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星草物語  作者: 東陣正則
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ズヴェル採り


     ズヴェル採り

 

 カウントゼロの当日。予定では夜の八時にパネルの数字はゼロになる。

 午前中、ウィルタは落ち着かない気分で、ナムとピッタの兄弟と共に、盆地南の丘陵地に来ていた。ズヴェル採りである。

 朝から丘陵地帯を歩きまわって、ようやく盆地の縁に戻ってきたところだ。

 眼下の馬車道、陶印街道を毛長牛の一群が通り過ぎ、もうもうとした砂ぼこりが舞っている。ドゥルー海北岸の麦苔平原で移牧される毛長牛は、短い夏を背後のセヌフォ高原で過ごし、夏の終わりと共に海岸沿いの平原に戻っていく。この毛長牛が牛飼いに追われて街道に列をなすのが、セヌフォ高原の夏の終わりの風物詩になっている。

 この時期は、冬の到来を前にして、人や物資が駆け込みで移動、今まさに街道沿いのユカギルの町は、一年で一番の賑わいを見せていた。

 三人は盆地を見下ろす丘の上で、ひも状の細長い草、ズヴェルの仕分けを始めた。

 ピッタが声を弾ませた。

「けっこう採れたね」

「ああ、十二ビスカにはなるんじゃないか、なあウィルタ」

 ズヴェルの本数を数えるナムに、ウィルタが首を振った。

「思ったよりも小さいのが多かったから、十ビスカくらいかな」

 算術を教わり始めたピッタが「十って、三で割り切れるのかな」と、指を折り曲げ、不安な表情を浮かべる。ちびの自分だけ分け前が少なくなるのではと、心配しているのだ。そのピッタに兄貴のナムが「ちゃんと分けてやるから心配すんな」と言って、頭をなでる。

 ズヴェルの茎に付いたゴミを、丁寧に取り除いていく。

 一緒に作業をすると、ナムの無器用さが良く分かる。それでも一番丁寧にゴミを取ろうとするのはナムで、ピッタに至っては、すぐに飽きて石を転がし遊び始める。

 そんなピッタを、兄のナムがたしなめた。

「ピッタ、おまえも稼いだ金を全部飴に使わないで、少しは貯めておけよ。もしかしたら、もう小遣い稼ぎが、できなくなっちまうかもしれないんだぞ」

「分かってるよ、でもさ……」

 言ったきり、ピッタは口を尖らせ横を向いてしまう。その弟の頭を、ナムが仕方のないやつだなとばかりに、コツンと叩いた。

 手に入れた金をすぐに使ってしまう弟のために、兄のナムは、自分の分け前から少しずつ取り置いている。そんな兄の心遣いをピッタは全く気づいておらず、ナムのことを煩い兄だなという目でしか見ない。兄弟のいないウィルタは、ナムとピッタの兄弟を、眩しいものでも見るように視線から遠ざけた。

 毛長牛の群れが盆地の東に去って、眼下の陶印街道に静けさが戻ってきた。

「じゃあ、あとは任せたぜ」

 ナムは、長さによって仕分けしたズヴェルをウィルタの前に押し出すと、腰を伸ばすように立ち上がった。疲れて座りこんでいる弟をナムが引っ張り起す横で、ウィルタは手早くズヴェルの束を縛り直すと、自分の肩下げ袋に押し込んだ。

 斜面を下りると、三人は盆地中央を示す里程碑の前で別れた。

 目の前を、街道と馬車鉄道の鉄の軌道が併走している。

 ナムとピッタは街道をそのまま東に進み、ミトのある盆地北東斜面の板碑谷へ。一方、ウィルタはユカギルの町に行くため、街道を西へ。

 ウィルタの肩の後ろで、袋からはみ出たズヴェルの細い葉が風になびく。

 二千年前に世界中の植物という植物が枯れてしまった。その植物の一斉死が起こって以降、再生した植物はごくわずか。食用に供されるものは、ほんの片手ほどで、その貴重な草の一つがズヴェルだ。

 ウィルタとナムの兄弟は、盆地周辺の丘陵地帯でズヴェルを集め、町の百尺屋に持ち込み売り払っていた。ミトでは、子供は町に行くことを禁止されている。だからズヴェルを現金に替えるのはウィルタの役目だ。

 このズヴェル採りは、ウィルタの発案で始めたもので、二年前に始めて、それ以来、倹約家のナムは、稼いだ金を小まめに貯めている。曠野の子供が現金を手にする機会などめったにない。だから簡単に使うなんてできないと、ナムはいつも口にする。貯めた金で、ナムはナイフを買うという。

 ウィルタの半歳年上のナムには、この冬大人になるための通過儀礼、曠野での一人暮しが待っている。リウの枝を細工したり動物の皮を剥いだりと、ナイフは曠野の生活の必需品だ。それをシクンの青年一歩手前の男の子たちは、鉄の板から自分で作る。

 ところが元来手先の無器用なナムは、使えるナイフが自分で作れると思えなかったのだろう、それを町で調達しようとしていた。ナイフなどミトの仲間からいくらでも譲って貰えるのだから、遠眼鏡を買えばいいのにとウィルタは薦めるのだが、真面目なナムに、そういう器用な立ち回りはできないらしい。

 一方食いしん坊の弟のピッタは、堅実なナムと比べて、金を手にすると直ぐに甘いものを買ってしまう。ウィルタはいつもその買い物を頼まれる。少しは貯めておけばと、ウィルタもナムのように意見するのだが、ちびのピッタは我慢というのが出来ない。甘いものの少ないシクンの暮らしのなかで、突然町の飴を口にして虜になっているのだ。

 そして当のウィルタはと言えば、ナムとピッタの中間といえた。

 そもそもウィルタがズヴェル採りを始めたきっかけは、町に出た時の買い食いの資金稼ぎである。飴に魅せられたのはピッタだけではなかった。

 それでも途中からは、ナムのようにコツコツと稼ぎを貯めるようになった。

 ぜひ買いたいものができたのだ。ただその予定も、少女の服を調達するために、当分先送りにしなければならない。

 肩に掛けた布袋からズヴェルを一本引き出すと、ウィルタはそれを口にくわえた。癖のある苦みと独特の臭気が口の中に広がる。固乳の腐敗したような匂いがすることから、ズヴェルには腐乳草という異名もある。子供は総じてズヴェルを嫌がるので、大人たちは、この味を美味しく感じるようになれば大人になった証拠などと言って、むりやり子供にズヴェルを食べさせようとする。そういう自分も小さい時は嫌いだったが、今では普通に食べることができる。ただ美味しく食べられるかといえば、それはまだまだ……。

「大人の味かあ」

 感慨深げに呟くと、ウィルタはもう一口、ズヴェルの筋ばった茎を前歯でかじった。

 

 家畜の群れが去った街道で、人と馬車が、ばら撒かれた石炭のように動いている。

 ウィルタが足を止め靴の紐を直していると、脇に止まった荷馬車でブエッとおかしな音が鳴った。見ると御者台に酔騏楼のガフィが乗っている。寸づまりの短い馬車を牽いているのは、ここいらで駒牛と呼ばれる小型の牛だ。足も遅いし力も弱いが、素直で扱いやすいので、片腕のガフィは、この駒牛を可愛がっている。

 ガフィが口にくわえた平たい草を、ブエッと吹き鳴らした。

 緑と黄の縞柄のセーターを着込んだガフィは、首に韓紅色のマフラーを回し、頭にも同じ色の帽子乗せている。その帽子の天辺には黄色いぼんぼり。気持ちを明るくしようと思えば、まずは着るものを明るくすることだと、ガフィは言う。確かに、こんな派手な格好をしていれば、暗い気持ちではいられないだろう。

 その道化のような姿のガフィが、ウィルタを手招きした。

「町に用があるのなら乗りな、ただにしとくぜ」

 ガフィは、いつも気さくに声をかけてくれる。それにしても、帽子の先の黄色いぼんぼりが、縫いつけた糸が延びているのか、ガフィが首を動かす度に右へ左へブラブラと揺れる。笑ってしまいそうになるのを堪えて、ウィルタはガフィの横に飛び乗った。

「さっきから鳴らしているの、なに」

「ああ……、これか」

 ガフィが丸めた草を口に当てると、また「ブエッ」と、一声吹き鳴らした。

 酒焼けした赤黒い肌を陽光にてからせながら、ガフィが愉快そうに説明する。

 セヌフォ高原の南、麦苔平原の湿地には、ヨシという草が生えている。これはそのヨシの葉を丸めて作った、鳥の鳴き声を出す草笛だ。ウィルタが後ろの荷台を見やると、平べったい人の腕ほどの長さの葉が一束、水を張った甕に突っ込んであった。

「教えてやるから、一本取りな」

 言われて、甕の中の葉を手にしたウィルタの鼻に、プーンと酒が匂った。

「へへっ、ユカギルの酒の半分は俺が仕入れてる。俺の夢は、一千種類はあるという世界の酒を全部飲み比べることさ」

 荷台の布の下に、子供の胴体ほどの壺が並べてある。牛の角のように左右に突き出た二本の注ぎ口を、手提げの取っ手で結んだ酒専用の壺だ。ガフィが肘までしかない右腕に手綱を引っかけ、空いた左手で水筒を取り上げた。

 棒のような右腕に点々と黒い斑点が散っている。発破の際に皮膚に食い込んだ石炭の粒で、痒いのかガフィは暇があれば右肘を掻いている。

 水筒を呷って旨そうに頬を緩めたガフィを、「商売物を飲んでるの」と、ウィルタが冷やかす。ガフィがムッとした顔で水筒を日にかざした。

「ばかいえ、これは水だ。俺は、お天道様の下じゃ酒を飲まない。ウィルタ、美味しい酒の飲み方のコツが分かるか。そりゃあ酒を飲まないことだ。我慢すればするほどに、次に飲む酒が旨くなる」

「なんだか、おじさんが飲んでると、みんな、お酒に見えちゃうんだよな」

 首を傾げるウィルタに、ガフィがプハーッと酒を飲んだ後のように息を吐くと、

「酒を飲むには、もう一つ大事なことがある。それは、しっかり食べることだ。酒を飲むには体力がいるからな」

 御者台に置いた油紙の包みから、ガフィが四角い饅頭のようなものを取り出した。二つ折りにした練餅の間に、具らしきものがぎっちりと詰め込まれている。

 ガフィが、その餅包肉をウィルタに押し付けた。

「ほら食え。おまえは生まれついてのシクンじゃないから、食っても大丈夫だろう」

 曠野に暮らすシクンの一族は、戒律で町の人たちの食べる餅という食物を口にしない。

 尻込みをするウィルタの鼻先で、ガフィが具のはみ出した餅包肉を誘うように揺すった。香辛料と甘辛いソースの匂いが、ウィルタの鼻孔をくすぐる。

 タタンの家に出入りするようになって以来、口にする機会は幾度もあった。それでも厳しく戒められていたので、手を出したことはない。ところが今日は朝からズヴェルを捜して歩き回ったせいで、たまらなくお腹が空いていた。そのこともあって、ウィルタはつい目の前の餅包肉を受け取ってしまった。手にしたまま、じっと餅包肉を睨みつける。餅の間から、赤茶色のソースが触手を伸ばすように指先に垂れてくる。

「ガブッといくんだ。口の中に毛長牛の脂と肉汁が滲み出て旨いぞ」

ガフィの誘惑するような声が耳をくすぐる。

「ゴメンナサイ」と心の中で謝ると、ウィルタは目を瞑って餅包肉にかぶりついた。

 口の中で濃厚な味と香りが渦巻き、それが出口を探して鼻に抜ける。

 匂いだけでも目眩のしそうなほどの陶酔感。初めて町の飴を口にした時も、口が痺れそうな甘さに驚いた。しかし今回はその時以上、味覚が脳を麻痺させてしまいそうな強烈さだ。ガフィの言うように、それは体中を燃え上がらせるような味だった。これに比べれば、シクンの民が口にしている物なんか、味付けなど何もしていないといっていい。

 一口食べて、そのあまりの凄さに、ウィルタは餅包肉を口に入れたまま噛むのを忘れてしまった。口を膨らませたままじっと手元の餅包肉を睨みつけるウィルタを見て、ガフィが愉快そうに目を細めた。

「どうだ旨いだろう、俺は昔、シクンの連中の食べているミルク粥というやつを口にしたことがある。あれは酷い。修業中の小坊主だって、もっと旨いものを食べてる。あんなものしか食ってないから、シクンの連中は体が小さいんだ」

 ガフィの小言まがいの話を聞き流し、ウィルタは恐る恐る口の中の物を呑み下した。

 情熱が口から喉、喉から胃へと降りていく。そして一気に上半身が熱くなってきた。もう一口噛る。今度はもっと大きく。不思議な食べ物。食べれば食べるほど、もう一口食べたくなるような味だ。ウィルタはガフィの話に相槌も打たず、手にした餅包肉にむしゃぶりついた。

 食べ終えたウィルタの耳に、ガフィの声が戻ってきた。

「ウィルタ、何の因果か、お前はシクンのミトに捨てられ、ミトで育った。育ててもらった恩義はあるだろうが、あの偏屈たちとずっと一緒に暮らしていく必要なんかないんだぜ。嫌になったら、いつでもうちへ来い。パーヴァも、お前がミトで暮らしているから邪険にするが、あれであいつは、お前のことを気に入ってるんだ」

「食い終わったら、水でも飲め」と、ガフィがウィルタに水筒を押しつけた。

 その水筒を軽く一口呷る。とたんウィルタは中身を吐き出した。

 咽てゲホゲホと咳こむ。

「おじさん、これ、水じゃない」

「ハハハ、俺にとっては水と同じさ」

 渡された水筒の中身はやはり酒だった。ガフィが豪快に笑い上げた。

 と、そのガフィが急に口を閉ざし、手綱を引いて馬車を街道の脇に寄せた。

 前方から二頭立ての幌付きの馬車が近づいてくる。その幌馬車が、ガフィの前で止まり、御者台で手綱を握っていた婦人が、男物の丸つば帽を取って頭を下げた。

 ガフィはわざわざ馬車を降りて相手の御者台に歩み寄ると、ぼんぼり付きの帽子を脱いで丁寧にあいさつを返した。

 小声なので、ウィルタには、婦人とガフィが何を話しているのか分からない。しかし赤ら顔のガフィが、いつになく神妙な顔をしているように見える。

 話を終え、再び走り出した婦人の馬車を、ガフィは立ち竦むようにして見送っていた。

 焼けつく喉の感覚を我慢しながら、ウィルタもその馬車を見やる。

 幌の間から小さな男の子の顔が三つ覗いている。

 婦人の幌馬車が街道の小さな点になるまで見送ると、ガフィは御者台に戻り、何も言わずに駒牛に鞭を入れた。ガラガラと車輪が音をたてて動き出してもガフィは無言だった。

 ガフィが独り言のように口を開いた。

「あの一家、ユカギルの町を離れるんだ。南のマカ国に行くそうだ」

 ガフィの沈んだ様子に、「そこに行けば仕事があるの」と、ウィルタが聞く。

「さあな、だがこの町にいるよりは、いいのかもしれない。それに仕事がなくても、ここより、ひと月は冬が遅い。それだけでも救いさ」

 振り向くと、すでにさきほどの幌馬車は、盆地の東の丘に隠れていた。

 ガフィが酒を呷る。一度に流し込み過ぎたのか喉を咽返らせる。

 酒と一緒に自分の想いを吐き出すようにガフィが、「あの家族がこの町を離れることになったのは、俺のせいなんだ」と、話し始めた。

 十年前のこと、ガフィは彼女の亭主を西の都行きに誘った。いい仕事があると言ってだ。その西の都で彼女の亭主は事故に巻き込まれて亡くなってしまう。ガフィが亭主を死なせたようなものだ。亭主が生きていれば、ユカギルの町でも暮らしていく手立てはあった。危険と隣り合わせの坑道奥の採炭の仕事もあるからだ。しかし女手ひとつではどうしようもない。景気のいい町に行かなければ、子供たちを飢えさせてしまう。

「俺に右腕があれば、亭主の代わりをしてやれるんだが、まったく空の青さが目に滲みるぜ」

 ウィルタは視線をガフィから街道に逸らせた。

 ウィルタには分かっていた。今のガフィにとっては、酒もただの水なのだろう。

 

 盆地の北側、斜面を上る道に入る。

 ゆるやかな斜面の先に、二本の経柱に挟まれたユカギルの表玄関、焙暘門が見えてきた。門の内側にある鑑札所が、旅装の人々や荷馬車で混み合っている。

 門を入って正面に伸びているのが、町の目抜き通りで、両側に軒を連ねる商店の二階が、ところどころ渡り廊下で繋がっている。そのため、通りを行くと、次々と橋の下を潜り抜けるような心地良さがある。ただ渡り廊下に掲げられた看板も、大半はペンキが剥げ、中には傾いてずり落ちそうになっているものもある。ウィルタはガフィに気づかれないように、商店の並び、古着と飾り物の店に目を走らせた。

 目抜き通りの突き当たりが役場と官舎で、役場の前を左に曲がれば、その先に町の中心の広場がある。官舎の前で、金釘帽を被った官服姿の男が、メモを片手に太っ腹の町長に話しかけていた。

「ありゃあ、ユルツ国の特捜官、こんな田舎町に何の用だ」

 よほど珍しいのか、ガフィが首を曲げて金釘帽の男を目で追う。ところがガフィの視線を遮るように、別の馬車が官舎の前に止まってしまった。

 煙突の煤を叩き落とす甲高い音が、家並みの頭上を越えていく。その壊れた鐘のような音に耳を澄ませるウィルタの前に、明るい空間が開けた。広場だ。

 広場の右手に町の要の経堂がある。二本の鐘塔を従えた経堂の入口で、喜捨を受ける陶製の箱を手にしているのは助経師、読経に訪れた女性と話し込んでいるのは司経だ。この地では、天の教えは声によって人の体に宿ると考える。経典は目で読むものではなく、口で詠じ、耳で聞くもので、それゆえに経、すなわち天の声を唱和する場として、経堂が町の中心に建立され、経を司る者として司経が選任される。

 助経師がこちらを見た。視線が鋭い。

 ガフィが、わざとらしくそっぽを向いた。

 三年前にユカギルの町に赴任してきた今の司経と助経師は、根っからの禁酒派で、酒飲みや酒の販売に携わる連中を目の仇にしている。前任の司経が飲酒容認派だったせいもあって、締め付けが極端に厳しくなったと、町の飲み助たちは憤慨しきりだ。特に自他ともに呑んだくれを自認するガフィにとって、今の司経と助経師は仇敵のような存在だった。

 ガフィの横で、ウィルタも助経師の視線から逃れるように、荷台に体を沈めた。

「酒を飲まないお前が、何で隠れる」

「ボク、お祈り苦手だから」

 正直な告白に、クックッっと、ガフィが喉の詰まったような笑いを漏らした。

「お祈りで酔える連中はいい、経は只だからな。しかし俺は酒でないと酔えねえ」

 ガフィが荷台に乗せた酒壺を目で示した。

 街道の東、四つ先の町で仕入れた蔵出しの酒が今日の荷で、丁寧にフェルトでくるみ、底に柄物の座布団を履かせてある。その酒壺にガフィが箱入り娘を見守る父親のような視線を投げかける。ガフィは酒と心中すると言って憚らない。とにかく酒が好き、好き過ぎる。だからつい店の酒にまで手を出し、パーヴァの怒りを買ってしまう。酒壺を眺めるだけでも幸せにな気分に浸れるのか、先ほどの陰気な表情もどこ吹く風、にこやかな顔で「タタンに会うんだろ」とウィルタに聞いた。

「今日は、先に半夏門の百尺屋」

 ウィルタが肩下げ袋の中身を見せた。

「なんだ、ズヴェルか、それなら俺が買ってやるよ」

「え、だって……」

「いいってことよ、たっぷり愚痴を聞かせちまったからな」

 無理やりウィルタに十五ビスカの波型コインを握らせると、ガフィは肩下げ袋の中身をカゴに空けた。渡された大振りの硬貨を見て、ウィルタが目を丸くした。

「こんなに貰っていいの」

「大丈夫、この時期はそれでも安いくらいだ」

 ガフィは、酔騏楼の前でウィルタを下ろすと、駒牛の尻をリズムをつけて叩きながら、石畳の隘路を抜けていった。


 ウィルタが宿の扉を押し開く。とたん中から華やかな女性の笑い声が聞こえてきた。見慣れない服装の一団が、いつもの坑夫たちに代わって奥の卓に陣取っている。半分は派手な化粧をした女性たち。旅の演舞団である。そういえば今夜、役場の講堂で公演が催されると、町の掲示板に張り紙がしてあった。

 女将のパーヴァが、芸人然とした連中を相手に楽しげに酒を注いで回っている。

 パーヴァのいつもの一言が出る前にと、ウィルタは階段に足を向けた。

 階段の上り口に吊るされたつづれ織りには、跳躍する翠騏の姿が織り込まれている。階段を上ると、ちょうどその翠騏の腹の下を潜る格好になるのだが、それは馬の腹くぐりといって、商売人には縁起がいいことなのだそうだ。それはともかく、階段を半分ほど上ったところで、後ろから「お祈りに行きよ!」と、パーヴァの濁声が追いかけてきた。

 残りの階段を一気に駆け上がり、三階のタタンの部屋へ。

 椅子の上に華やかな子供用の服が置いてあった。もしやと思い、その花柄の服を手にしたウィルタに、「上がってこいよ」と、隣のガラクタ部屋から、くぐもった声が届く。

 覗くと天井のラッパから、プチプチと音が漏れている。

 前回同様、煙突の穴を上って隠し部屋へ。

 天井裏の小部屋に顔を出すと、眩しさに目が眩む。屋根板が大きく跳ね上げられ、部屋がサンルームになっていた。燦々と陽光に照らされた、その小部屋で、タタンが四角い箱を股に挟み、側面についたハンドルを回していた。金属の擦れる音が耳にくすぐったい。

 ハンドルを回す手を止めたタタンが「棺は?」と開口一番、聞いてきた。

「予定どおり今夜の八時、それよりもさ……」

 ウィルタが階下を指すと、タタンが愉快げに片目を閉じてみせた。

「あれは従妹の服、面倒な手間が省けて嬉しいだろう」

 そう話すタタンの顔を見て、ウィルタはハッとした。タタンが頭に包帯を巻いているのだ。フサフサの茶髪が隠れるほど、グルグル巻きにしてある。

 タタンが一転、苦々しげな顔で頭を押さえた。

「祖霊様の件を、まだ神様が許してくれてないみたいなんだ」

 昨日のこと、タタンは司経様の言いつけで経堂の掃除をしていた。その際に燭台が倒れ、額を六針も縫う怪我をしたのだという。

「タタンの神様は厳しいね」

「まったくだ、もう八日も床を磨いているのにさ」

 憮然としたタタンに、ウィルタが笑いを抑えて言った。

「神様は、床じゃなく心を磨けって、言いたいんじゃないか」

 ウィルタは知っていた。清掃奉仕の床磨きの際に、他の人がいないと、タタンは清布を足で動かす。きっと神様は、祖霊様の件よりも、その手抜きを咎めたのだろう。

 タタンが一本取られたとばかりにウィルタの額を指先で押した。そして股に挟んだアイロン入れほどの大きさの容器から、弁当箱のようなものを取り出した。表面に亀の甲羅そっくりのマークが入った、一見すると金属に見える箱だ。

「それが、いつもタタンが話してる、電気を溜める箱なの」

 珍しそうに箱に顔を寄せるウィルタを、タタンが意外そうな目で見た。

「そうか匣電を見るの、始めてか」

 匣電と呼ばれる装置は、この時代に広く普及している充電池のことである。コンセントを繋ぐ接続口を持っているので、充電型の電源箱と言ってもいい。その匣電からコードを二本引き出すと、タタンは何食わぬ顔でウィルタの指にそれを触れさせた。

 その瞬間、ウィルタが焼け火箸に触れたように手を弾けさせた。

 シクン族は電気を使わない。だから当然のこと、ミトの暮らしで電気を使う器械を目にすることはなく、ウィルタはタタンに会うまで、電気という言葉すら知らなかった。

 前にタタンに聞いた話では、電気とは雷の力と同じものということだ。その電気をユカギルの人たちは、町の周辺に設置した風車や、手回し、あるいは足踏み式の発電機を使って作り、毎日の生活に利用している。また緊急の場合には、石炭を燃やして蒸気機関での発電も行う。先日の炭鉱の出水事故の時のようにだ。

 ユカギルの町に限らず、もっと話を広げて、この時代の電気の利用を特徴づけているのは、電気が電線によって遠路はるばる送られるものではなく、匣電に充電され、必要な時、必要な場所に運ばれるものということ。

 これは電気を用いる道具が、照明器具と若干のモーター類や音響機器しかないということと、人口が極端に少なく町と町が遠く引き離されたように点在すること、加えて簡便で長持ちする匣電と呼ばれる充電池が普及したことなどに因っている。

「この匣電が、一単位の強さのもの」

 タタンが電圧の話を始めた。

 小難しい説明がウィルタの耳の上を素通りする。

 話に形だけ頷きながら、ウィルタは怯えた目でコードに触れた自分の指先を見ていた。体を突き抜ける痛みとも痺れともつかない衝撃がショックだった。電気は雷と同じものだという、実はウィルタは雷が大嫌いだ。

「ウィルタの座っている椅子代わりのでかい匣電、それで、二百単位かな」

 腰掛けていた樽型の箱からウィルタが飛び上がった。

「大丈夫、それは昔流行った匣電で、中身のない空樽」

 タタンは笑いを堪えて話を続けたが、ウィルタは魔物でも見るように樽から身を遠ざけた。壁に張り付いてしまったウィルタをよそに、タタンが充電したての匣電を、卓上のフクロウ型の器械に繋いだ。ずんぐりとした鳥の形を模した器械は、電波を受信して音に変換する装置、レシーバーとスピーカーで、上に載せてある金属線を螺旋状に巻いたものが、電波を捕まえるアンテナだ。

 電気の利用で、光の世紀とその後の時代で大きく違ってしまった点がもう一つある。

 それが通信だ。

 光の世紀、子供から大人まで、あらゆる人にあまねく普及していた無線式の通信機が、この時代では使われなくなっていた。通信機が消費する電力はほんの少量で事足りるし、通信の基本的な理論と技術は前の世紀からも継承されている。なのに、その利用がほとんど途絶えてしまったのには、ある特殊な事情が絡んでいる。それは……、

 タタンが棚に並べてある分厚い樹脂製の箱を取り上げ、蓋を開いた。

 中から親指の先ほどの大きさの、群青色の玉石が転がり出た。

「この世界に、物凄い数の隕石が転がっているということは、ウィルタも知ってるだろう。その中に、歌の好きな隕石があるんだ」

「隕石が歌うの」

「ああ、でも人の耳に聞こえない声で歌うので、聞くためには道具がいる」

 タタンが受信機のスイッチを入れた。

 とたん耳を聾する音がフクロウの両翼から飛び出した。キュィィーキュィィーという耳障りな音が、頭の芯に突き刺さる。検波器の針が跳ねるようにブルブルと振れる。

 両手で耳を塞ぎ床に座り込んでしまったウィルタを見て、タタンが受信機のダイヤルを絞った。音は小さくなったが、それでも不快な音は鳴っている。

「歌うんだけど、これが酷い音痴でな」

 いつ押し込んだのか、タタンが涼しい顔で自身の耳の穴から栓を抜き取った。


 この時代の人々は、人類が繁栄を謳歌していた二千年前の時代を『光の世紀』、その後の雪と氷に閉ざされた時代を『氷の世紀』と呼び習わしている。なお、この場合の世紀は、時代と同義である。この『光の世紀』から『氷の世紀』へと時代が代わるきっかけとなったのが、巨大隕石群の襲来である。当時人類は、植物の一斉死によって存亡の危機に立たされていた。そのため記録らしい記録は残されていないが、今の時代、隕石がどこにでも転がっているものであることからして、大量の隕石が降り注いだことは間違いない。

 その大量の隕石の中に、地上では見られない特殊な性質を持つものが含まれていた。

 唱鉄隕石と名づけられた電波を放射する石がそれである。

 電波は人の目や耳では、見ることも聞くこともできない。だから感覚的に理解することが難しいが、今の世紀と前の世紀の一番の違いは、この惑星の空間が、唱鉄隕石の放射する電波で満たされているということ。問題は、唱鉄隕石の出す電波が、受信機を介して人の耳に聞こえる音に変換すると、酷い雑音となって聞こえるということだ。

 それがあまりに不快な音なので、単なる雑音と区別して兇音と呼び、唱鉄隕石が放射する電波を兇電と称するようになった。

 地上に散らばる無数の唱鉄隕石。その唱鉄隕石によって、光の世紀以後の通信は、甚大な影響をこうむる。無数の制御不能な電波の発信源があるのだ。あまりの雑音源の多さに、通信は有線で行うのが当たり前となった。無線通信は、ごく稀に近距離間で兇音まじりの信号通信を行う程度である。

 受信機のスイッチを切ると、タタンが頭上に広がる四角い空に目を向けた。耳を締めつけるような音が消えると、空までが澄み切ったように思える。

「いい天気だ、屋根の上に出ようぜ」

 踏み台に足を乗せると、タタンはエイッと体を持ち上げた。

 酔騏楼のある町の東側は斜面が急で、屋根に上るとマトゥーム盆地の東から南にかけてが一望になる。二人は並んで屋根に腰を下ろすと、冷えた空気を肺の中に送り込んだ。

 高石垣の東側を、石炭を積んだ炭車がガラガラと音をたてて下っていく。炭鉱から軽便鉄道脇の貯炭槽に石炭を運んでいるのだ。

 週に一度、町の炭鉱から掘り出された石炭が、軽便鉄道を用いて西の都に搬送される。

 午後の読経が終われば、それと入れ代わりに、石炭を貨車に積み込む男たちの太い掛け声が、町の南側から聞こえてくるはずだ。

 タタンは大きく伸びをしながら、屋根の上に寝転がった。

「信じられるかウィルタ。世界が緑の森に覆われ、肌も露わな人たちが、海辺で日光浴や水浴びを楽しんでいた、そんな時代があったなんて」

 ウィルタが頷く。

「あの壁に掛けてあるパズルの絵の時代だね」

「じっちゃんが言ってたよ。俺の集めているのはガラクタじゃない。この世界を知るための貴重な断片なんだって。パズルの一片は、それだけだと訳の解らない色の断片にすぎない。でも、その一片一片を根気良く拾い集め、並び替えていけば、いつか絵の全体が見えてくる。そういう意味では、どうでもいいように見えるガラクタの一片一片が、かけがえのない宝物なんだって」

 タタンが、先日ウィルタに見せたメダルをポケットから取り出した。

「この何の変哲もないメダル、これは光を一本の細い糸に変える能力を持っている。ガラスのレンズも光を一点に集めはする。でもそれは光を屈折させるだけだから、集まった後に光は拡散してしまう。それが、このメダルは光を集め、さらにはその光を目に見えないくらいの細い糸に束ねてしまうんだ。言うなれば、この町の家ならどこにでも転がっている、糸紡ぎの紡錘駒のようなものさ」

 安物の玉を磨いて作られたようなメダルが、日の光をにぶく反射する。

「このメダルで絞った光の糸は、百メートル先でもぼやけなかった。ウィルタも見ただろう、一点に集めた光が高熱となって、牛骨賽の珠をあっという間に貫通してしまうのを」

 タタンがウィルタの手にメダルを乗せた。

 見かけは樹脂か玉石なのに、金属っぽい冷ややかさが手の平に伝わってくる。

「今から何千年も前に、信じられないほどの高度な技術を持った文明が、この星にあったっていうじゃないか」

「古文書に出てくる光の世紀という時代だね」

「ああ、その頃まさに人類は栄華を極め、科学は光でさえ自由に操ることができた。その証拠の一つがこれさ。光を紡ぐ紡光メダル。ぼくらからすれば、どうやればそんなことができるのか、皆目理解できない。古代の技術というのは、今のぼくらの知識じゃ想像もつかない代物なんだ」

 ウィルタが渡されたメダルに顔を寄せた。それは赤ちゃんの手の平ほどの大きさで、側面に小さな文字らしきものが二列にわたって刻印されている。でもそのほかは、表も裏もない、ただのヌメッとした安物の玉のような円盤だ。なぜこのメダルが光を透過させ、糸に紡ぎ上げるのか、不思議としか言いようがない。

 ウィルタが確かめるように聞く。

「その光と物に満ち溢れた豊かな世界も、突然滅んでしまうんだろ」

 光の世紀が滅んだ理由には諸説ある。一番有力なのは、巨大な隕石が地球に衝突したという説だ。しかし生き残った人たちが口伝えに残した話から、隕石の衝突の前に、すでに人類は滅びかけていたらしい。地球上の植物という植物が、突然枯れてしまったからだ。でもなぜその緑の消失と呼ばれる現象が起きたのかは、未だに謎とされている。

「おれのじっちゃんは、二つの世紀を繋ぐパズルの断片を集め、きちんと並び替えれば、光の世紀が滅んで冬の世紀が始まった理由を解き明かすことができるんじゃないかと考えた。世界が雪と氷と苔しかない世界になった、その大元の原因さえ分かれば、冷え切った大地にもう一度春を呼び戻すことができるんじゃないかって……」

 力を込めたタタンの声が、振り注ぐ陽の光に融けて輝く。ウィルタは自身の胸に手を当てた。人の話を聞いて、こんなに胸がドキドキするのは初めてだ。

「それで、その謎は解けたの」

 思わず前のめりに聞くウィルタに、「いいや」と、タタンが素っ気なく答えた。

「じっちゃんはさ、『オレは、謎を解く扉の鍵にも辿り着けなかった、タタン、あとはよろしく頼む』って、死ぬ間際に、この紡光メダルや部屋一杯の古代のガラクタを、孫のおれに託したんだ」

 祖父にしても、最初は自分の息子、つまりタタンの父親に夢を継いで貰いたかったらしい。ところが息子は事故で亡くなり、甥のガフィは救いようのない呑んだくれ、息子の女房は商売一筋ときている。夢を託せるのは孫のタタンしかいなかった。

 もちろん夢を託された頃のタタンは、まだ六歳の子供で、祖父の考えていたことなど何も理解できなかった。それが最近になって、少しだけ祖父の考えていた『夢』というのが、分かるようになってきたという。

 気負い込んで祖父の想いを語るタタンが、言葉を途切らせた。

 見上げる空を、夏の終わりの千切れ雲が流れていく。

 同じ雲を目で追いかけながら、ウィルタが思いついたように鼻先に指を当てた。

「タタンが祖霊様を調べに行こうって言ったのも、そういうこと?」

「ああ、大人たち、とくに経堂の連中なんかは、アヴィルジーンのことを大地の精霊と考えて、腫れ物に触るように怖がってる。だけどアヴィルジーン、祖霊様だって、とどのつまりは地球の生み出した生き物の一つで、ちゃんと調べれば、昔と今を繋ぐ何かが分かると思ったんだ。祖霊様以外にも調べてみたい事はいっぱいある。北のデュレム氷床の氷の底には、人型の自動機械がズラリと並んでいるっていうし、東のシフォン洋には、大陸ほどもある巨大な氷の島が浮遊してるっていうじゃないか」

 タタンは体を横向きに変えると、真剣な表情でウィルタの顔を覗き込んだ。

「ウィルタ、今度おれ、デュレム氷床へ行こうと考えてるんだ。一緒に行かないか」

「ボクと?」

 ウィルタが驚いたように自分で自分を指した。

「ああ、前から思ってたけど、ウィルタ、お前って、どっか普通じゃないところがある。祖霊様の羽化を見に行った時だってそうさ。すっごくいい感覚と運動神経を持ってる。おれは、そういうのからっきし駄目でさ。だから、おれとウィルタが組めば、いいコンビになると思うんだ」

 タタンの真剣な表情に、ウィルタは当惑したように眼下の風景に視線を投げた。

 午後の微風が屋根の上をすり抜けていく。

 実際に目に見える風景の外にも、世界は無限に広がり、風はいつも見えない世界への憧れを駆りたてる。マトゥーム盆地の内側にいる限り、見えるのは盆地を取り囲んでいる斜面と谷間だけだ。それが一歩外に足を踏み出せば、東には、オーギュギア山脈の峻険な峰々が南北に連なり、北には、巨大な氷床が白い帯のように大地を覆い尽くしている。直接見ることはできないが、南には、セヌフォ高原を下った先にドゥルー海が黒々とした水平線を横たえ、西には、貴霜山が秀麗なコニーデの裾野を広げているはずだ。

 熱っぽく話す二歳年上の友人を前にして、ウィルタは目を閉じた。

 まぶたの下、網膜の上に、遙か上空を流れる雲の残像が漂う。

 ウィルタは、タタンの言う「普通でない」という言葉を口の中で呟くと、あることに想いを馳せた。

 ウィルタは、物心ついた時から、自分には人と違う何かがあると感じていた。ただそれは、人よりも秀でた才能といったものではなく、病気のようなマイナスのものだ。

 それは、見ているものの向こう側が見えてしまうという、奇妙な体質だった。

 岩の前に立った時には、岩の向こうにいる毛長牛が。町の通りを歩いている時には、家並みの向こう側の通りがといった風に、突如として目の中に別の光景が見えてしまう。

 見ているものと見えてしまうものの二つの像が重なると、脳が混乱し、激しい頭痛と嘔吐感が体を襲う。発症するとどうすることもできなくて、ただ頭を抱えてうずくまるしかない。それは正しく頭痛のタネで、目の中にもう一つの我がままな目があるとしか言いようのないものだった。

 本当に『もう一つの目』だと、ウィルタは思った。

  ウィルタは俯くと両手で顔を覆った。

「どうした?」

 腰を浮かしかけたタタンを、「ちょっとだけ待って、これをやるには集中力がいるから」と言って制すると、ウィルタは歯を食いしばるような呻き声をもらした。

 二人の体の上を雲の影が一つ二つと過ぎ、先ほどから聞こえ始めた遠雷の音が耳を撫でる。一分余りが経過、ウィルタがゆっくりと顔を覆った手を取った。

「オワッ!」と、タタンが頓狂な声を上げた。

「ウィルタ、そ、それ……」

 絶句したタタンの前に、ぼんやりと赤い光を放つウィルタの右目があった。まるで邪悪な炎を宿す悪魔のような目だ。

「人に見せるのは初めてなんだ」

 注釈を入れるウィルタに、「なんだよ、その目は……」と、タタンが声を上ずらせる。

 身じろぎもせずに見つめるタタンの前で、ウィルタの右目の赤い光は芯を絞ったランプのように弱まり、やがて光が消えると、そこには、ありふれたただの目が残された。しばらくの間、タタンは呆然とウィルタの右目を見ていた。

 光が消えてしまえば、とても今自分が目にしたものが、現実のものとは思えない。でもほんの一瞬だが、ウィルタの目が赤い光を発していたのは確かだ。

「頭痛なくやれるのは、一分くらいなんだ」

 ポカンと口を開けたタタンに、ウィルタは右目の下、目袋を指で押し下げ、白目の隠れていた場所をタタンに見せた。

「白目に小っちゃくだけど数字が入ってるんだ、分かるかな」

 言われるままにタタンがウィルタの目を覗き込む。確かに白目の表面、血管の細い筋に重なるようにして、小さな文字らしきものが並んでいる。

「これは、ミト長の考えなんだけど、ぼくの目は、古代、つまりタタンが言うところの、光の世紀の義眼じゃないかって」

 近づけていた顔を離すと、タタンが納得できないとばかりに眉根を寄せた。

「まさか、どう見ても本物の目にしか見えないぜ。もちろん光ったんだから、普通の目じゃないんだろうけど」

「ミト長の話だと、義眼はガラスで作るから、見ればすぐに作りものだって分かる。でも昔は、本物よりも本物らしい義眼があったって言うんだ。昔の人は、本物そっくりの人工の臓器を作っておいて、馬車の車輪を取り替えるように、体の調子が悪くなると取り替えたって……」

 押し広げていたまぶたを元に戻すと、ウィルタは調子を整えるように目をパチクリさせた。その姿を不思議なものでも見るように眺めながら、タタンが口を尖らせた。

「そりゃあ、俺だってそのくらいのことは知ってるさ。物によっては本物の臓器よりも性能のいい人工の臓器があったっていうからな。でも話で聞くのと、それが自分の目の前にあるのとじゃ問題は別だぜ」

「目の前じゃなくて、それが目の中にあるんだよ」

 ジョークのような言い回しに思わず姿勢を崩したタタンだが、急に目を細めると、体を反らすようにしてウィルタの見た。

 探るような視線に、ウィルタが違うよとばかりに手を払った。

「止めてよタタン、そんな目でぼくを見るのは」 

 不愉快そうな表情を浮かべたウィルタに、慌ててタタンが取り繕う。

「悪い悪い、もしかしたらウィルタが古代人かと思ったんだよ」

「やだな、そんな訳ないだろう。ぼくは……」

 言いかけ口を噤んだウィルタの肩をタタンが軽く揺さぶる。

「分かってるさ、ウィルタが古代人じゃないことくらい」

 紡光メダルをタタンに返すと、ウィルタが拗ねるように言い返した。

「いいよ、気を遣ってくれなくて。ぼくは両親の分からない捨て子だからね。万が一の可能性があるのは確かなんだ。それを否定したって仕方ないもん。そんなことより、ぼくがシクンのミトに置き去りにされたのは二才半の時で、その時にはもう義眼は入っていたって聞いている。人の体に生まれた時から義眼が入っているはずがない以上、誰かがこの義眼をぼくの右目に入れてくれたのは間違いない」

 話しながら声に力が入ってくる。

「それはきっとぼくの両親だと思う。だからこの義眼は、ぼくにとって両親の形見みたいなものなんだ」

 ウィルタが、どちらが義眼なのか分からなくなった両の目を空に向けた。

「タタンと一緒に旅ができれば楽しいと思うよ。でも養母のシーラさんを一人にすることはできないし、それにもし棺の少女が目覚めたら、とてもそれどころじゃないだろう」

 全うに考えればウィルタのいう通りだ。それはタタンも分かっている。だが……。

 先走って気持ちだけで考えてしまいがちな自分を宥めるように、タタンがこぼした。

「そうか、やっぱ旅に出るのは大人になってからか」

 残念そうに肩を落としたタタンの横で、ウィルタが申し訳なさそうに頭を掻く。

 そのウィルタが、ツッと体を起した。そして屋根の縁ににじり寄る。

 後ろからタタンも続く。

 屋根から身を乗り出す二人に、路地を並んで歩く三人の男、町長と助役、それにさっき官舎の前で見かけた、都の特捜官が目に入った。

 三人は酔騏楼の前で足を止めると、そのまま宿の扉を開けた。

「何だろう」と顔を見合わせた二人の耳に、遠雷を打ち消すような経堂の騒々しい鐘の音が聞こえてきた。午後の読経の時間を告げる鐘だ。

「いけないっ!」

 ウィルタが頬をつねった。

「ミトの講話会、遅れたら大目玉だ。インゴットさんに叩かれて、身長が縮んじゃう」

「俺もだ、読経のあと、経堂の掃除をしなきゃ」

 慌てて二人は屋根の上から隠し部屋に飛び降りた。壁の窪みに体を寄せて紐を引き、昇降台で下に。シューターの取り出し口から馬車置き場へ出ると、タタンが念を押した。

「カウントゼロは夜の八時だな。調達した服は、その時届けるよ」

「ありがとう、じゃあ後で」

 二人は合言葉のように「八時!」と声を合わせると、家の前で二手に別れた。

 タタンは経堂、ウィルタは板碑谷のミトへ。

 経堂の鐘の音が銅鑼の響きに代わると、読経の声が町の石畳の上を這うように流れ出す。

ウィルタは北側の半夏門へは向かわず、町の東門、天廻門に回った。先に屋根の上から、機材の搬入で炭鉱前に人が出ているのが見えた。それを避けたのだ。


第六話「遠雷」・・・・

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