ミルコ川
ミルコ川
タクタンペック村を脱出した夜は、暗闇のなか川を少し下ったところでフーチン号を岸に着け、そこで夜を明かした。そして翌朝、日の出と共にいかだを川に漕ぎ出す。
午後を少し回った辺り、フーチン号はゆっくりと川を下っていた。
川の水は淡いクリーム色で、川底は見えない。両岸に広がる風景は、なだらかな岩の丘陵地で、タクタンペック村の周辺とほとんど同じだ。一度だけ河岸に岩壁が切り立つ流れの急な場所を通ったが、その後はまた同じ風景に戻った。
ただ流れは穏やかだが、区画された水路ではないので、小まめにいかだの流れる方向を調整しないと、すぐに岸に寄り着いてしまう。それよりも困るのが、いかだが回転してしまうということだ。船なら船尾に舵があり、船の前と後ろがはっきりしている。それが八角形とはいえ、丸い浮き輪のような救命いかだでは、そうもいかない。流れはゆったりとしていても、何かの拍子でくるりと回ってしまうのだ。
そのせいだろう、春香は酔ったようで、いかだが回る度に込み上げてくるものを抑えるようになった。その様子をシロタテガミが不思議そうに見やる。オオカミは船酔いとは無縁なものらしい。フーチン号を岸に着け、陸に上がって休憩すれば酔いも取れるのだろうが、川岸に人の住む村が点々と見えるような状況では、派手なオレンジ色をしたフーチン号を岸に着けるのは憚られた。
ウィルタは、オールを使ってフーチン号の向きを調整しつつ、外を見張り、その合間に手押しのポンプでいかだのチューブに空気を入れるということを続けていた。
実はウィルタ自身も気分が優れなかった。しかし自分まで横になってしまったのでは、いかだは岸に寄り着いてしまう。
仕方なく不快な気分を我慢してオールを握り締めていた。
今また救命いかだがくるりと回転、目の前の風景が回り舞台のように変化する。思わずめまいのような不快感を覚えて、ウィルタは目を閉じた。
そのしかめっ面のウィルタに春香が声をかけた。オールを水に差し込んで、固定できないかと提案。氷の底の水路を下る際、ウロジイがオールを使っていかだの向きを調整していたことを思い出したのだ。
内陸育ちで水に縁のなかったウィルタは、船に舵が必要なことを知らなかった。そのため、春香に指摘されて、水に差し込んだオールを保持しているだけで、いかだの向きが安定するということを発見した時は、驚きの声をあげた。ウィルタはオールを漕ぐものとしか考えていなかったのだ。
酔って気分が悪かったウィルタは、どうしてそれをもっと早く言ってくれないのかと、恨めしそうな目で春香を睨んだが、蒼白い顔で吐き気を我慢している春香を見ると、とてもそれを口にすることはできなかった。
とにかくオールを舵として使い、船の向きを安定させることを試みる。しかし何時間も手でオールを固定し続けることはできない。そこでオールを船べりの金具に縛り付けることに。ところがどんなにきつく縛っても、紐の結び目がずれてオールが動いてしまう。何とか上手く固定できないかと、オールの柄に穴を空け、紐を通して結び目がずれないように工夫。さらには折れた角材も繋げて……、
その間にも、フーチン号は流れに押されて、クルリクルリと向きを変える。
我慢の限界とばかりに、春香がいかだから顔を突き出して吐いた。
つられて戻しそうになるのを我慢しながら、ウィルタは作業を続け、ようやく予備のオールや折れた角材、有るものを全て使って、即席の舵らしきものを完成させた。オールを船べりの金具に縛り付け、船の内側に伸びた角材を動かすことで、オールの向きを変えることができるようにしたのだ。
そこまでやって、やれやれとばかりに壁にもたれ掛かったとたん、ウィルタの喉に胃液が込み上げてきた。船縁で二度、三度と吐く。
吐いてみて納得、どうやらこれは船酔いだけでなく、今朝食べた固乳が悪かったのだ。昨夜タクタンペック村を逃げ出す際に、作業小屋に保管されていた固乳とバターを失敬した。その固乳が傷んでいたらしい。そういえば、持ち出そうとする時、妙に酸っぱい臭いが鼻についた。
春香もそのことに気づいたのか、「発酵した固乳は、臭って当たり前だよって言ったのはウィルタでしょ」と、非難するような目をウィルタに向ける。
堪らずウィルタが言い返した。
「なんだよ、自分だって、いっぱい働かされたんだから、少しくらいは持って行っても許されるだろうって言ったじゃないか。今朝だって固乳を二切れも食べ……」
言い返しつつ、またも胃の中の物が戻してきたのか、ウィルタがいかだの外に顔を突き出した。反対側の口では春香も……。
川下りの一日目は、散々な有様になった。
シロタテガミだけが同じ物を食べたにも関わらず、いたって元気で、いかだの出入口に首を乗せ、外の風景を珍しそうに眺めていた。
日没まで下るだけ下って、それから岸に上がるつもりにしていたが、その日は夕刻前にフーチン号を岸に寄せた。そして見張りをシロタテガミに頼んで、二人は食事も取らずに、倒れるように横になった。疲れがたっぷりと溜まっていた。それにウィルタは、氷の底で引いた風邪がまだ完全には抜けていなかった。
次の日の朝まで、二人は一度も目覚めることなく死んだように眠った。
川下り二日目。
昨日たっぷりと眠ったおかげで、軽い食当たりは回復。ただ川を下り始めると、春香はまた船酔いの状態に戻る。それでも昨日ほどの酷い酔い方ではない。体が慣れてきたのかもしれない。ひたすら流れに任せて川を下る。
地図を見ると、オーギュギア山脈の中部東麓斜面には、岩丘地帯を東西に横切るように何本も川が流れている。その中小の河川は、オーギュギア山脈と並走するように北から南に流れ下る大河ディエール川に、岩丘地帯と砂漠の境界線辺りで次々と合流する。このまま下って行けば、いずれこの小河川も、そのディエール川に流れ込むものと考えられた。
ただ残念なことに、いま自分たちが下っている川が、どの川なのか分からない。タクタンペック村の場所が分かればいいのだが、小さな集落は地図に載っていない。それでも、おおよその見当で、オーギュギア山脈中央のキアック峠付近から流れ出る小河川を、自分たちの流れている川と当たりをつける。
春香が、その川をミルコ川と命名した。
春香いわく、古代の飲み物のミルクココアのような色をした川ということだ。
ミルコ川の川幅は、もう岸から石を投げても対岸に届かないほどに広がっている。水の色も、ミルクココアを更に水で薄めたような淡い色合いである。周囲の岩丘地帯は以前にも増してなだらかで、その様子からして川幅ほどに水深は深くないようだ。
今日は風が強い。水に浮いているフーチン号は、風が吹くと水に浮かんだゴミと同じで、水面を滑るように流される。即席の舵は付けたものの、風の向きが変わる度にいかだも向きを変え、注意していないと、あっという間に陸に吹き寄せられてしまう。
川を下るうちに、いかだの底のマットと側面のチューブから、空気が抜けるようになってきた。舵を操りながら手押しのポンプで空気を入れる。忙しいが、それでも船酔いの消えたウィルタにとっては、昨日よりも楽な川下りとなった。
余裕の出てきたウィルタが、舵の操作とポンプ押しの合間に、備品袋の中の物を調べ始めた。風化した食料は氷の底から脱出する際に春香が処分している。入っているのは、それ以外の物だ。鏡や釣り道具のセットなどは、ウィルタにも直ぐにそれと分かる。しかし救難信号の発信器などは、何に使う物か想像もつかなかった。
今もウィルタが小さなパラシュートのような物を手に、首を傾げた。傘のような袋に細いロープが付いている。水汲み用の袋だろうか。
「いかだの中で用を足した後に、それを海に流すものかな」
首を捻るウィルタに「使い方の分からない物は放っておけばいいじゃない」と、春香が薄目を開けて応じる。春香にはそれが海水をろ過する道具に見えたのだ。なら川の上を流れている今は必要ない。説明するまでもないだろうと思ったのだ。
何の道具か分からないものでも、どこかに使い道が……と考えていたウィルタは、春香の素っ気ない対応に眉をひそめた。
ところが、その道具の使い方が、意外なところから判明する。
また春香が吐きそうになった。直ぐに顔をいかだの外にと思うのだが、服がテント内側のフックに引っ掛かって外れない。我慢できなくなった春香は、とっさにウィルタが差し出した三角の袋の中に吐いた。
その汚物の入った袋をウィルタがいかだの外に放り投げ、袋に付いていた紐をいかだの金具に固定。水に晒して汚物の汚れを洗い落とそうというのだ。
それが、水に投げ入れて袋に付いた紐がピンと伸びたとたん、フーチン号の回転しようとする揺れがピタリと治まった。
「そうか、アンカーだ」と、春香が小さく手を打った。
いかだの向きを安定させるための道具。傘の形をした布袋が、水流を受けとめてブレーキの役をするのだ。しかし海ならいざ知らず、川の場合は流れが蛇行したり浅瀬があったりで、とても役に立ちそうに思えない。そうするうちにも、結び目が解けてしまったのか、三角の袋はどこかへ消えてしまった。
そして次の問題が湧いて出てきた。そう、まさに湧いて……。
マットの上に、水が滲み出てくるようになった。
一カ所だけではない、マットのあちこちから滲み出てくる。
フーチン号に乗り込んだ時から浸水のことは考えていた。収納カプセルに密封されていたとはいえ、この救命いかだは二千年という時を経ている。マットの繊維や継ぎ目の接合剤が劣化して隙間ができていても、可笑しくなかった。
川の上でフーチン号がバラバラに分解するという、想像したくない悪夢のような光景が思い浮かぶ。しかし悲観的な空想に耽る前に、とにかく目の前の水を汲み出す必要が。それにマットの表面に水が浮いてくると、春香も気持ちが悪いと言って寝ていることもできない。体を起こし、手拭いで水を吸い取っては、絞って捨てる。
またウィルタはウィルタで、風に翻弄されるフーチン号を川の中央を流れるようにするのに必死だった。床のマットと側面のチューブにも、せっせとポンプを押して空気を入れなければならない。
そんなことが半日も続いて二人がヘトヘトになった頃、ようやく風も治まり、なぜか水の滲入も少なくなってきた。水漏れの隙間に何か詰まったようだ。
風が止んだのに合わせて川幅がぐっと広がり、流れているのかいないのか分からない静かな川面が戻ってきた。フーチン号は流れるというよりも、川面を漂うという感じになっていた。二人は壁代わりのチューブに、ぐったりと背をもたれさせた。
何も考えずに体を動かしたのが良かったのか、春香の酔いは消えていた。
天頂を過ぎた太陽がオレンジ色のテントを外から暖める。いかだの中がポカポカと温まり、緊張感が取れて、脱力感だけが汗のように噴き出してくる。
やがてウィルタは、舵に手をかけたまま居眠りを始めた。
一方、酔いから解放された春香は、いかだの外に広がる川沿いの景色に目を向けた。
対岸の風景は、岸辺の段丘が低くなっただけで、タクタンペック村を出て以来ほとんど変わっていない。なだらかな岩丘の繰り返しである。あえて違いを探せば、火炎樹を栽培するための溝が浅くなり、それを補うように溝の両側に石垣が築かれるようになったことだ。岸辺に風避けの石垣が列をなす。その石垣のある場所で、近くの原野から白い煙が立ち昇っていることがある。きっと煙の下に、タクタンペック村のような壺中村があるのだろう。
また、川岸に大きな四つ手網と、それを操作する櫓のような小屋が立ち並ぶようになった。人影がないところを見ると、昼間は使わず、夜火を灯し、魚を誘き寄せて獲るのかもしれない。
居眠りをしていたウィルタが、ズルッと横に倒れる。その影響で、いかだの重心がずれ、フーチン号が大きく右に回転、春香の面前で、両岸に広がる世界がカメラを回すように変化する。反対側の岸辺に並んでいるのは、三階建ての家ほどもありそうな四つ手網だ。
変化の乏しい平坦な地形では、四つ手網の櫓の高さと、竹細工のように複雑な構造が、やたら目につく。
目を覚ましたウィルタに、船酔いから解放された春香が久々に質問を繰り出した。
「まるで竹や木を組んで作ってるみたい。あれも本当にウォトの材で、できているの」
あくびを連発しながら、ウィルタが春香に視線を重ねた。
「もちろん。この世界で板や棒のようなものがあれば、間違いなくウォトで作ったもの。タクタンペック村で見ただろう。火炎樹のドロドロの樹液を使えば、どんな形のものでも作れるって。とくにウォトは水に強くて腐り難いから、とても便利なんだ」
説明を聞いてもまだ納得できないのか、立ち並ぶ櫓を穴の開きそうな目で眺める春香に、ウィルタが「それより」と言って、話を切り出した。
ウィルタは春香が船酔いから回復するのを待っていた。
「タクタンペック村のダコンバさんが、隣村でぼくたちの素性を確かめてきただろう。ということは、山脈のこちら側にまで、懸賞金のことが伝わってるんだ。先のことを考えたら、ぼくたち、別の名前を名乗っておいた方がいいんじゃないかな」
「別の名前って、偽名ってこと?」
春香が思案げに首を回した。
「名前を変えるのは簡単だけど、家族は誰で、どこから来て、今まで何をやっていたのか、そういう細かいことを聞かれたら、どうすればいいの。ウィルタには答えられても、わたしには無理、わたしはこの世界のことを何も知らないのよ。まさか氷の中で眠っていましたって言う訳にもいかないし」
「シーラさんの経歴をそのまま使わせてもらおうかな」
「わたし、ミトのことも、ウィルタから聞いたことくらいしか知らないわ」
「じゃあ、どこかのお姫様ってことにしようか、でも、そっちの方がよっぽど変か」
本気か冗談か分からないウィルタの口ぶりに、春香は気分を害したようで、きつい調子で言い返した。
「いいわよ、わたしの経歴はわたしが考えるから、ウィルタは自分のことを考えれば。間違っても、どこかの国の王子様なんてことにしないでよ」
「分かってるよ」
プリプリとした表情のまま視線を外に戻した春香が、「あーっ」と大きな声を上げた。
横から首を突き出すウィルタに、「船だ、船がいる」と春香が腕を伸ばす。
岸寄りに四角い薄茶色の帆が一つ二つと浮かんでいる。帆掛け船だ。
舟の上に人が立ち上がって、網のようなものを引いている。漁をしているのだ。
見ると、下流に向かって、点々と同じような四角い帆が浮かんでいる。
タクタンペック村を出て以来、四手網はあっても船を見かけることはなかった。だから、ミルコ川に船はいないものだと思い込んでいた。でも違っていたらしい。
こちらは目立つオレンジ色の救命いかだだ。不審に思われて船を乗りつけられても困る。覗き込んで、足に鎖をつけた子供とオオカミがいると、誰だってびっくりするだろう。人を驚かせたくはなかった。
大海原で発見されやすくするために派手なオレンジ色のシートで作ってあるのだろうが、こうなってくると、救命いかだの目立つ色が恨めしくなってくる。とにかく、いかだに人が乗っているのがバレないように、換気用の隙間を残して前後の口を閉め、いかだが川の中心から離れないよう小まめに舵を操作する。そして二時間、漁をする小船を見かけなくなったと思った頃、春香がまた何かを見つけた。
「あれを見て、少し下流の……」
進行方向に向かって左側の岸辺に、平べったい箱のようなものが浮かんでいた。先ほどの帆掛け舟が手前にいるが、それが箱にまとわり付くごみのように見える。
「そうか、艀だ」と、春香が指を鳴らした。
ウィルタは艀という言葉を知らなかったが、箱の上に人や家畜がひしめき合う様子を見て、それが何であるかを理解した。
「そうか、でっかい渡し船だ」
艀は岸に接岸するばかりになっている。
フーチン号が下るにつれて、桟橋の後方の建物が見えてきた。家並みから食み出すように、経堂の丸屋根と二本の経塔が突き出ている。さらには、艀が接岸しようとしている桟橋の後ろに、もう一つ別の艀が見えてきた。人や荷車や家畜の群れが、先を争って乗り込もうとしている。どうやら、あちら側は折り返しの艀らしい。
ごった返す桟橋の光景に見惚れているうちに、フーチン号の前を杭が横切った。周りにウォト材の棒が何本も突き立ててある。浅瀬だ。
その突然現れた浅瀬のせいで、流れが変わって、フーチン号が岸寄りに向きを変える。
艀が近づき桟橋の喧噪が間近に。強引に乗り込もうとする人や、艀の上の一等席を確保しようとして小競り合いをする人、物売りのかけ声、暴れる家畜、立往生する荷車、混乱を治めようとする係員の笛の音、何もかもが入り乱れて、喧騒の渦だ。
ウィルタと春香二人が、同時に声を上げた。
次から次へと乗り込んでくる人に押されて、桟橋の端にいた毛長牛が数頭、川に落ちたのだ。水柱が上がる。あおりを食って、人も何人か落ちる。はい上がろうと陸を目指す毛長牛もいれば、何を血迷ったのか、あらぬ方向に泳ぎ出す毛長牛も。おまけに騒ぎを見ようと艀の片側に人が寄ったために、艀が桟橋側に大きく傾き、艀の手すりが人の圧力で折れて、これまた十人近い人が水の中に投げ出された。
桟橋周辺がものすごい騒ぎである。
二人が時ならぬ騒動に見とれていると、フーチン号がグラッと横に揺れた。一瞬、杭に引っ掛かったのかと思ったが、原因はシロタテガミだった。シロタテガミが二人の横から頭を突き出したために、いかだの重心が片寄ったのだ。シロタテガミが吠えた。
「自分たちだけで楽しんでないで、俺にも見せろ」
「ちょっと、こっちに寄るといかだが傾く、あっちへ行け」
「おまえが動け」
「だって……」
オレンジ色の救命いかだがフラフラと揺れて、さざ波をたてる。
その不安定な揺れが収まった時には、フーチン号は桟橋のある地点を大きく流れ下っていた。鼻面を外に突き出したシロタテガミが、いい場面を見られなかったことを悔しがった。ただ結果として、艀の騒動のおかげで、人目の多い川の要衝を誰にも気づかれずに通過することができたようだ。
第三十四話「鳥笛」




