隊商
隊商
星に届くほどの上空から大地を見下ろす時、オーギュギア山脈は、山稜の連なりが巨大な生物の骨格のように見えることから、別名を竜骨山脈と呼び習わされる。山脈は北で平漠とした氷床の奥深くに左前肢を食い込ませ、南で鞭のように長い尾を大陸南部の亀甲台地に伸ばしている。大陸を東西に二分する長大な山系である。
そのオーギュギア山脈を西から東に抜けると、大地はがらりと乾燥した世界に姿を変える。オーギュギア山脈と大陸東部沿岸のヌドイ山系に挟まれた内陸部が、広大な乾燥地帯になっているのだ。中でも大陸中東部を占拠するように広がるガラスの砂漠は、晶砂砂漠と呼ばれ、十分な装備のもとにオアシスを辿りながらでも、縦断にほぼ一カ月を要する。
人はこの距離を三足里と形容する。走破するのに靴を三足履き潰すという意味である。
晶砂砂漠は、長靴の靴先を西に向けた形をしている。その長靴型の砂漠に街道は四本、三本が東西を繋ぐ横断道で、残り一本が南北を繋ぐ縦断道である。
なお、春香とウィルタがフーチン号で下ろうとしたディエール川は、晶砂砂漠西部の岩漠地帯を北から南に流れたあと、長靴の靴先をなぞるように弧を描いて東に向きを変える。
晶砂砂漠の南部は、ほとんど雨の降ることのない干天の大地で、オアシスだけが人の住む世界となる。
三足里という表現はいかにも誇張した表現だが、それでも砂漠に不案内な者には間違いなく死を用意できる広さを持っている。先にも述べたように、名のある街道は片手の指にも満たない。だがそれは砂漠外部の人から見た時の話で、実際には無数の名も無き道が通っている。ただし、その無名の道を行き来できるのは、日々この地で暮らしている砂漠の民か、もしくは砂漠のことを熟知している者に限られる。
風には風の吹く道があり、水には水の流れる道がある。そして人には人の歩くに相応しい道が。その道を見極めることのできる者を、人は旅人と呼ぶ。
岩船屋敷を出発して、すでに四日。砂漠の見えない道を、坊商ダルトゥンバ氏率いる毯馬六頭の小さな隊商が行軍を続けていた。
毯馬六頭と四人の人間が、縦一列に並んで歩く。
先頭をトゥンバ氏と黒い毯馬、その後ろに五頭の栗毛の毯馬が続き、しんがりが三人の子供たちである。
氏は踵まで届きそうな石黄色の僧衣の上に、二つ折りの袈裟を羽織り、頭に同色の筒形の布帽を載せている。肩から斜めに、くたびれた皮袋を回しかけているが、これで右手に錫杖、左手に托鉢の鉢を手にしていれば、典型的な露行のスタイルとなる。
それでも今は人の姿とてない砂漠のただなか、右手には毯馬の引き綱が握られ、托鉢の鉢は毯馬のカゴに納められたままだ。
人と毯馬の計三十二本の足が砂を踏みしめる音が、三百六十度どちらを向いても砂しか見えない空間に、ここが世界の中心であるかのごとく孤独な音を響かせる。
キュッ、キュッと身の引き締まるような音。これは堅い靴底、ウォトを加工した人造皮石製の靴底が、ガラスの砂を踏みこむ時の音で、その小気味の良い音と比べて、毯馬の座布団のような足は、足を降ろす時よりも足を前に運ぶ時に砂を引きずり、軽くザッという音をたてる。いずれにしても、歩けど歩けど変化のない砂と空だけの風景のなか、時折、毯馬たちが鼻をブルブルと鳴らす音が耳につくくらいだ。
岩船屋敷を出発した当初、しきりにお喋りを交わしていた子供たちも、ひたすら歩き続ける砂漠の行軍に疲れてきたのか、めっきり口数が少なくなった。荷物は全て毯馬の背に積んであるので、足取りは軽いはずなのだが、トゥンバ氏の大人の足の運びについていく疲れが出てきたらしい。
うつむき加減に黙々と足を動かしていた三人が、「ピシッ」という音で顔を上げた。先頭にいたはずの氏が、列の中程に下がっている。五頭の栗毛のちょうど真ん中、背中に黒い斑の残るセグロと呼ばれる一頭に、鞭を当てたのだ。
前後の四頭が、背に百キロ近い荷を括り付けられているのに対して、セグロは餌や雑具の入ったカゴしか背負わされていない。セグロは今回の砂漠入りに際して買い入れた若駒で、背中に荷を乗せられるのも隊商を組むのも、今回が初めてになる。
見習いの毯馬であることは、見ていれば分かる。動きに無駄が多く、背中の荷が気になるのか、しきりに首を後ろに向けては、鞍の紐に噛みつく。それだけではない、前を行く毯馬の荷袋にまで噛みつこうとする。それを認めては、氏が鞭を振るうのだ。
尻の皮に鞭がしなると、セグロは円らな瞳をしばたかせ、背中の紐を悲しそうに見つめる。そして氏の振り上げる鞭に蹴押されるようにして、前を向いて歩きだす。
そうしてまた、単調な砂を踏む足音だけの行軍が戻ってくる。
雲ひとつない青い空と、透明な晶砂の大地。その天と地の境界線を黙々と時を刻むように足を運ぶ。
目覚ましのように時たま風がそよぐが、それも午後を過ぎてからは止まったままだ。
先頭の黒毯馬に添うように歩いていた氏が立ち止まり、荷崩れを確認するため、後ろから追い越していく栗毛たちに目を配る。
最後尾の栗毛に並んで歩いていたホーシュが、氏に声をかけた。
「トゥンバさん、昨日から鳥の姿が見えないですね」
一昨日までは、日に何度か、上空を通り過ぎていく小さなV字型の編隊が目に入った。それを昨日から一度も見ていない。
人が遅々たる足取りで歩く砂の大地を、翼を持った鳥は軽々と飛び越えていく。大陸西北の氷床地帯の湖沼から、はるばるオーギュギア山脈を越えて、大陸東部の低湿地帯に向かって飛んでいく渡り鳥たちだ。実はいまウィルタたちが歩いている道や、ホブルの岩船屋敷は、この鳥たちの渡りのコースの下にある。
氏がホーシュと並んで歩きながら「どうしてだと思う」と、問い返した。
予めあれこれと頭の中で考えていたのだろう、ホーシュは直ぐに自分の考えを口にした。
「渡りのルートから外れたってことなんですか。それとも単に渡りの季節が終わって、鳥が飛ばなくなったってことかな。それに砂嵐の前は鳥は飛ばなくなるから、天候が悪くなる兆候かもしれないし……」
氏はうんうんと頷きながら一通りホーシュの考えに耳を傾けると、「どれもいい理由だが、その内のどれか一つだけを選ぶとしたら、どの答えを選ぶ」と、さらに問い直した。
もちろんそう言ったのには訳がある。砂漠の旅に必要なのは、答えをいくつも考えることではない。ただ一つ、これしかないという答えを選ぶことだからだ。
平坦な砂漠の世界では、進むべき道には無限の選択肢がある。しかし人は同時に二つの道を歩むことができない。間違えれば引き返して別の道を行けばいいと考えるのは、砂漠の外の住人で、砂漠で必要なのは、絶対に引き返す必要のない一つの道を選ぶことだ。
これから見知らぬ世界に出て行こうとする少年にとって、全てが砂漠同様の厳しい世界になるだろう。その世界で生き残っていくために必要なのは、常に絶対の自信を持って進むことのできる一つの道を選び続けることだ。
聞かれてホーシュは黙り込んでしまった。
氏は思った。ホブルから預かった手前、多少の老婆心を込めてホーシュに問い返してみたが、ホーシュの年齢で自分のような考えに至れるはずもない。自身の過去を振り返ってもそうだ。人には年齢を経ることでしか見えてこないものがある。
自戒するように口元を曲げた氏に、二人のやりとりを聞いていたウィルタが口を挟んだ。
「ねっ、トゥンバさん、砂の感触が変わったような気がするんだけど」
ウィルタが靴先で軽く砂を跳ね上げた。
「砂にサラサラ感がなくなったっていうか、足の裏にまとわりつく感じがするんだよね。それって鳥が見えなくなったことと、何か関係があるのかな」
春香が感触を確かめるように砂を踏みつける。相変わらず砂は、キュッと小気味良い音をたてている。
「お前はどう思う」と、氏がホーシュに話を振る。
腰を屈めて砂を手にしたホーシュの指から、砂が零れ落ちる。
「砂が湿ってる……の?」と、ホーシュが氏の反応を探るように答えた。
革製のムチを首筋に擦りつけながら氏が解説を入れた。
つまり、オーギュギア山脈から流れ出た水は、伏流水となって砂漠の下を流れる。その地下の水脈が地表近くを通ると砂が重くなる。水分で重くなるのではない。地下の水が地表に抜けていく際に残す微量の物質が、砂に付着して表面のツルツル感を奪うのだ。普通に歩いていたのでは気づかない変化だが、それでも砂漠を旅する者にとっては大切なサインで、この先こういう砂の重い場所が点々とある。
氏の説明にホーシュが顔を輝かせた。
「地下の水脈が地表に顔を出すこともあるんだよね」
「そういうこと。渡り鳥を見かけなくなったのは、鳥たちの渡りのルートから離れたということだ。もっとも人の利用できる水場までは、まだ丸一日歩かねばならんが」
「一日かーっ」
ウィルタが落胆の声を上げた。
「それより……」と氏は後方に目を向けると、「おまえさんらの連れは、ちゃんと付いて来ているのかな」と、春香に聞いた。
「姿は見えないけど、砂丘の向こうに」
春香が右腕で大きく砂丘の後方を示した。前方と同じく、どこまでも凪の海のように穏やかな砂丘のうねりが続いている。砂の上に残された春香たちの足跡を辿って、シロタテガミは付いてきているはずだ。
岩船屋敷を出発した当初、シロタテガミは砂丘ひとつ分ほどの距離を取って、一行の後を付いてきた。毯馬たちを怯えさせないように気を利かせたのだ。ところがそれでも匂いを感じるのか、毯馬たちはソワソワと落ち着かない。何度も後ろを振り返る。
そんな毯馬たちの反応を察知したシロタテガミが、さらに後ろに移動したのだ。
ウィルタは氏から双眼鏡を借りると、レンズを後方に向けた。
砂丘を三つ越えた辺りを、ポツンと四つ足の動物が歩いている。
と、レンズの中のシロタテガミが足を止めた。見られていることに気づいたのか、シロタテガミは嗽でもするかのように首を反り返らせると、一声吠え上げる。尾を引くような遠吠えが、風に乗って伝わってくる。とたん毯馬たちが足を速めた。
小走りになった毯馬たちを見て、氏がいつもの空笑いを漏らす。そして石黄色の布帽を取ってツルツルの頭を撫であげると、「毯馬たちを急がすには、鞭よりも遠吠えの方が効きそうだな」と、真面目な顔で言った。
夕刻、足元の砂がジャリジャリと音をたてるようになった。
サラサラの砂が、荒い鋭角な角をもつガラスの欠けらに変わっていた。
足を動かす度に、靴の下でガラスの粒がパリパリと割れて砕ける。
石の砂でできた砂漠は、昼夜の温度差と風が、何万年もの歳月をかけて岩を砕いて造りあげたものだ。対して晶化した火炎樹は、数百年の短い時間でガラスの粒に変わる。割れた結晶の断面が光を反射してキラキラと輝くことから、晶砂という名がつけられた。
太陽が真横から砂丘を照らす夕刻、晶砂の砂漠は夕日のオレンジ色の光芒を反射して、光を粉をまき散らしたように赤く輝く。ただそれは一時のことで、緯度が低いこの辺りは、太陽が西の地平に沈むと、オセロの駒を返すようにストンと宵闇が訪れ、すぐに照明を灯したように星が輝き始める。山脈越えの乾燥した大気の下、地平線の際まで星はくっきりと明瞭な輝きを発する。
星明りで、砂漠は夜も歩くことができる。だが砂漠の夜は凍てつく夜でもある。まるでマイナス二百七十度の宇宙の冷気が、空から押し寄せて来るように凍てつくのだ。
トゥンバ氏の一行は、寒さによる体力の消耗を避けるために、日没の一時間前にはその日の行軍を終える。日没前から急激に下がり始めた気温は、翌朝明け方には氷点下十度を軽く下まわる。風があれば肌に感じる温度はさらに低くなる。
今夜も風を避けることのできる砂丘の陰にテントが張られた。テントの横では、荷を外された毯馬たちが、一頭一頭苔の入った餌袋を口輪のように填められ蹲っている。この餌袋は貴重な餌を無駄にせず、どのラクダにも均等に餌を与えるためのもので、袋の中で上顎と下顎が擦り合うように左右に動いている。
並んで人間たちもささやかな夕餉を張る。湯を沸かし、熱いバター茶を入れ、あとは煎り干した板餅と塩漬けの牛脂という、簡単な食事だ。
鍋から湯気が昇り始めた頃、砂丘の壁を崩しながら春香が戻ってきた。手に水筒と椀を携えている。後方のシロタテガミに水と餌を運んできたのだ。
ウィルタがバター茶を入れたコップを春香に渡す。
「シロタテガミ、なんか言ってた」
「うん、生肉が食べたいって。餅じゃ足に力が入らないって」
「贅沢なやつだなあ。オオカミなんて犬の祖先だろ、骨でもしゃぶってればいいんだよ」
ウィルタの声が聞こえたのか、後方からシロタテガミの遠吠えが返ってきた。冷気を震わせるような音だが、毯馬たちは、はやシロタテガミの声に慣れてしまったのか、頭を上げようともしない。そこにまた、シロタテガミの一声。
春香がシロタテガミの遠吠えを通訳する。
「今度遭難したら真っ先にウィルタを食べてやるって、骨まで齧り尽くしてやるぞって」 ウィルタがバター茶を吹き出した。
ホーシュが齧りかけの餅を手に、不安げな表情で砂丘の向こうを見やった。
「あのオオカミ、本当にそんなことを言ったの」
「もちろんよ、ウィルタ宛にはね。ほかの人には『おやすみなさい、良い夢を』って」
口元を拭ったウィルタが、春香を睨んだ。
「その翻訳、嘘だろ。嘘ばっかりついてると、そのうち春香もオオカミみたいに口が裂けてくるぞ」
脅すように言うと、ウィルタは春香の方に口を突き出し、歯をガチガチと鳴らした。
先に食事を済ませ、経を詠唱していたトゥンバ氏が、口に両手を添えて天に向かって吠えた。オオカミそっくりとまではいかないが、それでも一応遠吠えにはなっている。かなりの声量で、それに喉を震わすような発声が、砂漠の何もない空間によく通る。黙々と餌を食んでいた毯馬たちが、一斉に氏の方に鼻先を向けた。
「ちょっと、トゥンバさんまで……」
春香の非難めいた視線をさらりとかわし、氏はもう一声気持ち良さそうに遠吠えの真似事をすると、「おやすみのあいさつを返したまでだよ」と言って笑った。
カンテラを消し、星明かりの下で見る大柄なトゥンバ氏が、なんだか別人に見える。
ホーシュが半分冗談で「トゥンバさんも、オオカミと話ができるの」と聞くと、すぐに大きな空笑いが返ってきた。
「オオカミと話のできる人間が、どこにでもいたら大変だ。おじさんは商売で大陸中をまわっている。言葉の通じない土地を訪れることも多い。そういう時どうするかといえば、とにかく気持ちを込めて話すんだ。歌を歌ってもいい、自分の一番使い慣れている言葉でな。気持ちさえ込めれば、案外こちらの考えていることは伝わるものさ」
半信半疑のホーシュの前で、氏は数珠を懐に納めると、「どれ、寝袋に入る前の仕事を済ますかな」と言って、立ち上がった。
毯馬の世話である。空になった餌袋を外し、防寒用の布を背中に掛けて、布についている紐を腹と首まわりで縛っていく。一枚の布があるだけでも、砂漠の夜の寒さは全く違ったものになる。その防寒布を掛ける作業をホーシュが手伝う。
旅に出て以来、毯馬の世話を手伝うのがホーシュの仕事になっていた。休憩の度に行う毯馬の足首のマッサージや、固めた餌を解してカゴに入れる作業、ブラシ掛けに、この就寝前の防寒布掛けと、ようやく一通りの手順を覚えたところだ。
布を掛けられた毯馬たちは、互いの体をくっつけるようにしてしゃがみこむ。
毯馬たちに続いて、人間も寝る態勢に。
寝袋に入ったとたん眠りについてしまう。一日中歩いて疲れていることもあるが、それ以上に早く眠らないと、夜半から明け方にかけての寒さで目が覚めてしまい、寝不足になるのだ。寝袋の中の子供たちに、就寝前の氏の読経が聞こえていた。
第四十一話「電鍵放送」




