岩船屋敷
岩船屋敷
砂漠にキャンキャンというイヌの鳴き声がこだます。
そこに砂を踏む規則正しいキュッキュッという音が混じる。
「父さん、イヌだイヌが倒れてる。チャボが見つけたんだよ」
防砂外套をまとった男が、息子の声のした砂丘の裏手に向かうと、そこに砂に埋もれた四つ足の動物がいた。肩から上が辛うじて砂から覗いている。
「こいつは、イヌじゃなくてオオカミ、いやその中間のヤマイヌかな」
盛んに吠えたてる淡茶色の小犬を宥めながら、男の子が聞いた。
「死んでるのかな、父さん」
「確かめてみるかい」
父親のホブルが防砂外套の胸元を掻き分け、息子の前に腕を突き出した。手に鳥の死骸が握られている。渡りの途中に力尽きた水鳥だ。
「ホビィ、こいつをヤマイヌの鼻先に置いてごらん」
受け取った首の長い鳥を、息子のホビイがヤマイヌの鼻面に近づける。
と、ヤマイヌがガッと口を開け、鳥の首筋に噛みついた。
腰が抜けたようにホビィが尻餅を着いた。愛犬のチャボに至っては、砂丘の頂上にまで駆け上がっている。ただヤマイヌは、鋭い犬歯を鳥の首に突き立てはしたが、目は閉じたまま。手足もダランと伸び切って、とても生きているようには見えない。
気を取り直してホビィが、再びヤマイヌに這い寄る。そして恐る恐る水鳥の羽の先を掴んで引っ張る。しかし、よほどしっかり噛みついているのか牙は抜けない。押したり引いたりするうちに、後ろに逃げていたチャボが近寄ってきた。
そのチャボの鼻面に、「ワッ」と叫んで、ホビィがちぎれた鳥の羽を突き出す。
とたんチャボが、火がついたようにギャンギャンと吠えだした。
父親のホブルが、息子の頭を拳で叩いた。
「ホビィ、ヤマイヌは一度くわえた獲物は離さない。家に戻って、ホッジとホーシュに砂橇を持って来るように伝えてくれ。父さんは、チャボと一緒に、もう少し先まで様子を見に行ってくる」
息子にそう言い聞かせると、ホブルは手にした棒を目印のためにそこに突き立てた。
そして我を忘れたように吠える小犬を手招きすると、双眼鏡を片手に、緩やかに波打つ砂丘の先に向かって歩きだした。
黒髪褐眼黄土肌のホブルは、中肉中背のすっきりとした体格の持ち主である。すらりと伸びた鼻と、大きな耳、それに切れ長の目を配した面長の顔は、遠い昔砂漠にいた夜行性のキツネを思い起こさせる。その狐顔のホブルは、ヤマイヌの倒れていた場所から一時間ほど歩いた砂丘の底で、砂に埋もれた二人の子供を見つけた。周りの砂を掻き出し抱き起こして息があることを確かめると、ホブルは表情を緩めた。
チャボが短い尾を忙しげに振り、ホブルと二人の子供を交互に見やる。
ホブルの腕の中で、男の子が「ンッ」と苦しげな息をもらした。
「女の子の方が危ないか……」
二人を肩に担ぐと、ホブルは歩き馴れた道を辿るようにガラスの砂漠を引き返していった。
目印の棒を立てた場所では、ホビィと年上らしき二人の男の子が、父親が両腕に抱えているものを見て驚きの声を上げた。
「砂漠で迷ったんだろう。気を失っているが生きている。家に連れて帰るから、お前たちは、そっちのヤマイヌを橇に乗せて、運んでくれ」
そう言いつけると、ホブルは子供たちの先に立って歩きだした。
年上の二人が、ヤマイヌを乗せた橇を引っ張る。年少のホビィは、みなの帰還を知らせに行くのか、チャボと一緒に前方に駆けて行った。
半刻ほど歩くと、砂漠の中に黒い岩の台地が見えてきた。さらに半刻、一塊に見えていた岩の台地が、いくつかの低い岩山の集合体であるのが分かる。
右手の双子の黒い岩を目指す。
並んだ二つの岩の隙間を繋ぐように、ブロックが積み上げられている。縦に細長く積み上げられたブロックの重なり具合は、まるで巨大な砂虫の巣。ただそれよりも奇妙なのは、その天辺にピンクの巨大な花が咲いていることだ。実はこの花、お椀型の集光器が五つ放射状に並んだもので、集光器の外側が淡いピンク色をしているために、遠目にはまるで砂漠に咲いた一輪の花のように見える。一風変わった構造物だが、これは住まい。ホブルは二人の子供を抱きかかえ、砂虫の巣のような家に入っていった。
何はあれ、ウィルタと春香、そしてシロタテガミは助けられた。
二人が旅に出て、一カ月余りが過ぎていた。
春香はバタバタと何かが走るような音で目を覚ました。
強々とした洗い晒しの布が肌に触れる。ゆっくりと目を開ける。ベッドに寝ているようだ。首を傾けると窓の外に洗濯物。その向こうには風車の塔が……、
春香はため息をついた。
この世界に目覚めて以来、目を開ける時に必ず思うことがある。もしかしたら自分が、昔の世界に戻っているのではということだ。でも、いま窓の外に見えているのは、つぎはぎの布を張った風車の羽根。やはりここは自分の知らない世界らしい。
嘆息しつつ、ゆったりと回る風車の羽根を見ているうちに、砂漠で倒れた時のことが蘇ってきた。水が無くなり、歩く気力を失って砂に突っぷした。そこまでは覚えている。
でもその後は、そしてここは……、
そう思って春香が部屋のなかに視線を戻した時、
「お母さーん、女の子が目を開けたよーっ」という声が、窓と反対側のドア越しに聞こえた。子供の声、どうやら鍵穴からこちらを覗いていたらしい。
ほどなく足音が近づき、ドアが開いて、頭にスカーフを巻いた女性が入ってきた。浅黒い肌の福々とした顔の婦人である。その母親らしき女性に隠れるようにして、後ろに子供たちの顔が並んでいる。
「あなたたちは向こうにいってらっしゃい」
子供たちを手で追い払うと、婦人はベッドに歩み寄って春香の額に手を当てた。
ほっぺたを横に押し広げそうな大きな口に、太い眉と短くて丸い鼻。コロコロとした顔のなかのクリッとした目が、春香の顔を覗きこんできた。
「よし、平熱に戻ったみたいね。どう気分は、シーラちゃん」
突然シーラと呼ばれて、春香は何のことか分からず婦人を見返してしまうが、すぐにウィルタと打ち合せた偽名のことを思い出し、コクンと頷く。
砂漠を歩きながら、ウィルタと偽名のことを話し合った。
妙案が浮かばず、結局、二人が知っている名前を使うのが無難と考え、ウィルタがタタン、春香がシーラと名乗ることに。二人とも百尺屋、つまり雑貨屋の子供で、兄妹で行方不明の伯父を捜して旅に出たという設定である。人から質問されても困らないように、春香は知恵遅れの妹ということにした。
スカーフの婦人が、ほっとしたように話しかけてきた。
「お兄さんのタタン君は、丸一日寝ていたの。あなたはこれで二日目。ほんと、もう目を覚まさないかと思っちゃった」
混じりけのない素直な響きの声だが、地声が大きい上に少し早口だ。
その良く響く声で一方的に話しかけながら、婦人は春香が知恵遅れということを思い出したのか、「私の、話すこと、分かる?」と、急にゆっくりとした口調で聞いた。
春香が、またコクンと頷く。
呼びかけにしっかり反応することに安心したのか、婦人は笑みを浮かべると、「私はチャビン、ようこそ砂漠の離れ島へ」と言って、春香の黒い髪をやさしく撫で下ろした。
髪に触れられて、春香は自分の編んだ髪が解かしてあるのに気づいた。
「動ける?」と聞かれ、春香は掛けてあった布団を払い、両腕に力を入れた。ところが節々が錆ついたように軋んで、背中が持ち上がらない。
「辛そうね、いいのよ無理をしなくて」
はだけた布団を直そうとするチャビンに、「起きます」と自分を奮い立たせるように言って、春香は無理やりベッドから自分の体を引き起こした。
ただそれだけのことで、フーッと息が切れてしまう。
「水を飲む?」と、チャビンが壁際の卓台を目で示す。
その「水」という言葉を聞いたとたん、春香は「はい!」と、大きな声を出していた。
チャビンが水差しとコップを盆に乗せて、春香の膝の上に置く。
「その返事だと、まだ水差し分くらいは飲み乾しそうね。あなた、寝ている間に、どれだけ水を飲んだか覚えてる。この水差しで三杯は飲んだのよ。もっとも先に目覚めたタタン君は、七杯飲んでいるから、まだまだだけど」
話しながらチャビンが、並々と水を注いだコップを春香に手渡す。
「ここは砂漠だけど、水だけはたっぷりあるの。遠慮なく飲んでちょうだい」
コップの水を春香は肩で息を付きながら一気に飲み乾した。
チャビンが水を注ぐ。そして、もう一杯。
さらに次の一杯を飲み終え、ようやく春香は部屋の中に目を向けた。
十畳ほどの部屋は、左右の壁が黒い岩で、前後の壁が白いブロックという造りになっている。天井に渡された二本の材は、ウォトとは違う金属の材で、その梁にカゴが吊り下げてある。部屋の中に漂う乾いた苔の匂いは、そのカゴの中からのようだ。
コップの水を三杯立て続けに飲み乾した春香に、チャビンが満足そうに頷いた。
「もう大丈夫そうね。夕食は消化のいいものを作ってあげる。ここは砂漠のオアシスって言えば聞こえはいいけど、海の中の孤島みたいな所なの。名所旧跡はないけど、外を見たければ、着替えの服があるから適当に着替えて。案内は鍵穴から覗いている誰かがしてくれると思うわ。ねっ、そうでしょ」
チャビンは、最後の呼びかけをドアに向かって言った。
金属板を刳り貫いて作ったようなドアの外で、バタバタと足音が弾けた。
「子供が六人いるの。この家に交易商以外の人が顔を見せるのは三年ぶり。きっと珍しそうにまとわり付くだろうけど、大目にみてやって」
チャビンは丸い顔を更に丸くして笑うと、「さっ、仕事々々」と、布目が開き糸のほつれたスカーフを頭に巻き直して、部屋を出ていった。
一人になった部屋の中で、春香はもう一度ゆっくりと水の入ったコップに口をつけた。
冷たい水が喉を通って体にしみ込んでいく。萎んでいた細胞が水を吸って次々と膨らんでいくような感覚とともに、助かったんだという思いが湧いてきた。
もう一杯、都合五杯の水を飲み乾し、春香がコップを卓台に置いた時、ドアの向こうでカタンと物音がした。
春香はベッドから立ち上がると、窓の外を見るふりをして、さっとドアに近づいた。
ドアを引くと、三つ編みをした幼稚園児くらいの女の子が立っていた。母親似の真ん丸い顔が、モジモジと春香を見上げている。
春香は腰を落とすと、優しく微笑みかけた。
「わたしは春……、ええと、シーラって、いうの。あなたのお名前は」
「アチャ」と、女の子は三つ編みの髪を指でいじりながら答えた。
「そう、アチャっていうの。ねっ、アチャちゃん、お家の周りを案内してくれない」
顔を覗き込むようにして春香がお願いすると、アチャが恥ずかしそうに春香の手を握り締めてきた。人とは違う別の生き物のように小さくて柔らかな指だ。
春香はチャビンの用意してくれた服に着替えた。上がセーターで、下がスカート。旅に出て以来ずっとズボンを履いていたので、足まわりがスカスカして落ち着かない。
それでも、久しぶりのスカートの感触を肌に感じながら、春香はアチャに手を引かれて、ブロック積みの洞窟のような通路から外に出た。
母親のチャビンの服もそうだが、アチャの着ている服も、見事なまでのつぎはぎである。
上の子のお下がりなのか、地面に裾を引きそうなサイズ。
春香の手を引くアチャの後ろを、いつ現れたのか、年上の子供たちがクスクスと笑いながら付いてくる。その兄や姉たちが着ている服も当然つぎはぎ。シクンの子どもたちが着ていた服も古い布を縫い合わせたものだったが、ここの子供たちの服は洗い晒された布の程度が違っている。繊維に戻りかけた布が、とにかく重ね、縫い合わされて、一枚の布に仕立てられている。言葉は悪いが雑巾服と言いたくなるボロボロの服だ。
アチャに連れられ家の外へ。
外から家を眺めて、なるほどと頷く。部屋の両側に岩が露出していた理由が分かった。この家は、岩と岩の間をブロックで埋めて作った家なのだ。縦に細長く、三階建てほどの高さがある。そのブロック積みの最上階で、ギリギリと動くものがある。
淡いピンク色のもの……。
頭上に気を取られていると、早くとばかりにアチャが春香の手を引いた。
アチャの引っ張る方向に、風車の塔が三基建っている。高さは大人の背丈の四倍くらい。寸胴型の小さな塔だ。風は感じないが、両腕を広げたほどの長さの羽根が八枚、砂漠の微風を受け止め、ゆったりとした軋み音を空に残しながら回っている。
「右の風車が、水を汲むためのジャブジャバで、左の風車が、粉を挽くためのタント」
物陰でアチャの説明に聞き耳を立てていた兄姉たちが、ドッと笑った。アチャは春香の手を握り締めると、ほっぺたを膨らませて兄姉たちを睨んだ。
「もう、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、あっちに行ってよ。お客さんの案内は、アチャがちゃんとやるから」
年長らしき男の子が、こみ上げてくる笑いを抑えて言った。シロタテガミを橇に乗せて引っぱっていた男の子だ。
「心配しなくても、誰もアチャの邪魔なんかしないさ。ぼくらはアチャの説明を聞くのが好きなんだ。だってほら、お客さんでも来ないと、アチャの説明は聞けないだろう」
また頬を膨らませると、アチャは年嵩の兄姉たちを無視するように、春香の手を引っ張った。右の塔に入る。ジャブジャバという名前の通り、水汲みの塔だ。
薄暗い円筒形の空間の中央に井戸があり、その井戸を囲むように櫓が組まれている。歯車とベルトの動きに合わせて、井戸の中から杓をつけたロープが上がってくる。等間隔に並んだ杓は、肩の高さで横木に当たって傾き、樋に水を流し込む。そして滑車の上で反転、井戸の中へと下りていく。汲み上げられた水は、樋を伝って壁際の水槽へ。
入口から覗いていた子供たちの一人、面長のお下げの少女が、ツツッと水槽に擦り寄ると、水槽の底から突き出たコックを捻った。水が噴き出し、下に置かれたバケツの中で小気味の良い音をたてて飛び散る。
お下げの少女が春香に向かって丁寧にお辞儀をすると、水槽に手の平を向け「ひしゃくで汲み上げる水は、約半刻でバケツ三杯になります」と解説を入れる。
続けて丸顔の男の子が「左下のコックを開けると、水は配管を通って……」
堪らずアチャが声を張り上げた。
「もうお兄ちゃん、アチャの話すことが無くなっちゃうじゃない」
今にも泣き出しそうなアチャに、兄姉たちは「用事を思い出した。アチャ、後はしっかりシーラさんを案内してくれよな」と言い投げ、逃げるように外に出て行った。
アチャは、しばし兄姉たちが出て行った戸口を上目遣いに睨みつけていたが、足音が消えると、ようやく安心したように喋りだした。
アチャの説明によると、このジャブジャバの風車は、地下六十メートルのところから水を汲み上げているという。
ジャブジャバの風車小屋に続いてタントの小屋を覗く。複雑に組み合わされた歯車や機械がギシギシと臼を挽き回し、奥ではゴトンコトンと槌が上下している。様々な仕掛けが連動して動き、賑やかにリズムを刻んでいる。
アチャが次に行こうとばかりに、春香の手を引っ張った。
二つの風車小屋から少し離れたところに三つ目の塔がある。形は前の二つと同じ寸胴のカプセル型だが、風車が付いていない。代わりに、壁面のあちこちに小さな穴が空き、塔の表面にはびっしりと棒が突き出ている。まるで見た目はサボテンのとげだ。
その奇妙な塔を指して「クックルの塔」とアチャが言った時、風向きが変わって、塔から春香の方に風が吹き寄せてきた。風はすぐに向きを変えたが、春香の鼻孔には風の運んだ臭いが残った。
「えーっと、この臭いは……」
記憶を引き出そうと、こめかみに力を入れる春香の頭上を、黒い影が糸を引く。
「そうだ、鳥だ。これは鳥小屋の臭いだ」
春香がそう口にした時、塔の扉が開いて、ショベルを持ったウィルタが姿を見せた。
「やあ、シーラ、起きたの、体の調子はどう」
「うん、ちょっとふらつくけど、もう大丈夫よ。タタンは?」
返事をしながら春香が指先で丸を作る。ウィルタが軽く目をつぶって返した。
ウィルタに続いて、大人の男性が一輪車を押して出てきた。面長の顔に切れ長の目。漂白されたような土漠色の作業着から、無駄のない筋肉質の腕が覗いている。ウィルタが、おどけたように体を横にずらすと、その人を紹介した。
「この人が、ボクたちを救けてくれた、ホブルさん」
手を上げて答えた作業着姿の男性に、春香がピョコンとお辞儀をした。
「ありがとう、ござ、います」
そう言って体を折り曲げた春香が「くさーい」と、鼻を摘みながら顔を起こした。
建物の陰からドッと笑いが起きた。先ほどの兄姉たちだ。
つられるようにホブルも笑う。そして手押しの一輪車に積んである物を示した。
「この一輪車に盛ってあるのは、鳥の糞だよ」
鼻先の空気を手で払いながら「鳥の……ウンチ、ですか」と、春香が一輪車を覗きこむ。「そういうこと。鳥たちにとって、この塔は砂漠のなかの大切な休憩所で、私にとっては、貴重な糞を落としていってくれる有り難いトイレなんだ」
クックルの塔は巨大な鳥小屋、渡り鳥の休憩所だった。
ジャブジャバの塔から引かれた水は、クックルの塔の前で渡り鳥のための水場を作る。
壁面から突き出た棒の後ろには穴が空いている。しばらく眺めていれば、壁面の棒に止まった鳥たちが、入れ替わり立ち替わり壁面の穴を出入りする様子が観察できる。
「トイレ……、糞が、貴重なんですか」
ホブルは笑って答えず、二人を手招きして歩きだした。
春香とウィルタ、そしてアチャが並んで歩く後ろから、ほかの四人の子供たちまでがゾロゾロと付いてくる。振り返ったホブルが、手を挙げて叱りつけた。
「こらーっ、ホビィは粉の袋詰め、チャミアはヨシの繊維ほぐし、ホッジはチャボと一緒に砂漠の見まわり、チャフィーは刺繍の練習、みんな自分の仕事をちゃんとやったのか。夕飯までに終わってなかったら、父さんと一緒に夜鍋の仕事をするんだぞ」
父親の命令に、子供たちが逃げるように走り去る。アチャだけが春香の手を握り締めて、その場に残った。
「お父さん、アチャは、お仕事はいいの」
不安げな声で聞くアチャに、ホブルが砂焼けした頬を緩めた。
「アチャに、このショベルが持てるかな。持てるようなら、付いて来なさい」
仕事を言いつけられたのが嬉しいのか、アチャはショベルを両腕で抱えると、春香の脇を離れて父親の後ろについて歩きだした。
家の裏手に回ると、風車の倍ほどの高さの黒っぽい岩が、ニョキニョキと砂から突き出ていた。かなりの数で、鳥の視点で見れば、砂漠の一角に黒い岩が身を寄せ合っているように見えるだろう。ホブルの家は、この黒い岩の吹き溜まりの端にある。
そういえば、先ほど家の上に見えていたピンク色のものは……と、春香が振り返って背伸びをする。その春香を「シーラちゃん、早く」と、ウィルタが呼んだ。
手を振るウィルタの背後に、他の黒い岩とは違う、妙に滑らかな質感の岩があった。
一見して春香はそれが何であるか理解したが、顔には出さず、不思議そうな表情のまま三人の元に駆け寄る。それは春香の知っている古代の『ある物』だった。タイル状の表面が所々で剥げて、下の金属質の壁面が覗いている。
湾曲した壁面に開いた四角い口に、春香は三人に続いて入った。
春香の考えた通り、それは地上と宇宙を結ぶ連絡艇だった。ただ春香が知識として知っているものより、かなり大きい。単純な連絡用の艇ではないようだ。柱や壁が捻じ曲がっていることからして、不時着でもしたのかもしれない。
春香がこれ見よがしに「へーっ、岩の中が空洞になってる」と驚いてみせると、「ロケットって言うんだ。昔の人はこれに乗って、宇宙に出かけてたんだってさ」
ホブルさんから聞いたのだろう、ウィルタが説明を入れた。
ロケットじゃない連絡艇だよ……と、喉まで出かかった言葉を抑えて、「宇宙って、お星様の世界でしょ、すごーい」と、春香が口に手を当て感動の相槌を打つ。
アチャが目を輝かせて、通路の壁をペタペタと手で叩いた。
「岩船ちゃん、飛んでくれないかな、アチャ、お星様を取りに行きたい」
どうやらここの子供たちは、連絡艇のことを岩船と呼んでいるらしい。
いたる所で刳り貫かれてガラスを填め込まれた天井から、日の光が筋となって岩船の中に射し込んでいる。その光を透かして、通路の両側に部屋が並ぶ。
ちょうど手前の一室で、だぼだぼのズボンをはいた茶髪の男の子が、足場に跨り、天井の穴にガラスを填め込んでいた。立ち止まって見ていると、天井に張り巡らせたパイプの一つが剥がれて、隙間からサーッと細かい錆のような物が落ちてくる。
「お兄ちゃん、落ちちゃ、やだよ」
「分かってる!」
男の子の突っ張った声が返ってきた。
「一番上のお兄ちゃん、ホーシュって言うの」
兄のことを紹介すると、アチャが春香のスカートを引いた。
次の部屋の入り口でウィルタが手招きをしている。覗くと、部屋のなか一面に濃い緑色の苔が小さな葉を凌ぎ合わせていた。葉の下に見え隠れしている紅い実は、紅珊瑚だ。
収穫用の板が緑の絨毯の上に渡され、板の上でアチャが「ここ、虹の、お部屋!」と歌うように言って、嬉しそうに体をクルリと回転させた。
虫に喰われたように天井がところで刳り貫かれ、そこに填め込まれたガラスを通して、日の光が苔と紅珊瑚の上に降り注いでいる。ホブルが壁面のバルブを回すと、張り巡らせた細い管から一斉に霧のような水が噴き出して、部屋の中に虹が現れた。
「ねっ、虹のお部屋でしょ」
目の前の虹を捕まえようと、アチャが背伸びをして手を振る。
「紅珊瑚は湿気の多い土地の植物なので、砂漠の乾燥した空気では育たない。だから時々、こうやって霧の雨を降らせるんですよ」
紅珊瑚の熟し具合をチェックしながら、ホブルが説明を入れた。
ウィルタが「隣の部屋にシーラの喜びそうなものがあるよ」と、意味深に耳打ち。
何だろうと勇んで足を運ぶと、腐乳草のズヴェルが、びっしりと隙間なく植えられていた。とぼけた顔のウィルタを、春香がキッと睨んだ。
岩船の中の区画された空間で、光の世紀からの生き残りの植物が育てられている。全部で七種。目につくのは、瓢箪型の芋が実るチモチという蔓草。地中にできる芋ではなく、親指サイズのむかごのような芋だ。もちろんリウやヨシもある。それに様々な苔も。今まで苔をじっくり観察したことなどなかったが、葉の形も、色も繁り具合も千差万別だ。
懐かしい苔を見つけたらしく、ウィルタが歓声を上げた。苔にしては一枚一枚の偽葉が大きく、ぼんぼりそっくりに房状に生い茂っている。
「これメチトトの苔だ、そうでしょ」
目を輝かせるウィルタを見て、ホブルが意外そうに顔を反らせた。
「タタン君は町の育ちなのに、よくこの苔を知っているね」
慌ててウィルタが言い繕う。
「曠野の人たちが店に持ち込んでたんです。確か美味しい苔茶になるって」
「蒸して発酵させれば、香りのいい苔茶ができる。薬苔にも加工できる貴重な苔だよ」
ホブルが愛情を込めた目を苔に注いだ。
次々と隔壁の扉を開けていく。
「ここが一番大きな畑」
そう言ってホブルが扉を押し開いた部屋は、小さなホールほどもあり、中は一面緑の草原になっていた。膝下くらいの高さに鋭い葉がみっしりと並び、細い茎の先端に、鋭い刺に囲まれた小指の先ほどの穂を実らせている。改良を重ねてできた星草の一種で、まだ刺は残っているし、葉先も鋭いが、野生のものに較べれば格段に扱いやすくなっている。実も一回り大きい。ただその分、もう夜に光ることはないという。
「だから、もう星草という呼び名は当て填まらないかもしれないがね」
ホブルが天井からぶら下った鎖を引くと、側面のガラスの窓が上がって、外の空気が流れ込んでくる。
「植物も人間と似ていてね、同じ空気ばかり吸っていると駄目なんだ。こうやって時々空気を入れ替え、外の風に当ててやらなければ、いじけてしまう」
ホブルが切れ長の目を細めた。
左の窓から入ってきた風が、春香の足元を掠めて右の窓から抜けていく。無数の細い葉がしなるように揺れ、葉と葉が触れ合う微かな音と共に、風をはらんだスカートがフワッと拡がり、素足の肌に優しく触れる。春香は目に涙が滲み、その場にしゃがみ込んでしまった。
砂以外何もなく生命の息吹が感じられないという点では、砂漠は宇宙と同じようなものだ。その砂の宇宙にポツンと置かれた岩船から外に出ると、クックルの塔のでっぱりに鳥たちが羽を休めていた。そこに新たな渡り鳥の一団が、隊列を崩しながら舞い下りてくる。
突然、春香がウィルタの腕を引いた。
「そうだ、シロタテガミは、シロタテガミはどこ」
ウィルタは困ったように頭を掻くと「それがさ」と、口ごもった。そして春香を家の裏に連れて行った。物置のような小屋の中で、シロタテガミは鎖に繋がれていた。
首をもたげたシロタテガミに春香が抱きついた。
シロタテガミが唸った。
「どうやら生きていたみたいだな」
「ごめんなさい、早く気がつけば良かったんだけど」
振り返った春香が、シロタテガミの首に付けられた鎖を示す。
ホブルが固い表情で首を振った。
ウィルタが言い訳をするように口を挟んだ。
「このオオカミは人を襲ったりしないから大丈夫だって言ったんだけど。ホブルさんが、これだけは駄目だって。ここには飼い犬と幼い子供がいるからって」
シロタテガミが抑えた声を吐いた。
「いいんだ。これがオオカミと人の関係だからな。体調さえ戻れば、わしは直ぐにここを出ていくよ」
淡々とした口ぶりで話すシロタテガミの鼻すじに、アチャが小さな手を乗せた。そして愛おしそうに撫でる。鼻先をヒクッと痙攣させたシロタテガミが、「まっ、しばし我慢といくか、優しい娘も一人いるしな」と軽く唸って、鼻先をペロリと舌でなめた。
夜になった。
ホブルとチャビンの一家には、六人の子供がいる。夫妻と春香たちを合わせれば、十人の賑やかな夕食となった。食事は花屋敷の二階の大部屋で取る。花屋敷という呼び名は、春香がつけたもので、もちろん家の上に設置されている五つの集光器が、花びらに見えることからだ。で、とにかく食事。
ここの食事は朝と夕の二回。朝食がチモチの芋を蒸かしたもので、夕食が星草のスープ。星草の食べ方は、胡麻よりも小さな星草の種を、シクンの人たちがやるように手間をかけて毒を抜き、風車小屋の石臼で粉に挽く。その粉を練って団子状にしたものを、ズヴェルと鳥の干し肉が入ったスープに入れて食べる。渡りの途中で力尽きた渡り鳥が、クックルの塔のなかに落ちていることがあり、それを干し肉にして蓄えてあるそうだ。
団子入りのスープを、家族全員車座になってお喋りしながら食べる。
そして食後。
快気祝いということで、春香には湯気の立つ甘いお茶が出された。疲れた時や病み上がりの体にとって、体を内側から暖めてくれる甘くて温かい飲み物ほど嬉しいものはない。中に糖蜜が入っているという。甘いものを口にするのは、雪の曠野で食べた飴以来だ。
思わず春香が「もう一杯もらってもいいですか」と聞くと、チャビンが丸い顔そのままの笑顔で、春香の差し出したコップを手に取った。
とその時、ほとんど会話の輪に入らず黙って食事をしていた長男のホーシュ、岩船の天井にガラスの窓を填め込んでいた男の子が、ムスッとした顔で言い捨てた。
「二杯も飲ませることないよ、それを入れるために、どれだけ……」
「客人に失礼だぞ、ホーシュ」
間髪を入れず、父親のホブルが息子の声を遮った。
ホーシュは明らかに父親似で、鼻筋の伸びた面長の顔だが、髪は寝起きのようなボサボサ髪。二人の弟が父親を真似て髪を短く刈り揃えているのと対照的である。
みなが静まり返ったなか、チャビンがヒョイと春香の手からコップを取り上げた。
「いいの気にしなくて、シーラちゃんは病人なんだから、しっかり食べて早く元気にならなければね」
その時になって春香は、甘茶を出されたのが自分だけということに気づいた。
ホーシュは、その場に居づらいのか、食事を終えると直ぐに部屋から出て行った。
「まったく、長男のくせに困ったやつだ」
ホブルは器の中に残ったスープを飲み乾すと、春香に説明した。
「甘茶を飲むのは家族の誕生日と、年越しの最後の夜だけと決めてある。あいつは父親の私が決まりを破ったのが、気に入らんのでしょう」
「親に反抗してみたくなる年頃なんでしょうかね」
隣の台所から顔を覗かせたチャビンが、合いの手を入れた。
車座の輪のなかに戻ってきたチャビンは、湯気の立つ甘茶のカップを春香の前に置くと、子供たちの視線がそのコップに注がれていることに気づいて、軽くたしなめた。
「ほらほら、そんなに見つめちゃ、シーラちゃんが飲み難いでしょ。いいのよシーラちゃん、気にしないで飲んで。病気の時は誰だって薬を飲むもの。その甘茶は今のあなたにとって薬なの、ねっ」
アチャが、拗ねたように腰を揺すった。
「でも薬だったら苦くなきゃ。アチャがいつも飲んでる薬、こんな甘くておいしそうな匂いじゃないよ。口がひん曲がりそうだもん」
「そうだ、そうだ、薬は甘くない」
ほかの子供たちが、アチャに加勢して、母親のチャビンを囃子たてる。
子供たちに押され気味のチャビンを見て、コップに口をつけた春香が、顔中にしわが寄るようなしかめっ面を作った。そして「ハーッ」と苦しげな息をついてアチャを見た。
「アチャちゃん、このお茶ね、甘い匂いがしてるけど、本当はすっごく苦いの。でもせっかくお母さんが入れてくれたのに、まずそうに飲むと悪いでしょ。だからさっきは、美味しそうに飲んだの。アチャちゃんが薬は苦いって言ってくれたから、これでやっと本当のことが言えるわ。あーっ、ほんと苦かった。まだ口の中がピリピリしてる」
「ほんとう?」と聞き返しながら、アチャが疑わしそうな視線を春香の口元に注ぐ。
その仕草に兄姉たちがドッと笑った。
「あーっ、やっぱり嘘だ」
アチャが風船のように頬を膨らませる。
子どもたちの反応を見ていたホブルが、仕方ないかとばかりにチャビンに目配せをした。
「きょうはシーラちゃんが無事に目を覚ましたお祝いだ。チャビンさん、子供たち全員に一口ずつ渡るように、もう一杯だけ入れてくれるか」
部屋中に子供たちの歓声が沸き上がった。
全身に喜びを爆発させているホブル家の子供たちを見ながら、春香はコップの中に残る甘茶を、そっと口に含んだ。ふわっとした甘みが口のなかに広がる。しかし春香にとって、それは苦みを溶かし込んだ後ろめたい甘さに思えた。
食事を終えると、春香は直ぐにベッドに入った。二日間ひたすら眠っていたので、目が冴えてとても眠れそうになかったが、体のことを考えて横になった。
と誰かが部屋をノックする。返事をすると、明かりを手にしたチャビンが入ってきた。後ろに、アチャが恥ずかしそうにくっついている。
ベッドの脇に来るとチャビンは、スカートの裾を握りしめたアチャを指して、「お願いがあるの」と、申し訳なさそうに話を切り出した。
「この子が、今夜はシーラちゃんと寝るって聞かないの。まだ体が回復していないから駄目だって言い聞かせているんだけど、どうしてもって言い張るもので……」
チャビンの困った様子を察して「いいですよ、いらっしゃいアチャちゃん」と、春香は掛けぶとんを捲ってアチャに手を差し伸べる。
アチャが顔を綻ばせて、春香の蒲団に潜り込んできた。
チャビンは、くどいほどアチャに「無理を言っちゃだめよ」と言い聞かせると、足音を忍ばせ部屋を出ていった。
ベッドのなかで、アチャは春香に体をくっつけると、あっという間に寝息をたて始めた。
そのアチャの足が妙に冷たい。掛け布団を直すふりをして確かめると、なんとアチャの右足は義足だった。春香はそっと布団を元に戻した。
枕元の小さな寝息を聞きながら、春香には、この家の末娘が家族の中で特別な扱いを受けている理由が、分かったような気がした。
窓の外では、月明かりの下に三本の塔が並んでいる。一番奥がクックルの塔だ。
あの塔の中では、たくさんの鳥が疲れた体を休めている。わたしも今はとにかく体を休めて眠ろう、そう考え春香は目を閉じた。
体の回復を図りながら滞在するうちに、砂漠のなかの孤島のような家の暮らしが見えてきた。養分を含まないガラスの砂では植物は育たない。作物を育てるための養分、それが鳥の糞だ。オーギュギア山脈を越え、更には晶砂砂漠を抜けて東のドバス低地に渡っていく鳥たちのために、ねぐらと水飲み場を作る。鳥たちは一晩の休息のお礼に糞を残していく。もちろん鳥の糞と水だけでは、植物は寒さで枯れてしまう。
それを可能にしているのが、地上と宇宙を繋ぐ連絡艇を改造して作ったガラス室だ。
連絡艇に並ぶように設置してある水槽の底には、黒い小石が敷きつめてある。これは太陽光を使った温水器で、暖めた水をパイプを通してガラス室に循環させている。岩船のガラス室と太陽熱利用の温水暖房、そして風車を使った揚水と鳥の休憩所、それがここの作物栽培の基本アイテムだ。
こうやってシステムができてしまえば、作物を作ることは一見簡単そうに見える。ところが話を聞いていて、その大変さに驚いた。たとえば、ここで育てている星草は、種を播いてから収穫できるまでに三年かかる。穂から小さな種を叩き落とし、外側の堅い殻を揉んで脱穀、荒く砕いた実を水に晒して毒を抜き、最後、風車小屋の臼で気長に撞いて、ようやく食べられる粉になる。
ほかの作物もどれも似たり寄ったりで、自分の生きていた時代のことを考えれば、まるで作物が人間に食べられるのを嫌がっているようにさえ思える。チモチという瓢箪型の小さな芋は、アクを抜くのに何十回も水に晒さなければならない。春香が昨夜飲んだ飲み物の甘さは、十年育てたヨシの地下茎に溜まった澱粉を、発酵させて煮詰めたもので、何十本もの茎からほんのひと摘みの分量しか採れない。長男のホーシュが非難めいた一言を口にしたのは、そういう理由からだ。
衣類の繊維を採るためのリウは、人の背丈に伸びるのに六年かかる。その皮を剥いで繊維を取って糸に紡ぎ、その糸を使って布を織って、ようやく衣類を作ることができる。だから衣類は擦り切れるまで着ることになる。着られなくなれば、着られるところだけを繋ぎ合わせて新たな服を仕立てる。さらには屑のような布は、解してもう一度、糸の原料にする。この家の住人の衣服が雑巾のようになるのは、当たり前のことだった。
台所を見せてもらう。
砂漠の家で一番困るのは、食事を作る時の燃料だ。
ここで燃やせるものといえば、収穫の終わった後の僅かな枯草だけ。しかしそんなものは、煮炊きに使えば、あっという間に無くなってしまう。それ以前に、畑で栽培した作物の茎や葉は、次の作物を育てる時の肥料として必要だし、生活していく上での様々な物資を作るための貴重な材料でもある。あっさりと燃料に使ってしまうことはできない。
そのため、熱源には電気を使う。
岩船の後方に小型の発電専用の風車が七基設置され、発電した電気を使って電熱器で煮炊きをする。ただしいつも風が吹いている訳ではないので、発電した電気は、充電池の匣電に溜めることになる。
この匣電。ウィルタから聞いてはいたが、春香にとって見るのは初めて。
革製のカバーに入った充電池は、弁当箱くらいの大きさで、表面に亀の甲羅のようなマークが入っている。後に知るが、この匣電は隕石を使った電池で、二千年前に降り注いだ亀甲石と呼ばれる隕石と、塩水の組み合わせで作られる。匣電は自然放電もほとんどなく、放電特性も安定した優れもので、製造の簡便さと、繰り返し長く使えることから、この時代、大陸全土に広く普及していた。
チャビンが、電熱器を置いた調理台の下からスライド式の容器を引き出すと、中に匣電が三段重ねにびっしりと並べられていた。優に五十個はある。弁当箱サイズの匣電は、出力容量ともに古代の円筒型の乾電池とほぼ同じ。そのため、照明ならまだしも湯を沸かすとなると、匣電を一度に何十個と繋ぐ必要がある。この三段重ねの匣電で、春香の時代の家庭用の電源ていどの電力を確保しているということだ。
チャビンが匣電のスイッチを入れると、電熱器の中の金属線がボーッとオレンジ色に発熱してきた。
「凄ーい、こんな砂漠の中なのに、水にも煮炊きにも困らないなんて」
春香が感激したように電熱器の上に手をかざしていると、ホブルが隣の部屋、光房から春香を手招きした。
ちなみに花屋敷は四階建てで、一階が資材置場、二階が子供部屋、三階が寝室、最上階の四階が作業場兼居間兼食堂として使われる大部屋になっている。大部屋の右が台所で、左が光房。なお四階の天井は、全て細かな組ガラスのガラス張り、日中は燦燦と陽光が部屋に降り注ぐ。
そして光房と呼ばれる部屋。花屋敷の上に設置された花弁のような五つの集光器は、光房の上にある。降り注ぐ太陽の光は、放射状に配置された浅いお碗型の集光器で集められ、中心に突き出た雌しべのような反射器で光房に導かれる。
ホブルに呼ばれて春香が光房を覗くと、部屋の中央に置かれた石の台を前にして、次男のホッジが作業をしていた。
石の作業台の上に据えられたU字の管を示しながら、ホブルが説明をする。
天井の上、集光装置で集めた日の光は、ガラスのレンズで屈折させてU字管の片方の口に導かれる。集められた日の光はU字管の中で収束、向きを変えて反対側の口から出てくる。光は収束させるとエネルギー量が上がる。つまりU字管の反対側、光の出てくる口の上に物を置けば、下から熱することができる。この装置を使って、なんと二千度近い高温を生み出すことが可能になるという。
このU字管は、曲光管と呼ばれる古代の遺物で、直進する光の進路を自在に曲げることができる。原理は不明だが、一説には、管の中で空間が変形しており、それで光が曲がるということらしい。
ホッジがU字管の口の上に置かれた坩堝に晶砂を入れた。晶砂を融かし、型枠に流し込んでガラスの板を作るのだ。しかし一度に熔かすことのできる晶砂に限りがあるので、大きな板ガラスはできない。岩船のガラス室や大部屋の天井が、ガラスのパッチワークになってしまうのはそのせいだった。
もちろん、この装置を使って料理も作る。坩堝を鍋に交換してだ。
しばらく見ているうちに晶砂が熔けてきた。
光房から大部屋に戻る。
一日を通して大部屋が一番暖かいので、外での作業がない限り、家族は皆ここに集まってくる。今も次女のチャフィーが、脱穀した星草の種からせっせとゴミを選り分け、長女のチャミアが水桶のなかでヨシの繊維を解している。ヨシの綿毛に指先で撚りをつけ糸にしているのは、一番年下のアチャで、発電機を分解して中の回転子から銅線を巻き解しているのは、三男のホビィ。長男のホーシュは、ホブルやウィルタと一緒に砂漠に出かけて留守で、母親のチャビンは、子供たちの作業を見守りながらの刺繍作りだ。
みなが楽しそうに手を動かしているのを見て、春香が「お手伝いできることがあれば、わたしも何か、やりたいんだけど……」と切り出すと、チャビンが針を動かす手を止め、思案げに部屋の中を見まわした。
「そうね、体を動かした方が早く調子は戻るもの。さて何をやってもらおうかしら、手先の仕事ならいくらでもあるけど」
「あっ、わたし、あまり器用じゃないから」
慌てて春香が予防線を張ると、次女のチャフィーが「じゃ、あれ、バタバタはどうかな」と、部屋の隅にある足踏み式の機械を指した。
論より証拠とばかり、チャフィーが使い方の実演を始めた。
自転車のように股がってペダルを漕ぐと、ベルトで回転が伝わり、機械仕掛けの棒がバタバタと打ち下ろされる。ヨシの繊維を打ち解す機械だ。
そのいかにも楽しげにペダルを漕ぐ姉を横目に、銅線を巻き解す手を止めたホビィが、道具箱のやすりを取り掲げて、春香を誘った。
「バタバタは体力いるもん、歯車の手入れをやらないか。やすりで歯を研ぐだけだから、大して力はいらないし、休み休みやれるよ」
「なによ、あんた自分の仕事を人にさせて、楽しようってんでしょ」
「それならチャフィーだって、同じだろ」
言い合いを始めた次女と三男を、「喧嘩は家の外って決まりを提案したのは、あなたたちでしょ」と、長女のチャミアがたしなめる。
するとヨシの綿毛に縒りをかけていたアチャが、「ねっ、シーラお姉ちゃん、何か歌を歌って。アチャは何か新しい歌を覚えたいの」と、甘えた声をだした。
変わり身の早いホビィが、賛成とばかりに口笛を吹く。
「それがいいや、いい歌があると仕事がはかどるもんな。仕事場の雰囲気を楽しくするのだって立派な仕事だよ」
「そうだ歌がいい」
みなが一斉に春香の方を向いた。
突然「歌を!」とリクエストを出されて、春香は顔を赤くした。楽器を習ったことはあるが、歌を歌うのは苦手だ。それでも自分に集まる期待に満ちた目を見ると、嫌とも言えない。何かお手伝いをと切り出したのは自分なのだ。
春香がオズオズと「歌、ですか……」と念を押すと、全員が大きく頷く。
光房のホッジも戸口から顔を覗かせ、「もちろん」と手を振る。
フーッと大きく息を吐くと、春香は頭の中で歌えそうな歌を探した。ところが歌詞は浮かぶが、メロディーが出てこない。
チャビンが救け船を出すように子供たちに呼びかけた。
「ほらほら、あんまり静かだと、シーラちゃんだって歌い難いでしょう。作業をやって作業を。それにアチャも、歌をおねだりするのなら、まずアチャが一曲歌わなきゃ」
「そりゃそうだ」というホビィの相槌が終わらないうちに、アチャが歌を口ずさみ始めた。
どこかで聞いたことのある跳ねるようなメロディー。
春香は一コーラスを聞いて、それが、幼稚園児がお遊戯をしながら歌う、鳥が餌を啄む様子をもじった歌だと気づいた。思わず吹き出してしまう。
とたんアチャが頬を脹らまし「もう、アチャ、歌わない」と、拗ねた目で春香を睨んだ。
「ごめんなさい、それ知ってる歌だったの。だから、とても嬉しかったの。わたしも歌うから続けて」
春香がアチャを促すように手拍子を始めた。
機嫌を直すとアチャは続きを歌いだした。つられるようにほかの子供たちも手拍子を始める。歌い終わると拍手。その拍手が色ガラスを組み込んだ大部屋の天井に軽やかに反響。
春香は息を整えるとニコッと微笑み、そして歌い出した。
岩船の星草の畑でのこと、ホブルが窓を開けて外の風を入れると、春香の周りで風がサワサワと星草の葉先を揺らめかせた。その時、春香の心に蘇ってきた歌で、草の葉が風になびいて揺れるような言葉の繰り返し、春香の母の郷里の歌でもある。
メロディーが部屋の中を風のように流れていく。
悲哀を含んだ穏やかな歌が続く花屋敷の外、砂丘の縁に、ホブルが、ウィルタとホーシュを連れて姿を見せた。手にした袋には、ウィルタと春香が砂漠で遭難しかかった時に放棄した荷物が入っている。
家に戻りドアを開けようとするホブルたちに、皆の合唱する声が聞こえた。
第三十八話「トーカ郷」




