表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星草物語  作者: 東陣正則
42/149

ブフエ


     ブフエ


 泉を出て二日目。

 春香とウィルタは、表だっては普通にしていたが、意識して話を交わさなくなっていた。ホーシュも何となく二人が背中を向けあっているとは感じていたが、住み慣れた家を離れたホーシュとしては、とても人の事どころではなかった。それでも心配して氏にそのことを相談すると、人と仲良くしようと思えば、いい喧嘩ができなくては駄目なのだと、分かったような分からないような返事が返ってきた。

 氏自身は、ホブルの岩船屋敷で春香とウィルタの二人の子供を見た時から、その素性に見当はついていた。それには訳がある。

 坊商のダルトゥンバ氏は、オーギュギア山脈の北方で苔茶を仕入れ、それを晶砂砂漠のオアシスの町に運び売り捌いている。一カ月ほど前のこと。その苔茶の買い付けの最中に、ユルツ国の話題を耳にした。ドゥルー海北岸のユルツ国で、十年前に悲惨な結末に至ったエネルギーの開発事業が、第二次ファロス計画として再開されることになった。

 ユルツ国は、非常時にも似た厳格な統制令を首府に発令し、電源確保のために、連邦内の囲郷の熱井戸を接収。また計画遂行に必要な人材をリストアップ、周辺各国並びに、製薬業で競合しているアルン・ミラ国の技術者にまで、引き抜きの声を掛け始めた。その中には懸賞金をつけて行方を追っている人材も数名いるという。

 街道沿いの宿郷では、公の情報から市井の噂話まで、様々な情報が飛び交う。

 氏が荷の搬送で行き来する山脈北東沿いの街道筋では、ユルツ連邦の話などは、遠い異国の出来事として、まず話題に上ることはない。それが懸賞金という魅力的な付録がついたことで、久々に人々の関心が集まった。何しろハンという人物に懸けられた懸賞金の八万ブロシュは、毛長牛百頭、祭礼用の満艦飾の箱馬車が買える金額なのだ。同様に二人連れの子供に懸けられた額は、毛長牛五十頭にあたる。

 宿郷に立ち寄った連中は、異口同音にその懸賞金の話を肴に酒を酌み交わしていた。

 その後も、宿郷に投宿する度に、その話題を耳にした。

 懸賞の懸けられた子供のうち、少年は褐土肌黒髪黒眼の十三歳。毛長牛百頭の懸賞金の男の息子である。また少女は、同歳の黄土肌黒髪黒眼、冷凍睡眠から目覚めて間がない古代人だという。この十三歳の子供のカップルが、山脈西の宿郷盲楽で目撃されて以降、行方知れずになっている。

 情報は次々と耳に飛び込んでくる。街道筋から毯馬に荷を積み替え、晶砂砂漠に乗り出す直前のこと、こんな眉唾物の話も耳にした。

 乾燥曠野の壺中村に、オーギュギア山脈の地底湖から脱出してきたという老人が現れた。老人は一組のカップルの子供とともに、オーギュギアの峰から流れ出る川を下ってきたと話している。タクタンペック村と呼ばれる壺中村では、ユルツ国の配布した手配書の写真と二人の子供が似ていることから、身柄を拘束してユルツ国に通報。ところがユルツ国の関係者が到着する前に、二人は村を逃げ出してしまった。

 子供の話はさておき、老人の身の上話というのが奇怪である。

 四十年以上も前のこと、老人は山脈の西で氷湖のクレバスに落ちた。ケガでクレバスから這い上がることはできなかったが、奇跡的にも氷の底で石炭を積んだ古代の貨物船を発見、積み荷の石炭で暖を取り、氷の底を流れる川で魚を獲って、辛うじて生き延びる。

 そして氷点下の世界で命をつなぐこと、四十余年。一生を氷の底で終えるものと覚悟していた老人の元に、なんとクレバスに落ちた子供たちが転がりこんできた。外の世界に戻ることを諦めていた老人だったが、子供たちに励まされ、氷床下を流れる川にいかだで乗りだす。信じられないことだが、いかだは地底湖から山脈を通り抜け、東の曠野に流れ出たという。なんとも荒唐無稽な話……。

 話に輪を掛けているのが、人の言葉を解する白毛のオオカミが二人連れの子供に同行していたというくだりだ。もっともオオカミの話は老人の証言のみで、タクタンペック村では白毛のオオカミは目撃されていない。

 人語を解するオオカミはともかく、村人の話では、二人連れの子供のうち、少女は山脈西の曠野なまりの言葉を流暢に話していたという。手配書の少女は冷凍睡眠の棺から蘇ったばかりで、ユルツ国の手の者から逃げだした際には、単語をポツリポツリと話すのが精一杯だったはず。それがほんの数週間でペラペラと言葉を話せるようになるはずがない。

 噂話に興じる連中は、そのことからして、娘の方は目的の古代人の少女ではないだろうと見ていた。トゥンバ氏も、その奇譚を、氷の底に閉じ込められていた老人の妄想が生み出した、作り話だと考えていた。

 ところが砂漠に入って八日目、ホブルの家で、噂通りの二人連れの子供と白いオオカミに出くわしたのだ。子供たちは二人とも山脈西方の言葉を流暢に喋っている。ホブルの話では、砂漠で遭難していたのを助けたということだ……が。

 何の因果か、ホブルの息子とともに、その二人連れの子供を砂漠の東の町まで届けることになった。

 ホブルの岩船屋敷を出発。

 一緒に砂漠を行軍しながら子供たちと話を交わす。そしてすぐに理解した。この黄土肌の黒髪黒眼の少女が、間違いなく古代の人間であるということだ。少年より一つ年下の知恵遅れの妹という触れ込みだったが、とてもとても……。

 知らないふりをして聞いてくる内容は、今の子供が発する問いではない。何より驚かされたのは、少女が白毛のオオカミと意志を通じているということだ。少女がこの世界の言葉を流暢に話すなどということは、ある意味問題ではない。オオカミと話すことができるなら、人の言葉を覚えることくらい造作もないだろう。

 この少年と少女は、間違いなく懸賞金の子供に違いない。

 街道筋の宿郷で人々が懸賞金のことを話題にする際、意外や、牛百頭の懸賞金の男よりも、牛五十頭の子供のカップルの方が、話の俎上に上ることが多い。子供に高額の賞金の懸けられていることが興味を引くのだ。誰もが口にするのは、ユルツ国が再開した事業に不可欠な『鍵』のようなものを、その子供たちが持っているのではということだ。可能性としては大いに有りうるだろう。

 四万ブロシュ、晶砂砂漠と北方の町を往復しながら苔茶の取引をしていたのでは、絶対に稼げない額だ。もしその鍵となる物が本当にあるとすれば、それは四万ブロシュなどと言わず、もっと高額の金が動くものではないか。

 考えるほどに、そんな予感がしてくる。

 しかし、この三日間、二人を……、特に少年の方を観察していて、それらしい物を所持している素振りはまるで見られなかった。ホブルから聞いた話では、砂漠で助けた時に、二人は共に着の身着のままの姿だったという。タタンと名乗っている少年は、少し神経質だが、くったくのない曠野育ちの男の子だ。もし何か重要な物を持っている、あるいは託されていることを自覚していれば、必ずそれが行動の端に出ると思うのだが……。

 まあいい、と氏は自分に言い聞かせた。

 旅は長い。ホブルの息子を砂漠の外の町に送り届けるまで、たっぷり二週間はある。二人の子供は、そこに到着するまでは、行動を共にすると言っているのだ。その『鍵』なるものが何かを確認するまでは、自分はこの子供たちの良き先導役であればいい。

 氏は目の前の砂の地平に目を向けると「金で子供を売るか」と、ぼそりと呟いた。


 午前も半ば、晶砂砂漠を南北に縦断する伽藍街道に入った。

 街道といっても、はっきり街道と分かる道があるのではない。ただひたすら砂地が続いていることに変わりはない。唯一の違いは、半馬里おきに道標、里程標が立っていることだ。氏の一行が動く物を目にしたのは、街道に合流してから二時間後、砂丘の彼方を逆方向に去っていく隊商の部隊を見たのが最初である。

 かつてこの晶砂砂漠の広がる地に栄えた国を『満都』と呼ぶ。伽藍街道は、遷都を繰り返した満都の都の跡を、南北につなぐ道である。

 その伽藍街道を一路北北東に向かって進む。

 正午過ぎ、砂の中から遺跡らしきものが点在する地区に入った。砂の端々から建造物の土台らしきものが覗いている。前方に一際大きな遺構が見えてきた。満都の南東部に位置するブフエという町の遺跡である。それまで見てきた石積みよりも高く厚みがある。

 町跡の中心に近づくにつれて、石積みの表面に色ガラスの薄片を張りつけた装飾壁が目につくようになった。惜しむらくは、長い年月に渡って風や砂に晒された結果、表面が擦れ、ぼんやりとして何が描かれているのか判然としないものが多い。

 大通り跡を通る。

 どっしりとした城壁のような石積みが、砂と瓦礫に埋れるようにして現れた。町の中心に建っていた経堂の遺構で、壁面に色ガラスを使ったモザイク画で、世界の歴史が描かれている。今まで目にした装飾壁の画よりも鮮明に見えるのは、特殊な耐化ガラスで描かれたものだからだ。そのモザイク画を見て、春香はホブルが語った歴史の話を思いだした。

 岩船屋敷では、毎日午前中に、ホブルかチャビンのどちらかが、子供たちの勉強を見ている。体調が戻って以降、春香は、その座学の授業に同席させてもらった。

 その日ホブルは、砂漠に栄えた満都の歴史を、年長組の子供たち三人に語って聞かせていた。その話を聞いて春香は耳目を開かされた。火炎樹誕生の地として知られる満都の歴史、それは光の世紀から氷の世紀へ時代が大きく転換、そして今の貧窮の時代へと至る、この大陸、否この惑星に栄えた人類の歴史そのものだったからだ。

 その話とは……、


 二千年前のこと、この惑星に住まう人類が百億を越え、繁栄を極めた時代があった。

 その時代を、後の人々は『光の世紀』と呼ぶ。

 前にも述べたが、この時代『世紀』という言葉は、『時代』と同義である。

 人類の作り出す技術が加速度的に発達し、夜さえも昼と同じほどに光が溢れた時代だった。しかし燦然と輝く光の世紀は、唐突に終わりを告げる。

 繁栄の終焉は、『緑の消失』と呼ばれる植物の一斉死によって引き起こされた。ごく短期間に、地球上のあらゆる植物が死に絶えた。それがどれほどの影響を人類に、いや地球上の生命や環境に及ぼしたかは、想像に難くない。空前絶後の形容することが困難なほどの恐慌と飢餓が、人類を襲った。

 ほんの数年で人類は数百万にまで減少した。

 ただもしこの段階で、後年開発される火炎樹が存在していれば、その後の人類の歴史は大きく変わったものになったろう。まだ一部ではあるが、国力を持った大国の幾つかは、緑の消失の試練を乗り越えた先を見すえ、技術や文化そして人材を生き永らえさせていたからだ。ところが、その望みを断つように新たな試練が人類を襲う。

 緑の消失の三年後のこと、小惑星ともいえる巨大隕石群が地球に降り注いだ。

 生き延びていた人類に、地形も変えてしまうほどの隕石が断続的に降り注ぐ。それは数年に渡って続いたらしい。

 らしいというのは、ほとんど当時のことを書き記した記録が残っていないからだ。

 ぷっつりと歴史の途絶えた時代が続く。数十年に渡って……。

 巨大隕石群の衝突による災厄の時代が過ぎて大地に静けさが戻った時、人類はもうほとんど数千人の規模にまで減っていた。高度な技術は、その高度さと専門性ゆえに、継承に多大な労力を必要とする。そして生き延びることだけに全精力を費やさなければならないなか、精緻を極めた光の世紀の技術のほとんどは失われてしまった。ただ生き残った人々は、そのことを深刻には考えていなかった。技術というものは、全く同じではなくとも、復元することができるからだ。それよりも生き延びることが肝要だった。

 緑の消失による植物の枯死とともに、ほとんどの動物も絶滅。それは地上だけでなく海の中でも同じで、同様の絶滅がやや時間を遅らせる形で進行した。その絶滅の時間的なずれが、人類が生き延びるのに果たした役割は少なくない。

 それでも海の生物資源にも着々と絶滅の足音が迫る。生き残った人類にとっての課題は、とにかく食料をどう確保するかだった。

 わずかではあるが光明もあった。緑の死のなか、辛うじて苔などの下等植物は生き残っていた。しかしながら人は苔を食べることができない。生き残るためには、どうしても人の口に入る食料を作りだす必要があった。人と共に生き残った数種の家畜が、苔で飼われるようになった。家畜のミルクで飢えを凌ぐ時代が続く。

 そうするうちにも、新たな問題が生き残った人類を脅かすようになる。光の世紀には無かった疾病の流行である。環境の激変が病原菌を変異させたとも考えられるし、寄生するものが激減した結果、菌の方も生き残りをかけ、寄生する主を捜して人に辿り着いたともいえる。おそらくはその双方だったろう。貧弱な食料事情でやせ細った人類が、新興の病にバタバタと倒れていく。

 絶滅の危機が迫る人類に、追い討ちをかけるような試練が訪れる。

 それが、災厄以降、この惑星が急激に冷え始めたことだ。

 氷河期は数億年単位、細かな氷期にしても数万年単位の地球規模の環境変動である。ところがこの寒冷化の波は遙かに急激だった。ほんの数十年の単位で、かつて暖温帯と呼ばれていた地域でさえが、一年の大半を雪と氷に閉ざされるツンドラ地帯へと変わってしまったのだ。原因は太陽からの輻射熱の減少で、このまま輻射熱の減少が続けば、早晩地球は海まで凍りつく全球凍結の状態に陥ってしまう。

 凍土の上で乏しい食料と病に怯えながら、人類は息も絶え絶えになっていた。

 最も人類がその存亡を問われた苦難の時代だった。

 そして……、

 悪夢のような時代を乗り越える光となったのが、『火炎樹』である。

 光の世紀は、別名を『石油の時代』とも呼び習わされる。それは言葉をかえれば、石油に支えられていたが故の石油の枯渇に怯える時代でもあり、石油無き後を見越して様々な代替のエネルギーが模索された時代でもある。しかしエネルギーの代替としての資源はあっても、化学産業の素材としての石油に代わるものは見当たらない。生活のあらゆる物が石油の恩恵を受けていたために、石油同様の物質を造ることが急務とされた。

 多様な試みが為された。その一つが、微生物を使って植物残渣から直接石油を造り出すという試みだった。言うまでもなく、前の世紀を支えた石炭・石油の化石燃料は、膨大な生物の遺体残渣が、長い年月をかけて化学変化を起こしてできたものである。その反応の過程を、微生物を用いて、ごく短時間に行おうというのだ。地球上の様々な微生物が試され、また遺伝子工学によって、新たな生命も創案され試された。

 その中で有力な候補となったのが、後の火炎樹の元となる小型の擬似生命体である。開発当初、その大きさは肉眼でなんとか確認できるサイズのものだった。植物残渣を分解して石油様物質に変える能力を持った未分化の細胞の集合体、微生物の塊のようなものだ。

 それが見出されたのが、『緑の死』の数年前のことである。

 この細胞の集合体が人類の救世主になるためには、ある偶然が必要だった。

 当時世界の人口は百億を越えて爆発寸前。その約六分の一を占める飢餓線上の人々を養うために、擬似生命体の生み出す有機物の分解液、石油様物質を加工して、人工のタンパクや炭水化物を造る研究が、擬似生命体の開発と同時に行われていた。不運が重なって災厄となるように、幸運も重なりあって奇跡の暁光となる。この擬似生命体と、その開発に携わっていたメンバーが、幸運にも災厄を生き延びていた。

 そして緑の消失から四十年後のこと。

 世界中にある枯死した植物残渣を材料として擬似生命体を育て、その生命体が生み出す石油様物質から人の食料を製造するシステムが完成した。この時をもって、生き残った人々は、古い忌まわしい災厄の時代から決別するために、新しい歴を制定、新時代元年とする。

 食料生産のシステムの確立によって、当面の難局を生き延びる道は開けた。

 が、いかんせん枯死した植物残渣は使えば枯渇する資源、有限な資源である。そして実際問題、巨大隕石群が襲来した後の天変地異の時期に、そのかなりの量は海に流出、また地上に残った残渣も、その後の年月で着々と腐敗してガスや無機物に還元されている。

 人々は荒れ果てた大地の上で、残された植物残渣を拾い集めながら、擬似生命体を育て、そこから石油様物質を絞り取り、微生物で発酵させて食料を作った。家畜が苔を食んで生み出されるミルクと、植物残渣から作り出された人工食によって、人類は辛うじて生き永らえたのだ。

 そういう時代が二百年に渡って続く。

 幸いにも災厄直後に始まった急激な寒冷化は、全球凍結の一歩手前で進行を止め、凍土の大地と化していた赤道周辺にも苔の沃野がもどった。それでも一年の半分を雪が舞う苔の原野で飼える家畜など、たかが知れている。食料事情は常に逼迫、追い討ちをかけるように家畜に人と同様の奇病が蔓延、そして擬似生命体を培養する植物残渣の枯渇が、刻々と近づいていた。苔を掻き集めて擬似生命体を育てようとするが、原因は分からないが、擬似生命体の成長が極端に遅くなるという弊害があった。

 人類にまた危機が迫っていた。

 しかしその難局を乗り越えたのも、また擬似生命体によってである。

 擬似生命体の改良は絶え間なく続けられていた。もっと早く生長するように、もっとたくさんの石油様の滲出液を出すように、植物残差に頼ることなく生長するようにと。

 そうして新世紀二百二十二年、突然のように新しい擬似生命体が誕生。それが『火炎樹』である。外見が一見して樹木に見えることと、燃える黒い樹液を滴らせることから火炎樹と命名された擬似生命体は、もう植物の残渣を必要としなかった。

 火炎樹が分解するのは土壌である。

 言うまでもなく土壌とは、単に岩石が風化してできた粒子の集合体ではない、数億年の長い年月をかけて地球上の植物が作り上げた、有機物やミネラルに富んだ養分の集積庫で、言い換えれば植物の成長を支える養分の固形スープのようなものだ。太古、海のアミノ酸のスープを餌に生命は発祥した。それと同様に、陸の固形スープを餌にして新しい擬似生命体『火炎樹』は生まれた。その形態から火炎樹と呼ばれる擬似生命体は、豊饒な樹液を滴るように溢れさせた。

 災厄以来、世界の大陸には剥きだしの大地が広がっている。

 標高の高い場所は地表が洗い流されて、岩盤の露出する地形となっていたが、一方で流出した土壌は低地に集積し、広大な固形スープの原野を造りだしている。その最大のものが、オーギュギア山脈と大陸東のヌドイ山系に挟まれた万頭平原である。

『火炎樹』という巨大な擬似生命体の栽培が始まる。

 ほんの数十年で、火炎樹の農園が平原に広がり、膨大な樹液が生産されるようになった。それは人々の糊口を潤すどころではなかった。余剰は発電にまわされ、その繁栄ぶりから、この地は万頭転じて満都と呼ばれるようになった。

 その繁栄を追いかけるように、大陸各地に大小の満都が誕生。二百年にわたる災厄からの忍従の日々の反動でもあるかのように、人々は火炎樹の樹液の恵みを謳歌した。

 春香たちが足を止めて見入るガラスのモザイク絵に、満都創世時の都の繁栄を讃える絵がある。世界の中心に火炎樹があり、火炎樹の放つ光に人々が照らされる絵だ。

 古代に人々を照らしていた象徴としての太陽も、月も、ここでは人々を外から照らす添え物でしかない。当たり前である、満都の人々は太陽を必要としていなかった。食料も生活物資も暖房も照明も、全て火炎樹の樹液さえあれば得られるのだから。

 貧窮の時代の反動だろうか、それとも滅びた光の世紀への憧れからか、満都の人々は夜を明るくすることに固執した。それは時代が進むにつれて加速度的に度が増し、満都最盛時には、光の世紀以上の明るさで、都だけでなく、街路や農園までが煌々と人工の照明に照らしだされた。

 光の世紀では主に化石燃料やウランを燃やして発電が行われ、照明が灯された。石炭石油は元を正せば太陽の恵みで育った植物であり、見方を変えれば、太陽の光のエネルギーが植物によって固定されたものが石油である。石油を燃やして発電し光を生みだす行為、それは石油に封印された太陽の光を再び解き放つということ、石油を本来の姿に戻すということだ。そして満都の時代、形は変われども同じことが繰り返された。それも大いなる規模で。

 大地が蓄えた土壌、数億年の歳月をかけて植物が作りだした豊かな土壌も、元を正せば太陽の恵みの結果生まれたものである。その土壌を、火炎樹という擬似生命体を使って石油様の物質に変え、それを燃やしてタービンをまわして発電、巨大な照明器具で夜の底を明るくする。それは土壌に封印された、かつて大地に降り注いだ太陽のエネルギーを、光として解放する行為だった。

 木を燃やし、草を燃やし、石油を燃やし、石炭を燃やし、そして今、土を燃やす。

 このオーギュギア山脈の東の地に、満都と呼ばれる巨大な帝国が栄えた。地の果てまで見上げるような巨大な火炎樹が生い茂り、そこから溢れるほどの無尽蔵とも思える膨大な量の黒い樹液が生み出された。今にして思えば馬鹿げたことだが、満都中期以後、火炎樹の樹液の九割以上が暖房と夜の照明に費やされたのだ。

 その夜の底を明るくする文化は、伝染病のように大陸各所に点在する小満都にも広がった。馬鹿なことだと今なら言える。しかし生命の所業は、マンモスの牙のように一旦ある方向に伸び始めると、結果が明らかに予想されるものであっても、止めることが難しいものだ。夜を明るく照らし続けることの先に何が来るのか、誰もが分かっていたが、誰も止められなかった。土壌が枯渇するその日まで……。

 そして巨大火炎樹誕生から六百年の後、火炎樹が大地を収奪し尽くし、全てを冷たいガラスの骸に変えた時、満都の繁栄は終わりを迎えた。ガラスの木々は崩壊し、晶砂となって都を埋めていく。それは満都が自らの屍をガラスの喪服で埋葬したようであった。

 この出来事は万頭平原だけに限らない。いま大陸のかしこに見られる晶砂の曠野や砂漠は、多かれ少なかれ満都と似た経過を辿って成立したものだからだ。

 満都亡き後、人々は火炎樹開発当時の同時期に生み出されていた、小型の火炎樹に頼るようになった。残された土壌を掻き集めるようにして作られた農園で、人の背丈ほどの火炎樹を細々と栽培する。あのタクタンペック村のようにだ。

 地平線までを埋め尽くす厚い晶砂の大地、そのガラスの砂漠でかつての満都のよすがを忍ばせる物といえば、それは砂漠の端々に顔を出している遺跡群だけである。


 ガラスの装飾壁画を見て、ホーシュとウィルタも、ホブルの歴史の話を思い出したのか、二人でその話を交わしている。

 相変わらず、辺りは見渡す限りのガラスの砂、晶砂の地平である。その砂の地平に目を向け、ウィルタが真剣な表情で感想を漏らした。

「大事に使えば、六百年と言わず、もっと、長く繁栄できたのにさ」

「ほんと、もったいないよな」

 同感とばかりに、ホーシュも馬鹿にしたような笑いを口元に浮かべる。

 二人のやり取りを耳にしながら、春香は自分の時代に思いをはせた。

 火炎樹の樹液のモデルとなる石油を掘り尽くし、使い切ったのは、自分の時代の人たちである。笑えるはずがなかった。石油に限らない様々な資源が、それが有限であると声高に叫ばれながら、それが無くなるまで、骨をしゃぶるように掘り尽くされていった。化石燃料では石炭、鉱物資源では鉄やアルミ、そういったものを除けば、大方の資源はいつもその枯渇が取りざたされていたのに……。

 ただそれを口にするのは憚られた。自分が生きていた時代への嫌悪よりも、いつの時代も人は同じことを繰り返す、そのことが遣り切れなく感じられたし、情けなかった。

 頭のなかで気持ちが膨らんできたのか、ウィルタは憤慨して、満都の人々を何度もバカと罵っている。その声を大きくして喋る二人とは無縁に、隊の先頭では、トゥンバ氏と黒毯馬が淡々と行軍を続けている。

 春香は隊列の中ほどに移ると、また満都の歴史に想いを馳せた。

 光の世紀が終わって氷の世紀となり、そこで人々が苦労して火炎樹を生み出し生き延びたという歴史の流れは理解できた。でも、二つの世紀の節目となる事件、『緑の消失』ということが良く分からない。全てはそこから始まっているのだ。緑の消失が無ければ、たとえ巨大隕石が雨のように降り注いだとしても、その後の時代は全く違った道筋を辿ったことだろう。春香は『緑の消失』を引き起こした原因が、おそらくは人の所業にあったのではと感じていた。

 足元をぼんやりと見つめながら歩く春香の耳に、震えるような笛とも鳥の鳴き声ともつかない音が聞こえてきた。

 応じるように、氏が口に手を当て、空に向かって同様の音を返す。

 また彼方から音、それが繰り返される。

 何だろうと子供たちがトゥンバ氏に歩み寄ると、氏が地平線を指して「ゲルバの巡検隊員だ」と告げた。ゲルバとは、ゲルバ族のことである。

 この晶砂砂漠には、満都時代の遺跡を守り、かつ晶砂に埋もれた先祖の遺物を掘り出し、売りさばくことで生計を立てている人たちがいる。凋落した満都の末裔ゲルバ族の人たちで、頭に白いターバンを巻き、裾の長い漆黒のマントを羽織った、褐色の肌の民だ。またゲルバ族は、砂漠の中に交易路を整備し、往来する人々から通域料を徴収している。

 このゲルバ族の人たちが統括する晶砂砂漠の国が、ゲルバ護国である。

 右手後方から砂を蹴る音が近づいてきた。

 騎乗用の毯馬が三頭、並足でトゥンバ隊の横手を過ぎていく。

 極短毛の栗毛の毯馬は、全体にほっそりとした足の長い筋肉質の毯馬で、鞍上には漆黒のマントに白いターバン姿の男が乗っている。ゲルバ族の巡検隊員だ。

 先頭の男が、防砂眼鏡を頭の上にたくし上げ、甲高い喉を震わすような声をだした。

 すぐに氏も右手を口に添えて喉を震わせる。

 同じゲルバ族でも出身地によって喉の震わせ方に違いがある。砂漠の民は地平線の彼方に相手を認めた時、この声で挨拶を交わす。発声の仕方で相手の出自を確かめるのだ。砂漠で敵味方を識別するために使われた狼煙のような発声法が、いつしか挨拶に変わったもので、巡検隊の小隊は、そのまま前方に走り去っていった。

 子供たちは、見とれるように、その後ろ姿を見送った。荷物を積んでのろのろと歩く荷役用の毯馬と違う、颯爽とした姿に感動してしまったのだ。

 氏が言った。

「砂漠の見回りに出ていた巡検隊員だ。この先に、発掘中のキャンプがあるそうだ」

 狼煙の声でそのことを伝え合っていたらしい。

 そして一時間、遺跡の一端に、台車に乗せられた小型の風車が見えてきた。後ろに数組のテントと櫓が並んでいる。風がないために風車の羽は止まったままだが、代わりに櫓の滑車がガラガラと音をたてて回っている。

 景気のいい掛け声が飛び交うなか、櫓の下の穴から、鉄の塊がロープに引かれて上がってきた。エンジンのような機械だ。機械が傾く度に砂が筋になって下に流れ落ちていく。

 発掘品の砂を刷毛で払う人、ジャッキの修理をする人、パイプを運ぶ人、記録を取る人、みな一様に繋ぎ服を着込み、頭に革製のヘルメット、顔に防砂眼鏡をつけている。

 櫓の手前、掘り上げた機械の上に腰掛け、キセルを吹かしている男たちがいる。

 土器茶色の繋ぎ服を着込んでいるのが砂掘り職人で、黒っぽい臙脂色の繋ぎ服が、職人の手足になって働く砂掘り専門のジンバだ。ちなみに、この淡い赤みを含んだ土器茶色を、ここでは美泥色という。春香の時代、泥という言葉は汚れ物をイメージさせたが、土が貴重なこの世界では、泥は美しさの形容に使われる。

 ジンバの人たちが足に拘束輪を填めてない。聞くと、ゲルバ護国では作業の効率を考えて、ジンバの足に拘束輪を填めない慣わしだという。砂漠ではオアシスごとに検問所が設けられ、厳格な首監査が行われるので、ジンバが勝手に移動することは考えられない。

 そんなジンバを含め、様々な人の息遺いが充満している。風の音と、砂を踏む足音以外何もなかった昨日までが、嘘のような賑やかさだ。

 初めて目にする砂漠の発掘現場に、子供たちはつい足を止めがちになる。それを、これから先こんな物はいくらで見ることができると言わんばかりに、氏は足を速めた。

 ところが発掘現場を少し過ぎたところで、意外にも氏が毯馬の足を止めた。

「珍しいな、こんなところで」と、氏が顎に手を当て呟く。

 立ち止まって氏が見やる先、人馬の足跡の残る街道筋から少し砂漠に入った辺りで、巡検隊の隊員が数人、毯馬から下りて足元に目を向けていた。隊員たちは止まっているのではなく、ゆっくりとではあるが歩いている。少し間を置いて、別の隊員が毯馬を引いて付き従う。引かれる毯馬たちまでが、足音を殺すような忍び足だ。

「何をやっているの、あれ」

 ウィルタの疑問に「男たちに囲まれて、子供がいるだろう」と、氏が目で示した。

 見ると列の中央に臙脂服を着た少女がいる。両腕を前方に真っ直ぐに伸ばした格好で、ゆっくりとスローモーションのように足を動かしている。

「手を前に伸ばしているけど」

 春香が動作を真似てそう言った時、隊員の一人が、こちらの一行に気づいたのか、手にした銃を突き出すように振った。止まらずに行けと合図している。

 氏は失礼したとばかりに軽く手を振ると、黒毯馬の手綱を引いて歩きだした。

 そのトゥンバ氏を、銃を構えた隊員が探るようにじっと見ていた。


 少女を囲んだ巡検隊の一行に擦れ違って以降、氏は先頭の黒毯馬の脇に寄り添うように歩を進めている。セグロがロープを噛む音が聞こえているはずだが、振り向こうともしない。何か考え込んでいる。

 小一時間も歩いたろう、遺跡も何もない小砂丘の続く地区に入る。

 そこまで来て、ようやく氏は一息入れるように後ろを振り向くと、ロープに噛みついてばかりいるセグロを調教しに、隊列の中ほどに下がってきた。

 ホーシュが、待ってましたとばかりに尋ねた。

「トゥンバさん、もしかして、さっきのって『手灯』……なの?」

 氏が我に返ったように「ああ」と顔を上げた。

「よく知っているな、お宝を探しているんだ」

「お宝!」と、三人が声を揃えた。

 子供たちの目の輝きに、氏は怯んだように首を反らせたが、直ぐに面倒がりもせずに、お宝の意味を説明してくれた。

 宝捜しの『宝』とは金銀財宝の事ではない。地下に埋もれた満都時代の遺物のことである。満都の滅亡と共に晶砂に埋もれたのは、建物だけではない。様々な生活物資や機械、部品、果ては食料から衣類にいたるまで、ありとあらゆる物が砂に埋もれた。現在、砂漠の民は、それを掘り出し他国に売ることで生計を立てている。そのため、この地では民の懐を支えるという意味で、地下からの出土品は全て『お宝』と呼ばれた。

 ただ一言に発掘といっても、砂漠での発掘はたやすくない。砂漠を闇雲に掘り返しても、古代の遺物に行き当たることはまずない。埋もれていることが分かっていても、地下では、ほんの手の平一枚離れただけでも見つけることができなくなるからだ。発掘に際して最も重要なのは、埋没物の正確な位置の決定である。

 当初、お宝の探索には、音波を発する探査装置が用いられていた。それが音波では瓦礫と有用な物の区別が難しい。必要なのは地下に埋もれている物が何か分かることだ。金属ならそれがどういう金属か、機械ならどういう機械か、そこまで識別できれば、必要な遺物をピンポイントで掘り上げることができる。

 そうして遺跡探索の手段として、特殊な能力を持った人間が登用されるようになった。その能力というのが、ホーシュが口にした『手灯』と呼ばれる能力である。

 何万、何十万という人のなかには、時として人の想像を超えた能力を持つ者がいる。手灯の能力を持つ者、その大半は子供だが、その手灯の能力を保持した子供は、地面に手を翳しただけで、自分の足元に埋もれているものを的中させることができる。手の平から出る『気』がその能力に反映していると言われるが、科学的な根拠は明らかではない。

 その手灯の子供を見出し、かつ育成する作業が行われた。まずは目隠しをして砂に埋めたおもちゃなどを探させて、能力のある幼児を選抜。特に優れた者をさらに訓練して、砂の中に埋もれた品物の形状や材質までを当てさせるようにする。

 そうやって選抜し訓練を施したとしても、実際に現場で能力を発揮できる人材は、この晶砂砂漠全体でも数人といった程度。それに理由は不明だが、手灯の能力が発現するのは子供時代に限られ、十代半ばを過ぎると能力が低下、二十代までには完全に失われてしまう。

 満都滅亡後かなりの期間にわたって、先祖の遺物を遺骨と同等と見なす宗教的な判断もあって、遺物の発掘は控えられた。それが満都滅亡から八百年、満都の文化を見直す機運が高まると同時に、末裔のゲルバ族は、遺物を積極的に発掘し、外の世界に売却するよう方針を転換。その準備段階として、手灯の子供を登用、砂に埋もれた遺物の地図作りを始めた。

 やがて広大な砂漠の遺物地図ができ上がる。都市の遺跡では、五メートル区画の詳細な地図が作成された。その際将来の発掘を見越して、位置を確定するための石標が、遺跡の中に半キロ単位で格子状に埋め込まれた。街道沿いの里程標は、その関連事業として設置されたものだ。

 現在、遺物の探査は主に砂漠の周縁部で行われ、街道筋で目にすることはない。氏が立ち止まってしげしげと眺めたのは、遺物探査の現場がそれだけ珍しかったからである。

「でもなんだか物々しい様子だったね、銃までこっちに向けちゃってさ」

 ウィルタが後ろを振り向き、感想を口にした。

「調査の結果はゲルバ族の機密事項なんだ。だから調査は、ああやって専門の巡検隊の同伴によって行なわれる。それに調査の結果は、ゲルバ族の長老会の人間しか知ることができない。機密を漏らした者は、その家族を含めて断罪に処せられる」

 氏が顎の下に手を当て、真横に線を引いた。

「手灯の子供は、情報を洩らさないよう、監禁された生活を強いられるそうだ」

 ウィルタとホーシュが「エーッ」と、意外そうな声を上げた。二人とも、特別な能力で重用されるのだから、手灯の子供はいい暮らしをしているだろうと想像していたのだ。

 顔を見合わせた男の子たちに代わって、春香が怖る怖るそれを口にした。

「手灯の能力があるのは、子供時代だけなんでしょ。能力が無くなったらどうなるの」

 春香は最初「どうされるの」と尋ねようとした。でもそれでは、自分が悲観的な予想をし過ぎているような気がして、「どうなるの」と聞いた。

 その身構えて質問した春香に、氏は、いともあっさりと言い切った。

「能力がなくなると喉を潰される。情報を洩らさないようにだ」

 悲鳴のような声を漏らすウィルタとホーシュの横で、春香も思わず口を押さえた。

 そのショックを受けている男の子たちに、氏は話さなかった。喉や目を潰されるのは、まだ益しな方なのだと。そして春香の予想どおり、手灯の子供の多くは秘密を守るために闇に葬られた。手灯の子供たちで大人になることができた者は、その生涯でさしたる遺物を発見できなかった子供に限られていたといっていい。

 そんな末路が待っているなら、どうせ殺されるなら、地下の遺物を発見しても、それを調査員に告げなければいいと言うかもしれない。しかし手灯の子供は、探査行の後に自白剤を飲まされる。そして自白剤を十年も服用し続ければ、薬の副作用で肉体はボロボロ、廃人のような体になってしまう。

 それが『大人の世界』と人は言うだろう。氏もそう思う。ただそれを今この場で子供たちに話すのはためらわれた。

「手灯といっても、所詮ジンバだからな……」

 子供たちに聞こえないように呟くと、氏は黒毯馬の足並みを速めた。

 憤慨した子供たちは、何度も後ろを振り返って見ている。遺物探査の一行は、すでに砂の彼方の小さな点に変わっていた。


 前方から音楽が聞こえてきた。弦楽器をジャラジャラ掻き鳴らしながらの歌だ。

 音に遅れることしばし、砂橇に荷を積んだ一行が近づいてきた。振り分けに荷を積んだ毯馬の列の後ろに、毯馬四頭で牽く砂橇が二台。随行している人たちは、みな部厚い袢纒とダボダボのズボン姿で、ターバンの端を頭の後ろに垂らしている。荷の搬送を請け負っている砂漠東部出身のグリュイ族である。毯馬のタテガミを黄色の紐で細かく束ねてリボンにしているのが、少女が髪を結っているようで愛くるしい。

 誰が楽器を弾いているのだろうと見ていると、音楽は人が歌っているのではなく、荷橇に付けたラッパ型の拡音器から流れていた。この世界で音盤と呼ばれる音の再生装置を積んでいるのだ。BGM付きの行軍である。

 先頭の毯馬の頭上にひるがえる赤色の旗が、荷主の旗。徒歩の半纏姿の男たちに対して、一人だけ服装の違う男が毯馬の背で揺られている。あれが荷主らしい。

 荷橇の一行と擦れ違いながら、氏がグリュイ族の搬送屋と何やら言葉を交わす。音楽でよく聞き取れないが、初めて耳にする言葉だ。さすがの春香も意味は分からない。春香の脳の中の翻訳機が働くには、ある程度の時間、その言葉を聞いていなくてはならない。

 そうするうちにも、荷橇を牽いた毯馬たちは通り過ぎていった。

 氏が説明してくれた。

 一行の荷は、ここから十日ほどかけてディエール河畔まで運ばれ、船に積み替えられた後、塁京のあるドバス低地に向けて川を下る。ただしディエール川はこの時期もう凍結が始まっているので、状況によっては来年の五月の氷の融ける時期まで、川沿いの宿郷に足止めになるかもしれないということだ。

「荷主はそれを心配していたな。荷は、ポンプだそうだ」

 解説付きの旅は楽だ。トゥンバ氏は、坊商を止めたら観光ガイドをやればいいと思う。

 冗談でそう勧めたら、氏が満更でもない風に感想を口にした。

「観光というのは、安全でかつ、生きていくのが楽な世界でないと成り立たないものだろう。ここでは皆、日々の生活で精一杯。必要に迫られない限り、ほとんどの人は生まれた土地から離れることがない。まあ個人的には、金さえあれば人を雇って世界中を旅してみたいがね」

 春香の提案を否定しつつも、その観光ガイドという空想を楽しむように、氏は大きな空笑いを辺りに響かせた。

 前方の地平線に、門塔のように聳える岩山と、翩翻と風になびく無数の旗が見えてきた。



第四十三話「通関所」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ