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星草物語  作者: 東陣正則
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板碑谷


     板碑谷

 

 石くれを両側に寄せただけの古い牧人道を辿りながら、ウィルタは、タタンの口にした「ソセイ」という言葉を、口にしてみた。ソセイ……、冷凍睡眠からの蘇生である。

 十日前のこと。ウィルタはクレバスの中で冷凍睡眠の棺を見つけた。

 その日はタタンをクレバスから引き上げ、町に送り届けるので精一杯。そこで翌日、出直すことにしたのだが、クレバスに足を運んで慌てる。氷に亀裂が入り、今しも棺がクレバスの底に滑り落ちそうになっていたのだ。

 急いでタタンにそれを伝える。ウィルタとしては、タタンに棺の引き上げを手伝ってもらうつもりだった。ところがタタンは経堂から謹慎を言い渡され、当分の間、高石垣の外に出られないという。アヴィルジーンに矢を射かけたところを目撃した人がいて、通報されたのだ。それに実際問題、捻挫した腕で力仕事はできない。

 仕方なくウィルタは、棺の引き上げを自分一人でやることにした。

 ロープを何本も吊り下げ、毛長牛に牽かせてなんとか棺を氷河の上に持ち上げる。

 明るい日射しの下で見る棺は、遺骸を入れる箱というよりも、ガラスの蓋の付いた寝台だった。

 この時代、冷凍睡眠の棺が見つかることは珍しいことではない。

 二千年前、大地に大きな禍が降りかかってきた際、かなりの数の人が未来に救いを求めて冷凍睡眠のカプセルに入った。その時一斉に眠りについた人たちが、北方の分厚い氷の底や、氷河の末端、古代の遺跡などから大量に見つかっている。ところが冷凍睡眠に処された人たちの大半は、カプセルの中で腐敗するか、骨と皮だけのミイラになっていた。長い年月の間に、冷凍睡眠を維持する装置が故障したり停止してしまった結果である。

 それでもごく稀に腐敗せずに凍りついたままの人が見つかることもある。

 ただその場合でも、蘇生に失敗することがほとんどで、運良く蘇生に成功しても、脳が異常を来し、廃人同様の生きた屍となっているのが常だった。それは苦労して棺を掘り出し蘇生させたとしても、そこから得られるものが、人の形をした肉塊でしかないということ。そんなこともあって、いまや冷凍睡眠のカプセルを掘り出そうというのは、特別な研究者や専門家だけになっていた。そういう話は、ウィルタも大人たちの講話会や、坑夫たちの話を聞いて知っていた。

 それでも自分は氷の中から棺を掘り出した。

 棺の中の少女はグズグズに融けてもいないし、ミイラにもなっていない。

 良く見ると肌の表面に透明な膜が貼り付いている。冬場、肉を外気に晒しておくと、冷凍と解凍を繰り返し、水分が抜けて肉はパサパサになる。あの薄い膜は、少女の体から水分が抜けるのを防いでいるのだろう。

 そんなことを考えながら、ウィルタは棺を秘密の洞穴に運び入れた。ウィルタの住まうシクンの仮住村から一キロほどの場所にある洞穴である。入り口は狭いが、奥で穴は広がり、行き止まりのホールには、天井から一条の光が射し込んでいる。岩穴の上に外に繋がる穴が開いているのだ。

 ウィルタはその天然のスポットライトの下に棺を静置した。

 その作業の際にウィルタはあること発見した。棺の側面を覆うカバーが横にスライドするのだ。カバーの下から現れたのは、キーの並んだ操作盤と、画像が映し出されるガラスの板。以前、タタンの部屋で同じような機械を見せてもらったことがある。

 棺のガラス、タタンの言葉を借りれば映像パネルに、数字やグラフ、体の断面図などが現れては消える。棺のなかの少女は生死の分からない状態だ。でも棺そのものは動いている。さらに、その映像パネルに映し出される画像を見ているうちに気づく。

 パネルの下に枠を作って表示されている数字が、時間を表しているらしいということ。数字の並びは、左から、日、時、分、秒だろう。その一番右側、秒の単位が、心臓の鼓動のように規則正しく点滅、数を刻んでいる。

 刻んでいる、それも数が増すのではなく減る方向に……。

 いま現在表示された時間は、九日と十四時間余り。

 見ているうちにも、数字は確実に減っていく。このままいけば……。

 時間の表示のことを聞いて、タタンは即座に「カウントダウン」と断言した。

 そして「蘇生のためのスイッチが入ったのかもしれない」と呟きながら、祖父の本棚から一冊の本を抜き出した。古代の冷凍睡眠に関する研究書である。

 タタンが、ある項を指で押さえた。それは蘇生に要する時間の統計で、蘇生が成功するしないに関わらず、解凍にかかる時間は一週間内外であることが示されている。パネルの数字に気づいた時、カウンターの数字は九日を示していた。そのことからして、表示されている数字は、棺の中の人が蘇生するまでの時間で間違いないだろう。おそらくは、棺を引き上げ、洞穴に運び込むまでのどこかで、蘇生を開始するためのスイッチが入ったのだ。

「本当に、蘇生するかな……」

 半信半疑の面持ちでタタンは本を閉じた。

 

 盆地を取り囲む牧人道の北端に、演舞台に似た岩がある。その大岩を過ぎると、道の右手が迫り上がり、やがて断層むき出しの低い崖となって先に連なる。

 崖にできた岩の割れ目にウィルタは走り込んだ。

 人ひとり通るのがやっとという割れ目の隧道を駆け下りる。日々の暮らしに使われる路らしく、足元の悪いところには石が階段のように並べられている。その石段をスキップの三段飛ばしで走り抜けると、目の前に視界が開けた。

 マトゥーム盆地を取り囲む谷の一つ、板碑谷に出た。

 両翼を急峻な斜面に挟まれて、ゆるやかな勾配の扇状地が盆地の底に向かって下っている。マトゥーム盆地が勾玉形の尖った先端を南東方向に向けているため、盆地の北東部に谷口を開く板碑谷からは、ユカギルの町がちょうど対岸に見える。もっともそれは谷間の中央からで、今ウィルタが走り出た谷の右手からは、手前の斜面が視界を塞いで町は見えない。

 前方に、モコモコと盛り上がった地面の並びが見えてきた。

 この土饅頭が半地下式のシクンの小屋。ここがシクン族の仮住村ミトである。

 十個ほどの土饅頭のなか、中央の煙突のない大ぶりの土饅頭が、板碑谷九世帯、四十五人が暮らすミト・ソルガの集会所になる。

 この時代、人の住む町の周辺や、牧畜民の暮らす地域以外の原野は、一般に曠野と呼び習わされる。その曠野で暮す少数民の一つがシクン族で、三千人ばかりの人が、十七のミトに別れて住んでいる。シクン族の一番の特徴は、数年おきに居住地を変えることだ。

 牧畜を生業とする民にも、一定の住居を持たずに移動生活を送る人たちがいるが、牧畜民の暮らしが季節によって同じコースを辿るある種の定住生活なのに対して、シクン族は一族を率いる占者の易断によって不規則に居住地を変える。この放浪村とでも呼びたくなる移村のシステムに加えて、シクンは特殊な丹薬を調合することでも知られている。

 このシクンの民は、通常は曠野の奥に住んでいるため、交易の目的以外で町の人間が接することはほとんどない。それが偶然にも町の近くにミトが設営され、かつそれが八年という長期に渡ったことで、今までにないシクンの民と町の住人との接点が生まれた。シクンの少年が町に友人を持ったこともそうだし、町の医薬師が薬の原料を調達するために直接ミトを訪れるということもだ。

 走りながらウィルタは首を傾げた。

 いつもなら、女たちが家の前でカゴを編んだり、薬用の苔を選別したりしているのに、人影が絶えている。変に思い足を止めたウィルタの前方、集会所の入口から、ウィルタと同年輩の耳の大きな少年、福耳のナムが顔を覗かせた。早くとばかりに手招きをしている。

 分かったと手を振り返すと、ウィルタはナムの元に走り寄った。

 瓢箪の口のような狭い入り口を通って、集会所の中へ。集会所は夏のこの時期、天井を塞ぐ換気用の網代の蓋が外され、思ったよりも明るい。

 差し込む光の下、ミトの面々に囲まれて、一組の男女が睨み合っていた。ナビバ婦人とその夫だ。脇では子守役の娘が困惑した顔で幼児を抱いている。

 レイ先生は……と、ウィルタが大人たちの間から前を覗く。すぐに子守役の娘の横に、その女性を見つけた。顔は見えないが、千の蛇がとぐろを巻いて並んだようなラビア紋様のセーターを着て、椅子にどっかりと腰掛けている。

 ナムがウィルタに耳打ちした。

 それによると、シクンの女たちが作る薬用の発酵苔、薬苔を調達しにきたレイ先生に、ナビバが病に苦しむ二歳の娘を見せた。ナビバはシクンの伝統薬が効かなくて困っていた。感染症などの場合は、一族の伝統薬よりも町の薬の方が効くことを、ミトの女たちは知っている。しかし町の薬を飲むことや、町の医者に診てもらうことは、ここでは禁じられている。もしこれが町と接点のない曠野の中で暮らしていたなら、悩むことなく自分たちの調合した薬を使い続けただろう。それが偶然にも町の医薬師がミトに足を運んでいた。

 迷った末にナビバは四十度近い熱の続く娘を診てもらうことにした。

 娘は高熱に加えて、骨折痛と呼ばれる酷い関節の痛みを訴えている。口のなか頬の粘膜に白い斑点が発生し、目も鮮血に染まったように充血。この地域ではあまり見ない刺虫の媒介するウイルス性の熱病、邪眼熱で、ウイルスが脳にまわって脳炎を併発すると、幼児では重篤な状態に陥る可能性が高いと、レイが説明。ナビバは、ミトの女たちと相談の上、窮余の策として、レイ先生に薬の処方をお願いすることにした。

 そして娘に町の薬を飲ませ、これで一安心と思いきや、そこにナビバの夫が帰ってきた。ナビバの亭主は、娘に飲まそうと、貴重な生薬を受け取りに、遠方のミトまで丸三日を走り通した。自分の努力が無駄になったことは仕方ないとして、問題は自分の了解なしに娘に町の薬を飲ませたことだ。

 二人は病気の子供そっちのけで、言い争いを始めてしまった。

 医薬師のレイが、この病気は経口感染をするから、争いは後にして、ほかの子供たちにうつっていないか調べた方がいいと提案、二人の間に割って入ろうとしたが、激昂した二人は聞く耳を持たなかった。

 こういう時に限って、ミトのまとめ役、ミト長のインゴットの姿がない。曠野に出ているらしい。ウィルタが小屋の中に入ったのは、そんな時だった。

 今にも掴み掛からんばかりの二人を見て、ウィルタはオッホンと大人のような咳をすると、いま駆け込んで来たとばかりに声を張り上げた。

「レイ先生はいますか、炭坑でけが人が出たそうです。至急来てください!」

 席を外す救いの手が来たとばかりに、「分かった、すぐ行く」と、レイは重みのある声を返すと、鞄と外套を手に椅子から立ち上がった。

 褐色の肌に黒い目と黒い髪のシクンの民は、骨格も細身で小柄な体をしている。オペラ歌手のように肩幅のあるたっぷりとした体格のレイが立ち上がると、シクンの男たちと身長では変わらずとも、浅黒い肌と大きな鷲鼻が相まって、周りを威圧する存在感が漂う。

 言い合っていた二人も、思わず口を閉ざして町の老医薬師に目を向けた。

 その夫婦喧嘩の二人を無視、レイは人を掻き分け、そそくさと集会所から外に出た。

 レイの大きな背中にくっつくようにして、ウィルタも外へ。

「岩の割れ目を通る近道があるんです、案内します」

「そうか、お願いしよう」

 外套を羽織るレイが、後ろにいた細身の婦人に声をかけた。

「お願いした薬苔は、後日届けてくれればいい」

「承りました」

 曠野に不似合いな丁寧さで腰を折る婦人に、レイは軽く手を上げて答えると、ウィルタを促し大股で歩きだした。

 老医薬師のレイは、足首まで届きそうなスカートの下にズボンをはいている。そのスカートの下に覗く左足が、地面を軽く引きずるように動く。

 足が悪いのを見て、ウィルタはすかさず先生の鞄を取った。

 レイと、鞄持ちのウィルタが歩く後ろを、ミトの子供たちが一斉に追いかける。いつの間にか、ほつれ髪の少女が、レイのスカートの裾を掴んで駆けるように歩いていた。

 後ろから、また罵倒し合う二人の声が聞こえてきた。

 光の世紀と呼ばれる古代と比べて、この時代の人々の暮らしは一様に慎ましい。自給自足の暮らしをしているシクンの民は特にそうだ。日常的に飾り物を身につける習慣があるものの、着ている服は、どれも使い古しの布の切れ端を繋ぎ合わせたもので、つぎはぎの布を補強する意味で刺し子の技術が発達、独特の模様となってシクンの服装を特徴づけている。ただ刺し子模様のあるなしに関わらず、着ているものは、どれもボロとしか言いようがない。それが町の住人からすれば、乞食の衣装に見えてしまう。

 それでも近くで眺めれば、着ている服は、どれも洗い晒しの清潔なものだし、子供たちの顔は屈託のない笑顔に溢れている。集会所から聞こえてくる諍いの声を背に受けながら、レイは眉を掻いた。曠野で爪に火を灯すような暮らしをしているシクンの民は、一般に忍耐強い感情を表に出さない人たちと思われている。まだ五度目の訪問に過ぎないが、人はどこにいても人、恋もすれば、喧嘩もする。

 レイはもう一度、自身の太い眉を爪の先で一掻きすると、面を上げた。

 先ほどまで谷の向こう、盆地の対岸に見えていたユカギルの町が、斜面の右手、ミトの住人が館岩と呼ぶ大岩に邪魔され見えなくなっている。

 息を繋ぐように立ち止まったレイに、一歩前を行くウィルタが、前方の岩の割れ目を腕全体で示した。通常ミトから尾根筋の牧人道に出るには、板碑谷最奥部の斜面の道を使う。傾斜が緩やかで家畜が通れるのだ。しかし町へは、先ほどウィルタが通った岩の割れ目の隧道のほうが、ぐっと近道になる。

「ここを抜けると直ぐに尾根道、二十分は時間を節約できるよ」

 割れ目の先がぼんやりと明るい。レイの目で見ても、それほどの勾配ではない。

「ここでいい。あとは私一人でも大丈夫だ」

 笑顔で答えると、レイはウィルタから鞄を受け取った。そして歩き出そうとして、自分のスカートをひしと握り締めた、ほつれ髪の少女に気づいた。

 少女の不安げな視線が、割れ目手前の小さな塚に向けられている。

 少女が、すがるような目でレイを見上げた。

「ねっ、妹は、アギは治る、治るの」

 アギとは高熱を出して苦しんでいる先ほどの二歳の幼女で、ほつれ髪の少女は、その姉である。ミトでは子供がよく死ぬ。それは町でもそうだ。子供が成人になるまでの死亡率は、曠野では六割を超える。つい数日前にも赤ん坊が肺炎を起こして死んだばかりだ。その墓が目の前の塚で、大人の塚と比べて余りに小さい。

 レイは腰を落とすと、少女のほつれた髪を軽く掻き分け話しかけた。

「おばさんのあげた薬を飲めば、大丈夫。シクンの薬も良く効くだろうが、あの薬も都の専門家が作った特別製で、良く効くの、ね」

 包むように言い聞かせると、レイはポケットの中を掻きまわした。そして親指ほどの太さの棒灯を取り出すと、付いて来た子供たちに張りのある声で呼びかけた。

「早道できる時間を使って、病気がうつっていないか診ておきましょう」

 病気に感染していれば、先の幼女のように目が充血し、口の中に疱疹が出ている可能性が高い。レイは「順番に口を開けて」と呼びかけると、自ら口を開ける真似をしてみせた。

 レイの前に子供たちが並ぶ。

 なかにはもう身長が大人と同じくらいの男子も混じっている。その青年といってもよい男子までが我先にと大きな口を開けて並ぶのを見て、思わずレイは表情を崩した。まるで子供たちが、飴玉でも貰えると勘違いをしているように思えたのだ。

 ミトの子供たちは、ウィルタと違って町に出ることを禁じられている。その子供たちにとって、町の人に接すること、ましてや町の医者に診てもらうことは、得難い経験なのだ。レイは気づかなかったが、集会所の中でレイが幼女のアギを診ている時、集まった子供たちには、少なからず自分がその治療を受ける側に立ってみたいという、羨望の眼差しが含まれていた。

 餌を求めて口を突き出してくる雛をさばくように、レイは子供たちの口の中と目の充血を確かめていく。特に異常のある子はいない。最後がウィルタだ。

 ウィルタは、ミトの子供としては特例で、町に出ることを許されている。だから、ほかの子供たちのように、好奇心丸出しで口を開けて待つということはない。

 はにかみながらウィルタが開けた口の中に、レイが棒灯の明かりを向けた。

「異常はない、それに綺麗な歯だ」

 関心したように頷くと、レイが次は目とばかりにウィルタの顎を掴んで引き寄せた。

 慌ててウィルタが「目は……」と、顔を背けようとするが、老女とはいえ大柄なレイは、思いのほか力が強い。それに獲物を捕まえるような鋭い眼に、ウィルタは金縛りにあったように体を動かすことができなかった。

 レイは、右目に続いて左目のまぶたを押し開くと、「シクンの家は換気が悪い、煙で充血したかな」と言って、押さえつけていた手を離した。

 その様子を、取り囲んだミトの子供たちが、身を乗り出し見ていた。

 診察を終えたレイが、左足を軽く引きずりながら岩の遂道を上っていく。

 坂は実際に上ると、見た目よりもきついもの。荒い息をつきながら、レイは出口へと辿りついた。そして一言「今度ここに来る時は、荷物持ちを雇わなければ」と愚痴をこぼすと、何かを思い出したように、いま上ってきたばかりの狭い岩の割れ目を振り返った。

 町の民と曠野の民との繋がりを示すように、細くて狭い割れ目が口を開けている。その暗い遂道を、何ごとかに思いを馳せるように見詰めるレイの耳に、事故を知らせる炭鉱の鐘の音が風に乗って流れてきた。

「そうせかしなさんな、私はもう六十を超えているんだよ」

 軽くかぶりを振ると、レイは町に続く尾根道を歩きだした。


 レイと別れた子供たちが、土饅頭の並ぶミトに戻る。

 集会所の中から、野太い男性の声が聞こえてきた。

「喧嘩は一日の仕事が終わってからやるもんだ。今は夏の一番忙しい時期、さあ、戻って仕事、仕事!」

 ミト長のインゴットさんの声、曠野から帰ってきたようだ。やはり喧嘩や揉めごとの仲裁は、ミト長でなければだめだ。

 ミトの連中が、インゴットさんに追い立てられて戸口から出てきた。

 なかの一人、細身の中年の女性が、ウィルタを認めて歩み寄った。ついさっきレイ先生と薬苔のことで言葉を交わしていた女性だ。

 歳は四十半ば。日に焼けた褐色の肌に黒髪黒眼、娘をそのまま大人にしたような弛みのないすっきりとした顔立ちをしている。セーターの上に羽織った丈の短い上着に、腰に回した前掛けは、刺し子模様の入ったつぎはぎの布で、いかにもシクンらしい。ただほかの女たちが、腕輪や首飾りをこれでもかと身に付けているのと比べ、その女性は右耳に小さな巻き貝型の耳飾りを一つ付けただけで、いたって素っ気ない。それにシクンの女としては珍しく、髪を編んで背に垂らさず、頭の上にまとめている。この女性がウィルタの養母、シーラである。

「ちょうどいい所で、先生を呼んでくれたわね」

 シーラが、にっこりとウィルタに微笑みかけた。

「ばっちり」と、ウィルタが照れたように親指を立てる。

「でも、湿布薬を届けるだけにしては、帰りが遅かったじゃない」

「えへへ、ちょっとね」

 誤魔化すように横を向いたウィルタに、福耳のナムが後ろから近づいてきた。ウィルタよりも地黒で背が拳一つ高く、顔も細面だ。そのナムが「また、祖霊様に悪戯をする相談でもしてたんだろう」と、ウィルタを冷やかす。

 声が聞こえたのか、集会所の前に出てきたミト長のインゴットが、ウィルタの方を向いてギロリと目を剥いた。背はさして高くないが、首が三本乗りそうなほどに肩幅が広い。それに太い腕。突進してくる毛長牛の角を受け止め、そのまま地面にねじ伏せることのできるほどの力持ちで、そのことから牛馴らしのインゴットと呼ばれている。

 ウィルタは違うとばかりに左右に手を振ると、ナムに肩をぶつけた。

「冗談でも言わないでくれ、あれは反省してんだ。インゴットさんには、背が縮むかと思うくらい叩かれたんだからな。全く、今が一番身長が伸びる時だっていうのに」

 シーラがコツンとウィルタの頭を手の甲で叩いた。

「町に行くのを禁止されなかっただけ、感謝しなくてはね。あなたは特例で町に行かせてもらってるんだから、その分、品行方正にしなくては」

 諭すように言うと、シーラはウィルタの先に立って歩きだした。

 土饅頭と土饅頭の間は苔が剥げて道のようになっている。そこをウィルタとナム、ナムの弟のピッタが並んで歩く。ナムとピッタの小屋は、シーラの小屋の手前だ。

 前を行くシーラに、「ねえ、シーラさん、品行方正って」と、ナムが尋ねる。

 一寸足を止めて天を仰いだシーラが、「人のお手本になるような生き方をするということ、かな」と、朗らかな声で答える。

 それを聞いてナムが丸めた背中をヒクヒクとゆすった。

「無理だよシーラさん、ウィルタにできるはずがない。この間だって、犬のブッダに針を刺して苛めてたもん」

 慌ててウィルタがナムの口を手で塞いだ。

「ばか、あれは本に載ってた病気の治療法を試しただけさ。ブッダがもう歳で腰がヨタヨタしてるから、なんとかしてやろうって」

「そんなことをしたの」

 振り返ったシーラの目がきつい。

 誤魔化すように頭を掻くウィルタに、ナムが面白がって続けた。

「じゃあ、苔の粉に火をつけて、ブッダの背中に押し付けてたのはなんだよ、あれも治療法なのか」

「そうさ古代の治療法、灸っていうんだ」

怒って言い返すウィルタに、ナムが疑わしそうな目を向けた。

「フーン、それにしては、ブッタの足を縛って動けなくしてたじゃないか。ブッダのやつ、悲しそうな目をしてたぜ」

 足を止めたシーラが、片手を腰に当て、もう片方の手を耳に当ててウィルタを睨んだ。一見優しげに見える養母のシーラは、その実かなり激昂タイプで、当人もそれを気にしている。そして昂りやすい気を諫めるように、指先でイヤリングを摘む。ということは、今は怒る一歩手前ということだ。

「ウィルタ、あなた、もう少しインゴットさんに、叩いてもらった方が良さそうね」

「そんな、だからあれは、治療だってば」

「そのくらいのことは分かっているわ。針は鍼灸法。でもあなたの見た本って、集会所に置いてある本のことでしょ。あれはインゴットさんの許可がないと見せてもらえないはずよ。あなた、本を見る時にちゃんと許可を貰ったの」

「それは……」

 ゴニョゴニョと意味のない言葉を呟くウィルタを、シーラが問い詰める。

「どうなの、はっきり言いなさい、許可を貰ったの、貰ってないの」

 ウィルタを置いて先に歩きだしたナムとピッタの兄弟が、「やーい、リウの鞭打ちだーい」と、面白そうに囃したてる。

 その二人を恨めしそうに見やると、ウィルタが大声でナム兄弟に言い返した。

「なんだよ、おまえらも集会所の毛長牛のミルク、勝手に搾って飲んでるだろう。あれだって、見つかったら鞭打ちだぞ」

「人のことを言ってないで、こっちへ来なさい。小屋に戻ったら、たっぷり薬苔のごみ取りをやらせてあげます」

 ウィルタの耳を掴んで引っ張ると、シーラは自分たちの小屋に向かって歩きだした。

 子供たちは互いに舌を出しあう。それをはしたないと窘めるシーラを、後ろから駆け寄ってきた、ずんぐりとした体型のナムの母親、モルバが呼び止めた。

「シーラ、インゴットさんが話があるってよ、集会所にいるから直ぐに来てくれって」

 曠野から戻ってきたばかりのミト長が、急ぎの話があるという。シーラは表情を固くすると、ウィルタの耳をグイと手で引き寄せた。

「聞こえたわねウィルタ、私はこれからインゴットさんのところへ行きます。あなたは小屋に戻って、薬苔のゴミ取りをすること。それから縄ないもね、分かった」

 顔をしかめて頷くウィルタの耳を、シーラがもう一度引っ張った。

「返事は、はっきりと言葉で言いなさい」

 渋々ウィルタが「分かったよ」と、口にする。

 シーラは、ウィルタの耳を一捻りすると、行きなさいとばかりにズボンの尻を叩いた。

 それを少し先を歩くナムが、にやにやしながら見ている。しかしそのナムも、後ろから来た母親のモルバに耳を引っ張られた。ナムが大げさに叫び声をあげる。

「痛い、そんなに引っ張ると、そうでなくても大っきな耳が、牛みたいにでかくなっちゃうだろ、子供が牛になってもいいのかよ」

「ああけっこう、そうすれば食事も苔で済むし、ミルクも出してくれるからね。さあ帰って早く干してある皮を張り直しな。張りむらだらけじゃないかい、全く誰に似たんだろうね、その不器用さは」

 耳を引っ張られたナムは、うんざりしたように肩を回すと、ウィルタに向かって、またなとばかりに指を振った。

 それに指を振って応えると、ウィルタは自分の小屋に向かって走りだした。


 ミトの東の端にある二連続きの土饅頭、そこがウィルタと養母シーラの住まいだ。

 シクン族の住居は、斜面の段丘にカマボコ型の溝を切って作られる。切り開いた溝の上に網代に編んだ茨を被せ、さらに上を苔で覆って、入り口に扉代わりの皮布を垂らせば出来あがりという、半地下式の簡易小屋である。半年もすると、煙出しの煙突が地面の上に突き出ていなければ、単なる苔むした土の膨らみにしか見えなくなる。

 ウィルタが扉の布に手をかけると、内側からのそりと四つ足の動物が出てきた。

 背中の毛が一部抜け落ち、灰色の毛の間に地肌が透けている。老犬のブッダだ。若犬の頃は艶のある白毛だったというが、齢を重ねた今では見る影もない。ウィルタの姿を認めると、ブッダは緩んだ腹を左右に振るようにして小屋の外に出ていった。

「ちぇっ、愛想のないやつだな」

 ブッダは家の前に転がる平たい石、板碑石の上にゴロンと横になった。だらしなく足を伸ばしたブッダを鼻で笑うと、ウィルタは小屋に入った。

 壁に炉が切られていることを除けば、六畳ほどの只の穴倉である。家具らしきものは、長持ちが一つと、茨の枝を編んで作った机と椅子が一組、それだけだ。ウィルタは炉のヤカンを取り上げると、残り湯をラッパ呑みに口に注ぎ込んだ。

 首筋を伝う湯を手の平でぬぐい、編み机の上のほぐした繊維の束に目をやる。

 思ったよりもたくさんある。縄ないなら半日はかかる分量だ。

 ウィルタは面倒な作業から逃れるように、右側の土壁に垂らした荒布をめくった。土壁を刳り貫いた肩ほどの高さの穴をくぐると、一回り小さな穴倉が現れる。外から見て二連続きの土饅頭が中でつながっているのだ。隣の小屋には、苔を山積みにしたザルが隙間なく床を埋め、削り出された壁の棚には、薬種を詰め込んだカゴや袋が所狭しと並べてある。この小屋は、ミト・ソルガの女たちの作る薬苔の貯蔵庫である。

 ウィルタは選別しかけの苔を乗せたザルを手に、手前の小屋に戻った。

 

 夏の柔らかな風と天窓から差し込む日の光が、肌に心地良い。

 家の前の平たい板碑石の上では、ブッダが大きく口を開けて伸びをしている。

 先ほどまでの集会所の騒ぎが嘘のように、谷間は午後のまどろみに入っていた。

 苔の選別をしていたウィルタも、コクン、またコクンと首を振る。その居眠りをするウィルタの耳に、小屋の扉を開ける音が聞こえた。ブッダに続いてシーラが小屋の中に入ってきた。慌てて体を起して苔に手を伸ばすが、寝ぼけ眼のウィルタに構わず、シーラは竈の前に置かれたカゴの中身、今朝、集めてきたばかりの燃料用の苔を脇のザルに空けた。

「また、苔を取りに行くの」

 目を擦りながら聞くウィルタに、シーラが首を振った。

「まさか、これから丞師様を迎えに行くの。北のミト・ベンチェの人たちに連れられて、いま石脂谷まで来てるそうだから」

「丞師様がここに来るんだ」

「ええ、石脂谷からこの谷まで、高齢の丞師様の足だと丸二日はかかる、それにオオカミでも出ることになれば大変だから、誰かが付いていないとだめなの」

「オオカミが出るの?」

 目が覚めたように身を乗り出すウィルタを、シーラに寄り添っていたブッダが用心深そうに盗み見た。曠野にはオオカミが出る。しかし町に近く、街道の通るこの辺りでオオカミを目にすることはない。ウィルタ自身、いまだにオオカミを見たことはなく、何度か遠吠えを耳にしたことがあるくらいだ。

 ウィルタが、ブッダに向かってオオカミのように歯を剥き出して見せる横で、シーラは手早く水筒、油瓶、カンテラと、必要なものを、カゴに押し込んでいく。

 シーラが荷造りを終えるのを見計らったように、「用意はできたか」と小屋の外からインゴットの声がかかった。「今すぐ」と返事を返すと、シーラは外套の袖に手を通しつつ「干してある苔を湿らせないように」とウィルタに念を押した。

 小屋の外では毛皮の外套を着込んだインゴットが、愛犬のジッダを連れて立っていた。

 ジッダは、がっしりとした体格のインゴットにはおよそ似つかわしくない、コロコロとした薄茶色の小犬である。その可愛いお供を連れたインゴットの肩に、鉄弓が掛けてある。北方の鉄打ち専門の一族が作った弓で、強弓すぎて誰も引くことができなかったという、いわく付きのものだが、それをインゴットは軽々と引き絞る。肩の矢筒には、普通の矢に混じって鳴矢も何本か覗いている。

 インゴットはシーラを見て頷くと、身を正すように歩きだした。

 シーラが続く。

 小川を横切ると、二人は板碑谷の南斜面を巻くように上って行った。

 見送るウィルタに、ナムが固乳作りの筒を手に近づいてきた。筒に差し込んだ撹拌棒を上下に動かしながらウィルタに話しかける。

「丞師様を迎えに行くんだって?」

「ああ、でも今ごろ丞師様を迎えに行くなんて、どういうことだろう」

 ナムが呆れたようにウィルタの顔を覗きこんだ。

「聞いてなかったのか、ミトの移転の件だよ。シクンは、三年か四年おきにミトを移動するのが習わしだろう。それが板碑谷に来てもう八年も経ってる。いつ丞師様に移転のお告げが下りても変じゃない。それにこの辺りの薬用の苔は採り尽くして、毛長牛の餌の苔まで、遠くに採りに行かなくちゃならない。何年も前から、早く移転のお告げが下りないかって、皆で噂してたんだ。うちのおふくろなんか、今の丞師様は歳で、お告げを授かれなくなったんじゃないかって、本気で心配してんだぜ」

「丞師様の後継者が決まらなくて、引退したいのに、引退できないって聞いたよ」と、弟のピッタがませた口をきいた。

「とにかく、このミト・ソルガに足を運ぶってことは、移転以外に考えられないな」

 自信満々に言い切るナムに、ウィルタが眉を傾け、思案げな表情を浮かべた。

「どこに引っ越すのかな、また町に近いところがいいけど……」

「ほんと、曠野の中に行っちまうと、ズヴェルを売りさばいて小遣い稼ぎをすることができなくなっちまう」

「シーッ、それは秘密だろ、誰が聞いてるか分かんないんだから」

「おっと、そうだっけ」

 慌てて口を閉ざした子供たちの後ろで、モルバがこれ見よがしに牛追い用の鞭をバシンと打ち鳴らした。

「ナム、じっとしてても腹はくちくならないよ。晩飯を食べたきゃ、仕事をしな」

「わかったよ、そんなに怒鳴んなくても、やるときゃやるさ」

 声変わり前の不安定な痩せた声で母親に怒鳴り返すと、ナムは声を潜めてウィルタに耳打ちした。

「いいズヴェルのある場所を見付けたんだ。採りに行こう、もちろん儲けは山分けだ」

「分かってる、売るのは任せておけ」

「よし、じゃあ、また連絡する」

 約束を確かめる儀式のように互いの拳をぶつけ合うと、ナムはこれで用は済んだとばかり、弟の手を引いて母親のいる土饅頭の方に駆けて行った。

 ウィルタが板碑谷の南斜面に目を向けると、すでにインゴットとシーラの二人は、急な斜面を上り切って尾根筋に出ていた。二人の姿が尾根の向こう側に消えるのを見届けると、ウィルタは「ミトが移転」と小声で呟いた。

 実感が湧かなかった。

 二歳半の時にウィルタが置き去りされたのは、この場所ではない。前のミト地である。それが五才の時にミトが移転、板碑谷に移ってきた。それ以来ずっとこの谷で暮らしている。だからウィルタにとっては、ここが故郷のようなものだ。

 シクン族の仮住村は、通常は町から遠く離れた曠野の中に設営される。それが板碑谷のミトは、町から指呼ほどの距離にあって、まさに例外中の例外といえた。そのことからすれば、新しいミトは、間違いなく町から遠く離れた場所になるだろう。そうなれば子供が一人で町に足を運ぶなどということは、できなくなる。

 タタンとも会えなくなる。それって、どういうことだろう。

 シーラさんの小屋の左手前方、地滑りでできた小さな崖の下に、簡易の水車小屋がある。人の背丈ほどの組み立て式の水車小屋だ。そこからギリギリという臼の回る音が伝わってくる。ウィルタは、あの物を磨り潰す、磨り臼の音が好きではなかった。乾燥した苔を粉末にするための搗き臼、あのゴトンコトンというリズム感のある音の方が、よほど気持ち良い。でも水車小屋をどこに設置し、どの臼を、いつ動かすのか。それは大人たちが決めることで、子供が口を挟めることではない。からくりのような水車の機械は、ミトの住人全員の大切な財産で、子供が触れるとリウと呼ばれる茨の枝による鞭打ちの刑が待っている。子供にできるのは、黙って水車の音を聞くことだけだ。

 ギリギリズリズリという音が、心なしか普段よりも大きく聞こえる。

 その音になぜか落ち着かない気持ちで、盆地の対岸やや右手にあるユカギルの町に目を向けた。町の中心、熱井戸の排熱塔から、うっすらと黒い煙が立ち昇っている。

 煙の行方を眺めながら、ユカギルの町もこの後どうなっていくんだろう、そう漠然とウィルタは思った。


 ウィルタは小一時間ほど苔の選別を行うと、小屋の周りに人がいないのを確かめ外に出た。板碑谷最奥部の斜面を上がり、尾根筋の牧人道を横切って、丘陵地帯へ。そこに地面が下から押し上げられたようにしてできた崖が、放射状に並んでいる。遠い昔、空から大きな石が落ちてきて、マトゥームの盆地が作られた。この放射状の崖も、同じ時にできたものだというが、真偽は定かではない。

 ウィルタは崖に寄り掛かる大岩の後ろにまわった。そこに子供の背丈ほどの穴が口を開けている。中に入ると、入り口から差し込む外の明かりが闇と溶け合う辺りで、洞穴は左に折れ、その先で経堂の礼拝堂のような空間を作っている。

 天井から差し込む一条の光の下に、あの棺は置かれていた。

 棺全体が光の粉をまぶしたように煌めいている。表面の霜が光を反射しているのだ。霜が付くということは、棺の中の温度がまだ氷点下にあるということ。ウィルタは棺に歩み寄ると、腕全体で霜を削ぐように擦り落とした。

 霧が晴れたように棺の中の少女が顕わに。

 棺を見つけた時と同じように、少女は目を閉じたまま横たわっている。ただあの時と違うことが一つ。棺を掘り出した時、死んだように固く凍りついていた少女が、今は五分に一回のペースで、息をしているということだ。じっと見ていれば、少女の胸がひどくゆっくりとではあるが、上がっては下がるのが見て取れた。

 ウィルタは棺の横、段状に積み上げた石に腰掛けると、棺の中の少女に見入った。

 薄緑色の布に埋もれるようにして少女は眠っている。

 白いシャツから食み出た骨ばった肩に、シャツの裾から覗く丘のような膝。肌はウィルタよりも明るく、黄色味を帯びた土漠色だ。ゆったりと楕円に開いたシャツの襟元には、小さな赤いリボンが結ばれ、それが雪の中に残る紅葉した苔を思い起こさせる。やや短めに切りそろえた髪は、石炭の割れ目のように艶やかな黒で、細い髪留めの紐で左右に束ねてある。その横顔に見入りつつ「この子の目は何色だろう」と、ウィルタは思った。

 ひとしきり少女の顔を見つめると、ウィルタは視線を棺の側面に移した。

 出窓のような浅い出っ張りを横にずらすと、その下に様々な計器の並んだ操作盤と映像パネルが現れる。いまパネルに映し出されているのは、体の中を網目状に走る血管の画像だ。でも重要なのはパネルの右下に表示された数字である。

 カウントダウンに気づいて、今日で六日。

 最初は数値が減るのに合わせて、雪融けの道のように少女の顔がドロドロに崩れてしまうのではと心配した。でも今のところ、そんな兆候はない。

 タタンが調べたところ、冷凍睡眠の人間を蘇生させる際に、そのプロセスが順調に進んでいるかどうかは、皮膚の状態で判断できるという。脱水症状を起こしてシワが寄ったり、逆にふやけたように水ぶくれを起こしている場合は、ほぼ百パーセント蘇生は失敗する。ひるがえって目の前の少女。皮膚の表面を覆っている薄い膜は消えてしまったが、赤みを増した土漠色の肌は張りを失っていない。少女は少女のまま、ゆっくりと胸を上下させている。まるで見えない誰かが、少女の体に呼気を吹き込んでいるようだ。

 日焼けやシミと無縁な少女の艶やかな肌を見ているうちに、「百年に一度の出来事、古代の人間が蘇るかもしれない」という予感が、ウィルタの中に湧いてきた。

 ただそれは、期待と同時に新たな不安を生み出す。

 棺を氷から掘り出した時は何も考えていなかった。しかし、もし少女が無事に蘇生したら、その時はどうすればいいのか。この世界にいなかった人物が現れるのだ。きっと大騒ぎになる。それに冷凍睡眠の人間は、無事に蘇生した場合でも、記憶を失っているのが普通で、それは生ける人形が生まれるようなものだ。

 掘り出したのが自分である以上、少女への責任は自分にある。でも自分と年恰好も同じ少女、それも記憶を失った少女の世話が、自分にできるだろうか。とても自分一人の手には負えない。ならその時は、ミトに連れて行って、皆に手伝って下さいと頼めばいいのか。

 相談を持ちかけるとタタンは、「誰も棺を掘り出したことを知らないのだから、いざとなれば、記憶を無くした女の子を曠野で保護したということにして、経堂に連れて行けばいい」と、気安く答えた。確かにそうだ。でも肌を見れば、誰だって少女が今の時代の人間でないことに気づく。

 ウィルタが不満げな顔をしていると、「それよりも」とタタンが指摘した。それは少女に記憶が残っていた場合のことだ。万に一つでも記憶が残されていたら、それこそ大変なことになる。古代の情報は時として大きな金を生む。そのため記憶の失われていない古代人は高額で取り引きされ、時に争いの種にもなってきた。そう歴史を綴る書物は伝えている。

「その時は、少女が悪いやつらに連れて行かれないように、かくまうしかないな」

 事も無げにタタンは言った。

「それって、お金が掛かることだよね」

 ウィルタが先細りの声を出すと、タタンは笑ってウィルタの背中を叩いた。

「心配すんな、金はおれが工面してやるよ。なんたってウィルタは、俺にとって命の恩人だからな。これは宿の客から聞いた話だけど、アヴィルジーンの羽の欠けらが、健康おたくにいい値で売れるんだってさ」

 金儲けの算段を口にしたタタンが、思いついたように指を鳴らした。

「記憶どうこうよりも、女の子が無事に蘇生したら、まずは着るもんがいるぜ。ウィルタの話だと、棺の中の女の子は薄いシャツ一枚しか着てないっていうじゃないか」

 タタンの言うとおりだ。カウントダウンが終了した時に少女が目を覚ますかどうか、それはその時になってみないと分からない。でも準備だけは、しっかりとやっておかなければ。

 タタンが冗談まじりに耳打ちした。

「女の子だろ、変な服を着せると、ぜったい後で趣味が悪いとか文句を言うぜ。まあ服くらいはウィルタが用意しろよ。なんせ俺は謹慎中で大っぴらに出歩けない身分だからな」

 タタンの忠告にウィルタはため息をついた。そして顔を赤らめる。

 町の古着屋で少女の服を見繕う自分を想像したのだ。

 このウィルタの戸惑いをよそに、棺の中の少女は、ゆっくりと、しかし着実に停止した自らの生の時を、二千年後の世界に同調させようとしていた。



第一話「序」・第二話「氷河」・第三話「マトゥーム盆地」・第四話「板碑谷」・第五話「ズヴェル採り」・第六話「遠雷」・・・・

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