが歩きながら意気揚々と話す。

「麻苔犯を捕まえるのは難しい、現場を取り押さえなければならないからな。それに役所に内通者がいることも考えておかねばならん。お前たちが巡検隊の事務所にいるのが、ダルトゥンバの一味に知れるとまずい。だから。やつの身柄を拘束するまでは、お前たちには身を隠してもらうことになる、いいな」

 モングーティは二人の顔を見て、もう一度「いいな」と念を押した。

 ただ、頷く子供たちに不安の面差しを見て取ったのだろう、モングーティは安心させるように、ポケットから飴を取り出し、二人に渡した。

 裏通りから人通りのある表道へ。

 モングーティは、二人を換気塔に寄りかかるようにして建つ、二階建ての家に案内した。

 狭い階段を上がって二階へ。十畳ほどの部屋に、小さな組ガラスの窓が二つ。しかし天井の北側半分に発泡ガラスのボードが填め込まれているので、部屋のなかは明るい。家具は机と椅子だけだ。夕日の差す西側の窓を覗くと、裏の通りを挟んで、大きな蒲鉾型の屋根が見える。なんとそれが巡検隊の本部だった。確かに翻っている旗には、巡検隊の火炎樹の紋章が縫い取られている。

「何かあれば、これを渡して中に入れてくれと言えば大丈夫」

 モングーティが、二人に自分の名前の入ったカードを渡した。

 二人が手にしたカードを見つめていると、階下から別の男が上がってきた。妙に手足のひょろ長い男で、茶器を乗せた盆を捧げ持っている。

 モングーティが戻って来るまでは、この男が二人の面倒を見てくれるという。

 バトンタッチをするように、モングーティが部下らしき男の腕に手の甲をぶつけた。

「俺は、本部で麻苔の取引現場を押さえる段取りをしてくる。日没までには一度経過を報告しにくるから、ここでのんびりと待っていろ」

 悠然と言ってドアに手をかけたモングーティが、ツッと足を止めた。

 そして一言「身分証はちゃんと取れるように手配しておいてやるから、安心しな」と付け加えると、後は腸詰めのような唇をプルプルと震わせながらドアを出ていった。

 ホーシュとウィルタは、緊張していた背中の筋肉が溶けるのを感じた。自分たちだけで一番どうにもならないこと、それが身分証だった。

 モングーティが階段を下りる音が離れて行く。その音につられるように、二人は窓の外に目を向けた。

 巡検隊の本部と逆側の窓、東側の組みガラスは、どれも砂で擦られて磨りガラスのようになっている。その中に一枚だけ、取り替えたばかりなのか、傷一つなく、すっきりと外の世界を見せているガラスがあった。その覗き穴のような透明なガラスから、外を覗く。

 下の路地を人が行き交っている。道幅も広い。どうやらこちら側が表通りらしい。

 二人が顔を寄せ合い、外を見ていると、後ろでジョボジョボと水の落ちるような音がした。振り返ると、部下と紹介された男が、肩よりも高く掲げたポットから、腰のあたりに持った小さなガラスの器に、湯を注ぎ落としていた。

 糸のような湯が、一メートル以上も離れたグラスの中に、しぶきも上げずに魔法のように収まっていく。手足が長いので、まるで曲芸を見ているようだ。グラスに注いだ湯をもう一度ポットに戻し、またグラスに注ぎ落とす。それを何度か繰り返すと、男は最後ポットの先をグラスに近づけ、中の湯を普通に注いだ。当地で滝茶と呼ばれている苔茶である。泡立った赤茶色の液体の入ったグラスが三つ、机の上に並ぶ。

 部下の男は、無骨な巡検隊の隊員というよりも、通関所の係員といった、こじんまりとした顔をしている。肌も色白の土漠肌。ただし手足、特に腕が蜘蛛のように長い。その異様に長い腕を持った男が、二人に滝茶を勧めながら話しかけてきた。

「人生色々、気楽に考えた方が、結果は上手く行くってもんだ。さあ、冷めないうちに茶を飲みな、オアシス名物の甘い滝茶だ」

 二時間も歩きまわって喉はカラカラ、二人とも出されたグラスを勧められるままに飲み乾した。泡立った甘い茶が、乾いた喉を撫でるようにフワフワと滲みこんでくる。蜘蛛腕の男も喉が乾いているらしく、小さなグラスの茶を美味そうに喉に傾けた。

 そして、十分後……、二人は床に転がり寝息をたてていた。

 入口の扉が開いてモングーティが顔を見せた。

「上首尾だな」

 機嫌良さそうに鼻を鳴らすモングーティに、蜘蛛腕が首筋を掻いた。

「若頭、そのガキが本当に話のような能力を持ってるんですかい」

 蜘蛛腕の目がホーシュに向いているのに気づいて、モングーティが靴先でウィルタの体を突ついた。

「能力があるのは、こっちの黒髪だ。俺がこの目で見たんだ。この坊主を使えば、今回の計画は上手くいく、絶対にだ」

 モングーティは、ポケットから板餅の包装紙で包まれた鮮黄色の苔を取り出し、状態の良いものだけを薄手の油紙で包み直すと、蜘蛛腕の男に指示した。

「俺はこれから巡検隊の本部に顔を出してくる、あとの手筈は任せたぞ」

「がってんです、準備は粛々と進めてますから」

 モングーティは、床に転がる子供たちを一瞥すると、厚顔のなかの分厚い腸詰め唇をプルプルと震わせ、部屋を出ていった。


 その頃、隊商宿ハジルの二階の部屋では、春香が椅子に座って、薄暗くなってきた窓の外を眺めていた。宿屋街の道は夕刻の雑踏に変わっていた。

 じきに日が暮れる。なのにホーシュとウィルタは戻ってこない。いやそれだけではない、トゥンバさんまでが帰ってこない。夕方までには戻ると言っていたはずなのに。もしかして自分が遺物展示館に行って宿を離れた間にと思い、宿の女将に尋ねても、女将も、その後三人の姿を見ていないという。馬将譜を指していたお年寄りも同じ答えだった。

 その老人の二人組も消え、入れ代わるように階下の食堂が客で賑わい始めた。

 窓の外に目を向けると、宿の裏手、町並みの間に砂漠の風景が覗いている。狐火のように点々と赤い火が並んでいるのは、野営をしている隊商の夕餉の明かりだ。

 月のない星空の元、台形の岩の上で人々が舞いのようなものを踊っている。四日後の旋灯祭で奉納される踊りの練習らしい。目を凝らすと、百人近い人が裾の広がる衣装をまとってクルクルと回りながら、幾重にも円をなして動いている。旋回舞踏と呼ばれる踊りで、祭の当日には、数百人の踊り手の一人一人が、棒灯を手にして舞うという。

 でも、今はそれどころではなかった。

 自分は、どうすればいいのだろう……、

 不安が脳裏をよぎる。トゥンバさんについては、商談が忙しくて遅くなるということもある。問題は、ホーシュとウィルタが戻って来ないということだ。お金を工面しに行って、何か良からぬことに巻き込まれたのではないか。それとも、道に迷っているのか。そう思って宿の女将さんに聞くと、オアシスの道は迷路のように入り組んでいるが、宿屋街とさえ言えば、直ぐにこの通りに連れて来てもらえるので、迷うことはないと。

 ならやはり、良からぬことが二人の上に起きたのか……。

 苛々するとともに、自分だけが取り残されたような気分になる。

 そして、とっぷりと日が暮れた。

 手持ちの袋の中に捻じり餅が一個あったのを思い出し、それを取り出してかじる。

 階下の食堂はもう満席になっていた。

 三人を見た人がいないか尋ねてみようと階下に降りかけたところで、客たちが真剣な表情で壁の照明器具を見ているのに気づいた。女将がスイッチを入れ、照明が灯ると客がどっと沸く。淡い黄色い明かりを見て拍手をしている。何か特別な照明らしい。

 その照明の真下に、あの餅太りの尼商と点眼の夫がいた。皿に盛った豚虫の唐揚げを、泡茶片手に頬張り、売り買いしたジンバの自慢話を周りの客と交わしている。話の様子からして、ほかの連中もジンバ商のようだ。

 春香は階段を下りずに、部屋に戻った。

 一刻が過ぎ、夜の八時になった。三人は戻ってこない。どう考えても変だ。

 春香は宿の女将から手提げの白灯を借りると、通関所の荷置場に行ってみることにした。そこに行けば何か分かる気がしたのだ。そんな事は無いだろうと思いつつ、三人が自分を置いて出発、荷物が無くなっている光景が浮かんでくる。

 万一そんなことにでもなったら……、不安ばかりが募ってくる。

 膨らむ不安を宥めながら通関所に出向き、夜警の老人に聞くと、明朝まで誰も中に入れることはできないとのこと。仕方なく宿屋に戻ることに。

 三人を探して街なかを歩いてみようかとも思ったが、もしここで自分が迷子になってしまったら、どうしようもない。それに自分が出かけることを、メモにして残すことを忘れていた。せめて何時までに戻るとか、一言書き残しておくべきだったと後悔する。

 宿に帰ったら三人が先に食事でもしているのではと、期待を込めて宿の見える通りを曲がると、前方、隊商宿のハジルの周辺が騒がしい。

 もしやと思って足を踏み出したとたん、「そちらの客の坊商が、麻苔所持の疑いで巡検隊に拘束された」という巡検隊の隊員の声が、春香の足を押し止めた。

「荷物を押収し、同行の子供たちを本部に連行して調べる」

 隊員が書状を見せて、女将に申し立てている。

 遠巻きにして隊員と女将のやり取りを見ているのは、前後の宿屋から出てきた客たちだ。

 野次馬たちの声が、春香の耳に届いた。

「麻黄苔の売人が捕まったんだとさ」

「麻黄苔だけじゃない、百乗粒丸まで持っていたらしいぜ」

「百乗粒丸の流通ルートは、巡検隊が完全に潰したって聞いたがな、また新しいルートができたってことか」

「まずは連れの子供を使って麻黄苔を売り込み、それが上手く行けば百乗粒丸って手はずだったんじゃないか」

「しかし、子供が吊るされるのは、あまり見たくねえなあ……」

 伝言ゲームのように伝わってくる囁きを、現場に駆けつけた若い隊員のきびきびした声が吹き飛ばす。

「男子二人は、三時ごろにジンバ市場で目撃されてから、足取りが消えています」

 隊長だろうか、辺りを一喝するような声がそれに続いた。

「明日以降は、祭礼に参加する団体が到着、オアシスの人口が倍に膨らむ。紛れ込まれると面倒だ。今夜中に捜し出す。地下の貧民街に潜り込んだに違いない、すぐに手配しろ」

 建物の影を伝いながら、春香は宿屋街を後ろに下がった。

 トゥンバさんが麻苔の売人だったなんて、まさか。

 でも、もし本当だったら……、思い当たるのは、ホブルさんが栽培していた変わった赤紫色の苔だ。じっくり見たわけではないが、あれがそうだったのだろうか。麻苔と生活物資を交換する。あの貴重そうな有耳泡壺もだ。そうでなければ、チャビンさんの刺繍だけで、あの一家が食っていくことなど、できるはずがない。麻苔の栽培がいずれ家族に暗い陰を投げかけることを懸念して、チャビンさんは夫のホブルに意見したのだ。あの茶の種の栽培にしてもそうだ。きっと、そういうことだったのだ。

 でも……、だからといって、わたしはどうすれば。

 それにホーシュとウィルタは、どこにいるのだろう。

 春香は迷いながらも、裏通りを走った。どこをどう走ったか分からないが、気がつくと錘湖の湖岸に出ていた。左に遺物展示館の方形のドーム状の屋根が見える。その展示館裏手の湖岸に、満都時代の巨大な樽型の投光機、雷光灯がずらりと並べられていた。

 雷火灯が順番に点灯しては消える。

 宿で馬将譜を指していたお年寄りは、旋灯祭のライトアップのことを延々と話していた。

 ギボの街の後ろの丘には、小ぶりだが百機近い風車が並んでいる。その風車で発電した電力を、大型の匣電や泡壺に溜め、年に六回空に向けて照明を灯す。旋灯祭はそのなかでも最大の祭りだ。どうやら、その点灯試験らしい。

 目の前の一基に明かりが灯った。

 白灯のささやかな明かりに慣れた目には、眩しすぎる照明。春香の時代でも特別なイベントの時以外は使わないような、強烈な照明だ。それでも、その点灯試験の明かりのおかげで、湖の岸辺に係留してあるボートが目に飛び込んできた。

 ボートを使えば、湖の対岸に渡ることができる。しかし点灯試験の光がこう明るくては、湖に漕ぎ出しても直ぐに見つかってしまう。どうしよう。

 逡巡する春香の耳に、遺物展示館の屋根を越えて甲高い笛の音が聞こえてきた。

 それに、自分に近づいてくる人の足音も……。春香は半分自棄気味に階段を駆け下りると手近なボートに飛び乗り、掴んだオールでエイッとボートを岸から押し出した。

 直後、点灯試験の照明が全て消え、湖面が闇に包まれた。

 同調器を付け忘れたという声が、テラスの辺りでしている。

 闇のなか、春香はボートの舳先を錘湖の対岸に向けた。

 目算があった訳ではない。ただ対岸に湖水堂のような経堂があるのを、昼間、展示館の展望テラスから見ている。どんな世界でも、宗教の聖域は助けを請う者に手を差し伸べるものだという、思いこみがあった。たとえ犯罪者であってもだ。

 だから、あそこに逃げ込めば……。

 春香が湖の中程まで漕ぎ進めた時、背後の岸辺に点灯試験の明かりが戻った。

 投光機の光の柱が数本、空に向かって一直線に立ち昇る。光の柱がリズムを取るように点いたり消えたり……、点灯と消灯を繰り返す。

 暗い湖面にボートを進め、三十分ほどで対岸に到達。実際にボートを漕ぎ着けてみると、湖岸の経堂は予想よりも遙かに大きな建物で、湖面側は水面に打ち込まれた柱の上に張り出すように乗っていた。まさに湖水堂だ。

 上陸して湖の反対側、砂漠側にまわって入り口を探す。幸い正面の大扉は開け放たれていた。対岸の投光機から零れた明かりが、湖岸の窓から湖水堂の中を抜けて、砂漠の側にまで差し及んでいる。

 その明かりを頼りに様子をうかがう。人の気配はない。

 それにしても、対岸の照明は雷火灯という名の通り、激しく点滅を繰り返している。

 迷う間もなく春香は、点滅する明かりを頼りに湖水堂の中に駆け込んだ。

 堂内には二抱えもありそうな柱が林立している。柱は頭上で枝分かれを繰り返し、最後細かい柱となって天井に同化、その天井に無数の組ガラスの窓が網目状に填め込まれている。昼間は、その組ガラスの窓から、日の光が木漏れ日となって堂内の床を照らすのだろう。でも今は夜、びっしりと立ち並ぶ柱は、まるで人の進入を拒む鬱蒼とした森だ。

 宗教施設には内部に入って祈りを捧げるものと、その建物自体が信仰の対象となって外で祈りを捧げるものがある。この水上堂は、さしずめその後者の典型かもしれない。

 ざっと中を見て回ると、春香は湖水寄りの柱の脇にうずくまり、窓から対岸の町を顧りみた。対岸のギボの町は、白灯の小さな明かりが灯るだけで、今しがたの激しい光の点滅が嘘のように闇に沈んでいる。点灯試験は終了したようだ。

 明日、湖水堂に司経様が来れば、相談に乗ってもらおう。そう考えて、春香は床に腰を落とした。床の冷たさが腰に這いあがってくる。

 でも、本当にホーシュとウィルタは、何をやっているのだろう。それに、わたしはこの後どうなってしまうのだろう。重苦しい気持ちに沈みながら、春香は壁から外した綴れ織りの布を体に巻きつけると、寒さに耐えるように膝の間に顔を埋めた。



第五十一話「クリスタルケース」

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