坊商
坊商
救助されて十日が過ぎた。
その日、春香は朝からチャビンの手伝いをして、布を織っていた。体を動かしていると、どんどん自分の中に生気が蘇ってくる。しかし、子どもたちが何か新しい歌を歌ってとせがんでくるのには閉口していた。リクエストに答えて、朝から歌いっ放しだ。見兼ねてチャビンが助け舟を出した。
「そんなに歌っていたら喉を痛めてしまうわ。砂漠は空気が乾燥しているから、ほかから来た人は喉をやられやすいの。わたしは湿気の多い曠野の出身だったから、それが良く分かる。シーラちゃん、種を採った星草の穂をガラス室の堆肥置場に返してきて。そのついでに一息休憩してきなさい。あそこは程良い湿気があって、喉には最適だから」
春香は素直に頷いたが、同時にむずがゆい想いも感じていた。
今朝、春香はウィルタから聞かされた。自分たちが偽名を使っていることをホブルさんに話してしまったというのだ。それに、本名を出さずに偽名のまま押し通すことで、ホブルさんには了解してもらっていると……。
相談もなく正体を明かしたことに春香は憤慨したが、すでにホブルさんが自分たちの正体を知っていたと聞かされ、仕方ないかと渋々首をたてに振った。ただ後になってから、チャビンさんに、その事が伝わっているかどうかを聞いていなかったことに気づいた。
いま目の前のチャビンさんが、シーラという名前が偽名であることを知った上で、自分をそう呼んでくれているのかどうか、それが分からないことが、春香の気持ちを落ち着かないものにしていた。
岩船へ行くことを促すように、チャビンは穂殻の入ったカゴを春香に押しつけると、一緒に行こうと腰を浮かせた子供たちを目で制した。
「あなたたちが一緒に行ったら、歌をおねだりするからだめよ。ここにいなさい。はい、春香ちゃん、行ってらっしゃい!」
残念そうな子供たちに見送られて、春香は一人で大部屋を出た。
家の外へ。タントの風車小屋から、ホブルさんとウィルタの話す声が聞こえてくる。まるで父と息子の会話のようだ。
岩船の壁に開いた二重のドアを潜って中へ。ガラス室には午後の陽が差していた。
畑の星草には、穂が出かかっているものもあれば、まだ芽が出たばかりのものもある。
実を結ぶまでに三年かかるという話だから、時期をずらして種を播いているのだろう。
春香はカゴを置いて、草原のような星草の畑に分け入った。膝下くらいの星草の野原のちょうど真ん中に、座るのに適当な平たい石がいくつか置いてある。大きさも不揃いの八個の石だ。ホブル・チャビン家のみなが、そろって石に座る光景が目に浮かぶ。一番小さな石はアチャの座蒲団だろうか。春香は石の一つに腰を下ろすと、目を閉じた。
誰もいないガラス室は、午後の日差しに満たされ、日溜まりのように暖かい。深呼吸をすると、湿った土の黴びた匂いと、草いきれが鼻の奥をくすぐる。これでヒバリの囀りでも聞こえてくれば本当に春の麦畑なんだけどと、空想を羽ばたかせている春香の耳に、軽やかな音が聞こえてきた。
「鳥……」と思ったが、すぐにそれが笛の音なのに気づく。
誰もいないと思っていた岩船の中に人がいたようだ。音は通路の先から聞こえてくる。ホブルさんは、ここが一番奥のガラス室だと言っていたが、まだこの先にも部屋があるらしい。春香は通路に戻ると、突き当たりの壁に向かった。
ドアがあった。半開きの状態で、覗くと上に上る階段、音はその先で鳴っている。
春香はドアの内側に体を滑りこませると、足を忍ばせ階段を上がった。
階段の上に天井の低い空間が開けていた。コックピット、岩船の操縦室だ。
ただし計器類は取り払われてガランとしている。
操縦室の椅子に腰掛け、ホーシュが笛を吹いていた。
演奏の邪魔をしないよう、春香は黙って隣の椅子に腰を下ろした。気がついているのかいないのか、ホーシュは笛を鳴らし続けている。短くて白い棒のような笛、骨笛だ。
硬質で、それでいて柔かみのある音が、ゆったりとした旋律となって、ホーシュの息と共に流れ出ている。操縦室の窓の外に広がっているのは、果てのない砂の大地。まるで自分が宇宙船に乗って、見知らぬ星に到着したような眺めだ。
笛が短い旋律を繰り返して終わった。
余韻が完全に消えるのを待って、春香は話しかけた。
「甘茶は、ごめんね。分かっていれば、二杯目なんか頼まなかったんだけど」
前を向いたまま、ホーシュが意外なほどさっぱりとした声で言った。
「仕方ないだろ、ここの事情を何も知らないんだから。それより、もう体はいいのか」
「うん、この星に来てからでは、かなりいい方だわ」
「そっか……」
一呼吸間を置くと、ホーシュがポソリと言った。
「お前の星では、いろんな技術が進んでたんだってな」
一瞬春香は声に詰まった。質問の意味が理解できなかったのだ。しかし直ぐにホーシュが自分の正体を知っていることに気づいた。いつどこで気がついたのだろう。思い当たる節はない。けれど、別に白を切るつもりはなかった。
素直な答えが口をついて出てきた。
「うん、進んでたっていうか、便利は便利だったけど」
「人を冷凍して元に戻せるぐらいだ、どんな病気でも簡単に治せたんだろうな」
さすがに治せない病気を治してもらうために、自分が冷凍睡眠で未来に送られたのだとは言えなかった。それでも、この時代より、医療の技術や設備が整っていたのは確かだ。
「大概の病気は治せるようになってたかな。でも技術が進みすぎて、死にそうな人でも無理やり生かすことができてしまうことの方が、問題になったりしてたわ」
「人と人が臓器を交換したり、悪くなった臓器を体の外に取り出して、治してまた戻すようなことができたってのも、本当なのか」
問いかけるホーシュの顔は真剣そのもの。
その真顔のホーシュに尋ねられて、春香は自分の知識の川底を浚った。
父さんの両親が病気の博覧会と言われるような人で、取っかえ引っかえ病気を抱えては入退院を繰り返していた。だから父と母は、食卓を挟んでよく病気の話をしていた。おかずが少ないと母さんは、「今日のおかずは病気の話ね」と言って、病気や薬の話題を食卓に乗せた。いつもそれを聞いて育ったから、自分は子供としては病気のことに詳しい。でもそれはあくまでも耳聞学で、細切れの知識だ。
春香は頭の中を整理しながら答えた。
「副作用の問題があるから、大抵は患者の体の細胞から育てた臓器を移植してたわ。でも人工的に育てることの難しい臓器もあって、そういう場合は、亡くなった人の物を取り出して患者さんに移してたけど……」
「そうか、やっぱり、本当だったんだな」
ホーシュが声を昂ぶらせた。
岩船の六人の子供たちのなかでは一番素っ気なく、寡黙にさえ見えるホーシュの興奮した様子に、「それがどうしたの」と、春香は尋ねた。
ホーシュは計器の抜けた操作卓に視線を戻すと、すぐに訳を話し始めた。
「末の妹のアチャのやつ、特別扱いをされてるだろう。あれはアチャが長生きできないかもしれないってことを、みんなが知ってるからだ。アチャのやつ心臓の病気なんだ。町に連れて行っても治すことのできない体質だって」
足の怪我も含めて何か理由があるだろうとは思っていたが、そういうことだったのだ。
「でもおれはそれが嫌で、あいつを普通に扱ってやりたくてさ。あいつがクックルの鳥小屋に上ってみたいって駄々をこねた時、こっそり連れて上ったんだ。そしたら、あいつ発作を起こして、足を滑らして階段の上から落ちた。その時のケガが元で、あいつは片足になっちまった。おれ、間に合うかどうか分かんないけど、町に出て医者の勉強をやって、あいつの病気を治してやりたいんだ。そうでもしないとさ……」
そこまで話すと、ホーシュは砂漠の地平線に目を向けたまま黙ってしまった。
「両親には相談したの」
さりげない質問に、ホーシュがビクンと肩を震わせた。
しばし手の中の骨笛をいじると、ホーシュが悩ましげな声を吐いた。
「ちらっとだけどね。でも親父が猛反対でさ。ここを出たら、二度と帰ってこないんじゃないかって心配してんだ」
「そうなの……」
「こんな砂漠のなかにいたって、絶対にアチャの病気を治すことはできない。それにおれ、アチャの病気のこともあるけど、それ以上に、うちの家族の病気を治したいんだ」
「家族の病気って?」
「人の体の中には、遺伝子ってのがあるんだろ。それがうちの連中は変なんだって」
ホブルがウィルタに話して聞かせたように、ホーシュも餅を食べることのできない体質の人たちのことを春香に説明する。春香はウィルタから間接的に、その話を聞いていた。春香の時代にもアレルギーで苦しんでいる人は多かったし、春香自身も小麦に対するアレルギーがあったから、主食である餅を食べることのできない大変さは痛いほど分かる。
話しながらホーシュは、昂ぶる気持ちを抑えるように拳を握り締めていた。
「おれ、その遺伝子の勉強をしてみたいんだ。昔は、その遺伝子ってやつを自由に操作して、病気の治療をしてたんだろう」
どこで聞き齧ったのだろう、ホーシュは遺伝子治療の話を力説する。
春香の生まれる少し前の時代から、遺伝子を使った病気の治療が飛躍的に発達、それまで難病で不治の病と言われたものが次々と克服されていったのは事実だ。子供が生まれる前に、その全遺伝子をチェックすることも始まっていた。親の意向で、春香も自身の遺伝子コードを書き込んだ情報チップを持っていた。
それはともかく、この時代に遺伝子を扱う技術が、現実味のあるものなのだろうか。まだこの世界に疎い春香だが、遺伝子の治療が、この世界では夢物語に近い技術であることは、容易に想像がつく。
「うーん」と一声唸ると、春香は慎重に言葉を捜しながら自分の考えを口にした。
「遺伝子の治療は、わたしの時代でもかなり難しい技術で、まだまだ研究の段階だったの。簡単に考えない方がいいんじゃないかな。もちろん可能性はあると思うけど」
春香の含みを持たせた言い方に、ホーシュは固い表情を砂漠に向けた。
「外の世界かあ……」
ため息まじりに言って、春香は口を閉ざした。
自分だってまだこの世界のほんの一端を覗いたに過ぎない。もしかしたら心臓の病や遺伝病を簡単に治してしまう技術が、どこかにあるのかもしれない。自分にして、眠り姫になった後の時代のことは、ほとんど何も知らないのだから……。
膝を抱えじっと想いを巡らす春香の横で、突然ホーシュが風防ガラスに顔を押しつけた。
「隊商だ、隊商が来た!」
それまでの鬱々とした様子が嘘のように、ホーシュが顔を赤らめ、興奮した声を上げた。
ホーシュの視線の先、砂漠の地平線に、小さな点のようなものが並んでいる。
「あの黄色い色は、トゥンバさんだ。みんなに知らせなきゃ」
ホーシュは椅子から跳ね降りると、春香を残し操縦室を駆け出していった。
春香は、そのままぼんやりと砂漠の彼方を眺めていた。
しばらく後、なだらかな砂丘の上に見えてきたのは、ラクダのような動物の隊列だった。
瘤のある動物が近づいてきた。
春香の知っているラクダよりも遙かに毛が密で濃い。毛長牛が牛にアンゴラのような長毛の毛皮を被せた生き物だとしたら、目の前の動物は、ラクダに毛足の密な絨毯を被せた生き物といえる。この短い毛の塊のような動物を、この地では毯馬と呼んでいる。人よりも背の高い毯馬は、足もがっしりしており、瘤は一つ。その瘤を挟みこむ鞍に、振り分けに荷が積まれている。
毯馬の手綱を手にした褐炭肌の男が、布の帽子を脱いで大きく左右に振る。
石黄色の僧衣っぽい服装をしていると思ったら、やはり坊主頭だ。
その僧侶らしき男に向かって、ホブル家の子供たちが歓声を上げて走り寄っていく。ホーシュの知らせに飛び出してきたのだ。かなり離れたこの距離からでも、毯馬そっくりの大きな目玉と分厚い唇が良く分かる。その僧衣の男が、操縦席の前方で子供たちに取り囲まれた。次々に差し出される小さな手に、逐一名前を呼びかけては握手をしている。同じ子供が何度も手を握ってくるので、男は最後バンザイをするように両腕を上げ、大げさな身振りで子供たちに呼びかけた。
「握手を後回しにしてくれた子には、お土産をあげるぞ。今は何よりもまず毯馬たちを水場に連れて行き、水を飲ませたい」
子供たちは男から手綱を奪い取ると、毯馬を水場に引っぱって行った。
僧衣の男は一人残ったホーシュの頭を撫でると、「大きくなったな、もういい青年だ」と、厳つい顔に似合わない人好きのする笑顔を見せた。そして後ろから現れたチャビンを見るなり、「おお懐かしい、チャビン婦人。砂漠の砂に磨かれて、益々お美しくなられた」と、破顔のまま骨太の手を差しだした。
「まっ、嫌ですよ、トゥンバさんたら。とにかく中に入って一息入れて下さい。美味しい水が待っていますから」
「では、やっかいになりますかな。砂漠では、お宅に寄るのだけが楽しみでな」
トゥンバと呼ばれた男、正式にはダルトゥンバという名の男は、最後に姿を見せたホブルとがっしり握手を交わすと、二度ほど軽く抱き合った。そして身振り手振りで話を交わしながら、夫妻と共に岩に挟まれたブロック積みの家に入って行った。
春香は大人たちが視界から消えるのを待って、ガラス室から外に出た。
その春香を待っていたように、岩船の入り口に立っていたホーシュが話しかけてきた。
「一年に一度、今頃の季節にやってくる旅の坊商さ。うちの物資補給係。生活用品を親父に売って、その代わりにおふくろの刺繍を買っていく。もちろん経も読んでいく。君たちみたいな特別の訪問者でもない限りは、あの人が岩船屋敷の一番のお客さんなんだ」
そう説明すると、声を潜めて「さっきおれが喋ったこと、黙っておいてくれよな」と抑えた声で言った。
「もちろん」と頷いた春香は、とっさに閃いたのか「そうか、あなた、あの旅の人と一緒に、この家を出ていくつもりね」と、探るような目でホーシュを見た。
ホーシュが慌てて辺りを見まわす。そして誰もいないのを確認、肩で大きく息をついた。
「トゥンバさんは、年に一度しか来ないんだ。この機会を逃したら、また一年待たなきゃならない。もし今年トゥンバさんが来なかったら、おれ、あんたらと一緒にここを出ようと思ってたんだ。いいか、このことは絶対に秘密だからな」
必死の形相で念を押すホーシュに、「はい、はい」と、春香は気安く返事を返した。
ところがこの二人の会話を、後ろの物陰で次女のチャフィーが聞いていたのだ。
このホブル・チャビン家に立ち寄った僧衣姿の男を、ホーシュは坊商と呼んだ。
この時代、僧には二種類ある。経堂付きの地域僧・宿僧と、特定の教区に属しない露行の行脚僧・坊商にである。外見上の違いは、経堂付きの宿僧が、無彩色あるいは淡い青灰色の僧衣を着用しているのに対し、露行の坊商は派手な石黄色の黄衣をまとっている。坊商が黄衣を着用するのは、露行の僧が基本的には托鉢で生活を成り立たせているからで、目立つ必要があるのだ。
露行の行脚僧は、通常托鉢だけでは食っていけない。売経や小商いをして生活をまかなう。そのことから露行の僧を、僧と商人を兼ねた者として坊商と呼ぶ。
そして坊商という言葉には、もう一つ含みがある。
この時代、僧衣をまとった者は、様々な面で優遇措置を受ける。街道の検問が簡便に済むことや、税金の減免、あるいは経堂の宿房が利用できることなどである。この優遇措置が、街道を行き来しながら商売をする者にとって魅力的に映るらしく、しばしば僧が商売をするのではなく、商人が僧を兼ねるという逆転現象が起きる。そのこともあって、単純に坊商と言った場合には、商人が僧侶を兼ねる場合を指し、純粋な露行の僧は行僧と呼ばれる。ただ坊商といえども僧の端くれであり、一日に六度の行が義務づけられ、請われれば経を詠じなければならない。
ホブル・チャビン家を訪れた坊商の男性は、名をトゥンバ、僧に対する尊称で名の頭にダル、末尾に氏を付け、ダルトゥンバ氏、あるいはトゥンバ氏と呼ばれる。しかしホブル家の者は、気軽にトゥンバさんと声をかけていた。またトゥンバ氏自身も、そう呼ばれることを好んだ。
間近で見ると、トゥンバ氏は石黄色の僧衣の上に、縦長の黄衣、袈裟を羽織っている。布の中央に切れ目を入れて頭を突き出す形式の袈裟は、形を変えたポンチョのようでもある。細身だが上背のある体格で、灰眼に褐炭肌、頭髪は剃っている。若く見えるが、五十をまわっているということだ。
氏は、一年に一度、砂漠の岩船屋敷を訪れる。
花屋敷の三階の大部屋では、チャビンが、この一年の成果である自慢の刺繍を、氏の前に並べていた。チャビンは、トゥンバ氏が運んできた布と糸を使って刺繍を作り、一年後再び訪れた氏に、できあがった刺繍を渡して新しい糸を受け取る。チャビンの縫う曠野の民特有の細かい刺繍は、結構いい値で売れるらしい。ささやかな家内工業である。
ざっと刺繍に目を通すと、トゥンバ氏は懐から取り出した包みを子供たちに渡した。土産である。子供たちが歓声をあげて包みに群がる。それをチャビンが、大人はこれから仕事の話をするのだからと言い聞かせて、下の階の子供部屋に追いやった。
子供たちが階段を駆け下り、はしゃぐ声が階下から伝わってくる。
氏が再度刺繍の一つ一つを吟味するように手にとる傍らで、ホブルが自分宛の包みを開けて中の物を確かめる。塩、機械油、紙、鉱石球、銅線……、なかでも薬が多い。どれもここでは作り出すことのできないものだ。トゥンバ氏は、ホブルが注文の品を一通り確かめ終えたのを見ると、カゴの底から布とフェルトで丁寧に梱包された包みを取り出した。
包みを広げると、中から壺のようなものが出てきた。
「もしや……」と、ホブルが身を乗り出す。
「ああ、そうだ、やっと手に入れた」
氏がホブルにその壺を手渡す。
「頼まれていた有耳泡壺だ」
前にも述べたように、充電池の匣電は、弁当箱ほどの大きさの割に、古代の乾電池ほどの容量と出力しか持っていない。ところが古代の遺跡から出土する電池の中には、小ぶりながら高容量、高出力のものが含まれる。それが泡壺と呼ばれる一群の壺型の電池で、割ると中の成分が瞬時に泡となって噴き出してくることから、その名が付いている。ガフィが割って騒動を引き起こした泡壺は、牛の角型の突起を持っていたが、いまホブルが手にしているのは、左右に鍔のような出っ張りのついた、有耳泡壺と呼ばれ泡壺で、一千単位ほどの蓄電容量と、古代でいえば二百ボルトほどの出力を持っている。
初めて目にしたのか、ホブルは手で捧げ持つようにして泡壺を眺めている。
古代の岩船は、すでに先代が岩船を改造してから八十年近い年月を経ている。砂漠にありながらも内部で植物を育てているために、湿気がまわって劣化が激しい。ところが修理をしたくても、特殊な合金でできた岩船、事は容易ではない。
先代の残した備品のレーザー工具が使えれば良いのだが、匣電をずらりと並べてもまだ出力が足りない。どうしても高出力高容量の電源が必要で、そのレーザー工具の使用を可能にするのが有耳泡壺だった。有耳泡壺があれば、レーザー工具を使って岩船の本体を解体、組み立て直して、ガラス室の増設も行うことができる。
今のガラス室で栽培できる作物の量は限界に来ている。子供たちの成長を考えれば食料の増産が必要で、そのためには、何としてもガラス室を拡張したい。それが、ようやく実現できるのだ。
目を輝かせて手にした有耳泡壺に見入るホブルに、氏は目を細めると、油紙で包んだ別の小さな包みを懐から取り出した。
「これはおまけだが」と、氏は包みを開けて、悪戯っぽい目でホブルの反応を窺う。
広げた油紙の上に、ビー玉ほどの大きさの黒ずんだ石のようなものが乗っていた。
「植物の実、いや種のようですね、しかし随分と大きい」
ホブルの感想に氏は満足そうに頷くと、自身のツルツルの頭をなぞるように撫でた。
「専門家が言うに、古代の『茶の木』の種だそうだ」
「苔ではない、木の……、ですか?」
氏が、もちろんと頷く。
「北方の氷床の下から見つかったもので、今回特別に頼みこんで譲ってもらった生きた種だ。古代、茶の木は温暖な気候の土地に生えていたという。だから上手く芽が出たとしても、育つとは限らない。しかしぜひ発芽させて育ててみたい」
氏の口から、茶という言葉が出て、ホブルの表情から緊張が取れた。
古代に『茶』という飲料の元になる植物があったことは、それが失われた今の時代でも、誰もが知っている。古代、茶を産しない地域では、黄金と同じ目方で交換され、類い稀なる高貴な飲料として用いられたと、今に伝えられている。時代が代わり、茶の木無き冬の時代、その茶を模して作られたのが苔茶だ。しかし味わいはとても本物に及ばない。
古代に産地であった地域では、氷の下から大量に凍りついた茶の実が発見されている。が、未だに一つとして発芽に成功したものはない。だが今回の種は、今までの産地とは違う北方で発見されたもので、なかのいくつかは実際に芽を吹いたらしい。
もしかしたらという思いで、氏はその種を手に入れたのだ。
「これも、例のものと同じように、ここで育ててもらえると有り難い」
「ここで……?」
種から目を上げ、ホブルが問い直した。
「万に一つ芽吹いたとして、火炎樹しか育てたことのない連中では、本物の木はとても育てられまい。砂漠の中だが、ここのガラス室は、私の知っている限りでは、茶の木を育てるには最適の環境、世話をしてくれる人も含めてだ。ぜひその種を扱ってみてほしい。もし古代の『茶の木』が育てば、それは黄金を生む木となるだろうからな」
持ち上げるように話すと、氏は乾いた笑い声を上げた。
坊商のダルトゥンバ氏は良く笑う。それも作ったような声、空笑いのような笑い方だ。
ところが、二人のやりとりを後ろで聞いていたチャビンは、用意した苔茶を手にしたまま表情を曇らせた。
氏は笑いながらも真顔に戻ると、いかにも坊商らしい抜け目のない顔で「例のものは」と、ホブルを催促。ホブルが「ここに」と、袂から布袋を取りだした。
「二十単位、入っています」
「そうか」
氏は無造作に小袋を受け取ると、僧衣の内側にそれを押し込んだ。
チャビンの厳しい表情に気づいたのか、ホブルは妻の視線を避けるように腰を上げた。
「種は預からせてもらいましょう。上手く行くといいですが。それよりもガラス室を覗いてみませんか。また新しい草が生えてきました。小さいですが鮮やかな黄色い花を咲かせます。以前大陸西の海岸で見つかった黄菜と同じものかもしれません」
「なんと、それはぜひ拝見したいものだ」
ホブルと共に腰を浮かせかけた氏は、腰紐にぶら下げた懐中時計に目を落とすと、「いかん、経の時間だ」と手を叩き、素早く腰を落として結跏趺坐に足を組んだ。そして懐から引き出した数珠を手に、経を唱えだした。
岩船のガラス室に向かうトゥンバ氏と夫のホブルを、チャビンは家の戸口で見送った。
ウィルタが堅い表情のチャビンに気づいて声をかけた。
「どうかなさったんですか、チャビンさん」
「ああタタン君、何でもないわ。お茶の残りがあるから、飲みましょう」
チャビンはウィルタの背を押し、扉を閉めた。
夫がトゥンバ氏に渡したものが何であるかを、チャビンは知っている。それはこの世界では貴重な薬の原料となる苔だ。しかし同時に、加工すれば幻覚効果を持つ麻薬にもなるため、一般には麻苔と呼ばれている。
別に氏を疑っているのではない。坊商のダルトゥンバ氏は、自分の刺繍を買い上げてくれるし、家族に必要なものを運んできてくれる。砂漠の孤島のような生活では命綱のような人だ。だからこそ、夫のホブルが氏に頼まれて麻苔の栽培を頼まれた時も、反対しなかった。けれど、噂では麻苔を巡って血生臭い事件が起きているという。もしもここで麻苔を栽培しているということが外に知れると、よからぬ人間が来るのではないか、それをチャビンは心配しているのだ。
そして、泡壺に、茶の種……。
世界のどこにも本物の茶の木はない。もしあの種が芽吹いて育ち、古代のお茶が復元できたとしたら、それは正真正銘、黄金を生む木となるだろう。だがそれは同時に、黄金を求める人を呼び寄せることを意味する。誰もが血眼になって、その木がどこにあるか探し始める。そして当然それを扱っている氏の交易路が怪しまれる。ここが発覚するのは時間の問題だ。もしそうなったら……、
下の子供部屋から、子供たちの騒ぐ声が聞こえてくる。
チャビンは、平穏な子供たちとの暮らしに満足していた。確かに砂漠のなかの孤立した生活に不安はある。病気の時に医者を頼ることができない、そのことの覚悟が必要な生活なのだ。食料が尽きたとしても、一番近いオアシスまで、騎乗用の毯馬を走らせても四日はかかる。それでも、こんな崖っ縁に立つようなギリギリの暮らしであっても、家族全員が寄り添って暮らせる。それが一番だとチャビンは思っている。
ところが町で育ったホブルは、チャビンと違って生活を楽にすることを考えている。だからいつも新しい何かを手に入れようとする。きっとあの泡壺という名の電池のお陰で、新しいガラス室が建つだろう。夜の照明の数も増えるかもしれない。けれども、壺の見返りとして、当分の間、麻苔の栽培は続けなければならない。
どんどん自分たちの生活が変わっていく。夫のホブルはそれを良しと考える。
でも、変わるということは何だろう。
注ぎ入れる苔茶がカップから溢れた。
「おばさん」
「あ、ごめんごめん」
チャビンが、慌ててほつれた繊維の塊のような雑巾を手に取った。
その頃、岩船の鍵のかかった小部屋では、氏とホブルが、あるものに熱い視線を注いでいた。箱に植えられた赤紫色の苔である。
氏が苔の色合いを確かめながら言った。
「チャビンさんは相変わらずこの苔のことを、良く思っていないようですな」
「彼女は自給自足を良しとする曠野の民の出身、物が無ければ無いなりの生活で事足れりとする文化で育った女。生きていくためには現金収入が必要という、そのことが理解できないのです」
氏は陽に曝された毛のない頭を撫でると、「曠野の民というより、女はそういう生き物なんでしょうな」と、咳払いをするように空笑いをついた。
しばらくして密談が終わったのか、二人は地下の小部屋から出てきた。溢れるような午後の日差しに、二人はしばし目を細めた。そしてそのままリウの部屋に入った。
部屋の隅に房状に小さな黄色い花をつけた草が植えられている。渡り鳥の糞から芽吹いた草だ。それが丸一年半をかけて、ようやく花をつけた。
氏の大きな目が糸のように細まる。
「地上に残された植物の種が、渡り鳥の糞に混じって巡り巡って運ばれ、芽を吹く。ここは、紛れもなくオアシスだ」
「前任者の記録を見ても、渡り鳥の糞から芽吹くのは、ほとんどが紅珊瑚とヨシとリウの三種ですが、それでも数年に一度は見馴れない植物が芽を出します。残念ながら今までに生き残ったものはないのですが……」
「いや、それでもこの世界には、まだまだ探せば未知の植物があるということだろう。もしかすれば、本当に金のなる木だってあるのやもしれん」
「もし茶の種が芽ぶき、無事に育てばそうなるでしょう」
「豪邸に住めるな」
「チャビンはそれを望まないでしょう、もちろん私もですが。まあ、そういうのを古代では、取らぬ狸の皮算用と言うそうですよ」
「ははは、これは一本取られた」
空笑いを浮かべながら、トゥンバ氏は、岩船の出口から家の裏手に目を向けた。
「ところで、珍しく来客があるようだが」
「お気づきになりましたか、子供のカップルです。近くで行き倒れになっているのを助けましてね」
「ふむ、どこの人間かな」
「何でもオーギュギア山脈の向こう、ユルツ連邦の囲郷から来たと話しています。塁京に行くつもりが、砂漠に迷いこんでしまったとかで」
「塁京か、きょうび誰も彼もが塁京を目指す。ちらっと目にしたが、裏に繋いでいた白いヤマイヌもその子たちと関係があるのかな」
「ええ、人に馴れているようで、一緒に旅をしているんだと、子供たちは言っています」
氏は坊主頭に手をやり何か考えたようだが、
「そういえば数年前に、西の曠野で白いたてがみの人喰いオオカミが出たという噂を耳にしたことがある……」
ただ話しかけて、氏は話を止める口実を作るように、乾いた笑い声を挟んだ。
「まあ噂は噂、旅をしていると色々な話が耳に入る」
岩船から出てきたトゥンバ氏を子供たちが取り囲み、「おじさん、何か旅の面白い話を聞かせて」と、姦しくおねだりを始めた。せがまれるのが満更でもない様子で、氏は子供たちに引っ張られるようにして、ジャブジャバの塔へ。そこで話そうというのだろう。氏の後ろ姿をホブルが恐縮して見送る。
そのホブルの袖を次女のチャフィーが引いた。
シロタテガミに食事を届けると、春香は静けさの戻った岩船の中に入った。
奥の操縦室へ。砂漠を見晴らす操縦室の椅子には、ウィルタが座っていた。
ついさっき、春香はホーシュがこの家を出ようとしていることを、ウィルタに伝えた。そのホーシュのことと合わせて、自分たちの大切な問題をウィルタと話し合いたかった。だから人気のない操縦室で待ち合わせた。春香がホーシュから聞かされたことを、もう一度ウィルタに説明。そして自分なりの感想を伝えた。
「ホーシュは医者になる勉強をするよりも、まずは社会勉強のために、外の世界に出ていく必要があると思うわ。電鍵放送というのを聴いて物知りなのはいいけど、家族以外の人とほとんど会うことのない生活なんて不自然、世間知らずになってしまうもん」
「そうだろうね、もしぼくが曠野の奥で育ったとしたら、絶対に町のことなんか何も知らない大人になってしまっただろうからさ」
「可愛い子には旅をさせろってことよ」
しばらくの間、二人は黙って外の景色を見ていたが、同じことを考えていた。それは、そろそろホブル・チャビン家を去るべき時が来たのではないかということだ。
もう春香の体調は元に戻っている。ホブルとチャビンの夫妻は、こちらから言い出さない限り、出て行ってくれとは言わないだろう。ここでの滞在は、二人にとって、とても居心地の良いものだった。けれども、二人がここに滞在していることが、一家にとって負担になっていることは明らかだ。それにいくらここに滞在しても、ウィルタの父親に会いに行くという旅本来の目的は実現しない。
どちらにせよ、そろそろ出発しなくてはならない。そして出発するなら、坊商のダルトゥンバ氏が来た今が絶好のチャンス。氏に付いて行けば砂漠で道に迷うことはない。
それにもう一つ、急いでここを出発しなければならない理由があった。シロタテガミだ。もうこれ以上、シロタテガミを鎖に繋いでおくことはできなかった。春香には、日に日にシロタテガミの目つきが悪くなるのが分かっていた。
二人は目を交わすと頷き合った。
夕食後、ホブル・チャビン家の面々は、トゥンバ氏の異国の話や商売の失敗談などに耳を傾けていた。子供たちは一言も聞き漏らすまいと、目を輝かせている。それはそうだ、明日の朝になれば、氏は毯馬を連れていなくなってしまう。珍しい話の聞けるのは、今夜だけなのだから。
話に夢中になっている子供たちの中で、次女のチャフィーだけが落ち着かない表情を見せている。ほかの四人と違って、その場に兄のホーシュがいないことを気にかけていた。気もそぞろのチャフィーが、階段の下に視線を走らせると、母親のチャビンが、さりげない目つきでそれを咎めた。
子供たちの輪の後ろで、春香とウィルタも氏の話に耳を傾けていたが、ウィルタはトイレに立つふりをして席を外した。そして家の外に出ると、岩船のガラス室に入り、奥の操縦室への階段を上がった。
白灯の明かりが差し込む操縦室で、ホーシュは堅い表情で骨笛を吹いていた。
隣に腰を下ろすと、曲が途切れるのを待ってウィルタは、「トゥンバさんには、お願いしたの」と、ホーシュに声をかけた。
逡巡しながらもホーシュが首を縦に振る。しかし表情は優れない。
ホーシュは、トゥンバ氏に自分を町まで連れて行ってくれるように頼んだ。ところが氏は「両親が同意するなら構わないが」と、やんわり断ったという。
なるほどとウィルタは頷く。考えてみれば氏の対応は当たり前だ。こっそり子供がいなくなってしまったら、ホーシュはいいとしても、トゥンバ氏は人攫いになってしまう。
ウィルタはてっきりホーシュが両親に話したものとばかり思っていたが、ホーシュはまだ打ち明けていなかった。反対されるのが恐いのだ。だから氏の了解を取りつけ、それを口実に話を切り出すつもりだったのだろう。
じっと操縦席の前、夜の砂漠を睨みつけているホーシュに、ウィルタが聞く。
「それでどうするの、明日の朝にはトゥンバさん、出発しちゃうんだろう」
「うん、いつもそうだから……」
ホーシュは渋るように黙った。どうやら両親に話す決心がつかないらしい。
ホーシュは思っていた。
自分はこの二年、毎日電鍵放送に耳を傾けてきた。だから母さんは論外として、週に二三度しか電鍵放送を聴かない父さんと比べても、自分の方が外の世界のことには詳しい。それは自信を持って言える。でも、いざ外の世界に出て行くとなって考えると、自分が見たことのある世界は、岩船屋敷の周りだけなのだ。自分がこの足で出かけた世界は、せいぜい歩いて半日の世界でしかない。
黙りこんだホーシュに、「分かってくれるさ」と、ウィルタが励ます。
ホーシュが首を振った。
「違うんだ、うちの両親はいい親だよ。ほかの親を知らないから、なんだけど……。
確かに父さんは頑固だ。でもぼくがどうしてもって頼めば、だめだとは言わないと思う。それに母さんは、父さんが決めたことには反対しない」
「なら、いいじゃないか」
前を見ていたホーシュが、ウィルタの方に顔を向けた。目が半分泣き顔になっている。
ホーシュが焦れたように口を開いた。
「両親が了解したら、それで本当に決まってしまうんだ。ぼくは生まれてから一度もこの家を離れたことがない。家だけじゃない、この砂漠もだよ」
ようやくウィルタは理解した。
ホーシュは家を離れることを不安がっているのだ。それはウィルタにも分かるような気がした。やってみたいこと、夢はあっても、実現するには解決しなければならない問題が山ほどある。子供にとって、それは行く手を阻む巨大な壁だ。どこへ行くのか、どうやって生活をしていくのか。もちろんお金をどうするのかということも含めて、親元を離れる以上、全てを一人で決め、一人で生きていかなければならない。
そのことを考えて不安にならないというなら、嘘だろう。
ウィルタは思う。自分だって事の成り行きで、押し出されるようにして住み慣れたシクンのミトを離れた。そして一歩違えば命を落としてしまうような旅を始めた。
なんとかここまで旅を続けて来られたのは、父さんに会うという目的よりも、春香という連れがいたからのような気がする。もちろん、そんなことは恥ずかしくて、春香には言えないけれど……。
大変なことばかりだったけど、それでも旅に出て良かったと思う。このひと月だけでも、これまでの人生に匹敵するくらいの経験ができた。いつになるか分からないけど、父さんや、ユカギルのタタンや、曠野のどこかにいるシーラさんやミトの仲間たちに、自分の体験を話すことができる。そのことだけでも旅に出た甲斐はあったと思う。
ホーシュの場合、知らない世界に行って、いろんなことを見て、体験して、それから妹の体を治すための勉強を始めるのでも、遅くはないだろう。もしかしたら、治療法なんて見つからない可能性の方が高いのかもしれない。それでも外で見て経験したことをアチャに聞かせてあげるだけでも、この家を離れる価値はあると思う。
格好良く言えば、歩き始めれば道はいくらでも見えてくる、そういうことだ。
ウィルタが自信を持った口ぶりで、ホーシュに話しかけた。
「大丈夫、なんとかなるよ。ぼくを育ててくれた人がいつも言ってたんだ。迷ったら、とにかくやってみなさいって。問題はじっとしてたって解決しない。もしやってみて間違ってたら、やり直せばいい。歳を経ったら、そういう生き方はできなくなるけど、若いうちはどんどん失敗して前に進みなさいって。やらずに悩んで後悔するのが、一番つまんない生き方だって」
ウィルタは断言するように言った。ただ自分では、ちょっと格好をつけ過ぎたような気がして、「まあ、養母のおばさんには、いつもそういう風に、生きることは何かをやることなんだって言われて、家の仕事を手伝わされてたんだけどね」と、照れながら付け加えた。
強ばった表情のホーシュから少しだけ緊張が取れた。
ウィルタが元気付けるようにホーシュの肩を叩いた。
「ぼくも育った土地しか知らないけど、旅に出てしまったら何とかなってるもん。良かったら一緒に旅をしようよ。旅をしてるうちに何か見つかるさ」
顔を上げたホーシュの視線の先、砂漠の地平線に星が流れる。
ホーシュの息を吸う音が、ウィルタにも聞こえた。
「ありがとう、タタン。やっと決心がついた、やってみる」
そう宣言すると、ホーシュは弾みをつけるように勢いよく椅子から立ち上がった。
ウィルタとホーシュが花屋敷に戻ると、子供たちは寝室に追いやられ、大部屋は大人たちだけになっていた。チャビンが、ドアを開けて入ってきたホーシュを手招きした。
チャフィーから話を聞いた時、夫妻はすでに決心をしていた。いずれこういう日が来るだろうことは、覚悟していたのだ。
ホブルとチャビンの夫妻は、ホーシュが出て行くことを許すつもりだった。ただ、まだ何人も弟や妹がいる以上、経済的な支援はできない。一年に一度はトゥンバ氏に手紙を託すこと、五年後に一度ここに戻ってくること、それを条件にしようと考えていた。帰って来てその後どうするかは、ホーシュの自由、ホーシュ自身の判断に任せるつもりだった。
子供たちは寝室に戻っていた。けれども寝ている子供は一人もいない、全員が上の大部屋から漏れてくる話し声に聞き耳をたてていた。チャフィーが長兄のことを、姉、弟、妹たちに話したのだ。だからみな、話し合いの結果が出るのを固唾を呑んで待っていた。それもそのはず、兄ホーシュの問題は、いずれ自分たちの身にも降り掛かってくる大切な問題だったからだ。そして結論は出た。
ホーシュが話をすると、両親は予め決めていた条件をホーシュに言い渡した。
ホーシュが頷く。それで一人の男の子のこれからが決まった。
じっとしていることに耐えられなくなった次女のチャフィーが、姉のチャミアの制止を振り切って、ベッドから起き上がり、足音を殺して階段の上へ様子を見に行く。追いかけるように、ほかの子供たちも続く。大部屋では、堅い表情のホーシュを囲んで、両親とトゥンバ氏が穏やかな表情で話をしていた。春香とウィルタもその横に座っている。
ホブルが階段の戸口から顔を覗かせた子供たちを見つけ、「なんだ、お前たち、まだ寝てなかったのか」と、驚いたように膝を打った。
「それより父さん、お兄ちゃんは、ここを出て行くの、行かないの?」
次女のチャフィーが、手を握り締め尋ねる。
「まったくお前ら、聞き耳をたてるなんてのは、行儀のいいことじゃないぞ。ホーシュは、明日の朝、トゥンバさんと一緒にここを出ていく。外の世界は、岩船みたいにのんびりした世界じゃない。その厳しい世界に行って、いろんなことを勉強するんだ」
「もうここには戻ってこないの?」
長女のチャミアが心配そうに聞く。
「それは、ホーシュ次第だな。ホーシュは長男のくせに気が弱いから、すぐに戻ってくるさ。それに妹と喧嘩もしたいだろうし、なあホーシュ」
ホーシュが捨て鉢な声をあげた。
「戻るのは五年たってからだよ、それまでは、意地でも戻るもんか」
「五年!」と、一斉に子供たちが叫んだ。家を離れるといっても、半年か一年くらいだろうと思っていたのだ。四才のアチャが、五年も会えなくなると聞いて、ワッと泣きだした。
ほかの子供たちも競うように泣きだす。
「おいおい、そんなみんなして泣くことはないだろう。いずれお前たちだって、ここを離れることになるんだから」
父親の言葉に、次女のチャフィーが目を怒らせた。
「わたしは離れないもん、お兄ちゃんみたいに薄情じゃないもん。いつまでも父さんと母さんの側にいるもん」
「なんだよ、その言い方はないだろう、俺だって……」
言い返そうとしたホーシュを「まあまあ」と言って宥めると、ホブルは隣に座っているチャビンに提案した。
「チャビンさん、どうだろう、家族全員が揃っているんだ。ホーシュの出立の祝いを兼ねて、甘茶を入れるか」
「あら、珍しい」と、チャビンが目で夫を笑って、甘茶を入れる準備に立ち上がった。
そして「あなたが、手伝いなさい」と、チャフィーの頭をコンと叩いた。
チャビンの後ろを追いかけるように立ち上がったチャフィーが、ホーシュに向かって思い切り舌を突き出す。
「お兄ちゃんには、口がひん曲がるくらい苦いのを入れてあげるから」
憎まれ口を叩く次女の耳をチャビンが引っ張り、仕切りの向こう側に姿を隠す。
それを目で追いかけながら、トゥンバ氏が「チャフィーちゃんも、喧嘩相手が減って残念だろう」と、ひとしきり乾いた笑い声をあげた。
しばらく後、一同の前に湯気を立ち昇らせる熱々の甘茶が並んだ。みなでその甘茶をいただく。甘いが、それは涙の混じりそうな複雑な味に思えた。
一頻り皆が甘茶に口をつけたところで、ウィルタと春香がホブルに目配せをした。
実は二人は、夕方の段階で、自分たちを砂漠の外の町まで連れて行ってもらえるよう、トゥンバ氏に同意を取りつけてあった。夫妻にもそれを伝え、ホーシュの件がはっきりするのを待って、子供たちに公表して貰うよう頼んでおいたのだ。それが公表される。
ホブル家の子供たちにとっては、兄が家を離れるという事が余りに突然で大きな問題だったので、春香とウィルタのことは父親からの説明に静かに頷くだけだった。
子供たちが表情を崩したのは、春香とウィルタの送別の意味を込めて、二杯目の甘茶が運ばれてきた時だ。一斉に歓声が上がった。どうやら一度に二杯の甘茶を飲むのは、初めての経験だったらしい。
遅い夜のお茶会、ホーシュの送別会が行われた。
お別れと感謝の気持ちを込めて、春香が歌を歌う。ホーシュも骨笛を吹く。当分聞くことができなくなるのだ。兄弟たちが次々とせがむように曲をリクエストし、骨笛の音に合わせて皆で合唱。トゥンバ氏は数曲聞いただけで、読経を口実に部屋に下がったが、その後も笛と歌は続いた。遅い時間だったが、もちろんホブルとチャビンの夫妻は何も言わなかった。
宴の最中、春香はそっと座を下がり外に出た。
砂漠の夜は寒い。水を入れたタンクが花屋敷の岩の上に置いてある。そのタンクから水が漏れているのか、家の戸口に氷柱がぶら下がっていた。
中天近くに浮かんだ月を見上げつつ、春香が鼻をすする。
脇でウィルタが呟いた。
「いいよな自分のために歌を歌い、泣いてくれる家族がいるって」
「いいじゃない、ウィルタにはお父さんがいるんだから。わたしなんて……」
その言葉にウィルタが抗う。
「顔も覚えてない父親だよ、今のぼくには、春香が家族みたいなもんさ。まっ、それにシロタテガミを加えてもいいけど」
「あーっ、忘れてた。シロタテガミに報告しなきゃ」
春香は家の裏手に走った。足音を聞きつけたのか、シロタテガミが不機嫌そうに首を持ち上げる。そのシロタテガミの耳元で春香が言った。
「明日出発するからね、その首輪も、もうちょっとの辛抱だから」
シロタテガミがブルッと鼻を鳴らして答えた。
「分かったから耳元で喋るな。おれはオオカミだぞ、山向こうの針が落ちる音だって聞き取れる。耳元でそんな大声で喋られたんじゃ、逆に何を言っているのか分からん。もう一度、小さい声で言ってくれ」
「明日、出発、する、の」
春香が一言一言区切るように言う。
ところがシロタテガミはフンと鼻を鳴らすと、「よく聞こえん、もう一度」と唸った。
「明日出発、分かった?」
「んーっ、よく聞こえんなあ」
「もう、聞こえてるんでしょ、明日出発するの!」
「アハハハハ」
横で、ウィルタが腹を抱えて笑った。
その夜、歌い疲れた子供たちを寝かしつけると、ホブルとチャビンの夫妻は、寝静まった砂漠の中の家の四階、光房の絞り込んだ月明りの下で、冷めた苔茶を飲んでいた。
チャビンは、明日ホーシュに持たせる荷物を作っていた。
「自分で行くと言ったんだ、何もしてやる必要なんてないさ」
ホブルが突き放したように言う。
「でも、これが最後になるかもしれないし……」
「何もやってやらないことが、あいつのためになるんだ」
苛立った夫の物言いにも、チャビンは手を止めなかった。そして丁寧に衣類を畳むと、「あの子、ここに戻ってくるかしら」と呟いた。
どこから出してきたのだろう酒の入った小瓶を、ホブルは苔茶に傾けていた。
アルコールの香気を漂わせるコップを手にしながら「そんなことは、分からん」と、ホブルが声に怒りを滲ませた。
「子どもが親許に戻るかどうかなんてことが、分かるはずがない。親は子供の気持ちが分からんし、子供は親の気持ちが分からん、そういうもんだろう」
親であることの寂しさを呑み干すように、酒を垂らした苔茶を喉に流し込むと、
「あいつがここを出たいという気持ちはよく分かる。それに一度は出た方がいいんだろう。外の世界でいろんな連中に会うことも、あの年令では必要なことだからな。ここの生活は苛酷だ。その苛酷さの楽しさが分からない限り、ここでの生活は続かん。外の世界を経験して、ここの楽しさが分かれば、いずれ戻って来る。そう思わんか」
「そうですね」
肯定とも否定とも取れる口ぶりで、チャビンが返事をする。
そしてしばらく間を置くと「そうですね……」としみじみとした声で、チャビンがもう一度その言葉を繰り返した。
砂漠の中にポツンと置き去りにされたような家での、最後の夜が過ぎていった。
第四十話「隊商」・・・・第四十六話「ガラスの森」・・・・




