紡光メダル
紡光メダル
川下り三日目、午後。
河岸から段丘が消え、丈の低いヨシの草原や広い砂洲が連続するようになった。
オーギュギア山脈のこちら側は、本当に干天の大地だ。春香の生まれ育った土地は、海に近く湿度が高かったために、空は青色というよりも水色をしていた。それがここでは、絵の具を分厚く塗りたくったような濃い青をしている。最初はそれが重苦しく感じられたが、その絵の具のチューブから直接ひねり出したような原色の空にも馴れた。
青空をそのまま映した水面をフーチン号は流れる。水鳥の声もほとんど耳にしない。人家だけでなく、家畜の気配もぷっつりと絶えている。
静けさのなか、二人はなんとなく話を交わさない状態を続けていた。春香は備品袋を枕に横になっていたし、ウィルタはテントの口から顔を突き出したままだ。昨日の擦れ違いが後を引き、それをどう修復すればいいのか二人とも迷っていた。
外を覗いていたウィルタが、唐突に声を上げた。
「あれっ、何か動いている、魚かな」
水の濁りが取れてきたおかげで、川底の砂や石が見えようになっていた。その小石まじりの川底を、小さな影が行き来している。マトゥーム盆地の小川には魚がいなかった。それにウロジイと魚を引き揚げたのは、氷の底を流れる暗闇の川である。日の光の下で、水の中を素早く動きまわる魚を見るのは、ウィルタにとって初めての経験だった。
「あっ、あそこにも、今度は大きい、すごい」
これ見よがしの大きな声に春香が体を起こした。
いかだの傾きで、自分の背中越しに春香が川面を覗いていることがウィルタにも分かる。それでも、ウィルタは振り向かなかった。
川面に目をやる春香に、水面すれすれを泳ぐ小魚が目に入った。
「なんだ、ちっちゃい魚」
春香がばかにしたように鼻を鳴らすと、むっとしたように「違うよ、その下」と、ウィルタが言い返した。
「分かってる、見えてるわよ、はいこれ」
春香がウィルタの顔の前に手を突き出した。透明なケースが握られている。備品袋に入っていた釣りの道具のセットだ。
振り向いたウィルタに「食料足りないんだから、少しでも補充しなきゃ」と、春香が明るく話しかけた。ところがウィルタは、渡されたケースを手に困惑した表情を浮かべている。道具の使い方を知らないのだ。
気づいた春香が、ウィルタの手からケースを取り上げると、「教えてあげる。わたしも二、三回やっただけだから、詳しい訳じゃないけど」と言って、ケースの蓋を開けた。
釣針に糸を結ぶ春香の指先を見ながら、「餌がいるんだろ」と、ウィルタが聞く。
「板餅の欠けらが使えると思う、ごはん粒でフナを釣ったことがあるから」
「フーン、じゃあこれが役に立つかな」
ウィルタがポケットから茶巾絞りのように小さく縛った端切れの布を取り出した。開けると中に餅くずが入っている。タクタンペック村で、トゥカチの小屋の出窓に小鳥が来ていた。その鳥にやろうと取り分けておいたものだ。その餅くずを指で摘み、針に付けて、いかだの縁から水の中に垂らす。小さな白い欠けらが水に沈んでいく様子を、二人はいかだの縁から顔を突き出して見つめた。
「釣れるかな」
「食いしん坊の魚がいればね」
春香がそう言ったとたん、強い引きがあった。水面のゆらぎで水の中は見えない。しかし黒い物がいかだの影から飛び出したのは確かだ。糸がピンと張って、春香の手がぐっと引き下ろされる。ウィルタが手を差し伸べようとした時には、春香はワッと叫び声を上げて後ろにひっくり返っていた。
勢い余って、横にいたウィルタともども、マットの上に倒れる。
切れた糸の先を見ながら、春香が悔しそうに口を尖らせた。
「残念、糸が切れちゃった」
「大物だったの」
「きっとね」
そう答える春香の糸を持つ右手の袖がめくれて、赤く腫れた手首が覗いていた。
「虻に刺されたところ、まだ腫れてる、ごめんね気がつかなくて」
寝っ転がったまま、ばつが悪そうに謝るウィルタに、春香が軽く手首を振った。
「かゆみは止まったし、腫れも朝よりは小さくなったから、気にしないで。わたしも酔いが止まらなくて苛々してたの」
昨日からの重苦しい気持ちをさらりと水に流すように、春香は謝罪の言葉を口にした。
その詫びる照れ臭さを誤魔化すように「それより問題はこっち」と、春香が自分の足首を指でトントンと叩いた。足首と足首をつなぐ金属石の鎖と拘束輪だ。
足を動かすと鎖がチャラチャラと人を小バカにしたような音をたてる。しかし音の軽さとは対照的に、丈夫で堅牢な鎖だ。
「これをどうにかしなくちゃ」
春香の切実な物言いに、ウィルタが同感とばかりに足の間の鎖を動かした。
正午過ぎ、二人はヨシの間の砂浜にフーチン号を寄せた。
固く締まった砂の浜である。日中にのびのびと背を伸ばすのは、久しぶりのこと。でもそれは上半身だけで、足には相変わらず拘束輪と、それをつなぐ鎖が填まっている。
この間、拘束輪の鍵穴を、手持ちのありったけの道具で弄ってみたが、外れる気配は全くなかった。拘束輪を外すことができないなら、何とか鎖だけでも断ち切りたい。ところが一個一個が小指ほどの鎖の輪は、特殊な合金で作られているらしく、鉄のバールで叩いても傷一つつかない。どうすれば、これを外せるか……。
岸に打ち上げられたヨシの根元は、干天の下でカラカラに乾いている。それを二人で手分けして集める。堅いヨシの根元が積み上がると、ウィルタが紡光メダルを取りだした。オーギュギア山脈の反対側、西の曠野で使ってからというもの、空に太陽が顔を覗かせている時は、いつもこれで火をつけていた。
紡光メダルは赤ん坊の手の平ほどの大きさで、二枚の円盤を重ねた構造をしている。くすんだ灰色は、どう見てもガラスのように光を通すとは思えない。それが光を通すだけでなくレンズの役割も果たすのだ。
ウィルタはメダルの端を両手で挟み持つと、それぞれの円盤を逆方向に回した。二枚のメダルが最初の角度から九十度ずれると、メダルは透明に変わる。それがレンズを励起させた状態だと、タタンは説明した。
メダルの裏にロート状の光が現れ、ロートの先端から先は光の糸となって下に伸びる。メダルを回すにつれて、光の糸は絞り込まれて細くなる。二枚のメダルをそれぞれ九十度、都合百八十度回転させると、紡がれた光は目に見えないほどの細い糸に収束。
ウィルタはメダルを完全に回し切る前に止めた。百七十度くらい回した時の光の太さが、もぐさを燃え上がらせるには最適というのが、この間メダルを使ってきての実感だった。
ウィルタが、光の糸の先端をもぐさの上に移すと、ほんの数秒で白い煙が昇り始めた。そこに横から静かに息を吹きかける。
小さな炎が姿を見せると、あとは集めたヨシの茎や根茎の堅い部分を少しずつ足しながら、火を大きくしていけば良かった。
もう何度も見ているのに、春香は魔法を見るような目でウィルタの手際を眺めた。
「ほんと、それって不思議、まるでレーザーみたいね」
「レーザーって」
「ウーン、どう説明すればいいのかな……」
言葉では知っていても、それが理屈としてどういう現象なのかを、春香は理解していない。空を見上げてしまった春香にウィルタが吹聴する。
「タタン曰く、これは光の紡垂器なんだってさ、古代の遺物だよ」
「でも、わたしの時代にはなかった道具よ。なら、わたしからすれば、未来の遺物ということだわ」
言葉のレトリックが分からなかったのだろう、ウィルタは一瞬考え込むように眉間にしわを寄せたが、意味に気づくと「それ、ややこしいな」と、大げさに苦笑した。
ヨシが景気よく炎を上げ始めた。
「すげえな、やっぱ、古代の遺物は!」
「未来の遺物よ!」
春香が笑って意地を張る。しかし昨日のような意地の張り方ではない。茶化しているだけだ。
「とにかく、タタンに感謝。これさえあれば、マッチがなくても火には困らないもん」
「ほんと、そうね」
ウィルタは立ち上がると、春香を促した。
「春香ちゃん、ヨシの茎の堅そうなところをどんどん放り込んで」
ウィルタは、焚火の後に残るオキのような物が、ヨシの根元の堅い部分でできないかと考えていた。二人で堅いヨシの根茎を次々と火に放り込む。盛大に燃え上がった火が落ち着くと、上手い具合にオキらしきものが円形に残った。
ウィルタは両足をいっぱいに開くと、鍋でオキをすくって鎖の上に被せる。そして頃合を見て、オキを撥ね除け、がに股歩きであたふたと水の中に走り込んだ。
川岸には朝の氷が融けずに張りついている。ジュッと焼けた鎖が悲鳴を奏で、金属石特有の胡椒のような粉っぽい臭いが、蒸気と共に立ち昇る。思わずくしゃみをしそうになるのを堪え、急いで水から上がって、冷えた鎖を河岸の石の上に乗せて鉄のバールを叩きつける。気合を入れて一度、二度、三度目にパキンという冴えた音がして、割れたガラスのようなヒビが入った。さらに一打ち、鎖はあっけなく砕け散った。
春香が「やったやった」と、はしゃぎながら拍手する横で、ウィルタが肩で息をついた。
半刻後には、春香の鎖も砕けた。
二人は久しぶりに両足を広げると、川岸の砂の上にゴロンと横になった。
ウィルタがしみじみと漏らす。
「こんなに苦労するんだったら、逃げ出す前にトゥカチちゃんに拘束輪の鍵も頼んでおくんだったな」
「仕方ないでしょう、鍵はダコンバさんが管理してたんだもの。馬将譜大会のおかげで逃げ出せただけでも、運が良かったと思わなきゃ」
「そりゃそうだけどね」
日差しを浴びながら、二人は久しぶりの自由を楽しむかのように、足を広げては閉じた。素足になるのは本当に久しぶり。ただ足首には、まだ拘束輪が切れた鎖を付けた状態で、喰らい付いている。ウィルタは胡坐をかくように片足を折り曲げると、拘束輪に鉄のバールをガシガシと打ち付けた。しかしヒビ一つ入らない。
「こいつをどうやって外すかなんだよな……」
上空を見上げて眩しい陽光を確認すると、ウィルタはもう一度紡光メダルを取り出した。二枚の円盤を回転、励起させて太陽にかざす。日射しは目で判別するのが難しいほどの細い糸に変わる。その針の先のような光の糸を、拘束輪の上に移動……。
手を動かさずに、じっと紡光メダルを保持していると、拘束輪の上に赤い斑点が現れる。表面が高温になっている。しかしそこから紡光メダルを横に動かしても、赤い斑点が移動するだけで、元の場所は直ぐに灰色に戻ってしまう。ゆっくり動かしても同じだ。きっと紡光メダルで集める太陽の光では、いくら絞り込んでも、金属石を融かすほどの温度にはならないのだ。あわよくばナイフのようにスパッと拘束輪が切断できないものかと期待していたウィルタは、「ダメだ!」と投げやりな声を漏らしつつ仰向けに倒れこんだ。
「欲張んなくていいじゃない、今日は鎖が切れたのでオーケーよ」
「そうだね」と言ったものの、ウィルタは残念そうに空を見上げた。
朝は氷が張るほどに冷え込んでいても、日中は暖かい。それに寝転がると、日差しで熱っせられた砂の温もりが、乾布摩擦でもしたようにホコホコと背中から伝わってくる。
ウィルタがつい数日前のことを懐かしむように、ウロジイの小屋の床暖房が温かだったことを口にした。ところがいつもなら直に相槌を打つ春香が何も答えない。
オヤッとウィルタが横目で見ると、春香は空を見上げたまま眉間にしわを寄せていた。
春香が中天を少し過ぎた太陽を片手で遮りながら、ウィルタに聞いた。
「ねっ、ウィルタ、お日様って、ずーっとあんな高い所にあったっけ」
思わぬ質問に首を傾げたウィルタだが、すぐに「なに言ってんだよ、まだ昼の一時だから、高い所にあって当たり前だろ」と、馬鹿にしたように答えた。
「ううん、そういうことじゃなくて、いつもこんな上に昇ってたっけ、前はもっと低い所じゃなかった」
「今は九月の末だから、正午で真上より少し傾いているので当然じゃないか」
春香が、ポカンと口を開けたまま、ハ〜ッと気の抜けたようなため息をついた。
「気がつかなかった、九月で太陽があんな高いところにあるなんて。わたし、自分がいるのは、もっと地球の上のほう、緯度の高い所だと思ってたの」
自分の喋ることに自分で頷きつつ、春香が声を震わせた。
「そうだったんだ、わたしがいるのは、赤道より少し上の場所なんだ。わたし、九月なのに雪が降ってたから、てっきり寒い地方だとばっかり思ってたの。でもそうよね、地球の気候が寒くなったのなら、緯度の低い地方でも、このくらいの寒さなのよね」
この世界に目覚めて以来、春香は地球が寒くなったということを何度も耳にしてきた。
ただそれを実感として理解したのは、この時だった。そして昔の北回帰線の辺りでも、九月のこの時期に川に氷が張っているということに、今更ながら驚いていた。
春香が目を潤ませ独りで頷いているところに、シロタテガミが戻ってきた。
「お帰り、どこへ行ってたの」
「食事」
ぶっきらぼうに答えるシロタテガミの口のまわりに、赤い血がついている。
突然現実に引き戻されたように、春香がシロタテガミの口元を冷たい目で睨んだ。
視線を感じたシロタテガミが、ブルッと鼻を鳴らした。
「なんだその目は、別に人を食ってきたのではない。ジネズミを二匹食べただけだ。まったく人間というのは勝手だな。おまえたちだって肉を喰らうだろう」
「それはそうだけど」
「そんなことより、向こうで人影を見た、出発したほうがいい」
そそくさと腰を上げると、二人はフーチン号に乗り込み川面にいかだを漕ぎ出した。
さらに二日、ミルコ川を下る。
川岸からヨシが消えて、表情の乏しい砂の大地が広がるようになった。陸の単調さと呼応するように川の水は澄み渡り、それに合わせて魚の姿も見かけなくなった。どちらを向いても同じ風景が続いているので、どれだけ川を下ったのかが分からない。自分たちが流れているのかどうかさえ分からず。ただぼんやりと水面に浮いているという感じだ。見える物といえば、水面と、真っ青な干天と、砂の浜だけ。
余りにもゆったりとした時間が流れ、果てしなくこの状態が続きそうに思える。すでに食料の半分は食べてしまった。まだ十日分残っているとはいえ、こんなに何もない世界にいると、不安の芽がもたげてくる。この数日で変わったものといえば、河岸の砂礫に透明なガラスの砂が混じり始めたことくらいだ。
さらに一日が過ぎる。
もうそろそろ、ディエール川に合流してもいいと思うのだが、救命いかだの上は視点が水面とほとんど同じなため、単に川幅が広がっているのか、ほかの川が合流してきたのか判別がつかない。それに中洲があると一時的に川が幾つもの川筋に分かれたりもする。今の川幅からすれば、すでにディエール川の上を流れている可能性もあった。
とにかく今は流れに任せて、川を下り続けるしかなかった。
川を下り初めて七日目。
久しぶりに岩の多い地形に差しかかった。水深が深くなり魚の姿もチラホラと見かける。川底の砂にガラスの欠けらが混じっているらしく、水を通して射し込む太陽の光が、水底で光の粉を散らしたように輝く。その砂の上を、平たい木の葉のような魚が、小魚を追いかけて体を反転、銀鱗が太陽の光を鏡のようにキラッキラッと眩しく反射する。
今度魚を見つけたら絶対に釣り上げてやろうと、二人はそれぞれに針と糸を準備していた。針は備品のものを使うとして、問題は糸。備品の糸はもう風化が激しく、強く引っ張ると簡単に切れてしまう。そのため手ぬぐいを解して糸を作った。結び目ばかりで不恰好な糸だが、リウの繊維は丈夫で少々のことでは切れない。それに水深からして、長い糸は必要ない。前に取り逃がした大物クラスに挑戦したかったが、今は自分たちの下を泳いでいる小魚でも充分。いかだの上で寝転がるだけの毎日には、飽き飽きしていた。
まずはウィルタから。
ウィルタは、前回のことが頭にこびりついているのか、糸の端をロープに結んでいた。
ところが何度試しても、小魚たちが餌のくず餅をつついて針だけにされてしまう。しばらくやって春香に交代。春香はくず餅を湿らせ指先で練って団子にしていた。これなら少しくらい小魚たちが悪さをしても大丈夫だ。
「さすが、二千年前の魔女は違うや」
ウィルタが手放しで誉めた。
二つ目の団子で、春香は見事に木の葉の魚を釣り上げた。
さっそくウィルタも真似をして、餌を団子にしてチャレンジ。ところが針を合わせるタイミングが合わず、餌だけ取られてなかなか釣れない。それに先に魚を釣り上げた春香が、にやにやしながら見ているのが気になって仕方がない。つい焦ってしまう。
「後ろを向いていようか」と、春香がシロタテガミの背中を撫でながら冷やかす。
「大丈夫、今度こそ」
気負い込んで言った直後、ウィルタが「ワッ!」と声を上げた。
糸がブルブルと震えている。大物だ。
「この前のよりも大きい!」
叫ぶウィルタの握った糸がピンと張り、その糸の方向にいかだがゆっくりと動く。魚に引っ張られている。慌てて春香が加勢するが、子供の力など関係ないとばかりに、握りしめた二人の手の間から糸は引き出されていく。糸から、結んだロープへ。
どうしようと、二人が顔を見合わせた時、今まで無関心に寝そべっていたシロタテガミが、首を振るようにして起き上がった。見ると毛が逆立っている。
「どうしたの?」
「大地の唸りだ!」
シロタテガミの声に続くように、地鳴りのような音が辺りを震わせ、同時に水面が激しく波立ち始めた。風だ。風が吹き始めた。
春香はトゥカチの忠告を思い出した。
これはきっと……、この地で突然吹き荒れるという、山下ろしの突風に違いない。
いかだのテントが風に打たれてバコバコと鳴り、しぶく水面から水の飛沫が救命いかだに降りかかる。とにかくテントの口を閉めなければ。そう思って春香が糸から手を離した瞬間、フーチン号が魚を中心にしてグルリと回転、風上に向いたテントの口が風を孕み、弾けるような音をたてて脹らむ。魚がアンカーの役割をしたのだ。
ウィルタがギャッと叫んでロープを離した。
手を押さえてうずくまるウィルタをよそに、シロタテガミが警告を発した。
「風が来る。早く入口を閉めろ」
言われなくても、春香にも体を揺るがす地鳴りの音が聞こえていた。しかし強風に翻弄され、水面を滑走し始めたいかだの中では、思うように手足が動かせない、テントの口のフックが掴めず焦る春香をあざ笑うかのように、風の唸りは高まり、直後、ドンと何かがぶつかるような音がしたかと思うと、フーチン号は水から浮き上がり、川岸目がけて吹き飛ばされていた。
風は突然、何事も無かったかのようにピタリと止んだ。
実際に風が吹いていたのは、数分程度だったように思う。ようにというのは、春香とウィルタは、しばらく気を失っていたからだ。
外を見ると、なんとフーチン号は川から遠く離れた岩と岩の間に運ばれていた。川岸までたっぷり二百メートルはある。強風のせいだろう、さっきまで見かけなかった、砂丘のような砂の盛り上がりが、あちこちにできている。
フーチン号を調べると、下のチューブと、上のテントの接合部分が、半分以上も引き剥がされていた。突風を孕んだ勢いで繋ぎ目が破れたのだ。
小一時間かけて、フーチン号を川岸まで引きずって運び、恐る恐る水に浮かべる。幸いマットから水は沁み出してこなかった。
日没にはまだ三時間ほどあるが、川岸の岩に苔がたくさん付いているのを見て、今夜はこの場所に泊まることにした。この数日、火をおこすヨシも苔も何もない場所を下っていたので、久しぶりに温かいものを口にしたかった。
岩に付いている苔は枯れて風雪を経たような蹄苔で、芯の部分だけが岩にこびりついている。その蹄苔を岩から剥がして分かった。辺りに散らばっている岩は、どれも砕けた経柱なのだ。砂に曝され風化しかかってはいるが、所々経柱の表面に経文を彫りこんだ化粧石が残されている。辺りに散らばる石の数からすれば、かつてここには経柱が林のように立ち並んでいたことになる。宗教施設でもあったのだろうか。
経柱に染み込んだ読経の高鳴りが、どこからともなく聞こえてきそうだ。
春香とウィルタは、その倒れた経柱に手を合わせた。
それはそれ、昼間は小春日和のような陽気でも、日が傾くと滝を下るように気温が下がる。川岸に張りつく氷が、眠っていた生き物が目を覚ましたようにムズムズと水面の上を伸び広がっていくのが分かるのだ。
蹄苔を剥がして火をおこし、昼間釣った木の葉のような魚を焼く。
「私のいた世界では、魚を生で食べることがある」という春香の話に、思わずウィルタが「それじゃ、まるで生肉を食べるオオカミじゃないか」と放言、慌てて口を押さえた。
そして小声で「今のは、シロタテガミに通訳しないでいいから」と、つけ加えた。
くしゃみのように鼻を鳴らして、シロタテガミが皮肉る。
「これだけ一緒にいれば、何となく何を言っているのか分かる。どうせ野蛮なオオカミには、生の魚を食わせておけばいいとでも言ってるんだろう。オオカミからすれば、皮を剥いで、肉を火に炙ってかぶりつくことの方が、よほどおぞましく感じられるがな」
シロタテガミの冷ややかな目つきに、ウィルタが春香に耳を寄せ「あいつ、今なんて」と小声で尋ねる。
春香は両手で顔を覆うと「んーっ、二人とも通訳し難いことを話さないで。どっちもどっち、似たようなことを言ってるの」と、大げさに首を振った。
日が沈み空に満点の星が輝き始める。
空気が乾燥しているからだろう、煩いほどの星だ。星が多すぎて星座が分からない。星の少ない空の方が、一個一個の星の輝きは美しく見えるものだ。
夜の風が吹き始めた。ここまで来ると、オーギュギア山脈も遙か西の地平線に横たわる低い丘でしかない。しかし風は、はるばるそこから吹き下ろしてきた風だ。
日没後、砂漠は体の芯まで凍りつく厳冬の世界に変わる。
こんな人気のない場所なら苔を無駄使いしてもいいだろうと、ウィルタが剥がした蹄苔を山のように盛り上げて火をつけた。赤々とした火が燃え上がる。赤い火の粉が風に舞い、頭上に吹き上がって、零れるような星々の輝きに吸いこまれていく。まるで火の粉が星に変わっていくようだ。二人は飽きもせず、焚火を掻き混ぜては空に火の粉が舞い、星となって散っていく様を楽しんだ。
それを白毛の老いたオオカミが、不思議なものでも見るように眺める。
四つ足としては格段に何にでも興味を持ちたがる老狼だったが、そのシロタテガミにして、火だけはそれを戯れる物として見ることができないようだ。まるでそれが自分と二本足の違いだと認じているかのように、舞い下りてきた火の粉を首を振っては避ける。
風の精が頬を膨らませて吹きつけたような一陣の風が焚火の炎をさらい、無数の赤い星を空にまき散らす。
外套の頭巾を下げて星空を見上げた春香が、心の中で呟いた。
「あーあ、どうしてこんなに世界になっちゃったんだろう」
誰も答える者とてない砂の原野の只中で、空には二千年前とほとんど同じ配列で瞬く無数の星があった。春香がこの世界に目覚めてからまだ四十日余り、しかし春香としては、たっぷり一年はこの世界で暮らしたような気がしていた。
川を下り始めて八日目。
風もなく音の絶えた川面が、水鏡となって陽光を眩しく照り返す。午後の日射しに暖められたフーチン号の中には、眠気を誘う気怠さが漂っていた。
ウィルタは飽きもせずに水のなかを覗いていたが、あの突風以来、魚の姿は消えていた。
ウィルタとしては、今後の食料のことも考え、大物とまではいかなくても、木の葉の魚くらいは釣り上げようと勇んでいたが、姿がないのでは仕方がない。
水のなかにも、川の周りの砂の平原にも、動く者の姿はなかった。砂はすでにサラサラのガラスの粒に変わっている。
川下り九日目。
いったいどれだけ下ったろう。川は蛇行を繰り返しているから、単純に下った日数で移動した距離を計ることはできない。あえて計算すれば、自分たちの歩く速さよりもやや速い、一時間に五キロの速さで、夜明けから日没まで、途中の休みも入れて一日十時間下ったとして、九日間で四百五十キロメートル。
改めて西方を眺めれば、すでにオーギュギアの峰々も、その白い稜線は地平線の下に没している。川幅は三百メートルくらいか。ただ以前と較べ、やたらと浅いところが多くなってきたように思う。
そして川下り十一日目の午後、唐突に川下りは終わった。
それは本当に突然の出来事だった。
好天に微風、フーチン号の中はポカポカ陽気で、二人が心地良く惰眠を貪っていると、いかだが何かに引っ掛かるようにして停止した。
二人がテントの口から顔を出すと、川は浅い水溜まりとなり、川幅もほんの数十メートルにまで狭まっていた。中洲の水路にでも入り込んだのかと思い、辺りを見回すうちにも、あれよあれよという間に、川の水はフーチン号を残して砂に吸いこまれていく。フーチン号から川が離れていく様子は、まるで海の引き潮である。川が後退しているのだ。水のあるところは空を映して青い鏡のように見えるが、地平線まで伸びている青い川の流れは、すでに途中でプツリプツリと途切れ、その切れ目がどんどん拡がっている。
唖然とする二人の目の前で、ものの二十分ほどで、川は完全にその姿を消してしまった。
川が流れていたはずの方向には、ただ見渡すかぎりの砂地が広がっている。
川が無くなってしまった。
川の先端が、昼と夜で前進と後退を繰り返しているのだろうか。それとも夏を過ぎて水量が減ったために、川が山の方向に後退しているのか。原因は分からない。
とにかく川は蜃気楼の逃げ水のように、ウィルタたちをフーチン号とともに砂漠のなかに置き去りにしてしまった。
周囲は三百六十度、起伏のない平坦な砂の大地で、立ち尽くす二人に、中天高く昇った太陽が強い日差しを投げかけ、サラサラの砂が太陽の日差しを受けて刺すように輝く。
地図を広げ、自分たちがフーチン号で下っていたであろう川を指でさらう。ところが地図の中のディエール川は、砂漠の南西部をしっかりと横切っており、途中で切れたりはしていない。
ウィルタは知らなかったが、砂漠を流れる川は、風で動く砂によって、頻繁に流路を塞き止められる。行き場を失った川は、砂漠の起伏のなかを出口を求めてさ迷い、日々新しい流路を作り出していく。問題は新しい流れが何本にも枝分かれした場合で、最終的に本流となる流れ以外は、迷い川となってそのまま砂漠に流れ込み、やがて砂に水を吸い取られて消えてしまうのだ。
下った日数からして、ミルコ川は、すでにディエール川に合流しているはずで、このまま大河の上を流れていけば、いずれ砂漠を抜けて大陸中部のドバス低地に到達できるものと、二人は思い込んでいた。川幅が数百メートルもある大河が、分岐して迷い川となり、砂漠に流れ込んでしまうなどとは想像もしていなかった。
川の後退していった方向に様子を見に行っていた春香が戻ってきた。
抑えてはいるが表情が固い。絶望が眉の傾きに滲んでいる。
「だめ、川の流れてた跡が分からないの、砂もサラサラに乾いちゃってるし、それに風でどんどん砂が動いているから……」
地図を開いたまま、ウィルタがぼんやりと座り込んでいる。余りの出来事に放心状態に陥っている。
「何が起きたのだ」
尋ねるシロタテガミに、春香が悲壮な顔で伝えた。
「意地悪な川に、砂漠の真ん中に置いてきぼりにされたの」
「置いてきぼり、川のある方向が分からないのか」
シロタテガミが首をもたげて辺りの臭いを嗅ぐ。濡れた鼻先をピクピクと動かし、目を細めては体の向きを変える。
「風で水の匂いがどんどん動いているから、およそでしかわからんが……」
シロタテガミが鼻面を、ある方向に向けた。
ところがその方向は、いま春香が様子を見てきた干上がった川底とは逆の方向である。
それにそのシロタテガミの示す方向にしても、地平線まで見えるのは砂、見渡す限りの砂だ。シロタテガミが困惑したように四本の足を立ち竦めた。
「いかん、また向きが変わった。これは……、水の匂いでは、川の位置は把握できん」
春香は、この老獪なオオカミが初めて耳を垂れるのを目にした。
風が吹き始めた。肌に感じるくらいの強さだ。
乾いた砂が滑るように流れる。春香が残した足跡も見る間に掻き消されていく。
いかだが取り残された時に、後退していく川の方向に目印でも付けておけば良かったのかもしれない。しかしあの時は、とてもそこまで冷静に物事を考える余裕はなかった。
仁王立ちに地平線を望みながら「どうしよう」と、春香が問いかける。
しかしウィルタは眉根にしわを寄せたまま口を開かない。
先日、一時間余りフーチン号を引きずって歩いた苦労を思い返せば、見えない川に向かって延々いかだを引きずるなどということは、絶対にできない。ここからは歩いていくしかない。では、どちらに向かって歩けばいいのか。川が見えれば、あるいは川のある方向が分かれば、そちらに向かって歩くことはできる。でもその川が分からない。どちらを向いても砂の海なのだ。春香が様子を見てきた方角に川があったとして、蛇行している流れのことを考えれば、川が今もそちらの方角にあるとは言い切れない。進む方向が十度違えば、五十キロ先では、それは十キロ近い距離の差になってしまう。
闇雲に歩いても、体力を消耗するだけだ。
春香は、ウィルタを促し、もう一度地図に目を落とした。元々、折り目の部分などは印刷が剥げて、破れも見える中古の地図である。旅に出てからの紆余曲折の跡が汚れとなって染みついた古文書のような地図を、心を落ち着け、じっくりと眺める。そうするうちに、水色の川の線から砂漠に向かって薄い破線が何本か伸びているのに気づいた。気が動天していて気づかなかった破線だ。何も明記されていないが、おそらくは夏場の増水時に砂漠に流れ込む迷い川を示した破線だろう。そのことに思い当たって、少し心が落ち着く。が、それで自分たちが砂漠に取り残された状況が変わる訳ではない。
何とか川筋に戻らなければ……、
水の上を漂っていることに安心して、水筒には半分しか水を入れていない。これまでの経験で、それは一日半の水の量だ。どんなに節約しても四日が限度。その四日の間に、とにかく川か水のある場所に、辿り着かなければならない。
それに水だけでなく食料のこともある。
食料はあと一週間分。これもどこかで補給しなければ……、
川に辿り着いたとして、一週間以内に人の住む場所に行き着けるだろうか。流路がどんどん変わってしまうような川の縁は、さぞや住み難いに違いない。人がいなければ食料も手に入らない。
荷物を背負っていることを考え、一日に二十五キロ歩くとして、一週間で二百キロに足らない距離だ。川沿いを歩いたとしても、川は蛇行しているから、直線で考えれば、実際にはそれよりも短い距離しか歩いたことにならない。それに自分たちは足に拘束輪を付けて、鎖を引きずっているのだ。砂で足元が不安定だから、歩ける距離はもっと短くなる。一週間くらいでは、東西二千キロ、南北三千五百キロの大砂漠の縁を掠めるほどの距離しか先に進めない。
その一週間の間に食物が手に入る所に到達できなければ、あとは飢えるしかない。
だがそれもこれも、うまく川まで到達できればの話だ。
そしてそれ以前に、どの方向に向かって歩けばいいのか。
とにかく西に向かえば、いずれはディエール川にぶつかるはず。その西をどうやって確かめるかだ。磁石は山脈の向こう側で失くし、春香の時計はタクタンペック村でグッジョに取り上げられた。方角を判断できる物といえば、後は太陽か星……。
しかし、いま太陽は中天にある。
三百六十度地平線しか見えないのでは、進むべき目標を設定できない。朝夕の太陽の位置がはっきりしている時間帯は別として、日中に方位を維持して歩くのは難しい。
では夜、星を座標にして進む場合はどうか。北極星を目印にして歩けば、方角を間違わずに歩けるだろう。けれど夜間、気温は氷点下を大きく下まわる。
寒さによる体力の消耗が気掛りだ。
考え込んでしまったウィルタを脇に置いて、春香はシロタテガミとなにやら話をしていた。ウィルタが考えこむ性格であることは、この間の旅を通して春香にも分かってきた。曠野育ちということは、何か自由奔放に動きまわる人をイメージさせる。しかし町で生きるよりも、自然の中で生きることの方が、よほど慎重さを要求されるのだ。自然のなかでは、一歩判断を誤れば、それが死に直結することがあるからで、その用心深さがウィルタにはあった。もちろんそれだけではなく、ウィルタ自身の個性もだ。
春香は、ウィルタが自分から考えをまとめ、口を開くのを待っていた。
ただこれはせっかちな春香の性格かもしれないが、すぐに痺れを切らしたように「どう、考えはまとまった」と、先に口を開いてしまった。
ウィルタが悩ましげな顔で春香を見やる。まだ考えがまとまらない様子が、ありありと見て取れる。その困惑した顔のウィルタに、春香がシロタテガミを指して「彼がいいアドバイスをくれたわよ」と告げた。
顔を上げたウィルタの前で、シロタテガミが足先を砂の波紋の上に置く。それを何度か繰り返す。まるで風の残した波紋に意味があるとばかりに……。
シロタテガミの動きに合わせたように、「方角が定まんなきゃ、歩き出せないわよね」と、春香が話を切り出した。
ウィルタが無言で頷く。
「シロタテガミが言うには、川が砂漠を流れるようになってからは、風はほとんど同じ方向から吹いていた。川が蛇行しているから分かり難かったけど、そうだったって。だからその風に向かって歩けば、元来た方向に戻れるはずだろうって」
「でもそれじゃ、風が止んだら歩けない、それに……」
春香がまだ説明が途中よとばかりに、首を振った。
「足元を見て、わたしも風を感じながら歩けるとは思わないわ。でも足元にはいくらでも風の跡が残っているでしょう」
ウィルタがハッとしたように足元に目を落とした。風に動く砂が、小さな波紋を一面に残している。風紋だ。風紋のなだらかな側が風上で、山脈の方向。波紋の急な側は、その反対だ。厳密なものではないだろう、でもそれが逆になることはない。
ウィルタの顔がパッと綻んだ。
「そうか、分かった、砂の波紋を見て歩けば、いちいち方角を確認する必要はない。それに昼だって夜だって歩ける」
「そういうこと」
ウィルタは、砂の上に腹を下ろし、あくびを付いているシロタテガミに歩み寄ると、その首に抱きついた。白いタテガミから一本白銀の毛が抜けて、ふわりと風に乗る。
シロタテガミは、何を大層なとばかりに首を震わせると、早く出発しようと、風に舞う毛と反対の方向、風上に向かって首を振った。
二人は直ぐにザックに荷物を詰めると出発した。
進むべき方角は、元来た場所に戻る真西ではなく、やや南寄りの西南西とする。理由は少しでも旅を先に進めるためだ。また歩いていく以上、荷物は最低限の物に限る。いかだの備品で持っていきたい物もあったが、潔く諦める。
荷物ができると、折れた角材を繋いでポールとし、それを砂の上に立てた。そして先端に、破れたフーチン号のテントの布地を、オレンジの旗のように縛りつけた。
理由があった訳ではない。でも自分たちを氷の底から救い出してくれたフーチン号に、最後の餞別をしたかった。
二人がフーチン号を名残惜しそうに撫でているのを、シロタテガミが首を傾げて見ていた。
そして歩きだす。砂の波紋を斜めに切り崩すように進む。西南西の方角にだ。
出発して直ぐのこと、シロタテガミが春香に近づき軽く唸った。
「さっきのは、あれで良かったのか」
「うん、ありがとう」
春香は心のなかで、そう答えた。
つまり、先程の砂の波紋を見て進むという案、これをシロタテガミのアドバイスと称したのは、春香の嘘である。春香は子供の頃に読んだ砂漠の冒険記のなかに、そんな記述があったのを思い出した。それが本当に有効な方法かどうかは分からない。全くの作者の作り事のようにも思える。けれど、方角を特定できないまま、砂漠の中でじっとしていても駄目なのは確かだ。先に進むには、考えることよりも歩き出すことだ。
そう思った時、そのきっかけに、この案は使えると思った。
ただ、ウィルタにその方法を提案する段になって迷った。
ウィルタは山脈を東に抜け出てからというもの、すごく神経質になっている。初めての世界に放り出されれば誰だって上手く立ち回れないのは当たり前、なのに、いつも上手くいかない事がある度に、苛々するか落ち込んだ表情を見せる。そして春香が昔の知識を口にすると、不快な顔をするようになった。どうやらウィルタは、知識や経験の少ない自分にコンプレックスを抱いているようだ。そのことが春顔の頭をよぎった。
だからあえてシロタテガミから教えられたように振る舞って、ウィルタに助言することにしたのだ。それが功を奏した。
春香はちょっぴり自慢だった。自分の頭の中にある知識は、そこにあるだけで、実際に役に立ったことがない。それがこの砂漠での脱出には、決定的な役割を果たせそうだったからだ。おまけに同行者のウィルタの気持ちにまで配慮することができた。これが昔の自分なら、すぐに自慢げに自分の知っていることを口にしていただろう。でも今回はそれを抑えることができた。それだけでも自分が少し大人になれたような気がして、誰かに吹聴したくなるほど嬉しかった。
唐突に春香が鼻歌を唄いだした。
それを、ウィルタが、付いて来るだけの春香は気楽だなという目で見る。
そうそれでいいのだと、鼻高々に春香は鼻歌を続ける。
やがてフーチン号の脇に立てたオレンジ色の旗が、砂漠の地平線上の小さな点に変わる。
二人は振り返って姿勢を正すと、じっとその旗に目を凝らした。春香が軽く右手を額に当て、旗に向かって敬礼した。肘を横に上げるのではない、前にあげる敬礼だ。ウィルタも真似る。そして聞く。
「なんだい、その動作は」
「海の敬礼、感謝を捧げるの、沈むことがなかった船に対して」
「ほんとだ、沈みそうで、最後まで沈まなかったもんな」
救命いかだという船に対して、二人はもう一度敬礼をした。そして後は、振り返ることもなく、砂漠の大地に刻み付けられた砂の波紋を斜めに切り崩しながら前進した。
黙々と。
しかし、二人はこの時、読み間違いをしていた。
それはフーチン号が二人の予想よりも遙かに川を下り、ディエール川の大湾曲部にちょうど差しかかった辺りで、迷い川に流れ込んでいたということを。
ディエール川は、単純に北から東に弧を描いているのではない。靴先を西に向けた長靴の形に称される晶砂砂漠の靴先を、包むように流れる。かなり西に膨らんで流れるのだ。さらに風の向き。確かに山脈から吹きおろす風は、西から東に向かって吹く。ところが大湾曲部にかかる辺りから、山脈から吹き下ろす風は、やや北寄りに向きを変える。ということは、西南西に向かっているつもりが、方角としてはかなり南寄りにずれていることになる。つまりそれは、砂漠南部の果てしない砂の海を指す方角を意味する。
いつしか春香の鼻歌につられて、ウィルタも口笛を吹いていた。そこにシロタテガミが遠吠えを重ねる。
二人と一頭の前には、果てしない砂の海が広がっている。
もしこの時、一行を頭上から眺めれば、それは沈むことのない不沈のいかだから、大海のなかに泳ぎ出したかのように見えただろう。
二人と一頭の歩く足跡を風が消していく。もう後方に旗は見えない。
進むべき道は前にしかなかった。
第三十六話「晶砂砂漠」




