晶砂砂漠
晶砂砂漠
フーチン号を後にして、まる二日が過ぎた。
どちらを見渡しても砂だけの平坦な世界。いくら歩いても風景が変わらないので、自分たちが進んでいるという実感が持てない。
ふつう砂漠と言った場合、そこには大小様々の砂丘から、砂礫地、土漠、岩山、枯れ谷などが複雑に入り混じり、変化に富んだ地形を造っている。それがここでは全く粒も均質なガラスの砂が、細かな風紋を描きながら茫漠と広がっているだけだ。こんな場所を話し相手もなく独りで歩いていたら、気が狂ってしまう。
その単調な砂の上に、鎖を引きずった跡を残しながら歩く。
三日目にようやく砂漠に起伏が出てくると同時に、砂の粒が大きくなってきた。
さらに半日、小さな砂丘が顔を覗かせるようになった。大地の起伏に変化が出てきたことを喜んでいたのも束の間、砂丘がどんどん高くなり、今度は上り下りが負担になり始めた。それに足元が崩れやすいので、体のバランスを取るために余分な体力を消耗する。ただそんなことよりも、気掛りなのは、残り少なくなってきた水のことだ。
午後を過ぎると、砂丘が二人の背丈を超えた。
砂丘の頂上に立って目を凝らすが、地平線の果てまで砂丘が続く光景に変わりはない。いったいこの砂丘の波を越えていくのに、どれだけの日数が掛かるだろう。水筒の底で揺れている水だけでは、とても足りそうにない。不安が乾いた喉に込み上げてくる。
やがて砂丘の斜面が大きく競りあがり、視界を遮るようになってきた。
砂の壁、それは幻想を生む。
ディエール川はすぐそこにあるのだが、砂丘に阻まれて見えないだけ、という幻想をだ。
目の前の砂の壁を越えれば、青々とした川面が望めるのではないか。その期待を胸に息を切らせて砂丘を上り、そして相も変わらぬ砂の海に肩を落とす。ひたすらそれを繰り返す。繰り返しながら、希望は次第に削がれて痩せ細り、喉の渇きと不安だけが体の中で膨らんでいく。自分たちは道を誤り、あらぬ方向に進んでいるのではないか、その不安が心に重く伸しかかってくる。
その膨らむ不安の暗い影と相反するように、砂漠の砂という砂が、水晶のような透明感のある砂に変わってきた。ガラスを砕いたとしか思えないような砂が、太陽の光を反射して、晴れた日の雪面のようにキラキラと輝いている。手で砂をすくうと、指の間から透明な砂が七色の宝石のように光を反射しながら滑り落ちる。
ようやく春香にも、なぜこの砂漠が晶砂砂漠と呼ばれているかが分かってきた。
砂という砂が、砕けた透明のガラスなのだ。それもかなり脆いガラスだ。
ガラスの粒が靴底に押されて、パリパリと小気味の良い音をたてて砕け散る。
壁のように聳える砂丘の頂点に立ったウィルタが、後ろから上ってくる春香に早くと手招きをする。手を着きそうなほどの傾斜を、砂を掻き下すようにして上る春香の後ろに、だらりと舌を垂らしたシロタテガミが続く。
喘ぎながら春香が頂上にたどり着くと、向こう側、砂を取り払われた砂丘の底に、巨大なガラスの塊が転がっているのが目に入った。シロタテガミが到着するのを待って、ウィルタが言った。
「ぼくも見るのは初めてだけど、あれが晶砂砂漠の砂の大元だよ」
「あの大っきいガラスの塊が……?」
好奇心いっぱいに春香が身を乗り出す。
足元の砂が下に向かってサーッと崩れだした。砂に引きずられるように、春香の体が斜面を滑り下りる。まるで引き潮の波に乗っているようだ。春香に続いてウィルタの足元も崩れる。さらにシロタテガミも。
二人と一頭が、小さなビルほどもある砂の斜面を一気に滑り下りる。
急勾配の砂丘の底に立つと、そこには、ほとんど足がめり込まない固く締まった砂が拡がっていた。砂漠表面の柔らかい砂が風で吹き払われて、下地の層が顔を出したのだ。
その固い砂のなかに、巨大なガラスの塊が転がっていた。それはあたかも巨大な神殿の柱が倒れて、砂に埋もれたように見える。二人はキュッキュッと軽快に足音をたてながら、目の前の巨大なガラスの柱に向かって走った。
手袋を脱いで素手をガラスの柱に押し当てる。肌理の細かいガラスの表面が、手の平にピタッと貼りつく。目が感じる氷のような冷たいイメージとは裏腹に、思ったよりも柔らかで温かな感触だ。
ガラスの表面を手で撫でながら、ウィルタが鼻息を荒くした。
「これがタクタンペック村に植えられていた火炎樹と同じものだとは……」
「まさか」と、春香が顔を上げた。
「これがあの火炎樹、だってガラスだし、それに大きさが……」
柱の直径だけでも春香の背丈の数倍はある。幹がその太さだとしたら、それが大地に聳えていた時は、いったいどれ程の高さになるのか。想像の中の木のあまりの大きさに、春香はくらくらするような目眩を覚えた。
信じられないとばかりに左右のお下げを壊れた扇風機のようにブルブルと振りまわす春香に、ウィルタが自分の知っている知識をお浚いするように解説を入れた。
かつてこの地で栽培されていた火炎樹は、幹まわりが、大人十人が手を繋いでやっと届くほどの太さで、高さが七階建ての建物に匹敵する巨大な木だったという。一本の火炎樹を植えておけば、それで八人の人が食っていける。それゆえに、八支木という呼び名もあった。巨大な火炎樹は、一度植えつけると、大地の養分を吸収しながら約六十年に渡って、膨大な量の黒い樹液を生み出し続ける。そして大地の養分を全て黒い樹液に変えてしまうと、枯れて透明なガラスに変わってしまうのだ。
いまこの時代、各地で栽培されている火炎樹は、タクタンペック村で見た火炎樹にしても、人の背丈の倍ほどにしか育たない。較べて、一千年以上前のこと、この地に満都と呼ばれる国が栄えていた当時、オーギュギア山脈の東の大地は、見渡す限りの巨大な火炎樹の林で覆われていたという。
話では聞いていたものの、ウィルタも晶化した火炎樹を見るのはこれが初めて。春香に知っていることを話しながら、珍しそうにガラスの幹に手を這わせた。
晶化した無垢のガラスは、ゴミも気泡もない凛とした清明さを保っている。
ガラスの幹を挟んで反対側にいるシロタテガミの姿が、幹の曲面に合わせるように撓んで見える。そのシロタテガミに向かって、ウィルタが思い切りひしゃげた表情を作って見せた。ギョッとして足を止めたシロタテガミが、やり返すように歯を剥出しにしてウィルタを睨む。ガラスの透明度はさておき、ウィルタは、なるほどと思った。
あれがオオカミの吹き出した表情なのだと。
それにしてもいくら火炎樹が巨大とはいえ、どれほどの本数の火炎樹がガラスになれば、これだけの広大な地域がガラスの砂で埋め尽くされるというのだろう。
砂の吹き払われた砂丘の底を歩くうちに、晶化した火炎樹が折り重なるように埋もれている場所に出た。割れているものより、原型を留めた木のほうが多い。晶化した火炎樹が風化することなく砂に埋もれ、それが千年余りの歳月を経て姿を現したのだ。
見上げると、樹冠の細かい枝が、砕けもせず絡み合ったままガラスと化している。
ガラスの枝のアーチを潜ると、そこはまるでガラスの森だった。太陽の日差しがガラスを通して複雑に屈折と分光を繰り返し、いたる所に彩色したような光を宿らせている。
虹色の万華鏡の中に迷い込んだ気分だ。それにしても、いつもながら不思議に思う。お日様の白い光を分光すると、そこから様々な色が現れる。そして、その色を人が美しいと感じる。なぜ人は色を美しいと感じるのだろう。
絵の具箱をひっくり返したような光の渦を全身に浴びながら、春香は息が止まる思いがした。そのガラスの樹冠を見上げていた春香が、ハッと手元に視線を送った。
「ウィルターっ!」
ガラスの森の中を、春香のウィルタを呼ぶ声が抜けて行く。
砂を蹴たてて春香の元に走り寄ったウィルタが、光り輝くガラスの回廊に唸った。
「すげーっ、虹のトンネルだ!」
「そんなことはいいから、ここを見て!」
春香はウィルタの袖を引っ張ると、自分の足元を指さした。分光された光が砂の上に様々な色を投げかけている。その中に一際明るく輝いている場所がある。春香は何も言わずにウィルタの手首を掴むと、その白々とした光にウィルタの手を近づけた。
「アチッ!」
跳び上がるようにして、ウィルタが手を引っ込めた。
手の甲を擦りながら、ウィルタが光の射してくる方向を探る。しかし頭上を覆うガラスの幹や枝で、光源がどこにあるか分からない。
「そうなの」と、春香は両手を広げると、降り注ぐ光を全身に浴びるようにくるりと体を回転させた。光は様々な角度から反射と屈折を繰り返して地面に降り注いでいる。その無数の光が、偶然にも春香の足元の一点に集まっているのだ。
畳一枚分くらいのスペースの砂地を照らしている光が、その一角に手を差し入れると、思わず手を弾けたくなるほど熱くなっている。
「そうか」
ウィルタがパンと手の平を叩いた。そして「これだ!」と胸元に手を突っ込むと、首にぶら下げていた紡光メダルを引き出した。
春香が期待を込めた目で頷く。
「ただのお日様の日差しじゃ、金属石の拘束輪を切断することはできない。でもこの熱い光なら、もしかしたらと思うの」
「そうだよ、もしかしたらだ」
興奮した声で答えると、ウィルタはメダルを鎖から外した。
「急いで、太陽は動いてる、いつまでこの熱い光があるか分からないもの」
言われるまでもなくウィルタは、いつにない真剣な表情で手早く紡光メダルを回転させると、それを熱い光にかざした。と光に近づけたとたん、メダルを取り落とす。
光が熱すぎるのだ。
それは熱線のような光で、素肌を曝すと火傷をしそうなくらいに熱い。
ウィルタは慌てて背中のザックからプライヤーを取り出した。タクタンペック村を逃げ出す際に、ウロジイから譲り受けたものだ。そのウロジイの手垢の染みついたプライヤーで、回転させた紡光メダルの縁を挟み、眩しい光の中に差し出す。もちろん手には手袋を填め、その上に手ぬぐいも乗せた状態でだ。
地面にプライヤーと一つながりになったメダルの丸い影が映る。影の中心には、辛うじて判別できるほどの、針の先のような光の点。
ガラスの砂から微かに煙が立ち昇る。そのままゆっくり光の点を鎖の端に近づけ、と光の点が鎖に接触したと思った瞬間、光の当たった部分が激しく輝く。怯まず一定の調子でゆっくりと紡光メダルを動かし、光の点を鎖の上に通過させる。
しかし鎖にはナイフで表面をなぞったような跡が付いただけで、何の変化もない。どうやらスパッと切断という訳にはいかないようだ。
「ねっ、拘束輪の鍵穴に光の糸を当ててみれば。高温で中の掛け金が柔らかくなれば、変形して外れるかも」
「やってみよう、足を出して」
熱光の周辺の砂も、とても素肌で触れることが出来ないほどの熱さに焼かれている。
春香は、白く輝く砂地のぎりぎりのところに、自分の右の足首を曝した。拘束輪以外の場所は、手拭いを被せて熱い光を防ぐ。
拘束輪と鎖をつなぐ鍵穴は、拘束輪の側面のでっぱりにある。そこに紡光メダルが作る光の点を移動。光の点が鍵穴からずれないよう、じっとメダルを保持する。
同時に、春香が拘束輪の留め口に差し込まれた鎖を、手でグッと引っ張る。
「外れろ、外れろ……、外れて、外れて……」
「神様お願い!」と春香が口にした瞬間、カチャと乾いた音がして、鎖が鍵穴から抜けた。
と同時に、拘束輪が割れるように足首から外れた。
「すごーい、やった!」
「早く、つぎ!」
喜んでいる暇はなかった。地面の白熱した部分がずれている。太陽は刻々と動いている。
緊張のなか、あたふたと左足の拘束輪を外す。
数分後、ウィルタの左足に填っていた拘束輪が外れた時には、熱光のスポットライトは、ふやけたように四方に拡散を始めていた
二人は緊張から解放された虚脱感で、その場にペタリと座りこんだ。心臓がドキドキと波打っていたが、それが落ち着くにつれて、入れ替わるように安堵の気持ちが込み上げてきた。やっと拘束輪から解放されたのだ。
春香は靴下を下ろすと、足首を両手で擦り始めた。ほんの十日ほどの間に、拘束輪で擦れて皮膚がタコのようになっている。でも、とにかく嬉しい。口には出さないが、ウィルタが自分の拘束輪を先に外してくれたことが嬉しかった。
感謝の気持ちを込めて春香がウィルタに笑顔を向けると、ウィルタが腕を伸ばして、虹色に輝くガラスのトンネルの天井を指していた。
「どうしたの」
「何か、上を横切った」
「何かって、何?」
「動く物だよ、ガラスの間の青空を横切ったんだ」
頭上、ガラスの枝の間には青い空が覗いている。そこを黒い影が通り過ぎたという。
ウィルタに続いて春香も急いでガラスのトンネルから飛びだした。
砂漠を歩き始めて以来、シロタテガミは別として、全く生き物を見ていない。川下りの途中で上陸した一見何もないような砂礫の荒れ地でも、しばらく休憩していれば、小さな動物を見かけることはあったし、姿はなくとも砂や砂利の上に足跡が残されていた。獣の足跡は、そこが生き物が住むことを許された場所であるということを、暗黙の内に教えてくれる。
ところがフーチン号を後にしてからというもの、生き物の気配を全く感じなくなっていた。動物だけではない、ここには苔一つ生えていない。あるのは、ただひたすら乾いたガラスの砂だけなのだ。その生きとし生ける者の気配のないことが、二人の心に重苦しい風を送りこんでいた。ここは生ける者の来るべき場所ではないのではないか、その思いが心に巣くって離れない。
それが、もし自分たち以外にも生き物がいるなら、それは自分たちが、許された場所に戻ってきたということだ。期待を込めて二人はガラスの森から外に走り出た。
外では、シロタテガミがガラスの幹に寝そべり、空の一点を見上げていた。
二人もその方向に目を向ける。けれど頭上には青い空が広がるだけで、動くものなど何もない。シロタテガミが後ろ足で首の付け根を掻きながら言った。
「鳥だ、上空を飛んでいった」
シロタテガミの鼻面の動きをなぞるように、二人はぐるりと空を見渡した。
期待に反して何も見えない。それでも砂漠にほかの生き物がいたということが、二人を勇気づけた。きっと北から南の湿原地帯に飛んでいく渡り鳥だろう。鳥は砂漠のオアシスを経由しながら飛ぶという。
二人は鳥の影に励まされるように、また晶砂の砂漠を歩き始めた。
風の神様が悪戯心を起こしたのだろうか、進む先々で砂が吹き払われ、埋もれたガラスの森が姿を見せる。ガラスの森は美しい。しかしいつ崩れ落ちるか分からないので、通り抜けるのは危険だ。二人はガラスの森から少しだけ距離を取ると、付かず離れず森に沿って歩いた。
ガラスの森を見ながら砂丘を上り下りする。足枷になっていた拘束輪が外れ、足取りは軽くなった。一方で砂が細かくなってきたために、足元が崩れやすく、足を取られては何度も転倒する。それでも二人は、それを楽しむように砂を崩し転びながら進んだ。二人の浮かれた足取りに影響されたのか、なんとシロタテガミが、体をひっくり返して、足を上に向けたまま砂丘の斜面を滑り下りる。
砂丘は静止した波の連なりだ。時間を早回しすれば、風に吹かれて移動する砂の波が、本物の波のように寄せては引く様が見えるだろう。
日が西に傾き、夕日がガラスの森に照り映える。それは紅の水晶の宮殿が、砂漠に突然姿を現したような神々しさだ。ガラスの森の先端が、赤い光芒のやいばの最後の一太刀を浴びて、血に染まったように真紅に煌めく。
そして日没。砂漠は猛烈な速さで冷え込む。
森の中には入らず、周辺の倒壊したガラスの幹と幹の間に、西の曠野以来持ち歩いている手製の天幕テントを張る。もう満天の星の明るさにも驚かない。
燃料は二日前に尽きていた。コップ半分の水と板餅で食事を済ませる。シロタテガミは、春香が差し出した板餅を、そんな気持ちの悪いものが食えるかと、水だけを要求、そっぽを向いてしまった。野生の生き物は、数日くらいは食べなくても平気らしい。
そのシロタテガミが、夜の寒さを防ぐためなのだろう、器用に砂の中に潜り込み、頭を半分だけ砂から覗かせている。「トカゲのようね」と、春香が話しかけると、「野生の知恵だ」と切り返してきた。まだ無駄口を叩く余裕はあるようだ。
人間も寝袋に潜り込む。
眠りにつく前の一時、ウィルタが思い出したように火炎樹のことを話題にした。インゴットさんから聞いた話だという。それによると、火炎樹はどんな土地でも土さえあれば育つ。火炎樹の幹から採れる黒い樹液は、燃やせば燃料になるし、型を使えば、器でも家を建てる時の建材でも、どんな形の物でも作ることができる。あの四つ手網の櫓や、トゥカチの使っていた椀のようにだ。おまけに食料も火炎樹の樹液から作られる。この時代の誰もが食べている餅、あれも原料は火炎樹の樹液なのだそうだ。
ウィルタが寝袋の口を狭めながら言った。
「作っている現場を見ないことには、餅の原料が火炎樹の幹から出てくるドロドロの黒い液だとは、とても信じられないけどね」
「そうなんだ。最初にあの樹の黒い汁を見た時に、あっ、石油に似てるって思ったの」
「何だい、その石油って」
「大昔の海にいた生き物が死んで、海の底に積もって、それが何億年も経つうちに変化して、燃える黒い水になったものよ。ドロッとしていて火をつけると燃えるの」
「フーン、火炎樹の樹液と似てるね」
「でも、ウィルタの話を聞くと、使われ方も石油とそっくり。わたしのいた時代は、石油で何でも作ってたから。燃料に、繊維に、電気に、洗剤に……、あっ、でも食料は作ってなかったかな」
「食べたことはないけど、火炎樹の樹脂で肉も作ることができるんだって」
「ふーん、きっとそれ赤身じゃなくて、脂身ね」
寝袋の中でウィルタが、クックッと笑い声を上げた。
ただ板餅を半個食べただけなので、声に力が入らない。
「でもその万能の火炎樹が、枯れるとガラスに変わってしまうんだ。さっき火炎樹は土さえあれば、どこでも育つって話しただろう」
「ええ、だからタクタンペック村でも、ああやって川の運んでくる土を必死になって掻き集めているのよね」
「うん、土さえあれば育つ。でも一度火炎樹を育てた場所では、二度と火炎樹を育てることはできないって。つまり、火炎樹は土のあらゆる養分を吸い尽くして黒い樹液に変え、役目を終えると透明なガラスになって、枯れてしまうんだ。ガラスの樹は、やがて砕けて水晶の砂となり、後には苔も生えることのない晶砂の砂漠が広がるって……」
「そういえば、『水清くて魚棲まず』って言葉があったな。きっと、そういうことなのよね。ガラスの砂しかない世界に、生き物が住めるはずないもの」
空には天を横溢する星が瞬いている。星が多すぎて空に霞がかかったように見える。砂漠は昼間よりも夜のほうが賑やかだ。
それに砂漠の夜は急激に冷える。日中十度近くまで上がっていた気温は、日没と共にあっという間に氷点下に。服を着込んだまま寝袋に入っていても、外から忍びこんでくる冷気に、顔の皮膚が針で刺されたように痛む。
寝袋に完全に体を沈み込ませて寒さを我慢していると、頭の芯を突き抜けるような金属音が聞こえてきた。続いてバケツの中の物を一気に引っ繰り返したような音……。
急激な温度の変化で、ガラスに亀裂が生じて、火炎樹が崩れ落ちているのだ。
間近でガラガラという雷が落ちたような音が轟く。
驚いてテントから這い出た春香とウィルタが、震えながら崩落したガラスの火炎樹を見つめる。が直ぐに寒さに耐えられなくなって寝袋に戻る。
夜じゅう途切れることなく、火炎樹の倒壊する音が砂漠にこだました。それは晶砂が生まれる誕生の産声であったが、二人にとっては眠りを邪魔する騒音でしかなかった。
翌朝、朝日の昇る前に歩きだす。
結局、寒さと火炎樹の倒壊する音に悩まされて、昨夜は寝袋の中でうつらうつらしただけに終わってしまった。寒さは想像以上に体力を奪う。それに耐えるためにはエネルギーを補給しなければならないが、食料はあと三日分しか残っていない。それ以上に問題なのが水だ。切り詰め節約して飲んできたが、二人の水筒を合わせても、コップに二杯分しか残っていない。早く水を見つけなければ。二人はディエール川を目指して、ひたすら砂丘の連なりを西南西と思える方向に歩き続けた。
午後、眼前に起伏の少ない平坦な砂漠が戻ってきた。上り下りの激しい小山のような砂丘と較べて、歩くのは楽だが、逆に気持ちは辛くなる。砂の壁が目の前に立ちはだかっていた時は、砂丘の頂上に着けば川やオアシスが見えるのではと、行く手を想像する楽しみがあった。それが地平線まで見通せる平坦な地形では、ただひたすら何も考えずに歩くしかない。
次の日の午後、いかだを捨てて歩き初めて五日目、切り詰めながら飲んでいた水が尽きた。そして水がなくなるのと機を同じくして、風が吹き始めた。
砂が舞い、とても目を開けていられない。うずくまって風が止むのを待つ。
そうして砂まじりの風が止むと、また歩く。
水を飲まずに人が生存できる日数は一週間が限度と言われている。しかしそれはじっと体を動かさずにいる場合のことだ。ひたすら歩き、夜の寒さで体の熱が奪われて体力が消耗しつつあるなかで、果たしてどれだけ命が持つだろう。
夜になり寒さを我慢しながら固い板餅をかじるが、唾液が出てこない。いつまでも口の中に板餅の欠けらが残ってしまう。飲み込めないのだ。いやそれ以前に、食欲がなかった。
喉の渇きは食欲を抑えてしまうというが、本当だった。舌が口のなかで麻酔をかけたように無感覚になる。歯で舌を噛むと、まるで雑巾だ。
ウィルタは強引に板餅の欠けらを呑み込んだが、春香は口のなかに砕けた餅を含んだまま、意識を失うように眠ってしまった。
そして翌日。眠ってもほとんど体力は回復していなかった。先に体を起こしたウィルタが、春香のほっぺたを叩いて揺さぶり起こす。
寝袋をザックに押し込んで歩き始める。ウィルタが先になって歩く。その後ろを春香とシロタテガミが続く。春香はもう前を見ていなかった。足元に残るウィルタの靴跡を、一歩一歩足を引きずるようにして辿っているだけだ。
限界が近づいていた。
地平線に目標でも見えていれば、気力を奮い立たせることもできるだろう。ところが目の前にあるのは、相変わらずの見渡す限りの砂の海。どう考えても、地平線まで歩いて行くだけの気力も体力も残っていない。
春香が遅れだした。春香を支えようとするウィルタも、足元がふらついている。
荷物が肩に食い込む。捨てていいものは、すでに捨てた。カンテラもない。燃料を入れていた瓶など、いつ捨てたのかも覚えていない。重量のある手作りの天幕テントは、昨夜の場所に置き去りにした。ザックの中に残っているのは、寝袋とわずかな食料、それに空の水筒くらい。寝袋だけは、これがなければ夜の寒さで凍えてしまうから、捨てる訳にはいかない。それが……、頭でそう考えていても、何もかも捨てて身軽になりたいという欲求を抑えるのに、大変な努力が必要になっていた。
ウィルタがカラカラに乾いた喉から、かすれた声をシロタテガミに投げつけた。
「お前はいいよな、何も背負ってないんだから」
呼びかけに反応せず、シロタテガミは、膝を着いてしまった春香の方に重い足取りで戻っていった。春香の耳元でシロタテガミが唸る。
励まされて春香が重い腰を上げようとすると、春香の腕を引き返してきたウィルタが支えるように引き上げた。本当の限界が近づいていた。
よろけながら一歩、また一歩と足を運ぶ春香に、ウィルタが聞いた。
「シロタテガミのやつ、何って」
春香が乾いた唇をわずかに動かした。
「倒れるなら、体に水分の残ってるうちにしてくれ、かさかさの肉は食いたくないからって」
そのシロタテガミが、ばさばさの毛並みになってしまった体を揺すりながら、子供たちを追い越して行く。しっぽが、だらんと力なく垂れ下がっている。
ウィルタがシロタテガミの後ろ姿を見て、忌々しそうに拳を握り締めた。
「あいつ先に行っちまった、野生の動物って、しぶといな」
しかしシロタテガミは、しぶといから先に歩いて行ったのではない。シロタテガミにして、とうに限界は越えていた。それを押して先に行かせたのは、人間の子供たちと並んで歩くと、もう春香たちを噛み殺して血をすすりたくなる、その衝動を抑えられなくなっていたからだ。
次に砂まじりの強風が吹きつけた時、もうウィルタと春香に風を避ける気力は失せていた。二人は手を繋いだまま砂の上に倒れると、意識を失ってしまった。
人間の子供たちを後ろに残して、シロタテガミはゆっくりと足を引きずるように前へ前へと歩いていた。それは本能で歩いているだけだった。そして一陣の風がシロタテガミの体を横から煽ると、老齢のオオカミは、命の火が消えたようにガクッと膝をつき、崩れるように砂の上にうずくまった。
シロタテガミは前足の間に頭を埋めると、静かに目を閉じた。
そして薄れていく意識のなかで、自分の人生を思い返していた。
野生のオオカミと飼い犬の間に生まれた五匹の兄弟のうち、偶然にも自分だけが違う人生を送ることになった。兄弟と一緒に毛長牛の群れを追うはずが、曠野にさ迷い出てしまったのだ。彼方に兄弟と母のいる帰るべき家が見えていたが、自分は戻らなかった。そのまま曠野の奥へ奥へと歩いていった。思えばあれが人生の分岐点だった。
初めて一人で獲物を捕らえ、牙の間でジネズミを噛み砕いた時の感触。違う生き物の生温かい血が、口の中に流れ込んできた。そして群れへの合流、ボスとの抗争。自分が群れのリーダーになった。五歳の夏のことだ。
冬場、飢えで人を襲ったこともある。
オオカミとしては十分に生きたと思った。最後、はぐれオオカミとなって曠野で一人朽ちていくつもりが、ひょんなことで人と関わりを持ってしまった。
あの少女のせいだろう。オオカミと話のできる人間の少女。自分がオオカミの領分を越えて人と行動を共にしたのは、あの少女と出会ったからだ。残りの余生、飼い犬の子供として生まれた自分が、もしかしたら歩んだかもしれないもう一つの人生を、少しだけ垣間見てみたい。そう思ったのかもしれない。
自分は人と暮らす家畜の人生を蔑んでいたが、もう一度人生をやり直すとしたら、どちらを選ぶだろう。そんなことは、もうどうでもいいことなのかもしれない。それは自分の決めることではない。この世の摂理が決めることだ……。
艶の無くなったばさばさの毛並みの白い老狼は、薄れてしまった意識のなかで、遠い昔の記憶、自分の体を優しく嘗めてくれた母犬の舌の感触を思い出していた。
母犬が自分を呼んでいるような気がする。
しばらく後、吹き付ける風が老狼の体を砂に埋めていった。
第三十七話「岩船屋敷」・・・・第四十話「隊商」・・・・




