トーカ郷
トーカ郷
夜の七時、ホブル家の子供たちは、すでに階下の子供部屋に下りている。
物を燃やすことのない暮らしのため、煮炊き同様、夜の照明にも風力発電の電力が用いられる。白灯が十個ほど常備され、夜間そのうちの三つに明かりが灯される。春香から見て、家の中に照明が三つというのは、いかにも暗く見えるが、砂漠の中の孤立した暮らしでは、匣電も鉱石球も簡単には補充のきかない貴重品で、不要不急な照明は灯さないというのが、ホブル家の決まりになっていた。
この夜間の照明が必要最小限に抑えられているのに対して、暖房は温水暖房によって、冬季でも部屋の中が凍りつくことがない。ガラス室を温める温水が、住居の花屋敷にも循環するようになっているのだ。
春香はまだ体が完調とは言えず、夕食が済むと直ぐベッドに横になった。今夜もアチャが横に潜り込んできた。子供たちが静かになると、花屋敷のなかにも、風車の回る音や、クックルの塔の鳥たちの寝言のような鳴き声が聞こえてくる。
先ほどまで白灯の灯っていた大部屋も、今は天井の組ガラスを通して差し込む星明かりにぼんやりと照らされるだけだ。その暗い大部屋に代わって、光房中央の作業台が仄明るい。昼間太陽を追尾していた集光器は、夜間太陽に替えて月を追いかける。五枚の椀型の凹面反射鏡で月の光を集め、レンズを通して、月光の二百倍の照度にして光房に取り込んでいるのだ。月の明るい夜は、白灯ではなく月明かりが照明だった。
星明かりでも同じことができれば良いのだが、残念ながら星明かりだと、百万倍よりもっと光を絞り込まなければ照明に使えない。ただそこまで絞り込むと、今度は照らせる範囲が極端に狭くなってしまう。
ちょうどこの時間、東の空に昇ったばかりの月の光を集めて、作業台の上が手元の見える明るさに照らし出されている。その仄明るい作業台を囲んで、ウィルタはホブルから靴の修理の仕方を教わっていた。台の向かい側では、チャビンが刺繍作りに余念がない。
根を詰めて針を動かすチャビンが、手を止め、窓越しに裏の岩船に目を向けた。
岩船の先端で、白灯がポツンと冴え冴えとした光を放っている。
「ホーシュか」と、ホブルが話を誘う。
「ええ、弟たちと遊ぶくらいなら、岩船で電鍵放送を聴いていた方がましだって……」
凝った肩を片手で揉み解すチャビンに、ホブルがボソリと答えた。
「弟や妹とじゃれあうのが面倒に思える年頃なのさ」
「そうかしら、他の子供たちは、電鍵放送なんか耳が痛くなるだけだって見向きもしないのに、あの子だけは嬉々として聞いているのよ。あの子、電鍵放送を聴くようになって、変わった気がするの。大部屋で皆でお喋りしながら作業をしている時だって、ほとんど話の輪に入ろうとしないし」
「世の中には、人と話すことよりも、一人で考えることが好きな人間がいるもんだ」
突き放したような言い草である。
チャビンは針箱に針を戻すと、非難がましい目を夫に向けた。
「あなたも以前は私そっちのけで電鍵放送を聞いてたわよね」
痛いところを突かれたホブルが言い返そうとした時、手元でブチッと嫌な音がした。毛長牛の腱の糸が切れたのだ。「まったく」と、ホブルが肩で嘆く。
革を縫い合わせるための腱の糸も、チャビンが刺繍に使う角羊の細糸も、砂漠の暮らしでは簡単に手に入らない貴重品である。
ホブルは縫いさしの革を台の上に置くと、暗い窓の外に目を投げた。
蝉の脱け殻のような岩船の先端、操縦室の前に常夜灯として白灯が灯されている。遮るもののない夜の砂漠では、光は遙か遠くまで届く。それを念頭に、ホブルが砂漠で旅をする人たちのために、夜の里程標代わりに取り付けたものだ。
その常夜灯から零れた明かりが、一部岩船の操縦室のなかにも差し込む。
作業をするには暗いが、それでも貴重な明かりで、それを目当てにホーシュは毎夜岩船に入り浸っていた。
母親が気を揉んでいるその同じ頃、岩船の操縦室では、ホーシュが苛々した顔で機械をいじっていた。耳にはイヤホンらしきものが押し込んである。
二年前のこと。ホーシュは岩船の天井を修理していて、緩衝材の間に突っ込まれた計算機のようなものを見つけた。父親の持っている魔鏡帳に似ているが、手の平サイズと小さく、それに画像を映し出す鏡面が割れていた。
父親の魔鏡帳の外装には、かつてこの砂漠で大国をなした満都のマークが刻印されている。対して手にした魔鏡帳モドキには、見たことの無い文字や記号……。
この岩船は地上と宇宙を結ぶ古代の連絡艇だ。もしやと思い魔鏡帳を匣電につないで、盤面に並ぶキーを押してみた。すると魔鏡帳モドキが鳴った。いや喋った。
いじってみて分かったのは、この小ぶりの魔鏡帳モドキが、古代の電子辞書らしいということだ。単語を打ち込むと、解説が音声として流れる。おそらく音声は副次的な機能で、本来なら鏡面、映像パネルに解説が画像として映し出されたのだろう。
鏡面が割れて画像が見られないのは残念だが、偶然手にした魔鏡帳モドキに音声解説の機能を発見したホーシュは、キーを叩いて音声を呼びだして遊ぶようになった。
そうするうちに、魔鏡帳の別の機能にも気づく。
見つけた魔鏡帳モドキに、電波の受信機能が備わっている事を発見したのだ。つまりこの機能を使えば、晶砂砂漠を統括するゲルバ護国の電鍵放送を受信することができる。
電鍵放送とは、言葉通り電鍵を使った信号音による放送、モールス信号のような放送である。以前も述べたように、無線での通信は、唱鉄隕石の発する兇電と呼ばれる妨害電波によって聞き取りが難しい。加えて電鍵音は信号音であるから、聞き取れても、それを意味のある言葉に翻訳しなければ、意味を持たない。
放送の内容を理解するには、雑音の中から落穂拾いのように信号を拾い上げ、かつ翻訳する一定の技能が必要となる。電鍵放送とは、誰もが享受できる公共放送ではなく、ハードルの高い放送なのだ。
それでもホーシュは、家に立ち寄る交易商人から信号音の解読表を入手したのを機に、その聞き取り、読み取りに挑戦、辛抱強く電鍵放送に耳を澄ませるようになった。
当初は聴き取った信号音を石盤に記録、後から言葉に書き換えていた。それが若さゆえの聴力の柔軟性もあってか、しばらくすると信号音が自動的に言葉に置き換わり、意味として頭に入ってくるようになった。そして驚く。電鍵放送で耳にする情報、それはホーシュにとって耳目を開かれるようなことばかりだったのだ。
閉ざされた砂漠の家族だけの暮らしのなか、突然、耳が外の世界に開かれた。
岩船屋敷では、毎日午前中に両親のどちらかが勉強を見てくれる。ところが算術や言葉はともかく、外部の事情に関しては、両親の話は古い内容がほとんど。母親のチャビンは特にそうで、そのことに気づいてからというもの、ホーシュは益々電鍵放送にのめり込むようになった。
電子辞書の解説音は古代の言葉なので、ホーシュには理解できない。ところが電鍵放送は違う。信号音さえ聞き取れれば内容が分かるのだ。大陸各国の動向、発掘品の相場市況、盗賊たちの引き起こす過激な事件、何を聞いても新鮮で胸躍る話ばかりだ。
電鍵放送を聞き取ることができるようになると、ホーシュは一人で楽しんでいるのはもったいないと、姉妹弟たちにも電鍵放送を聴くことを勧めた。ところが姉妹弟たちは、イヤホンを耳に当てたとたん、頭を突き刺す兇音に顔を歪めてしまった。誰も兇音を我慢してまで電鍵放送に耳を傾けようとはしなかった。そして嬉々とした顔で電信音に耳を澄ませる兄を、奇異な目で眺めるのだ。
その頃からだったと思う。姉妹弟たちとの間に溝ができたのは……、
元来が一人でいることの好きだったホーシュは、姉妹弟たちと離れて、岩船の操縦室にこもるようになった。長男として弟や妹の面倒を見なさいと、両親から注文をつけられている。だから昼間は弟や妹たちと過ごすが、夜になると操縦室に足を運び、電鍵放送の時間になると、いそいそと魔鏡帳に電源をつなぐのだった。
そうやって二年が過ぎ、つい一週間前のこと。
魔鏡帳に不具合が発生した。まず辞書の機能が使えなくなった。古代語の音声解説など、どうせ意味が分からないからと高をくくっていたが、嫌な予感はあった。やがてそれが現実のものに。電鍵放送の電波が途切れ途切れにしか受信できなくなる。外装を外してみるも、光の世紀の精密機器、とてもホーシュの手に負えるものではない。
いまや魔鏡帳は自分の分身、それが壊れてしまうかもしれない。その不安と苛立ちが、甘茶に絡んだ春香へのきつい一言になってしまったと、ホーシュ自身は考えていた。
そして今夜、ついに愛用の魔鏡帳が壊れた。
修理できないかと弄っているうちに、部品が割れたのだ。聴こえていた音が、底なしの井戸にでも落ちていくようにスーッと絞り込まれ、最後プツンと消えてしまった。家族だけの暮らしで人の死というものに立ち会ったことのないホーシュだが、その時は壊れたのではなく、機械が死んだと、直感としてそう思った。
ホーシュは耳からイヤホンを抜いた。我慢しようとしたが目から涙が溢れてきた。
突然襲ってきた孤独感、寂寥感を紛らすように、ホーシュは幼い頃から慣れ親しんだ骨笛を手にした。
チャビンは刺繍の道具を片づけると、寝室のある下の階へと下りていった。
光房は、ホブルとウィルタだけになった。
ホブルと肩を並べるようにして、ウィルタは自分の靴を修理していた。硬い革を成形しながら縫うのは難しい。たどたどしい手つきである。しかしホブルはやり方を教えるだけで、あとは手を貸さない、時々助言をするだけだ。ウィルタは不思議な気がしていた。生まれてこの方、年配の男性と向かいあって夜を過ごすのは初めて。夜の思い出は、いつもシーラさんとだった。もし父さんと暮らしていたら、こういうのが当たり前だったのだろうか。奇妙な感覚の時間が過ぎていく。
ウィルタが切れた腱糸を繋ごうとして顔を上げると、ホブルは春香の靴の修繕を終えて、家族の靴の修理に取りかかっていた。
ちょうどその時、ホーシュが花屋敷に戻ってきた。
大部屋の作業机の上には、お茶の入ったポットが置いてある。ホーシュは、就寝前にそれを飲むのを習慣にしている。そして階段を上がり、大部屋の扉に手をかけようとして、ホーシュは中で人の話し声がしていることに気づいた。
父親と、砂漠で助けた少年の声だ。
ウィルタは、ホブルが作業の手を止めるのを見計らって声をかけた。
「ホブルさんは、どうしてこんな何もない所に住んでいるんですか」
何度も人から問われた事なのだろう、ホブルは慣れた口調で、「タタンくんの目には、ここが何もない所に見えるようだね」と問い直した。
ウィルタが恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ごめんなさい、そういう意味で言ったんじゃないんです。ぼくが聞きたかったのは、どうして砂漠の真ん中に、ポツンと家族だけで暮らしているのかなって……」
いずれ聞かれると思っていたのだろう、ホブルは軽く目をしばたくと、用意していた答えを口にした。
「一言で言えば、ここしかなかったんだよ、家族全員が一緒に暮らせるところが」
もちろんそれだけで理由が分かるはずもない。針を持つ手を止め、説明の続きを期待するウィルタに、六児の父親は続けた。
「理由はただ一つ、この家の女性たちが、火炎樹からできた食物を受け付けない体質だからということなんだ。つまり、今の時代の人たちが主食としている餅という食品が食べられない。生まれた時から、そういう体質でね。餅を食べると体がアレルギー反応を起こして、酷い時にはショック症状に陥ってしまう」
チャビンさんに会うまで、ホブルは、そういう体質の人がいることを知らなかった。でもチャビンさんを好きになって結婚、意外とそういう人がたくさんいることに気づいた。晶砂砂漠の周辺でいえば、乾燥曠野に暮らしている少数民族のアハウと呼ばれる人たちがそうだ。彼らは決して餅を食べない。表向きには土俗の宗教上の理由で餅を食べないとされるが、体質的に餅を受け付けないというのが本当の理由だ。
ウィルタは、シクンの人たちが餅を食べることをタブーにしていたことを思い出した。
自分が町から持ち帰った板餅を、ユーレンカが子守りを任されていた幼児が口に入れ、大騒ぎになった。ミト長のインゴットさんは、顔を真赤にして、ウィルタが『食べず、持ち込まず』という一族の掟を破ったことを怒っていた。
ホブルが、餅という食べ物が何であるかを説明する。
『餅』という食べ物は、人類が存亡の危機に直面した際に開発した、火炎樹という擬似生命体の樹液から作られる。それはある種、生き残るための非常食のようなものだ。少量でたくさんの人が飢えを凌ぐことができるようにと、素晴らしく栄養価の高い食物として開発された。今のこの凍てついた世界で、これだけの数の人が生きていけるというのは、餅という食品を抜きにしては考えられない。
しかし餅の栄養価の高さが、ある種の人たちにとっては体の負担になる。人を生かすための食品、言い換えれば、餅という食品は飢餓に処方する薬のようなもので、非常時には問題がなくとも、常用すると人の体を依存体質へと導く怖れがある。強い薬が効能の裏に、副作用と、過敏に反応してしまう人を生み出す危険性を内包しているようにだ。
餅を食べると体が異常な反応を起こしてしまう一群の人、それがシクンの人々であり、チャビンの母親の一族だった。餅を食べない習慣の人たちは、例外なくそういう体質の人と考えて良い。
問題を複雑にしているのは、そういう人たちの全てが、餅に対して過敏ではないということだ。チャビンさんの一族で言えば、女性の二五パーセントが発症、男性はごく希に、ほんのコンマ数パーセントの人が発症するだけだ。だからホブルは、チャビンがその症状を持っていないことで、問題を深く考えていなかった。
風車の技師であるホブルは、渋るチャビンを説得して結婚。揚水用の風車で有名なドゥルー海東海岸の町で暮らし始めた。それだけなら特に問題はなかった。ところが娘が生まれる。長女のチャミアだ。そのチャミアに餅の過敏症が出た。
この時代、餅を食べることのできない人は非常な苦労を強いられる。家畜と共に生活している人たちにして、食べるものは乳製品が半分、餅の関連食品が半分である。それは魚を主食にしている人たちも同じようなもので、全く餅を食べずに暮らそうとすれば、シクンの人たちのように、苦労して星草などの天然の食材を集めて来なければならなくなる。
町で生まれ育ったホブルには、とてもその真似はできそうになかった。
間違って餅を口にしたチャミアは、全身に発疹が現れ吐血した。母親のチャビンが餅を食べると、母乳にもその成分が含まれるらしく、痙攣を起こしてしまう。幼児期は牛の乳を飲ませて育てることもできる。しかし離乳した後、いったいこの子に何を食べさせればいいのか。チャビン自身は、アハウの母と、町人の父の間に生まれた子だが、両親が町の暮らしをしていたために、すでにアハウの人たちとの繋がりは切れている。チャミアを連れて曠野に戻るのは無理。かといって風車技師のホブルに、辺境の曠野の地で暮らす技はない。
どうやれば家族が一緒に暮らしていけるか。安心して食べられるものが得られる良い方法が、どこかにないものか。必死になってそれを探していた時、旅の商人がホブルの家に織物を売りに来た。偶然ホブル・チャビン家を訪れたその初老の男性は、旅の行商で各地を回っていると自身を紹介。それを聞いてホブルは、商品のことそっちのけで、悩みの相談に乗ってもらった。
その織物商の男性が耳寄りな情報を教えてくれた。晶砂砂漠に古代の宇宙船を改造した家があり、そこの住人が、自分が引退した後、住んでくれる人を探しているというのだ。砂漠の家のガラス室では、世界の生き残りの植物が栽培され、自給自足の生活をすることができるようになっているという。願ってもない話だった。
「ここには先代がいた」
「先代?」と首を傾げたウィルタに、ホブルが大きく頷く。
つまり、ここの施設を作ったのはホブルではない。
八十年ほど前のこと、交易商を営む女性が、砂漠の真っ只中で、地上と宇宙を結ぶ古代の連絡艇を発見した。連絡艇は不時着したものらしく大破していたが、何を思いついたのか、彼女は連絡艇に住み着くと、そこに残されていた資材を自身の交易ルートを使って売り払いながら、あるものを作り始めた。それがこの砂漠で通称『岩船屋敷』と呼ばれる施設。花屋敷や、連絡艇を改造したガラス室や、三基の塔や、温水暖房の設備などだ。
何のために彼女はこの岩船屋敷を作ったのか。
彼女は、二千年前の『緑の死』の災厄を生き抜いたものの、本来の形を留めないほどに変わってしまった植物を、元に戻すことが出来ないかと考えていた。その実験の場としてここを作った。もっともその目的を彼女がはっきりと自覚するようになったのは、後々のことで、施設を作った当時、彼女は、とにかくこの世界に残っている植物を集めて、ここに緑の楽園を作ろうと考えていた。彼女は『トーカ郷』と呼ばれる緑と花の楽園に憧れていた。古代の言葉で書けば桃花郷である。
ところが実際にそれをやり始めて、彼女は知る。いかにそれが難しく、かつ時間を要するかということを。そこでトーカ郷への遠い道程の第一歩として、当時二十五才だった彼女は、姿を変えてしまった植物たちを本来の姿に戻すという作業を始めた。
あっという間に月日は流れる。
彼女は、ただひたすら砂漠のなかの孤島のような場所で、七十二歳の誕生日、ホブルが仕事を引き継ぐその日まで、半世紀に渡って植物の改良を続けた。
トーカ郷にはまだ程遠い状態だが、それでも成果は着実に現れている。
チモチの瓢箪芋は毒抜きの手間が半分になり、星草は十六代の交配を繰り返した結果、光を発しなくなった。あと百年も交配を続ければ、どちらも苦労せずに調理して食べることのできる作物になるだろう。
ただ七十を過ぎた彼女にとって、それを完遂することは不可能だ。そのことを十分に理解していた彼女は、自分の事業を誰かに引き継いでもらおうと、後継者を探し始めた。ところが絶海の孤島のような場所である。それに砂漠の民は植物を育てることになど目もくれない。後継者を探して八年、未だ良い人材に出会えていない。このままでは、自分の引退と共に、ここの施設も閉じるほかない。そう思って暗澹たる気持ちに陥っていた時、旅の商人から話を聞いたというホブルが訪ねてきた。ホブルが風車技師だったということもあり、とんとん拍子に話は進む。双方にとって渡りに船の出会いだった。
ホブルは、彼女とバトンタッチをするように、家族を連れてここに移り住んだ。
当時のことを思い出したのか、ホブルが懐かしそうに天を仰ぐ。そして羽織ったチョッキに手を滑らせた。擦り切れてはいるが、麦穂織りの柔らかな生地のチョッキである。砂漠の家のことを教えてくれた旅の商人、その人から買った生地で作ったものだ。
ホブルが感慨深そうに話す。
「その旅の商人との出会いがなければ、ここの事を知ることもなかったろう。だから本当に感謝している。もういい年配の方だったから、生きてらっしゃるかどうか分からないが、子供が手を離れれば、妻と一緒にお礼に行きたいと思っている」
「どこの方なんですか?」
「ユルツ連邦のユカギルという囲郷から来たとおっしゃっていた。そういえば、タタン君は隣町のベリアフの出身だったね。その年配の男性は、商売がてら世界の様々な土地を訪れていると話していた。そう、君がセーターの下に吊しているメダル、それと似たものを持っていたことを覚えているよ。珍しいものを見つけたから、これは孫へのお土産にするんだと、嬉しそうに話していらした」
ホブルは悪戯っぽく笑うと、
「確か家は宿屋をしていて、お孫さんの名前は、タ……」
まさかと思いながら話を聞いていたウィルタは、思わず身を堅くした。
そして「ごめんなさい、ホブルさん、ぼく……」と、消えいるような声を出した。
下を向いてしまったウィルタに、ホブルが飄々と話す。
「砂漠のなかに住んでいると外の情報に疎くなりそうだが、実はそうでもない。夫婦の寝室には電鍵放送の受信機が置いてあってね、放送の時事コーナーを聞いていれば、外の世界の大まかな動きは掴むことができる。だからユルツ国がユカギルに押し入って熱井戸を接収したことも、懸賞金を懸けて人を探していることも、一応耳には留めてある。
だから君とあの少女を砂漠で発見した時、もしかしたらそうじゃないかと思った。でも別にぼくは君を捕らえようとは思わないし、そんなことに興味はない。元気になって旅を続けてくれたらと、そう思っている」
ホブルがウィルタの胸元に目を向け微笑んだ。
「でも君がそのメダル、あの方は紡光メダルと言ったかな、それを持っているのを見て、おまけにタタンと名乗っていることで、やはり一言、昔の話をしたくなったということなんだ」
ホブルの柔らかい物言いのおかげで、恥ずかしい気持ちが少しだけ和らいだように思う。
それでもウィルタは言い訳をするように「タタンは、ぼくの友人で」と、これまでの経緯を説明した。
タタンの祖父が亡くなったことを聞くと、ホブルは心底残念そうに肩を落とした。
「ごめんなさい、嘘をついてて」
ウィルタがペコリと頭を下げると、ホブルは励ますようにウィルタの肩を叩いた。
「謝ることなんかない。それより、おじさんは嬉しいな。家族にとって恩人にあたる方、その方に縁のある人の命を救うことができたんだからね。砂漠の真ん中で出会うことができただけでも、奇跡といって言いような気がするよ」
「誰かが導いてくれたんでしょうか」
ウィルタは、思わずそう口にした。言われてみればそうだ。人は巡り会うと言うけれど、現実の世界にそんなドラマチックな出会いがゴロゴロと転がっているはずがない。きっと神様が悪戯心を起こしたのだ。でも嬉しい悪戯だ。
ホブルもそう感じているのか「ああ、きっとな」と、感慨深げに言った。
ウィルタは改めるように姿勢を正すと、
「あの、ぼく本当の名前は、ウィルタっていいます、それから、連れの女の子は……」
ホブルが、ウィルタの告白を手で遮った。
「君の名前はタタン君のままにしておこう。チャビンも子供たちも知らないんだし、今から名前を変えるのも変だろう。それにこれからの事を考えたら、早く偽名に慣れておいた方がいい。それに君はタタン君の夢を紡光メダルと共に託されたんだろう。だったら君の中にタタン君が住んでいるようなものだ。君がタタンと名乗るのも、あながち嘘じゃない」
ホブルの心配りに、ウィルタはコクンと頷いた。
ただ二人は気づいていなかったが、二人の会話を階段の途中でホーシュが聞いていたのだ。二人の会話が途切れると、ホーシュはそのまま階段を下りていった。
話に一区切りついたと思ったのか、ホブルは立ち上がると、光房の壁に歩み寄った。
光房の一角、壁を刳り貫いたドアを開けると、中が小部屋になっている、光房よりもずっと天井が高く、びっしりと機械で埋め尽くされている。集光器の向きや角度を、太陽の移動に合わせて動かすための装置だ。金属の錆と機械油の匂い、それに無数の歯車や脱進機のたてる軋みや擦れの音が、虫の囁きのようにあちこちから聞こえてくる。錐のように細い螺旋階段が、機械の狭い隙間を縫って天井に伸びている。
ホブルに促されてその階段に足をかける。
螺旋階段を半回り上ると、人の背丈ほどもある金属製の分銅が目の前に現れた。見上げると、もう一個ある。二個の分銅が、狭い空間を貫くように、天井からワイヤで吊り下げられている。
「錘が下に降りる力を利用して、機械が動く仕組みなんだ」
屋上に設置された五個の反射鏡を動かすための動力が、この分銅だった。
一日の間でもそうだし、年間を通してもそう、太陽は刻々と高度や方位を変える。その太陽を反射鏡で追尾するのに重要なのは、いかに正確に時間を計るかということだ。ここのシステムの核は、連絡艇に積み込まれていた水晶時計と、それに連動して動く機械式の錘時計、そこに反射鏡などの集光機器を動かす機構を組み合わせたものが、いま目の前にある複雑な機械仕掛けのからくりだった。
螺旋階段を更に上へ。
床と天井のちょうど中間、階段の踊り場に、巨大な歯車に挟まれるようにして、足踏み式の自転車が据え付けてある。週に一度、この自転車を漕いで、人力で錘を天井まで引き上げるという。その踊り場から見ると、右も左も上も下も機械、機械、機械。まるで自分が機械仕掛けの化け物の腹に、呑み込まれたような気分になる。
ホブルが自転車の横に並んだレバーの一つを倒した。止まっていた歯車の一つが命を与えられたように回り出す。と同時に、壁の外からも音。集光機が動いている。
ホブル家に来た時からウィルタは疑問に思っていた。それは集光器がなぜ五つなのかということだ。大きなものを一個の方が扱いやすいだろうし、動かす機構も簡単で済むのではないか。その疑問をホブルにぶつけると、ホブルが取り囲んだ機械を一瞥、「先代の趣味なんだな」と、いまさらながらの感想を口にした。
先代の女性はトーカの花を模して集光器をデザインした。
大きな集光器を一つ据え付けるだけでも良かったのを、動かす機構が複雑になるにも関わらず五個にした理由は、それ以外に考えられない。トーカ郷に憧れた。だからこそ集光器の外側を淡い桃色に塗ったのだ。先代の女性は、巨大な花弁の下で、いつの日かここがトーカ郷になることを夢見て過ごした。
螺旋階段を上り切ると、目の前に小さな正方形のドアが現れた。
「タタン君、君はさっき、ここを何もないところと言っただろう。確かに町にあるものは何もない。でも、ここにしかないものもある」
おもむろに、ホブルが四角い戸を開け、中に体を押し入れた。
そこは光房の屋上に突き出た透明な小部屋で、半球状のガラス鉢を被せたような空間だった。岩船屋敷のガラス窓が、どれもステンドグラスのように細かい組ガラスでできているのに、この人の背丈よりも少し高いガラスのドームは、継ぎ目ひとつ見当たらない。それどころか指摘されなければ、そこにガラスがあるのを忘れてしまいそうなほど、ガラスが澄み切っている。ツルツルスベスベのガラスだ。だからだろう三百六十度、一点の曇りもなく四方が見渡せる。
ちょうど目の高さに、反射鏡のすり鉢状の椀がある。先ほどホブルがレバーを操作した関係で、花びらが萎れたように内側に椀を折れ込みつつ動いている。
反射鏡の向こうは夜の砂漠、頭上は降るような見渡す限りの星空だ。
岩船と呼ばれる古代の宇宙連絡艇は、比較的最近、と言っても三百年ほど前にこの地に不時着したもので、無人のまま上空の衛星軌道を回っていたものが、自動航法で地上に帰還したものと考えられる。岩船が発見された時、内部には様々な機材、古代の遺物と評されるものが積み込まれていた。その貴重な品々を、先代の女性は、ここの施設を作り、その後五十年に渡って植物の改良事業を続けるなかで、資金作りのために売り払っていった。ホブルがここの事業を引き継いだ時、連絡艇に目ぼしいものは残されていなかった。その数少ないものの一つが、この半球体のガラスだ。
透明なのでついガラスと呼んでしまうが、実際は別の素材らしい。どういう用途のものかは不明だが、ほんの数ミリの厚みしかないのに、硬度や耐久性は分厚い硬化カーボンほどもあるという。それゆえ、ここに設置して八年になるというのに、表面に傷らしい傷ひとつ付いていない。ほかの組ガラスの表面が、砂漠の砂に擦られて磨りガラスになってしまっているというのにだ。
貴重な透明の半球体を、ホブルはこの光房の屋上に据えた。
あることをするために……。
ホブルが三畳ほどのガラスドームの真ん中に置かれた椅子を手で押さえた。横に、布を掛けた三脚が置いてある。ホブルが布を払うと、子供の胴体ほどの筒が現れた。
「もしかして、遠眼鏡……?」
「知ってたかい、そう遠眼鏡、まあ正式には反射望遠鏡というんだけどね」
これは連絡艇に残されていたものではない。風車技師の先達であったホブルの父親が、趣味で作っていたもので、それをホブルは遙々この砂漠の地に持参した。もちろん星を見るためにだ。
ホブルは子供や妻のチャビンが寝室に下がると、当人が星室と名づけた光房屋上の小さなガラスドームの空間で一人星を眺める。
ホブルは極軸合わせから光軸合わせまで、慣れた手つきで機械を操作すると、鏡筒の側面に突き出た接眼レンズを覗くよう、ウィルタを促した。
古代人の春香なら珍しくもない光景だったかもしれない。しかしそれはウィルタにとって、初めて見る星の世界だった。星の輝きは色に満ちている。
しばらく眺めていると分かる、その色とりどりの星が、レンズの中でゆっくりとずれ動いていく。いや星が動くのではない、自分たちのいる地球が動いているのだ。いやそれも違うだろう。レンズの中の星も動いているし、自分たちも動いている。
無数の星々は、皆この宇宙という空間の中で動いている。この世界に一点に留まっているものなど何もない。人の短い一生を尺度にするから、遠い星が止まっているように見えるだけだ。
今は売り払われて残っていないが、あの岩船に積まれていた荷は、宇宙を観測するための様々な機材だった。電波望遠鏡やX線望遠鏡に始まり、重力波を検出する特殊な装置まで様々。ごく普通の光学望遠鏡までが収納されていたという。古代の人々は、望遠鏡を使って飽きもせずに星を眺めた。いや星を見ることに執念を燃やした。それは太古の時代でもそうで、人は何千年に渡って星々を見上げてきたのだ。
そして今、光房の上にチョコンと突き出た目玉のような空間でも……。
ホブルが望遠鏡の側面についた小型の筒を覗き、星ではなく太陽系の惑星に焦点を合わせた。ホブルの頭のなかには、今この時、どこにどの惑星があるのか情報が詰まっているようで、いとも簡単にレンズの中に狙った惑星を捉えた。
偏平な拘束輪を付けられた惑星、奴隷星だ。グラミオド大陸ではこの星を奴隷星と呼ぶが、西の大陸では、あれを天国の輪と称して、天使星と呼ぶらしい。
ホブルは倍率を落とすと、望遠鏡のレンズを中天近くの明るいオレンジ色の星に合わせた。焦点を調整し計数盤横の時計に目を落とす。
「あと、三十秒ほどで通る」
言ってホブルが、レンズを覗いたまま待機するようウィルタに促す。
しかしレンズの中にオレンジ色の星はない。どうやらオレンジ色の星は、レンズの方向を定めるための座標らしい。
ホブルが「あと、三秒」と告げた直後、レンズのなかを黒い影が通り過ぎた。
一瞬「鳥」と思ったが、アヴィルジーンのようにも見えた。もっともアヴィルジーンなら光彩をまとっていなければならない。印象では、リング状のものが幾つか並び、左右に翼のようなものが伸びていた。
「古代の連中が天に打ち上げた人工の構造物らしい。定期的にあそこを通る。数千年も、ああやってこの惑星の周りを回っているんだ。光でも発してくれれば見つけるのも簡単なんだがね」
遙か上空を移動する物体を見ようとすると、レンズの視野の狭さがネックとなる。うまく追尾できる装置でも備えていない限り、ほんの一瞬それを垣間見るのが関の山。かといって目視では小さ過ぎて、上空に浮かぶ塵にしか見えない。
ホブルは望遠鏡でオレンジ色の星を眺めていて、偶然その翼を持った構造物を見つけたという。レンズから目を離して夜空を見上げても、その行方は分からない。見えない物が自分の頭上を飛んでいるというのは、あまり気持ちの良いことではない。
「何のためのものだろう」
なんとなく口にしたウィルタの疑問に、ホブルが頭上の星を見上げて言った。
「光の世紀、人は宇宙に進出しようとしていた。そのための拠点を地球の周りの宇宙空間に作っていたということだ」
「すごいな、宇宙に出ていくなんて」
「星の世界と地上を結ぶのが、いまガラス室として使っている岩船だったらしい」
レンズから顔を離したウィルタがアッと声を上げた。
狭いレンズの中を見ていたので気がつかなかったが、いつの間にか空に無数の光の玉が浮いている。アヴィルジーンだ。光彩をまとった光の翼が、古代の構造物の飛び交う天空の高みへと昇っていく。
「数千年を地中で過ごし、羽化すると、光の翼を広げて宇宙に旅立っていく生命体だ。人は良くも悪くも、この惑星のこと以上に想像の翼を羽ばたかせることができない。あの霊鳥は、宇宙の星と星の間を行き来する生き物だと言われている。おそらく人とは全く異なる肉体と意識を持った存在なんだろう」
ホブルと並んで、ウィルタもしばし光の翼をまとったアヴィルジーンを見上げた。
第三十九話「坊商」




